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2014年5月15日木曜日

甘粕事件を教える不必要性

 甘粕事件ときたら、大学受験で日本史を選択した方ならまず知ってる事件名でしょう。この事件はどんな事件かというと、大正時代に起こった関東大震災の最中に無政府主義者の大杉栄とその妻である伊藤野枝と大杉の甥っ子である当時六歳だった橘宗一の三人が、憲兵隊員だった甘粕正彦によって殺害されたという事件です。

甘粕事件(Wikipedia)


 この事件は関東大震災直後に起こった朝鮮人虐殺と並んで震災のドタバタに紛れて実行された虐殺例として語られ、特に主役である甘粕正彦が後に中国と満州で裏工作に関わり満州の闇の帝王となる下りと、闇の帝王となった甘粕を映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じたことから印象に残りやすい事件ではないかと思います。実際、私の周りでもこの事件名を覚えている人間の割合は非常に高かったです。
  そんな甘粕事件について何を言いたいのかというと、結論から述べると高校レベルでは教えるべきではないと言いたいのです。何故そんなことを言うのかというと、明らかに事実が異なるからです。

 事件の流れについて簡単に述べると、甘粕は震災後の混乱に乗じて無政府主義者が暴動を起こすと考え、警察署に連行した大杉ら三人を殺害した、という風に高校レベルで教えられるはずです。確かにこの流れは甘粕自身が述べて当時の調書にも書かれていますが、現代においてこの事件自体が甘粕の冤罪であり彼自身は三人を殺害していないことがほぼ確実だというようにみられています。

 甘粕は取り調べに対して殺害は個人の考えでやったと述べ、具体的な殺害方法は椅子に座っている大杉の後ろから柔道の締め手、恐らく腕を首に回して絞殺したと述べているのですが、大杉は当時としては大柄な人間で甘粕よりもかなり身長が高く、仮にそのように締められても立ち上がればほどけてしまうためにこのやり方での殺害は不可能だったと当時から言われていました。このほかの点でも、震災後の混乱の最中とは言え指揮系統の異なる(部下ではない)憲兵隊員に甘粕が命令を出していたり、見つかった死体の状況が甘粕の供述と異なったりしていたため、当時のメディアも甘粕の犯行を疑う声が多く出ていたそうです。

 そうした背景もあって開かれた裁判で甘粕の弁護人は、甘粕が由緒正しい武家の出身でありこれまで謹厳実直に生きてきたと述べた上で、「そんなあなたが年端もいかぬ男の子もその手で本当に殺めたのですか?」と問うたところ、なんと裁判中に甘粕は涙を流しながら、「大杉と伊東は私がやりました。しかし子供だけは本当に手をかけておらず、死体を見て初めて(殺害されたことを)知りました」と尋問での供述をひっくり返す始末で、後から橘宗一を殺した別の憲兵が出てくるなど非常にグダグダな裁判となりました。でもってグダグダなもんだから、やっぱり甘粕が主導したという結論で終わるわけです。

 裁判後、甘粕は刑務所に収容されますが何故かすぐに恩赦が出て出所し、何故か陸軍がお金を出してくれたのでフランスへ留学に行きます。まぁ国内にいるとなんだから厄介払いとして遠ざけられたんでしょうがね。
 その後の甘粕の流転ぶりは佐野眞一氏の「甘粕正彦 乱心の曠野」 に詳しいですが、満州に渡って裏交錯して、上海の麻薬利権を中国人マフィアから奪い取ったり、北京で溥儀を拉致ったりと、果たしてこれらが同じ人物であるのかと疑いたくなる活躍ぶりを見せます。イメージとしてはこうした裏工作の面が強いためダーティさが濃い人物ですが、彼と直接接した満州の映画人物たちはほぼ全員が好意的に評価しており、故森重久彌や李香蘭こと山口淑子氏も厳格であった一方で非常温情のある優しい人物だったと述べています。実際、枕営業の要求に対して「女優は娼婦ではない!」などと言い返して拒否したというエピソードも残っています。

 ちょっとというかいつもながら長々と書いてしまいましたが、少なくとも一般の高校教師レベルでここまでの内容を把握している人は少なく、普通に甘粕事件は甘粕がやった、社会主義者を殺害する位だから満州でも裏工作していたと教えると思いますし、それも無理ないことだと私は思います。しかし現実には甘粕事件では甘粕が犯人だとは思えず、いろいろ説がありますがヤクザの鉄砲玉よろしく上司なり上役の罪をおっ被せられたのが真実でしょう。然るに学校では甘粕が実行犯として教え続けられるため、誤った事実が伝えられかねない状態です。そう思うだけに、もうこの際だから高校ではこの事件は扱うなといいたいのが今日の意見です。

  おまけ
 甘粕事件の背景というか真犯人説は色々出ていますが、中には甘粕=フリーメーソン説なんてのもあるそうです。ちょうど先日に友人と話をした時に、「フリーメーソンのせいにすればなんでもかんでも丸く収まらね?」なんて話し、いくつか例として挙がってきたのは、

