今更ながらナーガがアメリアの姉だったと今日になって知って驚きました。こんなネタ書いたところで、今時わかる人はいるのだろうか。ついでに書くと昨日電子書籍で漫画(でろでろ七巻)を購入してみましたが、ファイルを全部ダウンロードし終わる前に毎回エラーが起こるので見ることが出来ませんでした。これだから国営企業のインフラは当てにならない。
ここでいう国営企業のインフラというのは中国のネット回線のことですが、日本が韓国に次いで家庭用ケーブルの通信速度が馬鹿速いという恵まれた環境にあることもありますが、中国の通信速度の遅さには生活していてつくづく辟易させられます。いちおうADSLではあるのですが一回一回検索するごとになにやら検閲をしているようなタイムラグが存在し、中国国内のサイトならともかく海外のサイトにつなげようものならかつてのISDNかそれよりも劣る速度になってしまいます。おかげで今時数メガのファイルを落とすのも難儀するのですが、こういった海外とを結ぶケーブル関係のインフラ工事は全部国営企業が握っていて、国策もあるでしょうがあまり速度向上に熱心じゃないそうです。折角だから日本もこういった中国の弱みを突くような政策とかしたらいいのに。
話は変わって日本のインフラ企業と来れば、良くも悪くも目下一番注目されているのは東電こと東京電力です。その東京電力ですが、今回の福島原発の事故を受けて先日に役員報酬を50%削減する方針だと発表したところ、各所で「この期に及んでまだ50%も受け取るつもりか」、「状況をわかっているのか」などと批判する言葉を多く見かけます。こうした批判する声について私は、批判内容はもっともだと感じる一方で本当に責任を取らねばならないのは誰なのかという点で、ちょっと疑問に感じるところがあります。ここで言う「本当に責任を取らねばならない人」というのは現社長でも管首相でもなく、以前の東電役員達のことです。
現在の株式会社方式で役員というのは会社の経営を良くする為に雇われる人たちで、大企業の役員において求められるのは今月や今年といった短期の経営改善ではなく、数年先の長期的展望に立った経営方針や実効策です。それゆえに仮に役員を三年程度勤めた上で経営が悪化したのであれば確かにその役員の責任だと言っても差し支えないですが、就任してから一年程度ではその役員の手腕を評価することはよっぽどのことをしてない限り不可能です。
比較的これのわかりやすい例と言えるのはこの前のトヨタで、現社長の豊田章男氏が就任するや否や米国でのリコール問題が起こりました。結局この問題はアメリカ側の過剰反応でトヨタ車の性能的問題ではなかったということがすでに証明されていますが、この問題が起こった当初に私の周りでは、「どう考えたって、前社長の渡辺捷昭の責任だろ」と言い合っていました。
元々このリコール問題は大事になる前からいろいろ細かい事故なりなんなりあり、そうした小さな段階での対処を怠ったがゆえに大事になってしまった事件でした。まぁ早い段階から対処してても例のGという自動車会社のせいで無理だったかもしれませんがそれはこの際置いといて、まさにそのような前段階の時期に社長をやっていたのは渡辺氏でした。ところが大事になったのは豊田氏が社長になったばかりの頃で、いわば前社長の不作為の責任を一身に受ける形で豊田氏がお詫び行脚をする羽目となったわけです。
今回の東電の事故でも、確かに事故が起きたのは先月三月です。しかしその事故が起こる前に津波対策や、今回の事故に近い不具合を起こしていたのに報告をしてこなかったのは過去の東電役員達で、こういう目で見れば真に責任が重いといえるのはどっちかということになります。
この手の議論は何も今に始まったわけじゃなく一時期流行ったヘッジファンドの頃もよく言われ、連中が会社乗っ取りをしてやってた以下のような行為についてよく批判がされていました。
1、乗っ取る会社の株式を取得する
2、その会社に役員を送り込む
3、従業員のクビ切ったり資産を売却したりして見かけ上の短期的利益を上げる
4、利益を上げたということにして役員報酬を大量に受け取る
5、やることやったら退職金もらってさよならする、取得した株式も売る
6、ヘッジファンドがいなくなった会社では従業員も資産もなくなり、時間とともに経営が悪化していく
細かいところまで説明はしませんが、上記のように本来長期的観点に立って経営をしなければならない役員が単年度の評価で報酬を得てしまうことより、目先の利益を求めて逆にその企業の数年後の経営を悪化させてしまう経営を取ってしまうことがあります。実際のところどこの企業の役員も自分が役員している間を平穏無事に乗り切ることばかり考え、退任後まで考えて経営をしている人はそんなに多くないような気がします。中にはそういう立派な経営者もいるだろうけどさ。
新しく就任した役員が前役員のミスの詰め腹を切らされる例は山一證券最後の社長となった野澤正平氏を始めとして数限りなく、今回の東電の事故でも私は過去の役員らの責任が追及されない点を思うにつけ、そもそもこういった役員の報酬システム自体に問題があるような気がしてなりません。それであるならばいっそ実現性を無視するなら、役員報酬は三年後とか期間を置いたあとのその会社の業績によって算出して支払われるようなシステムにした方が面白いような気がします。
私は現在の東電役員らに全く責任がないとは言いませんし、役員というのはある程度感情をぶつけられるサンドバッグ的な役割も持っていると思います。ただ信賞必罰の原則を間違えることは後世に悪影響を及ぼすことになり、真に責任を問うべき人間を放って今の役員だけを叩いていては結局はまた同じ間違いを起こすのではないかという懸念があります。こういう風に考えるのって、私くらいなのでしょうか。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2011年4月25日月曜日
2011年4月24日日曜日
アメリカの大学に留学する価値
時期にして大体2005年くらいから、政財界の要人らがよくアメリカのハーバード大学の日本人留学生数が減少していると問題視する発言をよく見るようになりました。現在でも死にぞこないの自民党文教族らはそれらアメリカの大学において韓国人、中国人らと比べて日本人留学生数が減っており、日本の教育力が低下していてこのままでは両国に追いつかれるなどとよく発言しておりますが、確定的なデータも二次ソースも少ないながら、私はこの傾向がそれほど問題なのか強く疑問に感じております。
最初のきっかけは友人から聞いた話で、何でもアメリカの大学はハーバード大学を含んで基本的に私立で、現在学生数の減少によりどこも経営難に陥っているそうです。そのためどこのアメリカの大学も授業料を得るために留学生を呼び集めているものの、ほとんどの国ではすでにアメリカの大学にはそこまで価値があるわけでないと見抜いており、まだその権威をありがたがってがっている日本人と韓国人ばかりやってきてキャンパス内もそういった留学生ばかりになっていると聞きました。
私は学術研究者でないために実際にアメリカの大学がどれほど教育、研究機関として価値があるのか推し量ることは出来ませんが、少なくとも一般レベルで日本人が根拠なくやたらとアメリカの大学を高く評価している傾向はあるように感じます。またいくつかの角度から見ると、確かにアメリカの大学について疑問に感じる点も少なくありません。
