先日日本の自給率について記事を書きましたがその中で日本は食べ残しこと食品の廃棄率が高いことに触れ、仮に日本人がすべて食べ残しをなくしたら現時点で自給率は15%ほど上昇し、農水省の目標とする自給率を達成すると記述しました。この食品廃棄こと食品ロスについてですが、聞くところによると日本で一番多くの食べ残しを生んでいるのはほかでもなく結婚式だそうです。
記憶が曖昧ですが昔テレビか何かで見た統計だと食べ残し量の一位に結婚式が来て、確かその次位に公立学校での給食があったような気がします。何故結婚式が一番食べ残しを生むのかといえばあまり深く考えることではない気もしますがやはりイベントごとであり、足りないよりも余る方がいいということで実際必要量よりも多めに作るのが通常だそうです。また結婚披露宴に限らずこういった催事が行われるホテルは通常でも食品廃棄が多いとも聞きます。
この残飯について、いい機会なので前に読んだ本で書かれていた内容を一つ紹介します。この話が書かれているのは佐野眞一氏の「新忘れ去られた日本人」で、この本は毎日新聞で佐野氏が連載していた一人一話形式のコラムを集めた本でいろいろと興味深い人物らが載っており、消え行く業界紙の中でただ一人の人間によって編集が続けられていた蒟蒻新聞の話など佐野氏らしい微に入り細に入りな取材が各ルポごとに行われております。その中で私の興味を引いたというか読み終わった後もなんとなく覚え続けた話というのが今日の残飯に関する話で、佐野氏が東京都内の残飯回収業者の方を取材した話です。
生憎手元に原書もなくその残飯回収業者の方の名前は失念してしまったのですが、佐野氏の取材に対してその業者の方は、
「残飯と一口で言ってもいい残飯と悪い残飯がある。肉類や野菜類まできちんと分けられて捨てられる残飯もあれば宴会で出されていたまま紙などほかのごみと混ぜ合わされて出される残飯もあり、同じ扱いをすることは出来ない」
基本的に集められた残飯は牛や豚といった家畜の餌として販売されるのですが残飯の種類によってはそうそう満足売ることも出来ず、そういった上でその業者の方は佐野氏によると「皮肉たっぷり」に、ホテルの宴会で騒ぐ若い女性らの裏ではこういった残飯が数多く生まれているなどと話したそうです。
私は何も残飯をすべて根絶しろとまでは言いませんが、出るものは仕方がないとしてそれを再利用するためには最善を尽くすべきだと思います。それこそちょっとした工夫で家畜用の餌や農場の肥料として使えるのなら、そういった廃棄方法ももう少し検討して見るのも手かもしれません。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2011年2月3日木曜日
2011年2月2日水曜日
中国の歴史参考書に出てくる日本人
今日は中国の大晦日に当たる日で、先ほどから戦地かと思うくらいあちこちで爆竹の音が鳴り響いております。一応住んでいるのは都市部で規制があるからあまり派手なことは出来ないと中国人らからは聞いてはいるのですが、それでも結構驚くような音が聞こえてきたりして、農村とかだととんでもない量の爆竹を鳴らすそうですから日本人の静かな正月の感覚からすると隔世の感があります。
すでに私の会社は昨日から正月休みに入っており、昨日はちょっと都市中心部に出かけてバーガーキングで昼食取ったりと優雅に過ごしました。昼食の最中に先日お袋から送ってもらった文芸春秋を読んでいたら隣にいた中国人男女二人組が私を日本人だと思い声をかけてきてしばらく雑談をしましたが、これに限るわけじゃないですが本当に中国語は相手によって通じる通じないがはっきり別れる言語だと感じます。
その時に話をした相手は私と比較的年も近くしっかりと教育を受けていそうな感じがしてそれほど会話に苦労はしなかったのですが、現在いる会社内だと地方から来ている人もいて、場合によっては私の発音だと全く通じない(聞いてるこっちは多少はわかるが、それでもほとんど聞き取れない)人もおり、特に私は北京で中国語を学んだこともあって南方に属する現在の居住地域だとしょっちゅう、「ごめん、北方語で聞き取り辛い」と言われたりします。こっちに来る前から恐らくこういう事態になるだろうなという気はしてましたが、めげずに南方の発音もしゃべれるようにとまでは行かずとも聞き取れるようになれればとこのところ願ってます。
そうした個人的な中国事情はさておき、昨日そうやって街中を歩いた際に寄った本屋にて、中国の高校生向け歴史参考書を購入しました。前から中国の歴史教育はどのような内容なのか興味があったのですが、なんかどこいってもおいてある参考書は問題集ばかりで、日本の「日本史 一目でわかる○○解説」見たいな予備校講師が出版しているような項目ごとの解説本をなかなか見つけられずにいたのですが、昨日行った本屋(新華書店)ではうまい具合にさらっとまとめていてくれる解説本を見つけることが出来ました。
もちろん文芸春秋も読み終わっていない昨日今日で中国語のこの本を読みきることは出来ていないのですが、ちょっと今日紹介がてらにこの参考書に出てくる日本人名だけをちょっと調べて見ました。
結論を述べるとこの参考書に出てくる日本人名は明治天皇と田中角栄の二人だけでした。明治天皇については明治維新を指導し日本を資本主義、軍事封建的帝国主義の国に変えたと人物だとして、田中角栄については日中国交正常化を実現させた人物で世界とアジアの平和と発展に貢献したと書かれております。
中国人の明治天皇の評価については以前の陽月秘話の記事でも取り上げましたが、日本人からすれば「神輿の上の人物」であって、ちょっとこの評価は違うんじゃないかなぁとという気はしますが無理もないところで、田中角栄は外交史的には中国にとって出てきてもおかしくはない人物です。逆にこの二人以外でほかに中国が取り上げるべき人物といったら後は昭和天皇とくらいですし、まぁ無難なチョイスなんじゃないかと思います。
それにしてもこの参考書、教科書は違うのかもしれませんがざらっと見る限りですと日本みたいに昔から現代へ編年体のようにして徐々に教えていくのではなく、なんか時代順序ばらばらでトピックごとに解説がされています。社会主義の発展の順番とか現代の科学技術の進歩、世界情勢の成り立ちなど、出来ることなら歴史の授業風景も直接見て見たいものです。
あと読んでて気になる点として、西欧人の名前も全部漢字に変えられててなかなか判読し辛いです。折角だからこれも一部紹介すると、
・馬克思=マルクス
・甘地ーガンディー
・猛徳斯鳩=モンテスキュー
・亜力士多徳=アリストテレス
・斯大林=スターリン
スターリンについては一行目にて、「偉大なマルクス・レーニン主義者」と書かれております。レーニンはスターリンを後継者にしてはならないと遺言していたのを知っての記述なのか編集者に聞いてみたいものです。
すでに私の会社は昨日から正月休みに入っており、昨日はちょっと都市中心部に出かけてバーガーキングで昼食取ったりと優雅に過ごしました。昼食の最中に先日お袋から送ってもらった文芸春秋を読んでいたら隣にいた中国人男女二人組が私を日本人だと思い声をかけてきてしばらく雑談をしましたが、これに限るわけじゃないですが本当に中国語は相手によって通じる通じないがはっきり別れる言語だと感じます。
その時に話をした相手は私と比較的年も近くしっかりと教育を受けていそうな感じがしてそれほど会話に苦労はしなかったのですが、現在いる会社内だと地方から来ている人もいて、場合によっては私の発音だと全く通じない(聞いてるこっちは多少はわかるが、それでもほとんど聞き取れない)人もおり、特に私は北京で中国語を学んだこともあって南方に属する現在の居住地域だとしょっちゅう、「ごめん、北方語で聞き取り辛い」と言われたりします。こっちに来る前から恐らくこういう事態になるだろうなという気はしてましたが、めげずに南方の発音もしゃべれるようにとまでは行かずとも聞き取れるようになれればとこのところ願ってます。
そうした個人的な中国事情はさておき、昨日そうやって街中を歩いた際に寄った本屋にて、中国の高校生向け歴史参考書を購入しました。前から中国の歴史教育はどのような内容なのか興味があったのですが、なんかどこいってもおいてある参考書は問題集ばかりで、日本の「日本史 一目でわかる○○解説」見たいな予備校講師が出版しているような項目ごとの解説本をなかなか見つけられずにいたのですが、昨日行った本屋(新華書店)ではうまい具合にさらっとまとめていてくれる解説本を見つけることが出来ました。
もちろん文芸春秋も読み終わっていない昨日今日で中国語のこの本を読みきることは出来ていないのですが、ちょっと今日紹介がてらにこの参考書に出てくる日本人名だけをちょっと調べて見ました。
結論を述べるとこの参考書に出てくる日本人名は明治天皇と田中角栄の二人だけでした。明治天皇については明治維新を指導し日本を資本主義、軍事封建的帝国主義の国に変えたと人物だとして、田中角栄については日中国交正常化を実現させた人物で世界とアジアの平和と発展に貢献したと書かれております。