・近鉄とオリックスが合併したのはフリーメーソンの陰謀
・佐村河内はフリーメーソン
・STAP細胞問題も理研を特定法人にさせないフリーメーソンの陰謀
・ ソニーが赤字出すのもフリーメーソンのせい

 どれもそれらしく見えてしまうのが不思議です。

2014年5月14日水曜日

平成史考察~JR西日本福知山線脱線事故(2005年)

福知山線脱線事故(失敗知識データベース)

 このところ事件とか事故ばっか取り上げている気もしますが割とやる気のあったこの平成史考察の連載記事が滞っていたのもあるし、まぁありかなという気もします。ちょっと余談となりますが、私は以前に失われた十年について連載記事を書いており、微妙にこの時の連載に書いた記事とネタが被って困ったりします。まあこっちの連載では事件や事故を単発的に描く目的だから書き方によっては改善できるとは思うけど。

 それでは本題に入りますが、今日は2005年に起きた福知山線脱線事故について書きます。この事故が起きた当時、私は京都にある大学に通っていたため事故発生直後は友人などからまさか事故に遭っていないかなどと心配するメールが何通か届きました。幸いにして私は福知山線を利用していなかったので何の被害も受けませんでしたが、私の通っていた大学の学生がこの事故車両に多数乗っていたため死者が出ただけでなく、一部四肢の切断などという痛ましい体験をされる方も出ました。この事故の死者数は107人ですが、死者数だけでなく負傷者数の562人という数字にその後の生活を一変された人のことを少しでも考えてもらいたいというのが私の願いです。

 事件の話に戻ります。この事故が起きたのは午前中の通勤時間帯で、事故車両には通勤通学のため多くの乗客が乗っておりました。ラッシュの時間帯だったというのもあるのですが、事故車両は事故を起こす前に停車した伊丹駅で70メートルのオーバーランをしております。この車両の運転士は以前にもオーバーランを起こして日勤教育と呼ばれる社内研修を受けておりましたが、この日勤教育についてはあまりいい思い出がなかったと見られていて、そのようにうかがわせる要因として伊丹駅でのオーバーラン後、車掌に対して指令所への報告時にオーバーランした距離(70メートル)を短く伝えてくれるように依頼しております。

 この時の指令所との通信のやり取りは残っていて最初のリンク先のページに詳しく載せられておりますが、やはりこの車掌と指令所とのやり取りに運転士が気を取られ、ブレーキをかけるべき地点を見過ごし制限速度を大幅に超過したままカーブに差し掛かって脱線を引き起こしたと見られます。なお脱線したカーブの制限速度は時速70キロメートルでしたが、脱線時の突入速度は時速116キロメートルで、いろいろ意見はあるでしょうが最大の事故原因はやはり運転士にあるのではないかと私は思います。もっともこの福知山線では私鉄各社とのスピード競争のため一部の区間で制限速度を超過することが日常だったということもあり、彼一人を責めるつもりはもちろんありません。

 ここからがこの事件に対する自分の印象を述べていきますが、まず言いたいことは事故後の検証ははっきり言ってひどいものでした。というのもJR西の労組を中心にこの事故の最大の原因は先ほど述べた日勤教育という、オーバーランなどをした運転士に対する懲罰的な研修にあると盛んに主張したことです。この時に報じられた日勤教育の中身は室内に監禁されて延々と反省文を書かせるとか、草むしりを延々と強制されたりと非常に懲罰的要素が強いものだったのですが、果たしてこの時報じられていた内容は真実だったのか私は強く疑っております。
 疑う根拠として当時、この日勤教育を悪者とする説を主張していたのはJR西に複数ある労働組合の一つだけで、こういってはなんですがなんか政治的な意思があるような気がしてなりません。次に文芸春秋が事故を起こした運転士が実際に受けた日勤教育の日誌を手に入れその内容を公開しておりましたが、その内容は草むしりなどではなく、むしろ回復運転を徹底して戒める教育でした。

 事故を起こした運転士は学研都市線内を運転中にオーバーランをして日勤教育を受けたのですが、その研修では「列車の到着が遅れても、運転速度を引き上げて次の駅までの到着時刻を短縮して帳尻を合わせる回復運転をやろうとしてはならない」という、まさにこの教訓が生きていたら福知山線の脱線事故は起きなかったのではと思う文言が日誌に繰り返し何度も出てきていました。多分このくだりは今時自分くらいしか覚えていないと思いますが、この辺はやっぱり雑誌メディアとテレビメディアの違いかなと皮肉っぽく覚えます。

 事故原因についてはざっとこんなもんですが、ここで書いておきたいのは事故直後の救助活動などについてです。この辺は有名なので覚えている人も多いのではと思いますが、現場近くに工場を構えていた日本スピンドルは事故直後、業務を中断して従業員らで賢明な救助活動を行って後に紅綬褒章を受章しております。
 この日本スピンドルの活躍は間違いなく賞賛に値するのですが、実はこの活躍の陰に隠れて事故後の対応でMVPといってもいい行為を行った人物が一人いました。その人物とはたまたま現場近くにいた通りすがりの主婦なのですが、彼女が何をしたのかというと事故後すぐに近くの踏切に行って非常ボタンを押したのです。

