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2012年3月3日土曜日

完璧を求め過ぎるが故の弊害

 去年に香港に出張する直前、よく通っていた自宅近くの日本食屋が閉店しました。移り変わりの激しい上海ならではなのですが、週に一度、そこの定食を食べるのが楽しみだっただけに出張が終わった後の休日はなんだか物足りなさを感じておりました。そこで先週からまた別の日本食屋を見つけ、毎週金曜にそこで昼食を取るのが習慣となってきているのですが、昨日に訪れた際に唐揚げ定食を頼んだところ、ご飯が盛られた茶碗が少し欠けているのを見つけました。

 欠けていると言っても本当にごく一部分で、食べるに当たっては全く問題のない程度です。この欠けた茶碗を見て私は、「欠けたからと言ってすぐに捨てたりせず、物を大事に使うお店なのだな」と感心したのですが、こう思うと同時にほかの日本人が見たらどう思うのかがやや気になりました。
 恐らく日本人みんながそうだとは信じたくはないですが、一部の日本人は間違いなく、「欠けた茶碗を客に出すなんて、なんて失礼な店なんだ」と憤慨した気持ちを持つかと思います。何をどう思おうがそれこそ人の勝手ですが、こうした価値観が社会全体で持たれるというのは私にとってはあまり好ましくありません。言うなれば完璧であること、欠損のないことが当たり前だと信じられる社会は面倒だということで、今日はその辺について少し批評を書きます。

 まず大前提として、あくまで私の目からですが日本人というのはやはり完璧主義がほかの国より強いという印象を受けます。製品の品質はどれも画一的に高い上、少しでも欠点があろうものなら改善していこうという意識が自然と持たれているように見えます。このような「ものつくり」に対する完璧主義は美徳この上ないのですが、これが社会意識、というか人間自体にまで適用されるというのは面倒この上ありません。
 一気に核心を突いた内容を書くと、今の日本の雇用は障害や病気を持った人間はおろか、「出来て当たり前」という慣習に対応できない人間に対してあまりにも冷たすぎる気がします。具体例を挙げると「深夜まで残業が出来ない」、「仕事より家庭優先」、「業務外の会社行事に顔を出さない」ような人たちは採用面接であまりいい目で見られないでしょう。またそれこそ慢性病を持ってて数ヶ月に一回程度の診察が必要だと言ったら、たとえその人がどれだけ優秀であろうともこの時点で不採用とする企業もあるかもしれません。

 さっきの欠けた茶碗についても同様です。道具としての機能に問題がないとしてもほんの一点がほかの完成品と異なるがゆえ、それ全部を廃棄してしまうのは無駄なことこの上ありません。さらに言えばサービスの質だって、どうでもいいようなミスを完璧じゃないからと言って激しく憤慨するなど以ての外でしょう。
 以上のように完璧を自己に求めるのならともかく、外に求め過ぎなところが日本人にはあるかと思います。無論、こうして外に対しても強く求め続けてきたことで高い品質と信頼を培ってきたとも言えますが、その一方で大きな弊害も生んでしまい、現時点では意外と弊害の方が大きくなっているのではないかとこの頃感じます。

 ただこう感じる一方、改善されつつあるのではないかと思う節があります。一つはアルコールに対する社会認識で以前であればそれこそ飲めない社会人は人じゃないという認識が強かったようですが今はそれほどでもなく、またB反市などのように「使う分に問題がないのなら安いものでいい」と買い求める人も増えております。
 しかしハンデを持つ人間の就労についてはまだ議論する、対応する余地がかなり広いかと思います。言ってしまえば健康で一通り何でもできる人間だけの職場にハンデを持つ人間を入れようものなら、普通の人を雇うのと比べて高いコストを支払うこととなります。しかしる一点を以ってハンデを持つ人間を雇用しなければ、その人ひとり分の労働力を丸々捨てるようなもので、これが社会全体でやってるとすれば無駄遣いこの上ないのではないのかと、食後に出されたまずいコーヒーを飲みながら考えていたわけです。

