昨日の前編に引き続きTPP関連の記事です。昨日は主にTPP加盟反対派が強く主張する日本の農業保護を中心に解説した上で私はTPPと農業はこの際一緒に考えるべきではなく、むしろTPPに限らずもっと攻めの農業を考えていかねばならないと主張しました。しかしだからといってTPPに加盟をするべきというわけではなく、現段階ではもっと多方面に渡って議論を行ってTPPに加盟する価値について全体で考えていくべきだという立場だと説明しました。今日は何故私がTPPに対してこのような慎重な立場を取るのかということについて書いていきます。
まず単純に、何故TPPに加盟する必要があるのかという点でいくらか疑問を感じます。菅首相を始めとして肯定派の人々が決まって主張する理由は、「今加盟しなければ日本は取り残される」という、どちらかといえば消極的な理由ばかりです。もう少し具体的に書くと日本はリーマンショックから未だに不況が続いていますが隣国韓国は自由貿易を推進して目覚しく躍進しているとして、今ここでTPPに加盟して日本も自由貿易化を進めなければ中国の躍進といい、グローバル化に遅れてずるずると衰退を続けてしまうというシナリオをこの手の議論でよく見かけます。
しかしこうした肯定派の意見に対して反対派の代表的論客である中野剛志氏を始めとした方々からは、TPPに加盟しなければ日本が取り残されるという意見は間違いだという意見が出されており私もこれに同感します。まず先ほどの韓国との比較ではさも日本が自由貿易化に遅れているような印象を与えますが、実際のところ日本は農業を除くと世界的にも関税が低い国で、EUなどと比べるとよっぽど自由貿易国家であります。私も貿易事務をしていた時代に何度か経験しましたがヨーロッパから物を輸入する際には消費税にやられ、輸出する際は関税にやられて商品価格がけたたましく上がるのには面食らいました。
また韓国は自由貿易を行っているから景気がいいというわけでなく、これも私に限らず多数の方々が指摘しておりますが今の韓国の好景気はウォン安という為替効果以外の何者でもなく、それは逆に日本の不景気は円高以外の何者でもないということです。TPPに加盟しなければ経済は停滞したままと肯定派は主張しますが、仮に加盟したところで現在の円高が解消されない限りは何も変わらないと私も断言します。ではTPPに加盟すれば為替は動くのかといえばこれも結びつく理由は見当たらず、何かすれば都合よく物事が動くなんて信じるのは馬鹿の妄想に尽きるでしょう。
さらに外交上の観点からも今加盟しておかねば東南アジア諸国の中で孤立する恐れがあるという意見もあり、私の見たところ菅首相はこの意見に一番ほだかされてやけにTPPを推進していると思えますが、これも正直なところ疑問です。現時点において東南アジア地域で影響力が強いのは言うまでもなく日中韓の三カ国ですが日本を除く中国や韓国は今のところTPPに加盟するそぶりは見せておらず、この論法で行くのなら中国や韓国は東南アジアの中で孤立していくはずです。また自由貿易によって東南アジア地域との結びつきを強くして経済的連携を強めるべきだという意見も見えますがすでにTPPに加盟している四カ国は経済規模もそれほど大きくなく、さすがに中国やインドみたいに馬鹿でかい人口を抱えていれば話は別ですが、経済的連携を強めたところで得られるメリットというものはほとんど見えてきません。
もちろん現在ベトナムやオーストラリアなどの国々も参加を議論しており将来的にはまだわかりませんが、ほかの国がやっているから日本もというのは昔からの悪い癖で、よそはよそでうちはうちなのですからしっかりとメリットとデメリットを計算した上で参加は決めるべきでしょう。少なくとも、「ほかの国が入るから……」という理由だけで参加を考えるというのは大きな間違いです。日独伊三国軍事同盟もそんな感じだったし。
そして一番肝心な点が、TPPに加盟して日本は輸出を増やすことが出来るかです。これに関しては現時点で私はほとんど増えないと考えております。
前回の記事でも書いたようにもしTPPに日本とアメリカが加盟した場合はこの二カ国で生産高の九割を占めることになるため、この輸出について考える場合もやはりアメリカを相手に見なければなりません。これはいろんなところで引用されているので試しに私も引用して見ますが、日米間の関税で大きなものといったら日本の農作物に対する関税とアメリカのトラック車に対する関税です。アメリカは海外からのトラック車の輸入に対して25%の関税をかけており普通乗用車の5%と比べると確かに高い印象がありますが、それ以外となると自由の国というだけあってアメリカの関税は日本以上にどれも低いです。また件のトラック車においても日本の自動車会社はどこも米国工場を持っており、現地生産してしまえば関税どころか輸送費用もいらないためトラック車の25%という関税がなくなるからといって何か日本の自動車会社に影響があるかといったらはなはだ疑問です。
このように私は現時点でTPPに対するメリットをあまり感じません。逆にデメリットについて言えば関税がなくなることでいくつかの部門で安い商品が入り、さらにデフレが悪化する可能性が挙げられます。
だからといって私はTPPをすべて否定するわけでなく長期的な視点で考えれば大きな経済圏を作り、発展途上国の成長も織り込んで自由貿易は徐々に進めていくべきだと考えています。ただ現時点で日本は円高不況の上にデフレも抱えているため、もう少し体調を整えた上で目指すべき方向をしっかりと定めてからこういったものに参加するべきだと考えており、議論を深めないままほかの国に乗り遅れるなとばかりに急いで参加しようとするのはたとえ鈍亀と罵られるようとも反対です。
本音を言えば私はTPPよりもEUに参加し、アジアの中のヨーロッパの尖兵として周りから集中砲火を食らおうとも独自性の強い国として日本はやっていく方が面白いんじゃないかと考えています。ただどうもEUは日本を目の敵にしているところがあるのかこうした議論に対して一蹴に付すところがあり、血は水より濃いわけじゃないですが腐ってもEUはアジアを受け入れないかと見ていて実現性は低いと思っています。
そんなEUもリーマンショック前はユーロの導入など割と順調にやって来れていましたが、リーマンショック後のアイスランドやギリシャの金融危機を受けてでかけりゃなんでもいいというわけじゃないんだなという証明をしてくれました。TPPもこういう点で、うかつに参加したばかりに余計な荷物を抱えないよう、日本はしっかりと議論を深めて考えていくべきでしょう。
参考サイト
・慶応大学教授・竹中平蔵 TPP参加で政権公約も見直せ(産経新聞)
・中野剛志:TPPはトロイの木馬──関税自主権を失った日本は内側から滅びる(ニュース・スパイラル)
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2011年2月14日月曜日
2011年2月13日日曜日
TPPに日本は加盟すべきか 前編
先日に来た友人からのメールに今の日本は大相撲の八百長問題とTPPのことばかりと書かれてあったので、ちょっと今日は調べる時間もあったのでTPPについて私の意見を紹介しようと思います。
・環太平洋戦略的経済連携協定(Wikipedia)
このTPPの正式名称は「Trans-Pacific Partnership」で、日本語だと「環太平洋戦略的経済連携協定」になります。この協定は2006年にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドで結ばれたもので、協定締結国内同士では原則関税をすべて撤廃して自由貿易を行うという内容です。一体何故このTPPが急に日本で取りざたされるようになったのかというと去年頃からこのTPPの締結国拡大議論にアメリカが参加するようになり、それに対して日本の菅首相が十月の会見にて参加を目指す方針を述べたことから各業界入り乱れての議論となったようです。すでにあちこちのサイトやニュースにても報道されておりますが、仮に日本やアメリカが参加するとなるとTPP内の総生産高はこの二カ国が九割を占めることになるため、この議論は実質日米のFTA(自由貿易協定)議論であると指摘されております。
そういうわけでTPPとはアメリカと自由貿易協定を結ぶかどうかという話になるのですが、結論から言うと私はまだ時期尚早で、将来的にはともかく今急いで加盟するべきではなくもっと多方面で議論を重ねた上で決断するべきだという立場を取ります。
まずこのTPPで一番槍玉に上がっているのは農業です。自由貿易をするとなるとアメリカ産を始めとした安価の農作物が日本に大量に入り込んで日本の農業は衰退を超えて絶滅すると農林水産省を始めとした各団体が主張していますが、率直に言ってこの意見は逆にどうかと私は思います。
一体何故そう思うのかというとそもそも高い関税障壁の上に税金の保護を行っている現時点でも日本の農業は年々衰退しており、TPPに参加しなくてもこのまま行けば結局駄目になるのがはっきり目に見えているからです。簡単に調べたところ米には700%もの関税がかけられていますがそれでも農家は減少の一途を辿っており、さらに国は減反政策まで取って自ら減らそうとしている始末です。