 この辺りのくだりも最初のリンク先の失敗知識データベースに解説されておりますが、事故車両に乗り合わせていた車掌は事故後に防御無線機と言って他の車両に緊急事態を伝える無線機の電源を入れたのですが、この無線機は「常用」と「緊急」でスイッチ位置が異なり、電源が入った際は「常用」になっていたため何の信号も発していなかったそうです。
 仮にこの主婦が踏切の非常ボタンを押していなかったら指令所は事故の発生にすぐ気付かず、事故現場に向かって走っていた別車両を停止させることもなかったかもしれません。特に事故車両は線路をはみ出して脱線していたため、上り下りを問わず二重三重の衝突となることも十分に考えられるだけに、この主婦の行動が無ければと考えると本気でゾッとします。

 福知山線の脱線事故については誰もが知っていますが、この主婦の行動については私の身の回りでは誰一人として知っている人間はおりませんでした。地上の星じゃないけどもっと知ってもらいたいと思うと同時に、やるべきだと思ったことを正しくすぐやったことによって多くの被害を避けられるという事例の一つとして紹介したいと思え、今日はこんな記事を書いた次第です。普通この事故の話となるとJR西の不手際ばかりが取り上げられるだけに、ちょっと毛並みの変わった記事になった気がします。

2014年5月13日火曜日

韓国で起きた海難事故のトンデモ判決

 先週後半くらいからようやく韓国のセウォル号沈没事故がニュースで取り上げられなくなりましたが、何を思ったか急に世界の海難事故を調べ始めてちょっと興味深い事件を見つけました。

Hebei Spirit号原油流出事故(Wikipedia)

 今日紹介するこの事件は韓国で2007年に起きたタンカー衝突、そして原油流出事故です。衝突したタンカーの名前は上記リンク先だとアルファベットですがぶっちゃけ書きにくいので、中国語読みの「河北精神号」でこのまま書きます。

 事件が起きたのは2007年12月。サムスン重工所有のクレーン船とそれを引っ張るタグボート3隻の船団が仁川港を出港するも風に流されてしまったので、潮流を利用して航行するため通貨禁止航路を航行し始めた上に海洋警察からの呼び出しに応じなくなります。この時点で、なにやってんだこいつらと書いてて深く思います。
 この時、黄海海域で投錨していた原油タンカーの河北精神号は近づいてくる船団を確認して管制センターに連絡し、管制センター側も船団に対して注意するよう伝えたものの時すでに遅し。既に船団は風に流される状態でフラフラ航行をしていた挙句にクレーン船のワイヤーも破断していた状態で、案の定というかそのまま河北精神号に衝突。いくつかの原油タンクに穴が開いて重油が大量に流出するという大きな事故となりました。流れをチャートにすると下記の通りです。

強風吹き荒れる中でサムスン重工の船団が出港
  ↓↓↓
風で流されるので航行禁止航路に侵入
  ↓↓↓
風でコントロールを失っていた船団が停泊していた河北精神号に衝突

 重油流出というと日本ではナホトカ号事件があってこの前友人にその事件の話されたので今日の記事も書くことにしたのですが、この河北精神号の事件もナホトカ号の事件と同様に、沿岸に流れ着いた重油を多くのボランティアたちが必死ですくい上げてたそうです。

 問題なのは事件後に責任を問われた裁判なのですが、一審ではサムスン重工側の船団が禁止されている航路に勝手に入ってきたこともあり河北精神号側の責任は一切問われなかったのですが、二審では何故か河北精神号側に過失があるとみなされ、河北精神号のインド人船長に懲役18ヶ月と千ドルの罰金、一等航海士に懲役8ヶ月というミラクルな判決が下りました。
 さすがにこの判決は無理があったのかあらゆる航海、運輸団体から批判が巻き起こり、特に船長の出身地であるインドではサムスン製品の不買運動にまで発展したそうです。こうした批判を受けて韓国司法も慌てて対応し、三審では河北精神号の関係者は全員無罪で、船団側の船長などに懲役刑を科す逆転判決出て、河北精神号の船長らは出国禁止措置の開始から540日ぶりに出国できてめでたしめでたしとなったそうです。

 ウィキペディアにも書かれていますが二審ではどうも韓国当局とサムスン重工側が裏でネゴしたような噂が出ている、というかそうとしか考えられない判決です。にしても、停泊している船にぶつかっておきながら停泊戦に過失があると判断して、通ると思うその根性がある意味すごい。あと対馬の仏像を返さないことといい、韓国の司法はちょっと信用できないなとこの事件を見ていて思います。日本も刑事事件は自白偏重で冤罪が多いので同じ穴のムジナかもしれませんが。

2014年5月11日日曜日

平成史考察~秋葉原連続通り魔事件(2008年)