2012年3月2日金曜日

上越新幹線「とき325号」脱線事故を振り返る

 金土休みなので今日は朝はゆっくり眠ろうと思ったら、なんかやけに早く目が覚めて9時から始動してました。ちなみにこのところ毎週どちらかの休みに取材が入っていたので、明日からまた上海で日本系物産展が開かれるという情報がありましたが敢えて黙殺し、取材拒否しました。先週も同じの、というより日中国交正常化40周年記念の物産展に出て行ったし、内容被るのもあれなんで。
 ちなみにその40周年記念の物産展ですが、やっぱり南京市で開く予定だった催しは例の河村市長の発言が原因で中止になったようです。ちょこっとだけ書くと、仮に日本側が何らかのアクションを足らずに正常通りに開催していたら南京市政府が地元住民にシャレ抜きで襲われてしまうので私は中止も仕方ないと思います。まぁこれも煽る材料になるのでしょうが。

上越新幹線脱線事故(Wikipedia)

 話は今日の本題に移りますが、思うところがあるので2004年に起きた上越新幹線脱線事故を取り上げます。この事故は営業中の新幹線としては初の脱線事故となり、ウィキペディアの記事中にも書かれていますが「安全神話崩壊」、「地震に新幹線は弱い」などと当時のメディアには散々に騒がれましたが、私はこの事故はアポロ13に次ぐ程の偉大なる事故だと考えております。

 まず事故当時の状況について簡単に説明しますが、「とき325号」が上越新幹線の浦佐駅~長岡駅間を走行中だった最中に最大深度7の新潟県中越地震が襲い、6・7号車を除き計8両が脱線しました。ただ脱線した車両は軌道を大きく外れず、また街頭路線がカーブのない直線で対向車もすぐに運転を停止したことから衝突は起こらず、奇跡的にも死傷者は一人も出ることはありませんでした。
 さらっと事故状況について書いてみましたが、改めて読み直すと実に凄まじい快挙としか言いようがありません。というのも155人の乗客を乗せた列車が時速200キロで走行中に最大震度7の地震を直撃しておきながら、車両が大破しなかったことはおろかけが人を一人も出さないなんて、SF小説でもこんな大げさな内容を書いてもいいのかと思うくらいです。さらに言えば軌道を支える高架橋もこの地震で崩壊しなかったというのも見逃せない事実です。

 実はこの事故について、失敗学の権威である畑村洋太郎氏の寄稿文を事故後に発行された雑誌で読んだことがあります。これも読んだのは8年前のことか、よく覚えてるな……。
 畑村氏もこの脱線事故について「まさに安全工学の勝利」としか言いようのない快挙だと褒め称えており、早期地震検知警報システム「ユレダス」によって非常ブレーキがすぐ作動したことや、脱線を防ぐレール構造、ほかの車両がすぐに運行を止めたシステムなど快挙の要因を素人の自分にもわかるほど丁寧に説明しておりました。ただその一方で、「単純に運が良かった点も見逃せない」として、事故車両の特徴について指摘がありました。畑村氏によると事故の起きた車両はやや古い車両で、最新の新幹線車両と比べて重心が低い構造だったらしいです。仮に車重が少ない最新型の車両であればこうもうまくいったかとなると議論の余地があるとして、今後はこの点にも注意して車両設計などを進める必要があると、勝って兜の緒を締めるようなすごくかっこいいセリフと共に文をまとめておりました。

 私が今回何故この事故を取り上げようかと思ったのかですが、自宅で暇な時間にネットサーフィンしている最中にこの事故に関連する記事を読んだとの共に、普段からの安全対応においてJRと東電に大きな乖離を感じたからです。JRは地震に対してこれほどまでに対策を備えてバッチリな対応をしたのに対し、東電は確実に予想された津波に対して、下手すればまだはっきりしていないものの地震を受けた時点で駄目になっていた可能性すらあります。
 あとこれは人づてに聞いた話ですがベント解放の一件についても、管元首相と東電の実態について明確な認識の違いがあったと聞きます。ベント解放は放射能を十分に含んだ蒸気を開放する最後の手段であるため他のパイプとは独立したパイプで用意した上、作業員が被爆しないように遠隔操作で出来るようになっているのが世界の原発の標準だそうです。東工大出身の管元首相はそういう認識でベント解放を指示したそうですが、福島原発のベント用パイプは独立しておらず、かつ手動で開放しなければならない代物でそれで東電が躊躇したのではという話を聞きました。仮に事実であればこの一件でも、如何に東電の事故対応が甘かったのかと思い知らされます。