中国人の明治天皇の評価については以前の陽月秘話の記事でも取り上げましたが、日本人からすれば「神輿の上の人物」であって、ちょっとこの評価は違うんじゃないかなぁとという気はしますが無理もないところで、田中角栄は外交史的には中国にとって出てきてもおかしくはない人物です。逆にこの二人以外でほかに中国が取り上げるべき人物といったら後は昭和天皇とくらいですし、まぁ無難なチョイスなんじゃないかと思います。
それにしてもこの参考書、教科書は違うのかもしれませんがざらっと見る限りですと日本みたいに昔から現代へ編年体のようにして徐々に教えていくのではなく、なんか時代順序ばらばらでトピックごとに解説がされています。社会主義の発展の順番とか現代の科学技術の進歩、世界情勢の成り立ちなど、出来ることなら歴史の授業風景も直接見て見たいものです。
あと読んでて気になる点として、西欧人の名前も全部漢字に変えられててなかなか判読し辛いです。折角だからこれも一部紹介すると、
・馬克思=マルクス
・甘地ーガンディー
・猛徳斯鳩=モンテスキュー
・亜力士多徳=アリストテレス
・斯大林=スターリン
スターリンについては一行目にて、「偉大なマルクス・レーニン主義者」と書かれております。レーニンはスターリンを後継者にしてはならないと遺言していたのを知っての記述なのか編集者に聞いてみたいものです。
2011年2月1日火曜日
書評:日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率
私は以前のブログの陽月秘話にて度々日本の農業問題を取り上げては現在の自給率をどうにかして向上させなければならないと主張してきましたが、実はそうやって主張をする一方で日本の自給率は本当に問題なのかという疑問が常にもたげていました。一体何故そんな疑問を持ち続けたのかというと一つの原因は堺屋太一氏の主張で、戦後初期に日本は土地という土地でサツマイモを植えていたにもかかわらず食料に不足したのだから国内の作物だけで時給がまかなえるはずもなくどの道輸出に頼らなければならないという主張と、そもそもの自給率の根拠となるカロリーベースという計算方法が信用性を持つのかという疑問があったからです。日本の自給率はカロリーベースで計算されていると聞いていたのですが、詳しい計算方法は知らなかったまでもカロリーで計算するのであれば諸々の条件ですぐ結果は変わるのでは、たとえば野菜などはカロリーが低いですがサツマイモや米だと比較的カロリーが高く、作る作物の種類によって容易に変動しうるのではないかと前々から感じていました。
こうした疑問にすべて答えてくれたのが、今日紹介する「日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率」という本です。
・日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率(講談社プラスアルファ新書)
この本は中国に来る前に買って読んできたのですが、なかなかに衝撃的な内容で農業行政に対する価値観を一変させられました。
まず先ほどの自給率についてですが、著者の浅川氏によると先ほどのカロリーベースで自給率を算出しているのは実は日本だけだそうで、他国は生産額ベースというやり方で自給率を算出しているのですがそれぞれの計算方法をWikipediaから引用すると、
・カロリーベース総合食料自給率
国民1人1日当たりの国内生産カロリー÷国民1人1日当たりの供給カロリー
※なお、国民1人1日当たりの供給カロリーとは国産供給カロリー+輸入供給カロリー+ロス廃棄カロリーの合計である。
・生産額ベース総合食料自給率
国内の食料総生産額÷国内で消費する食料の総生産額
※生産額=価格×生産量で個別の品目の生産額を算出し、足し上げて一国の食料生産額を求める。
両者を大まかに説明すると、カロリーベースは国内で生産されるカロリーを国民一人が一日に必要なカロリーで割って算出します。生産額ベースは国内で生産される作物の金銭的価値の合計に対し消費される作物の金銭的価値で割るという、いうなれば食料の輸入割合を調べるようなやり方です。
浅川氏によると、そもそもカロリーベースで自給率を算出する価値はほとんどないそうです。その理由をいくつか挙げると、
・仮に食糧の輸入をすべてストップすれば国内でいくら餓死者が出ようとも自給率は100%になってしまう
・現時点で日本の食料廃棄率は高く、仮に残さず余さず食べて廃棄率を0にすれば日本の自給率は15%前後上昇する(40%→55%)
上記のような理由に加え、私が懸念したように作る作物の種類によってもカロリーベース自給率は大きく変動するそうです。それこそ現在野菜を作っている土地で米を作れば野菜と米のそもそものカロリー数の違いによって自給率は向上するのですが、農水省は片方では自給率の低さを問題視し対策を主張する一方、自給率を下げかねない減反政策を取っていることを浅川氏は激しく批判しております。その上で浅川氏は農水省が何故日本が世界で唯一カロリーベースで自給率を計算しているかという理由について、敢えて低く見せることで国民を煽り、自給率対策の予算を獲得するためではないかと指摘しています。
こうした自給率の問題に加えこの本では今話題となっている民主党の農家への個別補償政策も批判しており、日本の農家の大部分は自産自消、つまり自分で作った作物を家族や近所間で消費するだけで市場に出さない農家ばかりでこうした農家に所得を補償しても生産量の向上につながらないばかりか、非効率な経営で所得補償を受ける農家が続出すると市場に流入する作物が増えて価格が下がり、現在利益を上げている経営効率のよい農家や農業法人が赤字化する可能性があるとも述べて批判しています。
実際に私もこれには思い当たる節があり、私の友人は家が畑と田んぼを持っているのですが米は買うものじゃなくて作るものだと豪語しており、市場へ販売こそしていないもののいろいろ自分ところで作っているそうで、個別所得保障精度が出来るとそうした農家が形ばかり市場に作物を流して補償金を受け取るケースが続出するのではと指摘しております。
このほか日本の農業についていろいろ書かれていますが全体を通して浅川氏が主張しているのは、農水省は日本の農業のためといいながら無駄な事業に予算を獲得して使用していることへの批判と、日本の農業は一見すると弱い産業と思われがちだが決してそうではないというこの二点にあると私は判断しました。浅川氏によると日本の農業生産額は世界五位で、輸入制限などで保護しようとすればするほど歪んだ構造となるばかりかすでに効率的な経営で利益を上げている農家の所得が今後は増えず、農水省は自給率100%を目指していますが真の食料行政は100%を越えた後に如何に輸出して外貨を稼ぐかで、守ることよりも攻める重要性を何度も説いています。
また日本は土地が狭く農業には不向きな土地だと思われがちですが浅川氏は日本は南北に長く伸びた国で、南はサトウキビなど熱帯の作物が作れる一方で北はさくらんぼなど寒冷な土地の作物が作れるという利点があるとし、これに私から付け加えると他国と比して日本は圧倒的な水資源があり、耕作地面積では劣るものの決して農業に恵まれていないわけじゃないとも主張しており、真に農業を産業として育てるつもりであれば農作物の輸入開放が必要であるとも述べられております。
全般的に読んでてなるほどと思うことが多く読んでて非常にためになった一冊ですが、残念というべきか私にはこの本に書かれている事実が本当かどうか確認する術がありません。実際の農家の声を聞いているわけもなく、また他国の農業政策がどのように行われているのか、日本の実態はどうなのかとすべての面において情報が不足しており、この本のほかの人のレビューを見ていても果たしてどちらが正しいものか判断はしかねます。
ただこうした農業の実態については工業などと比べて日本はどうも議論が一部の間だけで行われているような印象が以前からあり、この本のように曲がりなりにも一つの主張、根拠が外に向けて発信されたという意味では価値が高いと思います。そういう意味では今後農業を考えるためにもいろんな方がこの方面に情報を発信し、公で議論し合う必要性が高いでしょう。その叩き台にする上で浅川氏のこの本は個人的にはお勧めです。
中途半端な昼寝に加え真冬なのにダニが出てきてかゆくなったため、なんか筆の悪い記事になりました。
こうした疑問にすべて答えてくれたのが、今日紹介する「日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率」という本です。
・日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率(講談社プラスアルファ新書)