理系については全く素人もいいところなのでわかりませんが、文系科目についてははっきり言って留学する価値は少ないように思えます。現在の自然科学の王様は間違いなく経済学ですが、先年に起こったリーマンショックはまさに米国流の経済学によって引き起こされたものだといっても過言ではありません。一時期アメリカでMBAを取得するのが流行りましたが、そういったMBA取得者どもがリーマンショックを引き起こしたことを考えると戦犯もよいところです。そのせいか、このごろMBA取得を自慢する人もめっきり減ったし。
またこれ以外の文系学問についても、私の専門とする社会学ではシカゴ大学が有名ではあるものの昔はともかく今は実際にどんな教育がされているのかわかりません。よくアメリカの大学を礼賛する人で疑問に感じるのは、具体的にどういった点が日本の大学より優れているのかを誰も言及しないところです。
理系についてもあくまで素人目の意見ですが、誰も基礎学問を持っていなかった明治時代ならともかく現在の日本にはわざわざ留学せずとも世界的にも十分立派な研究環境があるように思えます。霊長類研究やES細胞については間違いなく京大が世界トップですし、またスプリング8など反則だって言いたくなるような豪華な研究設備だってうなるほどあります。もっとも航空力学についてはアメリカが上、っていうか日本では研究が制限されてますが。
明治時代はそのような研究環境をおろか学者が全く存在しなかったために海外へ留学せざるを得ませんでしたが、今の日本では主要な学問はほぼすべて国内で指導、研究することが出来ます。これは日本にいたらさも当たり前のように見えてしまいますが、最先端の研究を母国語でできるという国は実際にはほとんど存在しません。中国なんか文化大革命でそういった学者全員を殺してしまったために文革後に学生を全員海外に送って建て直しを迫られたほどで、現在においても主要な研究者は皆国内にはおらず海外で研究生活を続けております。
そういう意味では中国人がアメリカの大学に留学するのはまだ国内に研究環境がないという、いわば必要に迫られたものだということで理解できるのですが、日本人については確かに英語が出来るに越したことはないけど国内で研究が出来るというのであればわざわざ行かなくともよいのでは、というよりむしろもっと日本の大学に海外の研究者を呼び集めるような努力をしてもよいのではないかという気がします。
留学生が減ったなどと嘆く発言をする政財界の人間に対して私が一番言いたいことは、アメリカの大学に行け行け言っておきなら、そういうあんたらは国内の研究を深耕させるようなことをこれまでしてきたのかということです。特に文教族の議員はまさに教育政策を決めるキャスティングボードを握っておきながら現在問題となっているような学力低下を招いており、そうした反省もなにもせずに、「日本人が留学しなくなった」などとほざくのは肥溜めにでも首突っ込んでろと言いたくなるほど腹が立ちます。
私は留学を否定するわけでもなく行けるのであれば行くに越したことはないと思いますが、もっと日本国内の高等教育を充実させるという考えを持たずにアメリカの大学における日本人留学生数低下を懸念するというのはどこかピントがおかしいのではないかという気がします。折角ここまで日本の研究レベルを高めたのだから、舶来物をありがたがっているばかりでなく、逆に外に訴えていく努力こそが今不足しているのではないでしょうか。
最初のきっかけは友人から聞いた話で、何でもアメリカの大学はハーバード大学を含んで基本的に私立で、現在学生数の減少によりどこも経営難に陥っているそうです。そのためどこのアメリカの大学も授業料を得るために留学生を呼び集めているものの、ほとんどの国ではすでにアメリカの大学にはそこまで価値があるわけでないと見抜いており、まだその権威をありがたがってがっている日本人と韓国人ばかりやってきてキャンパス内もそういった留学生ばかりになっていると聞きました。
私は学術研究者でないために実際にアメリカの大学がどれほど教育、研究機関として価値があるのか推し量ることは出来ませんが、少なくとも一般レベルで日本人が根拠なくやたらとアメリカの大学を高く評価している傾向はあるように感じます。またいくつかの角度から見ると、確かにアメリカの大学について疑問に感じる点も少なくありません。
理系については全く素人もいいところなのでわかりませんが、文系科目についてははっきり言って留学する価値は少ないように思えます。現在の自然科学の王様は間違いなく経済学ですが、先年に起こったリーマンショックはまさに米国流の経済学によって引き起こされたものだといっても過言ではありません。一時期アメリカでMBAを取得するのが流行りましたが、そういったMBA取得者どもがリーマンショックを引き起こしたことを考えると戦犯もよいところです。そのせいか、このごろMBA取得を自慢する人もめっきり減ったし。
またこれ以外の文系学問についても、私の専門とする社会学ではシカゴ大学が有名ではあるものの昔はともかく今は実際にどんな教育がされているのかわかりません。よくアメリカの大学を礼賛する人で疑問に感じるのは、具体的にどういった点が日本の大学より優れているのかを誰も言及しないところです。
理系についてもあくまで素人目の意見ですが、誰も基礎学問を持っていなかった明治時代ならともかく現在の日本にはわざわざ留学せずとも世界的にも十分立派な研究環境があるように思えます。霊長類研究やES細胞については間違いなく京大が世界トップですし、またスプリング8など反則だって言いたくなるような豪華な研究設備だってうなるほどあります。もっとも航空力学についてはアメリカが上、っていうか日本では研究が制限されてますが。
明治時代はそのような研究環境をおろか学者が全く存在しなかったために海外へ留学せざるを得ませんでしたが、今の日本では主要な学問はほぼすべて国内で指導、研究することが出来ます。これは日本にいたらさも当たり前のように見えてしまいますが、最先端の研究を母国語でできるという国は実際にはほとんど存在しません。中国なんか文化大革命でそういった学者全員を殺してしまったために文革後に学生を全員海外に送って建て直しを迫られたほどで、現在においても主要な研究者は皆国内にはおらず海外で研究生活を続けております。
そういう意味では中国人がアメリカの大学に留学するのはまだ国内に研究環境がないという、いわば必要に迫られたものだということで理解できるのですが、日本人については確かに英語が出来るに越したことはないけど国内で研究が出来るというのであればわざわざ行かなくともよいのでは、というよりむしろもっと日本の大学に海外の研究者を呼び集めるような努力をしてもよいのではないかという気がします。
留学生が減ったなどと嘆く発言をする政財界の人間に対して私が一番言いたいことは、アメリカの大学に行け行け言っておきなら、そういうあんたらは国内の研究を深耕させるようなことをこれまでしてきたのかということです。特に文教族の議員はまさに教育政策を決めるキャスティングボードを握っておきながら現在問題となっているような学力低下を招いており、そうした反省もなにもせずに、「日本人が留学しなくなった」などとほざくのは肥溜めにでも首突っ込んでろと言いたくなるほど腹が立ちます。