 またさらに言うと、これは今回記事を書くに当たって調べ直している最中に感じたことですが、仮に東日本大震災時の首相が小泉元首相だったらどうだったのか、少し気になりました。というのも新潟県中越地震の際は確かに規模は東日本大震災ほど大きくなかったものの、私の記憶では目立った混乱はなく政府の対応なども極端に的外れなものはありませんでした。私が東日本大震災の政治対応で何より許せなかったのは自民もそろって不信任下決議をしたり、民主党内で内紛をやったりとあんな時期に権力争いをしてたことで、なんていうか8年前と比較してがくっと元気なくなります。

2012年3月1日木曜日

マスコミ業界人の態度について

 かなり以前に官邸記者会見での質問を巡って、「記者の態度が横柄過ぎる」という議論がありました。この態度というのは質問する際の態度を指してて、いくら報道を追及するためとはいえ回答者に対して「何で答えないんですか」などと脅迫するような言い口がやり玉に挙がったものです。この議論が起きている最中に今回書く内容を書いても良かったのですが、ちょっと思うところがあるというか敢えて先延ばしにして、書くネタに困った今日に書くこととなったわけです。

 話をする前に自分の話をしますが、私は経歴としてはかなり変わった過程を経て現在マスコミ業界に身を置いております。別に隠す必要もないので自ら明かしますが、最初は日本で商社に入って、次に中国でメーカー、そして現在の経済紙記者となったわけですが、取材先とかで他のメディアの人たちと世間話する際に自己紹介すると、決まって私の経歴には驚かれます。まぁ向こうとしたらなんで中国語を使う専門的なメディアに未経験者が……ってな感じに見えるのでしょうが。
 そういうこともあるので日々働いている中でたまに、ある種の間隔のズレというものを感じます。もう結論から言ってしまえば、やはりマスコミ業界の人たちには横柄な輩が多いと私は感じます。一例を挙げると、ある式典で運営側がカメラ撮影の制限について説明したところ、まだその人が話をしている最中だというのにある日系国営メディアのカメラマンは、「それでどうやって撮影しろってんだよ!」と、かなりドスの利いた文句を聞こえよがしに言い始めました。それこそもし自分が運営側だったら、「だったらお帰りいただいて結構です」と言いたくなるくらい嫌味な言い方でした。なおその撮影制限は私の目からすると大したものではなく、この際はキヤノンのカメラでしっかり主賓らの撮影に私は成功しております。

 この例に限らず何かと相手を脅かすような言い方で質問したりとか、こっちは取材して取り上げてやるんだからと明らかな上から目線で迫るような人も多いです。記者魂とか記者根性とかいくらでもきれいな言い方をすることが出来ますが、イギリスのことわざの「いい弁護士は悪い隣人」のように、あまりそばにいてもらいたくないような人も少なくないです。
 私の場合は媒体が媒体であることと、年齢がまだ低いこともあるのでどちらかというと下手に出て同情を引くように話を引き出すことが多いです。ちなみにここだけの話、相手が話す内容を既に知っているかのような素振りをするとその先の話を聞き出しやすいです。

 書こうと思えばかける内容はまだとってありますが、このところ友人らが忙しいのかコメントを書いてくれないのでちょっとニーズが汲み取りづらい状況が続いています。何かこのテーマで書いてほしいものがあれば、どなたでも構わないのでコメント欄に書いていただくと幸いです。

2012年2月29日水曜日

自民党の憲法草案について

 日本はまた大雪だそうですが、上海はこのところ長雨が続いております。あともうそろそろ春ですが、毎年春に苦しい思いをしてるのでどうもこの時期は何もなくても気分が落ち込みやすいです。まぁ去年の今頃と比べれば随分と環境はよくなっているのは間違いありませんが。

天皇は「元首」、国旗国歌は「表象」 緊急事態条項も 自民憲法改正原案(産経新聞)

