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2024年10月4日金曜日

北海道の教育行政はどうなっているのか?

 昨日ふと、そういえば今年起きたけど続報の途絶えた旭川女子高生突き落とし事件はどうなったのかと気になりました。この事件に関しては詳細を省きますが、女子高生が橋の上から突き落とされて殺されるという内容もさることながら、容疑者の成人女性が旭川警察署に勤める景観と不倫関係にあったことなど、真相はどうなのかといろいろ気になる事件でした。
 この事件が起きた時、それ以前のいじめを原因とする旭川女子中学生凍死事件もあってまた旭川かなどと、その治安、教育の悪さを懸念する声をネットで見ました。中には「旭川は松戸よりやばいんじゃないの?」と、当たり前のように比較対象にマッドシティ持ってきて、それについて誰も異議を唱えなかったのをみて、「ああ、やっぱ松戸ってそう思われてんだな(;´・ω・)」と変に納得しました。


 そんな風に旭川の事件を思い出していたところ、場所は札幌ですが上記の事件の報道を見ました。詳細はリンク先にありますが中学生男子による小学生への性的虐待事件なのですが、犯人が補導にとどまらず家裁に送致されるほどの重大案件ながら、学校側は要望があったにもかかわらず調査をせず放置した、というより恐らくですがもみ消そうとしていたそうです。

 旭川と札幌で場所は違いますが、先の女子中学生凍死事件でも学校だけでなく、教育委員会もいじめを露骨な態度で隠蔽しようとし、警察なども知らんふりしていました。特に教育委員会に至っては「加害者のその後の人生に影響する恐れがある」と、被害者のことを蔑ろにして加害者の人権を守ろうという狂った態度を取っており、いじめを行った加害者のみならず、教育を管理する大人の組織も含めてすべてがすべて腐っていた事件と誰か評していましたが、全く持ってその通りでした。
 そうした旭川の教育行政の態度を見て、旭川は治安が悪いというより関連組織におかしい人間しかいないと思い、滋賀県大津市と並んであまり教育方面で機体のできない地域だという風に私も認識するようになりました。そこへきて今回の札幌市の事件ですが、北海道全体でなんか教育行政がおかしいのではないかと、少し疑うようになってきています。

 こう疑うのも、偏見かもしれませんが北海道の人と接していてなんかおかしいと思う人が少なくないからです。

 以前にコールセンターへの調査でめちゃくちゃなクレームをつけてくる人には北海道出身者が圧倒的に多いという話を聞いたことがあり、この時もなんか納得しました。たまたまかもしれませんが自分があった北海道出身の人は息を吐くように他人に責任を押し付けることに呵責なく、無責任な人が多かったです。自分の価値観を絶対視していて何故か間違った敬語の用法を振りかざして他人に幾度も攻撃しようとする輩で、世間知らずだと思うと同時に、親の教育はどうだったのだろうかというのが気になりました。

 もちろん個々人によって差があるでしょうが上記の旭川と札幌の事件を見る限りなんか教育行政が組織として機能しておらず、教育現場とかが無法地帯と化しているのではと疑っています。それくらい、常識的に考えてありえないと思う教育事件が北海道に多いです。

 そういう目線で見ると、意外といじめ事件というのは起きた後の方が学校や教育委員会の能力が試されるような気がします。無論、隠蔽に動くのは北海道に限るわけじゃありませんが、上記のような対応を見る限り、札幌も旭川もいじめや暴力事件、悪辣な若年犯罪者は減らないだろうなという風に思えてしまいます。

2024年9月28日土曜日

「しごき」をメンタル教育としてみることでわかる日本社会の変遷

 間に総裁選とノーパソ不具合の記事を挟みましたが、前回記事で私は日本人のメンタルが年々弱くなりつつある中、どうすればメンタルを強くするのかと言えば単純に苦行が一番捗ると主張しました。基本的に人間は今が苦しいか楽かという判断は過去の苦しかった時の体験との比較でしか判断できず、過去にめっちゃ苦しい体験していたらその後の人生における困難や課題も「あの頃に比べたら」的に乗り越えやすくなるのではという風に考えています。

 この仮定に立った場合、現在精神疾患者が激増中の日本はメンタルが全体として弱くなっていることは間違いなく、ならなんでメンタルが弱くなっているのかというと過去の苦行、激烈体験がそれ以前よりも減ってきているという風に解釈できます。では過去、具体的には昭和時代の人たちは苦しいことのベンチマークとなるような体験として何を経験してきたかっていうのが、意外と重要な着目点となってくるわけです。

 仮に戦前世代まで掘り起こした場合、この世代の最大の苦行はやはり戦時体験でしょう。直接戦地に赴いた人だけでなく、日本国内のいても空襲や、戦後の食糧不足という筆舌にし難い苦しい体験を乗り越えてきており、実際にこの世代から「戦時中に比べれば」という言葉を自分もよく耳にしました。この世代からすれば、その後の人生における困難もストレスを大きく受けるほどのものにはならなかったでしょう。
 では戦後世代はどうか。結論から言ってしまえば、昭和から平成初期にかけて日本人のメンタル教育において非常に重きをなしたのは「しごき」だったのではないかと今思います。しごきという言葉の定義については省略しますが、学校での部活、職業現場での上下関係によるしごきは、殴る蹴るは当たり前、人格否定の罵詈雑言は日常茶飯事で、現代とは比べ物にならないほど激しいものがありました。