私は留学を否定するわけでもなく行けるのであれば行くに越したことはないと思いますが、もっと日本国内の高等教育を充実させるという考えを持たずにアメリカの大学における日本人留学生数低下を懸念するというのはどこかピントがおかしいのではないかという気がします。折角ここまで日本の研究レベルを高めたのだから、舶来物をありがたがっているばかりでなく、逆に外に訴えていく努力こそが今不足しているのではないでしょうか。
2011年4月23日土曜日
FF、DQにおける印象的なオノマトペ
日本ゲーム界における二大RPGとくれば言わずもがなでFFことファイナルファンタジーシリーズと、DQことドラゴンクエストシリーズです(中にはテイルズシリーズを入れて三大RPGとするところもあるけど)。さてこの両者ですが、今ではFFが特に顕著ですがグラフィックなどを売りにすることが多くなったものの、ファミコン時代の当初はシステムはもとよりそのストーリー性ことテキストが大きく脚光を浴びました。王道とはいえどちらともなければ、日本人は現在ほどファンタジーに対する興味や知識は持たなかったかと思います。
さてそんな両シリーズのテキストなのですが、ファミコン時代はグラフィック表現での制限の多さから当時のテキストを読むにつけ開発者たちの苦心が伝わってきます。ストーリーの展開からキャラクターの状態、ゲームのシステムまで全部テキストで表現しなければならないため改めて読んでみると実によく凝られたテキストが作られているのですが、中には「なんじゃこりゃ」と言いたくなる様な妙な表現が突然眼に入ってくることがあります。以前にも紹介しましたが、ドラゴンクエスト6ではみんながみんなすべての特技を身につけるもんだから、
「スライムはこしをひくくおとし、せいけんづきをはなった」
などと深く考えてはいけないような場面も少なくありませんでした。
そんなRPGのテキストの中で、多分普通にやってりゃそんな気にしないかもしれませんがいわゆるオノマトペでいろいろと変なのが作られていることに最近気がつきました。オノマトペというのは擬声語のことで、人間の声から発生されるもの以外の音を文字表現で表す擬音語を指すのですが、いくつか例を出すと犬の鳴き声を「ワンワン」とか「Woo,Woo」と書いたり、炎が燃えることを「メラメラ」と書いたりするものです。予断ですが動物の鳴き声や雷の音は言語ごとにかなり変わるので、それぞれの言語文化を比較する上でなかなか面白い材料です。ちなみに中国語の雷のオノマトペは「ホンロンロン」で、ちょっと耳を疑います。
そこで今日はちょっと、私が知っている中でFF、DQで実際に使われている気になるオノマトペをいくつか紹介します。それでは早速、FFシリーズからいきましょう。
FFシリーズのオノマトペ
・ウボァー(ファイナルファンタジー2:ラスボスのパラメキア皇帝の断末魔)
苦しいラスボス戦(ブラッドソード使えばあっという間だけど)を終えるや否や、いきなりこんな意味不明な断末魔のテキストが開きます。多分最初に見た人たちも、感動よりあっけに取られたかと思います。
・フシュルルル(ファイナルファンタジー4:土のスカルミリョーネの吐息?)
ゴルベーザ四天王のスカルミリョーネが第二段階に変身する前に言う(放つ?)音です。一体どうすればこんな音が出るのか気になって仕方ないですが、何故だか私はこの音が気に入ってよく一人で自転車に乗っている時に意味もなく「フシュルルル」と発声することがあります。
・ファファファ(ファイナルファンタジー5:ラスボスのエクスデスの笑い声)
日本語の笑い声のオノマトペでは「わっはっは」や「ふぁっはっは」などはポピュラーに使われていますが、「ファ」の音を三連続で出すこの表現は未だかつてこのエクスデス以外には見たことがありません。比較的発声しやすいのですが促音便なしだと笑い声なのかなんなのか聞いてる人にはわからないので、実生活では使うべきではないでしょう。むしろこうしたネット上のテキストのやり取りの方が使い勝手がいいかもしれません。私は使いませんけど。
それにしてもFFシリーズのラスボスはみんななんかおかしな語がよく混ざるなぁ。
DQシリーズのオノマトペ
・うおっぷ!これはたまらん!(ドラゴンクエスト4:トルネコが「うまのふん」を鑑定した時のセリフ)
そもそも「うまのふん」というアイテムが存在すること自体をいろいろ疑わなければならないのですが、わざわざこんなテキストパターンを用意しているあたり、現在まで続くシリーズの所以かもしれません。
・フフィーッ!!フフィーッ!! ここのメシは 最高だよー!!フフィーッ!! しあわせすぎる!!(ドラゴンクエスト9のセリフらしい)
私は実際にプレイしたわけじゃないのですが、最初この「フフィー」を見てからしばらくこのセリフが頭から離れませんでした。何を以ってこんな表現が浮かんでくるんだろう、すご過ぎる。
もともと日本語は感動詞を始めとしてオノマトペに該当する言葉が数多くある言語ですが、こういうのを見ているといまだに進化し続けている気がします。特に戦後は漫画が流行したことによって「ドカーン」(爆発音)など秀逸な擬音も数多く生まれております。その中でも恐らく最高のオノマトペは手塚治虫が考案した、沈黙を表す「シーン」だと私は考えております。
最後にもう一つ、オノマトペというか会話ですがドラクエで使われている変なのを紹介すると、
・むほーそりゃないぜ!お前明日からこの俺にフルチンで生活しろってのか!(ドラゴンクエスト7)
何故こんな会話になるのか、本当によくわかりません。なおこのセリフを聞いた後にマリベルに話しかけると、「フ、フルチンですって・・・」と言ってくれます。
さてそんな両シリーズのテキストなのですが、ファミコン時代はグラフィック表現での制限の多さから当時のテキストを読むにつけ開発者たちの苦心が伝わってきます。ストーリーの展開からキャラクターの状態、ゲームのシステムまで全部テキストで表現しなければならないため改めて読んでみると実によく凝られたテキストが作られているのですが、中には「なんじゃこりゃ」と言いたくなる様な妙な表現が突然眼に入ってくることがあります。以前にも紹介しましたが、ドラゴンクエスト6ではみんながみんなすべての特技を身につけるもんだから、
「スライムはこしをひくくおとし、せいけんづきをはなった」
などと深く考えてはいけないような場面も少なくありませんでした。
そんなRPGのテキストの中で、多分普通にやってりゃそんな気にしないかもしれませんがいわゆるオノマトペでいろいろと変なのが作られていることに最近気がつきました。オノマトペというのは擬声語のことで、人間の声から発生されるもの以外の音を文字表現で表す擬音語を指すのですが、いくつか例を出すと犬の鳴き声を「ワンワン」とか「Woo,Woo」と書いたり、炎が燃えることを「メラメラ」と書いたりするものです。予断ですが動物の鳴き声や雷の音は言語ごとにかなり変わるので、それぞれの言語文化を比較する上でなかなか面白い材料です。ちなみに中国語の雷のオノマトペは「ホンロンロン」で、ちょっと耳を疑います。
そこで今日はちょっと、私が知っている中でFF、DQで実際に使われている気になるオノマトペをいくつか紹介します。それでは早速、FFシリーズからいきましょう。
FFシリーズのオノマトペ
・ウボァー(ファイナルファンタジー2:ラスボスのパラメキア皇帝の断末魔)
苦しいラスボス戦(ブラッドソード使えばあっという間だけど)を終えるや否や、いきなりこんな意味不明な断末魔のテキストが開きます。多分最初に見た人たちも、感動よりあっけに取られたかと思います。
・フシュルルル(ファイナルファンタジー4:土のスカルミリョーネの吐息?)