 そうした自分のどうでもいい気分はほっといて、今日は自民党が作成しているという憲法草案について意見を書きます。
 恐らく来年の選挙対策だと思いますがどうも自民党は独自の憲法改正案を作っているようで、先日にその概要が簡単に報道されました。あくまで概要なだけなので詳細はこれから変わってくるかと思いますが、上記リンク先の記事によると天皇を「元首」と明記し、集団的自衛権や自衛隊の存在を認めるという、鳥取にいる私の友人が見たらそれこそ激怒しそうな内容となっております。なんかこう書くと鳥取がそれっぽい地域に見えるな。

 まずこれら概要に対する意見ですが、私が目についたのはやはり天皇を元首とする点でした。あくまで概要なので文句つけるのも早すぎる気もするのですが、私は現在の象徴天皇制というのはとてもよく機能しており、ことさら変更する必要があるかとなると疑問です。既に一部で突っ込まれていますが、この天皇を元首とする案については国民主権と明確に矛盾することになり、改正することでどのような効果があるのかを発信せずにこのように概要として出すというのはいささか信じられません。
 敢えて勘ぐるならやはり、保守派に支持層に対するPRではないかと思います。仮にそうだとしたら非常に残念で、政権交代によって民主党は与党となりこれまでの野党のように好き勝手言えるわけがないということを徐々に、あくまで徐々にですが理解し始めてきましたが、下野した自民党がどんどん野党らしくなってきたというのは誠に残念です。

 次に気になった点は、憲法改正の条件を現在の三分の二以上の賛成が必要とする条件を二分の一とする案ですが、これについては素直に賛成です。この改正案は要するに改正しづらい硬性憲法から軟性憲法変えるという内容ですが、別に今の日本国憲法が極端に問題だとは思わないものの、硬性憲法というものは得てしてその書かれている内容より解釈議論が複雑になりやすく、議論が途中からわけのわからないものになりやすい点から言ってやはり良くないと考えます。さらに言えば戦前の大日本帝国憲法も天皇から国民へ与えるいわゆる欽定憲法であったことから改正することは事実上不可能であって、旧日本政治システムの最大の欠陥である軍部大臣現役武官制が誰の目に見ても問題であったにもかかわらず存続し続けた過去があります。
 といっても軟性憲法下で生活したことがないのでどういう風に変わるかまではさすがに想像しきれない点は認めますが、私は憲法があまりにも強すぎるということは長期的に見て非常にまずいと思うので、この際だから二分の一以上の賛成に変えてしまった方がいいというのが結論です。憲法9条に関しては、あまり興味ないのでどうなってもいいような感じです。

2012年2月27日月曜日

スズキの中国合弁を巡る混乱

 たまには本職の方面でもと思うので、自動車会社スズキの中国合弁で今起きているごたごたについて書きます。ここだけの話、この件については日本人の中でもトップクラスに事情を把握している自負があります。はっきり言って把握したくなかったけど。
 まず事の発端は先月1月、スズキと重慶市本拠の長安汽車の合弁会社、昌河鈴木の工場でストライキが起こりました。このストライキは数日間続いて現地政府を巻き込む大規模なものだったのですが、何故ストライキが起きたのかというと、この昌河鈴木が解散されると報じられたからでした。
 
 詳しい事情を説明する前に中国の自動車業界の構造について簡単に解説します。中国の主要な自動車メーカーというのは基本的に外資こと海外メーカーと提携して合弁会社を作っており、たとえば今一番でかい上海汽車なんかはドイツのフォルクスワーゲン、アメリカのGMと合弁を作っててグループ内で販売している車種のほとんどはこの2社のモデルです。中には一から設計して独自の車種を作ってるメーカーもおりますが、そういった車種は自主ブランド車と呼ばれてそこそこ売れてるのもありますが、ブランド価値ではやはり合弁メーカーの車の方が人気です。
 そこでこの中国自動車業界の合弁なのですが、実は一つ大きな制限があります。その制限というのも、海外メーカーは中国のメーカー2社とだけしか合弁が作れない、というもので実際に日系メーカーを例にとると、

・トヨタ:広汽豊田(広州汽車との合弁)、一汽豊田(第一汽車との合弁)
・ホンダ:広汽本田(広州汽車との合弁)、東風本田(東風汽車との合弁)

