久々のこの連載記事で今日取り上げる小倉昌男は正確にはヤマト運輸の創業者ではありませんが、今日知られる「クロネコヤマトの宅急便」を作り上げたのは間違いなくこの人物であるため、創業家としてみなして今日の記事を執筆することにします。
・小倉昌男(Wikipedia)
小倉昌男は1924年、大和運輸を経営する小倉康臣の息子として生まれます。子供の頃から成績はよかったみたいで高い倍率で知られた東京高等学校に進学後、東大にも入り戦後となった1947年に卒業した翌年には大和運輸に入社します。
ここまではいかにも金持ちのエリート子息(といっても当時のヤマト運輸は中規模の運輸会社)といった人生を歩んでおりますが、就職から半年後に小倉昌男は一つの試練にぶち当たります。その試練とはほかでもない病で、当時は治療の難しかった肺結核でした。この時に小倉昌男は4年間もの入院生活を余儀なくされますが、大和運輸がGHQの運輸業務を担っていたことから当時は入手の難しかった結核治療薬を米軍から入手できたという幸運も重なって無事に快癒へと至ります。ただこの時の体験は本人にとっても大きかったようで、著作の中ではこれ以降の人生はおまけのようなものと思うようになったと記しています。
こうして健康を取り戻した小倉正臣は1971年に父親の跡を継いで大和運輸の社長に就任します。しかし当時の大和運輸を取り巻く状況はお世辞にもいい状況とは言えないもので、関西と関東を結ぶ高速道路が開通したことによって他社ではこの区間のトラック輸送を強化していたにもかかわらず大和運輸はこの流れに乗り遅れ、荷物の取扱量なども落ち込んでいたようです。更にオイルショックとも重なり、輸送に必要な燃料費の高騰によって運輸業界全体でコストが高騰しておりました。
このような状況で小倉昌男は何を考えたのかというと、当時郵政(現日本郵便)に独占されていた個人向け宅配事業に参入することを決意します。当時は今と違って運輸会社といったら法人向けのサービスが主で、個人向けの宅配サービスは郵政事郵便局のみが行っているサービスでした。しかも信書法という法律で、個人向けの郵便はプライバシー保護(という名を借りた検閲目的)で郵政しか行ってはならないこととなっており、この解釈が個人向け宅配サービスにも延長されて使われておりました。
それでも小倉昌男が個人向け宅配事業に参入した理由としては、一つはこのままの事業を続けていてもジリ貧だと考えたことと、新たなサービスを始めることによって市民の生活が便利となり支持を受けられれば必ず業績に結びつくはずだという考えでもって決意したといいます。
ここまでであればよくある熱血経営者の成功譚で終わるのですが、小倉昌男の真骨頂は事業立ち上げまでの綿密な計画作りにあります。個人向け宅配サービスを始めるに当たり小倉昌男は具体案を練るわけですが、こういってはその過程が非常に面白いです。この過程は彼の著書である「小倉昌男経営学」に詳しく描かれてありますが、サービスエリアを北は北海道から南は沖縄まで全国でやる、というか全国でやらないと意味がないとまず設定し、全国に配送するに当たって離島などを除き1日で配達するためにはどうすればいいかを綿密に計算します。
個人宅配ともなると膨大な荷物を裁かなければならないため集荷センターが必要となり、それを全国に何か所作る必要があるのか。その週箇所を作るに当たり土地の取得費用はどの程度となるのか、そして配達するトラックとドライバーはどれくらいいるのかを事細かに計算して積み上げていったそうです。最終的に二年目まで赤字となるも三年目から採算が望めそうだという結論に至り、じゃあやろうかと本格的に事業立ち上げへ着手することとなります。
事業立ち上げに当たり小倉昌男が仕掛けた取り組みにはほかにも面白いものがたくさんあります。代表的なのはサービス名を「クロネコヤマト」として例の黒猫親子のロゴを配達トラック全てに大きく描かせた点です。小倉昌男によるとこれによってトラックが街中を走るだけでああいうサービスがあるのかと市民は知ることが出来て、最高の宣伝になったと自画自賛しています。
また荷物の集荷を請負う営業所として、全国にある酒屋事業者に委託した点も見逃せません。一軒一軒荷物を受け取りに行くのではなく各地域の酒屋にお願いして荷物を預かってもらい、その荷物を大和運輸が酒屋に受け取りに行くことでコストも手間も省けるという一石二鳥の仕組みに仕立てています。
このような準備を経て1976年、個人宅配サービスの「宅急便」がまずは関東地方に限定して始め、その後サービスエリアを全国へと拡大しています。当時の配達費用ですが確か標準のサイズで500円に設定したとのことで、これはワンコインにこだわったと著作の中で述べられています。