ゴルベーザ四天王のスカルミリョーネが第二段階に変身する前に言う(放つ?)音です。一体どうすればこんな音が出るのか気になって仕方ないですが、何故だか私はこの音が気に入ってよく一人で自転車に乗っている時に意味もなく「フシュルルル」と発声することがあります。
・ファファファ(ファイナルファンタジー5:ラスボスのエクスデスの笑い声)
日本語の笑い声のオノマトペでは「わっはっは」や「ふぁっはっは」などはポピュラーに使われていますが、「ファ」の音を三連続で出すこの表現は未だかつてこのエクスデス以外には見たことがありません。比較的発声しやすいのですが促音便なしだと笑い声なのかなんなのか聞いてる人にはわからないので、実生活では使うべきではないでしょう。むしろこうしたネット上のテキストのやり取りの方が使い勝手がいいかもしれません。私は使いませんけど。
それにしてもFFシリーズのラスボスはみんななんかおかしな語がよく混ざるなぁ。
DQシリーズのオノマトペ
・うおっぷ!これはたまらん!(ドラゴンクエスト4:トルネコが「うまのふん」を鑑定した時のセリフ)
そもそも「うまのふん」というアイテムが存在すること自体をいろいろ疑わなければならないのですが、わざわざこんなテキストパターンを用意しているあたり、現在まで続くシリーズの所以かもしれません。
・フフィーッ!!フフィーッ!! ここのメシは 最高だよー!!フフィーッ!! しあわせすぎる!!(ドラゴンクエスト9のセリフらしい)
私は実際にプレイしたわけじゃないのですが、最初この「フフィー」を見てからしばらくこのセリフが頭から離れませんでした。何を以ってこんな表現が浮かんでくるんだろう、すご過ぎる。
もともと日本語は感動詞を始めとしてオノマトペに該当する言葉が数多くある言語ですが、こういうのを見ているといまだに進化し続けている気がします。特に戦後は漫画が流行したことによって「ドカーン」(爆発音)など秀逸な擬音も数多く生まれております。その中でも恐らく最高のオノマトペは手塚治虫が考案した、沈黙を表す「シーン」だと私は考えております。
最後にもう一つ、オノマトペというか会話ですがドラクエで使われている変なのを紹介すると、
・むほーそりゃないぜ!お前明日からこの俺にフルチンで生活しろってのか!(ドラゴンクエスト7)
何故こんな会話になるのか、本当によくわかりません。なおこのセリフを聞いた後にマリベルに話しかけると、「フ、フルチンですって・・・」と言ってくれます。
2011年4月22日金曜日
中国のアクセス禁止サイト
昨日は早くに家に帰ったのでこれまでためていた記事を一気に書いてしまおうと考えていたのですが、いざパソコンにつなげてみるや、なんとブログが開きませんでした。Yahooのホームページなどは開くのにGoo関係のページは全く開かず、ネット規制が強化されてまたもアクセス禁止を食らったのかとかなり焦りましたが、明けた本日にはこうしてまた投稿できるようになりました。恐らく何らかの意図があって、中国当局が昨日の夕方から夜までの間でいくつかのサイトがアクセス不能にしたのだと思います。こういうことがたまにあるからこの国はめんどい。
ただ今回は無事ですんだとはいえ、いつまたアクセス禁止になるかわかりません。今回の件を相談した友人にも厳しく言われましたが、そろそろ本気でレンタルサーバーを借りてそこでブログを運営することを真剣に考えたほうがいいかもしれません。その際には以前の陽月秘話の過去記事も一緒に公開すれば一石二鳥ですし、言論の自由を守るためにも屈してなんかいられません。それにしても、昨日は「この臆病者!」などと随分と中国政府を罵ったもんだ。
ところで中国のネット規制ですが、やはりここ数年で急激に拡大されてきました。知人の情報だと2008年頃のチベットの事件があってから急激に厳しくなり、その頃からYoutubeを始めとしたサイトがアクセスできなくなったようです(それ以前は出来た)。そこで今回は簡単に、私の知っている限りのアクセス禁止を受けているサイトをいくつか紹介しようと思います。前フリはいいので早速ご紹介します。
アクセスできないサイト
・Youtube
・FC2ブログ
・ニコニコ動画
・Blogger(Google社の)
・Facebook
・Twitter
細かく探せばまだまだありますが、上記関連のサイトは一切アクセスすることが出来ません。またアクセスすることは出来ても、ほとんどのサイトで画像が全く表示されません。幸いこのGooブログなら画像も表示されるので、今回採用する一員となりました。
やはりアクセスできなくて個人的に痛かったのは、これまでブログを運営していたFC2ブログとBloggerの二つと、Youtubeでした。また画像が表示されないのも地味に痛く、猫の写真が貼られたサイトに行くたびに無念の涙を呑んでおります。私が北京に留学していた頃はYoutubeも見れれば画像も問題なく表示されていたので、ほんの少し前のことなのに随分と昔のことのようにすら感じます。あまり大きな声で言えませんが、細かいことにいちいちビビッてんじゃねぇよと言いたいです。
ただ今回は無事ですんだとはいえ、いつまたアクセス禁止になるかわかりません。今回の件を相談した友人にも厳しく言われましたが、そろそろ本気でレンタルサーバーを借りてそこでブログを運営することを真剣に考えたほうがいいかもしれません。その際には以前の陽月秘話の過去記事も一緒に公開すれば一石二鳥ですし、言論の自由を守るためにも屈してなんかいられません。それにしても、昨日は「この臆病者!」などと随分と中国政府を罵ったもんだ。
ところで中国のネット規制ですが、やはりここ数年で急激に拡大されてきました。知人の情報だと2008年頃のチベットの事件があってから急激に厳しくなり、その頃からYoutubeを始めとしたサイトがアクセスできなくなったようです(それ以前は出来た)。そこで今回は簡単に、私の知っている限りのアクセス禁止を受けているサイトをいくつか紹介しようと思います。前フリはいいので早速ご紹介します。
アクセスできないサイト
・Youtube
・FC2ブログ
・ニコニコ動画
・Blogger(Google社の)
・Facebook
・Twitter
細かく探せばまだまだありますが、上記関連のサイトは一切アクセスすることが出来ません。またアクセスすることは出来ても、ほとんどのサイトで画像が全く表示されません。幸いこのGooブログなら画像も表示されるので、今回採用する一員となりました。
やはりアクセスできなくて個人的に痛かったのは、これまでブログを運営していたFC2ブログとBloggerの二つと、Youtubeでした。また画像が表示されないのも地味に痛く、猫の写真が貼られたサイトに行くたびに無念の涙を呑んでおります。私が北京に留学していた頃はYoutubeも見れれば画像も問題なく表示されていたので、ほんの少し前のことなのに随分と昔のことのようにすら感じます。あまり大きな声で言えませんが、細かいことにいちいちビビッてんじゃねぇよと言いたいです。
2011年4月20日水曜日