確かにTPPで関税がなくなることで大豆(自給率6%)を始めとしたいくつかの品種については国産農家はさら苦しむことになるかもしれませんが、現在農業が衰退している一番大きな原因は現金収入が少なく生計が立て辛いからです。何故収入が少ないのかといえば米が作りすぎてあまってしまうほどそれを食べる人間がいない、つまりは販路がないということや、日本産の作物だと価格が高すぎて市場で売れないなどありますが、その一方できちんと黒字を出している農業法人なども確かに存在します。そういった黒字を出している農業法人からすれば自由貿易による国内価格低下で痛手を被る可能性もありますがその一方でTPPは世界に販路を持つチャンスにもなり、どうせ失うものなどほとんどないのだから挑戦するだけしてみた方がかえって日本の農業振興にはよいのではないかという気がします。
また外国産の流入によって自給率が下がって大変になるという意見もよく聞きますが、これついても以前に書いた「書評:日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率」の記事の中でも引用しているように、そもそもの日本の自給率の捉え方、対策が問題で、このTPPの議論以前の問題でしょう。
さらに穀物に限れば仮に安い外国産が入ってきたとしても私はあまり影響はないのではないかと見ています。そう思うのもかつて冷害でミニマムアクセスとしてタイ米が一時出回った時の体験で、やはりお米については高かろうとも国産を食べ続けたいと小学生ながら当時は心底思いました。またこうして海外で生活していてもやはり日本産の米が欲しいといつも思え、多分10キロ5000円であろうとも売っていたら私は間違いなく買います。特にいろいろと問題が起こっている中国にいるだけに……。
元々、日本人は食にはやけにうるさい民族です。かつての米国でのBSE騒動の際も同じ日本人でありながらどうしてここまで拘るのだろうかと思うくらいの反発を見せましたし、食料ナショナリストとでも言うべきか、穀物に限らなくとも安いからといってそうそう外国産を信用することがなく簡単に乗り換えるようなことはないんじゃないかと思います。
ただ唯一の懸念としては価格の安さから外食産業が外国産を仕入れるようになるというケースが考えられますが、これの対抗策として前もって「全国産使用販売店」などといったお墨付きや臨検を行うことで国産食材使用店のブランドイメージを意図的に高めるような手を使うのもありなんじゃないかと思います。まぁ吉野家は米国産牛肉使用しているから、関税がなくなればますます価格が下がるだろうけど。
その上で日本は水や南北に長く伸びた国土といった農業上の利点がありますが、耕作可能面積が狭いという難点があります。それゆえに無理にどの作物についても何でもかんでも無理に自給しようとするのではなく、工業についても最近はこの流れですが農業は少量高品質生産を中心に行い、世界で購買力のある層へ販売していくという戦略をとる方が現実的です。元々日本一国で今の人口を全員食べさせるだけ耕地はないのだし、それならば農業を如何に産業として育てていくかという視点でこのTPPを考えていくべきでしょう。
幸いにも近年の日本食ブームで日本でしかほとんど消費されない食材を世界で販売するチャンスは増えてきております。また今の日本人もそうですが食というものは一回おいしいものを食べてしまうとなかなかそれより味の劣る同じ食材を選びづらくなる所があるので、日本の高品質で味のよい食材を日本食ブームに乗って口にさせて二度とほかの食材を口に出来なくさせてしまえば日本の農業としてはしめたものです。なんか麻薬の売り方みたいだけど。
こんな具合で私はこのTPPを考える上では農業保護はあまり考えなくともよいのではないかと考えています。むしろTPPによって日本の農業は発展する可能性もあるので、こと農業については私は加盟を検討すべきだと思います。
現在農業保護を理由にTPP加盟に反対しているのは農水省と全農ことJAですが、私はこれまでこの二組織が日本の農業に対して何をやってきたのかという点で疑問を持っており、特にJAについてその運営から世界的にもあまりに高い日本の農作物流通コストを考えると日本の農業を駄目にしている張本人ではないかとすら疑っています。なんか聞くところによると、市場価格の十分の一程度しか生産者の手元には来ないというくらいだし。
・落選させようTPP反対派議員-関税で農業は救えない!!(アゴラ)
中には上記リンク先の北村氏のように結構激しい意見を言う方もいますが、農業についてはもっといろいろな意見を議論させて見る必要があるものの現時点では農水省の言い分を私は信用しません。
ではそれにもかかわらず何故今回のTPPについて慎重にするべきだと最初に言ったのは、実はTPPによって好影響があるといわれている工業方面において疑問があるからです。すでに大分長いので、続きはまた次回にて。
それにしても狙ったわけじゃありませんが、リンク相手のリュウマの独り言さんと見事に記事内容がTPPでかぶってしまいました。なんていうか街中で同じTシャツを着た人に会ってしまったような気まずさですが、これはこれで参考になったりお互いに意見を見比べあったり出来るので歓迎しようと思います。リュウマの独り言さんのところでもTPPについていろいろ書かれているので、もしよければこちらも一緒にご閲覧をお願いします。
参考サイト
・のらくり
・環太平洋戦略的経済連携協定(Wikipedia)
このTPPの正式名称は「Trans-Pacific Partnership」で、日本語だと「環太平洋戦略的経済連携協定」になります。この協定は2006年にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドで結ばれたもので、協定締結国内同士では原則関税をすべて撤廃して自由貿易を行うという内容です。一体何故このTPPが急に日本で取りざたされるようになったのかというと去年頃からこのTPPの締結国拡大議論にアメリカが参加するようになり、それに対して日本の菅首相が十月の会見にて参加を目指す方針を述べたことから各業界入り乱れての議論となったようです。すでにあちこちのサイトやニュースにても報道されておりますが、仮に日本やアメリカが参加するとなるとTPP内の総生産高はこの二カ国が九割を占めることになるため、この議論は実質日米のFTA(自由貿易協定)議論であると指摘されております。
そういうわけでTPPとはアメリカと自由貿易協定を結ぶかどうかという話になるのですが、結論から言うと私はまだ時期尚早で、将来的にはともかく今急いで加盟するべきではなくもっと多方面で議論を重ねた上で決断するべきだという立場を取ります。
まずこのTPPで一番槍玉に上がっているのは農業です。自由貿易をするとなるとアメリカ産を始めとした安価の農作物が日本に大量に入り込んで日本の農業は衰退を超えて絶滅すると農林水産省を始めとした各団体が主張していますが、率直に言ってこの意見は逆にどうかと私は思います。
一体何故そう思うのかというとそもそも高い関税障壁の上に税金の保護を行っている現時点でも日本の農業は年々衰退しており、TPPに参加しなくてもこのまま行けば結局駄目になるのがはっきり目に見えているからです。簡単に調べたところ米には700%もの関税がかけられていますがそれでも農家は減少の一途を辿っており、さらに国は減反政策まで取って自ら減らそうとしている始末です。
確かにTPPで関税がなくなることで大豆(自給率6%)を始めとしたいくつかの品種については国産農家はさら苦しむことになるかもしれませんが、現在農業が衰退している一番大きな原因は現金収入が少なく生計が立て辛いからです。何故収入が少ないのかといえば米が作りすぎてあまってしまうほどそれを食べる人間がいない、つまりは販路がないということや、日本産の作物だと価格が高すぎて市場で売れないなどありますが、その一方できちんと黒字を出している農業法人なども確かに存在します。そういった黒字を出している農業法人からすれば自由貿易による国内価格低下で痛手を被る可能性もありますがその一方でTPPは世界に販路を持つチャンスにもなり、どうせ失うものなどほとんどないのだから挑戦するだけしてみた方がかえって日本の農業振興にはよいのではないかという気がします。
また外国産の流入によって自給率が下がって大変になるという意見もよく聞きますが、これついても以前に書いた「書評:日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率」の記事の中でも引用しているように、そもそもの日本の自給率の捉え方、対策が問題で、このTPPの議論以前の問題でしょう。
さらに穀物に限れば仮に安い外国産が入ってきたとしても私はあまり影響はないのではないかと見ています。そう思うのもかつて冷害でミニマムアクセスとしてタイ米が一時出回った時の体験で、やはりお米については高かろうとも国産を食べ続けたいと小学生ながら当時は心底思いました。またこうして海外で生活していてもやはり日本産の米が欲しいといつも思え、多分10キロ5000円であろうとも売っていたら私は間違いなく買います。特にいろいろと問題が起こっている中国にいるだけに……。