この本は中国に来る前に買って読んできたのですが、なかなかに衝撃的な内容で農業行政に対する価値観を一変させられました。
まず先ほどの自給率についてですが、著者の浅川氏によると先ほどのカロリーベースで自給率を算出しているのは実は日本だけだそうで、他国は生産額ベースというやり方で自給率を算出しているのですがそれぞれの計算方法をWikipediaから引用すると、
・カロリーベース総合食料自給率
国民1人1日当たりの国内生産カロリー÷国民1人1日当たりの供給カロリー
※なお、国民1人1日当たりの供給カロリーとは国産供給カロリー+輸入供給カロリー+ロス廃棄カロリーの合計である。
・生産額ベース総合食料自給率
国内の食料総生産額÷国内で消費する食料の総生産額
※生産額=価格×生産量で個別の品目の生産額を算出し、足し上げて一国の食料生産額を求める。
両者を大まかに説明すると、カロリーベースは国内で生産されるカロリーを国民一人が一日に必要なカロリーで割って算出します。生産額ベースは国内で生産される作物の金銭的価値の合計に対し消費される作物の金銭的価値で割るという、いうなれば食料の輸入割合を調べるようなやり方です。
浅川氏によると、そもそもカロリーベースで自給率を算出する価値はほとんどないそうです。その理由をいくつか挙げると、
・仮に食糧の輸入をすべてストップすれば国内でいくら餓死者が出ようとも自給率は100%になってしまう
・現時点で日本の食料廃棄率は高く、仮に残さず余さず食べて廃棄率を0にすれば日本の自給率は15%前後上昇する(40%→55%)
上記のような理由に加え、私が懸念したように作る作物の種類によってもカロリーベース自給率は大きく変動するそうです。それこそ現在野菜を作っている土地で米を作れば野菜と米のそもそものカロリー数の違いによって自給率は向上するのですが、農水省は片方では自給率の低さを問題視し対策を主張する一方、自給率を下げかねない減反政策を取っていることを浅川氏は激しく批判しております。その上で浅川氏は農水省が何故日本が世界で唯一カロリーベースで自給率を計算しているかという理由について、敢えて低く見せることで国民を煽り、自給率対策の予算を獲得するためではないかと指摘しています。
こうした自給率の問題に加えこの本では今話題となっている民主党の農家への個別補償政策も批判しており、日本の農家の大部分は自産自消、つまり自分で作った作物を家族や近所間で消費するだけで市場に出さない農家ばかりでこうした農家に所得を補償しても生産量の向上につながらないばかりか、非効率な経営で所得補償を受ける農家が続出すると市場に流入する作物が増えて価格が下がり、現在利益を上げている経営効率のよい農家や農業法人が赤字化する可能性があるとも述べて批判しています。
実際に私もこれには思い当たる節があり、私の友人は家が畑と田んぼを持っているのですが米は買うものじゃなくて作るものだと豪語しており、市場へ販売こそしていないもののいろいろ自分ところで作っているそうで、個別所得保障精度が出来るとそうした農家が形ばかり市場に作物を流して補償金を受け取るケースが続出するのではと指摘しております。
このほか日本の農業についていろいろ書かれていますが全体を通して浅川氏が主張しているのは、農水省は日本の農業のためといいながら無駄な事業に予算を獲得して使用していることへの批判と、日本の農業は一見すると弱い産業と思われがちだが決してそうではないというこの二点にあると私は判断しました。浅川氏によると日本の農業生産額は世界五位で、輸入制限などで保護しようとすればするほど歪んだ構造となるばかりかすでに効率的な経営で利益を上げている農家の所得が今後は増えず、農水省は自給率100%を目指していますが真の食料行政は100%を越えた後に如何に輸出して外貨を稼ぐかで、守ることよりも攻める重要性を何度も説いています。
また日本は土地が狭く農業には不向きな土地だと思われがちですが浅川氏は日本は南北に長く伸びた国で、南はサトウキビなど熱帯の作物が作れる一方で北はさくらんぼなど寒冷な土地の作物が作れるという利点があるとし、これに私から付け加えると他国と比して日本は圧倒的な水資源があり、耕作地面積では劣るものの決して農業に恵まれていないわけじゃないとも主張しており、真に農業を産業として育てるつもりであれば農作物の輸入開放が必要であるとも述べられております。
全般的に読んでてなるほどと思うことが多く読んでて非常にためになった一冊ですが、残念というべきか私にはこの本に書かれている事実が本当かどうか確認する術がありません。実際の農家の声を聞いているわけもなく、また他国の農業政策がどのように行われているのか、日本の実態はどうなのかとすべての面において情報が不足しており、この本のほかの人のレビューを見ていても果たしてどちらが正しいものか判断はしかねます。
ただこうした農業の実態については工業などと比べて日本はどうも議論が一部の間だけで行われているような印象が以前からあり、この本のように曲がりなりにも一つの主張、根拠が外に向けて発信されたという意味では価値が高いと思います。そういう意味では今後農業を考えるためにもいろんな方がこの方面に情報を発信し、公で議論し合う必要性が高いでしょう。その叩き台にする上で浅川氏のこの本は個人的にはお勧めです。
中途半端な昼寝に加え真冬なのにダニが出てきてかゆくなったため、なんか筆の悪い記事になりました。
2011年1月31日月曜日
中国のスーパーで見かける食材
中国の物価は安いため、決して忙しくて自炊する時間が全くないわけではありませんがついつい普段の食事は近くの飲食店で済ましてしまうことが多いです。ちなみに予算はどれくらいかというと私が最も通ってて店員に、「あんた旧正月は日本に帰るの?」って聞かれるくらいに顔まで覚えられた店では大体10~20元(120~240円)位でチャーハンなりラーメンなり一食食べられます。日本食レストランでも、30元も払えばまともな定食が食べられるくらいです。
とはいえせめて休日くらいは何かしら自分で食事作らないと栄養が偏ると思い一通りの調理道具は買ってはいるのですが、案外一人分を作るとなると食材があまりがちになるのと、借りている部屋はガスコンロではなく電気コンロで火加減が調整し辛い上に備え付けの中華なべがどうすればこれだけ焦がせるんだというくらいにことごとく料理を焦がしてくるので未だまともな調理はしておりません。あまりにも焦げるから別のフライパンを買ったところ、電気コンロに対応(通電しない)してなくて無駄金使ったのもショックだったし。
ただこの自炊を試行錯誤している間、こっちの食材でどんなものが作れるのかとスーパー内をくまなく回っていろいろとこっちの食材状況については見てきました。まずスーパー内を回ってて気になるというか日本と違うなぁとつくづく感じるのは、そこらかしこで量り売りがなされている点です。野菜、果物屋に行けば日本みたいに各野菜ごとに値札が貼ってあるわけでなく、置いてある中で好きなものを選んで店員に渡し、重量を測ってもらった上で値段が告げられます。普段の私の生活では毎朝一本食べるバナナを購入する際にこの量り売りを利用しますが、一房のバナナから五本だけもぎ取って買う人もいたりして、この辺は案外理に叶ってて日本でやってもいいんじゃないかなという気もしたりします。
こうした量り売りは野菜だけに限らず、お米などの穀物でも行われております。日本みたいに5kgの袋詰めももちろん売っていますが、私がスーパーで見る限りですとみんなビニールの小袋に必要な分をつめて店員に渡し、重さを測ってもらってバーコードつき値札シールを袋に張ってもらい、レジにて精算をして買っております。ただ所詮はビニールなので、レジによってはやけにお米が床に散乱しているところがあったりするのが中国らしいです。
あとほかに中国のスーパーで気になる点を挙げると、私が通っているのは比較的大きいショッピングストアのようなスーパーなのですが、食材売り場に行くと何故か水槽がたくさんあります。まだ川魚とかならわからなくもないのですが中を見てみると亀とか金魚とかが入っている水槽もあり、これを買って食べる人がいるのかと思うとちょっと不思議な気分にさせられます。まさかペットとして買うわけじゃなかろうし。
このほか見ていていろいろ気になるというか鼻につくもので、薫蒸された鴨がまとまってぶら下げられてたり、大まかに切り分けられた豚肉が部位ごとに並べられてたり、日本の感覚だとちょっと目を向け辛い食材が平然と並べられてもいます。またこうした食用肉について日本と大きく異なっていると感じた点として、どうもこっちは日本みたいに骨を切り分けずに骨付きで売ることが一般なようです。