上海モーターショー
故あって昨日、上海モーターショーに行ってきました。興味ない人にはつまらないかもしれませんが、折角写真も撮ってきたのでいくつかアップしようかと思います。
まず私が行った昨日の開幕日はプレスデーで、報道関係者と自動車関係の業界関係者のみ入場する日でした。何度か上海モーターショーに参加した事のある人に聞いたところ今年はいつもより人が多かったようですが、昔に行った東京モーターショーの一般日に比べれば私は全然少ないように思えました。
それで会場全体の様相を簡単に述べると、やはりこれからっていうこともあって各社電気自動車をどこもかしこも一台は持ってきておりました。ハイブリッド車も多くあり、そのほか最近中国で人気の出ている大型のSUV車などがひな壇を飾っていたのですが、中国の自動社会社は地元メーカーと海外メーカーが車種ごとに合弁会社を作って複雑に絡み合っているようなもので、いちいち見ていてどこがどのメーカーだかで激しく混乱させられました。一回細かく調べてここで紹介してみるのもいいかもしれないけど。
まず目を引いたのはアメリカのZAP社が持ってきた三輪自動車です。正面から見るとただのいかつい車ですが、後ろを見てみると見事なまでの一輪で、なかなか意匠の良さを感じます。ただ重量配分間違えるとスリップ時にぶっ飛びそうで怖いんだけど。
次はおなじみトヨタのプリウス。下手に派手なコンセプトカーを見せるよりこうして性能が裏打ちされた車を持ってくる方が私としては評価ポイントが高く、トヨタの堅実さを感じます。ただ写真を撮る前にこの舞台でなんか変なショーが始まっちゃって、最初にとった写真はこんなでした。
自分で撮っておきながら、なんでこんなの撮ったんだろうと悩む一枚です。
このほか同じプリウスだとコンセントで充電する電気自動車バージョンもありましたが、スバルと共同開発(丸投げ?)しているスポーツカーのFT-86はあるかなと思ってきたら、こんなのだけしかきてませんでした。
これも電気自動車でFT-EVって書かれてますが、多分ベースはアイQでしょう。お世辞にもデザインにセンスは感じられません。
この写真は吉利汽車の、確か「熊猫(パンダ)」という車種です。国産メーカーの中でもこの吉利汽車は比較的小型車を製作しており、この車種もインターネットで販売するなどそこそこ支持がされております。私はでかい車よりこうした小さい車のが好きなので、こっちのメーカーの中でも好感を強く持つメーカーです。
続いてのこの写真は、今度中国に進出してくる光岡自動車のオロチです。今の中国だと下手に量産車売るよりこういった高級で派手な車のが売れる傾向があるので、三岡の進出はそんなに間違っていないんじゃないかと思います。それにしても派手だなぁ。
同じ見栄えで言ったらこっちのスバルインプレッサが白眉でしょう。全車種を通してみてもこのインプレッサのメタリックブルーの塗装は映えており、私の中でも特に好きな車です。ただ個人的にはシンプルイズベストの初代インプレッサの方が好きで、下の写真のような画像をよくパソコンの壁紙にしてます。
でもっていよいよ私が贔屓にしてやまない三菱自動車ですが、はっきりってここのブースはガラガラもいいところでした。こういうのもなんですが置いてある車に目玉がなく、コンセプトカーも何が言いたいのかよくわからないこの二台でした。
もう少し配色とか、派手さがあっていいと思う。
あと中国で売る予定はないからでしょうが、世界初の量産電気自動車のアイ-Miev位はこっちにも持ってきて欲しかったです。日本市場での対抗馬となる日産リーフはいきなり不具合連発で五千台回収にあっているのだからここぞとばかりにPRしてもらいたいものですが、アイ-Mievはレアアース不足で一日三十台くらいしか作れないと聞きますし、中国に持ってくるのもなんか皮肉な気もしないでもありません。
そんな三菱のブースに多かったのは、一応のフラグシップカーのランサーです。日本ではギャランフォルティスの車名で売られていますがこっちはランサーエボリューションともどもランサーの名前で売られてます。ランエボの場合は「ランサーエックス」、ギャランフォルティスの場合は「ランサーイーエックス」で、なんか見ていていろいろ紛らわしくなります。
この車はフロントマスクは悪くはないもののバック部がずんぐりむっくりしたデザインで、以前のランサーほど好きになれません。むしろスバルのインプレッサのようにハッチバック仕様に統一してしまえばよかったような気すらします。ちなみにギャランフォルティスのスポーツバックであればハッチバックはありますが、値段が結構高い(190万円から)ので自分は全く買う気は起きませんでした。だったらインプレッサは150万円からだし、みんなこっちを選ぶよなぁ。
最後はマツダのコンセプトカーです。ここの会社は全くブラックな噂しか聞きませんがデザインはやっぱり群を抜いてて、こうしたコンセプトカーもいつも面白いものを出してきます。トヨタもトヨタでいろいろ言われていますが、社員や取引先に販売する際は二、三万円は割り引いて販売するのに対して、マツダは取引先だろうが下請けだろうが無理やり定価で買わせるそうです。真偽については責任は持ちませんが、技術はあるのにもったいないなぁという気がよくします。
補足
何故か一部のアルファベットを全角で入力して投稿するとそこで文章が途切れてアップされてしまう現象が発生しました。恐らくブログの仕様でしょうが、これから運営にも確認をしてみるつもりです。そのため該当箇所はカタカナでと書き直して表記していますので、あまり気にしないでもらえると助かります。
まず私が行った昨日の開幕日はプレスデーで、報道関係者と自動車関係の業界関係者のみ入場する日でした。何度か上海モーターショーに参加した事のある人に聞いたところ今年はいつもより人が多かったようですが、昔に行った東京モーターショーの一般日に比べれば私は全然少ないように思えました。
それで会場全体の様相を簡単に述べると、やはりこれからっていうこともあって各社電気自動車をどこもかしこも一台は持ってきておりました。ハイブリッド車も多くあり、そのほか最近中国で人気の出ている大型のSUV車などがひな壇を飾っていたのですが、中国の自動社会社は地元メーカーと海外メーカーが車種ごとに合弁会社を作って複雑に絡み合っているようなもので、いちいち見ていてどこがどのメーカーだかで激しく混乱させられました。一回細かく調べてここで紹介してみるのもいいかもしれないけど。
まず目を引いたのはアメリカのZAP社が持ってきた三輪自動車です。正面から見るとただのいかつい車ですが、後ろを見てみると見事なまでの一輪で、なかなか意匠の良さを感じます。ただ重量配分間違えるとスリップ時にぶっ飛びそうで怖いんだけど。
次はおなじみトヨタのプリウス。下手に派手なコンセプトカーを見せるよりこうして性能が裏打ちされた車を持ってくる方が私としては評価ポイントが高く、トヨタの堅実さを感じます。ただ写真を撮る前にこの舞台でなんか変なショーが始まっちゃって、最初にとった写真はこんなでした。
