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2014年9月11日木曜日

創業家列伝~小倉昌男(ヤマト運輸)

 久々のこの連載記事で今日取り上げる小倉昌男は正確にはヤマト運輸の創業者ではありませんが、今日知られる「クロネコヤマトの宅急便」を作り上げたのは間違いなくこの人物であるため、創業家としてみなして今日の記事を執筆することにします。
 
小倉昌男(Wikipedia)
 
 小倉昌男は1924年、大和運輸を経営する小倉康臣の息子として生まれます。子供の頃から成績はよかったみたいで高い倍率で知られた東京高等学校に進学後、東大にも入り戦後となった1947年に卒業した翌年には大和運輸に入社します。
 ここまではいかにも金持ちのエリート子息(といっても当時のヤマト運輸は中規模の運輸会社)といった人生を歩んでおりますが、就職から半年後に小倉昌男は一つの試練にぶち当たります。その試練とはほかでもない病で、当時は治療の難しかった肺結核でした。この時に小倉昌男は4年間もの入院生活を余儀なくされますが、大和運輸がGHQの運輸業務を担っていたことから当時は入手の難しかった結核治療薬を米軍から入手できたという幸運も重なって無事に快癒へと至ります。ただこの時の体験は本人にとっても大きかったようで、著作の中ではこれ以降の人生はおまけのようなものと思うようになったと記しています。
 
 こうして健康を取り戻した小倉正臣は1971年に父親の跡を継いで大和運輸の社長に就任します。しかし当時の大和運輸を取り巻く状況はお世辞にもいい状況とは言えないもので、関西と関東を結ぶ高速道路が開通したことによって他社ではこの区間のトラック輸送を強化していたにもかかわらず大和運輸はこの流れに乗り遅れ、荷物の取扱量なども落ち込んでいたようです。更にオイルショックとも重なり、輸送に必要な燃料費の高騰によって運輸業界全体でコストが高騰しておりました。
 このような状況で小倉昌男は何を考えたのかというと、当時郵政(現日本郵便)に独占されていた個人向け宅配事業に参入することを決意します。当時は今と違って運輸会社といったら法人向けのサービスが主で、個人向けの宅配サービスは郵政事郵便局のみが行っているサービスでした。しかも信書法という法律で、個人向けの郵便はプライバシー保護(という名を借りた検閲目的)で郵政しか行ってはならないこととなっており、この解釈が個人向け宅配サービスにも延長されて使われておりました。
 
 それでも小倉昌男が個人向け宅配事業に参入した理由としては、一つはこのままの事業を続けていてもジリ貧だと考えたことと、新たなサービスを始めることによって市民の生活が便利となり支持を受けられれば必ず業績に結びつくはずだという考えでもって決意したといいます。
 
 ここまでであればよくある熱血経営者の成功譚で終わるのですが、小倉昌男の真骨頂は事業立ち上げまでの綿密な計画作りにあります。個人向け宅配サービスを始めるに当たり小倉昌男は具体案を練るわけですが、こういってはその過程が非常に面白いです。この過程は彼の著書である「小倉昌男経営学」に詳しく描かれてありますが、サービスエリアを北は北海道から南は沖縄まで全国でやる、というか全国でやらないと意味がないとまず設定し、全国に配送するに当たって離島などを除き1日で配達するためにはどうすればいいかを綿密に計算します。
 個人宅配ともなると膨大な荷物を裁かなければならないため集荷センターが必要となり、それを全国に何か所作る必要があるのか。その週箇所を作るに当たり土地の取得費用はどの程度となるのか、そして配達するトラックとドライバーはどれくらいいるのかを事細かに計算して積み上げていったそうです。最終的に二年目まで赤字となるも三年目から採算が望めそうだという結論に至り、じゃあやろうかと本格的に事業立ち上げへ着手することとなります。
 