元々、日本人は食にはやけにうるさい民族です。かつての米国でのBSE騒動の際も同じ日本人でありながらどうしてここまで拘るのだろうかと思うくらいの反発を見せましたし、食料ナショナリストとでも言うべきか、穀物に限らなくとも安いからといってそうそう外国産を信用することがなく簡単に乗り換えるようなことはないんじゃないかと思います。
ただ唯一の懸念としては価格の安さから外食産業が外国産を仕入れるようになるというケースが考えられますが、これの対抗策として前もって「全国産使用販売店」などといったお墨付きや臨検を行うことで国産食材使用店のブランドイメージを意図的に高めるような手を使うのもありなんじゃないかと思います。まぁ吉野家は米国産牛肉使用しているから、関税がなくなればますます価格が下がるだろうけど。
その上で日本は水や南北に長く伸びた国土といった農業上の利点がありますが、耕作可能面積が狭いという難点があります。それゆえに無理にどの作物についても何でもかんでも無理に自給しようとするのではなく、工業についても最近はこの流れですが農業は少量高品質生産を中心に行い、世界で購買力のある層へ販売していくという戦略をとる方が現実的です。元々日本一国で今の人口を全員食べさせるだけ耕地はないのだし、それならば農業を如何に産業として育てていくかという視点でこのTPPを考えていくべきでしょう。
幸いにも近年の日本食ブームで日本でしかほとんど消費されない食材を世界で販売するチャンスは増えてきております。また今の日本人もそうですが食というものは一回おいしいものを食べてしまうとなかなかそれより味の劣る同じ食材を選びづらくなる所があるので、日本の高品質で味のよい食材を日本食ブームに乗って口にさせて二度とほかの食材を口に出来なくさせてしまえば日本の農業としてはしめたものです。なんか麻薬の売り方みたいだけど。
こんな具合で私はこのTPPを考える上では農業保護はあまり考えなくともよいのではないかと考えています。むしろTPPによって日本の農業は発展する可能性もあるので、こと農業については私は加盟を検討すべきだと思います。
現在農業保護を理由にTPP加盟に反対しているのは農水省と全農ことJAですが、私はこれまでこの二組織が日本の農業に対して何をやってきたのかという点で疑問を持っており、特にJAについてその運営から世界的にもあまりに高い日本の農作物流通コストを考えると日本の農業を駄目にしている張本人ではないかとすら疑っています。なんか聞くところによると、市場価格の十分の一程度しか生産者の手元には来ないというくらいだし。
・落選させようTPP反対派議員-関税で農業は救えない!!(アゴラ)
中には上記リンク先の北村氏のように結構激しい意見を言う方もいますが、農業についてはもっといろいろな意見を議論させて見る必要があるものの現時点では農水省の言い分を私は信用しません。
ではそれにもかかわらず何故今回のTPPについて慎重にするべきだと最初に言ったのは、実はTPPによって好影響があるといわれている工業方面において疑問があるからです。すでに大分長いので、続きはまた次回にて。
それにしても狙ったわけじゃありませんが、リンク相手のリュウマの独り言さんと見事に記事内容がTPPでかぶってしまいました。なんていうか街中で同じTシャツを着た人に会ってしまったような気まずさですが、これはこれで参考になったりお互いに意見を見比べあったり出来るので歓迎しようと思います。リュウマの独り言さんのところでもTPPについていろいろ書かれているので、もしよければこちらも一緒にご閲覧をお願いします。
参考サイト
・のらくり
2011年2月12日土曜日
戦争における殺人
通常、どの社会においても殺人行為は処罰の対象となります。これは法律とかそういうもので決められているからではなく生物は基本的にメスの奪い合いなどといった例外事態を除くと同属を殺害する際には強いストレスを感じるように出来ているので、いわば本能に根ざした禁止、自然法的な概念だと私は考えております。しかし人間社会において唯一殺人が奨励され、処罰がなされないのが戦争です。
国際法やら戦争法で決まっているのかどうかまではわかりませんが、基本的に戦争中における兵卒同士の殺人は処罰がなされないこととなっております。もちろん軍属が民間人を殺害した場合は軍法会議などで処罰対象となりますが、双方戦争を行うという合意に基づいての殺人は責任を問われないということになっているそうです。もっとも実際のところは太平洋戦争後のB、C級戦犯などのように戦勝国側に敗戦国側の兵士や仕官が一方的に裁かれることが多く、近年もイラク戦争でもあのアブグレイブ刑務所の捕虜虐待事件とかを見ているとやはりこういったことが行われているのではないかという気がします。
さてこの戦争における殺人ですが、どのように捉えるかは非常に難しいものです。上記のように捕虜や民間人を殺さないという戦争のルールに則っていれば許されるものなのか、それともいくら戦争とはいえ殺人は殺人として許すべきではないのか、人によって意見は様々です。中には日本の自衛隊が影響しているのか自衛戦争において侵略者を殺害するのであれば許されるという意見もたまに見受けられますが、これは戦争には正しい側と正しくない側が存在するという前提があっての意見になり、そうなると戦争に正義はあるのかという議論にまで色々と発展していきそうです。
先日元ライブドア社長の堀江氏がツイッターか何かで、「殺人は犯罪、しかし戦争で人を殺すのは無罪。両者にどんな違いがあるのか?」と書いたそうでなんか一部で議論となっていましたが、この意見を聞いて少し思い出した本があります。その本は加藤尚武氏による「戦争倫理学」という本で、よく人から「戦争に倫理もクソもあるかよ」とタイトルを教えるたびに言われるのですが、戦争という倫理が最も吐き捨てられる場所において最低限どのような概念を持つべきかという内容が書かれているのですが、読んではみたもののいかんせん個々の話がそれぞれ脈絡が少なく覚えている部分が少ないのが正直な感想です。
ただこの本の中で名指しで批判されていたのが「ゴーマニズム宣言」の小林よしのり氏で、小林氏が自著の「戦争論」において、「戦争とは一種のカーニバルみたいなもので、平時は抑えられている欲望とかそういうものを一挙に開放する場所だ」というように描いた内容についてまさに上記の堀江氏のように加藤氏が、「そうだとすると戦争で殺された人間は平時に殺された人間と比べて運がなかったと言うしかないのか」と、同じ殺人として区分すべきというように批判をしていました。
実際のところ、この辺をどのように考えるかは非常に難しいです。戦争における殺人を平時における殺人のように個々に裁いていたらとてもじゃないですが裁判や補償が追いつくわけもなく、かといってそれを戦争だからで全部無視していいのか、また戦争を指示した国家が賠償なりに責任を持てばいいのか、考えてたらはっきり言ってこちらも切りがないです。
実際に「戦争」ということで殺人罪を許された例として、ここで挙げるべきかどうか少し悩みますが小野田寛郎氏の例があります。小野田市は終戦後も29年にわたってフィリピンにてゲリラ戦を行い、この間に現地の警察、米兵を殺害しておりますが、戦争中における行為としてフィリピン政府から特赦を受け帰国しております。
もちろん小野田氏は上官から命令された行為を行っていただけで今現在の日本でも起きている通り魔や強盗といった自己本位による殺人とは動機や目的において一線を画しますし、彼の過酷な潜伏体験を考えると私もとても責任を求める気にはなりません。ですが戦争での殺人ということで何でもかんでも特別視をすることは本当に正しいのか、それともこういうことを考えること自体が馬鹿馬鹿しいのかという点で悩みは尽きません。
名前は出しませんがこれは誰かが言っていた台詞で、国家に対して個人というものは非常に弱く、運命なぞ簡単に翻弄されてしまうといって特攻隊やインパール作戦の犠牲者の悲劇を語る人がいますが、戦争における殺人は個人単位ではなくやはり主体となる国家単位で考えるべきなのかもしれません。国家の殺人となると私の中で真っ先に思い浮かぶのはミドリ十字の薬害エイズ事件ですが、そのミドリ十字の設立者たちには731部隊の面々が関わっていることを考えると同じ殺人をする人間はまた同じ殺人をするのかと考えさせられます。
国際法やら戦争法で決まっているのかどうかまではわかりませんが、基本的に戦争中における兵卒同士の殺人は処罰がなされないこととなっております。もちろん軍属が民間人を殺害した場合は軍法会議などで処罰対象となりますが、双方戦争を行うという合意に基づいての殺人は責任を問われないということになっているそうです。もっとも実際のところは太平洋戦争後のB、C級戦犯などのように戦勝国側に敗戦国側の兵士や仕官が一方的に裁かれることが多く、近年もイラク戦争でもあのアブグレイブ刑務所の捕虜虐待事件とかを見ているとやはりこういったことが行われているのではないかという気がします。
