夏休み お盆過ぎから 本番に
これは大分昔に作った私の俳句ですが、言わんとする事は夏休みは終盤に入って宿題に追われるという状況になればなるほど遊んでて楽しくなるという意味です。人間不思議な物で、何かに追われている状況であればあるほどやらなきゃいけない事を放って関係ない行為、それこそゲームとか掃除とかをすると強い快感を覚える物ではないかと常日頃から私は考えています。
まぁそういった現実放棄の快感は放っといて、それこそ今日から小学生らは夏休みに入ったそうですが、私の子供時代を思うにつけて夏休みが始まったばかりの七月だとどうにも休みという実感がないのですが、終わりが見えてくる八月の後半になるにつけ一日一日がそれまでよりずっと重く、価値があるように感じられた気がします。
これはなにも夏休みに限る事じゃなく期間の定めた時間一般にも当てはまるように思え、例えば先ほどの夏休みの宿題のような作業一つとっても日程に余裕のある間はどうせ後で出来てしまうからなどと思ってはそれほど切迫感を感じられませんが、日にちが段々と狭まっていくと徐々に切迫感が増して嫌が応にも作業への集中力が増していきます。
もうここで結論を出してしまいますが、人間というのは基本的に終わりが見えない間は現在自分がいる時間の価値を測ることが出来ないのではないかと私は言いたいわけです。
先ほどの小学生時代の夏休み然り、学生時代然り、若者でいる間然り、現役世代でいる間然りと、人間には人生において様々な時間の期間が存在しますが、それぞれの期間で満足に時間を使用したかと問われるならば恐らく殆んどの方が無駄な時間の方が多かったと答えると思います。その上でそれら期間の前半と後半でどちらが充実した時間を過ごしたかと問うならば、多分こちらも後半の方が濃密であったと大半の方が答えるかと思います。
何故このようになるかというと最初に言った通りで、それぞれの期間が終わりに近づかない限りはその期間における時間の価値、言い換えるならその間にしかできない事、やれない事を上手く認識できないからで、そのために人間が時間をフルに有効に使う事は至難の業ではないかと私は思うわけです。
で、ここで極論を突然出してしまいますが、一体何が人間にとって最後の時間かというならば、それは間違いなく死以外の何物でもありません。
私が何故この様なことを思いついたのかと言うと、ガン宣告を受けた患者らのインタビュー記事を見ていると、自分の死を意識するようになってから世界観が変わった、一日一日に価値を見出せるようになったという話を多く見かけたからです。
言われて見て仮に私自身がもし来週、下手すりゃ明日に死ぬとしたら、一体今自分は何を優先して行うべきなのだろうかをその時少し考えてみました。遺書を書くべきか、それとも誰かと話しているほうがいいのか、それともいっそ何もせずに外だけをじっと眺めているべきなのかといろいろ考えてみたのですが、時間が有限だと意識すると何か物の見方が変わった気がしました。
何も常に死を意識しろとまで言うつもりはありませんが、今あるこの時間は有限であって無限でないと考えるだけでも、人間知らず知らずのうちにもっと充実した時間を送れるんじゃないかと思うわけです。
ちなみに常に死を意識するという考え方ですが、長岡出身の河合継之介と山本五十六の二人はよく、「常在戦場」という言葉を使っていたそうです。私はここまで極端ではないものの、論語の「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」をよく使っています。
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