 事業立ち上げに当たり小倉昌男が仕掛けた取り組みにはほかにも面白いものがたくさんあります。代表的なのはサービス名を「クロネコヤマト」として例の黒猫親子のロゴを配達トラック全てに大きく描かせた点です。小倉昌男によるとこれによってトラックが街中を走るだけでああいうサービスがあるのかと市民は知ることが出来て、最高の宣伝になったと自画自賛しています。
 また荷物の集荷を請負う営業所として、全国にある酒屋事業者に委託した点も見逃せません。一軒一軒荷物を受け取りに行くのではなく各地域の酒屋にお願いして荷物を預かってもらい、その荷物を大和運輸が酒屋に受け取りに行くことでコストも手間も省けるという一石二鳥の仕組みに仕立てています。
 
 このような準備を経て1976年、個人宅配サービスの「宅急便」がまずは関東地方に限定して始め、その後サービスエリアを全国へと拡大しています。当時の配達費用ですが確か標準のサイズで500円に設定したとのことで、これはワンコインにこだわったと著作の中で述べられています。
 こうして開始された宅配事業ですが、スタート当初から比較的追い風は多かったそうです。小倉昌男によると、利用者が配達を依頼して1日で荷物が届いたことなどを近所などに伝えるという口コミがどんどん広がって利用者が増えていき、営業所として委託された各酒屋も、荷物を持ってくるついでに何かしら買って帰るお客が多かったことから大和運輸に対してどんどんと協力的になっていったそうです。そのため、三年目を待たずして二年目で早くも黒字を達成し、その後現在に至るまで事業は拡大を続けることとなりました。
 
 ただ大和運輸の成功を見て他の運輸業者でも個人宅配事業に参入する業者が当時相次いだそうです。しかし小倉昌男に言わせると、「彼らには私と違って綿密な方程式に基づいた計画がなかった」とのことで、実際にいくつかの会社を除き多くの会社で事業参入に失敗したそうです。実際に成功させた人間が言うもんだから、なかなか迫力あるもんです。
 
 このように個人宅配という新規の事業を起ち上げた点でも有数の経営手腕といってもいいのですが、小倉昌男の魅力はこれだけにとどまらず、相手を恐れず自己の正当性を強く主張し続けた点もあります。まず最初に戦った相手はほかでもないあの郵政省で、先ほど説明した信書法を盾に個人宅配事業から引くように言われても一歩も引かず、トップである自身が先頭に立って市民の生活の利便性を訴えるなどして押し切っています。また創業以来から取引のある百貨店の三越が「何故だ」で有名な岡田茂が社長だった頃、無茶なコストダウン要求や映画のチケットの強制購入を繰り返してきたことに耐え兼ね、取引を停止するという決断も下しています(岡田の追放後には再開している)。
 
 確か小倉昌男が死去した前年の2004年だったと思いますが、当時の小泉改革の郵政事業改革で郵便事業を民間にも開放するという案について小倉昌男が、「そんな細々とした改革はせず、信書法を廃止すればそれですべて済む」という文芸春秋のインタビュー記事を読んで、初めてこんな人がいるんだと私は知りました。それから彼の著作も読み始めたのですが、さきほどのインタビュー記事もさることながら著作を読んでて「この人って言うべきことは必ず言う直言居士だなぁ」なんていう印象をそっちょに覚えました。もっともその言うべきことというのは小倉昌男の信念に基づいており、人生全体を通しても首尾一貫とした概念で語っているように見えます。
 
 改めて述べますが、日本の個人宅配事業はこの小倉昌男とヤマト運輸(1982年に改称)によって切り開かれたと言っても過言ではありません。もしあの時に切り開かれなければ、今の中国みたいに国営の運輸会社が独占で質の悪いサービスだけを提供していたかもと思うと、その功績は計り知れないと考えています。
 私は以前の記事で日清食品の創業者である安藤百福を取り上げてやたら賞賛しましたが、仮に昭和時代の名経営者を挙げるとすれば私の中では一に安藤百福、二に今回の小倉昌男を挙げます(三は土光敏夫かなぁ)。普通、昭和の名経営者ときたら松下幸之助とか本田総一郎、などが挙がってくるでしょうが、自分の感覚はなんかほかの人とは違って打たれ強い人間を贔屓にする傾向があるようです。
 