 なおソ連人民の敵であるうちの親父は就職間もないころ、「契約取ってくるまで絶対帰ってくるな!」と上司に言われ、神主やってたいとこの家にも売り込みに行って「何考えとんねん!」と追い返されてたそうです。

 話を戻すと、令和の現代において完全に否定されているこの「しごき」ですが、ことメンタル教育という面では日本社会において大きな役割を持っていたことは否定できないでしょう。昭和のこの手のしごきは理不尽さ、過酷さをひたすら追求している節があり、理不尽さに耐える力という点ではその育成効果は間違いなくあったと感じます。
 ではメンタルが弱くなりつつある現代日本において、その対策として戸塚ヨットスクールの人じゃないですがまたしごきを復活させればいいのか。この問いに対する私の答えはノーです。

 というのもしごきというのは確かにメンタルを強くするうえでは明確な効果があると思いますが、その代わりと言ってしごきを受ける人間は合理的な思考や考えを失い、盲従的になる可能性が高いと思うからです。日本のスポーツ教育が昭和期に世界で通用しなかったのはまさにこの点にあり、陸上や水泳とかならまだしも、野球やサッカーなどで海外に全く勝てなかったのはこうした面の弱さにあると私は思います。

 またこの手のしごきを受けた人間の中には、暴力性を顕著に高める人間も残念ながらいます。部活指導中の事故死や育児中の虐待死を起こした大人の多くは判で押したかのように、「自分は子供の頃にもっときつい仕打ちを受けていた」という言い訳をしてきますが、恐らく実際にはそう思い込んでいるだけで、子供を死に追いやるほどの仕打ちを彼らは受けてはいないでしょう。
 しかしある程度のしごきを自分が受けてきたから、「自分が受けた分はほかの子供にやり返していい」という勘違いを起こした挙句、自分が受けた以上のしごきを課して虐待するというパターンは実際よく見られます。何故こうなるのかというと、かつてのしごきには教育としての合理的価値がハナから無視されており、「苦しませればいい子に育つ」的に苦しませるだけで、その結果としてしごきを受けた人の合理的判断能力を喪失させていた節があるように見えます。

 ならしごきはやってはだめなのかという話になりますが、そうなると今度は現代のようにメンタルが弱い人を量産することとなってしまいます。実際、この流れで日本人はメンタルが弱くなっていき、精神疾患者が増える一因にもなっていると考えています。

 まどろっこしいので言いたいこと書くと、子供の教育に当たっては合理的な根拠や目的のもとに、苦しませるべきだと思います。昔のうさび飛びのように運動能力向上に何ら貢献しない苦行をやらせるのではなく、健康を崩さずしっかり身体を育成する科学的な訓練メニューを用意して、感情的な判断はせずしごきを行うのであれば、精神的にも肉体的にもいい教育になると私は思います。
 その上で、そうした訓練の目的や効果についてしっかり子供たちにも教え、「こうやるとこうなるんだよ」的に理解させたうえで、子供たちに自発性を持たせ行わせることも大事かと思います。こうすることによって、子供たちもそのしごきの合理性を考え、合理的な価値観や考え方を育んでいくことになります。

 何が言いたいのかというと、「合理的に苦しませろ」というのが、現代日本のメンタル教育に対する私かの意見です。何も学校に限らず勤労現場でも、きちんと苦しむ理由を教えた上でハードワークを課すことが大事だと思え、これがびっくりするくらい日系企業は出来ていない気がします。なんでかというと、中間管理職以上にその手の合理的思考がない人が多いからです。
 「苦しいけど儲かる仕事」と「苦しいのに儲からない仕事」では90度でなく180度意味が違い、後者に関しては儲からないならむしろやらない方がマシ的なものも少なくありません。この手の見極めをした上で、勤労初心者に価値ある苦しみを与えて育成することが、結果的にその人らのメンタル教育にもキャリアアップにもつながると私は考えます。

 冒頭に書いた通り、現代日本でしごきは敬遠されがちです。私自身も不合理なしごきは排除すべきだと考えますが、「必要で合理的なしごき」こと苦行はメンタル教育的にも、やはり若い時にこそ経験しておくべきだとも考えます。そうした、一体何が必要な苦行で何がそうでないかを判断できず、結果的にメンタル教育がおざなりになっているのが現代日本だと思え、あと10年くらいはこの状態が続くかなとみています。

 なお自分の経験で言うと、肉体的な苦行はそれほど経験しませんでしたが、あまりにも非効率な指示に下で不要な業務だとわかっているのに従事させられたのはマジ苦しく、合理性失いかけたけどメンタル的には貢献したかなと考えています。あれに比べれば中国に行って転職活動したりする方が楽だったな。

2024年7月24日水曜日

日本の未来を暗示させるユニバース25

 やはり自分の体はお米が合っているのか、さっきへとへとで食欲ないから自宅で冷凍チャーハン食べたら逆におなかすいて、今めちゃくちゃ餓えています。最終兵器のUFOでも食べようかなぁ。ってか仕事忙しすぎ。昨日なんか依頼物差し替えの上に納期短縮を要求されて「なめんなよ(´・ω・)」って相手に凄んじゃったし。


