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2018年3月15日木曜日

平成史考察~足利銀行の破綻(2003年)

 今週末に締切迫ってるのになんでこのところ毎日ブログ更新しているのかと自分でも疑問です。平日も今繁忙期でめちゃ忙しいし、折角先週末にタイフーン買ったのに作る暇もないし。

足利銀行(Wikipedia)

 そんなわけで今日書くのはもう15年前、まだ松坂選手が現役でバリバリ投げていたころに起こった日本金融史に残る足利銀行の破綻事件を振り返ろうと思います。

 足利銀行とはその名からわかる通りに栃木県を本拠に北関東を中心に営業している銀行です。設立は日清戦争中の1895年で、戦前までは投資に当たっては非常に慎重であり、また「逃げの足利」と言われるほど債権回収が早かったことから、昭和の金融恐慌時も被害を最小限に抑え安定した経営を保ってきていたそうです。
 ただそんな足利銀行の頭取はというと、設立当初から代々日銀などの中央系銀行から頭取を迎えており、「いつか生え抜きで頭取を出したい」という意識は行内でも持たれていたそうです。その念願がかなってか、元陸士卒で終戦時に大尉であった向江久夫が戦後パージを受けて足利銀行に入行し、頭角を現していったところ、1978年に彼が56歳の時に初の生え抜きとして頭取へと昇進しました。そしてそのまま、1997年に至るまで実に19年もワンマン経営者として在任し、足利銀行の破綻における中心人物として果たすこととなります。

 足利銀行が経営破綻した理由はご多分に漏れずバブル期の放漫経営と投資先の不良債権化で、特に北関東はゴルフ場開発も盛んだったことからこの方面への巨額投資に手を染め、最終的に足をすくわれることとなります。バブル崩壊以前まではこちらもご多分に漏れず積極的な投資に手を染めており、東京都内にも支店を構えて収益率は地銀としてはぶっちぎりだったことから「地銀の雄」と持て囃されていました。
 しかしバブル崩壊以降に投資先の破綻や不良債権化が相次ぎ、経営基盤はどんどんと揺らいでいきます。もちろん当時は他の銀行も多かれ少なかれ同じような状況であったものの、足利銀行が一味違ったのはもはやお馴染みの粉飾で、実質的に破綻している融資先企業に融資枠を用意してさも財政状態が優良であるかに見せつつ、その破綻先の手形を他行に受けつけさせるなど毒をばらまいてたりしました。

 こうして内部に大きな問題を抱えながら経営を続けていた足利銀行ですが、2003年10月に何故かといったらやや失礼かもしれませんが、夕刊フジが他に先駆け「破綻への懸念から政府が国有化を検討」という第一報を報じました。ただ夕刊フジなだけあってか当時は誰も信じなかったものの、翌月にウォール・ストリート・ジャーナルが公的資金注入の可能性を報じると一気に市場の目を集め始めます。
 実際にはこの時点で「金融再生プログラム」を掲げる竹中平蔵大臣(当時)の指揮の下で金融庁が検査を行っており、実際にどう処理するかについて政府が内々に検討していました。そして報道の通りに金融庁は足利銀行とその監査法人に対し粉飾会計を認定し、繰り延べ税金資産の計上の無効を通知して、これにより最近までの東芝のように債務超過が確定します。その上で政府は預金法に基づく足利銀行の国有化を決め、ここに至って足利銀行は名実ともに破綻が決まります。

 その後、粉飾に関わった足利銀行の元幹部や監査法人への訴追と並行して不良債権処理が進められ、財務体質の一程度の改善が行われた後でスポンサーを募ったところ野村ホールディングスグループが入札を制し、ここで足利銀行は国有化から離脱して、一部制限は残っていたものの一般の民間銀行として返り咲くこととなりました。

 この足利銀行の破綻はそれ自体よりも周辺への影響の方が大きかったのではと個人的に見ています。というのも先ほど書いたように竹中大臣が当時進めていた不良債権処理政策の嚆矢ともいうべき措置であったばかりか、この事件前後から企業や金融機関の内部統制を米国流に厳格化されていき、時期からいってその後のJ-SOX法設立にも影響したと考えられます。
 なお足利銀行の監査人であり、当時業界最大手の中央青山監査法人は、この事件だけではないですが諸々の会計不正に所属する会計士自身が不正手段を指導していたことが明るみとなったことで業務停止命令を受け、その後の解散へと追いやられています。この際に会計士をクライアントごと吸収した新日本有限責任監査法人が代わりに最大手へとのし上がり、日本の会計業界史においても足利銀行の破綻は非常に大きな事件であったといえます。

 破綻した足利銀行の国有化(=特別危機管理銀行指定)に当たっては預金保険法102条一項三号、いわゆる「第三号措置」が適用されていますが、これは足利銀行が破綻する前の2001年に金融安定化と、いざという時の混乱回避を目的として設置された法案でした。現時点までに同措置が適用されたのは足利銀行以外にはありません。
 このところ私が日々日本のニュースを見ていると、「足利銀行以来かな……」という言葉がよく浮かんできます。だからこそ今日こうしてこんな記事を書いたのであり、ある意味今日の記事は前フリといえます。もう少しこうした足利銀行と絡めた報道などないのかなとみているのですがあんまなく、そういう意味では今を分析する上でも意味のない内容ではないと思って書いてみました。

 なお、今回の記事を書くに当たっては当時の状況を一から調べ直しています。破綻当時の私は京都で日々峠を攻めていて(自転車で)、社会や経済への関心は周囲と比べて強かったものの所詮は学生レベルであったことからあまりこの事件について記憶していた内容はほとんどありませんでした。
 ただ最近思いますが、どうせ社会人になって企業に勤めればこうした実社会や産業への感覚や知識は自然と備わってくるものなので、学生のうちは社会人になってしまっては得られない感覚や知識、具体的には文化や思想をしっかり学ぶのに集中した方がベターである気がします。変に背伸びして実社会に関する感覚を身に着けようとしてその方面が疎かになるのは非常にもったいない限りです。

 そんなこと言いながら、今ひたすら一向一揆について調べている自分の姿を見るとなんかいろいろおかしい気がします。気分はもう南無阿弥陀仏って感じだし。

2017年10月4日水曜日

平成史考察~ミドリ十字の破綻(1998年)

 自分が中学生だったある日、自宅ポストにうちの親父宛てで「ミドリ十字から○○(失念した)者に転職いたしました」という手紙が届けられているのを私が見つけました。あとで話を聞いたところ手紙の差出人は親父が学生時代に家庭教師をしていた相手とのことで、その後も親交があった、というよりかは今よりもお歳暮とかずっとマメだった時代でもありわざわざ転職報告の手紙も送られてきたわけですが、「なんやその人、あのミドリ十字やったん?」と両親に当時聞いたことは覚えています。
 この「ミドリ十字」という会社名について、恐らく私と同年代の人間でもこの会社のことを覚えている人は少ないと思え、私より後ろの世代となると知っている人間はごく限られるでしょう。この会社がどんなことをしたのかというと、端的に言えば薬害エイズ事件を引き起こした張本人的な会社です。

ミドリ十字
薬害エイズ事件(どちらもWikipedia)

 薬害エイズ事件については本題ではないためその内容の説明は割愛したいところですが簡単に概要を説明すると、血友病患者に必要な人間の血液を原料とした血液製剤と薬があるのですが、事件発生当時は加熱処理されておらずエイズ患者の血液が混入することで血友病患者へのエイズ二次感染が日本でも広がってしまったという事件です。この二次感染については1980年代には危険性が認識されており対策となる加熱処理製剤も存在していましたが、当時の血液製剤大手のミドリ十字は加熱処理製剤の開発で遅れをとっており、同社のために時間稼ぎを行うため、政府審議会でこの方面の権威でありミドリ十字とも関係の深かった安部英が非加熱製剤の使用継続を敢えて認め、いわば人災によって感染を広げる結果を招きました。

 最終的にこの問題は1990年代中盤、二次感染被害を受けた血友病患者やその支援団体らの抗議によって社会の日の目を見て、政府もその非を認めた上で被害者へ謝罪することで救済が始められることとなりました。そしてその結果というべきか、当時としては超優良企業と持て囃されていたミドリ十字も世間の激しい批判受けることとなり、1998年に一部部門が日本赤十字に買収されたほか、同業の吉富製薬(現田辺三菱製薬)に吸収合併されその歴史を終えることとなります。

 当時私は子供だったこともあってミドリ十字という会社が社会的にどのような地位にあったかは今でもいまいちピンとこないものの、就職先としては超優良とみられていたようで、「ここに入ればもう安心」とされる会社であったそうです。それだけに突然の破綻は当時としてもインパクトが大きく、同年には山一證券も破綻していますが、「まさかあの会社が……」と言われる類に入っていたのは覚えています。

 事件当時のことで私が覚えていることとしては、この問題の対応に動いた当時の厚生大臣の菅直人氏が高く評価され一躍その名を高めたことと、ニュース番組でやたらとミドリ十字という単語が繰り返されていて「赤十字と何が違うんだ?」と思ったことが今浮かびます。事件内容については正直、事件当時はほとんど把握できておらず、後年になって被害者団体を支援してその世間への周知で大きな貢献を果たした漫画家の小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」を読んでようやく理解できた始末でした。
 ただもう一つ付け加えることとして、なんとなくですがこの当時はエイズ問題についてはやはり世間の関心が強く、その対策や対応、感染拡大を食い止めようとする声が今より多かったような気がします。あまりこの方面に詳しくはないのですが先日、九州地方でエイズがやたら感染拡大しているという報道があったように思え、なんとなく昔と比べてエイズ問題への世間の感心が冷めているようだし、対策も後進しているような印象を感じました。

 最後に、上記の安部英について以前うちの親父が「あいつは元731部隊だ」と言っていましたが、これは明確な間違いです。戦時中に軍務経験こそあれども731部隊のあった陸軍ではなく海軍であり、また731部隊に在籍した経歴もありません。恐らく親父は、ミドリ十字の創立者である内藤良一が731部隊出身であることと混同したのだと思います。
 この内藤良一なる人物については実はこの記事を書こうと思って少しネットで下調べした際、つまり数十分前に知りました。私はこの問題について過去何度もWikipediaを中心に調べているにもかかわらず今回初めて知ったということは、そう遠くない時期に誰かがWikiの記事を加筆したと思われます。非加熱製剤自体、731部隊が行った人体実験結果を元に米国で作られたという事実自体は知ってはいましたが、ミドリ十字がその出身者によって創立された会社というのは今回初めて知るとともに、つくづく因果の深い歴史であると思えてなりません。

2017年5月21日日曜日

「激動の昭和」の次は?

 疲労して頭痛もあるので短くまとめますが、今上天皇が来年末には退位するとみられることから次の元号が一体何になるのか市井でも段々と議論がされ始めてきました。元号は基本的に論語をはじめとした中国の古典から漢字二文字が選ばれるので予想すること自体ほぼ不可能であるためあまり興味がないのですが、その代わりに少し興味があるのが平成の通り名です。

 ひとつ前の昭和に関してはほぼ満場一致で「激動の昭和」という通り名が付き、現在においても歴史教科書などでこうした通り名とともに歴史が振り返られています。私自身の認識でもこれ以外の通り名は考えられず、戦争に負け天皇制の存亡すら危うかった時代を経て、経済力で世界二位に躍り出るほどの復興を遂げ、ある意味世界における日本史におけるボトムとピークが一緒にやってきたような時代でした。恐らく今後も昭和時代ほどアップダウンの激しい時代が日本にやってくることはなく、だからこそ激動という言葉に誰もが共感したのだと思います。

 然るに平成については果たしてどう表現するのか。私自身でパッと思いつくのは「安楽死の平成」で、一時は世界二位の経済力を保持して米国すら脅かしたにもかかわらず、経済力で中国に抜かれ、少子高齢化は激しくなり、年金をはじめとしたあらゆる制度が破綻してくるなどゆるゆると衰退してきた時代であったように思えるからです。
 何も安楽死というほど極端な言葉を使わないとしても、プラスなイメージの言葉はなかなか出てこずマイナスワードばかり浮かんできます。もう一個あげるとしたら「苦難の平成」といったところで、阪神大震災、東日本大震災の二つの巨大な震災を経験していることからの言葉ですが、まともに落ち着かせるならこの言葉じゃないでしょうか。それ以外だとストレートに「衰退の平成」というべきかとも思いますが、なんかこういう言葉編んでて今上天皇に悪い気すらしてきます。今上天皇は何も悪いことしてないというのに。

 あと最後に浮かんだ言葉を付け加えると、最近「失われた30年」という言葉すら出てきていることから、「失われた平成」というのもありかもしれません。もっともこれは自分で言ってて、自分の半生全部否定されているような気もするのであまり気分良くありませんが。

2017年2月22日水曜日

平成史考察~ここがヘンだよ日本人(1998年)

 今思い返してみるとすごかったなぁと思いだす番組として、上記の「ここがヘンだよ日本人」があったので今日はこれについて書きます。

ここがヘンだよ日本人(Wikipedia)