  参考文献
・小倉昌男経営学 1999年 日経BP社(といっても読んだのかなり前だが)

2014年9月10日水曜日

アクセス不良の原因判明(+_+)

 一昨日の記事で何故か自宅のネット回線でGoogle関連サイトやサービスのアクセスが非常に悪くなったと書きましたが、昨日になってようやく原因が判明しました。その原因というのも、なんとDrop Box(ドロップボックス)でした。
 
 ドロップボックスとは知ってる人には説明不要ですが、無料で使えるクラウドサービスでネット上にファイルを保存できるサービスです。わかりやすく言えばネット上にフォルダを設けるようなもので、自宅外でデータを共有する際やバックアップデータを保存する目的で使用する人が多いのですが、私はそれほど利用しているわけではないもののサイトのバックアップデータをパソコン内HD、外付けHD、そしてこのドロップボックス内の三つに保管しております。
 
 今回のアクセス不良が何で起ったのかというと、先週土曜に三カ月ぶりにバックアップデータをエクスポートして念のためドロップボックスにも置いておこうとデータのアップロードを指示したのですが、この操作はパソコン内でデータをドロップボックスの仮想フォルダに置いとけば勝手にやってくれるので実際にアップされたかどうかは確認しませんでした。それでどうなったのかというと、結論から言えばデータのアップロードは叶いませんでした。
 自分も今回の一件で初めて知ったのですが、Face book、Youtube同様にドロップボックスも中国国内ではアクセス禁止対象だったそうです。そのため自分のパソコンは起動中、繋げることのできないドロップボックスに延々とアクセスを試みており、昨夜になって画面右下にあるアイコンの非通知欄を見たらドロップボックスの「接続中」と表示されてたことからようやく気が付きました。
 
 ドロップボックスへのアクセス試行が何でほかのGoogle関連のアクセスにだけ影響を及ぼした(ほかのサイトはノープロブレム)のか、理由はわかりませんがドロップボックスのアップロードを中止してプログラム時代を終了させたところまた元に戻りました。ほかの人間にもよく伝えておりますが、中国は常識じゃ考えられない事態が平気でよく起こります
 ただ真面目な話、こうした劣悪なIT環境はいつか中国にとっても大きなしっぺ返しを与えかねないのではないかと密かに思います。近年は色々抜け道も増えてきて事実上検閲があんまり機能しなくもなってきており、もはやここまでネットを規制するのは海外投資を引き込む上でリスクとしてみられかねないと思うだけに、もっと開放してくれ、自由をよこせと叫びたくなる次第です。
 最後に蛇足ですが、こうしたネットの自由のない中で生活していると、日本の記者が自由を侵された経験がないにもかかわらず自由を守ろうとか抜かしているのを見ると非常に腹が立ちます。

2014年9月8日月曜日

滅亡後の殷の人々の行い

 今日は中国では休日だったので朝からパズドラばかりやってましたが、降臨系ダンジョンの「ヘラ・イース降臨」が出ていたので一つ攻略法を頼りにチャレンジしてみました。攻略法に従い防御・回復に特化した陣容で挑んだため屁のような攻撃力でちまちまと実に一時間前後も戦って無事に超級のダンジョンをクリアできたのですが、ボスのヘラ・イースというモンスターの獲得確率は40%であり、見事に取り逃しました。しかも二回も……。
 そんなこんだでテンションだだ落ちの状態ながら今日も元気に歴史記事を書きますが、「殷」という中国王朝についてちょっと書いていきます。
 
