先週、例の上海人と一緒に居酒屋の鳥貴族にいったという話を紹介しましたが、その時の店内で一生深かった出来事がありました。当時お店に入ったのは午後八時半くらいでしたが、店内で聞こえる店員の声というか発音がやけに懐かしい響きがしたというか、中国語訛りの日本語がよく聞こえてきました。更に耳を澄ませるともう日本語を通り越して店員同士が中国語で話し合うシーンもあり、以前からもそうでしたが夜間帯の居酒屋は外国人留学生がアルバイトの主役であるというのをまざまざと見せつけられたわけです。
そうした環境に無駄に対抗しようと私と上海人も途中から中国語を交えた会話をし始めたのですが、ある程度話し終えて食い終えて店を出ようと会計に向かったところ女性店員から、「中国人なのですか?」と、ちょっと外国語訛りの日本語で聞かれました。私はこの時、この人もきっと中国人なんだろうと思って、「ちゃうで、俺は日本人やけどこっちは中国人やねん」と中国語で答えたら、「あの、すいません、意味が分かりません(>_<)」と言い返されてしまいました。改めて聞き直すとその人は中国人ではなくベトナム人で、今思い返すだに失礼なことをしてしまったと反省する限りです。
更に詳しく話を聞いてみると、我々の予想通りにその店のアルバイトは中国人が大半だそうで、むしろ明らかに日本人アルバイトの方が少ない状態でした。そんな一件があったことから店を出た後、そのベトナム人の女性店員といい意外に日本の居酒屋はグローバルだというようなことを上海人と話しつつ上野の夜を練り歩いたのですが、改めて考えてみると不思議な状態な気がします。
ほかの国でもサービス業など低賃金のワーカーには外国人の出稼ぎ労働者が多いということはある程度共通しているでしょうが、日本の居酒屋といったローカルな形態の飲食店に外国人がたくさん働いているというのは奇妙な感じにも見えます。言うまでもなくこうなるのは日本人アルバイトは夜遅くまできつい仕事をしたがらないためこうした居酒屋バイトがこの頃敬遠されがちということが大きいのでしょうが、一つ視点を変えてみるとかえって日本国内でグローバルな空間と呼べるのはこうした居酒屋なのではないかとも言えるわけです。
もちろん働いている最中の外国人アルバイトに根掘り葉掘り聞いたりするのはご法度でしょうが、こうした状況をもっと日本の国際化に使えないのか、何かコミュニティに変えられないのかとちょっと考えたりもします。あとこれは社会学的な意見となりますが、こうした外国人アルバイト同士の横の関係はどうなのか、中国人とかベトナム人とかが一緒の職場でどんな交流しているのかとかにも興味があって可能ならば調べて論文とか書いてみたいわけです。
銭湯から帰ってきて妙なテンションのまんまで書いているため文章が非常に荒れていますが、ローカルな場所が意外にグローバルだったということを書きたいため、一筆したためました。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2013年12月14日土曜日
2013年12月12日木曜日
敬語が阻害するコミュニケーション
昨日の記事に関連する内容として前々から主張したかった内容として、日本社会における敬語の使われ方があります。かなり昔、それこそこのブログを始めた当初にも批判していますが、私は現代における日本人の敬語の使い方には明らかに問題があるように思え、可能ならばこの際廃止した方がいいのではないかと考えております。そこで今日はどうしてそう思うのか、何が問題なのかをこのところ好調な表現力を駆使して主張していきます。
まず最初に行っておきますが、私自身は敬語という日本語の表現技法を高く評価しております。日本語を学ぶ外国人からしたら覚えたり使ったりするのに面倒くさいことこの上ないだろうなとは思いますが、この敬語があるだけで時代劇も成立するし小説とかでも上下の関係を説明なしで読者に理解できます。にもかかわらず何故廃止するべきだというのかですが、単純にコミュニケーションを阻害する要因にしかなっていないと思うからです。
元々、敬語というのは話し相手の気分をよくするために出来たと言っても過言ではありません。しかし社会上で敬語の使用が一般化するにつれて、敬語を使われないと気分が悪くなる、失礼な言い方だと思うようになっていき、逆説的ですが敬語があるからこそ悪意のない発言が悪意あるように受け取られて責められるような事態が多くなってきているように思えます。
簡単な例を挙げると駅構内でつまずいて転んだ際、後ろから駅員が心配して「どうしたの?」って声をかけたら、この駅員はまず世間から批判されるでしょう。尋ね方としては「どうなされました?」というのが常識とされてこれ以外の聞き方したらなれなれしいだの客をなめているだのと言われちゃいますが、「どうしたの?」も「どうなされました?」も意味としては同じ内容で、どっちも相手を気遣う意思を表しています。それでも前者を使えば怒られちゃうわけですが、これって馬鹿馬鹿しくやないかと自分は思っちゃいます。
上記の駅での声掛けの例は極端な例ですが、こうじゃなくても実社会では敬っているつもりで言った言葉が相手からしたらちゃんとした言い方になっていないととられて、まるで揚げ足取りのように責められる材料となることも少なくありません。大昔にもこのブログで言いましたが、目上の人間に「ご苦労様」と言ったらアウトで「お疲れ様」と言うのがセーフというのは日本語の用法からしたら明らかにおかしいし、同じ意味の言葉なんだから細かいこと気にしてないで普通に受け取れよと言いたいわけです。
あくまで私個人の印象ですが、現代日本の敬語は相手の気分を良くさせてコミュニケーションを円滑にさせる回数よりも、誤用が氾濫している上にお互いぎこちなく気にし合って人間関係をギスギスさせる回数の方が多い気がします。これは本来の敬語の誕生理由とは真逆であるし、なおかつ存在もしない概念が実態を持つ人間の関係を阻害するなんて言語道断でしかなく、それであれば廃止した方が世のためみんなのためじゃないかと考えるわけです。もっともそれ以上に、敬語が使われないとすぐ不機嫌になるような心の狭い人間を淘汰したいというのもありますが。
かくいう私は敬語というか言葉遣いに対しては寛容であるよう心がけており、後輩にも自分に対して敬語を使う必要はないしフランクに話しやすい言葉で話しかけるようにかなりくどく言い続けてきました。呼び方もさん付けではなくなるべく君付けにするよう指示してましたが、さすがに「呼び捨てでもいい」とまでは言わない辺りまだまだ甘かったのかもしれません。
もっとも後輩に敬語を意識させないのは敬語の概念に疑問を持っていたこと以上に、敬語を意識するあまり頭の回転を鈍くさせるのがもったいなかったというのが本音です。言葉を普段使わない言い方で話すようにするとどうしてもそっちの方にメモリを食われるというか会話のペースや幅が狭くなるように思え、議論する際はマナーとかを気にするよりも存分に実力を発揮してもらいたかったというのが本音で、そういう奮起を促すためにも「俺を殺すつもりでかかってこい」などと中二病みたいなセリフも言ったことがあります。
最後に蛇足ですが、自分が議論する際に意識的に発揮できる実力は80%くらいが限度です。ではどうすれば100%まで発揮できるのかですが、これには議論する相手も同等の実力を持っており、なおかつお互いに議論が白熱することで実力以上の実力が引き出されるような感覚を覚えるので、この時が自分の100%だと考えています。今の所、この100%限界値を発揮させてくれる友人は一人くらいで、後は80%まで遠慮なく出せるのが数人、普段は50%以下で頭を回しながら会話している感覚がします。車のエンジンじゃないけど、たまには限界近くまで回転数を上げたいなと思うこのごろです。