 「ここがヘンだよ日本人」とは1998年から2002年までTBS系列で放送されたバラエティ番組の事です。元々は特番でしたが視聴率が好調だったことを受けレギュラー化し、放映当時は番組の内外で様々な議論が起こっておりました。
 多分覚えている人の方が多いと思うので説明する必要があるのかやや微妙ですが説明すると、在日中の外国人を集めて日本の様々なトピックについて見解を聞いたり、外国人同士で議論させるという番組内容でした。当初は比較的穏やかな、日本人からすると当たり前の光景や習慣だけど外国人からしたらどんな風に映るのかといったテーマが多かったものの、法曹界を重ねるごとに段々と内容がシビアになり、日韓問題や同性愛問題など機微なテーマも取り扱いだし、また出演者がいろんな意味でキャラが濃い面々が多かったことからも怒鳴り合いなんて当たり前、回によっては本気で乱闘にまで発展しかねないほど白熱することもありました。

 この番組から芸能事務所に所属する外国人タレントが数多く出演していましたが、中でも番組お顔となったのはゾマホン現ベナン共和国駐日大使で、大抵どの回でもテリー伊藤氏を始め他の出演者を激しく批判したり怒鳴ったりして、見ている私としては「見ている分には面白いけどあまり友達にはしたくないタイプだな」という感想を覚えていました。そしたら今回改めて経歴を調べてみたら日本に来る前は中国に留学しており、その留学先が北京語言学院だったため、地味に私の先輩であったことが判明しました。
 この番組で知名度を上げたゾマホン大使はその後、たけし軍団に所属して今でもたまにテレビとかに出てきます。数年前に見た時は大分角が取れたというかこの番組に出てた頃よりかは丸くなっており、物腰が柔らかそうに見えましたが、もしかするとこの番組の中だけああいう強烈なキャラクターを演じていたのかもしれません。

 そのゾマホン大使の様に、恐らく多かれ少なかれの出演者はこの番組向けの顔として敢えて激しい主張を伴うキャラクターを演じていた可能性はあります。しかしそれを差し置いても番組内の議論は凄まじいものがあり、実際テレビ局にもあまりにも暴力的な議論だとして当時抗議が寄せられていたそうです。ですので多少やらせが入っていたとしても議論自体は恐らく当人たちも真面目にやっていたように思え、そう考えると外国人に日本のいいところいちいち答えさせる最近のどうでもいい番組よりかは見応えがあった気がします。

 私はこの番組を毎回見ていたわけではありませんが、たまたま見ていて覚えている内容としては先に上げた日韓問題に関する議論で、やはりこの議論では韓国出身の出演者が日本の態度への不満を当初述べていたのですが、その出演者に対し噛みついたのはやはりゾマホン大使でした。
 曰く、「日本はもう韓国や中国に対し、過去に行った行為を認めた上で公式に謝罪しているじゃないか。欧米の連中は自分たちがアフリカにしたことを何も謝っていない!」という、いつも通りの絶叫ぶりを見せていましたが、この発言は非常に印象深く私の中に残っていました。欧米より日本はマシな態度をしているなどと主張するつもりはさらさらありませんが、別の国、それも東アジアの外側から日韓問題を見るとこう言う風な見方もあるんだなと、外からの視点というものに強いインスピレーションを覚えるとともに、ちょっとだけゾマホン大使を見直しました。
 なお当時学校で大声で何か主張していると、「お前はゾマホンかよ」というツッコミをするのが短期間ではあったもののありました。

 今回なんでこの番組を取り上げたのかというと、単純にこういうタブーというかギリギリの話題に挑戦するような番組が今もうないなと思ったのと同時に、今の時代だからこそこういう本音で且つ本気で議論するような番組を見ていたいなと思ったためでした。比較的近いと言えるのが「たかじんのそこまで言って委員会」ですが、生前のやしきたかじんも番組視聴率が好調な理由について、「(台本などで)作っておらず、本音で怒鳴り合ってるからではないか」と話しており、如何に近年の番組が演出過剰なのかを暗に批判していました。
 なおこの話が出た際、番組名こそ明確に明かさなかったものの「さんまのスーパーからくりテレビ」に出てくる素人はすべて事務所所属の芸能人だということを出演者がばらしていました。

 少しテレビ論の話になってしまいますが、やはり今の番組は作り過ぎというか演出過剰で、視聴率がいい番組というのは演出が極めて薄いものが多いように感じられ、視聴者もやはりガチなリアルを求めているのだと私は分析しています。それに対しテレビ業界関係者はいまいち気づいているように見えず、むしろ演出が足りないとばかりに演出を増やそうとして余計に視聴率離れを起こしているのが今のフジテレビのように見え、視聴者との乖離が激しいなという風に見ているわけです。
 私自身、もともと政治討論が好きということもあってきわどいテーマでの本音議論があればチャンネルを合わせてよくじっと眺めていたものです。しかし近年はこうした番組はなく、政治家や評論家の一方的な都合のいい主張だけを垂れ流す番組が多く、だからこそ「ここがヘンだよ日本人」を急に懐かしく憶えたのでしょう。真面目な話、中国本土でまさにこのテーマで中国人同士に討論させてみたらどうなるのか気になるので、どっかのテレビ局とかでやってくれないかな。そしたら私なんか司会やってもいいし。

2015年12月6日日曜日

平成史考察~明治大学法学部大量留年事件(1991年)

携帯料金会議 格安スマホの普及に独自サービス必要との声(毎日新聞)

 上記リンク先はちょっと古い11月26日の記事ですが、現在値下げ議論で盛り上がっている携帯料金について有識者会議の議論内容を伝えているものです。この携帯料金の値下げ議論については以前にもこのブログで書いていますが、この記事で私が注目したのは乗り換えする人への過剰な優遇どうこうではなくこの会議の取りまとめ役をしているある人物の名前でした。
 その人物というのも新美育文明治大学教授で、この人はかつて明治大学で起こったある事件で非常に有名になった人物です。最初この名前をこの記事で見た時は「どっかで見たような……」というくらいの反応しかできませんでしたが、やや気になったので検索してみたところようやくこの人の経歴を思い出せたので、折角だからここでもかつて起きたその事件を紹介しようと思います。
 それにしても、この名前だけで反応できたのは我ながら凄いと思う。

明治大学法学部大量留年事件(Wikipedia)

 その事件が起きたのは1991年の明治大学でした。当時、日本はバブル絶頂期で明治大学ほどの有名大学の学生であれば卒業後の進路は引手数多で卒業を控えた四年生の学生は誰もが有名企業の内定を得られ、後は卒業を待つだけの身でした。
 そんなバラ色の将来が確約されのんびり過ごしていた学生に激震が走ったのはこの年の3月。この時、明治大学法学部は四年生の学生257人に対し留年させることを決定し、このうち147人は新美教授が担当する必修科目「債権法」のみが未修了であったことから卒業が認められませんでした。

 この発表に対し慌てたのはもちろん学生たちで、卒業後の進路も決まっていた状態でこの通知が来たもんだからまさに青天の霹靂のように受け取り、多くの留年学生が新美教授に対し採点の再考、つまり単位を出して卒業させるよう求めたそうです。しかしこうした学生たちの訴えに対して新美教授は「あくまで厳正な採点の結果」であるとして突っぱね、ならばとばかりに学生が詰め寄った小松俊雄法学部長も明治大学の「独立・自治」の建学精神を引用し、新美教授の判断を尊重するとして卒業を認めませんでした。

 一見すると新美教授は厳しい採点を強行して多くの留年者を出したように見えますが、実態はそうではなかったようです。問題となった「債権法」の授業は二年生時から履修できる科目で、四年間で卒業する学生は都合、三回履修する機会がありました。しかし留年した学生らはその三回の機会に未履修、または落第し、更には夏に行われる再試と、卒業間際の三月に行われた特別試験でも満足な成績が残せませんでした。
 採点を行った新美教授は最後の特別試験の結果を鑑みてさすがに留年者数が多過ぎると感じ、試験を難しくし過ぎたのかとも感じたそうです。しかし改めてリポートなどで各学生の学力を確認するとやはり学生個人らの学力が不足していると思え、厳しい判断になることは承知の上で大量の「不可」を出すことにしました。

 この決断について新美教授は取材に対し、簡単に内定が得られる時代もあってか最低限の勉強すら行わない学生が増えていると話したそうです。学会内でもこの新美教授の決断に対し、授業への取り組みに対し警鐘を促してくれたなどと好意的な意見が多く集まるなど歓迎され、事件が大きく報道されるにつけ大学入学後は勉強しなくなる学生をそのまま放置して卒業させることに問題があるなど大学教育全体を問う議論へと発展していきました。

 ここから私の所見となりますが大体90年代中盤から後半に至る間、猛勉強して大学入った後は何も勉強しない学生というのがちょっとした社会問題になり、「分数の出来ない大学生」などといった本も出版されていました。実際に昨日会って話聞いた人も午前中に大学行って麻雀のメンツ集めるとそのまま雀荘へというのが普通で、授業なんてほとんど出なかったと述懐しており、こういってはなんですがやっぱり自分の世代とは違ってたんだなぁって気がします。
 この新美教授の行動はその後の世論を考えるだに、勉強しない学生に対する警鐘としては最初期に当たるものだったのではないかと思います。少なくとも一回こっきりのワンチャンスにめちゃくちゃ難しい試験で振り落すということはしておらず、むしろ何度もチャンス与えた上での決断ですから至極真っ当な判断で教育者としては実に立派な態度と言えるでしょう。それだけに最初の有識者会議も仕切っていると聞いて、この件でこの人が関わっているというだけでなんとなく良くなるんじゃないかという期待感が持てます。

 なおこの記事を書くに当たって明治大学出身の友人に、「この人知ってる?」と振ってみたところ、「直接授業を受けたりとかはないが、伝説となっている教授」だと返信が来ました。

  おまけ
 私が学生だった頃、よく大学教授からは「最近の学生はちゃんと授業に出席する」とよく言われ、先ほども言った通り時代というのは大きく変わってきており大学に入って遊び放題する方が今は少数派なのかもしれません。さらに、私はその中でも特別授業に出席する方で、卒業単位は124単位で足りたけど興味ある授業に片っ端から出てたためか最終的には160単位を数え、単位認定されない授業も含めれば180単位くらいは取っていたように思います。なのであんま、大学でもっと勉強したかったと思うことはないな。

2015年1月10日土曜日

平成史考察~毎日デイリーニューズWaiWai事件(2008年)

 昨年、朝日新聞が従軍慰安婦を巡る報道で誤報があったこと、またその問題を池上彰氏がコラムに取り上げようとしたところ掲載を見合わせたことについて、編集に問題があったと認めた上、責任を取る形で当時の社長などが退任しました。もっとも報告書は変にぼかして「責任を感じての退任・更迭であって謝罪ではない」と、新聞記者にあるまじき妙な表現でぼかされていましたが。
 実はこの一連の朝日の妙な会見を見ながら私は、かつての毎日新聞の事件と比較する記事はいつごろ出てくるかと、他人には一切話さず虎視眈々と他のメディアの記事を眺めていましたがついぞお目にかかることなく年を空けてしまいました。誰もやらないなら自分がやるというのがモットーであるのと、そろそろ書かないと記憶から薄れるという危惧もあるので今日は久々の平成史考察で2008年に問題が発覚した毎日デイリーニューWaiWaiで起きた異常な記事問題とその後の毎日の無様な対応について取り上げます。

毎日デイリーニューズWaiWai問題(Wikipedia)

 覚えている人はまず皆無でしょうが、実は私は2007年に開設したこのブログでこの事件を当時に取り上げています。当時の記事を読み返すとなんか妙に読者へ語りかけるような文体で書かれてるため自分で読んでてイライラしてきますが冒頭にて、

「こうしてみると問題発覚から実に三ヶ月も過ぎております。光陰矢のごとしとは言いますが、あの頃時事問題として取り上げた記事を再検証にて再び使うことになろうとは三ヶ月前には思いもよりませんでした。」

 ということを書いていますが、まさか七年後にこのネタを掘り返す、しかも平成史という現代史ネタとして自らまた取り上げるなんて当時は夢にも思わなかったでしょう。それにしても、自分のブログも結構年季入ってきたな。

 話は本題に入りますが当時の事件を覚えてない人もいるでしょうから簡単に概要を説明すると、毎日新聞社が運営していた英字ウェブサイトにあったコラム「WaiWai」で長期間に渡り、裏付けの取れない性的で低俗な記事が掲載され続けていました。掲載されていた内容は文字に起こすのも嫌になるくらい汚い内容ばかりで興味のある方はウィキペディアのページに行ってみてもらいたいのですが一つだけ引用すると、「日本の女子高生は刺激のためにノーブラ・ノーパンになる」というのもあったようで、私に限らず日本人からしたら何を以ってこんな嘘を堂々と報じるのかと少なくない怒りを覚えるかと思います。

 このWaiWaiの問題の責任を毎日新聞が認めたのは2008年でしたが、実際にはネット上を中心にそれ以前からこのコラムの異常性、問題性を指摘する声は多数出ており、中には直接毎日新聞社に通知や抗議したもののまともな対応らしい対応はなかったとも聞きます。そうした毎日のまるで他人事のような杜撰な対応に関してはウィキペディアのページに詳しく書かれてありここでは省略しますが、敢えてここで私が槍玉に挙げたいのは問題を認めた後に毎日が行った関係者への処分内容です。

 確信犯で事実とは思えない異常な翻訳記事を書いていたライアン・コネルという記者は懲戒解雇されずに休職三ヶ月となりました。何の確認もなくあくまで私の勘ですが、まだこの人は毎日にいるんじゃないかな。
 そしてデジタルメディアを統括していた朝比奈豊常務(当時)は役員報酬の10%返上という処分を受けましたが、処分が発表された2008年6月27日の二日前の6月25日に毎日新聞社の社長に昇進しており、大きな問題を犯したにもかかわらずまともな処分が行われなかったばかりかまるで意に介さないかのような不可解な人事が取られています。そのほかの処分者に関しても大体似たり寄ったりです。なお朝比奈豊は現在TBSの取締役をしている模様です。