 殷という王朝については少年ジャンプで「封神演義」という藤崎竜氏の人気漫画に登場したことから日本でも比較的知名度の高い王朝だと思います。この王朝は遺跡などが確認できる中国最古の王朝で、時代としては紀元前17~10世紀に存在していました。ただ中国最古の王朝とはいっても領土範囲は現代の中国からするとごくわずかで、大体陝西省、河北省、河南省の範囲くらいにしか領土はなく、中国を代表するというよりは中国の一地方にあって後の漢民族に連なる王朝と考える方が適当かもしれません。
 
 この王朝の最後を飾ったのは紂王という現代においても暴君の代名詞とされる王で、「酒池肉林」や寵愛した「妲己」という妃などといった言葉と共に悪し様に言われ続けております。最も紂王の悪行については比較的近い時代からも疑問視はされており、論語においても「世の中の悪いことすべてを紂王のせいにされたのだろう」とフォローする言葉が残されています。
 こうした「紂王擁護派」には作家の陳舜臣氏も属しており、殷を葬り政権を乗っ取った周王朝のプロパガンダによる影響が強いと指摘しております。陳氏によると、周が挙兵した際の大義名分の中には「紂王はみだりに人を殺し」という文言が入っているのですが、これについては民族間の文化の違いが大きいと分析しております。
 
 陳氏の著作「中国の歴史(1巻)」にはこう書かれています。殷王朝は狩猟民族による王朝で、狩猟の成功を祈る祭事が盛んに行われていたそうです。現代においても祭器に使われたであろう殷時代の青銅器は数多く残っており、また占いに使用された骨(=甲骨文)も多数出土しております。こうした祭事の際によく使用されたのは生贄なのですが、この生贄に殷は異民族の人間を数多く使っていたのではないかと陳氏は指摘しております。同じ人間とは言え現代みたいな人権思想は全くなく、また言葉も違えば風体も異なる異民族は当時の殷の人々からすれば現代における家畜のような存在で、恐らくは同じ人間を殺しているという感覚がなかったのではと書かれています。
 こうした殷の人々に対して周の人々は農耕民族で、彼らからすれば労働力となる人間はたとえ異民族であっても貴重で、彼らも恐らくは異民族を家畜の如く奴隷として使っていたでしょうが、殷のように祭事のために殺すのはもったいないと考えていたのではないでしょうか。それゆえ「みだりに人を殺す」という大義名分が出来上がったわけですが、殷の人間からすれば真面目に祈っているというのに何をか言わん、というように受けたのではとまとめています。
 
 私自身もこの説をおおむね受け入れており、殷が悪逆を繰り返したというより民族間の文化の違い、民族間の単純な対立が殷に対する周の革命劇だったのではないかと見ています。この説の根拠として陳氏は、「殷の時代のものと思われる祭器や甲骨はたくさん出ているが、周の時代になるとこれが全く出てこなくなる」と書いており、殷は祭事に関して非常にまじめな王朝だったと記しています。
 
 ただそんな真面目王朝の殷は周に負けてしまって落草の身分へと落ちるわけなのですが、殷の貴族や人々は全員殺されたわけではなく、大幅に領土を削られたとはいえ首都朝歌のあった場所を中心に居住し続けることを許されました。ただ領土は限定され、しかも山間部の土地の貧しい所に追いやられたこともあって農業で生活していくのは難しく、仕方なく殷の人々は各地の物産を売り買いする交易を行うことによって生活基盤を作っていきました。こうした交易活動は「殷」の別名である「商」を使い、「『商』の人々の行い」と言われるようになり、現代においても使われる「商い」、「商人」という言葉はここから出来たと言われています。もっとも、故・白川静はこの説を否定してたそうですが。
 
  おまけ
 藤崎竜氏の漫画版「封神演義」はネットでレビューなどを見ていると非常に高い評価が並んでおりますが、私個人としてはストーリーに風呂敷の広げすぎが見られるし、明らかに途中でコンセプトをひっくり返しているのであまり評価しておりません。特に、悪役としてとてもキャラが立っていた妲己をラスボスに据えず、最後の最後で「実はいい人」みたいに扱ってしまったのは非常にもったいなかったのではと考えています。
 