自分で撮っておきながら、なんでこんなの撮ったんだろうと悩む一枚です。
このほか同じプリウスだとコンセントで充電する電気自動車バージョンもありましたが、スバルと共同開発(丸投げ?)しているスポーツカーのFT-86はあるかなと思ってきたら、こんなのだけしかきてませんでした。
これも電気自動車でFT-EVって書かれてますが、多分ベースはアイQでしょう。お世辞にもデザインにセンスは感じられません。
この写真は吉利汽車の、確か「熊猫(パンダ)」という車種です。国産メーカーの中でもこの吉利汽車は比較的小型車を製作しており、この車種もインターネットで販売するなどそこそこ支持がされております。私はでかい車よりこうした小さい車のが好きなので、こっちのメーカーの中でも好感を強く持つメーカーです。
続いてのこの写真は、今度中国に進出してくる光岡自動車のオロチです。今の中国だと下手に量産車売るよりこういった高級で派手な車のが売れる傾向があるので、三岡の進出はそんなに間違っていないんじゃないかと思います。それにしても派手だなぁ。
同じ見栄えで言ったらこっちのスバルインプレッサが白眉でしょう。全車種を通してみてもこのインプレッサのメタリックブルーの塗装は映えており、私の中でも特に好きな車です。ただ個人的にはシンプルイズベストの初代インプレッサの方が好きで、下の写真のような画像をよくパソコンの壁紙にしてます。
でもっていよいよ私が贔屓にしてやまない三菱自動車ですが、はっきりってここのブースはガラガラもいいところでした。こういうのもなんですが置いてある車に目玉がなく、コンセプトカーも何が言いたいのかよくわからないこの二台でした。
もう少し配色とか、派手さがあっていいと思う。
あと中国で売る予定はないからでしょうが、世界初の量産電気自動車のアイ-Miev位はこっちにも持ってきて欲しかったです。日本市場での対抗馬となる日産リーフはいきなり不具合連発で五千台回収にあっているのだからここぞとばかりにPRしてもらいたいものですが、アイ-Mievはレアアース不足で一日三十台くらいしか作れないと聞きますし、中国に持ってくるのもなんか皮肉な気もしないでもありません。
そんな三菱のブースに多かったのは、一応のフラグシップカーのランサーです。日本ではギャランフォルティスの車名で売られていますがこっちはランサーエボリューションともどもランサーの名前で売られてます。ランエボの場合は「ランサーエックス」、ギャランフォルティスの場合は「ランサーイーエックス」で、なんか見ていていろいろ紛らわしくなります。
この車はフロントマスクは悪くはないもののバック部がずんぐりむっくりしたデザインで、以前のランサーほど好きになれません。むしろスバルのインプレッサのようにハッチバック仕様に統一してしまえばよかったような気すらします。ちなみにギャランフォルティスのスポーツバックであればハッチバックはありますが、値段が結構高い(190万円から)ので自分は全く買う気は起きませんでした。だったらインプレッサは150万円からだし、みんなこっちを選ぶよなぁ。
最後はマツダのコンセプトカーです。ここの会社は全くブラックな噂しか聞きませんがデザインはやっぱり群を抜いてて、こうしたコンセプトカーもいつも面白いものを出してきます。トヨタもトヨタでいろいろ言われていますが、社員や取引先に販売する際は二、三万円は割り引いて販売するのに対して、マツダは取引先だろうが下請けだろうが無理やり定価で買わせるそうです。真偽については責任は持ちませんが、技術はあるのにもったいないなぁという気がよくします。
補足
何故か一部のアルファベットを全角で入力して投稿するとそこで文章が途切れてアップされてしまう現象が発生しました。恐らくブログの仕様でしょうが、これから運営にも確認をしてみるつもりです。そのため該当箇所はカタカナでと書き直して表記していますので、あまり気にしないでもらえると助かります。
2011年4月18日月曜日
複数人による犯罪の裁き方 後編
昨日の記事に引き続き、複数人による犯罪をどう裁くかについて書いていきます。
簡単に前回のおさらいをすると、人間は一人でいる時よりも複数人でいる時の方が抑制が効き辛く、犯罪にも手を出しやすくなるなるということを前提にします。その上である犯罪を複数人が実行した場合、一人がその犯罪を実行した時に課す刑罰を三人全員に課すべきか、それとも役割分担などによって分散などといった差別化を行うべきかという問題提起を行いました。
この問題について以前に友人と議論したのですが、議論のポイントは集団心理による心理的ハードルの低下を人間性として考慮すべきかどうかでした。これは以前にも書きましたが日本の刑法というのは基本的にはどうすればその犯人を更正できるかという視点で組まれており、更正させるために一年が必要なら懲役一年の判決となり、更正が不可能と判断されれば死刑となります。この更正できるかどうかを判断する上で何が重要となるかといえば言わずもがなの人間性で、私利私欲で犯罪を行ったのか、始めからその犯罪を実行することによって起こり得る結果を知っていたのか、実行後に後悔や反省をしているのかというのがポイントとなり、実際の裁判でもこういった点が審議されるようになります。
私が複数人の犯罪に対する刑罰について考えたのは、一人では自己抑制が利いてためらうような犯罪行為を複数でいたために実行してしまった場合についてです。一人だったらきっとそんな犯罪を実行しなかっただろうけど、仲間にほだかされて実行してしまった人に対してはまだ更正の余地があるとみて通常より減刑するべきかどうかといった具合に考えたのですが、この問いに対する友人の意見はというと、少なくとも犯罪を実行する段階でそれがどのように帰結するかは大抵わかるはずだとして、確かにそれを人間性と見ることは出来るとしても減刑の必要はないと答えました。その上で最初の問いである一つの犯罪を複数人で実行した場合でも役割によって分散させることなく全員が等しく同じ刑罰、つまり一人がその犯罪を実行した際に受ける刑罰を受けるべきだと主張しました。この友人の意見に私も同感です。
ただ二人とも全部が全部この原則を当てはめるべきでないとして、たとえば主犯格に強く脅迫されて加担してしまったとか、オウム事件などのように強力なマインドコントロールなどを施された場合はその程度に応じて減刑、場合によっては無罪とする必要があるという意見で一致しました。原則は原則として持つとしても杓子定規的に当てはめるのではなく、やはりケースバイケースで一つ一つの事件を裁くべきだとしました。
今回この記事で書いた内容は当初は頭の中にしまっておいて書くまでもないだろうと考えていたのですが、昨日に取り上げた連続リンチ殺人事件に続きちょっと考えさせられる事件の判決が出たことをきっかけに書く決心をしました。
・闇サイト殺人事件(Wikipedia)