 というように同じ日系メーカーでも中国では販売車種によって合弁先が異なっていることがあり、多分私だけじゃないだろうけど中国関係の記者は販売車種と会社名を間違えるような経験が一度や二度はあると思います。自分も最初はややこしくてすごい戸惑ったけど、慣れてしまうと空で暗記できるのだから何故だか怖い。

 話は戻ってスズキの件ですが、現在スズキの中国合弁会社はご多分に漏れず二つあり、一つはストライキのあった昌河鈴木で、もう一つは長安鈴木というブランドです。この合弁会社二社の何がミソなのかというと、両方とも合弁先というのがどちらも長安汽車だということです。昌河鈴木の元々の合弁先は現地航空機メーカーだったのですが、ここが経営不振から昌河鈴木の株を手放して長安汽車に渡してからスズキと長安汽車という同じ組み合わせの企業間で二つも合弁会社を持たれるという妙な関係となってしまいました。
 仮にこれだけだったらまぁおかしな関係だねと笑って済ませるのですが、ここにきて長安汽車はまた一つ厄介な問題を抱えてきて、この問題をさらにややこしくしてくれました。その問題というのも、マツダとの合弁会社の分社化です。

 長安汽車とマツダ、というより長安汽車とマツダとアメリカのフォード三社の合弁会社名は「長安フォードマツダ」というのですが、なんでここだけ三社合弁なのかというとリーマンショック以前にマツダとフォードが資本提携をしていたからで、そのまま二社セットで長安汽車と合弁を作りました。ただマツダとフォードの提携関係はリーマンショック後に金に困ったフォードがマツダの株を売却したことから解消されているものの、既に出来てる長安フォードマツダは何故かそのままで現在に至っております。
 別にこのままでもいいんじゃないかと私は内心思っているのですが、長安汽車としてはマツダはマツダ、フォードはフォードとして分けたいと考えているようで、これまでにも「長安フォードマツダ」を「長安フォード」と「長安マツダ」に分社化させて経営したいと何度も政府に申請しておりました。ただ中国政府は品質などの向上を目指しているのか自動車会社をこれ以上増やしたくないようで、長安汽車から申請されるたびにこれまで何度も提案を却下してきました。なお同じ理由で、スバルと奇瑞汽車の合弁設立申請を認めないようです。

 そんな長安汽車は先月、「昌河鈴木を解散させる代わりに長安フォードマツダの分社化案を政府に申請した」という報道が現地メディアによってなされました。その報道によると昌河鈴木を解散させた後はそこで作っていたスズキの車種は同じ長安汽車グループの長安鈴木に作らせるという内容で、いわば昌河鈴木は完全なお払い箱にされるというものでした。
 これに怒ったのが昌河鈴木の従業員たちで、報道に従業員の処遇について何も書かれてなかったこともあって経営陣に対して完全ケンカ腰の大きなものとなりました。しかもタイミングが悪いというか、実はこの昌河鈴木はずっと赤字続きだったのが去年になってようやく黒字転換したばかりで、恐らく従業員たちからするとようやく経営が良くなってきた矢先に何をという気持ちがあったんだと思います。

 最終的に昌河鈴木の従業員代表、長安汽車幹部、あと地元政府の幹部の三者間で会談が持たれ、昌河鈴木を解散させないと約束することでストライキは沈静化しましたが、昌河鈴木の中国人総経理は責任を取って解任されることとなりました。ただ長安汽車の総経理はこの騒動後、「政府が昌河鈴木を潰せば分社化を認めてくれるって言ったんだって」とインタビューで話しており、ストライキに至る報道内容が事実だったということを認めています。さらにこの長安汽車の総経理は、「それに日本のスズキの方から、昌河鈴木の株を買い取ってくれ(=合弁解消)とも言われていた」と話しており、スズキ側でも昌河鈴木の解散に同調していたと同じインタビューで明かしています。

 現在のところ、この件ではその後の進展は何もありません。私の勝手な予想を言わせてもらえば昌河鈴木と長安鈴木の二社が同じ長安汽車グループに存在しているのは明らかに不自然で、どちらかが解散とまではいかずとも株式交換などによっていつかは合併されることになると思います。ちなみに日本のスズキ側からすると片方がなくなっても合弁先が変わるわけではないので別に痛くもかゆくもなく、この再編計画にはあまり関わっておらず長安汽車に任せているようです。
 もう片方のマツダに関しても、「長安フォードマツダ」を分社化するかどうかであまり大きな影響は受けないようで、長安汽車グループ内の再編ということで一定の距離を置いているように見えます。