  おまけ2
 日本人なんか比較的スイーツだから討幕された後の北条家や足利家、徳川家の一族に対して苛烈なことをしてないけど、中国では今回取り上げた殷に限らず滅亡後の王朝の皇族や貴族たちの末路はどの時代も悲惨です。特に12世紀に金に敗けた北宋ではほぼ全員が北方地域に連呼すあれ、男はみんな殺されるか奴隷となり、女はほぼ全員娼婦にされて当時の人々からも深く同情されています。こうした中国の歴史を日常的に触れているせいか、女子供を含む一族郎党全ての処刑がそれほど残酷だとは思えなくなってきたなぁ。

Google関連サービスのアクセス悪化

 今日は中国では中秋節といって祝日のため家でボーっとしていたのですが、なんか一昨日あたりからGoogle関連のサイトやサービスの接続が悪く面倒被っています。具体的に述べると、自分のサイト「企業居点」でGoogleのフォントサービスがJavaに組み込まれているのですが、このフォントサービスの接続にやたら時間がかかるため更新作業とか始めると腫れぼったく遅いです。またメインで使用しているプロキシサーバーではGoogle関連のサイト、検索やYoutube、このブログでも使っているBroggerなどは完全にアクセスできなくなり、泣く泣くこのところほとんど使っていなかったサブのプロキシを使ったりして糊口をしのいでおります。
 
 原因はまだはっきりせず、もしかしたら自宅に引いてる回線に問題があるのかもしれませんし、中国政府がまた何かしら制限をかけているのかもしれません。しばらくしたら回復するかも、というか回復しないと困るのですが、ひとまず日記として書き残しておこうと思った次第です。

2014年9月7日日曜日

プロ野球、記憶に残る優勝チーム

 上の写真はこの前ネットで拾ってきた写真ですが、遠距離撮影の静止画ながら妙に躍動感がある画像で気に入っています。それにしてもなにしやがるんだこのツバメは……。
 写真に合わせて、というわけでもないですが最近スポーツネタを書いてないので、今日は前から準備していたプロ野球関連のネタについて書きます。そのネタというのも、私個人の中で記憶に残っている優勝チームです。
 
 プロ野球は言うまでもなく毎年ペナントレースが行われセパ両リーグで二つの優勝チームが出ます。毎年出てくる優勝チームですが何年かに一度は際立ったというか記憶に深く残るチームがあり、今日は私の目線で「あのチームはほんと強かった」と思えるチームをいくつかピックアップしてみようと思います。なお年齢の関係から、90年代以降のピックアップとなってしまう事にはご承知を。
 
 
1、1998年・横浜ベイスターズ(マシンガン打線
 今でこそAクラスからはほど遠いチーム事情が続くベイスターズですが、90年代後半は間違いなく競合の一角でほぼ毎年優勝争いの候補として名前が挙がるほどの実力を擁しておりました。その高い実力の原動力たるや括弧書きに書いた「マシンガン打線」と呼ばれた打撃陣で、ホームラン数こそ少なかったもののバッター全員が異常なまでにヒットを量産していただけでなく、一人が塁が出るや後続も次々と続くなど数得点を一度にもぎ取る非常に稀有な打線でありました。
 その中でも特に目立っていたのは4番を担ったロバート・ローズ選手です。優勝したシーズンの打率が「.325」という高い数字だったこと以上に、ランナーがいる状態であればほぼ確実に長打を放ってくるという恐ろしいまでの勝負強さが際立っており、満塁時であれば五割くらいの確率でヒットを打っていたようにすら思えます。このほかにもその後に2000本安打も決めた1番の石井琢朗選手、打って、走って、守れての三拍子が見事揃っていた3番の鈴木尚典選手など、素晴らしくタレントの揃っていた打線でした。特に鈴木選手は長打も単打も盗塁も自由自在だったので私がゲームで使っていた際は本当にありがたい選手でした。
 このように打線こそチームの代名詞となっておりますがその裏で投手陣も異常なまでに充実しており、現在も横浜で活躍されている三浦選手、楽天にいる斎藤選手、野村選手とエース級の先発投手が揃っていただけでなく、「大魔神」のニックネームで有名なストッパー、佐々木選手が君臨しておりました。後年、中日の岩瀬選手や元阪神の藤川選手、巨人の山口選手など球界を代表するようなストッパーが各チームに現れておりますが、ことストッパーという点においてはこの時の佐々木選手以上の圧倒的な威圧感、迫力、そして安心感を持ったストッパーはいないんじゃないかと思います。それほどまでにこの時の佐々木選手の投球は図抜けており、今も当時のビデオを見る度に「なんやねんこのフォーク……」とため息が出てきます。
 