 話は本題ですが、上のカルフーンさんというのは米国の科学者です。なんで急にこの人引っ張り出したのかというと、「ユニバース25」という実験を行った責任者で、上のWikiのページ内にこの実験の内容が書かれてあります。
 そのユニバース25ですが、この実験を私が知ったのは先日もこのブログで紹介したこのところ「竜送りのイサギ」と並んではまっている、生物学大好きっこがうんちくを垂れ流す漫画の「あくまでクジャクの話です(あくまクジャク)」の2巻巻末にて紹介されていたからで、その内容に自分も驚きを禁じ得ませんでした。

 では一体どういう実験だったのかというと、ネズミを使った実験です。この実験では建物内に巣穴と餌、水を完備し大きな空間を用意し、そこに雄雌4組8匹のネズミを放つところから始まります。実験のコンセプトとしては生命の危険のない状態でネズミがどのように繁殖するかを観察することが主眼であったことから、文字通り衣食獣の三拍子が揃った環境を用意したわけです。
 当初、ネズミたちは広いものの閉じられた空間に放り込まれて戸惑いを見せたものの、一定期間を経て慣れると繁殖活動を行うようになり、個体数は日数とともに順調に増えていきました。この空間に用意された巣穴には約3840匹が収容可能であり実験者たちもこの個体数までは順調に増えていき、この数を超えたあたりで領土を巡って血で血を争う戦国時代がおっぱじまると予想していたようです。

 ところが想定外なことに、実験開始から315日目に個体数が約2200匹に達すると、この時点をピークに個体数は逆に減っていくようになりました。同時に、ネズミたちもそれまでになかった異常な行動を取るようになっていったそうです。
 具体的には、巣穴スペースがまだあるにもかかわらず縄張りをつくって他のネズミを追い出すようになったり、親ネズミが子ネズミに虐待を加えたり、同性愛を始めるネズミが出たりしたそうです。それ以上に深刻だったのは、雄が求愛や繁殖行動を取らなくなり、だらだらと生きるだけ、いわゆる食っちゃ寝なライフスタイルを取るようになりました。

 その結果、個体数はどんどんと減少していき、最終的にこの空間にいたネズミは絶滅するに至ったそうです。絶滅直前にこの中のネズミを外に出して別の群れに混ぜても見たそうですが、そこでも出されたネズミは繁殖行動を取ることはせず、その遺伝子を後代に伝えずに死んでいったそうです。

 恐らくほかの人もそうでしょうが、私がこの実験内容を見て真っ先に思い浮かべたのは、少子高齢化でヒートアップしている今の日本の現状です。ある時点をピークに人口拡大が止まり、男性が求愛行動を取らなくなり、虐待事件やニートが増えたりとか、同性愛者が増えてるかはわからないけど日本の現状を見させられているようで、最初は作り話じゃないかと本気で疑ったりもしました。しかし調べてみると本当に行われた実験とのことで、ネズミ社会ですら今の日本のようなことが起こるのかとびっくりさせられました。

 冷静に考えるとそれもそのはずというか、今の日本の少子化現状は何も日本に限らずほかの先進国でもほぼ同様に起きています。米国やフランスなどの克服した国は基本的に移民を入れており、一時は高福祉こそがカギだと言っていた北欧諸国もこのところ少子化が激化しています。
 それらの状況を踏まえると、社会が一定の段階まで発展、成熟すると人口は減少に転じる方がネズミ界同様自然な結果のように思えてきて、仮にそうだとすると、このままいくと日本人もネズミのように絶滅に至るのかもしれません。

 一体何故ネズミ社会が崩壊したのかについては色々意見があり、閉じられた空間だったからとか近親間の繁殖が進んだとかありますが、実験の研究者たちは社会が完成されて社会における役割を持たない個体が増えていくとこうなっちゃうんじゃないのという見解を示しており、自分も何となくそんな感じがします。
 その上で適当なことを抜かすと、食料など生存に不安やストレスのない状況に安住すると、逆にその環境にストレスを覚えるようになるのかなと感じる節があります。こう考えるのは、適度なストレスは程よい緊張感からむしろ心身にいい影響を与え、完全ノーストレスな環境は逆に体に悪いという実験結果を以前に見たからです。

 どちらにせよ、自分が見た中で一番不気味というか変に見直に感じてしまうのがこのユニバース25という実験でした。どっか別の組織が似たような実験してくれないかな。

2024年6月29日土曜日

安藤美姫氏の報道について

【悲報】安藤美姫さん、泣き叫ぶ(暇人速報)

 実際のところはどうだかまだ確認が取れませんが、フィギュアスケートの元選手で現在はコーチもしている安藤美姫氏について教え子の16歳の男子に手を出しているとの報道が出ました。今のところまだ一度も目にしてはいないのですが、自分が真っ先に浮かべたのはジャニーズ事務所の問題で、あれだけ大騒ぎしたにもかかわらずこの件に対する報道がスキャンダル報道にとどまっているということに疑問を覚えます。そもそも報道を受けて警察なども何も動かないのか、この点で違和感があります。

 言うまでもなく報道が事実だとしたら性的虐待に当たる行為であり、なればこそ厳しく状況を調べ、このの真偽を確かめなければなりません。少なくとも文春の報道によると複数人の証言は出ていることからも、「本人同士の問題」で片づけるべき内容ではないと思うし、こう言っては何ですが当事者があの安藤美姫氏っていう点でも、注意しなきゃならない案件だという気がします。

 それにしても社会の反応が鈍いというかなんかこのままいくとジャニーズ問題の反省が全く生かされず、日本はそういう国だと海外からも思われるんじゃないかと勝手に懸念しています。まぁ杞憂かもしれないけど。