まず最初に行っておきますが、私自身は敬語という日本語の表現技法を高く評価しております。日本語を学ぶ外国人からしたら覚えたり使ったりするのに面倒くさいことこの上ないだろうなとは思いますが、この敬語があるだけで時代劇も成立するし小説とかでも上下の関係を説明なしで読者に理解できます。にもかかわらず何故廃止するべきだというのかですが、単純にコミュニケーションを阻害する要因にしかなっていないと思うからです。
元々、敬語というのは話し相手の気分をよくするために出来たと言っても過言ではありません。しかし社会上で敬語の使用が一般化するにつれて、敬語を使われないと気分が悪くなる、失礼な言い方だと思うようになっていき、逆説的ですが敬語があるからこそ悪意のない発言が悪意あるように受け取られて責められるような事態が多くなってきているように思えます。
簡単な例を挙げると駅構内でつまずいて転んだ際、後ろから駅員が心配して「どうしたの?」って声をかけたら、この駅員はまず世間から批判されるでしょう。尋ね方としては「どうなされました?」というのが常識とされてこれ以外の聞き方したらなれなれしいだの客をなめているだのと言われちゃいますが、「どうしたの?」も「どうなされました?」も意味としては同じ内容で、どっちも相手を気遣う意思を表しています。それでも前者を使えば怒られちゃうわけですが、これって馬鹿馬鹿しくやないかと自分は思っちゃいます。
上記の駅での声掛けの例は極端な例ですが、こうじゃなくても実社会では敬っているつもりで言った言葉が相手からしたらちゃんとした言い方になっていないととられて、まるで揚げ足取りのように責められる材料となることも少なくありません。大昔にもこのブログで言いましたが、目上の人間に「ご苦労様」と言ったらアウトで「お疲れ様」と言うのがセーフというのは日本語の用法からしたら明らかにおかしいし、同じ意味の言葉なんだから細かいこと気にしてないで普通に受け取れよと言いたいわけです。
あくまで私個人の印象ですが、現代日本の敬語は相手の気分を良くさせてコミュニケーションを円滑にさせる回数よりも、誤用が氾濫している上にお互いぎこちなく気にし合って人間関係をギスギスさせる回数の方が多い気がします。これは本来の敬語の誕生理由とは真逆であるし、なおかつ存在もしない概念が実態を持つ人間の関係を阻害するなんて言語道断でしかなく、それであれば廃止した方が世のためみんなのためじゃないかと考えるわけです。もっともそれ以上に、敬語が使われないとすぐ不機嫌になるような心の狭い人間を淘汰したいというのもありますが。
かくいう私は敬語というか言葉遣いに対しては寛容であるよう心がけており、後輩にも自分に対して敬語を使う必要はないしフランクに話しやすい言葉で話しかけるようにかなりくどく言い続けてきました。呼び方もさん付けではなくなるべく君付けにするよう指示してましたが、さすがに「呼び捨てでもいい」とまでは言わない辺りまだまだ甘かったのかもしれません。
もっとも後輩に敬語を意識させないのは敬語の概念に疑問を持っていたこと以上に、敬語を意識するあまり頭の回転を鈍くさせるのがもったいなかったというのが本音です。言葉を普段使わない言い方で話すようにするとどうしてもそっちの方にメモリを食われるというか会話のペースや幅が狭くなるように思え、議論する際はマナーとかを気にするよりも存分に実力を発揮してもらいたかったというのが本音で、そういう奮起を促すためにも「俺を殺すつもりでかかってこい」などと中二病みたいなセリフも言ったことがあります。
最後に蛇足ですが、自分が議論する際に意識的に発揮できる実力は80%くらいが限度です。ではどうすれば100%まで発揮できるのかですが、これには議論する相手も同等の実力を持っており、なおかつお互いに議論が白熱することで実力以上の実力が引き出されるような感覚を覚えるので、この時が自分の100%だと考えています。今の所、この100%限界値を発揮させてくれる友人は一人くらいで、後は80%まで遠慮なく出せるのが数人、普段は50%以下で頭を回しながら会話している感覚がします。車のエンジンじゃないけど、たまには限界近くまで回転数を上げたいなと思うこのごろです。
2013年12月11日水曜日
禁止にするから腹が立つ
先日、電車に乗っていたら隣に座っていたおばさんがまだ駅についていないにもかかわらずやおら立ち上がり、ドアの前まで移動する場面に出くわしました。一体何だろうと思ってそのおばさんを見ていたらカバンから携帯電話を取り出して、「ごめん、今電車だから」といってつなげた着信をすぐ切っていました。
別に何のことはない、むしろマナーのいい場面といえるかもしれませんが私からしたらちょっと違和感を覚えます。というのも、そのまま出ちゃって会話すりゃいいじゃんとか思うからです。念のために言っておきますが私は日本だと電車の中では電話を取りませんが、これが舞台が中国だと遠慮なく取り、「今電車で移動中だから大きい声で言ってね」なんてセリフも吐いたりします。
私が先程の場面に違和感を覚えたのはいうまでもなくこの中国の体験が原因です。説明するまでもなくというか多分想像つくと思いますが、中国だと電車で移動中だろうが職場だろうが、会議中であろうと余裕で着信音を警戒に鳴らしつつ携帯電話を取ります。でもってナチュラルにプライベートな会話も続けてくるし。
この辺は文化の違いで片づければそれまでですが、そもそもなんで日本では電車で携帯電話はマナー違反となるのでしょうか。ペースメーカーへの影響などもあるでしょうがそれ以上に現代では電車の中、下手したら往来の中で携帯電話で会話する姿に不快感を感じる人間が多いためということが大きいでしょう。では何故不快に感じるのか、声が大きいだとか周囲への注意力が落ちるとか言い訳はいくらでもあるでしょうが、メタ的に言えば「電車で携帯電話を使ってはいけないというルールを破っているから」というのが最も大きいように私は思います。いわばその行為自体というよりもその行為がルールを逸脱しているということに日本人は腹が立つのではないかと思います。
上記の携帯電話に近いネタに車のクラクションがあります。これも中国ではプップカプップカ鳴らされているのですが、仮に中国と同じノリで日本で鳴らすと周囲からひんしゅくを買うばかりか、下手したら喧嘩にまで発展しそうです。しかし中国で暮らしてみてこのクラクションの嵐を経験してみると、最初はいら立って運転手を睨み返したりしましたが、向こうとしては「後ろにおるでー」というノリで、どちらかというと安全を喚起する親切心で鳴らしているということに段々気が付いていってからは腹も立たなくなりました。それどころか後方への注意は視覚ではどうにもならないだけに聴覚を使う方が明らかにいいわけで、教習所で「不用意にクラクションを鳴らしてはいけない」と教える日本の方が間違っているんじゃないかと逆に思うようになってきました。
この電車の中の携帯電話、車のクラクションはともに「やってはいけない」というルールがあるからこそやられると腹が立つわけで、逆を言えばこれらのルールがなければ無駄にイラつくこともないんじゃないのかなとちょこっと思うわけです。現にルール無用の中国社会で暮らしてきた私としては全く意に介しておらず、実害もないわけなんだしこんな細かいことでいちいち苛立つのは損じゃないのか、社会がちょっとギスギスしてやしないかとも思うわけです。もっともルールが無さすぎる中国では逆ベクトルでイラつく機会も多いですが。
