この記事は友人のSOFRANが寄稿してくれた記事です。自分とはまたいろんな面で表現方法が違うので、自分からすると読んでて面白いです。内容などについてコメントとかしてあげれば喜ぶので、よかったら皆さんもあれこれコメントしてあげてください。
執筆者 SOFRAN
前の土曜日に朝日新聞の「be」を読んでいると、歴代首相の人気投票なる小さな記事がありました。そのアンケートの結果はというと、、、一番人気のあった歴代首相は誰だと思いますか?
みなさん各々、様々な顔が浮かぶと思いますが、結果は断トツで田中角栄氏がトップでした。私にはこの結果が意外で、確かに彼の首相就任当時は支持率が当時最高の70%を越え、その経歴から今太閤ともてはやされました。しかし、その後の地価上昇、物価上昇、そして自身の金脈問題を追及され退陣し、1976年にはロッキード事件によって逮捕されるまでに至りました。しかし、その後も自民党内での権力を握り、闇将軍として長く君臨しました。その田中角栄が、何故人気投票一位なのでしょうか? その記事の中では、政治学者が「古き良き日本人への憧憬ではないか」と分析していました。良きにつけ悪しきにつけ、昔の日本人らさを体現した人物であったということでしょうか?
また同じく朝日新聞が今年、「昭和といえば何を思い浮かべますか?」という質問でアンケートした際、人物項としては一位が昭和天皇、二位が田中角栄で、三位が美空ひばりだったとのことです。かくいう私も最初のアンケートの結果には意外だと感じるものの、田中角栄がそんなに嫌いではありません。
時代は流れ、2001年4月には小泉純一郎が総裁選に出馬し、今までの首相とは異なる特異なキャラクターと「自民党をぶっ壊す」といった過激な発言もあって、小泉旋風を巻き起こし、首相の座を射とめました。この時の異常ともいえる熱狂の背景には、前の首相である森喜朗の不人気(最低支持率5,3%)があったと思います。
当時私は15歳で、その頃から政治にも興味を持ち始め、テレビの政治ニュースを結構見ていました。その頃のテレビの論調は、とにかく森は史上最低の首相であり、このままでは日本は駄目になってしまうというもので、テレビ画面からもその沈滞ムードが漂ってくるようでした。その頃はいわゆる失われた10年に該当し、この閉塞感を打ち破る手立てはないのかというムードもありました。
ここでその頃の森首相に対する評価を表したかのようなエピソードを紹介します。かつてからその英語力の低さを指摘されていた森喜朗は、当時のクリントン大統領との会談を控え、外務省の秘書官からこうアドバイスされます。
「まずクリントン大統領に【How are you?】と話しかけ、相手の返事には【Me too!】と答えるように。」
しかし、森は最初の呼びかけを「Who are you?」と間違えてしまい、それを言われた当のクリントンはジョークだと思って、「I am Hillary`s husband.」と答えた。森はすかさず「Me too!」と返事をし、クリントンを驚かせたというものです。
また、これから会談をしようとする外国の要人に「See you again!」と挨拶をしたこともあったとのことです。前者のエピソードは作り話とも言われていますが、こんな話が出回るぐらいの状況であったことは伺えます。
そんな閉塞感が漂う中、2000年11月には、いわゆる加藤の乱がおこります。これは、野党の提出した森内閣不信任案に加藤紘一、山崎拓が同調の動きをみせたことに対し、執行部による強烈な切り崩し工作を受け、倒閣が失敗に終わった政争です。当時、YKKとして並び称されていた小泉純一郎は森派会長(現町村派)として、加藤らの動きには反対の意をしめし、森を守る役目を果たしました。
これによって、次期首相とも目されていた加藤紘一が失墜しましたが、この一件も翌年の小泉首相誕生の一因であったと捉えられています。
2001年、4月、小泉純一郎は首相に就任し、2006年9月までその任を果たしました。この文章では、舌足らずで伝えきれませんが、小泉は「自民党をぶっ壊す」と絶叫していましたが、その発言はイコール「田中派から続く経世会支配をぶっ壊す」ではなかったのではないかというのが私の解釈です。
小泉の政治家としての出発点は、清和会の祖であり、田中角栄のライバルであった福田赳夫の秘書からであり、自派閥に対する思いは、加藤の乱に対する対応から分かるように、非常に強いものであったと見てとれます。小泉構造改革の全てがそうだったとは言えませんが、経世会支配の源泉となっている(その多くは田中角栄が作り上げた)利権を解体するという目標も彼にはあったのではないでしょうか?