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2009年3月4日水曜日

満州帝国とは~その三、満鉄の設立~

 満州帝国の歴史を語る上で欠かすことの出来ないものは数ありますが、今日紹介する満鉄はその中で最も代表的なもので、事実上満鉄=満州といえるような面も歴史にはあります。
 実はこの満鉄の記事を書くに当たり対象とする範囲が一気に膨大になってくるので、この際この連載を紀伝体風にやってこうかなとも考えたのですが、多少変則的になりますがこの記事では設立時の状況を説明する導入にとどめ、今後の記事は紀伝体調を強くしてやっていこうかと計画中です。甘粕正彦とか石原莞爾なんて、散逸的に書いてもしょうがないし。

 それでは早速解説を始めますが、この満鉄こと満州鉄道会社は日露戦争後、当時のロシアから満州での鉄道経営権を譲り渡されるのを受けて、その管理を目的に半官半民の組織で設立されました。この満鉄の設立に当たり、前回でも説明したようにロシア側から鉄道のみならず鉄道の付属地を譲り受けることから当地の行政もある程度管理する目的で、日露戦争勝利の立役者である児玉源太郎は占領統治を熟知している旧知の部下こと、台湾の民生局長時代に台湾の衛生環境を劇的に改善させた後藤新平を満鉄の初代総裁に据えようとしました。しかし後藤本人は当初は総裁就任を固辞していたのですが、そうこうしているうちに児玉が病死してしまい、医師だけにその意志を受け継ぐ形で後藤も最終的には総裁就任を承諾しました。

 とはいっても、満鉄は活動開始期から華やかにやってこれたわけではなかったそうです。後藤の腹心で後に二代目総裁となる中村是公はこの時期に東大時代からの親友である夏目漱石を満州に招待していますが、その旅において漱石は急速に近代化が進む付属地の状況を記す一方、ちょっと付属地の中心部を外れると荒涼とした荒地が依然と広がっているとも書いており、日本にいる人間たちからすると満州は遠く離れた僻地という印象が強かったようで、実際に日本以上に寒さの厳しい土地ゆえ鉄道の管理運営もしばしば支障をきたし、また馬賊などの襲撃が度々あっては満鉄社員らも士気が上がらず不祥事もよく起こっていたそうです。
 
 それでも後藤や中村の努力もあって徐々に鉄道網や付属地の経営やインフラの整備は進んでいき、明治末期に満州を訪れた矢内原忠雄も決して満州は僻地でないと、漱石が訪れた時代より大きく発展したことを記録しています。そんな中、満鉄が大きく飛躍するきっかけが外部よりやってきたのです。何を隠そう、第一次世界大戦です。
 この一次大戦にて満鉄にとどまらず日本中でも好景気をもたらせましたが、満鉄にとってなにが一番大きかったというと操業開始より経営の柱としていた鉱山発掘でした。満鉄の設立前にあらかじめ行われた中国との交渉によって日本は付属地近くの鉱山の経営権を獲得しており、この鉄道と鉱山経営は満鉄の設立開始から終末期まで経営の二本柱であり続けました。この鉱山経営が一次大戦の勃発によって重工業製品の需要が伸びたことからこの利益が膨れ上がり、この頃から経営が安定してきたことから名実ともに満鉄は日本を代表する会社となり、東大卒の社員もこの頃から入社するようになります。

 ただこうした一次大戦による経済的地位の上昇以上に、満鉄がその影響力を強めたのはロシア革命によるところが大きいとされます。というのもロシア革命によって世界初の(パリコミューンはもちろん除く)社会主義国家のソ連が誕生したことにより、ソ連と国境を接する満州にある満鉄と関東軍は次第に対ソ最前線の国防上でも重要な地位を帯びるようになっていき、ソ連に対する謀略、諜報の基地的な役割が強まっていきました。こうした流れを受け、付属地の経営や行政を研究する目的で満鉄の設立当初よりあった日本初のシンクタンク……というのはやや大げさな気がして私はあまり信じていませんが、戦前を代表するシンクタンクの満鉄調査部は徐々にソ連や社会主義陣営の偵察、研究、ひいては植民地政策などあらゆる方面を研究する組織へと変貌を遂げていくようになりました。

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