2、2003年・ダイエーホークス(ダイハード打線
 2000年代前半にパリーグの各球場で使われていたボールは現在と比べて明らかに「飛ぶ球」で各球団ともに大幅な打高投低な傾向が見られましたが(近鉄の「いてまえ打線」も当てはまる)、ことホークスの打線となると記録上でも異常な数字が並んできます。
 優勝こそ逃した2001年は井口選手、小久保選手、松中選手、城島選手の四人が30本以上の本塁打を記録しております。その二年後の2003年、この四人のうち小久保選手は怪我で試合には出られませんでしたが、残りの三人にペドロ・バルデス選手の四人が四人とも100打点以上を記録した上、チーム打率も「.297」という途方もない記録を打ち立てております。注目すべきは打率や打点の高さに隠れて井口選手、村松選手、川崎選手の三人がシーズン盗塁ランキングの上位三位を独占するという機動力も備わっていたという点で、本当に資格のないチームだったように未だに強く記憶に残っています。
 この時クリーンナップを担った各選手はその後、松中選手を除いて他のチームへ移籍しておりますが、どのチームでも4番を含めた主軸を担っており、誇張ではなく「4番の実力を持った選手だけでチームを作った」ようなチームだった気がします。また先のベイスターズ同様に2003年優勝時は投手陣も充実というかエースがずらりと並んでおり、和田選手、杉内選手、新垣選手の三人のルーキーが揃って大活躍して優勝に大きく貢献していました。新垣選手だけはその後のシーズンでは持ち崩しておりますが、何とか今後復活を期待したいところです。
 
3、2009年・WBC日本代表
 仮に歴代で最強と呼べる日本のチームを挙げるとしたら、私はこの2009年のWBC日本代表チームを挙げることにします。各チームから名選手だけを引っ張ってきているのだから多少ずるい気はするものの、チームとしての完成度で言ったらこのチームが一番素晴らしかったと今では思えます。
 参加した選手はお馴染みのイチロー選手を筆頭に松坂選手、ダルビッシュ選手、岩隈選手、田中(マー君さん)選手、青木選手、川崎選手などその後にメジャーリーグでも大活躍する超一流選手たちはもとより、内川選手や小松選手などその後も在籍するチームの柱石となる選手も多く、これほどはずれのない人選はそうないんじゃないかと思える陣容です。
 実際の試合では予選リーグで大活躍した村田選手が怪我で本戦に出られなかったり、ストッパーとして期待された藤川選手が不調でダルビッシュ選手が代わりにストッパーを務めるなど多少のトラブルはあったものの、実際の試合では各選手が文字通り奮戦し、見事優勝にまでこぎつけました。特にイチロー選手に至っては予選から本戦までずっと不調であったものの、最後の大一番である決勝戦の韓国戦では決勝打を放つなど事実上、試合を決めるキーパーソンとなっており、あれだけの不調にもかかわらず使い続けた原監督の采配には頭が下がります。
 なおこの時のWBC大会では投手MVPは松坂選手に挙がりましたが、一番私の印象に残ったのはほかでもなく岩隈投手でした。数試合の登板を見ましたが大舞台でも一切動じず安定した投球を見せ、やはりその実力は抜きんで板という印象を覚えます。松坂選手自身も「真のMVPは岩隈選手」と話していたらしく、その後のメジャーでの活躍を見ても現時点でのナンバーワン日本人投手はやっぱこの人ではと思えてきます。
 最後に蛇足ですが、「マー君さん」こと田中選手はこの時にWBC代表として偉大な先輩たちと共に世界のチームと戦ったというのはその後のキャリアにおいて素晴らしい経験になったのではないかと素人ながら思ってます。また優勝時、藤川選手に「お前、まさひろっていうよりまさおって顔だよな」って言われ、「まさお」と連呼されながらみんなから蹴られたというのも、今思うといい経験だったんじゃないかなとか思ったりします。