2023年11月15日水曜日

宝塚歌劇団のいじめ、パワハラ騒動を見て

 先月、大阪で会った後輩とジャニーズ事務所の問題に触れた際、「この次は宝塚でしょう」と後輩が高らかに宣言してました。その後輩の言う通り、宝塚歌劇団もビッグモーターやジャニーズ事務所のように今炎上しています。
 なおその後輩もソ連人民の敵であるうちの親父も何気に宝塚市出身だったりします。もっとも親父は歌劇団についてはあんま興味なさそうで、自分も関心はありません。

 宝塚ではかなり陰湿ないじめが行われているということは以前から自分も聞いていましたが、数年前にも報道された際は今回ほど炎上することはありませんでした。事ここに至って炎上した背景としては、いじめの被害者とされる方が自殺しているなど事案が深刻であったこともさることながら、やはりその前のジャニーズ事務所の炎上も影響しているような気がします。
 ジャニーズについても性的虐待報道はかねてからありましたが、本格的に炎上したのは今年が初めてであり、それまでメディアは文春を除き完全に黙殺していました。なおマンガ「GANTZ」に出てくるあるキャラは、ジャニーズ事務所と思しき芸能事務所に一時所属していたものの、「社長に襲われそうになったからやめた」と語っており、2000年ごろの時点であの疑惑は周知の事実であったことを物語っています。

 話を戻すとジャニーズの問題を受け世間もこの手の権威があるからって好き勝手やっている組織に対して目を向けるようになったほか、メディアも口先だけとはいえジャニーズ問題黙殺について反省する態度を見せ、こうした芸能業界の闇について積極的に報じようとする姿勢を見せるようになってきており、それが今回こうして宝塚歌劇団への批判につながっていたように見えます。
 もっとも宝塚歌劇団はジャニーズ事務所ほどメディアに対する影響度というか脅迫する力は持っていませんでした、それでも固定ファンが非常に強い組織です。メディア関係者の中にも固定ファンが少なからずいてそれらが恐らくこれまでのいじめ報道を閉ざしていた諸悪の根源だと思いますが、そうした固定ファンのディフエンスも今回は役に立たなかったようです。

 もっともそれ以前の話として自殺した方の睡眠時間は1日約3時間、それ以外の時間はほぼすべて演技指導などの勤務をしていたという時点で、労基はいったい何をやっているんだって話になってきます。もちろん劇団員という特殊な職業であることを考慮すると杓子定規に労働時間を制限すべきではないと思いますが、それにしたってこれほどの激務に対し一切指導とか行わないってのはいかがなものかと思います。っていうか残業代を支払うよう指導くらいはしろよな。

 ジャニーズにしろ宝塚歌劇団にしろ、これまでほぼ周知でありながら黙殺されてきた暗部が今年一気に明るみに出るとともに、どちらも記者会見でわざと視聴者の反感を煽ってるのかって言いたくなるほど炎上させた点で共通しています。端的に言ってほかの方も指摘しているように価値観がいまだに古いというか昭和のままで、平成から令和にかけての変化を一切行わず、伝統の名のもとに無意味でカビの生えた思想に凝り固まっているということがそもそもの原因でしょう。
 それこそ根性論が強かったスポーツ界なんかは平成において一気に様変わりしたというか割と早い段階で合理的な方向に移っていき、それが現在の野球やサッカーなどの国際戦における優れた成績につながっているように見えます。これは実業にも言えますが、国際競争が激しい業界ほど市場が合理的になるのに対し、鉄道や電力など国際競争が行われないインフラ系業界ほど改革が遅れる傾向があり、なまじっか権威があってあまり競争にさらされなかったジャニーズ事務所や宝塚歌劇団もその口に入るのかもしれません。

 それにしも時代は変わるもので、しごきで有名な亜細亜大野球部なんかも今後丸くなったりするのだろうか。まぁ今のままでもかなり強いけどあそこ。

2023年10月9日月曜日

ジャニーズ問題に関するテレビ局の自己検証の欺瞞

 このところ「地球防衛軍4.1」が楽しすぎてブログの更新さぼってました。ウィングダイバーのレーザーチェンソーが正直言って強すぎて、空飛んでるドラゴンは次元ごと叩き切るような感覚がしてマジ楽しすぎて、ほかの巨大生物と比べドラゴンの殺害数だけが異常なカウント数にこのところなっています。

 話は本題ですがまたも飽きずにジャニーズ問題で、このところテレビ局が何故ジャニーズ問題を報じてこなかったのかという自己検証の報告を発表しています。既に発表された中身を見ると、文春との裁判で性的虐待を裁判所が認めた際に報じなかった点について、「週刊誌のゴシップだと思った」、「芸能界のうわさに過ぎないと思った」と当時の報道担当者が述べたとしています。その上で、ジャニーズ事務所からの報道圧力や忖度は一切なかったという結論になっているのですが、あくまで私個人の推論で述べると、これはテレビ局の嘘だと思います。

 何故このように思うのかというと、元記者の立場で言えば、この件に関して絶対にこんな意見が出るはずないからです。記者にとって一番の屈辱は、目の前にビッグなネタが転がっておきながらみすみす報じず、よそに抜かれるという出来事で、上記の事件で言えばテレビ局はこぞって文春一人にやられたような構図となります。
 であれば「何故報じなかった」と言われた場合、本当に報道関係者だったら、被害者に向き合えなかったなどという感傷論は一切述べず、真っ先に報道で負けたことの強い悔しさを見せるのが自然だと私は思います。しかしテレビ局の報告書をみると、そうした悔しさを一切見せないばかりか、どこか他人事というか報じなくてもしょうがないじゃんというような投げやりな印象すら覚え、テレビ局が行ったヒアリング対象者は本当に記者なのかと疑いたくなる証言しか載せられていません。

