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2009年9月6日日曜日

社会における時間の速度~ゆっくり江戸時代編

 久々に手のかかる内容だけに、書く前からいろいろとうんざりした気分になります。さすがにこういうものは週末じゃないと書く気が起きないので、頑張ってまとめてみようと思います。

 以前に書いた「クレヨンしんちゃん、モーレツ大人帝国の逆襲の私的解釈」の記事の中で私は、「もしその瞬間が楽しい時間であるのであれば、敢えてその時間を停止をさせることでずっと楽しくいられるのでは」という解釈を主張しました。この時間を停止させるという意味は言うなれば時間を進めさせないこと、つまりは現状を維持するという意味であります。個々人であればそれこそ音楽を聴き続けたり、ゲームをやり続けたりで部分的に時間を停止させるという行為を実行することができますが、これが万博のあった高度経済成長時代のように、集団における社会の時間を停止させるとなるとほとんど夢物語になってしまいます。

 しかしこの解釈は後付ですが、敢えてそのように時間を停止させるよう、もしくは進めさせないようにした時代が全くなかったわけではありません。恐らく世界中どこでも多少なりともそういった時代はありましたが、日本の中で言えばその時代というのも江戸時代です。

 私が説明するまでもなく江戸時代というのは羽柴秀吉が農民から武士になることが出来た戦国時代とは違って、基本的には身分制社会でほとんどの日本人は生まれた時点でその後のライフコースが定まっていました。このような社会になったのは当時の支配者階級であった武士のトップに当たる幕府がその設立初期に厳しく法制化し、またそのような社会を幕藩体制化において定着させたからであります。
 この身分制社会こと封建制社会の特徴は何かと言うと、やはり一番に大きいのは社会変動がほとんど起こらない点にあります。それこそ福沢諭吉が目の敵にしたくらい、いくら才能があろうとなかろうと身分によって割り振られる仕事や役職はあらかじめ決まっており、自然災害や転封などといった小規模な変動はあっても、現代と比べるなら江戸時代の日々というのは非常に変化が小さく、個人が感じる時間の流れもずっと緩やかであった世の中だったでしょう。

 とはいえ、そんな江戸時代が必ずしも現代みたいになんでもかんでもめまぐるしく動く世の中に勝っているわけではなく、やはりこの時代にはこの時代なりの弊害も数多くありました。
 そんな弊害の中で最も顕著なのは、社会学士がこんな使い方しちゃ本当はいけないんだけど、勝ち組と負け組の優劣の差です。江戸時代において上級武士は週休六日くらいの勤務でたくさんの俸禄がもらえていたのに対し、下級武士や農民は安月給で毎日飲まず食わずの生活を強いられていました。またそんな苦しい生活を抜け出そうとしても出世、転職する機会は彼らに全くなく、先ほど挙げた福沢諭吉の父親のようにどれだけ頭がよかったとしても負け組みから抜け出すことが出来なかったそうです。

 ここまで読んでもらっていればもう気づかれるかもしれませんが、私はこの記事の中で、「社会変動=時間の進行」と定義して先ほどから説明しております。今回の記事は社会単位というマクロな視点での時間の速度について解説していますが、私は個人単位のミクロな視点での時間の速度もひっくるめ、人間が時間が流れたと感じるのは物事や対象が変化したと認識した瞬間だと考えております。この記事で言えば江戸時代のように社会変動の少ない時代では人間は時間がゆっくりと過ぎていくと感じるのに対し、現代のように大ブレイクした芸人がすぐに一発屋として次々と消えてなくなるほど社会変動が多い時代だと、現代人は時間の流れを早いと感じるのではないかと考えています。

 このまま一本にまとめて記事にしようかと思いましたが、内容をやや飛ばし気味に書いているので一旦ここで区切り、次回の記事で現代の社会が如何に社会変動が激しいかを江戸時代と比較しようと思います。
 それにしても、なんかこの記事書いてたら胃が痛くなってきました。もう少し自分の中で整理してから書けばよかったかもと後悔半分、ひとまず片は付けたと安心半分です。

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