さてこの戦争における殺人ですが、どのように捉えるかは非常に難しいものです。上記のように捕虜や民間人を殺さないという戦争のルールに則っていれば許されるものなのか、それともいくら戦争とはいえ殺人は殺人として許すべきではないのか、人によって意見は様々です。中には日本の自衛隊が影響しているのか自衛戦争において侵略者を殺害するのであれば許されるという意見もたまに見受けられますが、これは戦争には正しい側と正しくない側が存在するという前提があっての意見になり、そうなると戦争に正義はあるのかという議論にまで色々と発展していきそうです。
先日元ライブドア社長の堀江氏がツイッターか何かで、「殺人は犯罪、しかし戦争で人を殺すのは無罪。両者にどんな違いがあるのか?」と書いたそうでなんか一部で議論となっていましたが、この意見を聞いて少し思い出した本があります。その本は加藤尚武氏による「戦争倫理学」という本で、よく人から「戦争に倫理もクソもあるかよ」とタイトルを教えるたびに言われるのですが、戦争という倫理が最も吐き捨てられる場所において最低限どのような概念を持つべきかという内容が書かれているのですが、読んではみたもののいかんせん個々の話がそれぞれ脈絡が少なく覚えている部分が少ないのが正直な感想です。
ただこの本の中で名指しで批判されていたのが「ゴーマニズム宣言」の小林よしのり氏で、小林氏が自著の「戦争論」において、「戦争とは一種のカーニバルみたいなもので、平時は抑えられている欲望とかそういうものを一挙に開放する場所だ」というように描いた内容についてまさに上記の堀江氏のように加藤氏が、「そうだとすると戦争で殺された人間は平時に殺された人間と比べて運がなかったと言うしかないのか」と、同じ殺人として区分すべきというように批判をしていました。
実際のところ、この辺をどのように考えるかは非常に難しいです。戦争における殺人を平時における殺人のように個々に裁いていたらとてもじゃないですが裁判や補償が追いつくわけもなく、かといってそれを戦争だからで全部無視していいのか、また戦争を指示した国家が賠償なりに責任を持てばいいのか、考えてたらはっきり言ってこちらも切りがないです。
実際に「戦争」ということで殺人罪を許された例として、ここで挙げるべきかどうか少し悩みますが小野田寛郎氏の例があります。小野田市は終戦後も29年にわたってフィリピンにてゲリラ戦を行い、この間に現地の警察、米兵を殺害しておりますが、戦争中における行為としてフィリピン政府から特赦を受け帰国しております。
もちろん小野田氏は上官から命令された行為を行っていただけで今現在の日本でも起きている通り魔や強盗といった自己本位による殺人とは動機や目的において一線を画しますし、彼の過酷な潜伏体験を考えると私もとても責任を求める気にはなりません。ですが戦争での殺人ということで何でもかんでも特別視をすることは本当に正しいのか、それともこういうことを考えること自体が馬鹿馬鹿しいのかという点で悩みは尽きません。
名前は出しませんがこれは誰かが言っていた台詞で、国家に対して個人というものは非常に弱く、運命なぞ簡単に翻弄されてしまうといって特攻隊やインパール作戦の犠牲者の悲劇を語る人がいますが、戦争における殺人は個人単位ではなくやはり主体となる国家単位で考えるべきなのかもしれません。国家の殺人となると私の中で真っ先に思い浮かぶのはミドリ十字の薬害エイズ事件ですが、そのミドリ十字の設立者たちには731部隊の面々が関わっていることを考えると同じ殺人をする人間はまた同じ殺人をするのかと考えさせられます。
2011年2月9日水曜日
財政再建には増税が必要なのか
今日もまたネットニュースにて国の借金が増え、国民一人当たりどれくらいの借金を担っているかというニュースが配信されていました。私が小学生の頃の日本の国債発行高は確か400兆円くらいでしたがあれよあれよという間に現在はすでにその時の額から二倍以上にまで膨れ上がり、現今においてこの借金をどう返すかという財政姿勢が主要な政治課題となりつつあります。
そんな財政再建議論において最前面にいる政治家を挙げるとするなら、それはほかでもなく与党民主党の代表である菅首相が挙がって来ます。菅首相は総理就任後の参議院選挙において消費税の増税を掲げ(批判されるやすぐ引っ込めたけど)て財政再建を強く訴えたことから、それ以前からもなかったわけではないですが俄然この問題が前面に出てきた感があり、そこで今日は財政再建に増税が必要かどうかを含め現況を整理するとともに問題提起を行おうかと思います。
まず菅首相の増税論については現状で数多くの批判がなされているのは事実です。理由はいくつかありますが主に財界からの批判としては増税を行うと消費が冷え込み、余計に経済が悪化して税収が落ちるというような批判がされておりますが、実際に97年に当時の橋本政権が消費税率を従来の3%から現在の5%に増税した際は増税したその年こそ税収は増加したもののすぐに景気が悪化し、二年後にはそれ以前より少ない税収となって「失われた十年」の最悪期を引き起こしたと現在でも指摘されております。
では財政再建のためには増税は行うべきではないのかということになってしまいますが、実は私は増税に対しては肯定派の立場を取ります。その理由としては現状でも予算が足らず国債を発行し続けているのに税収を増やさずしてどうしてプライマリーバランスを回復できるのかという考えと、日本の景気を回復させるためにもこうした財政再建を行うという強い姿勢を見せることが必要だと感じるからです。
そもそも何故現在の日本が不況なのかといえば、一つの大きな理由としてはやはり消費が低い水準のまま維持してデフレが続いているからです。では何故消費が少ないのかといえばいろいろ理由はありますが、その中でも将来の社会保障があまりにも不透明ゆえお金を使おうにも使えないということが特に大きな原因ではないかと私は考えております。
将来の社会保障というのは単純に年金や医療保障のことで、若い時分であればまだ働くことが出来るけれども老齢時にはただでさえ就職口がないだけに、自分の身は自分で守れとばかりに現在四十代から五十代の方々はうちの両親同様に老後の蓄えを一定度確保するのに執心しているかと思います。
もし仮に年金など将来の社会保障がしっかりとしていて国民も安心できるのであれば、壮年層もそこまでお金を貯めようとせずに使える時、まだ元気なうちに使ってしまおうと消費に回ってくる可能性があるとかねてから評論家などに言われております。私自身もこの意見に同感なのですが、現在そういった社会保障に何故信頼が置かれないのかといえば杜撰な年金管理はもとより将来基金が枯渇することが確実な欠陥制度に加え、それを担保する国の財政が借金漬けにあることなどが原因でしょう。
そのため確かに97年度の増税時には景気は悪化したものの現時点の増税は国民の側も多少は理解を示すようになっており、こうした将来への不安を多少なりとも和らげる効果があるのであれば私は当時ほどの景気悪化は招かずに税収は増加するのではないかと見ております。
しかし、だからといって私は現時点の菅首相の増税論については真っ向から反対です。先ほども述べた通りに私は増税には賛成ではありますが、菅首相の増税論は日本の借金を返すためというよりはマニフェストに掲げた子供手当てなどといった新たな政策を実行するための資金稼ぎにしかなっておらず、プライマリーバランスの回復にはほとんど寄与しないと断言してもいいです。また仮に増税を行って得た税収をすべて社会保障に回すとしても膨大な借金が残ったままでは福祉がいくら充実したところで国民はやはり安心感が持てず、壮年層の貯蓄傾向と若年層の年金離れは変わらないままでしょう。
ではどうすればいいかですが、ごくごく単純に増税しつつ支出を減らしていくという、徳川吉宗の享保の改革以来の方法を踏襲するよりほかはないでしょう。
これまでの財政再建議論は90年代においてはもっと国債を発行してお金を集め、そのお金で公共事業などを行って景気を回復させれば税収が増えて円満解決だという、まるでばくちで作った借金をばくちで取り返すというようなやり方でしたが、こんなの通用するわけもなく結局景気は回復しないまま余計に借金を増やしただけに終わりました。その後小泉政権において積極財政政策は否定され、「聖域を設けない」という言葉通りに社会保障費などドラスティックに削減した緊縮財政政策が行われましたが、恐らく最低限の支持率を確保するためでしょうがとうとう小泉政権は増税には踏み切りませんでした。
そして今度の菅政権では社会保障+αを増額する代わりに増税を行って財政再建をすると主張していますが、はっきり言いますが論理破綻もよいところです。本気で財政再建を行うというのであれば小泉元首相同様に聖域を設けずに支出を削減した上で増税しなければいけませんが、菅政権、というより民主党には下記のような聖域が明らかに存在します。
・議員定数
・公務員の人件費
・子供手当て
・外国人
・道路
小泉政権の頃も全く聖域がなかったわけではありませんが、それでも国土交通省関連の予算を大幅に削減するなど従来の常識では考えられない領域に手をつけたのは評価に値します。また小泉政権は社会保障を削減して復旧不可能な水準まで破壊したと私も当時に批判を行いましたが、今思うと本当にそれくらいのことをしなければ財政再建なんて夢のまた夢なのではないかと、たとえ現在が破壊されようとも未来に芽を残せるのであれば耐えなければならないのではとやや考え方が変わってきました。