 以上の意見はあくまで私の推論に過ぎませんが、テレビ局が自己検証報告で嘘とまでいかずとも、自らの責任に向き合わず、むしろ真実を隠蔽しているという明確な根拠は別にあります。それは何かというと、どの報告書にも今年3月に英BBCがこの問題を取り上げた際、黙殺したことについて触れていないからです。
 百歩譲って大分昔となる先の文春との裁判を報じなかった理由についてさっきの言い訳を受け入れるにしても、ならなんで今年BBCが報じた際、これほどの大きな事件内容にもかかわらず報道を避け、他のメディアが徐々に報じ出すにつれてテレビ局も重い腰を上げて後追いしたのか、その点について検証しないのは不自然としか言いようがありません。BBCの報道を一切引用したことがないってんならまだわかりますが、そんなことあるわけないでしょう。

 上記のBBC報道を後追いしなかった点について検証しないのは、今の現場の人間に塁が及ぶ可能性があるのと、自らが無能であることを認めることになるかでしょう。その上で、上記のような歪な内容でいけしゃあしゃあと「自己検証しました」として出すあたり、やはり報告書全体で信用性が低いと感じます。言うなれば、忖度どころかジャニーズ事務所からの報道圧力がやはりあったのではという風にしか見えません。

 以前にも書いた通り、この問題に関してテレビ局はジャニーズ事務所を批判できる立場ではないでしょう。むしろジャニーズ事務所とともに被害者救済を行わなければならない共犯とも言うべき立場で、共犯同士で未だにこの問題を矮小化しようとし続けています。
 例のNGリスト問題でジャニーズ事務所に対しまた会見を行うよう求める声が強まっていますが、以上の態度を見るにつけ、テレビ局は次の会見に入れるべきじゃないと私は思います。むしろこの問題にずっと昔から向き合ってきた文春単独取材会見の方が、筋に沿うでしょう。何ならNGリストに入ってた人も加えてもいいですが、例の某記者は具体的な質問をせず自分の主張を延々と述べるだけなので、あの人だけは外すべきかなとは思います。ほかの人も書いてたけど、あの人だけならNGリストに載っていても「そりゃ仕方ねぇな(´・ω・)」とみんな納得したでしょう。

2023年10月5日木曜日

ジャニーズ事務所のNGリスト発覚を見た上での解散是非

 昨夜NHKが報じてからというもの、先日の会見でジャニーズ事務所側が質問させない人物をあらかじめリストアップ(NGリスト)していた問題で日本の話題が持ちきりです。私自身、非常に失礼だなと思うと同時に、「自分たちは知らなかった、コンサル会社が勝手に作ってた」とジャニーズ側がは主張していますが、後に「リストを見せられたが使わないように言っていた」と発言を翻すあたり、これらの主張は全部嘘でしょう。

弊社記者会見に関する一部報道について(ジャニーズ事務所)

 上記リンク先はジャニーズ事務所の本件に関するプレスリリースですが、自分が気になったのは上記のNGリストを使用するかしないかの井ノ原氏のやり取りについて、

「そのやりとりをその場にいた役員全員が聞いております。」

 と述べている点です。

 役員全員が見ているならなおさら最初の「こんなものあるなんて知らなかった」という声明は出るわけがないし、またこんなもの作ってる時点でこのコンサル会社を解任しなかったという点でも役員失格でしょう。真面目に早く解任しておけば、今回の炎上を防げたのにねっていう気はします。

 私個人の印象ですが、今回のNGリストが流出するやメディアのジャニーズに対する空気というか態度が一変したような感じがします。これまでは持ちつ持たれつの関係から今一つ抜け出れず、所属タレント出演番組の打ち切りや自粛についても「そこまでやる必要はない」などと、どちらかと言えば擁護するかのような向きも見られました。
 しかし元々気位だけは高い連中なだけに、今回このNGリストという舐めたものが作られていたことを知り、ジャニーズに対する批判というか攻撃がいよいよもって本気で行われようとするかのような雰囲気になった気がします。即ちNGリストについてきちんと認めない限り、「どうして作成を指示したことを認めないの?」的に延々と攻撃が続くことは明白でしょう。

 その上で、これまでのこの問題の議論は「如何にジャニーズ事務所を再スタートさせるか」という再建プランの中身でしたが、今回のNGリスト問題をきっかけに、「ジャニーズを解散させるか否か」に議論が移ると思います。実際、過去の性的虐待問題にテレビ局への強要などについて反省するどころか、今回のように「どうにかごまかそう」っていうのが本心である証拠が出てきたのですから、少なくとも現経営陣は総退陣しなければ話になりません。東山氏は芸能界を引退すると発表していますが、この期に及んでは芸能界どころか社会人引退に至ることでしょう。
 またかねてから指摘されているように番頭的な元役員を会見には出さずにおきながら未だ追放せず、社員として囲い続けているあたり、性的虐待がもう起きないと判断するには正直無理な体制でしょう。損切りを間違えたというべきか、最初の会見の時点で事務所名改称、社長職に第三者を招聘など、もっと殊勝そうな態度や姿勢を打ち出せておけば解散が議論の俎上に挙がってくることはなかったのにと思います。