これは普通にレストランに行って鶏肉の入った料理などを頼んでも、鶏肉自体は一口サイズに切り分けられているものの噛んでてガリガリするというか、細かい骨が必ずといっていいほど入っています。中国人なんかはそういった骨を口に含むと平気で床に吐き捨てますが(私は皿の上に吐く)、日本みたいに骨が一片たりとも入ってない鶏肉はほとんどなく、スーパーで切り分けられている肉も骨付きカルビなんて言わず骨に肉がくっついてるような状態で売られていることが多いです。
それでは骨なしはないのかと思っていろいろ探して見たのですが、ちょうどとんかつ用サイズで切り分けられた豚肉があったのでこれでステーキでも作ってみようかと思って買ってみたら、骨は確かに混ざってはいなかったものの皮付きで、切り捨てるのもなんかイヤだから結局普通に焼いて皮ごと食べました。感想はやっぱりステーキにするなら骨も皮もいらないやってとこです。
そのほかで気になった点を羅列すると、
・コンソメの素が売ってない
・スパゲッティは売ってるがスパゲッティ用ソースが見当たらない
・ニチレイの冷凍餃子が売ってる(買って食べた)
・ニコニコのりの味付け海苔が売ってる(買って今度食べる)
・コアラのマーチ、プリッツもある
・カップ焼きそばのUFOはあるが、日本と味が違う
・インスタントコーヒーはたくさんあるが、何故かドリップパック式が見当たらない
・チョコレート類がやけに高い(日本と同じかそれ以上の価格)
・生めんで「京都とんこつラーメン」というものが売られてる
最後に野菜コーナーで気になったこととして、もしかしたら同じ中国でもほかの地域は違うかもしれませんが、こっちで見かけるたまねぎはみんな紫たまねぎです。紫たまねぎ自体は日本でも見かけていたし一回だけ味噌汁の具材として私も使用しましたが、味噌汁とは色的にかなりミスマッチだと思って結局その一回こっきりとなってしまいました。
この紫たまねぎのことを先日世間知らずで大学一回生になるまで洋梨を知らず、私が洋梨を剥いてあげたらあの洋梨のくびれを見て、「(洋梨と知らずりんごだと思って)ああ、花園君は皮剥きが苦手なんだな(・∀・)ニヤニヤ」などと失礼なことを想像した友人に話したところ、「紫色したたまねぎなんて、僕は絶対にそんな存在信じない!!( ゚Д゚)」とまで言われたので、ちょっと気合入れて画像を用意しました。

まぁ確かに茶色に慣れていると少々見た目がアレですが、味自体は一緒だし今度何かの機会に使ってみようかなと考え中です。
もうひとつ野菜コーナーで気になったというか目についた点として長ねぎが置いてあったので手にとって見てみると、「新鮮やさい」と、このまんま日本語で書かれたテープが巻かれていました。多分ではなく間違いなくあの長ねぎは日本から輸入されたもので、あのテープは農家の出荷時に巻かれたのでしょう。というのも日本は何気にねぎ類の世界生産量第一位で、日本の農業について書く次回の記事へのつなぎとして最後にこのネタを持ってきたわけです。
とはいえせめて休日くらいは何かしら自分で食事作らないと栄養が偏ると思い一通りの調理道具は買ってはいるのですが、案外一人分を作るとなると食材があまりがちになるのと、借りている部屋はガスコンロではなく電気コンロで火加減が調整し辛い上に備え付けの中華なべがどうすればこれだけ焦がせるんだというくらいにことごとく料理を焦がしてくるので未だまともな調理はしておりません。あまりにも焦げるから別のフライパンを買ったところ、電気コンロに対応(通電しない)してなくて無駄金使ったのもショックだったし。
ただこの自炊を試行錯誤している間、こっちの食材でどんなものが作れるのかとスーパー内をくまなく回っていろいろとこっちの食材状況については見てきました。まずスーパー内を回ってて気になるというか日本と違うなぁとつくづく感じるのは、そこらかしこで量り売りがなされている点です。野菜、果物屋に行けば日本みたいに各野菜ごとに値札が貼ってあるわけでなく、置いてある中で好きなものを選んで店員に渡し、重量を測ってもらった上で値段が告げられます。普段の私の生活では毎朝一本食べるバナナを購入する際にこの量り売りを利用しますが、一房のバナナから五本だけもぎ取って買う人もいたりして、この辺は案外理に叶ってて日本でやってもいいんじゃないかなという気もしたりします。
こうした量り売りは野菜だけに限らず、お米などの穀物でも行われております。日本みたいに5kgの袋詰めももちろん売っていますが、私がスーパーで見る限りですとみんなビニールの小袋に必要な分をつめて店員に渡し、重さを測ってもらってバーコードつき値札シールを袋に張ってもらい、レジにて精算をして買っております。ただ所詮はビニールなので、レジによってはやけにお米が床に散乱しているところがあったりするのが中国らしいです。
あとほかに中国のスーパーで気になる点を挙げると、私が通っているのは比較的大きいショッピングストアのようなスーパーなのですが、食材売り場に行くと何故か水槽がたくさんあります。まだ川魚とかならわからなくもないのですが中を見てみると亀とか金魚とかが入っている水槽もあり、これを買って食べる人がいるのかと思うとちょっと不思議な気分にさせられます。まさかペットとして買うわけじゃなかろうし。
このほか見ていていろいろ気になるというか鼻につくもので、薫蒸された鴨がまとまってぶら下げられてたり、大まかに切り分けられた豚肉が部位ごとに並べられてたり、日本の感覚だとちょっと目を向け辛い食材が平然と並べられてもいます。またこうした食用肉について日本と大きく異なっていると感じた点として、どうもこっちは日本みたいに骨を切り分けずに骨付きで売ることが一般なようです。
これは普通にレストランに行って鶏肉の入った料理などを頼んでも、鶏肉自体は一口サイズに切り分けられているものの噛んでてガリガリするというか、細かい骨が必ずといっていいほど入っています。中国人なんかはそういった骨を口に含むと平気で床に吐き捨てますが(私は皿の上に吐く)、日本みたいに骨が一片たりとも入ってない鶏肉はほとんどなく、スーパーで切り分けられている肉も骨付きカルビなんて言わず骨に肉がくっついてるような状態で売られていることが多いです。
それでは骨なしはないのかと思っていろいろ探して見たのですが、ちょうどとんかつ用サイズで切り分けられた豚肉があったのでこれでステーキでも作ってみようかと思って買ってみたら、骨は確かに混ざってはいなかったものの皮付きで、切り捨てるのもなんかイヤだから結局普通に焼いて皮ごと食べました。感想はやっぱりステーキにするなら骨も皮もいらないやってとこです。
そのほかで気になった点を羅列すると、
・コンソメの素が売ってない
・スパゲッティは売ってるがスパゲッティ用ソースが見当たらない
・ニチレイの冷凍餃子が売ってる(買って食べた)
・ニコニコのりの味付け海苔が売ってる(買って今度食べる)
・コアラのマーチ、プリッツもある
・カップ焼きそばのUFOはあるが、日本と味が違う
・インスタントコーヒーはたくさんあるが、何故かドリップパック式が見当たらない
・チョコレート類がやけに高い(日本と同じかそれ以上の価格)
・生めんで「京都とんこつラーメン」というものが売られてる
最後に野菜コーナーで気になったこととして、もしかしたら同じ中国でもほかの地域は違うかもしれませんが、こっちで見かけるたまねぎはみんな紫たまねぎです。紫たまねぎ自体は日本でも見かけていたし一回だけ味噌汁の具材として私も使用しましたが、味噌汁とは色的にかなりミスマッチだと思って結局その一回こっきりとなってしまいました。
この紫たまねぎのことを先日世間知らずで大学一回生になるまで洋梨を知らず、私が洋梨を剥いてあげたらあの洋梨のくびれを見て、「(洋梨と知らずりんごだと思って)ああ、花園君は皮剥きが苦手なんだな(・∀・)ニヤニヤ」などと失礼なことを想像した友人に話したところ、「紫色したたまねぎなんて、僕は絶対にそんな存在信じない!!( ゚Д゚)」とまで言われたので、ちょっと気合入れて画像を用意しました。

まぁ確かに茶色に慣れていると少々見た目がアレですが、味自体は一緒だし今度何かの機会に使ってみようかなと考え中です。
もうひとつ野菜コーナーで気になったというか目についた点として長ねぎが置いてあったので手にとって見てみると、「新鮮やさい」と、このまんま日本語で書かれたテープが巻かれていました。多分ではなく間違いなくあの長ねぎは日本から輸入されたもので、あのテープは農家の出荷時に巻かれたのでしょう。というのも日本は何気にねぎ類の世界生産量第一位で、日本の農業について書く次回の記事へのつなぎとして最後にこのネタを持ってきたわけです。
2011年1月29日土曜日
猛将列伝~鈴木貫太郎
私は現在中国メーカー製のシャンプーを使っているのですが、使い心地は悪くはないものの今ある分を使い切ったら日本にいた頃から使っているLUXに切り替えようと思っていたところ、旧正月前ということで会社から社員全員へ今私が使っているのと全く同じシャンプーが配られました。ありがとう、総務部長よ。