要するに何が言いたいのかというと、本質を考えずただルールで駄目だからということにとらわれて、逸脱者をただ白眼視する傾向が日本にはあるのではないかと言いたいのです。それこそそのルールが正しいのかどうかを考えず、実害があるのかどうかを考えず。
逆説的に言えば、上記のようなルールを取っ払ってしまえば日本人は無駄にイラつくこともなくなるんじゃないかとも思うわけです。現在、携帯電話のペースメーカーへの影響はほとんどないとの報告も出ているわけだし、車のクラクションも暴走族みたいなのが鳴らすのならともかく安全喚起のためならガンガン使った方がいいわけなんだし、こういうルールは社会全体で無視した方が精神衛生上にもいいと主張したいというのが今日の私の意見です。
おまけ
電車の中で携帯電話を使うのくらい大目に見てやれよと言っているそばでなんですが、今朝股電車に乗ってたら同じ車両で馬鹿でかい音でくしゃみするおっさんに出くわしました。おかげで折角うとうとしていたのに目が覚めたし、近くでおしゃべりをしていた女子高生もピタリと会話を止めてました。しかもそのくしゃみ、一回だけじゃなくて5秒おきに三回連続で鳴らされたので、「口くらい押えろこのボケ。なんなら俺が紙袋でも突っ込んだろか」って思いつつ、自分も軽くそのオッサンを睨んでしまいました。まだまだ自分も心が狭いな。
別に何のことはない、むしろマナーのいい場面といえるかもしれませんが私からしたらちょっと違和感を覚えます。というのも、そのまま出ちゃって会話すりゃいいじゃんとか思うからです。念のために言っておきますが私は日本だと電車の中では電話を取りませんが、これが舞台が中国だと遠慮なく取り、「今電車で移動中だから大きい声で言ってね」なんてセリフも吐いたりします。
私が先程の場面に違和感を覚えたのはいうまでもなくこの中国の体験が原因です。説明するまでもなくというか多分想像つくと思いますが、中国だと電車で移動中だろうが職場だろうが、会議中であろうと余裕で着信音を警戒に鳴らしつつ携帯電話を取ります。でもってナチュラルにプライベートな会話も続けてくるし。
この辺は文化の違いで片づければそれまでですが、そもそもなんで日本では電車で携帯電話はマナー違反となるのでしょうか。ペースメーカーへの影響などもあるでしょうがそれ以上に現代では電車の中、下手したら往来の中で携帯電話で会話する姿に不快感を感じる人間が多いためということが大きいでしょう。では何故不快に感じるのか、声が大きいだとか周囲への注意力が落ちるとか言い訳はいくらでもあるでしょうが、メタ的に言えば「電車で携帯電話を使ってはいけないというルールを破っているから」というのが最も大きいように私は思います。いわばその行為自体というよりもその行為がルールを逸脱しているということに日本人は腹が立つのではないかと思います。
上記の携帯電話に近いネタに車のクラクションがあります。これも中国ではプップカプップカ鳴らされているのですが、仮に中国と同じノリで日本で鳴らすと周囲からひんしゅくを買うばかりか、下手したら喧嘩にまで発展しそうです。しかし中国で暮らしてみてこのクラクションの嵐を経験してみると、最初はいら立って運転手を睨み返したりしましたが、向こうとしては「後ろにおるでー」というノリで、どちらかというと安全を喚起する親切心で鳴らしているということに段々気が付いていってからは腹も立たなくなりました。それどころか後方への注意は視覚ではどうにもならないだけに聴覚を使う方が明らかにいいわけで、教習所で「不用意にクラクションを鳴らしてはいけない」と教える日本の方が間違っているんじゃないかと逆に思うようになってきました。
この電車の中の携帯電話、車のクラクションはともに「やってはいけない」というルールがあるからこそやられると腹が立つわけで、逆を言えばこれらのルールがなければ無駄にイラつくこともないんじゃないのかなとちょこっと思うわけです。現にルール無用の中国社会で暮らしてきた私としては全く意に介しておらず、実害もないわけなんだしこんな細かいことでいちいち苛立つのは損じゃないのか、社会がちょっとギスギスしてやしないかとも思うわけです。もっともルールが無さすぎる中国では逆ベクトルでイラつく機会も多いですが。
要するに何が言いたいのかというと、本質を考えずただルールで駄目だからということにとらわれて、逸脱者をただ白眼視する傾向が日本にはあるのではないかと言いたいのです。それこそそのルールが正しいのかどうかを考えず、実害があるのかどうかを考えず。
逆説的に言えば、上記のようなルールを取っ払ってしまえば日本人は無駄にイラつくこともなくなるんじゃないかとも思うわけです。現在、携帯電話のペースメーカーへの影響はほとんどないとの報告も出ているわけだし、車のクラクションも暴走族みたいなのが鳴らすのならともかく安全喚起のためならガンガン使った方がいいわけなんだし、こういうルールは社会全体で無視した方が精神衛生上にもいいと主張したいというのが今日の私の意見です。
おまけ
電車の中で携帯電話を使うのくらい大目に見てやれよと言っているそばでなんですが、今朝股電車に乗ってたら同じ車両で馬鹿でかい音でくしゃみするおっさんに出くわしました。おかげで折角うとうとしていたのに目が覚めたし、近くでおしゃべりをしていた女子高生もピタリと会話を止めてました。しかもそのくしゃみ、一回だけじゃなくて5秒おきに三回連続で鳴らされたので、「口くらい押えろこのボケ。なんなら俺が紙袋でも突っ込んだろか」って思いつつ、自分も軽くそのオッサンを睨んでしまいました。まだまだ自分も心が狭いな。
2013年12月9日月曜日
みんなの党の分裂騒動について
このところ本当に時間がなくて、本気で勉強がしたいです。なもんだから今回も予習復習なしでまた適当に手持ちの知識だけで政治ネタを書くわけですが、もっと背景とか批評とかをきちんと調べてから書きたいものです。
各所の報道で皆さんも知っているかと思いますが、先日に成立した特定秘密保護法案の作成過程において修正協議に応じたみんなの党が見事なまでに分裂しました。分裂の主役は現党首の渡辺善美氏と前幹事長の江田憲司氏で、江田氏が党内の議員十人以上を引き連れて独立するような形で袂を分かつこととなりました。今後のみんなの党の先行きについて先に私の見方を述べると、恐らくこのまま瓦解するかと思います。
まず今回の主役である二人について先に述べると、渡辺氏は故渡辺美智雄の息子でいわゆる二世政治家です。彼が表舞台に出てきたのは奇しくも第一次安倍内閣において公務員制度改革の責任者となった時で、この時期にかなり激しい内容の改革案を作成したものの次の福田康夫政権でこの案は却下され、公務員改革が最も急務な改革であることを主張して離党、独立をしました。
この独立時というかみんなの党の結党に参加したのが、それまで自民党に近い立場をとりつつも無所属で居続けた江田憲司氏です。江田氏は故橋本竜太郎が首相だった頃に通産省から首相秘書官として移り、当時の行政改革にも携わった人間の一人であります。
私はみんなの党が結党された際、正直な所渡辺氏にはあまり期待はしていませんでした。というのも渡辺氏は厳しい評価となりますが起こったり嬉しかったりといった感情をすぐに顔に出す性格で、政治家としては小物の部類に含まれる特徴があったからです。ただ彼の主張する公務員改革の必要性は理解でき、誰か理解者の下であれば猪突猛進に活躍できるだろうけど政党の党首としては外よりも内に敵を作るタイプなだけに明らかに向いていないという印象を覚えました。