「あの、もしかして秋葉原で被害に遭われた方のお友達ですか」
「え?」
「いえあの、年齢が近いように思えて」

 以上の会話は2008年6月、私が世話になっていた理髪店の店主が亡くなったのでその奥さんへ線香を持っていこうと仏具屋を訪れた際に店員から掛けられた会話です。というのもあの2008年に起きた秋葉原連続通り魔事件で殺害された男子大学生の自宅が当時住んでいた住所の近くにあり、私の年恰好を見た店員はその友人が線香を買いに来たのではないか思ったそうです。
 もう事件発生から約6年も経っており、そろそろ見直す機会かなと思うので今日はこの事件を取り上げてみます。

秋葉原通り魔事件(Wikipedia)

 事件の概要について先に簡単に説明すると2008年の6月5日、休日で歩行者天国となっていた秋葉原駅前にトラックが突入して歩行者5人をはねると、トラックを運転していた犯人の加藤智大はトラックから降りて持っていたダガーナイフで次々と通りにいた市民を刺していき、警察に拳銃を向けられて投降するまでに14人を殺傷しました。

 事実関係は以上なのですが、この事件で特徴的だったのは事件後の報道にあると言っていいでしょう。 類を見ない規模の通り魔事件であったことはもとより犯行現場が白昼の秋葉原、そして事件の様子を撮影していた目撃者も多かったことで発生直後の報道は非常に加熱して当時のテレビニュースには現場にいた人がインタビューに答える姿が何度も映りました。
 そうした発生直後の報道が終わると今度は犯人に関する報道が過熱します。当時はリーマンショックの直前で最も格差議論が高まっていたこともあるでしょうが犯人が事件発生直前まで派遣社員だったことからこの事件の起きた背景には格差問題があるとか、事件発生地が秋葉原であることから何かとオタク趣味にこだわりがあったとか、まぁ根拠もないのにくだらない議論を延々とやっていたもんだなと今更ながら思います。ただそう言いつつも、犯人のパーソナリティに関しては私も当時注目しており、今日はこの点について詳しく書いていくつもりです。

 犯人の加藤智大は事件発生当時は26歳で、高校卒業後は自動車整備技術を教える短大に進学するも卒業直前に退学し、その後は職をいくらか転々とします。職を転々とすることについては私も人のこと言えないけど。
 先程、犯人は派遣社員だったと触れましたがそれは事件発生直前の話で、犯人は一時期正社員として勤務していた時期もあり、収入も年齢から考えると決して少なくない報酬を得ていました。この点については犯人自身も職業などの格差などが動機になってないと直接言及しており、メディアの明らかなミスリードがあったと私は見ます。

 話は戻りますが班員のパーソナリティとしてよく語られるのは幼少期の生活で、どこでも書かれているから私も書いちゃいますけど母親が非常に教育に対して厳しい人物だったようで、ゲームを禁止することはもとよりテレビの視聴もほとんど許さず、また夏休みの宿題に出る読書感想文でも誤字が一字でもあったら全文書き直させていたと報じられており、残虐な事件の犯人といえどその子供時代の体験については私も同情の気持ちを覚えました。
 そうした母親の強烈な教育の結果もあり犯人は高校で県下でも有数の進学校に進学できましたが、なんとなくわかるんですがどうもそこで燃え尽きてしまったようで成績は一気に下降し、卒業後は先にも伝えた通りに四大ではなく短大へ行きます。母親もこの時期にはどうも負い目があったのか、短大進学後は犯人に自動車を買い与えたりしていたようです。

 一部の報道ではこうしたドロップアウトの体験や母親からの仕打ちが事件発生の原因と分析する声も出ましたが、本人でもない限りそれは断定できないのではというのが私の考えです。では当の犯人は動機をどのように話したのかというと、事件直後にはこのように話しておりました。

「よく使用していたネット掲示板に、自分のハンドルネームを使って成りすます人間が現れて不快な思いをしたので、その成りすました人間に対して大きな事件を起こして嫌がらせをしようと思った」

 細かい文言は私の方で多少脚色しておりますが、大まかな内容はこれで間違いないと思います。私の実感だと大手メディアは「そんなバカなことでこんな事件を起こすか?」みたいに受け取ったように思え、むしろ先程の格差とかオタク趣味とかに原因があると勝手に思い込んで報じてた気がします。あくまで、個人的な意見ですが。
 では私の見方は何なのかというと、結局のところとどのつまり、上記の犯人自身が語った理由こそが真の動機ではないかと思います。

 このように考える根拠を挙げると、どうも犯人の経歴を見ていると以下のような行動が事件以前から繰り返しているように思えるからです。

1、不快な思いをすると詳しい検証をせずすぐに「自分が必要とされてない」と考える
2、恨みを抱く標的に対して直接報復せず、よそで大事件を起こして困らせてやろうと考える

