先日に宗教学者である島田裕巳氏の著書「無宗教こそ日本人の宗教である」を読んだのですが、読んでて自分とは異なる意見もいくつか見られたものの、日本人の無宗教性を「特定の信仰を持たない状態」ではなく「意識的に信仰しようとしない」一つの思想として捉えた点が非常に面白く感じました。ただそうした島田氏の捉え方と共に、明治にキリスト教が知識人層に広まっていったことで日本人の宗教概念が変わったという、話に何故だかアンテナに引っかかり、今日はそのあたりを好きな風に書いてこうかなと思います。
まず結論から書いてしまうと、タイトルにも掲げている通りに仏教は宗教なのかという疑問を覚えました。たとえばキリスト教とイスラム教に対して仏教は一神教と多神教で異なるとよく言われますが、それ以前の信仰の形式というか形で大きく異なるのではないかと思うようになりました。まだ考えがまとまっていないので端的に書くと、キリスト教やイスラム教は人類全体を救済するという目的を持っているのに対して仏教はどちらかと言えば信仰する本人、個人が悟りを開けるかどうかに重点が置かれているような気がします。仏教にも衆生を救済するという概念はもちろんありますがやはりその本質は輪廻の輪っかから解脱することにあり、キリスト教やイスラム教の様に世界を破滅から救ったりとかそういう意識が極端に薄い気がします。
ここで先ほど出した島田氏の言葉ですが、明治以降に日本人の宗教という概念が大きく変わったという説です。宗教というと信仰する神様がいて、戒律によって生活の一部を制限して、自分の振興をほかの人にも勧めようとする、大体この三要素を持った思想を指すとみんな考えていると思いますが、仏教もこれらの要素を持ちながらもその程度はキリスト教やイスラム教と比べると極端に低く、浄土真宗に至っては結婚も生臭物の接種もOKというフリーダムぶりです。そのように考えると、仏教を西欧や中東における「宗教」という概念と一緒に並列していいものなのか、思想は思想でも「宗教」というカテゴリーにまとめずに敢えて別の言葉に置き換えて区別した方がいいのではないかと思ってきたわけです。
そのように考えていたらふと出てきたのが、「道」という言葉です。最近だとこの「道」という一文字を見たらリアルに「タオ」と読んでしまうのですがそれは置いといて、仏教と同義の「仏道」と日本古来の神話思想の「神道」という言葉にはこの「道」という言葉が使われますが、「キリスト道」とか「イスラム道」という言葉は一般的ではないというか普通はまず使いません。
個人的にここが両者を分けるポイントだと思うのですが「道」というのは分野というか専門といった意味を持つ言葉ですが、それと同時に訓練して獲得するような技能などにも使われる文字です。具体例だと「剣道」や「弓道」、マイナーなのだと「天狗道」とかありますが、私はやはり「仏道」や「神道」というのは究極的に、その個人が修行したり魂を磨くということに価値を置いているからこそ「道」という言葉が使われるのだと思います。
それに対してキリスト教やイスラム教は、確かに精神を鍛えるという面もありますがどちらかというと論理を追及するところにより価値が置かれているようにも思え、それがため「宗教」なんじゃないかと思います。なのでまとめると、仏教や神道は「道」であって「宗教」というか「教」とは一線を画すべきなのではというのが私のいいたいことです。
もっともここまで言いながらですが、じゃあ中国の「道教」はどっちなんだと言いたくなってきます。もう「タオ」でいいだろと言いたくなってきますが。
2 件のコメント:
質問ですが、法輪功は宗教範囲に入りますか?
法輪功はあまり詳しくないが、気功を柱にしているあたりやっぱり個人の修行を重要視しているように見える。となると仏教と同じで「道」に入るのかな、宗教という大きなくくりに入るっちゃ入るけど。
むしろこういうのはM教授とかPJに聞いてよ( ´∀`)
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