しかしそのみんなの党に江田氏が参加すると聞き、この党への評価は一変しました。というのもあまりこのブログでは言及していませんでしたが江田氏に関してはかねてから高く評価しており、そのスマートな振る舞いから造詣の深い政治知識など、 現役の政治家としては屈指の実力者というように見ていました。それだけにこの人がサポートに付くのであればこの政党は面白いことになると見て、実際にこれまでの選挙ではみんなの党に投票することが多かったです。
実際にうまくいったかどうかは別として数多くの政党が出来ては消えていく中、みんなの党は数度の選挙を経ながら着実に議席数を伸ばしていきました。そこへ至って今回の騒動が起きたのですが、もうちょっとお互いに辛抱していたら立派な野党になれたのかもしれないのにねと思わざるを得ません。
それで今回の分裂の原因について私の個人的な見解を述べますが、江田氏は独立理由をみんなの党が与党自民党にすり寄っていき国民の意思を無視し始めたためなどと述べていますが、これは江田氏の嘘だといっていいでしょう。その理由というのも江田氏は無所属時代から自民党寄りの政策を主張しており、現在においてもその価値観は大きく変化しているとはとてもじゃないけど思えないからです。では何が分裂の真の理由かというと、もったいぶっていうのも馬鹿馬鹿しいくらいですがただ単に渡辺氏と江田氏が互いに反目し合ってケンカになっただけで、政治的利害は何も存在しないかと思います。
この二人は前回の参議院選挙以降からしっくりいってないことが公にも伝えられており、江田氏が勉強会を作ろうとしたら渡辺氏が激しく批判した上、その門で江田氏は幹事長職も下ろされています。初めから仲良しというわけじゃなかったもののこれまではうまくいっていたのがなぜ急に関係が悪化したのか、江田氏の影響力拡大を渡辺氏が牽制したためなのかどうかとか勉強不足でわかりかねますが、独立する江田氏に対して渡辺氏が「出て行け!」といったなどと報じられる辺りは感情のもつれが最大の原因と言って差し支えないかと思えます。
先ほども言った通り、私はみんなの党というのは江田氏の支えがあって初めて成り立つ政党だと考えておりました。それだけに江田氏が抜けるとなるとワニの歯が抜けるようなもので、さらに渡辺氏は過去にリクルート事件に関わって父親の足を引っ張ったといった迂闊な性格が未だに尚っていないように見えるだけに、みんなの党はこのまま瓦解していくと予想するわけです。
では江田氏が新しく作る政党はどうなるのか。今後の状況にもよりますが順当に行くならやっぱり自民党に合流する方向に向かってくんじゃないかと思います。別に悪いことじゃないんだけど、政治票をする立場からすると与党ばっか強くなっても書き辛いんだよねぇってのが本音です。
各所の報道で皆さんも知っているかと思いますが、先日に成立した特定秘密保護法案の作成過程において修正協議に応じたみんなの党が見事なまでに分裂しました。分裂の主役は現党首の渡辺善美氏と前幹事長の江田憲司氏で、江田氏が党内の議員十人以上を引き連れて独立するような形で袂を分かつこととなりました。今後のみんなの党の先行きについて先に私の見方を述べると、恐らくこのまま瓦解するかと思います。
まず今回の主役である二人について先に述べると、渡辺氏は故渡辺美智雄の息子でいわゆる二世政治家です。彼が表舞台に出てきたのは奇しくも第一次安倍内閣において公務員制度改革の責任者となった時で、この時期にかなり激しい内容の改革案を作成したものの次の福田康夫政権でこの案は却下され、公務員改革が最も急務な改革であることを主張して離党、独立をしました。
この独立時というかみんなの党の結党に参加したのが、それまで自民党に近い立場をとりつつも無所属で居続けた江田憲司氏です。江田氏は故橋本竜太郎が首相だった頃に通産省から首相秘書官として移り、当時の行政改革にも携わった人間の一人であります。
私はみんなの党が結党された際、正直な所渡辺氏にはあまり期待はしていませんでした。というのも渡辺氏は厳しい評価となりますが起こったり嬉しかったりといった感情をすぐに顔に出す性格で、政治家としては小物の部類に含まれる特徴があったからです。ただ彼の主張する公務員改革の必要性は理解でき、誰か理解者の下であれば猪突猛進に活躍できるだろうけど政党の党首としては外よりも内に敵を作るタイプなだけに明らかに向いていないという印象を覚えました。
しかしそのみんなの党に江田氏が参加すると聞き、この党への評価は一変しました。というのもあまりこのブログでは言及していませんでしたが江田氏に関してはかねてから高く評価しており、そのスマートな振る舞いから造詣の深い政治知識など、 現役の政治家としては屈指の実力者というように見ていました。それだけにこの人がサポートに付くのであればこの政党は面白いことになると見て、実際にこれまでの選挙ではみんなの党に投票することが多かったです。
実際にうまくいったかどうかは別として数多くの政党が出来ては消えていく中、みんなの党は数度の選挙を経ながら着実に議席数を伸ばしていきました。そこへ至って今回の騒動が起きたのですが、もうちょっとお互いに辛抱していたら立派な野党になれたのかもしれないのにねと思わざるを得ません。
それで今回の分裂の原因について私の個人的な見解を述べますが、江田氏は独立理由をみんなの党が与党自民党にすり寄っていき国民の意思を無視し始めたためなどと述べていますが、これは江田氏の嘘だといっていいでしょう。その理由というのも江田氏は無所属時代から自民党寄りの政策を主張しており、現在においてもその価値観は大きく変化しているとはとてもじゃないけど思えないからです。では何が分裂の真の理由かというと、もったいぶっていうのも馬鹿馬鹿しいくらいですがただ単に渡辺氏と江田氏が互いに反目し合ってケンカになっただけで、政治的利害は何も存在しないかと思います。
この二人は前回の参議院選挙以降からしっくりいってないことが公にも伝えられており、江田氏が勉強会を作ろうとしたら渡辺氏が激しく批判した上、その門で江田氏は幹事長職も下ろされています。初めから仲良しというわけじゃなかったもののこれまではうまくいっていたのがなぜ急に関係が悪化したのか、江田氏の影響力拡大を渡辺氏が牽制したためなのかどうかとか勉強不足でわかりかねますが、独立する江田氏に対して渡辺氏が「出て行け!」といったなどと報じられる辺りは感情のもつれが最大の原因と言って差し支えないかと思えます。
先ほども言った通り、私はみんなの党というのは江田氏の支えがあって初めて成り立つ政党だと考えておりました。それだけに江田氏が抜けるとなるとワニの歯が抜けるようなもので、さらに渡辺氏は過去にリクルート事件に関わって父親の足を引っ張ったといった迂闊な性格が未だに尚っていないように見えるだけに、みんなの党はこのまま瓦解していくと予想するわけです。
では江田氏が新しく作る政党はどうなるのか。今後の状況にもよりますが順当に行くならやっぱり自民党に合流する方向に向かってくんじゃないかと思います。別に悪いことじゃないんだけど、政治票をする立場からすると与党ばっか強くなっても書き辛いんだよねぇってのが本音です。
2013年12月8日日曜日
和食に関する報道で一言
今日は何にも予定が入っていない休日だったので自宅から半径500メートルも動かずに過ごしました。っても、このところの週末はいつも同じくらい動いていない気がするが。