ややもするとこの財政議論は増税か、支出削減かの二択で争われる傾向がありますが、私は最早待ったなしで増税もしつつ支出削減もしなければ財政再建など出来ないところまで来ているのではと考えています。もちろんこんなことしたら享保の改革時同様に不況がさらに悪化するかもしれませんが、私はもともとの不況の原因はデフレで、デフレを克服するためにはプライマリーバランスの回復が何よりも重要だと考えており、財政再建政策を執ることは一時的には大きなダメージを日本に残すかもしれませんが長期的な視野に立てば日本にとって最もよい道ではないかと見ております。
享保の改革時、巷にて一連の改革は確かに厳しいけれども後で効果が出てくるお灸のようなものだと思って我慢するしかない落首が流行ったそうです。人間誰しも痛い目や苦しい思いはしたくはありませんが、それが本当に将来につながるのであれば私は我慢をしてみようという覚悟があります。ほかの人まではわかりませんが。
追伸
つい以前まで増税はせずに緊縮財政、景気回復によって財政再建を主張する竹中平蔵氏を始めとした小泉改革のメンバーのことを「上げ潮派」と読んでましたが、なんだかいつの間にかこの言葉は死語になっていたような気がします。リーマンショック以降は景気回復なんて現実味がなくなったからかな。
追伸2
このところ自分でもしょうもないと思う記事ばかり書いてて悶々としてましたが、敢えて久々にややこしいテーマを選んで書いたところなかなか気持ちよかったです。人間、高いところ目指してそこに立ってないと駄目になりますね。
そんな財政再建議論において最前面にいる政治家を挙げるとするなら、それはほかでもなく与党民主党の代表である菅首相が挙がって来ます。菅首相は総理就任後の参議院選挙において消費税の増税を掲げ(批判されるやすぐ引っ込めたけど)て財政再建を強く訴えたことから、それ以前からもなかったわけではないですが俄然この問題が前面に出てきた感があり、そこで今日は財政再建に増税が必要かどうかを含め現況を整理するとともに問題提起を行おうかと思います。
まず菅首相の増税論については現状で数多くの批判がなされているのは事実です。理由はいくつかありますが主に財界からの批判としては増税を行うと消費が冷え込み、余計に経済が悪化して税収が落ちるというような批判がされておりますが、実際に97年に当時の橋本政権が消費税率を従来の3%から現在の5%に増税した際は増税したその年こそ税収は増加したもののすぐに景気が悪化し、二年後にはそれ以前より少ない税収となって「失われた十年」の最悪期を引き起こしたと現在でも指摘されております。
では財政再建のためには増税は行うべきではないのかということになってしまいますが、実は私は増税に対しては肯定派の立場を取ります。その理由としては現状でも予算が足らず国債を発行し続けているのに税収を増やさずしてどうしてプライマリーバランスを回復できるのかという考えと、日本の景気を回復させるためにもこうした財政再建を行うという強い姿勢を見せることが必要だと感じるからです。
そもそも何故現在の日本が不況なのかといえば、一つの大きな理由としてはやはり消費が低い水準のまま維持してデフレが続いているからです。では何故消費が少ないのかといえばいろいろ理由はありますが、その中でも将来の社会保障があまりにも不透明ゆえお金を使おうにも使えないということが特に大きな原因ではないかと私は考えております。
将来の社会保障というのは単純に年金や医療保障のことで、若い時分であればまだ働くことが出来るけれども老齢時にはただでさえ就職口がないだけに、自分の身は自分で守れとばかりに現在四十代から五十代の方々はうちの両親同様に老後の蓄えを一定度確保するのに執心しているかと思います。
もし仮に年金など将来の社会保障がしっかりとしていて国民も安心できるのであれば、壮年層もそこまでお金を貯めようとせずに使える時、まだ元気なうちに使ってしまおうと消費に回ってくる可能性があるとかねてから評論家などに言われております。私自身もこの意見に同感なのですが、現在そういった社会保障に何故信頼が置かれないのかといえば杜撰な年金管理はもとより将来基金が枯渇することが確実な欠陥制度に加え、それを担保する国の財政が借金漬けにあることなどが原因でしょう。
そのため確かに97年度の増税時には景気は悪化したものの現時点の増税は国民の側も多少は理解を示すようになっており、こうした将来への不安を多少なりとも和らげる効果があるのであれば私は当時ほどの景気悪化は招かずに税収は増加するのではないかと見ております。
しかし、だからといって私は現時点の菅首相の増税論については真っ向から反対です。先ほども述べた通りに私は増税には賛成ではありますが、菅首相の増税論は日本の借金を返すためというよりはマニフェストに掲げた子供手当てなどといった新たな政策を実行するための資金稼ぎにしかなっておらず、プライマリーバランスの回復にはほとんど寄与しないと断言してもいいです。また仮に増税を行って得た税収をすべて社会保障に回すとしても膨大な借金が残ったままでは福祉がいくら充実したところで国民はやはり安心感が持てず、壮年層の貯蓄傾向と若年層の年金離れは変わらないままでしょう。
ではどうすればいいかですが、ごくごく単純に増税しつつ支出を減らしていくという、徳川吉宗の享保の改革以来の方法を踏襲するよりほかはないでしょう。
これまでの財政再建議論は90年代においてはもっと国債を発行してお金を集め、そのお金で公共事業などを行って景気を回復させれば税収が増えて円満解決だという、まるでばくちで作った借金をばくちで取り返すというようなやり方でしたが、こんなの通用するわけもなく結局景気は回復しないまま余計に借金を増やしただけに終わりました。その後小泉政権において積極財政政策は否定され、「聖域を設けない」という言葉通りに社会保障費などドラスティックに削減した緊縮財政政策が行われましたが、恐らく最低限の支持率を確保するためでしょうがとうとう小泉政権は増税には踏み切りませんでした。
そして今度の菅政権では社会保障+αを増額する代わりに増税を行って財政再建をすると主張していますが、はっきり言いますが論理破綻もよいところです。本気で財政再建を行うというのであれば小泉元首相同様に聖域を設けずに支出を削減した上で増税しなければいけませんが、菅政権、というより民主党には下記のような聖域が明らかに存在します。
・議員定数
・公務員の人件費
・子供手当て
・外国人
・道路
小泉政権の頃も全く聖域がなかったわけではありませんが、それでも国土交通省関連の予算を大幅に削減するなど従来の常識では考えられない領域に手をつけたのは評価に値します。また小泉政権は社会保障を削減して復旧不可能な水準まで破壊したと私も当時に批判を行いましたが、今思うと本当にそれくらいのことをしなければ財政再建なんて夢のまた夢なのではないかと、たとえ現在が破壊されようとも未来に芽を残せるのであれば耐えなければならないのではとやや考え方が変わってきました。
ややもするとこの財政議論は増税か、支出削減かの二択で争われる傾向がありますが、私は最早待ったなしで増税もしつつ支出削減もしなければ財政再建など出来ないところまで来ているのではと考えています。もちろんこんなことしたら享保の改革時同様に不況がさらに悪化するかもしれませんが、私はもともとの不況の原因はデフレで、デフレを克服するためにはプライマリーバランスの回復が何よりも重要だと考えており、財政再建政策を執ることは一時的には大きなダメージを日本に残すかもしれませんが長期的な視野に立てば日本にとって最もよい道ではないかと見ております。
享保の改革時、巷にて一連の改革は確かに厳しいけれども後で効果が出てくるお灸のようなものだと思って我慢するしかない落首が流行ったそうです。人間誰しも痛い目や苦しい思いはしたくはありませんが、それが本当に将来につながるのであれば私は我慢をしてみようという覚悟があります。ほかの人まではわかりませんが。
追伸
つい以前まで増税はせずに緊縮財政、景気回復によって財政再建を主張する竹中平蔵氏を始めとした小泉改革のメンバーのことを「上げ潮派」と読んでましたが、なんだかいつの間にかこの言葉は死語になっていたような気がします。リーマンショック以降は景気回復なんて現実味がなくなったからかな。
追伸2
このところ自分でもしょうもないと思う記事ばかり書いてて悶々としてましたが、敢えて久々にややこしいテーマを選んで書いたところなかなか気持ちよかったです。人間、高いところ目指してそこに立ってないと駄目になりますね。
漫画家の北条司氏について思うこと
私が現役の漫画家の中で個人的に最も高く評価をしているのは、「シティーハンター」を代表作として持つ北条司氏です。
