お話の三国志演義の中だと曹操は登場シーンからして野心満々な人物に描かれ、その後の行動や発言にもブレなく、本来主である献帝に対しても不遜な態度を取りまくります。しかし実際の史実で見ると、少なくとも若年時は尊王の志も高く、朝廷に対する意識も周囲より高いと伺える行動が見られます。
具体的には、一番最初の反董卓連合結成時の行動です。董卓を叩くため各地の諸侯が結託するも、みんな自分の兵を失いたくないから率先して戦おうとしない中、自ら進み出て董卓軍と戦ったのは孫堅と曹操だけだったそうです。もっとも曹操はすぐ負けたのに対し、孫堅は呂布相手にも打ち勝って、董卓が長安に逃亡するきっかけになるほどの大活躍を見せましたが。
少なくとも上記の時点では、もしかしたら打算あってのものかもしれませんが、朝廷に対する深い忠誠心を持っていたと思える節があります。実際そうした姿勢を見せたからこそ、漢朝復興を目指す荀彧などの名士が曹操の陣営に参加するようになったとも言え、実際に曹操配下の人材は曹操を助けるというより、曹操を通して漢室を復興させることが目的だった人物が少なくありません。
しかしその後の歴史を見ると、曹操は皇帝である献帝の皇后を、彼女の父親が生前に曹操の暗殺を目論んでいたという理由で処刑し、また荀彧との決裂の原因にもなった「魏王」という爵位を受けるなど、漢朝に対する露骨な簒奪プレイを見せるようになります。最終的に彼は「周の文王でやめとくよ(´・ω・`)」といって、自分自身は止めの簒奪はやらずに最後の一手は息子の曹丕に任せていますが、上記発言が出る辺りは確実に簒奪の意思を持っていたと言っていいでしょう。
仮に曹操が反董卓連合時点ではまだ忠節を残していたとしたら、一体いつから彼は漢室に見切りをつけるようになったのか。考えられるポイントはいくつかあります。
・董卓軍に敗北した際
前述の通りに曹操は孫堅とともに果敢に董卓軍に挑むも惨敗し、その後連合から離脱して勢力の充実化を図るため引きこもっています。この間に戦ったのは自分(と孫堅)だけだったことや、こんなに頑張っているのに報われない等の思いから、漢室への忠誠をなくした可能性が考えられます。
・献帝保護時
董卓が死んで李確らが支配するようになった長安から逃亡した献帝は曹操によって保護され、これ以降は曹操が朝廷の権威を思うがままに使えるようになります。この段階で漢室を再興させるよりも、好きなだけ利用して天下取ったろ的に野心を拡大させた可能性もあるでしょう。
ただ、保護当初から献帝は早々によってないがしろにされていたことを自覚していたようで、「敬う気がないならとっとと退位させてくれ」と献帝自身が早々に述べたと伝えられています。これ以降、曹操は献帝に会うのを控えるようになったとされ、状況から考えると献帝保護以前から既に忠誠心を失っていたと考えるべきでしょう。
・暗殺事件発覚時
曹操には二度の暗殺計画が企図されており、一つは董承によるもの、もう一つは伏冠によるもので、どちらも献帝の指示によるものされています。どちらの事件も発覚時に関係者は妊婦を含む一族もろとも処刑されていて曹操の怒りぶりは傍目にも相当なものだったと伝えられていますが、恐らく曹操もその指示役が献帝だということを知っていたとされ、担いだ神輿の上から殴られそうになったという思いから、この辺で愛想が尽きたというか忠誠を失った可能性もあるでしょう。
まぁそれ以前からかなりやりたい放題だったからこそ、暗殺が企図されたわけなのですが。
自分の見方だと最初の董卓軍敗北時が可能性としては高い気がしますが、人情的には暗殺事件がきっかけという可能性も捨てきれません。それ以前に、曹操はハナから漢室簒奪の意思を持っていたという従来の見方も否定できないわけですが、この辺は曹操本人に聞くよりほかがありません。