で、動かず何してたかというとちまちま自分の作業を進めてたというのがメインですが、その一方でAmazonで大人買いした「ブロッケンブラッド」っていう漫画が午前に届いたので一気に読んでました。この漫画、以前から注目していて1巻だけは数ヶ月前に読み終えており、やはりすごい作品だと思って今回満を持してまとめ買いしたわけなのですが、これ単独でレビュー記事書いてもいいのですがあらすじを簡単に話すと、主人公は高校生の男の子なのにわけのわからない錬金術を使い、変身魔法少女となってコスプレマニアのおっさんなどといった変態と戦い合うといういろんな意味できわどい作品です。
この設定だけでも色々と笑えるのですがそれ以上に作者のセンスがいろいろとぶっ飛んでて、AKB48をパクッた「KGB48(ケイサツ・ガールズ・バタリオン48)」というバンドが出てくるわ、さらには「AKW47(アコウ47)」のグループ内ユニットとして「松の廊下斬りかかり隊」というのが出てきた時は「マジすげぇこの作者」とか思いました。
そういうのは置いといて今日ちょっとテレビを見ていて思うところがあったので一言だけ寸評入れます。その番組はNHKの海外ネットワークなのですが、先日に和食がユネスコの無形文化遺産に指定されたことから特集が組まれ、映し出された映像ではフランスの料理人が、「いい素材を選んでいたら和食にたどり着いた」とか、同じくフランスの一般人が魚の味噌漬けを家庭で作っているとかそういうのを報じてたたのですが、見ていて正直嘘くせぇと思いました。いや、出てきた人が仕込みだというつもりは毛頭ありませんが、少なくともこんな無批判で礼賛する人が大量にいるわけなくあくまで「こういう人もいる」くらいなんじゃないかと思ったわけです。
その上で個人的な意見を述べると、なんでヨーロッパを映したんだということにやや不満を覚えました。確かにフランスはフランス料理持っているだけあって料理大国なんだしそこでの和食の普及度というのは一つの参考値となりうるかもしれませんが、私としてはヨーロッパではなくアジア、それも贔屓を込めると香港を映せといいたいです。
というのも香港は日本の食品輸入額でずっとナンバー1の国で、いわば日本の食糧産業の最大のお得意先です。更に言えば日本食が本当に浸透しているところで、街中では回転寿司屋が当たり前のようにあちこち存在しており天ぷらうどんとかも余裕で食べられます。感覚的には日本人にとってのカレーくらいに普及しているように見えます。
ヨーロッパ市場の売上げも決して低くはないと思うのですが、やはり日本食の市場は香港、シンガポール、そして中国といったアジアが中心であり、もっとこういった市場の取材、特に現地の人間の反応とかどんな日本料理が人気なのかを取り上げるべきだと私は思います。さらに意地悪な言い方をすると、欧米が挌上でアジアが格下って見てない?ってちょっと聞きたいです。ま、実際にアジア人が日本食うまいっていうよりも欧米人が言った方が絵になりやすいんだけどね。
最後に中国人はどんな日本食を食べるかですが、まず寿司ネタで言えば圧倒的にサーモンの人気が高く、安い回転寿司屋行くとサーモンしか回っていないという笑えない事態に陥ります。なんでも、改革開放後に最初に入ってきた魚がサーモンだったからというのが理由らしいですが。
このほかだと地味にたい焼きやたこ焼きといったB級料理が変に普及してます。この二つはどうも台湾経由でかなり昔に入ってきたそうで、中にはたい焼きは中国の料理だと思い込んでいる中国人もいると聞きます。
おまけ
たい焼きに関しては韓国も同じように自国の料理だと信じている人がいるそうで、私の留学仲間のクラスでは「たい焼きは日本のものか、韓国のものか」で激論となり、最終的に「日本にはたい焼きの歌がある」という主張が通って日本のものと認定されたそうです(そのクラス内で)。なんというか子門真人さんのおかげかなぁとしみじみ思います。
で、動かず何してたかというとちまちま自分の作業を進めてたというのがメインですが、その一方でAmazonで大人買いした「ブロッケンブラッド」っていう漫画が午前に届いたので一気に読んでました。この漫画、以前から注目していて1巻だけは数ヶ月前に読み終えており、やはりすごい作品だと思って今回満を持してまとめ買いしたわけなのですが、これ単独でレビュー記事書いてもいいのですがあらすじを簡単に話すと、主人公は高校生の男の子なのにわけのわからない錬金術を使い、変身魔法少女となってコスプレマニアのおっさんなどといった変態と戦い合うといういろんな意味できわどい作品です。
この設定だけでも色々と笑えるのですがそれ以上に作者のセンスがいろいろとぶっ飛んでて、AKB48をパクッた「KGB48(ケイサツ・ガールズ・バタリオン48)」というバンドが出てくるわ、さらには「AKW47(アコウ47)」のグループ内ユニットとして「松の廊下斬りかかり隊」というのが出てきた時は「マジすげぇこの作者」とか思いました。
そういうのは置いといて今日ちょっとテレビを見ていて思うところがあったので一言だけ寸評入れます。その番組はNHKの海外ネットワークなのですが、先日に和食がユネスコの無形文化遺産に指定されたことから特集が組まれ、映し出された映像ではフランスの料理人が、「いい素材を選んでいたら和食にたどり着いた」とか、同じくフランスの一般人が魚の味噌漬けを家庭で作っているとかそういうのを報じてたたのですが、見ていて正直嘘くせぇと思いました。いや、出てきた人が仕込みだというつもりは毛頭ありませんが、少なくともこんな無批判で礼賛する人が大量にいるわけなくあくまで「こういう人もいる」くらいなんじゃないかと思ったわけです。
その上で個人的な意見を述べると、なんでヨーロッパを映したんだということにやや不満を覚えました。確かにフランスはフランス料理持っているだけあって料理大国なんだしそこでの和食の普及度というのは一つの参考値となりうるかもしれませんが、私としてはヨーロッパではなくアジア、それも贔屓を込めると香港を映せといいたいです。
というのも香港は日本の食品輸入額でずっとナンバー1の国で、いわば日本の食糧産業の最大のお得意先です。更に言えば日本食が本当に浸透しているところで、街中では回転寿司屋が当たり前のようにあちこち存在しており天ぷらうどんとかも余裕で食べられます。感覚的には日本人にとってのカレーくらいに普及しているように見えます。
ヨーロッパ市場の売上げも決して低くはないと思うのですが、やはり日本食の市場は香港、シンガポール、そして中国といったアジアが中心であり、もっとこういった市場の取材、特に現地の人間の反応とかどんな日本料理が人気なのかを取り上げるべきだと私は思います。さらに意地悪な言い方をすると、欧米が挌上でアジアが格下って見てない?ってちょっと聞きたいです。ま、実際にアジア人が日本食うまいっていうよりも欧米人が言った方が絵になりやすいんだけどね。
最後に中国人はどんな日本食を食べるかですが、まず寿司ネタで言えば圧倒的にサーモンの人気が高く、安い回転寿司屋行くとサーモンしか回っていないという笑えない事態に陥ります。なんでも、改革開放後に最初に入ってきた魚がサーモンだったからというのが理由らしいですが。
このほかだと地味にたい焼きやたこ焼きといったB級料理が変に普及してます。この二つはどうも台湾経由でかなり昔に入ってきたそうで、中にはたい焼きは中国の料理だと思い込んでいる中国人もいると聞きます。
おまけ