この猛将列伝は陽月秘話時代からずっと続く企画記事ですが、当初は中国古代史の武将を取り上げるだけ取り上げてすぐ終わりかと思っていたところ現在に至るまで続いてて書いてる本人もビックリな企画記事です。内容にもそこそこ自信があり、陽月秘話時代ではあまりよそでは取り上げられない宮崎繁三郎などの記事を取り上げたことからアクセスゲッターとして十二分に活躍し、名実ともに私のブログのキラーコンテンツでありました。そんな猛将列伝ですが先日はちょっと珍しく中世ドイツのヴァレンシュタインを取り上げましたが、今日も今日でちょっと異色というか、終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎を取り上げます。
鈴木貫太郎と聞けばその名前を知っている方からすれば恐らく終戦時、つまりポツダム宣言受諾時の総理大臣として記憶しているかと思います。総理大臣と言えば軍人もなったりはしましたが名目は文官職、それがどうして猛将になるのかですが、実は鈴木貫太郎は元々は海軍軍人でした。
彼は関宿藩士の家に生まれて海軍軍人となり、日露戦争にはあの日本海海戦にも駆逐隊を率いて従軍しております。この日本海海戦の折、これは鈴木の部隊に限るわけではないですが日本海軍は司令長官の東郷平八郎自身が晩年に至るまでも、「一撃必殺の砲よりも威力は小さくとも百発百中の砲がよい」と言ってただけあって狙撃精度の向上のため決戦を前に猛訓練を重ねていました。この訓練では確か前に読んだ本によるとあらかじめ決戦用に取っておいた弾薬を訓練で三回くらい使い切り、その度に本土から補給を受けたほどだったそうです。
その訓練時、鈴木は自身が率いる部隊に対して特別厳しい訓練を課してそれゆえに「鬼貫」という異名までついたそうなのですが、いざ決戦が始まるや鈴木の部隊は目覚しい活躍を見せ、戦艦三隻、巡洋艦二隻を撃沈するという大戦果を上げ、参謀の秋山真之から一隻はほかの艦隊の手柄にしてやってくれとまで言われたほどだったそうです。
海軍では最終的に最高位の軍令部長にまで出世しますが、その後鈴木は昭和天皇の要請に応える形で天皇の側近中の側近こと侍従長に転任します。一般的にはこの侍従長時代の姿が鈴木の姿として認知されていますが、この頃の昭和天皇の鈴木への信頼は絶大で、元々鈴木の妻のたかが幼少時の昭和天皇の教育係をしていたこともあって何事に付けても相談を受けるほどの間柄だったそうです。
ただこの侍従長就任は鈴木に対して厄災も引き寄せ、鈴木は天皇を惑わす君側の奸として右翼軍人らに見られたことから二・二六事件の際には決起軍人らによって自宅にて襲撃を受けました。その襲撃の際に鈴木は銃弾三発を受け、そのうち二発は左頭部と左胸に命中しているのですが、なんとこれほどの大怪我を負いながらも鈴木は何とか一命を取り留めております。
聞けば鈴木が撃たれた直後、決起軍人らは当初鈴木に止めを刺そうと一旦は軍刀を抜いたのですがその際に妻のたかが咄嗟に、「もうこれほどの怪我を負っているので夫は助からないでしょうに。それでも止めを刺そうというのならば私が致します」と軍人らに訴えかけ、これを聞いた軍人らは軍刀を鞘に納めて引き上げていったのですが、彼らが引き上げるやたかは鈴木を急いで病院へ運びその命を見事救いました。この時に鈴木は心臓も一旦停止したとのことで賢妻のたかの機転がなければまず間違いなく生き残ることは出来なかったでしょうが、銃弾三発を受けながらも生き残るというバイオハザードのゾンビも真っ青な鈴木の不死身ぶりには目を見張ります。
これ以前にも鈴木は子供の頃に暴れ馬に蹴られかけたり釣りをしてたら川に落ちたり、海軍時代も夜の航海中に海に落ちるなど何度も死にかける経験をしているのですが、日本版ダイ・ハードとも言ってもよい驚異的な生存力と奇跡的な幸運によってどれも無事に生還しております。
またこの二・二六事件の際に昭和天皇は鈴木が襲撃を受けたという報告を受けるや憤慨し、即座に決起軍人らを反乱軍と認定して自ら出陣して鎮圧するとまで意気込んだそうです。私が知る限り感情表現を常に抑えていた昭和天皇がこれほど強い感情をほかに見せたのは張作霖爆殺事件後の報告を行った田中義一に叱責を行った時くらいで、それだけ昭和天皇と鈴木の関係が密接だったことが伺えます。
この二・二六事件後に鈴木は枢密院議長などの役職を経て、1945年4月から終戦時まで総理大臣の役職に就きます。この鈴木の総理就任は昭和天皇の強い意向と、木戸幸一を始めとする終戦工作派の根回しがあって実現したとされ、これが事実だとするとこの時点で昭和天皇は終戦を希望していたと考えられます。総理就任時の鈴木の年齢は77歳。これは現時点においても総理大臣としては最高齢の主任年齢で当時の時局を考えると明らかに異例な人事です。だが鈴木は老齢ながらも昭和天皇の希望の通りに終戦工作を行い、最終的に御前会議を持ち出すことで見事日本を終戦に導くことに成功しました。
生前に松本清張は、たとえ東条英機がいなくとも誰かが代わりとなって太平洋戦争は起こった(その代わりヒトラーの代わりはいなかったとも述べている)だろうと述べており、私も当時の日本陸軍を見るにつけこの松本清張の意見に賛同します。その一方、では鈴木の代わりとなって日本を終戦に導けた人間は当時ほかにいたのかとなると、こちらは少し思い当たる人間が出てきません。敢えて挙げるとしたら鈴木同様に昭和天皇からの信頼も厚くそれ以前に総理大臣を経験している米内光政がおりますが、果たして米内であれほどスムーズに終戦にまで至れたかとなるとなかなか考え物です。一部で玉音レコードを奪取しようと襲撃こそ起こりましたが、はっきり言えば出来過ぎなくらいに日本は八月十五日を終えています。
それだけに仮に鈴木が二・二六事件の際に死去していたら、私は日本の終戦の形は大きく違っていた可能性があると思います。私も一応日本人ですから、よくあの時に生き残り終戦という大仕事を成し遂げてくれたと鈴木貫太郎に対しては強い尊敬の念を持っております。
おまけ
鈴木の出身地は現在の千葉県野田市関宿町なのですが、去年の夏に実家から近いことからうちの親父と久しぶりに関宿城を見に行こうとドライブに行った際、たまたまこの地域にある鈴木貫太郎記念館を見つけて訪れました。右手指と両足の指がしもやけになるくらいこのところ寒くて去年の馬鹿みたいに暑い夏のことを思い出してたらこの時のことを思い出し、今回の記事を書くきっかけとなりました。
これに限るわけじゃありませんが私の記憶は突拍子もなく何かを思い出すことが多く、そもそもこの時に関宿城に行こうと思ったのも私が中学三年生くらいの頃にその時もまた親父と車で行ったのを思い出したのがきっかけでした。
この猛将列伝は陽月秘話時代からずっと続く企画記事ですが、当初は中国古代史の武将を取り上げるだけ取り上げてすぐ終わりかと思っていたところ現在に至るまで続いてて書いてる本人もビックリな企画記事です。内容にもそこそこ自信があり、陽月秘話時代ではあまりよそでは取り上げられない宮崎繁三郎などの記事を取り上げたことからアクセスゲッターとして十二分に活躍し、名実ともに私のブログのキラーコンテンツでありました。そんな猛将列伝ですが先日はちょっと珍しく中世ドイツのヴァレンシュタインを取り上げましたが、今日も今日でちょっと異色というか、終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎を取り上げます。
鈴木貫太郎と聞けばその名前を知っている方からすれば恐らく終戦時、つまりポツダム宣言受諾時の総理大臣として記憶しているかと思います。総理大臣と言えば軍人もなったりはしましたが名目は文官職、それがどうして猛将になるのかですが、実は鈴木貫太郎は元々は海軍軍人でした。
彼は関宿藩士の家に生まれて海軍軍人となり、日露戦争にはあの日本海海戦にも駆逐隊を率いて従軍しております。この日本海海戦の折、これは鈴木の部隊に限るわけではないですが日本海軍は司令長官の東郷平八郎自身が晩年に至るまでも、「一撃必殺の砲よりも威力は小さくとも百発百中の砲がよい」と言ってただけあって狙撃精度の向上のため決戦を前に猛訓練を重ねていました。この訓練では確か前に読んだ本によるとあらかじめ決戦用に取っておいた弾薬を訓練で三回くらい使い切り、その度に本土から補給を受けたほどだったそうです。
その訓練時、鈴木は自身が率いる部隊に対して特別厳しい訓練を課してそれゆえに「鬼貫」という異名までついたそうなのですが、いざ決戦が始まるや鈴木の部隊は目覚しい活躍を見せ、戦艦三隻、巡洋艦二隻を撃沈するという大戦果を上げ、参謀の秋山真之から一隻はほかの艦隊の手柄にしてやってくれとまで言われたほどだったそうです。
海軍では最終的に最高位の軍令部長にまで出世しますが、その後鈴木は昭和天皇の要請に応える形で天皇の側近中の側近こと侍従長に転任します。一般的にはこの侍従長時代の姿が鈴木の姿として認知されていますが、この頃の昭和天皇の鈴木への信頼は絶大で、元々鈴木の妻のたかが幼少時の昭和天皇の教育係をしていたこともあって何事に付けても相談を受けるほどの間柄だったそうです。