 通常、というかまともな会社なら不祥事を起こした当事者とその監督・責任者は更迭か、場合によっては解雇されるのが普通です。しかし毎日は上記の様に更迭どころか全く逆に昇進させており、誤報が許されないメディア企業としてみると理解のできない人事としか言いようがありません。
 なお日系メディアでこの辺の人事に関して最も厳しいのは共同通信だと断言します。誤報や間違った写真を載せた記者は即刻解雇され、それを見抜けなかった編集長も確実に更迭されます。実はそういう経緯で更迭されたばかりの編集長が自分の上司になったことがあったのですが、「なんでこんな立派な人が本人ではなく部下のミスで飛ばさなければいけないんだろう?」と思うくらいしっかりした人だったもので、共同通信は恐ろしいけど確かに凄い所だと畏敬の念を覚えました。それにしても自分も妙な体験多いな。

 話しは戻しますが、変な言い方となるものの上記の毎日の対応と比べるならまだ朝日の対応というか処分はまともだったなという気がします。もっとも朝日に対しても「あくまで謝罪ではない」など妙な言い訳したり、会見では池上氏のコラム不掲載について、「現場の編集長の判断」と説明したところ実際には社長の関与があったなどの点で強い不誠実さを覚えますが、何が問題なのかと言わんばかりの毎日のイカれた対応と比べれば非常にかわいいものです。

 ここだけの話、以前から私は毎日の記事を見ていてガバナンスの欠如というか、メディアとしてまともな会社じゃないという評価をしていました。というのも常軌を逸しているとしか思えない記事が普通に紙面に載っかって来ることが多く、いくつか例を出すとこのページにも紹介されていますが、2012年には満開の桜の写真と共に花見客が多いという記事が載せられましたが、実はこの桜の木は前年に台風で折れており、折れる以前に撮った写真をそのまま流用して存在もしない桜の木を取り上げていました。
 また2005年に起きた「JR羽越本線脱線事故」では、現場関係者や航空・鉄道事故調査委員会が脱線は予想のできない突風によるもので予見は不可能だという意見を出す中、この事件を取り上げた毎日の社説では、「この路線を何度も運転している運転士ならば、風の音を聞き、風の息遣いを感じられたはずだ」と書かれてあり、まるで運転士のミスであるかのように主張しています。風の息遣いを感じられるだなんて、書いた奴はゲームかなんかのやり過ぎじゃないのか。

 どちらの記事も掲載前の編集段階でどうしてストップをかけられなかったのか、載せたらまずいとどうして思えなかったのかが自分には不思議でしょうがありません。そう思えるほどに毎日の編集部はガバナンスがまるで聞いておらず、少なくとも朝日新聞を批判するような立場ではないでしょう。

毎日新聞秋田版がおわび掲載 「テカテカ光った自民県連幹部」問題(産経新聞)

 などという記事を用意していたら、またも毎日がガバナンスが効いていないことを証明するかのようなとんでもない誤報記事を掲載していたというニュースが入ってきました。この記事の文章も下品極まりないし編集は何を見てこんな汚い文章を紙面に載せるのか、もはやレベルが低いとかいう問題ではないでしょう。毎日はバイトにでも記事を書かせているのか、はたまた記者がバイトレベルなのかのどっちかであるというのが私の意見です。

2014年5月20日火曜日

平成史考察~パソコン遠隔操作事件(2012年)

 本日一斉に報道が出ましたが、2012年に4人もの誤認逮捕者を出したパソコン遠隔操作事件でかねてから容疑者として起訴されていた片山被告が本日、これまでの否認から一転して自分がやはり犯人であると白状しました。

パソコン遠隔操作事件(Wikipedia)

 前置きは要らないかなと思いつつも一応平成史考察の記事なんだから概要を簡単に説明すると、2012年にネット上で殺害予告なり爆破予告が出たことから全国の警察が四人の男性を逮捕しましたが、四人とも使用していたパソコンに遠隔操作が可能となるウイルスが仕込まれていた上に予告がされた時間にアリバイもあったことから、四人とも誤認逮捕だったということがわかります。その後、犯人と称する人物からマスコミなどへ警察を嘲笑するような内容のメールを送り、さらには暗号文も送って自分を早く捕まえて見ろと挑発したことから、ある種で劇場型犯罪のような傾向を持っていきました。

 こうした中、暗号文を解読した上にその前後の行動が不振だったこと、さらには過去にもネット上で脅迫事件を起こし実刑を受けていたことなどから片山被告が容疑者として2013年2月に逮捕、拘束されます。ただ逮捕時の警察の捜査はお世辞にもしっかりしていたものではなく頼りない状況証拠しかないような状態であったため、世間では今回もやはり冤罪ではないかという声が上がっておりました。そういった声が長くあったことから長い交流の後にようやく起訴されると、しばらくは証拠隠滅の恐れがあるとして拘置が続きましたが支援者らの努力もあって、2014年3月に保釈が認められました。

 その二ヶ月後の今月5月、またも真犯人と名乗る人物から片山被告はスケープゴートになってもらったというメールがまたもマスコミなどへ送られます。このメールを受けて片山被告は改めて自分は無実で真犯人はいると主張したのですが、昨日になって急転直下、警察が問題のメールを発信されたスマートフォンを河原で見つけ、さらにそのスマートフォンを片山被告自ら埋めていたのを目撃していた上にスマートフォンからは彼のDNAも採取できたと発表します。この警察の発表が出るや片山被告は弁護士にも連絡よこさず失踪しましたが、本日になって担当弁護士の元に現れ自分が犯人で件のメールも自作自演だったということをようやく白状したわけです。

  この事件について私の感想を述べると、まぁ波乱があってみていて面白かったなというのが素直な所です。ただそれは事件の顛末であって犯人の片山被告についてはややイラつくというか、単純に嫌な奴なだけだったんだなと呆れる気持ちの方が大きいです。

 ここだけの話ですが、私はこのブログで最初の男性四人の誤認逮捕事件こそ取り上げましたが、その後この事件は一切取り上げていません。何故取り上げなかったのかというと片山被告が本当に犯人であるかどうかわからず、犯人だという明確な証拠が出るか、逆に冤罪だという証明が出たらまとめようと考えていたからです。ただそう考えつつも警察は確たる証拠を逮捕から約1年経っても出すことが出来なかったことから内心では冤罪である可能性が高いのではないかと見始めていて、三月の保釈時にはもういっかなと思って冤罪説を強く主張しようかとすら思っていました。結局は当時の私が疲労でいっぱいだったのと、四月以降は執筆するネタが多くて埋もれてしまったため見送りましたが、結果がこうなっただけに書かないでおいてホントよかったとホッとしてます。

 それにしても片山被告の最後のミスというか保釈後のメール送信は呆れる以外ありません。割と世論も冤罪説が強かったですし支援者も江川紹子氏を始めがっちり揃ってて、何もしなかったら案外無罪を勝ち得た可能性も見えてただけに余計なことして自分の首を掻っ切った行動としか言えません。これじゃ支援者の人たちもがっかりですし、何より担当弁護士の方が文字通り騙されていたにもかかわらず昨夜も必死で無実を訴えていただけに皮肉ではなく真摯に不憫に感じます。弁護士もこういうわけわからん奴の弁護しなきゃいけないとなると大変だな。

 ただ後出しじゃんけんみたいでちょっと良くないと思いつつも言わせてもらうと、保釈後のメールが送られた際の片山氏の会見の様子は見ていて違和感を感じておりました。どの点に違和感を覚えたのかというと、「自分が無実であると証明するメールを送ってくれて真犯人には感謝する」と述べた上で、「犯人には自分を陥れたという点で怒りも感じなくはないが特段の感情はない」と話し、こういってはなんだが淡白すぎやしないかという気がしました。そして何より、この会見では終始表情がにやにやしていて、いくら自分の無実が証明されるかもしれないったってもうちょっと神妙な表情が浮かんでくるのではないかと思え、まだ真犯人だとは思わなかったものの裏で片山引こうと真犯人がつながっている(マッチポンプ)のではという風には思いました。

 あとタイミングの話をすると、昨年12月には黒子のバスケ脅迫事件の犯人も逮捕されており、この手の世を騒がすネット脅迫事件はきちんと捕まるという結果となって治安的には本当に良い結果になったと思います。同時に黒子のバスケ脅迫事件もそうですが、犯人らが本当に薄っぺらい動機で世間を大聞く騒がせさせ、こういってはなんですが無性にむかつきます。大層な動機があればいいってもんではありませんが、くだらない小人が世の中に害悪をもたらすほどつまらなきものはありません。そういう意味で二度とこういう人間が出ないよう、最低でも無期懲役にするぐらいこれら事件の犯人には厳罰を与えてもらいたいというのが私個人の意見です。

2014年5月14日水曜日

平成史考察~JR西日本福知山線脱線事故(2005年)

福知山線脱線事故(失敗知識データベース)

 このところ事件とか事故ばっか取り上げている気もしますが割とやる気のあったこの平成史考察の連載記事が滞っていたのもあるし、まぁありかなという気もします。ちょっと余談となりますが、私は以前に失われた十年について連載記事を書いており、微妙にこの時の連載に書いた記事とネタが被って困ったりします。まあこっちの連載では事件や事故を単発的に描く目的だから書き方によっては改善できるとは思うけど。

 それでは本題に入りますが、今日は2005年に起きた福知山線脱線事故について書きます。この事故が起きた当時、私は京都にある大学に通っていたため事故発生直後は友人などからまさか事故に遭っていないかなどと心配するメールが何通か届きました。幸いにして私は福知山線を利用していなかったので何の被害も受けませんでしたが、私の通っていた大学の学生がこの事故車両に多数乗っていたため死者が出ただけでなく、一部四肢の切断などという痛ましい体験をされる方も出ました。この事故の死者数は107人ですが、死者数だけでなく負傷者数の562人という数字にその後の生活を一変された人のことを少しでも考えてもらいたいというのが私の願いです。

 事件の話に戻ります。この事故が起きたのは午前中の通勤時間帯で、事故車両には通勤通学のため多くの乗客が乗っておりました。ラッシュの時間帯だったというのもあるのですが、事故車両は事故を起こす前に停車した伊丹駅で70メートルのオーバーランをしております。この車両の運転士は以前にもオーバーランを起こして日勤教育と呼ばれる社内研修を受けておりましたが、この日勤教育についてはあまりいい思い出がなかったと見られていて、そのようにうかがわせる要因として伊丹駅でのオーバーラン後、車掌に対して指令所への報告時にオーバーランした距離(70メートル)を短く伝えてくれるように依頼しております。

 この時の指令所との通信のやり取りは残っていて最初のリンク先のページに詳しく載せられておりますが、やはりこの車掌と指令所とのやり取りに運転士が気を取られ、ブレーキをかけるべき地点を見過ごし制限速度を大幅に超過したままカーブに差し掛かって脱線を引き起こしたと見られます。なお脱線したカーブの制限速度は時速70キロメートルでしたが、脱線時の突入速度は時速116キロメートルで、いろいろ意見はあるでしょうが最大の事故原因はやはり運転士にあるのではないかと私は思います。もっともこの福知山線では私鉄各社とのスピード競争のため一部の区間で制限速度を超過することが日常だったということもあり、彼一人を責めるつもりはもちろんありません。

 ここからがこの事件に対する自分の印象を述べていきますが、まず言いたいことは事故後の検証ははっきり言ってひどいものでした。というのもJR西の労組を中心にこの事故の最大の原因は先ほど述べた日勤教育という、オーバーランなどをした運転士に対する懲罰的な研修にあると盛んに主張したことです。この時に報じられた日勤教育の中身は室内に監禁されて延々と反省文を書かせるとか、草むしりを延々と強制されたりと非常に懲罰的要素が強いものだったのですが、果たしてこの時報じられていた内容は真実だったのか私は強く疑っております。
 疑う根拠として当時、この日勤教育を悪者とする説を主張していたのはJR西に複数ある労働組合の一つだけで、こういってはなんですがなんか政治的な意思があるような気がしてなりません。次に文芸春秋が事故を起こした運転士が実際に受けた日勤教育の日誌を手に入れその内容を公開しておりましたが、その内容は草むしりなどではなく、むしろ回復運転を徹底して戒める教育でした。

 事故を起こした運転士は学研都市線内を運転中にオーバーランをして日勤教育を受けたのですが、その研修では「列車の到着が遅れても、運転速度を引き上げて次の駅までの到着時刻を短縮して帳尻を合わせる回復運転をやろうとしてはならない」という、まさにこの教訓が生きていたら福知山線の脱線事故は起きなかったのではと思う文言が日誌に繰り返し何度も出てきていました。多分このくだりは今時自分くらいしか覚えていないと思いますが、この辺はやっぱり雑誌メディアとテレビメディアの違いかなと皮肉っぽく覚えます。

