2012年3月3日土曜日

完璧を求め過ぎるが故の弊害

 去年に香港に出張する直前、よく通っていた自宅近くの日本食屋が閉店しました。移り変わりの激しい上海ならではなのですが、週に一度、そこの定食を食べるのが楽しみだっただけに出張が終わった後の休日はなんだか物足りなさを感じておりました。そこで先週からまた別の日本食屋を見つけ、毎週金曜にそこで昼食を取るのが習慣となってきているのですが、昨日に訪れた際に唐揚げ定食を頼んだところ、ご飯が盛られた茶碗が少し欠けているのを見つけました。

 欠けていると言っても本当にごく一部分で、食べるに当たっては全く問題のない程度です。この欠けた茶碗を見て私は、「欠けたからと言ってすぐに捨てたりせず、物を大事に使うお店なのだな」と感心したのですが、こう思うと同時にほかの日本人が見たらどう思うのかがやや気になりました。
 恐らく日本人みんながそうだとは信じたくはないですが、一部の日本人は間違いなく、「欠けた茶碗を客に出すなんて、なんて失礼な店なんだ」と憤慨した気持ちを持つかと思います。何をどう思おうがそれこそ人の勝手ですが、こうした価値観が社会全体で持たれるというのは私にとってはあまり好ましくありません。言うなれば完璧であること、欠損のないことが当たり前だと信じられる社会は面倒だということで、今日はその辺について少し批評を書きます。

 まず大前提として、あくまで私の目からですが日本人というのはやはり完璧主義がほかの国より強いという印象を受けます。製品の品質はどれも画一的に高い上、少しでも欠点があろうものなら改善していこうという意識が自然と持たれているように見えます。このような「ものつくり」に対する完璧主義は美徳この上ないのですが、これが社会意識、というか人間自体にまで適用されるというのは面倒この上ありません。
 一気に核心を突いた内容を書くと、今の日本の雇用は障害や病気を持った人間はおろか、「出来て当たり前」という慣習に対応できない人間に対してあまりにも冷たすぎる気がします。具体例を挙げると「深夜まで残業が出来ない」、「仕事より家庭優先」、「業務外の会社行事に顔を出さない」ような人たちは採用面接であまりいい目で見られないでしょう。またそれこそ慢性病を持ってて数ヶ月に一回程度の診察が必要だと言ったら、たとえその人がどれだけ優秀であろうともこの時点で不採用とする企業もあるかもしれません。

 さっきの欠けた茶碗についても同様です。道具としての機能に問題がないとしてもほんの一点がほかの完成品と異なるがゆえ、それ全部を廃棄してしまうのは無駄なことこの上ありません。さらに言えばサービスの質だって、どうでもいいようなミスを完璧じゃないからと言って激しく憤慨するなど以ての外でしょう。
 以上のように完璧を自己に求めるのならともかく、外に求め過ぎなところが日本人にはあるかと思います。無論、こうして外に対しても強く求め続けてきたことで高い品質と信頼を培ってきたとも言えますが、その一方で大きな弊害も生んでしまい、現時点では意外と弊害の方が大きくなっているのではないかとこの頃感じます。

 ただこう感じる一方、改善されつつあるのではないかと思う節があります。一つはアルコールに対する社会認識で以前であればそれこそ飲めない社会人は人じゃないという認識が強かったようですが今はそれほどでもなく、またB反市などのように「使う分に問題がないのなら安いものでいい」と買い求める人も増えております。
 しかしハンデを持つ人間の就労についてはまだ議論する、対応する余地がかなり広いかと思います。言ってしまえば健康で一通り何でもできる人間だけの職場にハンデを持つ人間を入れようものなら、普通の人を雇うのと比べて高いコストを支払うこととなります。しかしる一点を以ってハンデを持つ人間を雇用しなければ、その人ひとり分の労働力を丸々捨てるようなもので、これが社会全体でやってるとすれば無駄遣いこの上ないのではないのかと、食後に出されたまずいコーヒーを飲みながら考えていたわけです。

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