ただこの侍従長就任は鈴木に対して厄災も引き寄せ、鈴木は天皇を惑わす君側の奸として右翼軍人らに見られたことから二・二六事件の際には決起軍人らによって自宅にて襲撃を受けました。その襲撃の際に鈴木は銃弾三発を受け、そのうち二発は左頭部と左胸に命中しているのですが、なんとこれほどの大怪我を負いながらも鈴木は何とか一命を取り留めております。
聞けば鈴木が撃たれた直後、決起軍人らは当初鈴木に止めを刺そうと一旦は軍刀を抜いたのですがその際に妻のたかが咄嗟に、「もうこれほどの怪我を負っているので夫は助からないでしょうに。それでも止めを刺そうというのならば私が致します」と軍人らに訴えかけ、これを聞いた軍人らは軍刀を鞘に納めて引き上げていったのですが、彼らが引き上げるやたかは鈴木を急いで病院へ運びその命を見事救いました。この時に鈴木は心臓も一旦停止したとのことで賢妻のたかの機転がなければまず間違いなく生き残ることは出来なかったでしょうが、銃弾三発を受けながらも生き残るというバイオハザードのゾンビも真っ青な鈴木の不死身ぶりには目を見張ります。
これ以前にも鈴木は子供の頃に暴れ馬に蹴られかけたり釣りをしてたら川に落ちたり、海軍時代も夜の航海中に海に落ちるなど何度も死にかける経験をしているのですが、日本版ダイ・ハードとも言ってもよい驚異的な生存力と奇跡的な幸運によってどれも無事に生還しております。
またこの二・二六事件の際に昭和天皇は鈴木が襲撃を受けたという報告を受けるや憤慨し、即座に決起軍人らを反乱軍と認定して自ら出陣して鎮圧するとまで意気込んだそうです。私が知る限り感情表現を常に抑えていた昭和天皇がこれほど強い感情をほかに見せたのは張作霖爆殺事件後の報告を行った田中義一に叱責を行った時くらいで、それだけ昭和天皇と鈴木の関係が密接だったことが伺えます。
この二・二六事件後に鈴木は枢密院議長などの役職を経て、1945年4月から終戦時まで総理大臣の役職に就きます。この鈴木の総理就任は昭和天皇の強い意向と、木戸幸一を始めとする終戦工作派の根回しがあって実現したとされ、これが事実だとするとこの時点で昭和天皇は終戦を希望していたと考えられます。総理就任時の鈴木の年齢は77歳。これは現時点においても総理大臣としては最高齢の主任年齢で当時の時局を考えると明らかに異例な人事です。だが鈴木は老齢ながらも昭和天皇の希望の通りに終戦工作を行い、最終的に御前会議を持ち出すことで見事日本を終戦に導くことに成功しました。
生前に松本清張は、たとえ東条英機がいなくとも誰かが代わりとなって太平洋戦争は起こった(その代わりヒトラーの代わりはいなかったとも述べている)だろうと述べており、私も当時の日本陸軍を見るにつけこの松本清張の意見に賛同します。その一方、では鈴木の代わりとなって日本を終戦に導けた人間は当時ほかにいたのかとなると、こちらは少し思い当たる人間が出てきません。敢えて挙げるとしたら鈴木同様に昭和天皇からの信頼も厚くそれ以前に総理大臣を経験している米内光政がおりますが、果たして米内であれほどスムーズに終戦にまで至れたかとなるとなかなか考え物です。一部で玉音レコードを奪取しようと襲撃こそ起こりましたが、はっきり言えば出来過ぎなくらいに日本は八月十五日を終えています。
それだけに仮に鈴木が二・二六事件の際に死去していたら、私は日本の終戦の形は大きく違っていた可能性があると思います。私も一応日本人ですから、よくあの時に生き残り終戦という大仕事を成し遂げてくれたと鈴木貫太郎に対しては強い尊敬の念を持っております。
おまけ
鈴木の出身地は現在の千葉県野田市関宿町なのですが、去年の夏に実家から近いことからうちの親父と久しぶりに関宿城を見に行こうとドライブに行った際、たまたまこの地域にある鈴木貫太郎記念館を見つけて訪れました。右手指と両足の指がしもやけになるくらいこのところ寒くて去年の馬鹿みたいに暑い夏のことを思い出してたらこの時のことを思い出し、今回の記事を書くきっかけとなりました。
これに限るわけじゃありませんが私の記憶は突拍子もなく何かを思い出すことが多く、そもそもこの時に関宿城に行こうと思ったのも私が中学三年生くらいの頃にその時もまた親父と車で行ったのを思い出したのがきっかけでした。
2011年1月28日金曜日
デフレと過重労働 後編
ようやく金曜日で明日は休めるーって思ってたら、2/1から十日間も旧正月休暇に入るので今週は土日も出勤だと今日になって言われてややブルーです。中国の長期休暇前は大体こんなもんだって前から噂で聞いてたけど、まさか自分もその渦中に加わるとは夢にも思わなかった……。
そういうプライベートでどうでもいいことは置いといて、前回に引き続きデフレと過重労働の関係性についてまとめます。
前回の記事ではデフレという現象の説明に終始しましたが基本的にデフレというのはモノやサービスの値段が下がる現象を指しており、デフレ下では大体どれもこれもそれ以前より値段が下がります。ただ値段が下がるといっても下がりやすい物もあれば下がりにくい物もあって経済が混乱するのですが、その下がりにくいものの中で非常に扱いの難しいものが給料こと人件費です。
現在、大体どこの日本企業でも不況ゆえに役員クラスはみんな本来受け取る報酬額を減らしているでしょうし企業によっては課長クラスまでもが給料カットがされている状態ですが、圧倒的大多数の一般従業員はボーナス額が一部カットされることはあっても毎月の給料まではまだそれほど手をつけられてはいないと思います。管理職となる役職付きの従業員に対して一般従業員は労働法の保護や最低賃金の条例などがあるため会社側も定期給与には手をつけづらいのですが、それ以前に人間のモチベーションというか感情的にも、定期給与は一度もらってしまうとそれより少ない金額へ下げられることに強い抵抗感が生じます。
たとえばの話でそれまで時給1000円のバイトで働いていたら不況だから来週から900円に下げるねと雇い主に言われたとすると、恐らく大抵の方はその晩に友人か家族に対して延々と愚痴を綴るか別のバイト先を探し始めるかと思います。
これはなにもデフレ下に限るわけではないのですが人件費というのは一度上げてしまうと非常に下げ辛いと一般にも強く認識されており、このことを経済学用語では「人件費の下方硬直性」と呼ばれ、以前と比べて成果主義が大分一般化した現代においてもよほどのことがない限りは下げることが出来ません。また下げようったって先ほど挙げた最低賃金などの法規則の壁もあり、実際のところは残業代は支払わないのが当たり前だしこの最低賃金も無視して違法で働かせている企業はうんさかありますが、どれだけ状況が悪いとしても賃金を減らすという方法には限界があります。
これがデフレとどのように関係するかですが、デフレというのは何度も言うように同じ金額が以前以上の価値を持つ状態です。デフレ下とデフレ前では同じ1000円でもデフレ下の方がより多くの買い物が出来るようになるわけですが、これを給料に置き換えてみるとずっと月収20万円をもらっている人はデフレになると同じ給料でそれ以前よりたくさん物が買えるようになって消費生活上は得をします。
しかしこれが給料を支払う会社側からすると、ただでさえデフレでは物の値段が下がって売り上げが落ち込む中、従業員に対してはそれ以前と同じ金額の給料を支払い続けなければなりません。言ってしまえば同じ20万円でもデフレ以前では25万円くらいの価値を会社は支払っているような状態で、昇給も何もしていないの給与額を増額して支払っているような状態となって自然と経営は圧迫されるようになります。だからといって、「デフレで貨幣価値は上がっているから、前と同じくらい買い物のできる給料だよ」として、給与額をいきなり16万円に下げようものなら石くらい投げつけられるかもしれません。
理屈では同じ価値だとわかってもいざ実際に額面が下がろうものなら結構心に堪えるため、会社側は売り上げや利益が減っているとしても人件費を減らすことは出来ません。仮にそのままの状態を放置するのであれば経営は悪化する一方なのですが、ならばどうするかといったら一般的な企業が取る方法としては給与を減らすのではなく給与を支払う人員を減らすこと、社員のクビを切るのが大体常です。
そのためデフレ下というのは企業に残って以前と同じ額面でも価値の上がっている給料を受け取り続ける人と、クビを切られて収入が急減少する人とで二極化が起こります。言えば早いですがこれが今の日本で起こっている状況で、ただ失業者が増えるだけでなく給料をもらい続ける人の収入は同じ額面でも増え続けるというのがミソです。