たい焼きに関しては韓国も同じように自国の料理だと信じている人がいるそうで、私の留学仲間のクラスでは「たい焼きは日本のものか、韓国のものか」で激論となり、最終的に「日本にはたい焼きの歌がある」という主張が通って日本のものと認定されたそうです(そのクラス内で)。なんというか子門真人さんのおかげかなぁとしみじみ思います。
2013年12月7日土曜日
上海忍者との邂逅
・「一人っ子政策」違反、チャン監督相手取り170億円の訴訟(AFP=時事)
本題と全く関係ありませんが上記リンク先の記事で誤植見つけちゃいました。もしかしたらアップ後に修正されているかもしれませんが、該当箇所はチャンイーモウ監督に対する請求賠償金額で、第一段では「10億元(約170億円)」と書いてあるのに第三段では、
「弁護士がチャン監督に支払いを求めた100億元の内訳は、5億元(約84億円)が『公的資金への補償』、残りの5億元が『懲罰的損害賠償金』としているが」
となっています。残りの90億元はどこ行ったのか気になりますが、これくらいはさすがに校正係も気づけよなぁ。
話は本題に入りますが昨日今日とこのブログにコメントをよく書く上海忍者と合っていました。彼は自分の大学時代のゼミの同期で、コメントみてりゃわかると思うけど中国人です。
彼とはもともと大学での学年は異なっておりましたが自分が北京に留学に行ったことから一学年落ち、三回生の後期から同じゼミとなり知り合いました。ゼミにいた間からも仲は良かったですが大学卒業後、二人とも就職先で東京勤務となったことから休日によく秋葉原とかで落ち会う機会も増えてさらにその関係は深まったのですが、2009年に彼が仕事の関係で出身地である上海に赴任することとなった際はしばらく会えなくなるなぁ等と考えていました。その予想は大きく外れることとなったのですが。
ブログでも書いている通りに2010年の後半から自分も中国に渡って転職することとなり、その際には住居の確保など様々な面で上海忍者からバックアップを受け、向こうにいる間は本当にしょっちゅう会ってました。そもそも中国に転職しようと考えたのは色々ときっかけはありますが、彼から「君も早く上海に来なさい」と度々言われていたこともあり、いい意味で彼には人生を変えられたと思います。ただ実際に転職を果たした後にこのことを彼に伝えると、「僕はまさか本当に君が来るとは思わなかった」と言われて、ちょっと「えぇ(;゚д゚)」とか思ったりしましたが。
話は現在に戻しますが、今回彼は旅行目的で来日してきました。昨晩は東京上野で落ち合ったのですが、何食べるかと相談した所、「鳥貴族がいい」とやけに具体的な指定があったので取り貴族にしました。ちなみに店に入った際、「鳥貴族くると日本で生活した時代を思い出す」と彼は言いましたが私は、「俺はむしろ、君といった上海にある鳥貴族を思い出す」と言い返しました。
そこで話した話題は取り留めのないものでしたが、問題だったのは座った座席でした。当時、金曜の晩ということから店内は混雑しており、20分くらい待って入店したこともあって座席は狭いカウンターだったのですが、何故かその座席は二人掛けの座席で、同じタイプの座席には自分たち以外にはカップルしか座っていませんでした。そのためお互いに、「これじゃ俺らゲイカップルだよ」なんて言い合って、上海忍者も自分との間にかばんを置き、「ここが我々の38度線ね」といい、「その一線越えたらどうなるんだよ」と聞いたらなんかお茶を濁されました。
でもって今日も午前から午後にかけてまた合流して二人で東京をうろうろしてましたが、まぁ普段通りというかいつもみたいにゲイネタを交えつつのんびり過ごしました。彼と会うのは実質9ヶ月ぶりですがどうせ自分も上海に行く機会が今後も多くあるだろうし、逆に彼も日本に来る機会が定期的にあるだろうし、お互い懐かしあうとかそういう感情はほぼ全く芽生えませんでした。
彼は今頃大阪にいるでしょうが、国境を越えた知り合いがいるというのも悪くはない気がします。
本題と全く関係ありませんが上記リンク先の記事で誤植見つけちゃいました。もしかしたらアップ後に修正されているかもしれませんが、該当箇所はチャンイーモウ監督に対する請求賠償金額で、第一段では「10億元(約170億円)」と書いてあるのに第三段では、
「弁護士がチャン監督に支払いを求めた100億元の内訳は、5億元(約84億円)が『公的資金への補償』、残りの5億元が『懲罰的損害賠償金』としているが」
となっています。残りの90億元はどこ行ったのか気になりますが、これくらいはさすがに校正係も気づけよなぁ。
話は本題に入りますが昨日今日とこのブログにコメントをよく書く上海忍者と合っていました。彼は自分の大学時代のゼミの同期で、コメントみてりゃわかると思うけど中国人です。
彼とはもともと大学での学年は異なっておりましたが自分が北京に留学に行ったことから一学年落ち、三回生の後期から同じゼミとなり知り合いました。ゼミにいた間からも仲は良かったですが大学卒業後、二人とも就職先で東京勤務となったことから休日によく秋葉原とかで落ち会う機会も増えてさらにその関係は深まったのですが、2009年に彼が仕事の関係で出身地である上海に赴任することとなった際はしばらく会えなくなるなぁ等と考えていました。その予想は大きく外れることとなったのですが。
ブログでも書いている通りに2010年の後半から自分も中国に渡って転職することとなり、その際には住居の確保など様々な面で上海忍者からバックアップを受け、向こうにいる間は本当にしょっちゅう会ってました。そもそも中国に転職しようと考えたのは色々ときっかけはありますが、彼から「君も早く上海に来なさい」と度々言われていたこともあり、いい意味で彼には人生を変えられたと思います。ただ実際に転職を果たした後にこのことを彼に伝えると、「僕はまさか本当に君が来るとは思わなかった」と言われて、ちょっと「えぇ(;゚д゚)」とか思ったりしましたが。
話は現在に戻しますが、今回彼は旅行目的で来日してきました。昨晩は東京上野で落ち合ったのですが、何食べるかと相談した所、「鳥貴族がいい」とやけに具体的な指定があったので取り貴族にしました。ちなみに店に入った際、「鳥貴族くると日本で生活した時代を思い出す」と彼は言いましたが私は、「俺はむしろ、君といった上海にある鳥貴族を思い出す」と言い返しました。
そこで話した話題は取り留めのないものでしたが、問題だったのは座った座席でした。当時、金曜の晩ということから店内は混雑しており、20分くらい待って入店したこともあって座席は狭いカウンターだったのですが、何故かその座席は二人掛けの座席で、同じタイプの座席には自分たち以外にはカップルしか座っていませんでした。そのためお互いに、「これじゃ俺らゲイカップルだよ」なんて言い合って、上海忍者も自分との間にかばんを置き、「ここが我々の38度線ね」といい、「その一線越えたらどうなるんだよ」と聞いたらなんかお茶を濁されました。
でもって今日も午前から午後にかけてまた合流して二人で東京をうろうろしてましたが、まぁ普段通りというかいつもみたいにゲイネタを交えつつのんびり過ごしました。彼と会うのは実質9ヶ月ぶりですがどうせ自分も上海に行く機会が今後も多くあるだろうし、逆に彼も日本に来る機会が定期的にあるだろうし、お互い懐かしあうとかそういう感情はほぼ全く芽生えませんでした。
彼は今頃大阪にいるでしょうが、国境を越えた知り合いがいるというのも悪くはない気がします。
2013年12月5日木曜日
平成史考察~通信傍受法と国旗国歌法の成立(1999年)