 事故原因についてはざっとこんなもんですが、ここで書いておきたいのは事故直後の救助活動などについてです。この辺は有名なので覚えている人も多いのではと思いますが、現場近くに工場を構えていた日本スピンドルは事故直後、業務を中断して従業員らで賢明な救助活動を行って後に紅綬褒章を受章しております。
 この日本スピンドルの活躍は間違いなく賞賛に値するのですが、実はこの活躍の陰に隠れて事故後の対応でMVPといってもいい行為を行った人物が一人いました。その人物とはたまたま現場近くにいた通りすがりの主婦なのですが、彼女が何をしたのかというと事故後すぐに近くの踏切に行って非常ボタンを押したのです。

 この辺りのくだりも最初のリンク先の失敗知識データベースに解説されておりますが、事故車両に乗り合わせていた車掌は事故後に防御無線機と言って他の車両に緊急事態を伝える無線機の電源を入れたのですが、この無線機は「常用」と「緊急」でスイッチ位置が異なり、電源が入った際は「常用」になっていたため何の信号も発していなかったそうです。
 仮にこの主婦が踏切の非常ボタンを押していなかったら指令所は事故の発生にすぐ気付かず、事故現場に向かって走っていた別車両を停止させることもなかったかもしれません。特に事故車両は線路をはみ出して脱線していたため、上り下りを問わず二重三重の衝突となることも十分に考えられるだけに、この主婦の行動が無ければと考えると本気でゾッとします。

 福知山線の脱線事故については誰もが知っていますが、この主婦の行動については私の身の回りでは誰一人として知っている人間はおりませんでした。地上の星じゃないけどもっと知ってもらいたいと思うと同時に、やるべきだと思ったことを正しくすぐやったことによって多くの被害を避けられるという事例の一つとして紹介したいと思え、今日はこんな記事を書いた次第です。普通この事故の話となるとJR西の不手際ばかりが取り上げられるだけに、ちょっと毛並みの変わった記事になった気がします。

2014年5月11日日曜日

平成史考察~秋葉原連続通り魔事件(2008年)

「あの、もしかして秋葉原で被害に遭われた方のお友達ですか」
「え?」
「いえあの、年齢が近いように思えて」

 以上の会話は2008年6月、私が世話になっていた理髪店の店主が亡くなったのでその奥さんへ線香を持っていこうと仏具屋を訪れた際に店員から掛けられた会話です。というのもあの2008年に起きた秋葉原連続通り魔事件で殺害された男子大学生の自宅が当時住んでいた住所の近くにあり、私の年恰好を見た店員はその友人が線香を買いに来たのではないか思ったそうです。
 もう事件発生から約6年も経っており、そろそろ見直す機会かなと思うので今日はこの事件を取り上げてみます。

秋葉原通り魔事件(Wikipedia)

 事件の概要について先に簡単に説明すると2008年の6月5日、休日で歩行者天国となっていた秋葉原駅前にトラックが突入して歩行者5人をはねると、トラックを運転していた犯人の加藤智大はトラックから降りて持っていたダガーナイフで次々と通りにいた市民を刺していき、警察に拳銃を向けられて投降するまでに14人を殺傷しました。

 事実関係は以上なのですが、この事件で特徴的だったのは事件後の報道にあると言っていいでしょう。 類を見ない規模の通り魔事件であったことはもとより犯行現場が白昼の秋葉原、そして事件の様子を撮影していた目撃者も多かったことで発生直後の報道は非常に加熱して当時のテレビニュースには現場にいた人がインタビューに答える姿が何度も映りました。
 そうした発生直後の報道が終わると今度は犯人に関する報道が過熱します。当時はリーマンショックの直前で最も格差議論が高まっていたこともあるでしょうが犯人が事件発生直前まで派遣社員だったことからこの事件の起きた背景には格差問題があるとか、事件発生地が秋葉原であることから何かとオタク趣味にこだわりがあったとか、まぁ根拠もないのにくだらない議論を延々とやっていたもんだなと今更ながら思います。ただそう言いつつも、犯人のパーソナリティに関しては私も当時注目しており、今日はこの点について詳しく書いていくつもりです。

 犯人の加藤智大は事件発生当時は26歳で、高校卒業後は自動車整備技術を教える短大に進学するも卒業直前に退学し、その後は職をいくらか転々とします。職を転々とすることについては私も人のこと言えないけど。
 先程、犯人は派遣社員だったと触れましたがそれは事件発生直前の話で、犯人は一時期正社員として勤務していた時期もあり、収入も年齢から考えると決して少なくない報酬を得ていました。この点については犯人自身も職業などの格差などが動機になってないと直接言及しており、メディアの明らかなミスリードがあったと私は見ます。

 話は戻りますが班員のパーソナリティとしてよく語られるのは幼少期の生活で、どこでも書かれているから私も書いちゃいますけど母親が非常に教育に対して厳しい人物だったようで、ゲームを禁止することはもとよりテレビの視聴もほとんど許さず、また夏休みの宿題に出る読書感想文でも誤字が一字でもあったら全文書き直させていたと報じられており、残虐な事件の犯人といえどその子供時代の体験については私も同情の気持ちを覚えました。
 そうした母親の強烈な教育の結果もあり犯人は高校で県下でも有数の進学校に進学できましたが、なんとなくわかるんですがどうもそこで燃え尽きてしまったようで成績は一気に下降し、卒業後は先にも伝えた通りに四大ではなく短大へ行きます。母親もこの時期にはどうも負い目があったのか、短大進学後は犯人に自動車を買い与えたりしていたようです。

 一部の報道ではこうしたドロップアウトの体験や母親からの仕打ちが事件発生の原因と分析する声も出ましたが、本人でもない限りそれは断定できないのではというのが私の考えです。では当の犯人は動機をどのように話したのかというと、事件直後にはこのように話しておりました。

「よく使用していたネット掲示板に、自分のハンドルネームを使って成りすます人間が現れて不快な思いをしたので、その成りすました人間に対して大きな事件を起こして嫌がらせをしようと思った」

 細かい文言は私の方で多少脚色しておりますが、大まかな内容はこれで間違いないと思います。私の実感だと大手メディアは「そんなバカなことでこんな事件を起こすか?」みたいに受け取ったように思え、むしろ先程の格差とかオタク趣味とかに原因があると勝手に思い込んで報じてた気がします。あくまで、個人的な意見ですが。
 では私の見方は何なのかというと、結局のところとどのつまり、上記の犯人自身が語った理由こそが真の動機ではないかと思います。

 このように考える根拠を挙げると、どうも犯人の経歴を見ていると以下のような行動が事件以前から繰り返しているように思えるからです。

1、不快な思いをすると詳しい検証をせずすぐに「自分が必要とされてない」と考える
2、恨みを抱く標的に対して直接報復せず、よそで大事件を起こして困らせてやろうと考える

 1に関して説明すると、犯人は事件前に勤めていた勤務先で作業着が見つからず、「自分は要らないってことだろ!」という捨て台詞と共に翌日から無断欠勤しています。この作業着事件自体は動機ではないと犯人は述べており私もそう思いますが、作業着一つ無くなった位で職場放棄するっていうのはちょっとなぁと思いますし、やはりストレス耐性が弱い気がします。それ以前の職場でも休暇申請を断られるや「抗議」として途端に無断欠勤を始めてそのまま退職しており、ちょっとしたことですぐ傷つきやたら極端な行動に出る性格に見えます。

  そして二番目ですがこれが一番の肝で、言い換えた表現にすると「報復が当事者に直接向かわない」という大きな特徴を犯人は持っています。
  先ほどの1番の説明でも犯人はちょっとしたことで会社を「抗議」として無断欠勤していますが、それが抗議になるとは私には思えませんし、問題の解決に何もつながっていないように内心思います。そして事件前の話ですが、犯人は何度か自殺を企図しているもののそのやり方が特徴的というべきか、トラックで反対車線に飛び込んで多くの車を巻き添えにして死のうとしています。なんでそんなやり方しようとしたのかというと、これで元勤務先とか両親は困る、なんていう理由を挙げたとされ、要するに「お前らのせいで大事件を起こした」なんて風評付けて困らせたかったのかもしれません。

 私としたらそんなに恨んでるなら元勤務先にダイナマイト積んだトラック突っ込ませればいいじゃんとか思うのですが犯人はそうしてません。さらに秋葉原の事件でも、通り魔事件を起こしたことで怨みの対象として挙げた掲示板で成り済ました人間がなにか心を痛めることがあるのかというととてもそんな風になると私は思えません。自暴自棄といえばそれまでですが、犯人の大きな特徴として、怒りやわだかまりが直接対象に向かわず、なんかやたら大きな事件を起こせば相手は困るはずだろうという何の問題解決に結びつかない結論へといつも持っていくように見えます。これこそが犯人の特徴的なパーソナリティで事件の動機なんじゃないかと個人的に思う理由です。
 その上で結論を述べると、結局は自分の鬱憤晴らしのために無関係の人間を多数殺傷していることはカスの所業としか言いようがなく、一審と二審の死刑判決を私も支持します。もう一言だけ書くと、程度の差こそあれ問題の根本的原因へ直接働きかけないなど感情の矛先を直接対象に向けない人間は確かに増えて来たかもと内心思い、逆にやたら核心に直接切り込もうとする自分はこの点でもマイノリティなのかもしれません。まぁ自分は最短距離で問題解決を強引に図ろうとするので仕込みとか根回しが苦手という弱点がありますが。

  補足
 なんでこの事件を今更取り上げようと思ったのかというと、事件から6年たって時期も頃合いという考えたのもありますが、犯人の弟が自殺したという報道も見受けたからです。

2014年2月5日水曜日

平成史考察~磯野カツオの声優交替(1998年)

 本題とは関係ありませんが今開かれているオウム真理教の平田信被告の裁判が非常に面白いというか、興味深く見ております。何度かこのブログで宣言してますがオウム事件を最終的に総括するのは当時小学生の立場であの事件を見ていたほかならぬ自分になるだろうと考えており、今回の裁判での各証人の発言は凄いキーワードになると見ております。

 それでは本題に入りますが、各所の報道にも出ている通りにアニメ「サザエさん」で磯野波平役の声優であった永井一郎氏が鬼籍に入りました。ちょっと今日あたり歴史物をやりたいと思いつつもいいネタが浮かばなかったのもあるので、今日は永井一郎氏の逝去に合わせて久々に書く平成史考察で、同じ「サザエさん」の磯野カツオ役の声優交替劇を紹介しようかと思います。っていうか部屋の中寒くて指が上手く動かず、キーボードが打ちづらい……。

 磯野カツオについての説明は無用でしょうが、「サザエさん」の第二の主役ともいうべき代表的キャラクターであるこのキャラの声優は実は過去二回変わっており、しかも初代声優を務めたのは初代ドラえもん役をしていたあの大山のぶ代氏でした。ウィキペディアの記述によると、なんでも大山のぶ代氏は放送開始から3ヶ月間だけカツオ役を演じたものの、何らかの理由から自主降板したとのことです。その後の二代目カツオ役には高橋和枝氏が就き、その後28年の長きにわたってカツオ役を演じることとなります。なお私としては高橋氏の演じていた時代に一番サザエさんを見ていたことから、「そりゃないよ姉さん」っていうようなカツオのセリフを見ると高橋氏の声が真っ先に思い浮かんで来ます。

 そんな高橋氏ですがかねてから抱えていた持病が悪化し、1998年にカツオ役を降板します。容体の急変から来た降板ということもあり、代役にはそれ以前から「サザエさん」で登場頻度の少ない別のキャラを演じていた現在のカツオ役、富永みーな氏が代理登板することとなりましたが、富永氏の起用は当初は一時的な措置で、高橋氏の健康が回復したらまた元通りにする計画だったそうですが容体は結局回復せず、数ヶ月の闘病生活の後に高橋氏は逝去されたとのことです。

 こっからがこの記事のハイライトでありますが、高橋氏の葬儀には「サザエさん」のほかの声優たちも数多く集まり、その中には今回鬼籍に入った永井一郎氏もいました。そして葬儀の場で、実際には高橋氏は永井氏よりも2学年年上でしたが、「こりゃ、カツオ。親より先に逝ってしまう奴がどこにおるか」という弔問を読み上げたと言われます。今回記事を書くに当たってウィキペディアを読み直しておりますが、この弔問時のエピソードは当時の私も聞いており、確か週刊誌で読んでたと思いますがやけにうちの姉貴が「波平の声優がこういう事言ったんだってー」って、「サザエさん」がテレビ放送される一週間おきくらいに口にしてたのでやけに記憶に残ってます。なんども言わなくったってわかるっつーのに。

 そして今回の永井氏の葬儀では、現カツオ役の富永氏がカツオのキャラになり切って弔問を読んだと報じられます。考えてみると不思議なもので、波平からカツオ、カツオから波平へと弔問が読まれており、恐らく今後もこういう小粋な演出が各所で続くんじゃないかなと思います。こういう事が起これるのも声優が交代されてもアニメ放送が続けられるからで、「サザエさん」に限らずとも「ドラえもん」など長寿アニメではこうした声優の交替がこのところ珍しくありません。
 今回なんでこの内容で記事を書こうと思ったのかというと、今思うとこの1998年のカツオ役の声優交替が一つの契機となって長寿アニメでの声優交替が一般的になってきたように思えたからです。この方式によって長寿アニメはさらに寿命を延ばすことに成功しており、概念的には結構大きな一歩だったのではないかと思え、永井氏の逝去をいい契機としてこうして書いてみた次第です。