ただ収入価値が増えるからといって、給料をもらって働き続ける正社員が必ずしも幸福かといえばそれはまた別問題です。何故なら企業側が人件費を減らすために人員を減らした分、普通に考えれば残った社員にはその分の仕事が回ってくるのが当たり前です。そのため定期給与の収入価値は確かに上がっているかも知れませんが増えた仕事によってサービス残業が増え、変な話ですが時給に換算すると価値上でも前より給与が下がってしまうということも十分に起こりうるわけです。実際に私が人伝にあちこちから話を聞いているとどこの企業でも多かれ少なかれこういったことが起こっているようで、給料下がってもいいから人員増やして欲しいというようなことを言っている人もたまに見ます。
これが私の主張する、デフレと過重労働の関係性です。流れとしては
デフレで企業の売上や利益が減る
→ほかの経費は減らせても一人ひとりの給与額は減らせない
→給与額を減らせないため、給与を支払う人員の数を減らす
→残った人に仕事が集中してしまう
このようにして片一方では仕事を失い困る人が現れ、もう片一方では仕事が増えすぎて困る人が出てくるのがデフレです。はっきり言えばこれは不幸でありナンセンスです。
ではどうすればいいかですが、感情的に納得できるかどうかは別として単純に給与額をみんなで減らすことで人員の削減をせず、むしろ仕事を分け合うように増やしたりすればよいのではという意見を言うことは出来ますが、これはやはり疑問です。それこそ最低賃金額を減らしたところで企業は人員を増やすとは限らず、残って働く方が同じ仕事量でより給料を下げられたりするのに悪用される可能性が高いからです。
ここでは具体的に対策案についてはそれほど煮詰めませんがこの問題については賃金だけに拘らず、労働法や解雇規則、果てには社会慣習など多方面に渡って対策を考えるべきでしょう。ただ今回の記事で私が強く言いたいのは、最低賃金というのはただ高ければ高いほど労働者を助けるということにはならず、状況によっては給与をもらう側も追い詰める可能性もあるということがあるということです。
そういうプライベートでどうでもいいことは置いといて、前回に引き続きデフレと過重労働の関係性についてまとめます。
前回の記事ではデフレという現象の説明に終始しましたが基本的にデフレというのはモノやサービスの値段が下がる現象を指しており、デフレ下では大体どれもこれもそれ以前より値段が下がります。ただ値段が下がるといっても下がりやすい物もあれば下がりにくい物もあって経済が混乱するのですが、その下がりにくいものの中で非常に扱いの難しいものが給料こと人件費です。
現在、大体どこの日本企業でも不況ゆえに役員クラスはみんな本来受け取る報酬額を減らしているでしょうし企業によっては課長クラスまでもが給料カットがされている状態ですが、圧倒的大多数の一般従業員はボーナス額が一部カットされることはあっても毎月の給料まではまだそれほど手をつけられてはいないと思います。管理職となる役職付きの従業員に対して一般従業員は労働法の保護や最低賃金の条例などがあるため会社側も定期給与には手をつけづらいのですが、それ以前に人間のモチベーションというか感情的にも、定期給与は一度もらってしまうとそれより少ない金額へ下げられることに強い抵抗感が生じます。
たとえばの話でそれまで時給1000円のバイトで働いていたら不況だから来週から900円に下げるねと雇い主に言われたとすると、恐らく大抵の方はその晩に友人か家族に対して延々と愚痴を綴るか別のバイト先を探し始めるかと思います。
これはなにもデフレ下に限るわけではないのですが人件費というのは一度上げてしまうと非常に下げ辛いと一般にも強く認識されており、このことを経済学用語では「人件費の下方硬直性」と呼ばれ、以前と比べて成果主義が大分一般化した現代においてもよほどのことがない限りは下げることが出来ません。また下げようったって先ほど挙げた最低賃金などの法規則の壁もあり、実際のところは残業代は支払わないのが当たり前だしこの最低賃金も無視して違法で働かせている企業はうんさかありますが、どれだけ状況が悪いとしても賃金を減らすという方法には限界があります。
これがデフレとどのように関係するかですが、デフレというのは何度も言うように同じ金額が以前以上の価値を持つ状態です。デフレ下とデフレ前では同じ1000円でもデフレ下の方がより多くの買い物が出来るようになるわけですが、これを給料に置き換えてみるとずっと月収20万円をもらっている人はデフレになると同じ給料でそれ以前よりたくさん物が買えるようになって消費生活上は得をします。
しかしこれが給料を支払う会社側からすると、ただでさえデフレでは物の値段が下がって売り上げが落ち込む中、従業員に対してはそれ以前と同じ金額の給料を支払い続けなければなりません。言ってしまえば同じ20万円でもデフレ以前では25万円くらいの価値を会社は支払っているような状態で、昇給も何もしていないの給与額を増額して支払っているような状態となって自然と経営は圧迫されるようになります。だからといって、「デフレで貨幣価値は上がっているから、前と同じくらい買い物のできる給料だよ」として、給与額をいきなり16万円に下げようものなら石くらい投げつけられるかもしれません。
理屈では同じ価値だとわかってもいざ実際に額面が下がろうものなら結構心に堪えるため、会社側は売り上げや利益が減っているとしても人件費を減らすことは出来ません。仮にそのままの状態を放置するのであれば経営は悪化する一方なのですが、ならばどうするかといったら一般的な企業が取る方法としては給与を減らすのではなく給与を支払う人員を減らすこと、社員のクビを切るのが大体常です。
そのためデフレ下というのは企業に残って以前と同じ額面でも価値の上がっている給料を受け取り続ける人と、クビを切られて収入が急減少する人とで二極化が起こります。言えば早いですがこれが今の日本で起こっている状況で、ただ失業者が増えるだけでなく給料をもらい続ける人の収入は同じ額面でも増え続けるというのがミソです。
ただ収入価値が増えるからといって、給料をもらって働き続ける正社員が必ずしも幸福かといえばそれはまた別問題です。何故なら企業側が人件費を減らすために人員を減らした分、普通に考えれば残った社員にはその分の仕事が回ってくるのが当たり前です。そのため定期給与の収入価値は確かに上がっているかも知れませんが増えた仕事によってサービス残業が増え、変な話ですが時給に換算すると価値上でも前より給与が下がってしまうということも十分に起こりうるわけです。実際に私が人伝にあちこちから話を聞いているとどこの企業でも多かれ少なかれこういったことが起こっているようで、給料下がってもいいから人員増やして欲しいというようなことを言っている人もたまに見ます。
これが私の主張する、デフレと過重労働の関係性です。流れとしては
デフレで企業の売上や利益が減る
→ほかの経費は減らせても一人ひとりの給与額は減らせない
→給与額を減らせないため、給与を支払う人員の数を減らす
→残った人に仕事が集中してしまう
このようにして片一方では仕事を失い困る人が現れ、もう片一方では仕事が増えすぎて困る人が出てくるのがデフレです。はっきり言えばこれは不幸でありナンセンスです。
ではどうすればいいかですが、感情的に納得できるかどうかは別として単純に給与額をみんなで減らすことで人員の削減をせず、むしろ仕事を分け合うように増やしたりすればよいのではという意見を言うことは出来ますが、これはやはり疑問です。それこそ最低賃金額を減らしたところで企業は人員を増やすとは限らず、残って働く方が同じ仕事量でより給料を下げられたりするのに悪用される可能性が高いからです。
ここでは具体的に対策案についてはそれほど煮詰めませんがこの問題については賃金だけに拘らず、労働法や解雇規則、果てには社会慣習など多方面に渡って対策を考えるべきでしょう。ただ今回の記事で私が強く言いたいのは、最低賃金というのはただ高ければ高いほど労働者を助けるということにはならず、状況によっては給与をもらう側も追い詰める可能性もあるということがあるということです。
2011年1月26日水曜日
デフレと過重労働 前編
リーマンショック直後の日本はいわゆる「派遣切り」という派遣社員や期間従業員の解雇が各企業で行われ、現在においても失業率はそれ以前と比べて高水準を維持しております。また高校、大学卒業生の就職状況(高卒内定率は今年やや改善)も悪いまま、特に大卒においてはかつての失われた十年における就職氷河期を越す過去最悪の内定率を記録するなど、お世辞にも現在の日本は仕事があるとは言い切れない状態です。
その一方ですでに職を得ていて働いている側の人たちから話を聞くと、どこもかしこも人手が足りなくて忙しい、サービス残業が増えているという話ばかり聞きます。友人なんか、「なんで不況やのに前より忙しいねん……」といって、先週にとうとう過労で倒れたそうです。その友人の激務ぶりは以前から聞いていたので、倒れたと聞いた際は不謹慎ながらなんで今まで倒れなかったんだろうという疑問が最初によぎりました。ただ前にも野球の投手で言うならスタミナだけがやけに抜群で敗戦処理ならお手の物と評したほどその友人のタフさは尋常でないだけに、過労で倒れたその日だけ休んで次の日からまた出社しているようです。