昨日に引き続き平成史考察の記事です。今日は1999年当時にメディアなどによって「悪法」と名指しされた二つの法律の成立当時を振り返ります。
・犯罪捜査のための通信傍受に関する法律
・国旗及び国歌に関する法律(Wikipedia)
上記の二つの法律が今回取り上げる題材ですが、「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」は「通信傍受法」、「国旗及び国家に関する法律」は「国旗国歌法」という通称がされているのでこの記事でもこの通称を用いて話を進めます。
それぞれの法律を簡単に説明すると、まず後者の方は読んでそのままで国旗は日の丸、国歌は君が代ということを明記したもので、前者の通信傍受法は平たく言うと暴力団などの組織犯罪に対する捜査において裁判所などの手続きを踏んだ上で盗聴行為を行うことを認める法律です。両者とも法案の審議過程では野党、メディアの双方から激しく批判され、「こんな悪法がよりによって二つも成立するなんて!」ていう論調で報じられていたことを私自身も強く覚えています。
一瞬書くのを悩みましたが、当時に私は中学生でしたが中学の社会科の教師がちょこっとだけこの二法に言及して、「悪法などと呼ばれている法律が二つ通りました」と話題にしてたのが印象に残っています。もっともこの時の先生の話し方は感情は入っておらずただ単に国会での動きを取り上げただけだったので問題は全くなかったと思いますが、そのように授業でもちょっと話題になったことだけを書いておくことにします。
話は戻りますが、一体何故この二つの法案が議論の的になったのかをまた軽く解説します。まず国旗国歌法案に関しては今もまだ公立学校にいますが卒業式などで君が代斉唱を拒否したり、拒否するよう生徒に促す現場教師が徐々に見え始めるようになり、現場と教育委員会の間に立つ校長先生が法律に書かれていないのもあって強制し辛いと言った声があり、じゃあこの際だしはっきりさせようという具合で立法されました。しかし国旗も国歌も強制されて歌うのはどんなものか、国民が自分の意思で選ぶべきなのではなどと言う自主性を重んじた反対意見のほか、君が代は戦前からの国歌で軍国主義を惹起させるほか、歌詞が天皇への崇拝の意味しか持ってないため国歌として相応しくないという意見もありました。
こうした議論の中で覚えていることを挙げてくと、どっかの新聞は君が代に代わる国歌として「ふるさと」を提案してましたが、なんていうかポイントが違う様な気が今だとします。このほか先程の軍国主義を惹起させるという意見に対しては反対意見として、フランスの国歌の「ラ・マルセイエーズ」の歌詞には「ファッキンな敵兵をぶっ殺してドブに捨てちまえ!」っというような内容の文言も盛り込まれていて、それに比べればかわいいものだという声も出てました。
そのほかにも、これは大分後になって佐藤優氏が自著にて国旗も国家も法律として規定するべきではなく悪法だという意見を書いております。佐藤氏の主張によると、どちらも法律に書かれてなくても国民が想起できることがベストであり、法律化してしまうと変更しようと思ったら変更できてしまうリスクが生まれるとして廃止を求めていました。やっぱ視点が一味違う人だなぁ。
当時の私の印象だと、国旗に関してはそれほど反対意見は出ておらずやはり国歌を君が代にする点が大きくクローズアップされていた気がします。私個人としても君が代は歌う機会もそんなに多くないし、あとあの独特のテンポがなんか妙に歌い辛いこともあってもし代案があるなら検討した方がいいのでは、ないならないで新しいのを作らせたらいいのではなんていう事を友人と話してました。なお、じゃあ誰に作らせればいいかという点に関しては、「さだまさしでいいんじゃね( ゚д゚)」って結論に落ち着き、何だったらさだまさし氏の「関白宣言」という曲をそのま使ってもアリかもなどと言ってました。
国旗国歌法に関してはここまでにしてもう一つの通信傍受法に話を移します。この法案も審議当時は散々に叩かれており、具体的には警察が無制限に盗聴活動を行うことによって犯罪とは関係のない民間人も盗聴される可能性がある、プライバシーが侵害されるなどという批判が毎日テレビで報じられていました。
結論から述べると、成立からもう10年以上も経ちますがこの法律に規定された捜査機関による盗聴が民間人のプライバシーが侵害されたとかいう話は全くと言っていいほど聞きません。そもそもこの法律で規定された通信傍受が認められるのは年間でも十数件くらいらしくそんなに量が多くないってのもありますが、あれだけ大騒ぎしていた割にはなんだよこれはとかちょっと思います。こういってはなんですが騒ぎ損でしょう。
当時、盗んだバイクで走り出しそうな年齢だった私自身は、そもそも私生活でサツに聞かれちゃまずいような内容を口にするかといったらそんなことはないし、排泄など聞かれたらちょっと恥ずかしい音はたてるもののそんな音をわざわざ盗聴することはないだろうと思って普通に考えれば市民はノーダメージな法律だと思っていました。その上でこの法律によって犯罪組織に対する捜査が広がるのであれば市民にとってはプラスなのだし、何を以ってか世論は反対するのだろうか、自分のプライバシーに盗聴されるだけの価値を持っていると自惚れているのかということを決して誇張ではなく、本気で当時にそう思って周りにも口にしてました。
今回、なんで1999年のこの二つの法案成立を取り上げたのかというと、いうまでもなくこのところこのブログでも度々取り上げている特定秘密保護法案に対する野党、そしてメディアの対応への不満がきっかけです。この特定秘密保護法案は現在進行形でやんやかんやと批判的に報じられていますが、きっと1999年時と同様に騒ぎ損で終わることになるだろうという予言を書いておこうと思い、また当時と比較するのに面白いと思ったからこそ書き残そうと考えました。
それにしても今回の特定秘密保護法案に対するメディアの報道の仕方は目に余ります。中には「この法律でプライバシーが侵害される」なんていう全く脈絡のない批判意見まで出てくる始末で、そもそも他人や企業のプライバシーを暴くのがジャーナリストの仕事だってのに何言ってるんだこいつらはと呆れてきます。ある著名ジャーナリストなんかこの特定秘密保護法案が成立すると日本の民主主義が滅びると言ってましたが、そのまえに日本のジャーナリズムを心配しろよと亜流のジャーナリストは思うわけです。
おまけ
国旗国歌法に関しては当時に中学生の自分が作った、仲間内で回すだけの文芸同人誌で評論文みたいなのを書いておりました。当時は小説家志望でしたがそれらの同人誌に載せた社会批評文が自分で見てもどれもいい出来で、また書いてて素直に楽しいと思うようになったことからこの時辺りを境にジャーナリストへと志望を転回することとなったわけです。
なお最初に作った同人誌は友達数人を誘って一緒に作りましたが、その友人らは役に立つどころか足を引っ張る始末で開始二号で廃刊に。この時を境に「他人はクズだ、頼れるのは自分の腕力だけ」という妙な信念を持つに至りました。でもって高校生の頃に今度は一人だけでまた小説メインの同人誌を作りましたが、誌名は何故だか「文化大革命」にしてしまい、友人に渡すところを担任の社会科の教師に見られてしまい、「すごいタイトルだね(;´∀`)」なんて言われたのを昨日のことのように覚えています。あの頃は中身の小説も自分で書いて、表紙絵も描いて、でもってタイトルは筆ペンで書くという有様でしたが、目的に向かって突き進むパワーは高校生として見たら大したものだったと今思えます。