  おまけ
 全くその気はありませんでしたし今もそうですが、高校時代とかに「花園君は声優向いてるんじゃないの?」って何度か言われました。なんでそんなこと言われたのかというと私の声がひどく特徴的というか、明らかに一般人と異なった発声の仕方で珍しいからでしょうが、私の声の性質は妙に甲高くて聞く人によってはガチで聞くだけで不快になります。友人によると、そのあまりの声の甲高さからどんなに騒々しい場所でもはっきり聞き分けられるとのことで、しかもそんだけ目立つ声してるくせに「○○殺されねぇかな」とか「2、30人くらい一気に死ねばいいのにさ」などとやけに物騒なことを平気で口にするもんだから見知らぬ人でも「何この人!?」みたいに思うのも無理がないそうです。まぁあながち、その見方が間違っているわけでもない気がするが。

  追記 
 コメント欄にてご指摘を受けましたが、ドラえもんの声優で大山のぶ代氏は初代ではなく三代目でした。初代は富田耕生氏、二代目は野沢雅子氏がそれぞれ声を充てており、長くやっているからって大山氏が初代だと今の今まで勘違いしておりました。

2013年12月5日木曜日

平成史考察~通信傍受法と国旗国歌法の成立(1999年)

 昨日に引き続き平成史考察の記事です。今日は1999年当時にメディアなどによって「悪法」と名指しされた二つの法律の成立当時を振り返ります。

犯罪捜査のための通信傍受に関する法律
国旗及び国歌に関する法律(Wikipedia)

 上記の二つの法律が今回取り上げる題材ですが、「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」は「通信傍受法」、「国旗及び国家に関する法律」は「国旗国歌法」という通称がされているのでこの記事でもこの通称を用いて話を進めます。

 それぞれの法律を簡単に説明すると、まず後者の方は読んでそのままで国旗は日の丸、国歌は君が代ということを明記したもので、前者の通信傍受法は平たく言うと暴力団などの組織犯罪に対する捜査において裁判所などの手続きを踏んだ上で盗聴行為を行うことを認める法律です。両者とも法案の審議過程では野党、メディアの双方から激しく批判され、「こんな悪法がよりによって二つも成立するなんて!」ていう論調で報じられていたことを私自身も強く覚えています。
 一瞬書くのを悩みましたが、当時に私は中学生でしたが中学の社会科の教師がちょこっとだけこの二法に言及して、「悪法などと呼ばれている法律が二つ通りました」と話題にしてたのが印象に残っています。もっともこの時の先生の話し方は感情は入っておらずただ単に国会での動きを取り上げただけだったので問題は全くなかったと思いますが、そのように授業でもちょっと話題になったことだけを書いておくことにします。

 話は戻りますが、一体何故この二つの法案が議論の的になったのかをまた軽く解説します。まず国旗国歌法案に関しては今もまだ公立学校にいますが卒業式などで君が代斉唱を拒否したり、拒否するよう生徒に促す現場教師が徐々に見え始めるようになり、現場と教育委員会の間に立つ校長先生が法律に書かれていないのもあって強制し辛いと言った声があり、じゃあこの際だしはっきりさせようという具合で立法されました。しかし国旗も国歌も強制されて歌うのはどんなものか、国民が自分の意思で選ぶべきなのではなどと言う自主性を重んじた反対意見のほか、君が代は戦前からの国歌で軍国主義を惹起させるほか、歌詞が天皇への崇拝の意味しか持ってないため国歌として相応しくないという意見もありました。

 こうした議論の中で覚えていることを挙げてくと、どっかの新聞は君が代に代わる国歌として「ふるさと」を提案してましたが、なんていうかポイントが違う様な気が今だとします。このほか先程の軍国主義を惹起させるという意見に対しては反対意見として、フランスの国歌の「ラ・マルセイエーズ」の歌詞には「ファッキンな敵兵をぶっ殺してドブに捨てちまえ!」っというような内容の文言も盛り込まれていて、それに比べればかわいいものだという声も出てました。
 そのほかにも、これは大分後になって佐藤優氏が自著にて国旗も国家も法律として規定するべきではなく悪法だという意見を書いております。佐藤氏の主張によると、どちらも法律に書かれてなくても国民が想起できることがベストであり、法律化してしまうと変更しようと思ったら変更できてしまうリスクが生まれるとして廃止を求めていました。やっぱ視点が一味違う人だなぁ。

 当時の私の印象だと、国旗に関してはそれほど反対意見は出ておらずやはり国歌を君が代にする点が大きくクローズアップされていた気がします。私個人としても君が代は歌う機会もそんなに多くないし、あとあの独特のテンポがなんか妙に歌い辛いこともあってもし代案があるなら検討した方がいいのでは、ないならないで新しいのを作らせたらいいのではなんていう事を友人と話してました。なお、じゃあ誰に作らせればいいかという点に関しては、「さだまさしでいいんじゃね( ゚д゚)」って結論に落ち着き、何だったらさだまさし氏の「関白宣言」という曲をそのま使ってもアリかもなどと言ってました。

 国旗国歌法に関してはここまでにしてもう一つの通信傍受法に話を移します。この法案も審議当時は散々に叩かれており、具体的には警察が無制限に盗聴活動を行うことによって犯罪とは関係のない民間人も盗聴される可能性がある、プライバシーが侵害されるなどという批判が毎日テレビで報じられていました。
 結論から述べると、成立からもう10年以上も経ちますがこの法律に規定された捜査機関による盗聴が民間人のプライバシーが侵害されたとかいう話は全くと言っていいほど聞きません。そもそもこの法律で規定された通信傍受が認められるのは年間でも十数件くらいらしくそんなに量が多くないってのもありますが、あれだけ大騒ぎしていた割にはなんだよこれはとかちょっと思います。こういってはなんですが騒ぎ損でしょう。

 当時、盗んだバイクで走り出しそうな年齢だった私自身は、そもそも私生活でサツに聞かれちゃまずいような内容を口にするかといったらそんなことはないし、排泄など聞かれたらちょっと恥ずかしい音はたてるもののそんな音をわざわざ盗聴することはないだろうと思って普通に考えれば市民はノーダメージな法律だと思っていました。その上でこの法律によって犯罪組織に対する捜査が広がるのであれば市民にとってはプラスなのだし、何を以ってか世論は反対するのだろうか、自分のプライバシーに盗聴されるだけの価値を持っていると自惚れているのかということを決して誇張ではなく、本気で当時にそう思って周りにも口にしてました。

 今回、なんで1999年のこの二つの法案成立を取り上げたのかというと、いうまでもなくこのところこのブログでも度々取り上げている特定秘密保護法案に対する野党、そしてメディアの対応への不満がきっかけです。この特定秘密保護法案は現在進行形でやんやかんやと批判的に報じられていますが、きっと1999年時と同様に騒ぎ損で終わることになるだろうという予言を書いておこうと思い、また当時と比較するのに面白いと思ったからこそ書き残そうと考えました。

 それにしても今回の特定秘密保護法案に対するメディアの報道の仕方は目に余ります。中には「この法律でプライバシーが侵害される」なんていう全く脈絡のない批判意見まで出てくる始末で、そもそも他人や企業のプライバシーを暴くのがジャーナリストの仕事だってのに何言ってるんだこいつらはと呆れてきます。ある著名ジャーナリストなんかこの特定秘密保護法案が成立すると日本の民主主義が滅びると言ってましたが、そのまえに日本のジャーナリズムを心配しろよと亜流のジャーナリストは思うわけです。

  おまけ
 国旗国歌法に関しては当時に中学生の自分が作った、仲間内で回すだけの文芸同人誌で評論文みたいなのを書いておりました。当時は小説家志望でしたがそれらの同人誌に載せた社会批評文が自分で見てもどれもいい出来で、また書いてて素直に楽しいと思うようになったことからこの時辺りを境にジャーナリストへと志望を転回することとなったわけです。
 なお最初に作った同人誌は友達数人を誘って一緒に作りましたが、その友人らは役に立つどころか足を引っ張る始末で開始二号で廃刊に。この時を境に「他人はクズだ、頼れるのは自分の腕力だけ」という妙な信念を持つに至りました。でもって高校生の頃に今度は一人だけでまた小説メインの同人誌を作りましたが、誌名は何故だか「文化大革命」にしてしまい、友人に渡すところを担任の社会科の教師に見られてしまい、「すごいタイトルだね(;´∀`)」なんて言われたのを昨日のことのように覚えています。あの頃は中身の小説も自分で書いて、表紙絵も描いて、でもってタイトルは筆ペンで書くという有様でしたが、目的に向かって突き進むパワーは高校生として見たら大したものだったと今思えます。

2013年12月4日水曜日

平成史考察~野茂英雄のメジャー挑戦(1995年)

 仮に尊敬する人は誰かと聞かれるのであれば、私ならいの一番にほかならぬ野茂英雄氏の名前を挙げます。なんでまたこの人を尊敬しているのかというとその野球での実績以上に日本人野球選手に対してメジャーへの道を切り開いたパイオニアとなったことに尽き、そこで今日は米野球協会殿堂入りにノミネートされたこともありますし、ほぼ放置していたこの企画不定期連載で取り上げようと思います。

 野茂氏が日本球界からメジャー球団であるドジャースに移籍したのは1995年でした。野茂氏は1990年にプロデビューしていますから日本での実働5年を経て、プロとして6年目からアメリカに渡ったということとなります。
 現在でこそメジャーに挑戦する日本人選手は今話題の田中将大選手を初め、行ってみて本当に上手くいくのかが楽しみなロッテのミスターサブマリンこと渡辺俊介選手など枚挙にいとまがなく、高校生の時点でメジャーを希望する選手まで出てきております。しかし野茂氏がドジャースに移籍した当時はメジャーなど別世界という感覚であり、向こうは向こう、日本は日本と完全に分け隔てて考えられていたように思います。

 では何故そんな別世界に野茂氏は飛び込んだのでしょうか。現在メジャーに渡る選手のようにより高いレベルでの世界でプレイしたいというプロ選手ならではの欲求もあったのかもしれませんが、巷間で伝えられている内容を聞く限りですとそれはやはり二の次で、単純に日本球界で野茂氏がプレイする道がほぼ閉ざされていたことが最大の原因でしょう。

 この辺りの過程についてはウィキペディアに詳しく解説されておりますが、野茂氏は1994年のシーズンを終えた後の近鉄球団との契約更改で球団側と大きく揉めます。元近鉄ファンの方に対して非常に失礼であることは百も承知ですが、この球団は後年にも数多くの選手と契約交渉で騒動起こしたり、末期には球団のネーミングライセンスを他社に売却しようとするなど本気で経営する気がほとんど感じられないほど問題がある球団でした。一説によるとこの時の契約更改でも、優勝すると選手の年俸を上げなくてはいけないから2位くらいの成績が一番いいなどという球団幹部の放言も出ていたそうです。

 話は野茂氏に戻りますが、複数年契約等を求める野茂氏に対して球団側は即座に拒否した上でマスコミに対し、野茂氏は年俸を引き上げるために交渉を長引かせているなどという悪辣な情報を流していました。また当時の近鉄監督である鈴木啓示氏と野茂氏の間ではプレイや調整法などで激しく対立があり、かといって当時においてほぼナンバー1の投手であった野茂氏を他球団に放出する考えは近鉄になく、野茂氏が自分の意図するように野球を行おうにも日本では行えないような状況となっておりました。このように交渉が難航した結果、日本球界に復帰する際は近鉄が所有権を持つことなどを条件に米球団への移籍を球団に認めさせ、野茂氏はドジャース入りすることとなります。

 当時のチームメイトなどによると野茂氏自身は必ずしもメジャーにいきたかったわけでなく、単純に近鉄球団ではプレイできないためだと漏らしていたそうです。私もこの話は本当だと思え、その理由というのもメジャーへの移籍によって野茂氏の年俸は前年の十分の一以下である約980万円まで落ち込んだからです。またメジャーに行く前に記者に対して言った、僕は英語を覚えるためにアメリカに行くわけじゃない。野球をやりに行くんです」というセリフが彼の強い決意を物語っていると思えます。

 こうして海を渡った野茂氏に対して当時の日本メディアは、当時子供だったので正直なところあまり良く覚えていないのですが、少なくとも「頑張っていって来い!」というよりは「散々交渉こじらせて我侭で勝手に飛び出していった」といったような、冷淡な扱いだったと聞きます。かすかな自分の記憶を辿っても、「新たな日本人メジャーリーガーが誕生、勇気をもってアメリカに挑戦!」というようなフレーズは当時聞いた覚えがありません。
 当時の心境は本人のみぞ知る所でしょうが、傍目にも決して気分のいいものではなかったことでしょう。ただ野茂氏のさすがともいうべきところはそのような逆境の中、ましてや環境が全く異なるアメリカのグラウンドで桁違いの脱三振率と防御率を叩きだすという実績を残した点です。その活躍ぶりは現地アメリカ人も認めるほどで、また当時のメジャーリーグは選手のストライキ問題で人気が低迷した中だったそうですが、トルネード投法と呼ばれる野茂氏の独特なフォームが大きな注目を呼んで観客動員数の増加に貢献したと言われ、実際に当時のチームメイトから野茂氏は「お前はメジャーを救った」という言葉をかけられたそうです。

 この時の野茂フィーバーは私もよく覚えており、確か同年にブレイクしたイチロー選手が日産のCMに出て好評を博したことから、シーズンを終えて帰国した野茂氏に対してトヨタがすぐに契約してCM出演していたはずです。もっとも、イチロー選手ほど売り上げを伸ばすには至らなかったようですが。