 現時点での予想としては、ジャニーズ事務所が事務所名を改称するかに係わらず、解散するかは6:4くらいかなとみています。こう考える根拠としてはこれまでむしろ味方であったメディアを一夜で全員敵に回したことと、現経営陣がわざとジャニーズ事務所を潰そうとしているのかとすら思えるくらいのポカぶりを連発するくらい無能であることから、今後も炎上に関して燃料を投入し続けると予想しているからです。
 電通とかでもそうですが、普段マスコミにでかい顔している連中ほど、いざ自分が守勢に回ると非常にもろい傾向があります。今回のジャニーズもまさにその典型みたいな自爆ぶりを見せていますが、ぶっちゃけ変なコンサル会社噛ませるくらいなら、マスコミに会見が称賛されたキャンドル・ジュン氏でも招いた方がよかったでしょう。まぁこういうときに人を見る目がないのだろうけど。

 今後に関して、私の予想ではジャニーズ事務所はどうせやるだけ叩かれるんだからと恐らくもう会見は開かないとかと思います。運が良ければまたビッグモーターみたいなほかに関心が移るビッグな事件が起きて火中を脱するかもしれませんが、悲観的シナリオではスポンサー離れが今後さらに続き、またテレビ局も番組を打ちきりだし、所属タレントの流出も続いて、単純に経営がいかなくなる事態に陥ると思います。個人的な興味は、誰が最後までこの泥船に残るかかなもはや。

2023年9月26日火曜日

ジャニーズ問題に対してテレビ局は補償しないのか?

 関係ないけど中国語で「恵民」の発音は「ホイミン」となります、マジで。誰も気にしないけど、自分はこの文字が出てくるたびにあの触手クラゲを想像します。

 話は本題ですが今も燃え広がり続けるジャニーズ問題で、これまで大手メディアの中でもはっきり言って及び腰だったテレビ局側もここにきてジャニーズ事務所に距離を置き始めています。これまでジャニーズ系の番組が多いと指摘されていたテレ朝なんかも、社名変更の要求を含む質問状を送ったことを社長が明かしています。
 ただこうした大手マスコミの駆動については、これまで知ってて黙認し、被害拡大の片棒を担いでいた存在なのに何をいまさらという批判があります。とはいえ、事ここに至っても黙認を続けるのもどうかと思えるので、ジャニーズに対する姿勢で転向を見せたことについては私自身は仕方ないというか当然ではないかと思います。

 ただその一方、彼らがジャニーズ事務所に対して一方的に被害者の補償を行うようように要求することには強い違和感を覚えます。新聞社や雑誌社などはともかくとして、テレビ局にに至ってはほぼ完全にジャニーズと結託して莫大な利益をこれまで稼いできました。だからこそテレビ局はこの問題を黙認してきたのであり、いわばジャニーズと一蓮托生な関係にあったと言い切れます。
 そうした関係を考慮すると、特にこれまでジャニーズのタレントを使って荒稼ぎしてきたことを感がると、私は少なくともテレビ局に関してはジャニーズ事務所と同じく、被害者に対し救済や補償を行う責任があると思っています。もちろん最大の責任者は法人であるジャニーズ事務所ですが、テレビ局が自分たちは関係ないと言って一切補償に与しないというのはそれは違うでしょう。

 仮に補償を行うとしたらどうするべきか。まず被害者に対する直接の補償はやはりジャニーズ事務所が行うべきであり、これに介在する必要はないと思います。ではテレビ局はどんなふうに補償をするべきかですが、複数の局が存在し、またジャニーズの出演度合いも局によって異なることを考えると、一律の金額で補償するかに関してはやや議論があるし、そこら辺を正確に行おうとすると逆に手間となります。
 であれば、この際に性的虐待被害者に対する基金をテレビ局が共同で設立し、その基金に寄付するという形にしてはどうかと考えています。過去の性的虐待を放置した代わりに未来の性的虐待を防ぐ団体を作るという形にして、また寄付形式を取ることにより税負担も軽減させるのであれば、実現しやすい形になるのではないかと勝手に考えています。

 少なくとも、テレビ局が自分たちは何も処分なり批判を受けず、上から目線でジャニーズ事務所に対し一方的に改革を促すという態度を取るというのは不遜もいいところです。当事者意識がなさすぎるというか、先ほどのテレ朝の社長の行動に関しては私は非常識もいいところだと思っているし、また批判の声が出ないということにも密かに失望しています。この辺、文春とかはどう思っているのか聞いてみたいものです。

2023年9月12日火曜日

ジャニーズ事務所の出演妨害というもう一つの疑惑

 余計な小ネタを挟まず本題から入ると、性的虐待問題に対する批判が続くジャニーズ事務所に関して「もう一つの疑惑」を追求するメディアが出てこないのが、密かに不思議に思っています。正確に言えば一部メディアはそれとなく言及しているものの、ジャニーズ事務所に対して直接取材を試みたり、関係者の証言を取ってこないあたり、一定の忖度が働いているように見えます。
 ではそのもう一つの疑惑とは何かですが、いわゆる「やめジャ二」ことジャニーズ事務所を退所したタレントに対する出演妨害です。