そんな凄い友人の話はおいといて、なかなか皮肉といえば皮肉ですが実際どこの企業もこんな感じだそうです。そりゃ派遣を切って新卒採用も狭めているのですから当然といえば当然なのですが、片一方では職を求める人が大量にいる一方ですでに職を持っている人が仕事に追われるというのはワークライフバランス的に言うとアンバランスな状況です。ある意味このような状況こそが不況の醍醐味といえばそうなのですが、私は今の状況は不況というよりデフレの影響の方が強いのではないかと考えています。
デフレというとインフレの反対で、インフレは一次大戦後のドイツみたいに貨幣価値が下がって経済が混乱するというのだからデフレは貨幣価値が上がって経済が混乱するのでは、という風に考えている人が多いのではないかと思います。このような解釈でももちろん間違っていないのですが、経済の中心となる貨幣の価値が変動するだけにインフレ、デフレはともに多方面に渡って影響を与える問題で、私自身もしっかり全体を理解しているわけではないのですがインフレとデフレはそれぞれのケースに立って考えた方が理解しやすいと考えており、ちょっと今日は現在の過重労働とデフレがどう関係しているのかを書いてみようと思います。
単純に言ってデフレというのは物価に対して貨幣価値が上がる現象を指しております。貨幣価値が上がるというのは具体的にどんな意味かというと以前と同じ金額で以前以上の物が買えるようになるということで、具体例を出すと以前は500円で買えた牛丼が300円で買えるようになります。これだけ見るとなんてデフレはいい現象なんだと思ってしまいますが、確かに物やサービスを買う買い手側にはよくても物やサービスを売る売り手側からすると、以前は牛丼一杯売って500円もらえたのが300円になってしまい、売り上げが五分の三になってしまいます。
そのため牛丼屋側は売り上げが減った分儲けが減ってしまい、従業員らに支払う給料も減らさざるを得ません。そうなると給料をもらう従業員らは以前のようにお金を使うことが出来ず、自然と財布の紐を締めて普段の出費を抑えるためにより安い物やサービスを求めるようになり、牛丼屋に限らずほかのお店でも値段を安くしないと物が売れなくなるのでどんどんと値段が下げていき、牛丼屋同様に従業員らの給料を下げざるを得なくなるというのがエンドレスで続いていきます。こういった現象が延々と続くことを一時期流行ったデフレスパイラルというわけです。
仮に物価の下落がストレートに給料に反映されるとしたら、それこそさきほどの牛丼屋の例ですと牛丼の価格が五分の三になったのに合わせてそれまで月20万円もらっていた人の給料が五分の三の12万円になるのであれば、結局は金額は下がったとしてもその金額でそれ以前に買えていたものと同じ価値を買えるので極論を言えば消費者生活には影響はありません。ただ世の中、そうなんでもかんでも杓子定規的に一斉に価値が変動するわけでなく、価値が下がりやすいものもあれば下がりにくいのもあって経済が混乱するのです。
今回例に挙げた牛丼なんかは物価価値が下がりやすいものの代表格でまさにデフレを代表する商品ですが、近年は牛丼とともに家電の値下げ競争も激しく、パソコンなんて昔は10万円以上が当たり前だったとは自分でも信じられなくなってきました。
では値段が下がらないものはどんなものかですが庶民生活において代表的なのはよく卵だと言われており、不況だろうが好況だろうが使用量があまり変わらない醤油などとともにほとんど変動がありません。ただこうした日用品以外にも値段が下がらないものとして一番に考えなくてはならないものはほかでもなく、人件費こと給料です。人件費の下げづらさのことを下方硬直性と経済学用語にもありますが、これこそがデフレ下において過重労働を生み出す最大の要因であり、今の日本において考えなくてはならないトピックなのではないかと私は見ております。
話が長くなったので、続きはまた次回にて。
その一方ですでに職を得ていて働いている側の人たちから話を聞くと、どこもかしこも人手が足りなくて忙しい、サービス残業が増えているという話ばかり聞きます。友人なんか、「なんで不況やのに前より忙しいねん……」といって、先週にとうとう過労で倒れたそうです。その友人の激務ぶりは以前から聞いていたので、倒れたと聞いた際は不謹慎ながらなんで今まで倒れなかったんだろうという疑問が最初によぎりました。ただ前にも野球の投手で言うならスタミナだけがやけに抜群で敗戦処理ならお手の物と評したほどその友人のタフさは尋常でないだけに、過労で倒れたその日だけ休んで次の日からまた出社しているようです。
そんな凄い友人の話はおいといて、なかなか皮肉といえば皮肉ですが実際どこの企業もこんな感じだそうです。そりゃ派遣を切って新卒採用も狭めているのですから当然といえば当然なのですが、片一方では職を求める人が大量にいる一方ですでに職を持っている人が仕事に追われるというのはワークライフバランス的に言うとアンバランスな状況です。ある意味このような状況こそが不況の醍醐味といえばそうなのですが、私は今の状況は不況というよりデフレの影響の方が強いのではないかと考えています。
デフレというとインフレの反対で、インフレは一次大戦後のドイツみたいに貨幣価値が下がって経済が混乱するというのだからデフレは貨幣価値が上がって経済が混乱するのでは、という風に考えている人が多いのではないかと思います。このような解釈でももちろん間違っていないのですが、経済の中心となる貨幣の価値が変動するだけにインフレ、デフレはともに多方面に渡って影響を与える問題で、私自身もしっかり全体を理解しているわけではないのですがインフレとデフレはそれぞれのケースに立って考えた方が理解しやすいと考えており、ちょっと今日は現在の過重労働とデフレがどう関係しているのかを書いてみようと思います。
単純に言ってデフレというのは物価に対して貨幣価値が上がる現象を指しております。貨幣価値が上がるというのは具体的にどんな意味かというと以前と同じ金額で以前以上の物が買えるようになるということで、具体例を出すと以前は500円で買えた牛丼が300円で買えるようになります。これだけ見るとなんてデフレはいい現象なんだと思ってしまいますが、確かに物やサービスを買う買い手側にはよくても物やサービスを売る売り手側からすると、以前は牛丼一杯売って500円もらえたのが300円になってしまい、売り上げが五分の三になってしまいます。
そのため牛丼屋側は売り上げが減った分儲けが減ってしまい、従業員らに支払う給料も減らさざるを得ません。そうなると給料をもらう従業員らは以前のようにお金を使うことが出来ず、自然と財布の紐を締めて普段の出費を抑えるためにより安い物やサービスを求めるようになり、牛丼屋に限らずほかのお店でも値段を安くしないと物が売れなくなるのでどんどんと値段が下げていき、牛丼屋同様に従業員らの給料を下げざるを得なくなるというのがエンドレスで続いていきます。こういった現象が延々と続くことを一時期流行ったデフレスパイラルというわけです。
仮に物価の下落がストレートに給料に反映されるとしたら、それこそさきほどの牛丼屋の例ですと牛丼の価格が五分の三になったのに合わせてそれまで月20万円もらっていた人の給料が五分の三の12万円になるのであれば、結局は金額は下がったとしてもその金額でそれ以前に買えていたものと同じ価値を買えるので極論を言えば消費者生活には影響はありません。ただ世の中、そうなんでもかんでも杓子定規的に一斉に価値が変動するわけでなく、価値が下がりやすいものもあれば下がりにくいのもあって経済が混乱するのです。
今回例に挙げた牛丼なんかは物価価値が下がりやすいものの代表格でまさにデフレを代表する商品ですが、近年は牛丼とともに家電の値下げ競争も激しく、パソコンなんて昔は10万円以上が当たり前だったとは自分でも信じられなくなってきました。
では値段が下がらないものはどんなものかですが庶民生活において代表的なのはよく卵だと言われており、不況だろうが好況だろうが使用量があまり変わらない醤油などとともにほとんど変動がありません。ただこうした日用品以外にも値段が下がらないものとして一番に考えなくてはならないものはほかでもなく、人件費こと給料です。人件費の下げづらさのことを下方硬直性と経済学用語にもありますが、これこそがデフレ下において過重労働を生み出す最大の要因であり、今の日本において考えなくてはならないトピックなのではないかと私は見ております。
話が長くなったので、続きはまた次回にて。
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