 こんな感じで非常に背景がややこしいストライキ事件だったわけですが、この内容を約600文字で記事にまとめた自分は結構すごいんじゃないかと書き終えた時は妙な満足感がありました。もっとも編集会議でこのニュースやれと言われた時は「えー、俺?Σ(゚Д゚;)」ってリアルに思いましたが。
 ただどうせやるんだったらこのブログ記事みたいに、3000文字くらいできちんとまとめて出したかったというのもあるので、こうして改めて書いてみることにしました。文字数は短いに越したことはないけど、やっぱり必要最低限に解説できることは解説しておきたいものです。

2012年2月26日日曜日

次の衆院選はいつなのか

 今年に入りやけに絶好調が続いていて今も感覚とかがやけに鋭い状態が続いているのですが、今日になってようやく自分が疲れていることになんか気が付きました。前にも一回書きましたが、人間満ち足りた状態だと感覚が鈍る傾向があり、逆にちょっと疲れたり打ち込まれている状態の方がものを書くに当たってはいいような気がします。精神的にはあんまよくないかもしれないけど。
 そんなことはさておき本題に移りますが、そろそろ次期衆院選の日程について考えてもいい頃なので、ちょっとこのテーマでこのところ不足しがちな政治記事を書こうと思います。

 まず現在の民主党政権についてですが、野田首相に代わった後は消費税増税論議が大きくなるなど悪くない面もありますが、全体的に見るならやはりまだ実行力に乏しいだけでなくビジョンも小さいため、少なくとも私にとっては不満が多い政権です。ただこうした見方がどうやら大半のようで、詳しい数字は出しませんが支持率も低迷に喘いでおり、この後回復する手段もないことを考えると恐らく解散までこのまま低空飛行をし続けることとなるでしょう。
 それで解散の時期ですが、一応現在の衆議院の任期は2013年8月まであるので最長で1年以上の猶予はあります。ただ基本的に支持率の低い政権は解散したところで負けることが必定なため、恐らく麻生政権同様に任期ギリギリまで粘って民主党は自ら解散に打って出ることはないでしょう。また自民党もはっきり言って民主党以上にひどい状態が続いており、谷垣総裁もオウムみたいに「解散するしかない」としか言わないので決定的なダメージを与えて解散に追い込むことは不可能とこちらは断言します。

 となるとやっぱり来年夏まで持越し、ってことになるわけですが実はこれだと私は非常にまずいんじゃないかと内心考えています。恐らくこんな大胆な考え方をするのは冗談抜きで私だけの可能性もありますが、今私が一番気になっているのはほかならぬ現天皇陛下の容体です。無理して強行する必要はありませんが衆議院の解散には天皇の儀礼がこれまで必要とされているだけに、皇太子が代行することも考えられますが天皇の容体によってはスケジュールがいろいろと面倒になる可能性があるのではと気にしています。
 さらに一ブロガーとして冷徹な意見を言わせてもらうと、仮に来年の春とか夏頃に万が一のことがあった場合は選挙どころではなくなることもあり、政治的混乱がそのまま社会的混乱にまで一気に直結する可能性すらあります。政治力学で考えるなら、敢えてこのタイミングで解散に出て損害を出来るだけ少なくする戦略というのもあり得ますが。

 じゃあ一体いつの時期に解散、総選挙をすればいいのかですが、大事を取るなら今年の秋から冬にかけてが一番差し障りが少ないのではと予想します。といっても解散したところで現在の日本政治は争点という争点がなく、仮に自民党が復権したところで状況は今以上に悪くなるだけでなんら前進することはないでしょう。一つ希望があるとしたら前にも一回だけ書いたことがあるように、ここまで日本の政治をダメにさせた比例選挙制を廃止することが一番だと思えるだけに、野田首相には真面目に政治生命を賭して選挙制度改革に取り組んでほしいというのが今日の私の意見です。
 久々の政治記事だけど、やはり書き上げるのがやけに早いな(;´Д`)