 1に関して説明すると、犯人は事件前に勤めていた勤務先で作業着が見つからず、「自分は要らないってことだろ!」という捨て台詞と共に翌日から無断欠勤しています。この作業着事件自体は動機ではないと犯人は述べており私もそう思いますが、作業着一つ無くなった位で職場放棄するっていうのはちょっとなぁと思いますし、やはりストレス耐性が弱い気がします。それ以前の職場でも休暇申請を断られるや「抗議」として途端に無断欠勤を始めてそのまま退職しており、ちょっとしたことですぐ傷つきやたら極端な行動に出る性格に見えます。

  そして二番目ですがこれが一番の肝で、言い換えた表現にすると「報復が当事者に直接向かわない」という大きな特徴を犯人は持っています。
  先ほどの1番の説明でも犯人はちょっとしたことで会社を「抗議」として無断欠勤していますが、それが抗議になるとは私には思えませんし、問題の解決に何もつながっていないように内心思います。そして事件前の話ですが、犯人は何度か自殺を企図しているもののそのやり方が特徴的というべきか、トラックで反対車線に飛び込んで多くの車を巻き添えにして死のうとしています。なんでそんなやり方しようとしたのかというと、これで元勤務先とか両親は困る、なんていう理由を挙げたとされ、要するに「お前らのせいで大事件を起こした」なんて風評付けて困らせたかったのかもしれません。

 私としたらそんなに恨んでるなら元勤務先にダイナマイト積んだトラック突っ込ませればいいじゃんとか思うのですが犯人はそうしてません。さらに秋葉原の事件でも、通り魔事件を起こしたことで怨みの対象として挙げた掲示板で成り済ました人間がなにか心を痛めることがあるのかというととてもそんな風になると私は思えません。自暴自棄といえばそれまでですが、犯人の大きな特徴として、怒りやわだかまりが直接対象に向かわず、なんかやたら大きな事件を起こせば相手は困るはずだろうという何の問題解決に結びつかない結論へといつも持っていくように見えます。これこそが犯人の特徴的なパーソナリティで事件の動機なんじゃないかと個人的に思う理由です。
 その上で結論を述べると、結局は自分の鬱憤晴らしのために無関係の人間を多数殺傷していることはカスの所業としか言いようがなく、一審と二審の死刑判決を私も支持します。もう一言だけ書くと、程度の差こそあれ問題の根本的原因へ直接働きかけないなど感情の矛先を直接対象に向けない人間は確かに増えて来たかもと内心思い、逆にやたら核心に直接切り込もうとする自分はこの点でもマイノリティなのかもしれません。まぁ自分は最短距離で問題解決を強引に図ろうとするので仕込みとか根回しが苦手という弱点がありますが。

  補足
 なんでこの事件を今更取り上げようと思ったのかというと、事件から6年たって時期も頃合いという考えたのもありますが、犯人の弟が自殺したという報道も見受けたからです。

2014年5月9日金曜日

ストーカー殺人は何故起こるのか

 最近はどうだか知らないけど自分が受験生だった頃は文系だと大体どこも心理学部が一番偏差値が高く、入試難易度も高かったです。その理由というのも「羊たちの沈黙」を始めとしたサイコスリラー系の小説なり映画なりが流行ってこの手のメディアにしょっちゅう心理学が引用されたことから人気が高まっていたからなのですが、正直に言って自分は気に食わなかったので社会学を専攻しました。ちなみに自分の通った大学は心理学科も社会学科も内部生を大量に導入することによって倍率を無理やり引き上げて偏差値をかなり露骨にコントロールしてました。自分の学科も半数が内部生だったしなぁ。

 話は本題に入りますが、密かな自分の楽しみとしてウィキペディアの「日本の刑事事件の一覧」をひたすらに眺めまわるというものがあります。 手持無沙汰な時間の暇つぶしとしては最適で日によってはかなり長時間見ることもあるのですが、読んでてこの頃気が付いたこととして犯罪の傾向がなんか変わってきたように思えます。具体的に述べるとちょっと前は無差別の通り魔事件が多かったのに対してここ一、二年はストーカー殺人、またはそれに準ずるような無理心中事件が増えているような気がします。

 具体的な事件名までは並び立てませんがこうしたストーカー犯罪の多発は社会ニュースでもこのところよく取り上げられており、どのように警察は対応すべきなのか、法整備を強化するべきかとか、今日もNPOによる被害者の支援を認めるべきだなんてニュースも出ているなど注目が集まっています。そんなストーカー犯罪が何故増えているのかが今日なんか気になり、結論から書くと恋愛のもつれというか執着心で考えたらアウトじゃないのというところに落ち着きました。

 まずストーカー犯罪の大前提として一番に言えることは、女性ではなく男性側がほぼ確実に加害者になるということです。女性の付きまといはあるかもしれませんが少なくとも殺人や暴行といったケースに発展するケースは報じられておらず、加害者となるのは男性だと割り切ってもいいでしょう。
 では何故男性は、一部とはいえ女性に対してこういうストーカー犯罪を犯すのでしょうか。私が考える一般人の普通の考えからすると、やはり男性の方が女性に対して執着が強くて片思いであったり、別れを切り出されても気持ちの踏ん切りが付けられないからではと考えるんじゃないかと思います。これに対して私の考えですが、執着心が強いからストーカー犯罪を犯すのではなく、むしろプライドというか自尊心の影響の方が大きいのではないかと見ています。