 その後、野茂氏はアメリカでプレイし続け二度のノーヒットノーランを初め輝かしい記録を作った上で2008年に引退します。私が野茂氏を尊敬するのは半ば日本から追い出されるような逆境の中、自らの実力で以って世間に自らを認めさせたことと、未踏とも言っていいメジャーへの移籍を実現した上でその道を開拓したためです。仮に野茂氏がいなければ現代の様に多くの日本人選手がメジャーでプレイしていたかとなるとやや疑問で、仮にプレイしていても今ほど多くなかったことは確実でしょう。このような意味から野茂氏はしばしば「開拓者」と呼ばれますが、現代においてこの呼び名が最も相応しい人物だと私も思えます。

 なお自分が中国へ渡り転職したのは26歳の頃でしたが、たまたまですが野茂氏がメジャーに渡ったのも26歳で、全然次元も難易度も違いますが野茂氏と同じ年で海外に渡ったというのが自分の一つの自慢です。

2013年7月28日日曜日

平成史考察~イラク日本人人質事件(2004年)

イラク日本人人質事件(Wikipedia)

 この平成史考察もかなり久々の執筆となりますが、思うところがあれこれあるので今日は2004年にイラクで起きた日本人人質事件について書いてみようと思います。

 まず事件のあらましを簡単に説明すると、前年に起きたイラク戦争において米国の勝利が早々に決まり、各国の関心はその次の占領政策をどうするかに注目が集まっておりました。この占領政策において日本は当時の小泉首相の強い主導のもとに自衛隊をイラクに派遣しましたが、これに対して反米イスラム原理主義者などは米国に協力する国もテロ活動の標的すると発表し、その標的の中には日本も含まれておりました。

 こうした情勢の中、イラク現地で外務省が出していた渡航自粛勧告を無視してイラクに入国した日本人三人(男性二人、女性一人)が現地武装勢力に拉致され、人質となっていることが犯人らの犯行声明で明らかとなりました。犯人らは自衛隊のイラク撤退を要求し、聞き入れられなかった場合は人質を殺害する方針も出しておりましたが当時の政府はこの要求を拒否。人質の安否が気遣われておりましたが最終的には地元有力者による仲介を受け犯人は人質を解放したことで、事件はひとまず落着しました。なお事件は発生から何か進展があるたびに大手新聞社は号外を出し、当時の号外発行回数が異常に多かったのは豆知識です。
 ただこの事件は人質が解放されてからがある意味本番だったともいえる事件で、解放された人質三人に対して世論は軽率すぎる行動だとして大きなパッシングが起こり、危険な所に自ら飛び込んで人質となるのは自業自得だとする、所謂「自己責任論」という言葉が流行して大きな議論となりました。

 最後に書いてもいいのですがなんでこの事件を今日取り上げようかと思ったのかというと、このところ私のブログで「平成史考察~玄倉川水難事故(1999年)」のアクセスが非常に増えているからです。夏場の事件だし思い出す人がいて検索をかけているのだろうと思いますが、私はこの記事で、今思い起こせば注意や勧告を聞き入れずに遭難する人は自業自得なのだからわざわざ救助するべきではないという、自己責任論の端緒とも言える世論が出始めていたと指摘しておりますが、それが花開いたというのがまさにこのイラク日本人人質事件だったと思うからです。
 また先日、芸能人の辛坊治郎氏がヨットでの太平洋横断中に遭難して救助された際も同じように自己責任論が飛び出し、辛坊氏は救助費用を自己負担するべきなのではないかという意見も出ており、ちょっとこの事件を振り返ってみようと思ったからです。

 改めてこの事件が起きた当時の状況を思い起こして書くと、まず第一に言えるのは自衛隊のイラク派遣が本当に国論を二分する大きな議題となっていたことです。賛成派議員としてはここで自衛隊を派遣することによってアメリカとの同盟関係を強化するとともに、自衛隊の運用の幅を広げようとする狙いがありましたが、反対派議員はその逆に、自衛隊の存在意義を否定したいがために反対だったように思えます。
 では国民の間はどうだったかというとこちらも割れてはいましたが、あくまで私の実感だと反対派の方が多かったような気がします。何故反対派が多かったのかというとイラクで自衛隊員が万が一に死傷したらどうなるのかと心配する声もありましたが、それよりも何よりも自衛隊が派遣されることによって日本国内でテロが起きるのではという心配が最大だったように思えます。
 なお当時の私の意見をここで書くと、自衛隊派遣に賛成でした。理由は単純で、直接攻撃した米英軍よりも日本の様な第三者的立場の国が治安維持活動を行う方が理に叶っていると考えたからで、今もこの考えに変わりありません。

 話は戻りますがこういう状況下で起きたのがこの事件で、発生当初は「それみろ、やっぱりこういう事件が起きるのだから自衛隊は行くべきじゃなかった」というようなトーンで報じられていたように思えます。ただその潮目が変わったのははっきり申し上げると、人質となった被害者の家族が記者会見に出たその時からでした。会見で家族らは政府を激しく批判して今すぐ自衛隊を撤退させるようにかなり強い口調、具体的に書けば机を叩いて怒鳴る姿がテレビに映り、見ていた私も「心配するのはわかるが止めていたのに勝手に行って、身の安全も保障しろというのは虫が良すぎやしないか」とはっきり感じました。
 とはいえまだこの時点ではそれほど批判は起きず安否を心配する声が大半でありましたが、解放された人質の一人が「またイラクに行きたい」と話したと報じられた直後、インターネットを中心に一気に火が噴き、件の自己責任論が出てくるようになりました。挙句にはそもそも人質となったのは自衛隊をイラクから撤退させるための自作自演だったのではないかいという意見まで飛び出し、あまりの過熱さから被害者は帰国後も記者会見を行わず表舞台から身を隠す羽目となっております。
 念のため書いておきますが、自作自演説についてはさすがに有り得ないと私は考えています。

 何故この時から自己責任論が噴出するようになったかですが、背景にはやはりインターネットの発達が大きいかと思います。ネットが発達して個人でも意見が発信できるようになり、それ以前と比べて一般個人の「本音」がよりくっきり出るようになり、メディアの側もそうした声を拾うようになってきたことが原因だと思えます。
 更に付け加えると、自衛隊のイラク派遣に批判的だった議員や団体がこの事件を政治的に利用しようとする動きがあったことに大きく反感が持たれたことも影響しているように思えます。テロリストへの対応として彼らの要求に決して屈してはならないのはいうまでもありませんが、イラク派遣反対派は事件が起こるやこれ見よがしにこういうことがあるのだから派遣すべきでなかったと声高に主張し、国会などでも批判材料として大いに活用しました。こうした近視眼的な行動を国民もちゃんと見ていて、心なしか事件後からイラク派遣に対する賛成派が増えたような気もします。

 最後に自己責任論について当時、「日本人の心は貧しくなった」などという主張をする評論家がたくさん出てきましたが、何ていうかこういう意見は「自分たちは違うんだぞ!」と言っているようにも見えてあまりいい印象を覚えませんでした。ただ中にはこの事件を指して、「国は守ってくれないのだから自分自身で常に身を守るしかない」と考える人が増えてきたことも影響しているのではと書く人もいて、この意見に関しては逆に「そうだねぇ」などと思うようになりました。

2013年2月16日土曜日

平成史考察~パナウェーブ研究所騒動(2003年)

 今朝、日本に帰国して初めてランニングを行いましたが、上海で走った時と比べて息が上がらないというか、走っている最中に咳をすることがありませんでした。ペース的にはそんな差がないと思うのですが、これって大気汚染の差?ぶっちゃけ、中国でランニングすることが体にいいのか悪いのか判断しづらいんだけど。
 話しは本題に入りますが、今回は覚えている人も多いと思われるあの白装束集団ことパナウェーブ研究所の騒動を取り上げます。

パナウェーブ研究所(Wikipedia)

 この騒動が起こったのは2003年の4~5月、パナウェーブ研究所と名乗る全身白づくめの宗教団体の動向がお茶の間のテレビを席巻しました。この団体は千乃裕子を代表とする宗教団体で、方針としては統一教会と同じく反共主義を掲げていたようですがそれ以上に「スカラー波」と呼ぶ電磁波が人体に悪影響を与えるとして、防護策として白装束を着るだけでなく周囲に白布をかけたりするといった行動が注目を集めました。
 ウィキペディアの記事によるとパナウェーブ研究所が注目を集めるきっかけとなったのは当時、多摩川に流れ着いてこちらも注目を集めていたアゴヒゲアザラシのタマちゃんに対して捕獲保護を試みようとする動きがテレビで報じられたことからだったようです。その白装束という見た目のインパクトがあった上、テントでの集団移動生活を続けていたことから他のメディアも追従するようになり、この年のGWは岐阜県あたりにいたこの集団の一挙手一足が生放送で報じられました。当時の私もテレビで見ており、それこそ朝から晩まで、いつどの程度動いたかなども詳細に報じられていたことをよく覚えております。

 この騒動自体はGWの終了とともに視聴者の興味が離れたことから徐々に落ち着いてきたのですが、確かGWの後半あたりに、それまで一度も姿を見せなかった千乃代表がどこかのテレビ局のインタビューに応えて初めて姿を見せてきました。それまで千乃代表の姿は若い頃に取られた写真(そこそこ美人)しか出回ってなかったため、テレビで出てきた姿はお婆ちゃんだっただけになんとなくがっかりみたいな気持ちにさせられました。なおそのインタビューで千乃代表は、「私はもうすぐ(電波攻撃によって)死ぬけど、タマちゃんを早く保護してあげて」と訴えておりましたが、千野代表が死去したのはそれから3年後の2006年でした。調べてみて自分も初めて知ったけど、これ以前から「もうすぐ死ぬから」っていうのがこの人の口癖だったようです。

 そんなパナウェーブ研究所の現状ですが、先にも書いたとおりに千野代表が2006年に死去したことから自然消滅していったようです。これだけ見るなら言い方は悪いですが寿命の短い一種のカルト集団だったとして片づけられるのですが、自分が少し気になるのは「スカラー波」こと電磁波という概念です。
 パナウェーブ研究所に限らず日本では「米国が電磁波で日本人を攻撃してくる」とか「メタトロン星の電波によると~」などといった主張を行う人がそこそこ多く、ちょっと変わった精神をしている、神憑りしやすい人を表すスラングとして「電波系」という言葉まであります。この電波系ですが、ネットでの情報だけで二次確認を行ってはいないのですが、その始まりは深川通り魔殺人事件の犯人にあるという説を聞きます。

 この深川通り魔殺人事件の詳細はリンク先のウィキペディアの記事に書かれていますが簡単に私の方から説明すると、覚せい剤中毒者だった元寿司職人の男が路上で児童や主婦を次々と殺傷した事件です。この犯人は勤め先で毎回といっていいほど騒動を起こしており本当に救いようのない男なのですが、逮捕された後の供述で、恐らく薬中の影響もあるでしょうが度々「電波が引っ付いて」などと「電波」という言葉を多用しわけのわからない主張を繰り返しております。
 それ以前から電波系と呼ばれる人々が存在したのかどうかはわからないのですが、仮にこの深川通り魔殺人事件の犯人から現在の様な電波系の概念が生まれ、パナウェーブ研究所をはじめとする団体などにも影響を与えたとすると世の中、実に不思議なものだと感じます。あとこの電波でもう一つ気になる点として、この概念ってもしかして日本にしか存在しないのではないかという疑念を持っております。欧米はどうだか知らないですが中国においては「電波が精神を惑わせる」という概念は少なくとも私が見る限りほとんど存在せず、改めて考えると独特な概念のように思えてきたりします。最後に一応断りというか、私はこのような電波が精神を惑わすという概念は全くと言っていいほど信じておりませんが、社会学で言うと無機論というか、人間はその環境や条件によってロボットみたいに大半の行動や思考を決めるという立場を取っております。

2013年1月13日日曜日

平成史考察~ノストラダムスの予言(1999年)

 昨日もブログ休んでおきながら今日もあまりテンション上がらない、というか午後2~5時の間に昼寝したせいで肩とか痛いので、ささっとかけるノストラダムスを仕上げて今晩またゆっくり寝ようかと思います。それにしても我ながら眠り過ぎ。

 中国では昨年、12/22あたりがマヤの暦が終わるやらなんやらで世界で終末の日になるというデマが流れましたが、この手の話で日本で最も大きかったのは1999年7月に世界が滅亡するというノストラダムスの予言でしょう。もっともこの噂が最も流れたのは日本の高度経済成長期絶頂期の1970年代ごろだと言うので、先ほどのマヤの暦といい終末論というのは景気のいい時代に流れるものなのかもしれません。

 では1999年7月の日本の状況はどうだったのか。はっきり言ってノストラダムスの名前自体もそれ以前と比べてあまり大きく取り扱われることなく、「予言?そんなのあったね」というような雰囲気だったと思います。唯一盛り上がっていたのは伊集院光氏をして「マガジン史上最高のギャグ漫画」と言わしめた、オカルト内容を毎回強引な解釈で「つまり、人類は滅亡する」という結論に持ってきていた「MMR マガジンミステリー調査班」が最後の追い上げというか悪あがきを見せただけでした。今でも覚えているのは当時の朝日新聞に、実際に1999年の7月を目前に控えたけれどもサブカルチャー業界では盛り上がっておらず、ゲームでもドリームキャストで「JULY」というゲームが出ただけだと書かれていました。その「JULY」というゲームはやったことないのですが今回の記事を書くに当たってAmazonのレビューを見てみると、こんなのが書かれてありました。