この事件は「闇の職業安定所」というサイトを通じて知り合った男三人が大金を稼ぐ目的で始めから犯罪をするために集まり、帰宅途中の女性を殺害して現金やクレジットカードを奪ったという事件です。一審では二人に死刑、自首した一人に無期懲役刑という判決が下りましたが、一審判決に対して控訴しなかった主犯格の男は死刑で確定したもののつい先日に下りた二審判決では一審で死刑だった男、無期懲役刑だった男の二人に対して無期懲役が下りました。
普通に考えるなら、あくまで普通に考えるのなら確かに自首してきた男に対しては減刑もあり得るかもとも思えますが、そもそもこの三人は始めから殺人をも想定した犯罪を行う目的で集まって実際に殺人を実行しております。そんな人間に対して果たして自首したからといって減刑を行う必要があるのかとなると強く疑問を覚えます。また一審死刑から二審で無期懲役刑となった男についても、死刑が確定した主犯格の男が殺害を主導したとしても始めから殺害をも想定した犯罪に加担しておきながら何をかという思いがします。
この記事では敢えて「複数人による犯罪」と記述し、「集団犯罪」とは書きませんでした。法律的な定義を知っているわけでもなく具体的な違いを意識したわけではありませんが、集団犯罪と書くとなにか意味が異なるような感じがして使う気にはなれませんでした。私自身が個人主義思想が強いことが影響していると思いますが、すべての行動の帰結や責任は集団ではなく基本的には個人が請け負うべきだと考えております。今回取り上げた例はやや極端なものといえるかもしれませんが、集団や組織にいるからといって責任が分散されることはないという原則は集団に染まりやすい日本人だからこそ大事にするべきではないかということでまとめさせていただきます。
簡単に前回のおさらいをすると、人間は一人でいる時よりも複数人でいる時の方が抑制が効き辛く、犯罪にも手を出しやすくなるなるということを前提にします。その上である犯罪を複数人が実行した場合、一人がその犯罪を実行した時に課す刑罰を三人全員に課すべきか、それとも役割分担などによって分散などといった差別化を行うべきかという問題提起を行いました。
この問題について以前に友人と議論したのですが、議論のポイントは集団心理による心理的ハードルの低下を人間性として考慮すべきかどうかでした。これは以前にも書きましたが日本の刑法というのは基本的にはどうすればその犯人を更正できるかという視点で組まれており、更正させるために一年が必要なら懲役一年の判決となり、更正が不可能と判断されれば死刑となります。この更正できるかどうかを判断する上で何が重要となるかといえば言わずもがなの人間性で、私利私欲で犯罪を行ったのか、始めからその犯罪を実行することによって起こり得る結果を知っていたのか、実行後に後悔や反省をしているのかというのがポイントとなり、実際の裁判でもこういった点が審議されるようになります。
私が複数人の犯罪に対する刑罰について考えたのは、一人では自己抑制が利いてためらうような犯罪行為を複数でいたために実行してしまった場合についてです。一人だったらきっとそんな犯罪を実行しなかっただろうけど、仲間にほだかされて実行してしまった人に対してはまだ更正の余地があるとみて通常より減刑するべきかどうかといった具合に考えたのですが、この問いに対する友人の意見はというと、少なくとも犯罪を実行する段階でそれがどのように帰結するかは大抵わかるはずだとして、確かにそれを人間性と見ることは出来るとしても減刑の必要はないと答えました。その上で最初の問いである一つの犯罪を複数人で実行した場合でも役割によって分散させることなく全員が等しく同じ刑罰、つまり一人がその犯罪を実行した際に受ける刑罰を受けるべきだと主張しました。この友人の意見に私も同感です。
ただ二人とも全部が全部この原則を当てはめるべきでないとして、たとえば主犯格に強く脅迫されて加担してしまったとか、オウム事件などのように強力なマインドコントロールなどを施された場合はその程度に応じて減刑、場合によっては無罪とする必要があるという意見で一致しました。原則は原則として持つとしても杓子定規的に当てはめるのではなく、やはりケースバイケースで一つ一つの事件を裁くべきだとしました。
今回この記事で書いた内容は当初は頭の中にしまっておいて書くまでもないだろうと考えていたのですが、昨日に取り上げた連続リンチ殺人事件に続きちょっと考えさせられる事件の判決が出たことをきっかけに書く決心をしました。
・闇サイト殺人事件(Wikipedia)
この事件は「闇の職業安定所」というサイトを通じて知り合った男三人が大金を稼ぐ目的で始めから犯罪をするために集まり、帰宅途中の女性を殺害して現金やクレジットカードを奪ったという事件です。一審では二人に死刑、自首した一人に無期懲役刑という判決が下りましたが、一審判決に対して控訴しなかった主犯格の男は死刑で確定したもののつい先日に下りた二審判決では一審で死刑だった男、無期懲役刑だった男の二人に対して無期懲役が下りました。
普通に考えるなら、あくまで普通に考えるのなら確かに自首してきた男に対しては減刑もあり得るかもとも思えますが、そもそもこの三人は始めから殺人をも想定した犯罪を行う目的で集まって実際に殺人を実行しております。そんな人間に対して果たして自首したからといって減刑を行う必要があるのかとなると強く疑問を覚えます。また一審死刑から二審で無期懲役刑となった男についても、死刑が確定した主犯格の男が殺害を主導したとしても始めから殺害をも想定した犯罪に加担しておきながら何をかという思いがします。
この記事では敢えて「複数人による犯罪」と記述し、「集団犯罪」とは書きませんでした。法律的な定義を知っているわけでもなく具体的な違いを意識したわけではありませんが、集団犯罪と書くとなにか意味が異なるような感じがして使う気にはなれませんでした。私自身が個人主義思想が強いことが影響していると思いますが、すべての行動の帰結や責任は集団ではなく基本的には個人が請け負うべきだと考えております。今回取り上げた例はやや極端なものといえるかもしれませんが、集団や組織にいるからといって責任が分散されることはないという原則は集団に染まりやすい日本人だからこそ大事にするべきではないかということでまとめさせていただきます。
2011年4月17日日曜日
複数人による犯罪の裁き方 前編
・大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(Wikipedia)
先日、上記にリンクを貼った事件での被告三人に対し、最高刑である死刑が確定しました。最高裁の上告棄却時にはニュースとなって大きく報道されていたので知っている方も多いと思われますがこの事件の概要を簡単に私から説明すると、当時未成年だった三人の犯人はわずか十日間の間、何の落ち度もない人間四人を金銭恐喝目的などのため凄惨なリンチを加えて殺害しました。しかも捕縛後の裁判では犯人らは未成年ゆえに死刑になることはないなどと遺族を愚弄するような発言を繰り返し、反省する態度はほとんど見せることがなかったそうです。