2012年2月25日土曜日

日本に影響を残した外国人~アーネスト・サトウ

 前からやりたかったのもあり、今日は幕末から明治にかけて活躍した英外交官のアーネスト・サトウを取り上げます。

アーネスト・サトウ(Wikipedia)

 まず名前からして一見「ハーフなのか?」と疑わせるような苗字していますが、確かにハーフではあるものの父親がドイツ人、母親がイギリス人の歴としたイギリス人で、日系の血は入っておりません。ただ日本になじみ深い苗字であったことから、日本で生活する上では大いに役に立ったと本人も言っております。

 早速本題に入りますが、サトウは英外務省に入省すると19歳で通訳生として1862年に来日します。当初は日本語の力量も高くなくていろいろ苦労したそうですが、徐々に上達してくると伊藤博文や高杉晋作といった長州藩士らと交流を深め、幕末の日英外交に深くかかわるようになります。
 そんな彼が日本中に一躍名前を知られるようになったきっかけは、当時在日外国人の間で読まれていたジャパン・タイムズに1866年に寄稿した文章でした。その寄稿分というのは「英国策論」といって、主な内容はウィキペディアから抜粋すると以下の三点に絞られます。

・将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席に過ぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。従って現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
・独立大名たちは外国との貿易に大きな関心を持っている。
・現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。


 読んでもらえばわかりますが、非常に大胆な内容になっております。現代に例えて言うなら「有力な県が政府を倒すべき」と言っているに等しいです。これを読んで狂喜したのはほかでもなく攘夷派の薩摩藩や長州藩でした。著者名も匿名だったのにどっからか漏れたのかサトウだとばれており、本人の意図しないところであちこちで流布され、どうもイギリスと接近していた薩摩藩などでは「イギリスは倒幕を支援していると表明した」と喧伝していたようです。
 ただ実際の歴史も嘘から出た誠とというべきか、その後イギリスはパークス公司らによって薩摩藩と完全な協力関係になります。この過程でサトウも西郷隆盛らと親交を深めたと言われ、戊辰戦争の開戦後も明治天皇と謁見するなど日本史の一舞台に立ち会うこととなりました。

 明治期に移った後もサトウは外交官として日本に留まり、何度か本国に一時帰国することはあっても長い期間を日本で過ごしております。またこの間、日本人女性の武田兼との間に二人の息子までもうけています。そして1883年に一旦離任してほかの国に移りますが1895年には駐日特命全権公使となり再び日本に戻り勤務を続け、最終的な在日歴は25年にも上りました。晩年はイギリスに戻り、そのまま没しております。

 以上がウィキペディアの記述を抜粋してまとめた内容ですが、こっから自分の真価発揮というかかつて映画の「ラストサムライ」公開に合わせて放送された「その時、歴史が動いた」で紹介されていたエピソードを紹介します。それにしても9年前の放送内容をよく覚えているもんだ。
 まずは取るに足らないエピソードですが、サトウが日本で「面倒くさいな」と思ったものとして、席順の習慣があったそうです。曰く、「日本人は複数人で集まる際、だれが上座に座るかで揉めてなかなか始められない」だそうです。この話を聞いてから下宿の私の部屋で集まる際、新入りが来る際はわざと机の上に方位磁針を置いて上座を意識するかどうかを試すようになりましたが、みんなちゃんと意識して話題にするあたり同じ日本人です。

 もう一つのエピソードは先ほども出てきた西郷隆盛に関するものですが、どうもサトウは西郷に対しては軒並みならぬ親交を持っていたようで、西南戦争に出陣する直前の西郷とも会っていたようです。また勃発後も東京で勝海舟と会い、西郷の助命を嘆願したそうです。ただサトウの助命嘆願に対して勝は、ここで死ぬのが西郷にとっても望みだとして、特に運動はしなかったようです。このエピソードを引いて司会の松平定知氏は、「サトウにとってのラストサムライは西郷だったのかもしれない」といって番組をまとめていました。

 幕末の歴史問題でパークスは出てくることはありますが、サトウが出てくることはまずありえません。しかし私は幕末期の志士らの思想に大きな影響を与える文章を発表していることから彼の功績は決して小さくないとみており、もうちょっと大きく取り上げてもらいたいなとかねがね思っております。