2014年9月6日土曜日

中国の天気予報に対する不満

 今日の中国江蘇省は一日中晴れてて乾いた空気でもあり、さわやかな初秋の一日でありました。にもかかわらず先程MSNの天気予報を見たら今日の天気は「雷雨」と書かれてあり、なんやねんと思いつつまたもかと思ったわけです。
 
 あくまで私の肌感覚ですが、中国の天気予報は日本の気象庁と比べて的中率は悪く、全く当たらないというわけではないですが信頼がおけるデータではなくあくまで「参考値」としか見れないところがあります。もっとも中国は日本と比べて山地が少なく、平地ばっかなためにどこで雨雲が発生して降雨となるのか予想が難しいであろうということは多少同情します。
 しかしそれにしたってもうちょっと的中率を上げられないのかと思い、だったら始めから信用せずに自分で天気図を見てこれから予想を立てようというところに行きついたのですが、この時点でちょっと妙な事実に気が付きました。その事実というのも、中国には天気図がないということです。
 
 もしかしたら存在はしているのかもしれませんが、私が確認している限りだと天気図はネット上だとどこも公開しておりません。中国の気象局のホームページに行っても妙なレーダー図とか衛星写真こそ確認できるものの、日本みたいに前線記号や等圧線の書かれた天気図はついぞ確認できませんでした。中国一の検索ツールである百度でも「天気図」や「気圧配置」などというワードで検索してみましたが、どちらも日本のサイトしか検索に引っかからず中国地域のこれらの図はどうやっても見つかりません。
 
 もしかしたらですが、もしかしたら中国には天気図という物がそもそも存在しない、予報士も天気図を見ないでレーダー写真だけで予報を立てているのでは……という疑問がもたげてきました。っていうか天気図作れないんだったらまともに登山すらも出来ないはずなんだけどなぁ。
 恐らく日本人の大半は天気図なんて見ないで生活していると思いますが、なんだかんだ言いつつ予報を立てる際に天気図を見ると参考になるし、気圧配置とかでどれくらい風が吹くのかもわかったりできます。中学校の頃の教師があんまり教えるのが上手くなかったので当時は興味ありませんでしたが、高校時代に地学を学んだ際に再度勉強し直して、現在は予報士が晴れとか雨とかいうのよりもこっちの天気図で予想を立てることの方が多いです。
 
 にもかかわらず、中国ではその天気図を気象局が作成して公開してくれてはいません。もしかしたらプロの予報士すらも天気図を作れもしないしわかりもしていないのであれば、ちょっと自然科学のレベルを真面目に疑います。悪いことは言わないからちゃんと日本みたいにウェブサイトやテレビニュース中にちゃんと公開してくれと心の底から叫びたい次第であります。

朝日新聞の池上氏コラム問題について

 すでに各所で報じられているので説明する必要がないでしょうが、ジャーナリストの池上彰氏が朝日新聞紙上で連載していたコラムにて朝日新聞の従軍慰安婦記事が誤った事実を根拠に書かれていたと朝日自身が認めたことについて、誤報を流したことを正式に謝罪すべきではないかと書いたところ修正を求められ、掲載が見送られたという事実が池上氏自身の口から明かされました。記事掲載の見送りについては朝日新聞も認め、またその後に激しい批判にさらされたことから一転して掲載見送りは誤った判断だったとして掲載すると発表し直しました。
 今回の朝日新聞の対応について私個人の意見を述べると、やっぱこの会社って責任とかが緩いなぁなんて思います。共同通信なら担当編集長が間違いなく解任くらうのに。