“「1999年7の月、空から恐怖の大王が降りてくるのじゃ~」というノストラダムスの大予言は今ではすっかり風化してしまいましたが、その予言への恐怖がこんなゲームを生んだのかもしれません。内容は濃いキャラクターが繰り広げるサスペンス・ホラー・アドベンチャー。
 システムに斬新な点は見られないし、選択肢総当り作戦でクリアできるので、結論としてチープなソフトなのですが、個人的に、物語後半に登場するクリーチャーが「こんな姿で生き続けるのには疲れた。もう十分生きたから殺してくれ…」という台詞に、モテない街道まっしぐらの自分自身がオーバーラップして思わず涙してしまいました。
 ドリキャスで何かやり残したゲームはないかと探している濃いキャラクターが平気な御仁は是非。”

 まぁ読んでみて、やってみようとは思えないレビューです。

 話はノストラダムスに戻りますが、先程のマヤの暦の所でも書いたようにこういう噂は景気のいい頃に流れやすい傾向があり、逆を言えば1999年にあまり盛り上がらなかったのは日本の景気が非常に悪く、気分的にも悪かったことが一つの原因ではないかとみています。当時は中高年の早期退職ことリストラという言葉が流行ってうちの親父も会社側の募集に応じようとしてましたし、若年層にとっては就職氷河期の真っただ中で、世の中を明るくさせるようなニュースが確かに少なかった気がします。
 じゃあ今はどうなのかって話ですが、上海で生活しているせいかもしれませんが今の方が1999年よりまだ日本のニュースは明るい気がします。さすがに一昨年の東日本大震災の時は自分も少しブルーを感じましたが、景気が悪いからって気分まで悪くなる必要性は本来ないはずです。お金がなくても気分だけは明るい状態を維持する、そういう姿勢こそが今の日本にとって大事なんじゃないかと思います。それにしても、ノストラダムス関係ないな最後のオチ。

2012年12月21日金曜日

平成史考察~小渕元首相の突然死(2000年)

 またびっくりするくらいのタイムラグが空いたこの連載ですが、今回は自分の専門領域というかこの前友人にも「君は経済記者じゃなく政治記者になるべきだった」と言われるくらいに大好きな政治史にまつわる話で、小渕敬三元首相の突然死とその前後、そして歴史的意義について書いていきます。書く前だけど腕が鳴るというか、手ごわい内容だな。

小渕敬三(Wikipedia)

 小渕元首相の細かい経歴については本題ではないので省略しますが、1998年の参院選で大敗した責任を取って辞任した橋本龍太郎元首相の後継選挙で勝利し、第84代総理大臣に就任します。ちなみにこの時の総裁選には梶山静六前官房長官と小泉純一郎元首相が立候補し、小渕元首相を含めて「軍人、変人、凡人」と実にうまく言い表したのはこの前の選挙で落選した田中真紀子氏でした。宮沢喜一元首相といい、評論の上手い政治家は決まって政策手腕は悪い。

 話は小渕元首相に戻りますが就任当初は不人気だった橋本元首相と同じ派閥出身で、また総裁選挙も派閥単位での投票で決まったもんだから支持率は非常に低い水準でした。今でもよく覚えているのは当時放映されていた「ニュースステーション」に薬害エイズ問題で名を上げていたまだ若い管直人元首相が出てきて、小渕元首相とどちらが総理としてふさわしいか電話投票を受け付けたらダブルスコア以上で管元首相が得票を得ていました。それにしてもみんなその語首相になってるから、「元首相」という肩書が多くて書き辛い。

 とまぁこんな具合で出だしこそ悪かったものの、元々「人柄の小渕」と形容されるほど穏やかな性格だっただけに支持率は徐々に上昇。また「ブッチホン」といい有名人やテレビ番組にノンアポでいきなり電話をかけてくるという庶民性が受けて、在職後半期は高い人気を獲得するに至りました。また本業の政治舞台でも自由党、公明党との連立を取りまとめ安定政権を確立し、あのまま何もなければ少なくとも4年の任期は全うできたと私は考えています。

 そんな順風満帆だった時期の2000年4月2日、小渕元首相は脳梗塞で突然倒れ執務不能へと陥りました。その後は昏睡状態が続き一か月半後の5月14日に死去しますが、実際は倒れた当初からほぼ脳死状態だったとされメディア業界でも当初から回復は絶望視されていたようです。ただ国民の側は、恐らく人気も高かったことからでしょうがもしかしたら回復するかもという期待がどことなく会ったような感じがして、当時私は中学生でしたが死去が報じられるやクラスの女子が「えー、助かると思ってたのに」と言っていたのをやけによく覚えてます。確か小講堂前の渡り廊下の上だったな。
 倒れた原因については元から心臓に持病を抱えていたこともありますが、あくまで推論としてよく語られるのは倒れた直前に小沢一郎率いる自由党が連立離脱を発表し、そのショックの影響が強かったのだと言われております。ただこの連立離脱自体は政治的な駆け引きの一つであって、これを以って小沢がどうのこうのというのはちょっと筋が違うと私は考えています。

 この小渕元首相の突然死について生前に取材したこともあった佐野眞一氏は以前、日本の総理の短命化を決定づけた事件だったと評してました。もっとも小渕元首相ともう一人、愛人スキャンダルでわずか69日で退陣した宇野宗佑元首相も総理の椅子を軽くした張本人だと言ってましたが。
 話は再び小渕元首相に戻しますが、この佐野氏の評論に対して私は基本的に同意です。小渕元首相の後は密室の談合によって森善朗氏が首相に立ちますが、えひめ丸事故の対応といい資質的にかなり問題のある人間だっただけに首相公選制の議論が大きく持ち上がるようになりました。その次の小泉元首相は非常に長い人気を全うしたものの、安倍晋三元首相(次首相になるのにこの肩書きもどうかと思うが)以降はほぼ1年ごとに首相が交替するのが恒例となり、きっと将来歴史を勉強する日本人は「なんでこの時期はこんなにコロコロ変わるんだよ、覚えてらんないって」と思うことでしょう。

 更に折悪くというか小渕元首相の死去後から金融などで日本の経済は大荒れすることになり、文字通り混乱と低迷の時代へと突入することになります。そういった点を考慮するにつけて小渕元首相の死去後から小泉元首相の就任までは日本の大きなターニングポイントだったとこのところよく思え、ちょっとこじつけなような気もしますが小泉政権下で大きな問題となった派遣労働の範囲を最初に拡大したのは実は小渕政権でした。その一方で景気対策として公共事業支出を大盤振る舞いした挙句に全く経済効果を生まなかった地域振興券を配るなど小渕政権は積極財政を続けましたが、小泉政権は真逆の縮小財政を取っております。両政権は一見すると真逆である一方、根底では確かな流れというか明確な接続があるようにも見え、平成政治史を見る上でこの期間は非常に重要な時期だと感じます。

 最後になりますが小渕政権の日本政治史に与えた最も大きな影響としてほかのなによりも、自民党と公明党の連立を取りまとめたことにあると思います。この点についてはまた別枠で記事を書く予定ですが、この時の連立成立があったからこそ小泉政権の長期安定化も実現したと断言でき、現代における影響力も半端ではなく大きなものがあります。
 ただこうした政界交渉という面ではその功績を認めるものの、以前から書いているように施政方面での業績に関してはただムダ金をばらまいて、見かけ上の景気をよくして借金を増やしただけだとあまり評価していません。内輪ネタになるけど、佐野眞一氏の講演終了後に一人だけという条件で質問に立った人が小渕元首相を持ち上げていた佐野氏に、いきなりこの点を追及してきたので結構笑えました。

  おまけ
 竹下登元首相の孫のDAIGO氏によると、彼が15歳だった頃に小渕元首相はお年玉に8万円も包んでくれたそうです。一方、祖父の竹下元首相のお年玉は最高額が3万円だったため、「小渕さん、リスペクトですよ」と語っているそうです。

2012年10月11日木曜日

平成史考察~玄倉川水難事故(1999年)

 まだなんか掲載周期が安定していないこの平成史考察ですが、このところ畑村洋太郎教授による「失敗知識データベース」にはまっているので、今日は1999年に起きた玄倉川水難事故を取り上げようと思います。

玄倉川水難事故(Wikipedia)

 恐らくこの事故の名前を見てもパッと思い出せる人は少ないでしょうが、内容自体はここで書いてある内容を見ることで思い出す人は多いのではないかと思います。というのもこの事故、ほかの一般の事故とは異なり被災するシーンがリアルタイムで放映されていたからです。
 事故のあらましから話していきますが、1999年の8月13日、キャンプ場として有名な神奈川県足柄上郡山北町にある玄倉川の流域ではその日もキャンプ客でにぎわっておりました。お盆真っ只中ということもあって多くの客が訪れていたのですが、その当時に熱帯低気圧が日本へと近づいており、現場でも午後三時ごろから雨が降り出しておりました。

 この玄倉川キャンプ場を含む周辺は元々雨の多い地形で、川沿いにあるキャンプ場は豪雨時には毎回水没する場所だったようです。こうしたことから上流にある玄倉川ダムの職員は雨の降りだした頃にキャンプ客に対して避難を呼びかけ、実際にこれに応じて大半の客は非難したそうです。ただこうした中でとある企業の社員とその家族による団体は呼びかけに一向に応じず、直接ダム職員が避難するよう伝えても動こうとしませんでした。そうこうする中でも雨足は強まっており、最終的にはダム職員が警察とともに再度避難するよう伝えたものの、数人が移動に応じたものの後に遭難する18人は中州から頑として動かず、あくまで報道ベースですが警官らに対して強い態度で出たと言われております。

 ここでちょっと先にキャンプ場の上流にあった玄倉川ダムについて解説しますが、このダムは小規模の発電用ダムで水の貯水力はほとんどなく実質的には堰の様な施設だそうです。そのため大量に水をためるとダム自体が決壊する恐れがあるため、豪雨時にはゲートを開放して放流する仕組みとなっておりました。この時の豪雨時も決壊の恐れがあるためダムを開放しており、それが現場の急な水位上昇へとつながっています。

 話は元に戻り翌14日、雨はますます強まり玄倉川の水位も徐々に上昇し、午前8時半には遭難者がテントを張っていた中州も水没します。この時点で水位は1メートル以上に達し、自力での脱出は不可能となっておりました。こうした状況から前夜に先に避難した人物から避難要請が出されレスキュー隊員が午前9時に現場へと到着しますが、当日はお盆期間ということもあり大半の職員が出払っており、駆けつけられたのは少ない当直メンバーだったそうです。しかも水位はこの間も上昇し続けており、二次災害の恐れもあることからうかつな救助活動すらできない状態でした。
 午前10時にはテレビメディアが到着して事故状況の撮影が開始されますが、既にテントは流され、遭難者は大人の男性数人が上流に向かって立ち、子供や女性がその後ろで流されまいと懸命に耐え続けている状態でした。この時の映像は当時自分も見ており、未だによく覚えております。

 もうこの後もぐだぐだ書くのも気が進まないので結果を書いてしまいますが、結局救助は間に合わず、遭難者一行は一斉に水流に流され運良く対岸に流れ着いた5人を除き13人が死亡しました。下賤な話ですが、この時の救助とその後の遺体捜索にかかった費用は総額で5億円にも上るそうです。事故当時は一行が流されるシーンの映像も放送しており、恐らくうちの家に限らず全国でショッキングな事件として見ていたかと思います。また事故後は当時の状況が明らかになるにつけ、ウィキペディアにも書いてある通りに避難の呼びかけに応じようとしなかった遭難者に対して強い批判が行われました。
 かくいう私自身もその一人で、未だにやけに覚えていますが夏休みの水泳部の部活の帰りに後輩を捕まえて、「お前どう思うよこの事件」、「俺は大人が自分で残ることを決断して流されて自分一人で死ぬのは自業自得だと思うけどさ、生き残った子供はこれから親なしで生きてくと思うと行動に責任感なさすぎるよな」などと、今思うと中学生の癖してなにわけのわからないことを言ってるんだよという気がします。

 ただこの事件が一つの議論の種となって、どうもこの事件以降から「遭難する側の責任」というものが大きく取り上げられるようになった気がします。大きな災害や事故につながる恐れがあったにもかかわらず必要な対応を取らず、いざとなったらレスキューにおんぶ抱っこはよくないのではという意見が出るようになり、昨今の遭難事故では必ずこの点がやり玉に挙がってくるようになたっと思います。ただ近年はこれがやや過剰になりつつあるのではと思う節もあり、特にネット上では不必要なほど遭難者を批判する意見も目立つようになってきています。責任を全く問わないのは問題ではあるものの、必要以上に問うのも問題だというのがこの事件、並びに現状に対する私の意見です。

2012年9月18日火曜日

平成史考察~たまごっち(1997年)

 以前にイグノーベル賞について記事を書きましたが、その記事では紹介しなかったものの1997年にバンダイが発売した携帯おもちゃ「たまごっち」が、「数百万人の労働時間を、仮想的なペットの飼育に転換した」という点が評価され受賞しております。

たまごっち(Wikipedia)