「シティーハンター」自体がもう大分昔の作品なのでもしかしたらどんな作品かわからない方もいるかもしれませんが、多分私と同い年くらいの人間なら夕方五時半からよくやっていたアニメの再放送などで見ていた経験があるかと思います。内容については主題ではないのここではあまり解説しませんが、一回このブログにて「男がかっこいいと思う男性キャラクター」というテーマで記事を書こうとした際にまず真っ先に思い浮かんだのがこのマンガの主人公である冴羽獠でした。結局この企画はほかに出てくるのが「ルパン三世」のルパンくらいだったので企画倒れとなってしまいましたが。
私はこの「シティハンター」を幼児ながら当時同じジャンプで連載されていた「ドラゴンボール」を読む傍ら、放映されていたアニメとともによく読んでいました。とはいってもさすがに幼児の時分で後年になると大まかなあらすじは知っているものの内容についてはほとんど覚えてなかったのですが、大学生時代にブックオフ内で古本が売られているのを見つけ、思うところがあって改めて単行本を買い集めて改めて読んでみたところ、あの「もっこり」という表現を始めとして暗殺などを生業とする主人公が出るなど、よくこんな大人向けのマンガがジャンプで連載されていたなと感心するとともに、そんなマンガを幼児であった自分も楽しんで読んでいたという事実に驚きました。
その上である程度年齢の乗った状態で読み返してみると、子供の頃にはわからなかった部分がわかるようになってか当時とは違った感覚で読み返すことが出来ました。また買い集めた単行本を部屋に置いていたところ私の部屋に遊びにくる友人らがことごとく見つけては、「シティーハンターや!Σ(゚∀゚ノ)ノ」といっては勝手に読み出し、私の部屋の漫画本の中では「鬼切丸」を越えて貸し出し回数No.1でした。
北条氏のマンガの特徴を挙げると、何を置いてもまず描かれるキャラクター絵の秀麗さに尽きます。デビュー作の「キャッツアイ」を始めとして女性キャラクターを描かせたら天下一品だとよく言われていますが、私は女性キャラクターももちろんのこと男性キャラクターにおいてもそれぞれの特徴がしっかりと現れているので注目に値するかと思います。
その上で私なりの着目点を述べると、北条氏のマンガは写実的な背景など現代世界を舞台にしていることが多く、頭身が高くデフォルメの少ないキャラクター絵とあいまってほかのマンガと比べてテレビドラマや映画のような観点で読めるものが多いです。このような現実感の強いマンガは北条氏に始まるわけでなく、それ以前にこちらも私が大好きな池上遼一氏のマンガでも展開されていますが、少年漫画においてこれほどまでスタンダードを作ったという意味では北条氏の功績は高いかと思います。
さらに言うと、これは私も最近知ったのですが北条氏のアシスタント経験者には「スラムダンク」の井上雄彦氏、「BØY」の梅澤春人氏がいたらしく、二人とも北条氏同様に現代世界を舞台に頭身の高いキャラクターが出る作品を多く書いているだけにそれぞれの初期の作品には北条氏のマンガの匂いがします。両者ともに90年代中盤のジャンプを引っ張る連載作品を出しているだけに良将は良兵を生むといったところですが、どっちももう大御所といっていいくらいの大物なのでこの言い方は失礼かもしれません。
これは漫画家に限るわけじゃないですが、後藤新平ではないですが人を評価する上でその人物がどれだけの仕事を成し遂げたということよりも、どれだけ後世への影響を与えたかで見るべきだと私は考えています。90年代最大、というより日本のマンガが始まって以来の最大のヒット作は間違いなく「ドラゴンボール」ですが、良くも悪くも「ドラゴンボール」はあらゆる点で突き抜けていたためにその表現技法などを引き継いだ漫画家はほとんどいないのではないかと見ています(しいて挙げれば尾田栄一郎)。
それに対して北条氏ですが、私は現代の少年漫画は多かれ少なかれ彼の影響を受けているのではないかと考えています。北条氏の後進の漫画家が活躍していることもそうですが、マンガの技法やストーリー展開などで地味に強い影響力を残しているのではないかと思います。
もちろん厳密にみればもっと影響力の強い漫画家がほかにもいるでしょうが、北条氏を「シティーハンターの漫画家」ではなく、「少年漫画に一石を投じた漫画家」として見てはいかがかと思ってこうして記事にまとめました。
「シティーハンター」自体がもう大分昔の作品なのでもしかしたらどんな作品かわからない方もいるかもしれませんが、多分私と同い年くらいの人間なら夕方五時半からよくやっていたアニメの再放送などで見ていた経験があるかと思います。内容については主題ではないのここではあまり解説しませんが、一回このブログにて「男がかっこいいと思う男性キャラクター」というテーマで記事を書こうとした際にまず真っ先に思い浮かんだのがこのマンガの主人公である冴羽獠でした。結局この企画はほかに出てくるのが「ルパン三世」のルパンくらいだったので企画倒れとなってしまいましたが。
私はこの「シティハンター」を幼児ながら当時同じジャンプで連載されていた「ドラゴンボール」を読む傍ら、放映されていたアニメとともによく読んでいました。とはいってもさすがに幼児の時分で後年になると大まかなあらすじは知っているものの内容についてはほとんど覚えてなかったのですが、大学生時代にブックオフ内で古本が売られているのを見つけ、思うところがあって改めて単行本を買い集めて改めて読んでみたところ、あの「もっこり」という表現を始めとして暗殺などを生業とする主人公が出るなど、よくこんな大人向けのマンガがジャンプで連載されていたなと感心するとともに、そんなマンガを幼児であった自分も楽しんで読んでいたという事実に驚きました。
その上である程度年齢の乗った状態で読み返してみると、子供の頃にはわからなかった部分がわかるようになってか当時とは違った感覚で読み返すことが出来ました。また買い集めた単行本を部屋に置いていたところ私の部屋に遊びにくる友人らがことごとく見つけては、「シティーハンターや!Σ(゚∀゚ノ)ノ」といっては勝手に読み出し、私の部屋の漫画本の中では「鬼切丸」を越えて貸し出し回数No.1でした。
北条氏のマンガの特徴を挙げると、何を置いてもまず描かれるキャラクター絵の秀麗さに尽きます。デビュー作の「キャッツアイ」を始めとして女性キャラクターを描かせたら天下一品だとよく言われていますが、私は女性キャラクターももちろんのこと男性キャラクターにおいてもそれぞれの特徴がしっかりと現れているので注目に値するかと思います。
その上で私なりの着目点を述べると、北条氏のマンガは写実的な背景など現代世界を舞台にしていることが多く、頭身が高くデフォルメの少ないキャラクター絵とあいまってほかのマンガと比べてテレビドラマや映画のような観点で読めるものが多いです。このような現実感の強いマンガは北条氏に始まるわけでなく、それ以前にこちらも私が大好きな池上遼一氏のマンガでも展開されていますが、少年漫画においてこれほどまでスタンダードを作ったという意味では北条氏の功績は高いかと思います。
さらに言うと、これは私も最近知ったのですが北条氏のアシスタント経験者には「スラムダンク」の井上雄彦氏、「BØY」の梅澤春人氏がいたらしく、二人とも北条氏同様に現代世界を舞台に頭身の高いキャラクターが出る作品を多く書いているだけにそれぞれの初期の作品には北条氏のマンガの匂いがします。両者ともに90年代中盤のジャンプを引っ張る連載作品を出しているだけに良将は良兵を生むといったところですが、どっちももう大御所といっていいくらいの大物なのでこの言い方は失礼かもしれません。
これは漫画家に限るわけじゃないですが、後藤新平ではないですが人を評価する上でその人物がどれだけの仕事を成し遂げたということよりも、どれだけ後世への影響を与えたかで見るべきだと私は考えています。90年代最大、というより日本のマンガが始まって以来の最大のヒット作は間違いなく「ドラゴンボール」ですが、良くも悪くも「ドラゴンボール」はあらゆる点で突き抜けていたためにその表現技法などを引き継いだ漫画家はほとんどいないのではないかと見ています(しいて挙げれば尾田栄一郎)。
それに対して北条氏ですが、私は現代の少年漫画は多かれ少なかれ彼の影響を受けているのではないかと考えています。北条氏の後進の漫画家が活躍していることもそうですが、マンガの技法やストーリー展開などで地味に強い影響力を残しているのではないかと思います。
もちろん厳密にみればもっと影響力の強い漫画家がほかにもいるでしょうが、北条氏を「シティーハンターの漫画家」ではなく、「少年漫画に一石を投じた漫画家」として見てはいかがかと思ってこうして記事にまとめました。
病苦自殺の一般化について
最近中国語をまたしっかり勉強しなおそうとmsnやYahooの中国サイトにあるニュースをよく読んでます。中国のニュースは日本みたいにこざっぱりまとめることは少なくどれも全力力一杯の長文ばかりで読んでて嫌になることが多いのですが、自分が習ってきた中国語とはまた異なる記事用の中国語が使われるので勉強のしがいがあります。
また読む際に大概の単語は読み取れますが一部はっきり理解できないのも少なくなく、「フランスの日々」のSophieさんが紹介している「Goggle Chroma」のアドオンを使い、マウスオーバーによって手軽に単語の意味を確認したりしています。私は普段使うブラウザは「Opera」なのですが、Operaだとなんか使っているOSの相性やバージョンの違いによって簡体字が表示されないことがあり、私のパソコンも自宅用は表示しないくせに会社用は表示したりします。そういう対処も含めてChromaと併用というのもまた妙な話です。
