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2019年11月5日火曜日

高度な理性とは

 理性的な人物だと言われれば、恐らくまず褒め言葉として受け取られるでしょう。では理性的な人物とは、どんな人が当てはまるのか。
 恐らくこうした問いかけをした場合、一番多く帰ってくると思う答えとしては「常識的な人物」ではないかと思います。しかし私に言わせると、常識というのは時代や場所によって変わるものであり、それこそ貧困国や戦地において日本の常識を維持する人間が「理性的な人物」として取られるかは果たして疑問です。

 では単純に「理性」が多い人間だったらどうか。そもそも理性とは何かというメタな議論へと発展していきそうですが、要するに論理的に考える人のことを指していると私は考えており、その意味で言えば「感情に流されない人」こそが理性的と言えるかもしれません。この場合の「感情的」とは、特に現代日本だと「めったに怒らない人」がそうした代表として扱われると思え、確かにこういうタイプの人なら「理性的な人」と言われても自然ではないかと思います。
 でも、敢えて嫌な言い方をすれば、いついかなる時も怒りを見せない人間が果たして理性的なのかという逆説を問うこともできます。それこそ目の前で親や子供が殺されながらも怒りを見せない人間は理性的と言えるのか、という風に問うこともできます。ただこうしたケースであれば、「怒りではなく悲しみを出すことが自然」として、怒りを見せずとも涙を流すという感情を出しさえすれば、怒りを抑えつつも親類への情をきちんと備えているとして合格、晴れて理性的な人物に認定されるかもしれません。

 ただ上記ケースにおける怒りにしろ悲しみにしろ、それは理性というよりかは感情があるかないかの議論であると私は捉えており、理性の有無の議論とは敢えて分けて考えた方がわかりやすいように思います。目の前で虐殺されるのを見て怒りも悲しみも見せないのはただ単に感情がないだけで、それはそれでやはり不気味な人間だと私も考えます。
 ではこの場合の理性があるかないかはどの点を見るのかというと、端的に言って大きく取り乱すか否かでしょう。怒りや悲しみを見せるとしても、「てめぇこのやろ絶対許さねぇ!」などといって戦車に向かって体当たりをかける人は情が強いことは認めるものの、私の中では理性的ではありません。怒りであろうと悲しみであろうと、無謀な行為や、論理的に明らかに逸脱した行為を見せるというのが理性的ではなく、憎い相手を殺そうとするにしても、死んだ者に涙を流すとしても、その目的に合わせて適切な行為を行い、なおかつ我を失うような慌て方をしないということが理性的であると考えるわけです。

 以上が理性的という言葉に対する私の定義ですが、ではここで、「高度な理性」とは何を指すことになるのでしょうか。要するに、取り乱さないことの程度が高いということで、どんなショッキングな場面においても取り乱さない人が、高度な理性を備えていると言えるでしょう。
 そういう意味では昔にも書いた気がしますが「罪と罰」のラスコーリニコフとナポレオンの比較が好例といえ、何百万人を死に至らしめながら平然と自らの野心を追求したナポレオンに対し、誰からも嫌われる金貸しの老婆とその妹を殺しただけで前後不覚になるラスコーリニコフでは、ナポレオンのほうが理性的だったということになります。

 この「罪と罰」の例は自ら手にかけた場合ですが、他人に手をかけられるという意味では最初の例のように、親族が殺される、知人が殺される、赤の他人が殺される、この順番でどこで取り乱すかでその人の理性が測られることとなるでしょう。
 また無理に殺人を例にしなくても、ジェイソンに会う、フレディに会う、花子さんに会う、貞子に会うというドッキリ恐怖系でも、どこで恐怖から取り乱すかでも測れるかもしれません。もっともこのキャラたちの格付は私にもよくわかりませんが。

 なんでこんな話をするのかと言うと、実は今、超ゴア系アドベンチャーゲームを買うかどうか悩んでます。ネットでチラ見しただけで戦慄というか声が出なくなり、ガチで目を背けたというか画面切ったほどの内容なのですが、「俺の理性はそこまでなのか?」と変な負けん気だして、こんなんでビビんねぇぞとばかりに逆に購入してやってやろうかという気に今なっています。もっともそういいつつ、あれ程の内容ならば触れない方がいいのでは、触ってしまうと逆に歪むのではという懸念も持っています。
 そうした妙なせめぎ合いを感じている最中ですが、少なくとも言えることとしてはやはり私は幼少より、そうしたホラーをはじめとするゴア表現系の映像やらストーリーをよく求めてきて、そうした物に触れるにつれて徐々にですが理性的になってきたという自負はあります。この前も紹介した「シークレットゲーム」でもプレイ中、少なくとも私は目を背けたり映像や表現に慄いたりすることは一切なく、ホラー耐性みたいなものは幼少時と比べると格段に強くなっています。

 ホラーやスプラッタ描写に触れ過ぎると性格がおかしくなる、残虐になるという教育論は昔から多いし私も別に否定しませんが、自分に関してはホラーやスプラッタ描写の行為に憧れるとかそういうのはなく、ただ単に「怖い、だからこそ見てみたい」という単純な興味からであり、恐怖を克服したいとかそういう気も別にあるわけではありません。しかし結果的にそうした動機や行動が「高度な理性」につながってるとしたら、意識して高めているわけじゃないけど、私は割と高度な理性を追い求めて生きてるんだなと思ったわけです。
 
 そんなわけで、そのゲームを買うかどうかマジ悩んでるわけです。本気でここ数年でかつてないくらいにドン引きしたゴア表現でしたが、だからこそ惹かれるというか、久々に高くてもやってみたいと思ったゲームです。まぁこうなったのも、「シークレットゲーム」が少なくとも自分が思ってたよりかはマイルドだったことも少なからず影響している気がしますが。

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