養老孟司氏といえば書籍「バカの壁」でおなじみの解剖医で、現在も講演や執筆活動を旺盛に行っています。「バカの壁」が出たのはもう随分と前ですがその発売時は大いに話題となってベストセラーとなり、当時はよくテレビにも出演していたのを覚えています。
私も当時、よく売れて話題になっているということからこの本を手に取って読んでいるのですが、自分でも非常に不思議なのですが、「バカの壁」の定義を含め、この本に何が書かれていたのか当時も今も全く覚えていないのです。
読んだ本の内容が全く記憶に残らないなんていうことは他にはほとんどなく、同時期に読んだ渡辺淳一の「鈍感力」なんかかなり良く覚えているだけに、自分がなぜ「バカの壁」の内容を全く覚えていないのか当時から非常に不思議でした。そのため、「バカの壁」は確か3回くらいは繰り返し読んだはずなのですが、それにもかかわらず内容を覚えることができませんでした。
一体何故「バカの壁」は私の記憶に残らなかったのか。結論から言えば、私と養老氏で根本的な価値観や考え方が大きな開きがある、特に自然に対する認識で大きな齟齬があるためではないかと、この度ようやく気が付きました。
なんで急にこんなことに気が付いたのかというと、養老氏の別の本を読んだのがきっかけでした。その本は最近文庫化された「自分は死なないと思っているヒトへ」という本で、養老氏の結構前の講演内容をまとめた本です。
主に生活スタイルが都市化していくことで意識ばかり先行するようになった現代社会の特徴を指弾する内容となっているのですが、この本の中で養老氏は「自然」こそが大事で、その対となる存在にあたる都市、人工物に対しては全体を通して批判的に語っています。
この養老氏の言う自然についてですが、養老氏が子供だった頃の鎌倉にはたくさんの自然があり、趣味の昆虫採集にもいそしむことができたなどという風に語られます。そのうえで、海外、特にブータンなんかはこの手の自然が残っており、東京などには公園などはあるけどああいうのは人の手が入った人工物であり自然ではないと否定しています。
以上のような養老氏の自然観を読んでいる最中、自分の中である疑問がもたげました。具体的には、「真冬で極寒の中にある北海道の平野とか、水一滴存在しない高所山岳地帯などは、養老氏の中の自然に含まれているのか?」という疑問です。
書籍を読む限り、養老氏が「自然がある場所」として挙げられている環境というのはどれも、昆虫がたくさん生息する森林しかみられません。そうした場所の自然のありがたみや恵みについて養老氏は度々強調しているのですが、私にはこれが腑に落ちず、そもそも自然というのは恵みだけをもたらす存在ではないという風に認識しています。
前述に挙げた、人間、それどころか虫を含むほとんどの生物にとって生存し続けることが困難な場所もまた、人の手が全く入っていない自然地帯です。むしろ、森林以上にナチュラルな場所だとすら考えています。
そのうえで、自然というのは人に恵みをもたらすだけでなく、時に善人であろうと悪人であろうと関わらず、容赦なくその命を刈り取る厳しさも持っていると考えています。人が死ぬほどの暑さや寒さ、そして乾燥だけでなく、台風や地震などといった災害もまた自然の一部だと私は考えており、ただ一方的に人へ恵みをもたらしてくれるありがたい存在ではありません。敢えて例えるなら人を導く一方であっさり消し去ることもある、一神教における神のような二面性を持った存在として私は自然を見ています。
そうした見方から私は自然に対し恵みをくれるありがたい存在とは見ず、如何にしてその逆鱗に触れずにおこぼれに預かるかを考える、畏怖の対象としてみています。そもそも自然を管理、支配するということは人類にとって土台無理な話であり、昨今の環境対策とかに関しても、人が及ぼせる範囲内で自然を人類にとって有利な方向へ誘導する程度の小細工に過ぎないという風にも見ています。
あくまで私の解釈ですが、養老氏の自然に対する概念にはこうした自然に対する畏怖感、そしてその厳しさに対する警戒感が見られず、自然はいいものと全面肯定しているようにしか見えません。そのうえで都市、人工物に対し非常に否定的なことを何度も述べられていますが、私は人が密集して暮らす都市ができたからこそ人同士の距離感など初めて得られた感覚もあると思え、「都市だからダメ」という風に言い切ることは早急ではないかとも思います。
そもそも前述のような認識から、私は自然そのものが美しいとは思っていません。あくまで自然というのは美しさも内包しているだけで、むしろその全容は呵責なく人間を一度に大量に弑することもある恐ろしさをはらんだものとみています。
そうした自然の脅威に対し、寒さや暑さの対策を盛り込んで組まれた住宅や、水害を防ぐための信玄堤をはじめとする治水措置などは完全な「人の手によるもの」でありナチュラルな存在ではありませんが、私はこれら人工物は自然の脅威を抑えようとする人類の叡智の結晶であり、そこには強い美を内包していると考えます。
また養老氏が「人の手が入ったもの」と批判する公園、特に庭園などに関しては、自然の中に含まれる美を人間が見出し、抽出、再構成したものであり、これこそが自然の美であるとも私は考えます。山岳地帯の風景など、全く人の手が加えられていない自然の美も確かに存在するとは思いますが、人の手が入ったからと言って自然の美ではないと全否定するのは間違っているような気がします。
以上のように、自然に対する認識で私と養老氏の間にはかなり埋めがたい認識の齟齬があるように思え、恐らくこの根本的な価値観の違いから、養老氏の主張する内容を私がほぼ全く飲み込めず、その著作を読んでも記憶に残らないのではないかと思います。
そのうえで養老氏が述べる「自然」というのは、はっきり言えば子供時代を過ごした鎌倉の風景、いわば憧憬のことを言っているのではないかという気がします。だから人を寄せ付けない自然は含まれないし、当時の鎌倉とは程遠い現在の東京などの姿を否定的に語っているのではないかと思え、この辺の「自然」という言葉の定義の差が、自分との間で認識齟齬を生んだのではないかと推測しています。