さてそんなわけで今日もまたニュースを読んでたわけですが、ちょっと気になるというか思うところがあるニュースとしてこんなのがありました。
・长沙77岁患病老太不愿给家人添负担投江自杀(红网)
例によって記事を書いている私のOperaのブラウザ上だと嫌味な位に簡体字部分は空白となっておりますがそれはまぁ置いといて記事の内容を簡単に翻訳して説明すると、中国の長沙という場所で77歳のおばあさんが河に身を投げて投身自殺を図るも警察らによって救出されて自殺理由を尋ねたところ、おばあさんは病気となったものの治療するお金がなく、家族に負担をかけられないとして自殺を図ったと証言したと報じられております。
これは私の造語ですが、病を苦にした安楽死を含む自殺をそのまま「病苦自殺」として表題に掲げましたが、この中国のおばあさんの自殺も典型的な病苦自殺の一種です。日本で病の治療費や家族の負担を気にする原因とした自殺ときたら森鴎外が「高瀬舟」に書いた話が代表的ですが、現実の話として今現在の日本でもこのような自殺は少なからずあると思います。ただでさえ少子高齢化で医療費の負担が大きく響く時代で、きちんと知識があれば保険適用範囲内の治療であれば年間約十万円の負担で日本は済みますが保険適用外の治療や、こういった医療費還付の法令を知らないあまり、自殺を行う老人の話を日本でもたまに耳にしたりします。
私が今回何が言いたいのかというと、この中国の病苦自殺未遂のニュースを見て、日本だったらもしかしたらニュースにならないかもと思ったわけです。2009年の年末に、年の瀬ということもあって毎朝東京都内の列車が人身事故で遅延が発生しているもにもかかわらずどの報道機関も何も取り上げず、何か日本は知らないところで感覚がおかしくなっていないかということを記事に書きましたが、総じて日本では自殺関係だとちょっとやそっとの内容ではもう注目されないために件数は増えているにもかかわらずニュースとして取り上げられる数は減ってきているように思えます。一時は大きく取り上げられた硫化水素自殺も、自分が言うのもなんですがもうなんか一般化してしまっている気がしますし。
病苦自殺も同様で、それ自体は不幸なケースとして見られるかもしれませんがニュースとしての価値は日本ではもうほとんどないかもしれない、中国とは違ってニュースとして報じられていない裏で相当な件数が起きているのではないかと思ったわけです。
人間何が一番怖いかって、無意識にとんでもないものに感覚が慣れてしまうことほど怖いものはないです。そういう意味で海外ニュースというものは自国人が気づかない一面を気づかせる一助となることが多く、和む外国人の話とか見ていて色々と飽きないものです。
また読む際に大概の単語は読み取れますが一部はっきり理解できないのも少なくなく、「フランスの日々」のSophieさんが紹介している「Goggle Chroma」のアドオンを使い、マウスオーバーによって手軽に単語の意味を確認したりしています。私は普段使うブラウザは「Opera」なのですが、Operaだとなんか使っているOSの相性やバージョンの違いによって簡体字が表示されないことがあり、私のパソコンも自宅用は表示しないくせに会社用は表示したりします。そういう対処も含めてChromaと併用というのもまた妙な話です。
さてそんなわけで今日もまたニュースを読んでたわけですが、ちょっと気になるというか思うところがあるニュースとしてこんなのがありました。
・长沙77岁患病老太不愿给家人添负担投江自杀(红网)
例によって記事を書いている私のOperaのブラウザ上だと嫌味な位に簡体字部分は空白となっておりますがそれはまぁ置いといて記事の内容を簡単に翻訳して説明すると、中国の長沙という場所で77歳のおばあさんが河に身を投げて投身自殺を図るも警察らによって救出されて自殺理由を尋ねたところ、おばあさんは病気となったものの治療するお金がなく、家族に負担をかけられないとして自殺を図ったと証言したと報じられております。
これは私の造語ですが、病を苦にした安楽死を含む自殺をそのまま「病苦自殺」として表題に掲げましたが、この中国のおばあさんの自殺も典型的な病苦自殺の一種です。日本で病の治療費や家族の負担を気にする原因とした自殺ときたら森鴎外が「高瀬舟」に書いた話が代表的ですが、現実の話として今現在の日本でもこのような自殺は少なからずあると思います。ただでさえ少子高齢化で医療費の負担が大きく響く時代で、きちんと知識があれば保険適用範囲内の治療であれば年間約十万円の負担で日本は済みますが保険適用外の治療や、こういった医療費還付の法令を知らないあまり、自殺を行う老人の話を日本でもたまに耳にしたりします。
私が今回何が言いたいのかというと、この中国の病苦自殺未遂のニュースを見て、日本だったらもしかしたらニュースにならないかもと思ったわけです。2009年の年末に、年の瀬ということもあって毎朝東京都内の列車が人身事故で遅延が発生しているもにもかかわらずどの報道機関も何も取り上げず、何か日本は知らないところで感覚がおかしくなっていないかということを記事に書きましたが、総じて日本では自殺関係だとちょっとやそっとの内容ではもう注目されないために件数は増えているにもかかわらずニュースとして取り上げられる数は減ってきているように思えます。一時は大きく取り上げられた硫化水素自殺も、自分が言うのもなんですがもうなんか一般化してしまっている気がしますし。
病苦自殺も同様で、それ自体は不幸なケースとして見られるかもしれませんがニュースとしての価値は日本ではもうほとんどないかもしれない、中国とは違ってニュースとして報じられていない裏で相当な件数が起きているのではないかと思ったわけです。
人間何が一番怖いかって、無意識にとんでもないものに感覚が慣れてしまうことほど怖いものはないです。そういう意味で海外ニュースというものは自国人が気づかない一面を気づかせる一助となることが多く、和む外国人の話とか見ていて色々と飽きないものです。
2011年2月8日火曜日
80年代生まれと70年代生まれのお金の価値観の違い
中国は二月に入ってから旧正月休暇のためどこの企業も休みで、大体明日くらいからまた業務再開のところが多いです。私のいる会社はメーカーのため休暇前と休暇後の土日を出勤日とする代わりにまとまって休日を作っており、私自身も休暇は明日までで明後日からまた出社する予定となっております。
あまりプライベートなことを書いても仕方がないですが、先ほどネットで見た「日本の嫌な慣習」というテーマの掲示板内にて日本企業における「飲みニュケーション」を挙げている方がいましたが、こういったことは日本に限らずというか中国は日本以上にアルコールの強制が多く、私の親父の知り合いであるレクサスのハイブリッドエンジン搭載車を乗り回している(ちょっとうらやましい)社長も中国に商談で訪れた際に無理やり酒を飲まされ、なんでも入院までしたそうです。となるともちろん中国で働いている私も例外ではなく、休暇に入る前に何度もあった忘年会の度に紹興酒やワインの一気飲みを何杯も強制され、元々アルコールに弱いのもあって幾度となく吐かされては肺気胸を起こすくらいの痩せ型なのにさらに体重を大きく落としたため、この休暇中はともかく体重を増やすために出来るだけ多く食べてはよく眠ることに努めました。
体重計が家にないために具体的に測定することは出来ませんが鏡で見る限りは一時は大きくこけた頬が大分戻り、食欲も一食にご飯二合を食べた上に夜食にインスタントラーメンやらおやつもバリバリ食えるくらいに順調で、健康状態は現在すこぶる良好です。ただ早朝にランニングを行ったところ、息が切れるより早く足が痛んで走れなくなるというのが我ながらちょっと不思議でした。足腰は自転車でそこそこ鍛えているのに。
話は本題に入りますが、体調がいいということもあって久々に挑戦的な内容を記事にまとめようと思います。
このブログで何度か書いておりますが、私は80年代の生まれです。この世代の特徴を挙げるとすれば物心ついたときから日本は不況であったため、割と世の中を斜めにというか悲観的に見る人間が多いと一部で言われております。これについては私の在学中、リーマンショック直前の日本の景気がやや持ち直して好況だと言われた時期にある授業で講師が、「最近好況だと言われているもののどうも君たち学生の反応が薄いように前々から感じてましたが、考えてみたら君たちは生まれてこのかた好況というものを一度も経験していなかったですね」と授業中に話したことがありますが、私はこの講師の発言こそが我々の世代と別の世代を比較する上で重要なファクターだと考え、よく周りにも話しております。