・犯罪捜査のための通信傍受に関する法律
・国旗及び国歌に関する法律(Wikipedia)
上記の二つの法律が今回取り上げる題材ですが、「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」は「通信傍受法」、「国旗及び国家に関する法律」は「国旗国歌法」という通称がされているのでこの記事でもこの通称を用いて話を進めます。
それぞれの法律を簡単に説明すると、まず後者の方は読んでそのままで国旗は日の丸、国歌は君が代ということを明記したもので、前者の通信傍受法は平たく言うと暴力団などの組織犯罪に対する捜査において裁判所などの手続きを踏んだ上で盗聴行為を行うことを認める法律です。両者とも法案の審議過程では野党、メディアの双方から激しく批判され、「こんな悪法がよりによって二つも成立するなんて!」ていう論調で報じられていたことを私自身も強く覚えています。
一瞬書くのを悩みましたが、当時に私は中学生でしたが中学の社会科の教師がちょこっとだけこの二法に言及して、「悪法などと呼ばれている法律が二つ通りました」と話題にしてたのが印象に残っています。もっともこの時の先生の話し方は感情は入っておらずただ単に国会での動きを取り上げただけだったので問題は全くなかったと思いますが、そのように授業でもちょっと話題になったことだけを書いておくことにします。
話は戻りますが、一体何故この二つの法案が議論の的になったのかをまた軽く解説します。まず国旗国歌法案に関しては今もまだ公立学校にいますが卒業式などで君が代斉唱を拒否したり、拒否するよう生徒に促す現場教師が徐々に見え始めるようになり、現場と教育委員会の間に立つ校長先生が法律に書かれていないのもあって強制し辛いと言った声があり、じゃあこの際だしはっきりさせようという具合で立法されました。しかし国旗も国歌も強制されて歌うのはどんなものか、国民が自分の意思で選ぶべきなのではなどと言う自主性を重んじた反対意見のほか、君が代は戦前からの国歌で軍国主義を惹起させるほか、歌詞が天皇への崇拝の意味しか持ってないため国歌として相応しくないという意見もありました。
こうした議論の中で覚えていることを挙げてくと、どっかの新聞は君が代に代わる国歌として「ふるさと」を提案してましたが、なんていうかポイントが違う様な気が今だとします。このほか先程の軍国主義を惹起させるという意見に対しては反対意見として、フランスの国歌の「ラ・マルセイエーズ」の歌詞には「ファッキンな敵兵をぶっ殺してドブに捨てちまえ!」っというような内容の文言も盛り込まれていて、それに比べればかわいいものだという声も出てました。
そのほかにも、これは大分後になって佐藤優氏が自著にて国旗も国家も法律として規定するべきではなく悪法だという意見を書いております。佐藤氏の主張によると、どちらも法律に書かれてなくても国民が想起できることがベストであり、法律化してしまうと変更しようと思ったら変更できてしまうリスクが生まれるとして廃止を求めていました。やっぱ視点が一味違う人だなぁ。
当時の私の印象だと、国旗に関してはそれほど反対意見は出ておらずやはり国歌を君が代にする点が大きくクローズアップされていた気がします。私個人としても君が代は歌う機会もそんなに多くないし、あとあの独特のテンポがなんか妙に歌い辛いこともあってもし代案があるなら検討した方がいいのでは、ないならないで新しいのを作らせたらいいのではなんていう事を友人と話してました。なお、じゃあ誰に作らせればいいかという点に関しては、「さだまさしでいいんじゃね( ゚д゚)」って結論に落ち着き、何だったらさだまさし氏の「関白宣言」という曲をそのま使ってもアリかもなどと言ってました。
国旗国歌法に関してはここまでにしてもう一つの通信傍受法に話を移します。この法案も審議当時は散々に叩かれており、具体的には警察が無制限に盗聴活動を行うことによって犯罪とは関係のない民間人も盗聴される可能性がある、プライバシーが侵害されるなどという批判が毎日テレビで報じられていました。
結論から述べると、成立からもう10年以上も経ちますがこの法律に規定された捜査機関による盗聴が民間人のプライバシーが侵害されたとかいう話は全くと言っていいほど聞きません。そもそもこの法律で規定された通信傍受が認められるのは年間でも十数件くらいらしくそんなに量が多くないってのもありますが、あれだけ大騒ぎしていた割にはなんだよこれはとかちょっと思います。こういってはなんですが騒ぎ損でしょう。
当時、盗んだバイクで走り出しそうな年齢だった私自身は、そもそも私生活でサツに聞かれちゃまずいような内容を口にするかといったらそんなことはないし、排泄など聞かれたらちょっと恥ずかしい音はたてるもののそんな音をわざわざ盗聴することはないだろうと思って普通に考えれば市民はノーダメージな法律だと思っていました。その上でこの法律によって犯罪組織に対する捜査が広がるのであれば市民にとってはプラスなのだし、何を以ってか世論は反対するのだろうか、自分のプライバシーに盗聴されるだけの価値を持っていると自惚れているのかということを決して誇張ではなく、本気で当時にそう思って周りにも口にしてました。
今回、なんで1999年のこの二つの法案成立を取り上げたのかというと、いうまでもなくこのところこのブログでも度々取り上げている特定秘密保護法案に対する野党、そしてメディアの対応への不満がきっかけです。この特定秘密保護法案は現在進行形でやんやかんやと批判的に報じられていますが、きっと1999年時と同様に騒ぎ損で終わることになるだろうという予言を書いておこうと思い、また当時と比較するのに面白いと思ったからこそ書き残そうと考えました。
それにしても今回の特定秘密保護法案に対するメディアの報道の仕方は目に余ります。中には「この法律でプライバシーが侵害される」なんていう全く脈絡のない批判意見まで出てくる始末で、そもそも他人や企業のプライバシーを暴くのがジャーナリストの仕事だってのに何言ってるんだこいつらはと呆れてきます。ある著名ジャーナリストなんかこの特定秘密保護法案が成立すると日本の民主主義が滅びると言ってましたが、そのまえに日本のジャーナリズムを心配しろよと亜流のジャーナリストは思うわけです。
おまけ
国旗国歌法に関しては当時に中学生の自分が作った、仲間内で回すだけの文芸同人誌で評論文みたいなのを書いておりました。当時は小説家志望でしたがそれらの同人誌に載せた社会批評文が自分で見てもどれもいい出来で、また書いてて素直に楽しいと思うようになったことからこの時辺りを境にジャーナリストへと志望を転回することとなったわけです。
なお最初に作った同人誌は友達数人を誘って一緒に作りましたが、その友人らは役に立つどころか足を引っ張る始末で開始二号で廃刊に。この時を境に「他人はクズだ、頼れるのは自分の腕力だけ」という妙な信念を持つに至りました。でもって高校生の頃に今度は一人だけでまた小説メインの同人誌を作りましたが、誌名は何故だか「文化大革命」にしてしまい、友人に渡すところを担任の社会科の教師に見られてしまい、「すごいタイトルだね(;´∀`)」なんて言われたのを昨日のことのように覚えています。あの頃は中身の小説も自分で書いて、表紙絵も描いて、でもってタイトルは筆ペンで書くという有様でしたが、目的に向かって突き進むパワーは高校生として見たら大したものだったと今思えます。
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