結局一審では主犯格の一人が死刑、残りの二人が無期懲役となりましたが、続く二審では三人ともに死刑となり、今回の最高裁の棄却で高裁での判決が確定することとなりました。確定時のニュースでは犯行当時未成年だった人間に死刑が下りたというほかに、一度の事件で複数人に同時に死刑が下りたという点が強く取り上げられていたように思います。
この事件と判決に対する私の感想を述べると、その犯行の凄惨さといい犯人らの態度を見るにつけ死刑以外は考えられず、高裁、並びに最高裁の判断を支持します。ただ今回の判決を受け、複数人による犯罪では責任と刑罰は分散するのか、という点についてすこし思うところがありました。言い換えるなら、一人で一人を殺害するのに対して三人で一人を殺害するのとでは、その処罰は変わってくるのかということです。
私が今回のこの連続リンチ殺人事件の判決を報じるニュースを見た際に真っ先に思い浮かんだのは、かなり古いですが推理漫画というジャンルを開拓した「金田一少年の事件簿」の小説版第三巻、「電脳山荘殺人事件」という本でした。元々の漫画が推理漫画なだけにこの小説ももちろんミステリー小説なのですが、作中でミステリーマニアの集まりが完全犯罪の実行を目論見、確か八人くらいで役割を分担して目標とした人物の殺害を実行する話があります。
これだけ見るのならミステリーによくある話なのですが、なかなかに印象的だったのはこの時の殺人を追及された際の犯人メンバーの中の一人が、「私は電話をかけただけだ」と弁解するシーンです。
かなり昔に読んだので記憶がやや曖昧ですが、そのミステリーマニア達が殺人の際に一人一人が分担した作業というのは実に小さな作業の連続で、
・偽の電話をかけておびきだす
・あらかじめ電話ボックスのガラスを一部割っておく
・洗剤を捨てておく
などとさすがに全部は覚えていないのですが、こんな具合に小さな作業を組み合わせて殺人を実行してしまうのです。この殺人について主人公の金田一一はその手口以上に、作業の分担により犯人たちが殺人に対して覚える罪の呵責が非常に小さい点が特徴だと指摘します。正直なところ、本編のトリックは忘れてしまったにもかかわらずこの点に関しては未だに強く記憶に残っております。
このような一人では出来ないことも複数人ならやってしまうということは、みんなが渡るのを見て赤信号を一緒に渡ってしまうといったように実際の日常生活でも多々あるかと思います。複数人でいる場合、集団心理でも言うべきか倫理観などといった行動を規制するハードルというのは得てして下がるものです。
私が今回の連続リンチ殺人事件で考えたのはまさにこの点でした。無論この連続リンチ殺人事件の犯人らの行動は許し難く死刑もやむを得ないと思うものの、今後このような複数人によって実行される犯罪には、「ほかに仲間がいたから」という意識が犯行を決心する上で後押ししたのかということを裁判で考慮すべきかどうかということで少し悩みました。また同時に、一つの犯罪を共同で実行した犯人全員に、一人がその犯罪を実行した際に与えら得る刑罰を全員に課すべきなのか、役割分担の内容で刑に差別化(分散)を行うべきなのか、先日に友人と簡単に議論をしたわけです。
ちょっと長くなったので、久々に前後編に分けます。続きは次回にて。
先日、上記にリンクを貼った事件での被告三人に対し、最高刑である死刑が確定しました。最高裁の上告棄却時にはニュースとなって大きく報道されていたので知っている方も多いと思われますがこの事件の概要を簡単に私から説明すると、当時未成年だった三人の犯人はわずか十日間の間、何の落ち度もない人間四人を金銭恐喝目的などのため凄惨なリンチを加えて殺害しました。しかも捕縛後の裁判では犯人らは未成年ゆえに死刑になることはないなどと遺族を愚弄するような発言を繰り返し、反省する態度はほとんど見せることがなかったそうです。
結局一審では主犯格の一人が死刑、残りの二人が無期懲役となりましたが、続く二審では三人ともに死刑となり、今回の最高裁の棄却で高裁での判決が確定することとなりました。確定時のニュースでは犯行当時未成年だった人間に死刑が下りたというほかに、一度の事件で複数人に同時に死刑が下りたという点が強く取り上げられていたように思います。
この事件と判決に対する私の感想を述べると、その犯行の凄惨さといい犯人らの態度を見るにつけ死刑以外は考えられず、高裁、並びに最高裁の判断を支持します。ただ今回の判決を受け、複数人による犯罪では責任と刑罰は分散するのか、という点についてすこし思うところがありました。言い換えるなら、一人で一人を殺害するのに対して三人で一人を殺害するのとでは、その処罰は変わってくるのかということです。
私が今回のこの連続リンチ殺人事件の判決を報じるニュースを見た際に真っ先に思い浮かんだのは、かなり古いですが推理漫画というジャンルを開拓した「金田一少年の事件簿」の小説版第三巻、「電脳山荘殺人事件」という本でした。元々の漫画が推理漫画なだけにこの小説ももちろんミステリー小説なのですが、作中でミステリーマニアの集まりが完全犯罪の実行を目論見、確か八人くらいで役割を分担して目標とした人物の殺害を実行する話があります。
これだけ見るのならミステリーによくある話なのですが、なかなかに印象的だったのはこの時の殺人を追及された際の犯人メンバーの中の一人が、「私は電話をかけただけだ」と弁解するシーンです。
かなり昔に読んだので記憶がやや曖昧ですが、そのミステリーマニア達が殺人の際に一人一人が分担した作業というのは実に小さな作業の連続で、
・偽の電話をかけておびきだす
・あらかじめ電話ボックスのガラスを一部割っておく
・洗剤を捨てておく
などとさすがに全部は覚えていないのですが、こんな具合に小さな作業を組み合わせて殺人を実行してしまうのです。この殺人について主人公の金田一一はその手口以上に、作業の分担により犯人たちが殺人に対して覚える罪の呵責が非常に小さい点が特徴だと指摘します。正直なところ、本編のトリックは忘れてしまったにもかかわらずこの点に関しては未だに強く記憶に残っております。
このような一人では出来ないことも複数人ならやってしまうということは、みんなが渡るのを見て赤信号を一緒に渡ってしまうといったように実際の日常生活でも多々あるかと思います。複数人でいる場合、集団心理でも言うべきか倫理観などといった行動を規制するハードルというのは得てして下がるものです。
私が今回の連続リンチ殺人事件で考えたのはまさにこの点でした。無論この連続リンチ殺人事件の犯人らの行動は許し難く死刑もやむを得ないと思うものの、今後このような複数人によって実行される犯罪には、「ほかに仲間がいたから」という意識が犯行を決心する上で後押ししたのかということを裁判で考慮すべきかどうかということで少し悩みました。また同時に、一つの犯罪を共同で実行した犯人全員に、一人がその犯罪を実行した際に与えら得る刑罰を全員に課すべきなのか、役割分担の内容で刑に差別化(分散)を行うべきなのか、先日に友人と簡単に議論をしたわけです。
ちょっと長くなったので、久々に前後編に分けます。続きは次回にて。
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