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2009年3月5日木曜日

満州帝国とは~その四、満蒙独立運動~

 日露戦争後に日本は満州鉄道とその周辺の付属地を手には入れたものの、満州全土は依然と中国のままで、1931年の満州事変が起こるまでは日本はその地域を完全掌握するには至りませんでした。しかし満州地域の権益の独占と支配の画策は満州事変の直前までなかったかというと実際にはそうではなく、日本は満鉄を手に入れた時点から混乱の続く中国に対して隙あらば付け入ろうと目を光らせており、実際に数多くの謀略を仕掛けては独立工作を何度も実行していました。
 そのような謀略を行っていたのは言うまでもなく陸軍をはじめとした日本の軍部らと、また中国大陸で一旗あげようとしていたいわゆる大陸浪人と呼ばれる人たちで、そうした日本人らにかつての清王朝の再考を夢見る元皇族の中国人こと満州人らたち組むことで行われ、そうした彼らの工作は俗に満蒙独立運動と呼ばれています。

 満蒙独立運動の活動家として最も代表的な人物は、大陸浪人の第一人者である川島浪速です。川島は中国語を学んでいた関係から若い頃から通訳などの仕事を通して中国と深く関わるようになり、その過程で川島の生涯の盟友となる粛親王善耆こと、清王朝の皇族らとも親交を深めていきました。その粛親王をはじめとした清朝の皇族たちは凋落著しい清朝を再興するために、日本の力を借りることで先祖伝来の満州の地にて蜂起、独立する計画を持っており、日本政府としても彼らを支援することで満州と蒙古地域(現在の内蒙古自治区)を中国政府から切り離して独立させることで、より中国大陸へと進出するという野心があり、いわば双方の思惑が一致する線の上で川島を始めとした大陸浪人らが日本と元皇族を結びつけたことから満蒙独立運動が始まりました。

 そうした中で行われたのが、辛亥革命直後に計画された第一次満蒙独立運動でした。1911年の辛亥革命にて清朝が完全に滅ぶや川島らは粛親王らを北京から脱出させ、満州内で兵を集めて挙兵する準備を進めつつ日本陸軍へも協力を打診しました。実際にこの時には参謀本部や外務省などから川島らを支援する目的で多額の資金や武器弾薬が拠出されたのですが、欧米各国がこのような日本の動きに対して懸念の声が挙がったことで、外交問題に発展することを恐れた日本政府より挙兵を中止するべしとの命令が出されたことで最終的には実行には移されませんでした。

 しかしこうした連中がちょっとやそっとで計画を断念することはなく、計画中止から三年後の1914年に欧州で第一次世界大戦が起こっている最中、中国では袁世凱が突然皇帝に即位するという破天荒な行動を起こしたことから中国国内で打倒袁世凱を掲げる「第三革命」が起こりました。この間に日本の大隈重信内閣は中国に対して対華二十一カ条要求という中国に対して屈辱的な外交要求を行うだけでなく、さらにはこの第三革命に乗る形で強気に内政干渉を行っていき、その一貫として再び清朝の元皇族を再び支援することで満州地域の独立を促す第二次満蒙独立工作が行われました。

 この時の計画はかなりの所まで準備が進められ、挙兵の際に障害となるであろう満州地域の軍閥である張作霖の爆殺未遂など実際に実行に移されたのも少なくありませんでした。しかしそうした工作の最中に袁世凱が急死したとことにより、遠政権の打倒という大義名分を失ったことから日本政府はまたも作戦を中止し、満州の独立はあきらめ中国において親日的な政権を応援するという方策に変えました。
 こうした方針の変更に困ったのは、実際にもう挙兵してしまった各地の部隊たちでした。一応日本政府も責任を感じてか部隊の解散費用などが川島らの支援者へ支払われはしましたが、支援のなくなった独立主義者のパプチャックの軍などは張作霖の猛烈な反撃を受けて敗退し、パプチャック自身も戦死しています。

 私などは大学受験時代に毎回相当な高得点を日本史の試験でたたき出していましたがこうした満蒙独立運動については何一つ習ったことはなく、以前に満州史を勉強した際に今回の記事の内容を知った際には、やっぱり日本は当時の中国にいろいろとちょっかいを出していたんだなと、あまり驚きはなくむしろ納得するような感じで事実を受け取りました。
 これは今回資料としている学研から出ている「歴史群像シリーズ 満州帝国」に書かれている評論ですが、特筆すべきはこれらの満蒙独立工作は公然と日本政府や軍部が中国に対して工作を仕掛けていたという点です。よく靖国問題についてあれこれ内政干渉だなんだなどという議論がありますが、当時はこれほどおおっぴらにやらかしていたのかと、今の時代にいるからこそ思うのかもしれませんが当時の日本のあまりの露骨さには時代格差を感じてしまいます。

 ただこうした工作が当時の軍部や政府の主導的な関与があったという事実は、この後に行われる張作霖の爆殺、それに続く満州事変といった一連の軍部の行動も、このような流れに沿ったものだったと考えると突拍子もない軍部の暴走だったとは受けきれないとも私は思います。

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