こうして開始された宅配事業ですが、スタート当初から比較的追い風は多かったそうです。小倉昌男によると、利用者が配達を依頼して1日で荷物が届いたことなどを近所などに伝えるという口コミがどんどん広がって利用者が増えていき、営業所として委託された各酒屋も、荷物を持ってくるついでに何かしら買って帰るお客が多かったことから大和運輸に対してどんどんと協力的になっていったそうです。そのため、三年目を待たずして二年目で早くも黒字を達成し、その後現在に至るまで事業は拡大を続けることとなりました。
ただ大和運輸の成功を見て他の運輸業者でも個人宅配事業に参入する業者が当時相次いだそうです。しかし小倉昌男に言わせると、「彼らには私と違って綿密な方程式に基づいた計画がなかった」とのことで、実際にいくつかの会社を除き多くの会社で事業参入に失敗したそうです。実際に成功させた人間が言うもんだから、なかなか迫力あるもんです。
このように個人宅配という新規の事業を起ち上げた点でも有数の経営手腕といってもいいのですが、小倉昌男の魅力はこれだけにとどまらず、相手を恐れず自己の正当性を強く主張し続けた点もあります。まず最初に戦った相手はほかでもないあの郵政省で、先ほど説明した信書法を盾に個人宅配事業から引くように言われても一歩も引かず、トップである自身が先頭に立って市民の生活の利便性を訴えるなどして押し切っています。また創業以来から取引のある百貨店の三越が「何故だ」で有名な岡田茂が社長だった頃、無茶なコストダウン要求や映画のチケットの強制購入を繰り返してきたことに耐え兼ね、取引を停止するという決断も下しています(岡田の追放後には再開している)。
確か小倉昌男が死去した前年の2004年だったと思いますが、当時の小泉改革の郵政事業改革で郵便事業を民間にも開放するという案について小倉昌男が、「そんな細々とした改革はせず、信書法を廃止すればそれですべて済む」という文芸春秋のインタビュー記事を読んで、初めてこんな人がいるんだと私は知りました。それから彼の著作も読み始めたのですが、さきほどのインタビュー記事もさることながら著作を読んでて「この人って言うべきことは必ず言う直言居士だなぁ」なんていう印象をそっちょに覚えました。もっともその言うべきことというのは小倉昌男の信念に基づいており、人生全体を通しても首尾一貫とした概念で語っているように見えます。
改めて述べますが、日本の個人宅配事業はこの小倉昌男とヤマト運輸(1982年に改称)によって切り開かれたと言っても過言ではありません。もしあの時に切り開かれなければ、今の中国みたいに国営の運輸会社が独占で質の悪いサービスだけを提供していたかもと思うと、その功績は計り知れないと考えています。
私は以前の記事で日清食品の創業者である安藤百福を取り上げてやたら賞賛しましたが、仮に昭和時代の名経営者を挙げるとすれば私の中では一に安藤百福、二に今回の小倉昌男を挙げます(三は土光敏夫かなぁ)。普通、昭和の名経営者ときたら松下幸之助とか本田総一郎、などが挙がってくるでしょうが、自分の感覚はなんかほかの人とは違って打たれ強い人間を贔屓にする傾向があるようです。
参考文献
・小倉昌男経営学 1999年 日経BP社(といっても読んだのかなり前だが)
4 件のコメント:
こんにちは~。
ステキな人物を紹介していただき、ためになります。
ありがとうございます。
綿密な計算による事業試算、、今なら、コンピューターにちょちょっと数字を打ち込むだけで、一瞬にしていろいろなグラフになるのでしょうが、紙と鉛筆で、あーでもない、こーでもないと、細かく細かく計算したのでしょうね~。そういうの、萌えます(笑)。
昔の日本人のモラルは高くなかった、という内容の「昔はよかったというけれど」という本を読みましたが、郵便物のネコババは、日常茶飯事でおこっていたそうです。宅配事業に民間が参入したことにより、速さや便利さだけでなくて、安心して品物を預けられるシステムが築かれたと思い、ありがたいです。小倉昌男さんのことは、よく知らなかったので、知れて嬉しいです。感謝です。
今度、日本の政治大物である小泉純一郎氏を紹介してくださいね。
勢いで書いたから説明不足な点も多いのですが、この人の何がすごいかっていうと事業に必要な経費を計算して方程式を組むだけなら誰でもできますが、その方程式通りに事業を現実に運んでしまった(運輸会社なだけに)という点でしょう。一般にはまり知名度が高いとは言えませんが、普通に伝記などで紹介したっていいくらいの立派な人物だと考えてて前から紹介したいと思っていました。
ちなみに中国の郵便は政府の独占事業で、大体3回に1回くらいは不着になるなどと噂されてます。宅急便も今じゃあって当たり前ですが、当たり前を一から作り上げたというのはほんとに尊敬します。
小泉についてはこれまでも何度も書いているからパス。強いて挙げれば政局勘がとてつもなく優れていたことと、要所要所で強運を持っていたということに尽きる。
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