 何故執着心より自尊心だと主張するのかというと、ストーカー犯罪ではどれも標的となる女性を無理やりものにするケースよりも直接暴行するケースの方が多いからです。例外なのは「石巻3人殺傷事件」ですがこの事件を除くと大概どれもが標的の女性を殺害、または暴行しており、恋愛対象というのなら拉致して監禁すればいいのではなんて思うにつけなんかギャップがあります。
 別に心理学の専門家というわけでもなくあくまで私一個人が勝手にこう思うということを滔々と述べると、昨今のストーカー犯罪は標的の女性を何としてでも得たいということが動機だとは思えず、むしろ自分を相手にしないことで自尊心を傷つけた女性を破滅させたいというような動機で行動しているように見えます。仮にそうだとすれば警察が介入したりすればするほど余計に自尊心が傷つけられもっと攻撃的になるというか……なんていう風に勝手に考えるわけです。

 くだらないことを言っているように見えるかもしれませんが、この辺の動機の分析を間違えるとストーカー対策のやり方も全然変わってくるだけに、各関係者にはより注意してもらいたいというのが本音です。それにしても最近はこれはとうならせるほどの殺人事件がめっきり減って、みんなしょうもないことで人殺すななんて思います。そんな自分が「これは!」と思う事件を挙げるとするなら、1993年の「日野OL不倫放火殺人事件」です。

2014年5月7日水曜日

創業家列伝~安藤百福(日清食品)

 以前にアメリカメディアが「世界に影響を与えた偉大な日本の発明品」というテーマの企画を持った際、零戦やウォークマン、果てには八木アンテナを抑えて堂々の一位に君臨したのはなんとインスタントラーメンだったそうです。現代日本人からするとそこにあるのが当たり前に近いインスタントラーメンですが、お湯だけでどこでも食べられる上に腐らないで長期間保存できるというこの画期的な食品は文字通り世界の食を変えた一品であり、その影響度は確実にウォークマンを上回ることでしょう。そんな偉大な食品は、大阪に住む失業したおっさんが一人で発明したという事実こそが何よりも面白いのです。

安藤百福(Wikipedia)

 後に日清食品を創業する安藤百福は日本統治下の台湾嘉義県の生まれで、幼少時に両親をなくすと繊維問屋を経営していた祖父母によって育てられます。若い頃から独立心が高かったようで22歳の頃には靴下生地に使うメリヤスを取り扱う商社を設立して成功し、大阪に拠点を移してからはメリヤス以外の商品も取り扱い商売の幅を広げます。
 この時の安藤百福の行動で非常に興味深いのは、既に会社を経営する身分でありながらもわざわざ立命館の夜間部に入り勉強をしていることです。今更ながらですが自分も高卒と同時に昼間部に進学するよりも、普通に就職して夜間部に入っていた方がなんかかっこよかったかもしれません。

 話は戻りますが実業家としてその後も順調に行った、かと思いきや、自分で調べててなんでこんなにというほど数々の苦難に安藤百福は見舞われます。戦時下では軍需品を横流ししたと嫌疑をかけられ憲兵に暴行され(後に無罪とわかる)、さらには空襲によって自社の工場や事務所が全部消失するという憂き目に遭います。それでもめげずに戦後は製塩業を営んでまたもや当てるも、その保有する資産がGHQに目を付けられて、恐らく接収する目的だったのでしょうが脱税容疑で巣鴨プリズンに投獄されたそうです。その後、紆余曲折の交渉を経てどうにか無罪は勝ち取ります。
 なお戦後のこの時期、日本は食糧難ということからアメリカから大量の小麦粉の支援を受けます。この小麦粉はパンとして配られるのですが安藤百福はこれに対し、「アジア人の伝統的食品である麺にすべきではないか」と提言したものの、大量に製麺できる設備や技術が当時に不足していたことから見送られ、逆に役所からそのような事業を営んではどうかと言われたものの、当時は事業化をあきらめたそうです。まさかその後、本当に世界一のインスタントラーメンメーカーになるとは本人も気づかなかったでしょうが。

 話は安藤の受難の日々に戻ります。日本が独立を果たして安定期に入り始めた1957年、安藤は「名義だけでいいから」と言われてある信用組合の理事長に就任するも、直後にその組合は破産し、責任を取る形で安藤は一切合財の財産を弁済費として徴収されます。自宅だけは徴収を免れたものの46歳にして無一文となり、子供もまだ小さかった頃にもかかわらずえらい状態に陥ります。