 知ってる人に早いですが携帯型ペット育成おもちゃの先駆的作品のこのたまごっち。仕様を簡単に説明するとキーホルダーくらいの大きさに表示画面と3ボタンがついており、画面上でドット絵のペットにエサをあげたりトイレの世話したりするゲームなのですが、発売当初はそれほど話題にならなかったものの徐々に口コミから広がっていき、大ブームとなった1997年にはどの店でも品切れが続き、白色など人気色は高値で取引されるほどの社会現象とまでなりました。
 当時の状況について私の記憶するところをまとめると、それこそ玩具店では入荷するや購入希望者に整理券を渡して抽選を行って販売したり、中古品が1個数万円で取引されてたり、学校とかで持っているのを見せるとそれだけで自慢になったりと、なんていうかゲーム自体を楽しむことよりも持っていることが一種のステータスとなっていた気がします。現に私自身も親父か姉貴がどっかから仕入れてきたのを遊んでみましたがそれほど楽しいとは思えずすぐにやめてしまったものの、「俺んちたまごっちあるんだぜヽ( ・∀・)ノ」などと学校で妙な自慢はやってました。

 このたまごっちが発売された当時のバンダイの経営状況ですが、はっきり言ってしまえば非常に悪かったです。経営状況が思わしくなかったことからゲームメーカーのセガ(現セガサミー)との合併案も実現直前まで進んで両社ともにその内容を発表するほどだったのですが、そんなときに降ってわいたかのようにこのたまごっちが大ブレイクしたことによって、社風が大きく異なっていたことなどもありますが最終的に合併案は破断となったと言われております。

 ただ合併案を吹き飛ばすほどの強烈なブームを起こしたたまごっちですが、ブームが過ぎ去るのも異常に早かったです。売れていることから大増産を行った矢先にピタリとブームが止んでしまい空前絶後と言っていいほどの在庫をバンダイは抱えることになり、1999年に45億円の赤字を計上するに至り倒産の危機へと追い込まれることとなりました。それにしても赤字45億円でピンチっていうんだから、今のシャープ、ソニー、パナソニックの赤字額がどれだけ巨額かというのが良くわかる。
 その後、たまごっちはブームの顛末を見極めきれなかった商品として歴史に名を残すはずだったのですが、2004年頃からたまごっちを知らない子供たちの間で再びブームに火が付き、なんと奇跡の再販売が行われることとなりました。もちろん中身などは一新されていますが、大きく仕様を変えずに再ブームに成功した商品として見るならば稀有な一例と考えてもいいと思います。

 このたまごっちがどうしてブームとなったのか私なりに分析すると、やはり手間がかからずそれなりに愛情を注げる対象だったからじゃないかと思います。というのも中国の新聞にまで書かれていてちょっと悔しい思いをしたのですが、現在の日本では子供の数よりペットの数が多くなっており、勝手な憶測ですがそれほど手間がかからずかわいがれる存在への需要が1997年の第一次ブームの頃に潜在的にあったような気がします。
 それと現在でこそ「育成ゲーム」というのは一つのジャンルとして定着しておりますが1997年にはまだ少なく、それ以前にあるものでパッと今挙げられるものだとスーパーファミコンの「ワンダープロジェクトJ」くらいしか浮かびません。ほかにも挙げるとしたら、同じ1997年にはプレイステーションで「がんばれ森川君2号」という全国の森川君へのからかいネタとなった異色作があることはありますが。

 ただやっぱり、育成ゲームというジャンルと携帯ゲームというのは相性がよかったのでしょう。その後も「ポストペット」や「デジモン」など似たようなものも出てきましたし、上に挙げた据え置き型育成ゲームとは一線を画すものがある気がします。

2012年8月27日月曜日

平成史考察~牛丼の販売停止(2004年)

 昨日から始めたこの「平成史考察」ですが、今日は昨日の日本でのBSEに続く形で米国でのBSE発覚とそれに伴う牛丼の販売停止騒動について書いていきます。本当は昨日の記事にまとめて書きたかったのですが、思ったようなリブ告発の話に私腹を取られてしまい分けることとなりました。

 事の発端は2003年末、既にBSEを発症した牛が確認されていた米国に対して安全基準が緩かったことから、日本政府は米国産牛肉の輸入禁止措置を取りました。ちなみにこの2003年末で今思い出せることというと、確か12月23日に友達集めて秋刀魚を焼きながらクリスマスパーティをしたということです。この年の秋刀魚はいろんな意味でおいしかったが、3尾まとめて買ってきて3日連続で夕食に秋刀魚を食べた直後はなんか辛かった。

 話を戻しますが米国産牛肉の輸入が停止されたことを受け、主材料としてきた牛丼販売チェーン各社は文字通り大打撃を受けることとなりました。当初は備蓄があったため販売が続けられましたが、翌2004年には各社で販売を打ち切り、代替メニューとして豚丼をはじめとした新商品が販売されることとなりました。
 こうさらっと書くといまいち緊張感がないのですが、人間というのは食べられなくなるとわかると途端に食べたくなるというべきか、販売停止が発表されるや各店舗に「食べられるうちに食べておこう」とばかりに大勢の客が押し寄せる事態となりました。その時にどれだけ混乱したかをうかがわせるエピソードとして吉野家のウィキペディアを除くと、販売停止直後の2月には茨城県と長崎県の店舗でそれぞれ、「なんでやめちゃうんだヽ(`Д´#)ノ」と酒に酔った客が暴れて逮捕されております。どんだけ牛丼食べたいんだよって言いたいです。

 当時の私から見た印象ですが、代替メニューはやはり代替でしかなく、周囲を見ても牛丼を売っていた頃と比べて足を運ぶ回数は減っていたと思います。大体メニューの中でも初めに出てきた豚丼なんかは今でも販売されてそこそこ成功している方ですが、当時は吉野家、松屋、すき家ともにカレー丼とかハンバーグ丼とかいろんな新メニューを出してきましたが、やはりどれも定着しないというか次々と入れ替わっていました。私自身はあまり牛丼屋に行かない口だったので今思うともう少しメニューを試しておけばよかった気がします。

 恐らくこのように大体メニューでは以前の売上げが取り戻せなかったことから、ゼンショー陣営の松屋とすき家ではそれぞれ中国産、オーストラリア産牛肉を代わりに使うことで比較的早くに牛丼の販売を再開しました。それに対して吉野家は頑ななまでに米国産にこだわり、輸入が再開されるまで牛丼はとうとう復活しませんでした。これについては初めから吉野家の総意だったらしく、1980年に一度倒産した際にコストダウンのため安い食材を使うレシピにしたところさらに売上げが減少し、また従業員もやる気を失ったという苦い経験があったことから、何が何でも米国産レシピを守るという意気込みだったそうです。

 最終的には2006年に米国産牛肉の輸入が解禁されたことで牛丼は完全に復活し、この大手三社は現在も営業を続けるなど元の鞘に収まった形です。影響としては各牛丼チェーンのメニューの多様化が進んだことと、普段食べられる食品ほど食べられなくなると暴動みたいな状況になるという教訓でしょうか。
 なお日本で牛丼の販売が停止されていた2005年、私は北京に留学中でしたが北京の吉野家で牛丼を食べております。今思い出すにつけ、あの時食べた牛丼の牛肉はどこの国の物なのか、ミステリーです。

2012年8月26日日曜日

平成史考察~BSE騒動(2001年)

 以前から平成史をトピックごとにまとめて書きたいと考えていたので、本日より不定期にこの「平成史考察」という連載を開始します。イメージ的には昔やっていたテレビ番組「所さんの20世紀解体新書」みたいな具合で平成時代におけるヒット商品や象徴的な事件を自分の視点と共に扱っていこうと思っています。
 そんな栄えある第一回は、恐らく多くの人が「そんなのあったなぁ」と思うのではないかと思うBSE騒動を紹介します。

BSE問題(Wikipedia)

 BSEというのは正式名称は牛海綿状脳症で、通称として狂牛病と呼ばれております。ウイルス性の病気ではなく諸説出ておりますが現時点ではタンパク質の変異によって起こる病気とみられており、感染した牛の特定部位を食べることで人間も感染することが確認されております。といっても感染確率は非常に低く、また脳や脊髄といった特定部位以外であればほぼ感染しないといわれておりますが、この病気の何が怖いかというと艦船から症状が現れるまで5~15年以上はかかると言われており、いつどこで食べた物が原因なのか感染源がわかりづらい、知らないうちに感染しているという可能性が恐ろしがられております。
 このBSEが初めて大きく注目されたのはイギリスで、感染死亡者もイギリスに集中しております。なお余談ですがBSE感染牛が龍注していた頃のイギリスに渡航経験のある日本人は献血が禁止されており、時期が違ってもイギリスに渡航していればいろいろと細かく確認されます。私自身も2004年にイギリスに行ったことがあり、献血の度にきちんと申告して面談を受けておりました。

 このBSEが日本で初めて大きく取り挙げられたのは2001年で、国内で初めて感染牛が見つかったことからでした。感染ルートはイギリスで感染していた牛が処分された際、ミンチにされ肉骨粉と呼ばれる飼料となり、それを日本の牛が食べたことから感染したと言われておりますが可能性は高いと言ってもはっきり言って確証はありません。
 当時、一頭目が見つかった際のインパクトは非常に大きく、テレビ番組から書籍までBSEの症状やイギリスの事例の解説など文字通り一色となりました。またその後の追跡調査で立て続けに全国で感染牛が見つかり、感染牛を確認した獣医師が自殺するなど軽いパニックと言ってもいい状況だったと私も記憶しております。

 このパニックで影響を受けたのは言うまでもなく牛肉を取り扱っていた酪農家や外食産業で、各地の焼肉屋では閑古鳥が鳴きスーパーでも高級牛肉が安値で買い叩かれるなど、今思うと凄い状況でした。ちなみに地元の焼肉屋はこういう時こそ支えねばと当時の休日はうちの親父とよく訪れ、また高級牛には肉骨粉のような安いエサは使わないだろうから飛騨牛をお袋に毎日買ってこさせてたらふく食べてました。当時から十年経ちますがまだ症状は出てないから大丈夫だと考えてるけど。

 話は逸れましたが当時は国産牛を使った料理は完全に締め出されたと言ってもいい状況で、関連する業界では倒産が相次いだと言います。こうした状況から政府も救済策を出し、国産牛に限って政府が全量を買い取るという措置を出したところ、皮肉なことにこれがきっかけで雪印乳業のグループ会社であった雪印食品は倒産する羽目となりました。
 雪印食品はちょうどBSE騒動が起こる前年の2000年に雪印集団食中毒事件を起こしていたことから経営状況が悪く、制度を悪用する形で外国産の牛肉を国産と偽り政府に買い取らせようと図りました。もっともこの企みは雪印食品が偽装に利用しようとした冷蔵会社の西宮冷蔵から内部告発を受け発覚し、元々悪かった企業イメージが完全に潰れてしまいそのまま倒産へと追いやられることとなりました。ただこうした偽装工作は雪印食品に限らず、日本ハムも行っていたことから大なり小なりであちこちやられていたのが実態だと思います。日本ハムもこの時に企業イメージが相当悪くなりましたが、傘下球団のファイターズに2004年、新庄剛志選手が入団して劇的にイメージが刷新されたとうちの親父が分析してますが、私もこればっかりは親父の言う通りだと思います。

 少し話が長くなりますが、この時の牛肉偽装でハンナンの浅田満元会長も2004年に逮捕されることとなります。私も以前にブログで記事を書きましたが浅田氏は知る人ぞ知る部落団体の幹部で、彼が事件で逮捕されることはおろかメディアに名前が出ること自体がある意味奇跡だったという指摘があります。また私見ながら浅田元会長の逮捕以降、奈良、大阪、神戸の部落三都物語ともいうべき部落出身の市役所職員の問題行動が急にメディアで報じられるようになり、この牛肉偽装事件が一つのブレイクスルーとなったのではないかと私は見ております。

 あともう一件、これは雪印食品の事件ですが内部告発を行った西宮冷蔵ですが、告発後に偽装に関与したとして7日間の営業停止命令を受けることとなりました。営業再開後も取引先からの受注はなくなり、本当に変でおかしな話としか言いようがありませんが不正を許さずに内部告発をしたがゆえにそのまま休業へと追い込まれることとなりました
 私はこの事実を後年にテレビで報じられたドキュメンタリーで初めて知りましたが、正直に言ってショックでした。西宮冷蔵の社長によると、従業員が雪印食品の強い懇願を受けて独断で偽装工作に手を貸したそうですが、朝日新聞がそれを嗅ぎ付けて接触してきたことから初めて事実を知り、当初は雪印食品に「国産牛と外国産牛を間違えてしまった」と申告させることで穏便に済ませようと図ったそうです。ただこの提案を雪印食品は拒否し、告発すれば会社は多大なダメージを受けることはわかっていたもののそれでも告発に踏み切ったそうです。なお告発後、雪印食品の社員は謝罪に来られたそうで、社長が言うには「怒られるかと思っていた」そうです。

 その後の西宮冷蔵ですが、梅田駅前でカンパを募り見事に営業再開にこぎつけ現在も活動を続けております。ただ現在においてもそうですが日本は内部告発者を保護する法律がなく、むしろ情報遅漏罪で捕まりかねないくらいに法整備が遅れております。ウィキペディアを見ますとやはり今でも内部告発者の指名を告発対象者にばらすなどといった事例が相次いでおり、十年前から何も変わっていないのかとげんなりさせられます。先の部落問題といい、本筋とは別に現代社会に通じるものが多い事件だったというのがこのBSE騒動に対する私の感想です。