 正直に言って日刊ゲンダイは端から信用の置けないメディアだと思っていますが、上の記事に関しては当時の背景状況などを分析していてなるほどと思わせられました。

 ジャニー喜多川の性的虐待と同様、ジャニーズ事務所を退所したタレントに対する出演、活動妨害は公然の秘密でした。このジャニーズ事務所の妨害は若干妄執的なところがあり、SMAPを辞めたボートレーサーの森氏に至っては過去の出演動画から特殊画像処理してまでもその存在自体を消そうとしていたとも報じられています。
 もっとも森氏は芸能界からボートレース界に転身したため仕事に対する直接的な損害はそれほど大きくなかったと思いますが、退所後も芸能界に残ったタレントに対する妨害は文字通りの営業妨害と言ってよく、言うまでもなく現行法でも完全な違法行為です。あくまでジャニーズ事務所は「直接出演を妨害した覚えはない」と言って各メディアの忖度だと言い張るでしょうが、この言い分を真に受ける人間がいるとしたらただの馬鹿だと断言してもいいでしょう。

 自分が知ってる範囲で露骨に営業妨害を受けていたと感じるのは、山Pこと山下智久氏です。映画「あしたのジョー」で伊勢谷友介氏にも劣らない熱演ぶりを見て大した役者だとかねてから評価していたのですが、ある時期を境にぷっつり露出しなくなりどうしたものかと思っていたら、2020年にジャニーズ事務所を退所していたと知って合点がいきました。
 実際にWikipediaの出演リストを見ると、2020~2021年において日本国内の映画、ドラマには一切出演していません。この間は海外で主に活動していて実際に米国でのドラマには出ているようなのですが、真面目に彼には日本国内での活動で何か妨害があったのでは、今がある意味チャンスだから教えてくれないかなとほんとのところを聞いてみたいものです。

 もっともその山下氏は2022年に入って自分も漫画を購読し続けている「正直不動産」の主役を張ってヒットを得ており、それからはほかの日本国内の作品にもこのところよく出ています。この経過を見る限り、やはり去年ごろからジャニーズ事務所の影響力が落ちてきている証左と言えるかもしれません。

 一見すると性的虐待問題とこのやめジャ二の出演妨害問題は分野の異なる問題で、一緒くたに語るべきではないようにも見えますが、芸能界における強大な影響力を行使してメディアに忖度を強要したという点で共通する問題だと私は思います。真に問題があるのはそうした強要にホイホイ従ってやめジャ二の出演を閉ざしたメディアにありますが、こうした強要や脅迫を行ったジャニーズ事務所がそもそも問題であることも間違いありません。
 そういう意味では性的虐待報道を見合わせたメディアらは、今こそジェリド・メサの如く汚名挽回とばかりにこの問題についても余計な忖度をやめ、弱っている今だからこそジャニーズ事務所をもっと叩くべきであるのがメディアとしての反省を示す態度ではないかと思います。いや言い方を変えるなら、今ここでこのジャニーズ事務所の営業妨害問題を取り上げられないのであれば、そのメディアは自らが公平公正をかなぐり捨てた資本主義の走狗であることを証明することになると言っていいでしょう。まぁ社会主義国のメディアも忖度しまくりだけどさ。

 自分が本当に見ていて不思議に感じるのは、今だからこそ全力でジャニーズ事務所を叩くことができるし、また叩くことで視聴率や閲覧数を稼ぐアタックチャンスだというのに、未だに多くのメディアは歯に衣を着せたかのように批判に鋭さがないという点です。
 確かにこの前の記事でも書いたように、本質的にジャニーズ事務所を今批判していいのはかねてから性的虐待を指摘し続けた文春だけだとは思います。しかし本当の意味で過去の報道を見合わせる忖度的態度を反省しているというのなら、本来許されないジャニーズ事務所の問題点、疑惑を今ここで追及しないでどうなのかとも思います。性的虐待に関しては今でも文春以外は報じるべきじゃないと思いますが、この出演妨害に関しては実際に協力してきたメディア(特にテレビ)だからこそ報じられる事実も多いだけに、ここで報じないで何がメディアだ、何がジャーナリズムだと私は思います。

 敢えて多くのメディアが未だにこの出演妨害疑惑に関して忖度して報道を控える理由を推量するならば、ジャニーズ事務所がこの危機を乗り越え再び芸能界で影響力を持つとまだ考えている、またはジャニーズ以外でも特定タレントの出演妨害を行っているほかの芸能事務所に対する忖度が働いているの二択、または両方だと考えています。
 であればこそ、ジャニーズ以外の芸能事務所の出演妨害もこの際暴露しさえすれば、完全な汚名挽回となるわけです。そうした本来あるべき報道をきちんと行うメディアがきちんと現れることを、私は密かに期待しているわけです。

2023年9月7日木曜日

ジャニーズ事務所の記者会見について

 昨夜、夜に訪れた松戸の焼き肉店でぼったくられるという謎な夢を見ました。夢なのに何故か妙にリアルな請求額(371,000円)まではっきり覚えているのもさることながら、一人焼肉でぼったくられるというのは自分でも斬新な展開であるような気がします。

 話は本題ですが本日、少年への性的虐待問題で取りざたされているジャニーズ事務所が記者会見を行いました。いくつか気になった、感じた点はあるのですが、最初に言いたいこととしてこの記者会見には本来、日系メディアの中で文春以外のメディアに関しては出席する資格もなければ報じる資格もないと私は思います。しかし実際には主要な日系メディアはすべて報じており、なんていうか厚顔無恥もいいところではないかという気がします。そしてこの点を、今のところ自分以外誰も指摘していないという点でも違和感を覚えます。