 そんな厳しい状況に陥った安藤が何をしたのかというと、なんと自宅の庭に掘っ建て小屋を作って日がな一日そこに籠り始めたのです。そこで何をしていたのかというと、かねてから構想にあったどこでもすぐに作れて食べられるインスタントラーメンの製造で、助手とかそういうのは一切なしに、ただ一人で黙々と一年間も実験していました。仮にこんなおっさん近くにいたら、「変な人もいるな」と私なら考えちゃうかと思います。
 安藤の研究が大きく前進するきっかけとなったのは、奥さんが天ぷらを揚げる姿をふと見た瞬間でした。一旦茹で上がった麺を油で揚げることによって乾燥し、そこへお湯をかけるとまた食べられる麺に戻るということを発見し、すぐにこの製造法で特許を取ると世界初のインスタントラーメンであるチキンラーメンをこの世に生み出します。

 世に出たチキンラーメンは当時は家内制手工業のようにして一から作っていったものの問屋の反応はあまり良くなかったようです。ただ口コミでどんどんと人気が広がってからは作っては飛ぶように売れるようになり、大きな製造工場を構えて徐々に量産体制を整えていきます。そしてその人気を最高潮にさせたのはほかならぬテレビCMで、現在の日清食品も時代ごとにいいテレビCMを作っておりますが、早くにその宣伝効果に目を付けた安藤は当時の日清食品の資本金が二千万円だったにもかかわらず、年額二億四千万円もの広告費を出してチキンラーメンを広めました。

 破竹の勢いはその後も続きます。チキンラーメンの普及に成功した安藤は今度はアメリカでこれを売り出そうと渡米します。ただ現地の人間に実演しようとしたところチキンラーメンを入れるどんぶりが現地になく、「こりゃ困った」と言ってたら、「これでいいじゃん」と、商談相手のアメリカ人がチキンラーメンを二つ三つに割ってその場にあった紙コップに入れてお湯を注いだそうです。これを見た安藤はまさに「これだ!」とひらめき、このひらめきがカップヌードルの量産に結びつくこととなります。
 カップヌードルの量産は袋詰めするチキンラーメンと違って揚げた麺が傷つきやすいなど苦労が多かったものの、揚げ上がった麺に上からカップを被せるという逆転の発想によって首尾よく量産にこぎつけます。このカップヌードルはあさま山荘事件の際に警官が食べるシーンが繰り返し放送されたことによってこちらも見事に大ヒットし、言うまでもなく世界中で類似した商品が毎日消費されております。

 言うまでもなく安藤はインスタントラーメンのパイオニアであり、なおかつ中正な保護者でもありました。チキンラーメンのヒット後には追随する業者が現れたため特許や商標を取得して一旦は保護したものの、1964年には日本ラーメン工業会を設立して一切の製造法を公開して自社の独占よりも市場の拡大を優先するという判断を下します。こうした背景があるもんだから、中国の即席麺大手の康師傅の工場を見ながら、「こいつら、安藤百福のおかげで商売できてるってこと知ってんのか?」なんて、やけに上から目線で妙なことを私は呟いてました。

 現在、インスタントラーメンは宇宙食にも使われるなどその用途は広がり続けております。安藤自身は2007年に96歳で没しますが、死去の三日前にはゴルフで18ホールを回り切るなど最後の最後までエネルギッシュな一生を送っていたそうです。ニューヨークタイムスは安藤の死去を受けて社説を載せその功績を讃えると共に、「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席めんを与えればもう何も教える必要はない」という見事な文句で結んでいます。

 私は安藤が生前だった頃から並々ならぬ尊敬の念を抱いていましたが死去後にはより興味が強まり、当時関西に住んでたもんだからその死から二、三ヶ月後、名古屋に左遷されていた親父を誘って大阪府池田市にある「インスタントラーメン発明記念館」を訪れました。そこでは安藤の一生とインスタントラーメンの発明に関わる様々なパネルや展示品などと共に、展示モニターの中では安藤を模したアニメキャラクターがVTRで、「宇宙食にも採用されたが、まだまだ夢は広がるし挑戦は終わらない」という言葉を述べていて未だに強い印象を覚えております。もっともその横で若い兄ちゃんが、「まだまだって、こいつこの前死んだやんけ」とツッコミいれてましたが……。更についでに書くと、インスタントラーメン発明記念館を出た後はすぐ近くにある「落語みゅーじあむ」 を訪れて親父がやけにはしゃいでました。

 安藤百福について私の意見を述べると、不撓不屈という言葉はまさにこの人のためにあると思える言葉で、様々な困難に直面して何度も破産の憂き目に遭うも挫けずに何度でも立ち直るその姿は偉人というべきほかありません。この連載では今後も多くの創業家を紹介していくつもりでありますが、どの創業家も類稀なバイタリティと共に優れた発想のセンスを持っていることは間違いないものの、事業が成功した背景には時勢に恵まれたことや優秀な相棒や部下に恵まれたなどという可能性も捨てきれません。
 しかし安藤百福は違います。彼の場合は明らかに時勢に恵まれてないどころか余計な妨害を何度も受けています。それにもかかわらずただ一人でインスタントラーメンを発明した上に産業化までして世界の食を変えてしまったという事績を思うにつけ、他の創業家とは一線を画す人物ではないかと思います。