私の専門は社会学だったために学生時代はこのような世代間の認識の違いことジェネレーションギャップについていろいろと友人と議論したり自分で勉強していましたが、同じ80年代生まれでもこの世代の青春期に当たる90年代後半から2000年代前半において携帯電話など小型通信機器が異常に発達したため、一年や二年の差でポケベルとかPHSを見た、触ったなどといった経験が変わってくるために一緒くたにすべきではないのですが、敢えて十年タームで区切ってその一つ前の70年代生まれの世代と比較すると、あくまで私自身の感覚でですがお金に関する価値観が真逆とも言っていいくらい違いがある気がします。
具体的にどのようにお金に対する価値観が違うのかというと、どちらの世代も月給でいくら稼いでいるのかはもちろん気にはするのですが、私を含む80年代生まれはその上でどれだけお金を貯蓄しているかに価値を重く置いているように感じます。実際に私と周囲の友人も、さすがに中国みたいに「月給いくら?」とストレートに聞くことはしませんが(中国人はすぐ聞くし教えてくれる。これはこれでいいんだけど)、毎月どれくらい貯蓄に回して一年間でどれくらい貯金を貯めたかについては割合によく尋ね合い、節約方法や支出の抑え方についてよく話し合っています。
それに対して70年代生まれですが、あくまで私の実感としてよくこの世代の人からは、「旅行に三十万使ったんだ」、「一晩で十万使った」などと、自分の感覚からすると何かと消費した金額を周囲にやや自慢げに話すことが多く、80年代生まれと比べてどれだけお金を消費したのか、貯蓄に対して消費することに強く価値を置いているように感じます。
そのため学生時代からケチで鳴らした私はこの世代からよく、「もっとお金は使わなきゃ駄目だ」、「そんなに貯めてどうする」などと言われるのですが、ちょっと不思議というか同じ年長の世代でも60年代生まれの人からはあまりこういうことは言われることがありません。接点が少ないというのが一番大きいでしょうが。
恐らくほかの世代とも比べると、我々80年代生まれは明らかに貯蓄傾向が強く物事に対して慎重な人間が多いように思います。何故そうなったのか仮説を挙げるとすればやはり生まれ育った環境というか、生活は物質上豊かでも世の中は不況一色で中高年のリストラや就職氷河期を見ているだけに、人生何が起こるかわからない(+レールから外れたらもう戻れない)というのを強いレベルで意識しているのではないかと私は考えます。
それに対して70年代生まれは、こちらは私自身がその世代に属していないためにはっきりと言い切る自信はありませんが、やはりバブル期を見た、経験したというのが一番大きいかと思います。また自分の実感で話させてもらえば、自分は一度失ったお金は二度と返ってこないと思うのに対して70年代生まれの人の話を聞いていると、使ったお金はまたすぐに自分に帰ってくる、すぐに稼ぎなおせばいいというような考えを持っている方が多いように感じます。
くれぐれも言っておきますが、私は80年代生まれの貯蓄傾向と70年代生まれの消費傾向のどちらが正しくてどちらが悪いと区別するつもりはなく、どっちもどっちでいい面もあれば悪い面もあると考えていますし、またそれぞれの世代の中には反対の傾向を持つ人間も少なからずいると思います。ただ今回の記事で私が言いたいのは、世代別で見ると全体としてこのような傾向があるのではということと、バブル時代を見ているかいないかは日本の世代別傾向を探る上で非常に大きなファクターであるということを強く主張しておきたく思います。
あまりプライベートなことを書いても仕方がないですが、先ほどネットで見た「日本の嫌な慣習」というテーマの掲示板内にて日本企業における「飲みニュケーション」を挙げている方がいましたが、こういったことは日本に限らずというか中国は日本以上にアルコールの強制が多く、私の親父の知り合いであるレクサスのハイブリッドエンジン搭載車を乗り回している(ちょっとうらやましい)社長も中国に商談で訪れた際に無理やり酒を飲まされ、なんでも入院までしたそうです。となるともちろん中国で働いている私も例外ではなく、休暇に入る前に何度もあった忘年会の度に紹興酒やワインの一気飲みを何杯も強制され、元々アルコールに弱いのもあって幾度となく吐かされては肺気胸を起こすくらいの痩せ型なのにさらに体重を大きく落としたため、この休暇中はともかく体重を増やすために出来るだけ多く食べてはよく眠ることに努めました。
体重計が家にないために具体的に測定することは出来ませんが鏡で見る限りは一時は大きくこけた頬が大分戻り、食欲も一食にご飯二合を食べた上に夜食にインスタントラーメンやらおやつもバリバリ食えるくらいに順調で、健康状態は現在すこぶる良好です。ただ早朝にランニングを行ったところ、息が切れるより早く足が痛んで走れなくなるというのが我ながらちょっと不思議でした。足腰は自転車でそこそこ鍛えているのに。
話は本題に入りますが、体調がいいということもあって久々に挑戦的な内容を記事にまとめようと思います。
このブログで何度か書いておりますが、私は80年代の生まれです。この世代の特徴を挙げるとすれば物心ついたときから日本は不況であったため、割と世の中を斜めにというか悲観的に見る人間が多いと一部で言われております。これについては私の在学中、リーマンショック直前の日本の景気がやや持ち直して好況だと言われた時期にある授業で講師が、「最近好況だと言われているもののどうも君たち学生の反応が薄いように前々から感じてましたが、考えてみたら君たちは生まれてこのかた好況というものを一度も経験していなかったですね」と授業中に話したことがありますが、私はこの講師の発言こそが我々の世代と別の世代を比較する上で重要なファクターだと考え、よく周りにも話しております。
私の専門は社会学だったために学生時代はこのような世代間の認識の違いことジェネレーションギャップについていろいろと友人と議論したり自分で勉強していましたが、同じ80年代生まれでもこの世代の青春期に当たる90年代後半から2000年代前半において携帯電話など小型通信機器が異常に発達したため、一年や二年の差でポケベルとかPHSを見た、触ったなどといった経験が変わってくるために一緒くたにすべきではないのですが、敢えて十年タームで区切ってその一つ前の70年代生まれの世代と比較すると、あくまで私自身の感覚でですがお金に関する価値観が真逆とも言っていいくらい違いがある気がします。
具体的にどのようにお金に対する価値観が違うのかというと、どちらの世代も月給でいくら稼いでいるのかはもちろん気にはするのですが、私を含む80年代生まれはその上でどれだけお金を貯蓄しているかに価値を重く置いているように感じます。実際に私と周囲の友人も、さすがに中国みたいに「月給いくら?」とストレートに聞くことはしませんが(中国人はすぐ聞くし教えてくれる。これはこれでいいんだけど)、毎月どれくらい貯蓄に回して一年間でどれくらい貯金を貯めたかについては割合によく尋ね合い、節約方法や支出の抑え方についてよく話し合っています。
それに対して70年代生まれですが、あくまで私の実感としてよくこの世代の人からは、「旅行に三十万使ったんだ」、「一晩で十万使った」などと、自分の感覚からすると何かと消費した金額を周囲にやや自慢げに話すことが多く、80年代生まれと比べてどれだけお金を消費したのか、貯蓄に対して消費することに強く価値を置いているように感じます。
そのため学生時代からケチで鳴らした私はこの世代からよく、「もっとお金は使わなきゃ駄目だ」、「そんなに貯めてどうする」などと言われるのですが、ちょっと不思議というか同じ年長の世代でも60年代生まれの人からはあまりこういうことは言われることがありません。接点が少ないというのが一番大きいでしょうが。
恐らくほかの世代とも比べると、我々80年代生まれは明らかに貯蓄傾向が強く物事に対して慎重な人間が多いように思います。何故そうなったのか仮説を挙げるとすればやはり生まれ育った環境というか、生活は物質上豊かでも世の中は不況一色で中高年のリストラや就職氷河期を見ているだけに、人生何が起こるかわからない(+レールから外れたらもう戻れない)というのを強いレベルで意識しているのではないかと私は考えます。
それに対して70年代生まれは、こちらは私自身がその世代に属していないためにはっきりと言い切る自信はありませんが、やはりバブル期を見た、経験したというのが一番大きいかと思います。また自分の実感で話させてもらえば、自分は一度失ったお金は二度と返ってこないと思うのに対して70年代生まれの人の話を聞いていると、使ったお金はまたすぐに自分に帰ってくる、すぐに稼ぎなおせばいいというような考えを持っている方が多いように感じます。
くれぐれも言っておきますが、私は80年代生まれの貯蓄傾向と70年代生まれの消費傾向のどちらが正しくてどちらが悪いと区別するつもりはなく、どっちもどっちでいい面もあれば悪い面もあると考えていますし、またそれぞれの世代の中には反対の傾向を持つ人間も少なからずいると思います。ただ今回の記事で私が言いたいのは、世代別で見ると全体としてこのような傾向があるのではということと、バブル時代を見ているかいないかは日本の世代別傾向を探る上で非常に大きなファクターであるということを強く主張しておきたく思います。
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