 今回の掲載見送り判断のどこが問題なのかというと、単純に朝日が日頃から批判している「検閲」そのものを自身でやってのけたという点に尽きるでしょう。池上氏のコラムの内容は朝日にとって耳に痛い批判そのもので、そうした批判文などを意図的に載せようとしないのは戦前の日本と何も変わらず、こんなことしでかしておきながらどうにかなると判断した人間の頭はきっときれいなお花畑が広がっているかと思います。
 折しも、週刊文春など週刊誌数誌がまさに同じ従軍慰安婦誤報関連の記事を載せた号の広告を朝日新聞に載せようとしたところ、朝日は広告の掲載を認めないと拒否し、最終的には該当記事の見出しを黒塗りにする、これまた戦前、というよりは戦後ですが、検閲そのものという荒業をやって広告掲載を認めています。あまりこの週刊誌の広告問題と絡めて報じるメディアはまだ見ないですが、全く同じベクトルの問題だというのに池上氏には謝って、週刊誌には謝らないというのは報道機関、というより普通の人間の神経からしてどうかといったところでしょう。

 もっともこの問題はほかでも言われている通りに、当事者が池上氏だったからこそ朝日は対応を変えたと見て間違いないでしょう。仮にほかの人、それほど有名でなかったり、連載を中断するというような骨のある人間じゃなかったら黙殺して、そのまま知らぬ存ぜぬで無視していたと思います。今回の逆転劇も世間の批判が予想以上に大きかったからで、こういってはなんですが「都合の悪い内容は無視して載せない」という点については何も反省していないだろうし、近いうちにまた同じことをやらかすと私は予想します。古い話ですが、まだフジサンケイグループはホリエモンのニッポン放送買収事件の際は身内の出来事ながら逐一自分とこのメディアでも報じていた分、しっかりやっていたなと改めて感じます。

 問題の発端である従軍慰安婦誤報問題についてですが、事実概要についてはちょっとあれだけどこばやしよしのり氏の漫画「ゴーマニズム宣言」が比較的わかりやすく解説されていると思います。ちょこっとだけ説明すると、朝日新聞や韓国政府が従軍慰安婦が存在していた根拠とする本があるのですが、その本は全くのでたらめで、書中にある部隊名や命令書の番号などどれもこれもいい加減で作者本人も後で嘘書いたと認めているくらいです。それが今回の誤報問題の根源なのですが、最初に従軍慰安婦問題が持ち上がった頃と比べて現在はネットでの伝播力というものは高まっており、今とは時代が明らかに異なっております。

 何が言いたいのかというと、恐らくこの問題はまだまだ続くだろうし、朝日も同じような検閲を続けるでしょうし、変に長引くことによって部数もどんどん減っていくのではと私には思えます。ただでさえ新聞業界は不況だというのに、今後は明確な意思の下で購読を拒否する層が出てくるのではないかと思えるのに対し、朝日新聞側は未だにそれなりの緊張感というか危機感を呆れるくらい持っていないなという風に見えます。

 なお先ほど誉めたフジサンケイグループですが、フジテレビの韓流偏向について批判デモが行われた際は今回の朝日新聞同様に見事黙殺にかかってきました。結果はというとその後フジテレビはじりじりと視聴率を落としていき、韓流番組がすっかり減少した現在においてもかつての栄光どこ吹く風というくらいに丁重な視聴率順位に甘んじています。デモ当時にあのデモは韓国に対する排外主義的なデモだと批判する声もありましたが、今となってみると偽らざる単純な視聴者の声だったものではないかと思え、フジテレビは明らかに対応を誤ったなと考えてます。それにしても、フジテレビは韓流ゴリ押しだったのに同じグループの産経新聞は韓国大統領に因縁つけられるって面白い関係だなぁ。