 ちょっと前に「めだかボックス」 という漫画の球磨川禊というキャラクターが好きだと書きましたが、この頃思うこととして勝ち続けることが本当の強者なのかと疑問に感じてきています。むしろ、どれだけ負け続けても何度でも這い上がろうとする、たとえ勝利が得られなくても屈することなく揺るぎない強い信念で挑戦し続ける人間こそが真の強者ではないか、このように思うにつけ安藤百福は本当の強者だったと思え尊敬の念が絶えないというわけです。


今年2月の大雪時に横浜市にある「カップヌードルミュージアム」で撮影されたワンシーン。


  参考文献
「実録創業者列伝」 学習研究社 2004年発行

2014年5月6日火曜日

創業家列伝~大河内正敏(理研コンツェルン)

 前々から準備をしていたものの資料の読み込みがめんどかったりとなかなかスタートが切れませんでしたが、いつまで続くかわからないものの日本の創業者を紹介する連載を始めようと思います。第一発目の今日は私が一番のお気に入りである安藤百福と行きたいところですがちょうどホットな時期なので、現在のリコーや理研ビタミンの源流となった理研理研コンツェルンを起ち上げた大河内正敏を取り上げます。

大河内正敏(Wikipedia)

 大河内正敏は旧大多喜藩主であった大河内正質の長男として、大久保利通が暗殺された明治十一年(1878年)に生まれます。一高を経て東大に進学すると造兵学科に入り、火薬や弾丸を始めとした軍需品の研究を行い首席で卒業するとそのまま東大講師となり、途中の英国留学を経た後に正式な教授となります。教授時代には弾丸の流体運動を測定しようとするなど兵器研究において物理学の概念を本格的に持ち込み、日本の重工業発展に寄与したと評価されてます。

 そんな学者畑の大河内がどのように理研と関わるようになったのかを説明する前に、簡単に理研こと理化学研究所の成り立ちを説明します。理研は大正六年(1917年)に自然科学の研究機関として民間からの寄付などを元に、渋沢栄一が財団法人として発足します。建前は国家の期間としつつも民間の資本を導入したことから、国の政策にとらわれない研究機関として作られた節があります。

 大河内はこの理研の三代目所長として就任し、、研究分野ごとに研究室を独立させる現在にも続く主任研究員示度を導入します。そしていろいろコネを使いまくったのでしょうが国からの補助金を増やす一方、自分たちで独自に研究資金を集めることが出来ないかと模索します。そうした模索の中で生まれたのが「発明の産業化」という発想で、自分たちが発見、発明した技術をそのまま商品化、量産化にまで持っていき、法人化した上で自分たちで売り資金を集めるという案でした。

 この発想の第一号となったのは最近一部メディアでも報じていますがいわゆる「ビタミンA」で、高橋克己鈴木梅太郎が製造法を確立させると既存の医薬品メーカーを通さず自分たちで製造設備をこさえてビタミンカプセルとして売ってみたら大評判となり、国からの補助金を上回るほどの売上げを得たと言われます。
 このように研究所内で培った研究結果を片っ端から商品化していくという、今でいうベンチャービジネスを理研は展開していきます。販売にはたっては理研の資本で設立した「理化学興業」を窓口にして、製品や産業分野ごとに子会社を理化学興業の下に設けて広げていき、徐々に理研コンツェルンと呼ばれる産業集団へと発展していきました。

 当時に作られた主だった企業を挙げると、食品分野では理研栄養食品という、現在の「増えるわかめ」の販売で有名な理研ビタミンが設立され、ほかには感光紙を製造していた理研光学工業は現在のリコーとなっています。ただそれら以上に理研コンツェルンで基幹企業となったのは軍需分野に関わる理研金属工業と理研ピストンリングの二社で、両社ともに日本の重工業を担う会社となっていき、前者は現在も同じ社名で、後者は「リケン」という名前で現在もピストンリング製造では国内最大手です。

 このように学術研究を実業への転換ルートを作った大河内と理研コンツェルンでしたが、戦時中に国策もあったでしょうがグループ各社は合併して理研工業にまとめられ、戦後はGHQから財閥指定を受けてまた解体されるという妙な経緯を経ています。大河内自身はA級戦犯に指定され巣鴨プリズンに入ったり公職追放の憂き目に遭ったことから理研の所長を辞任し、公職追放が解かれた翌年の1952年に脳梗塞で死去します。

 彼の功績を一言で言うなら産学提携ならぬ産学両立を一挙にやってのけてしまった点でしょう。造兵学をやっていたということから合理的な思考が出来てこういう決断が出来たのかなと思うのと同時に、 現在の理研ではこういう発明の産業化を自前ではやらないのかなという考えがよぎります。余談ですがレノボなんて北京大学の研究室からスタートしてるんだけど。

 最後に、今回のというかこの連載の参考文献として学研から出ている「実録 創業者列伝Ⅰ、Ⅱ」を紹介します。読み物として非常に優れており資料的価値が高いことから肌身離さず持ち続けている本で、今日書いたこの記事もほとんどこの本から引用したものに過ぎません。興味ある方は本気で手に取ることをお勧めします。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行