 会見の内容、特にジャニーズ事務所の対応に関して結論から述べると、ビッグモーター以下ではないかというのが正直な結論です。ビッグモーターは不祥事の責任として創業家親子は株こそ手放さなかったものの経営陣から退いたのに対し、ジュリー喜多川氏は代表から降りるものの役員としては残留するとして、あのビッグモーター以上に無責任な対応だという風に見えます。
 そのジュリー喜多川氏は先に出した発表にて、叔父であるジャニー喜多川の性的虐待について知らなかったと言いながらも、今日の会見では「物を申せなかった」と話しており、知らなかったというかこの発言とは全く異なるというか知ってたんじゃないかと言いたくなります。それでいてこの無意味な責任の取り方を取る辺り、はっきり言えばゲマ並みに邪悪な人間だとしか思えません。

 また新社長にはタレントの東山氏が就任するということですが、これも外部からまともな人を連れてこれなかったのかと言いたくなります。もっとも、こんな無責任な体たらくでもテレビ局はジャニーズ事務所のタレントを起用し続けるでしょうが、本来ならば今日広告契約を結んでいるタレントの契約中止検討を発表した東京海上日動のようにこのような反社組織との取引を絶たないのはコンプライアンス的にもおかしいと私は思います。
 そういう意味では、恐らく私が煽るまでもなく多くの人が今後ジャニーズ事務所のタレントを起用する番組、並びにそのスポンサー企業へのボイコット、不買運動が今後広がっていくのではないかと予想します。実際それだけの事件であるように私は思いますし、以前の欧米でのMe too運動じゃないですがまだまだこれでは終わらないでしょう。

 最後に、改めてこの問題に関しては粘り強い文春の報道姿勢に強い敬意を感じます。あと、この記者会見を生中継せず、いつも通り「リーサル・ウエポン2」を放送したテレ東に関しても若干凄いなと感じるところがあります。なんかまた変な記者が「テレ朝はどうせ中継してないだろこの会見!」とか言ってたそうですが(実際は中継してた)、それを言うならテレ東相手に言えよな。

2023年5月17日水曜日

ジャニーズ問題における沈黙の春

 最近仕事モードになってきているのかあんまりこのブログで書きたい内容が浮かばないのですが、それでもあえて書くとしたらこの前にもちょこっと触れた、ジャニーズ事務所の性的虐待事件についてです。

 この問題は今週に入って動きがあったというか、現社長が「報道されている疑惑について謝罪」を発表しました。ただ事実に関しては「当人であるジャニー喜多川が故人であるゆえに確認できない」と濁しているうえ、被害者のプライバシーを盾に詳細についてはいろいろ語れないなど、いろいろと及び腰な姿勢、というか真摯に対応する気のないということだけがよくわかる謝罪でした。
 ぶっちゃけ、被害を主張している人が一人だけなら詳細を確認する必要があるとは思うものの、何人もの人間が被害に遭ったと証言しており、尚且つかこの裁判でも当該行為が行われていたと認定されているこの状況で、事実であるか確認できないというのであれば、まともな判断力がない人間としかいいようがないのだから社会かこの世から早く出て行けと私自身は言いたいです。まぁ前社長の問題で振り回される身というのはいくらか同情はしますが。

 さてこの問題ですが問題の本質は実際の加害行為というよりかは、これまでずっと暗黙の事実として黙認してきた日本のメディアや社会の闇の方が深いと言わざるを得ません。今回も外信が報じたことをきっかけに初めて取り上げられたといってもよく、もし取り上げられなければ本当に闇の中に事実が消されていた可能性も十分あったでしょう。
 しかも根深いと感じるのは、これだけ巷間でこの問題が認知されてきているにもかかわらず、未だテレビや新聞などの大手メディアは積極的に疑惑を追及しようともせず、その一方で西武の山川選手の不倫プラス加害行為は報じる辺り、ダブルスタンダードもいいところでしょう。まぁ過去、意図的に黙認してきたメディアほど、この問題について敢えて触れようとしないともいえるでしょうが。

 ただそんな大手メディアも、ここにきて急に色めき立ってきているように見えます。というのもスポンサーとなる企業らがジャニーズ事務所の問題に目を向け始め、タブロイド紙などの報道だからそこまで信用していいものかと若干不安はあるものの、スポンサー企業のジャニーズ離れが起きようとしている気配を感じます。仮にスポンサーがこの問題に関心を持ち、ジャニーズ事務所のタレントを起用する番組でスポンサーを降りたりでもしたら、一気にムードが変わる気がします。

 そういう意味ではこの問題を本当に追求したいという人なら、ジャニーズ事務所や問題を報じないメディアよりも、タレントが出ている番組のスポンサー企業を批判するというのが最も効果的である気がします。こういうとスポンサー企業がとばっちりみたく批判されるよう煽っているように見えるかもしれませんが、仮にこの事件が男性タレントではなく女性タレントであったとしたら、長年にわたり数えきれない女性に性的加害をしてきた企業を間接的に支援する企業が、批判されずに済むのかと言えば私はそうは思いません。少なくともこの期に及んでは、ジャニーズと縁のある番組に出資する企業に対し、軽蔑めいた感情を私は覚えずにはいられません。

 少し話を戻すと、今回のこの事件で誰も触れないけど本当はもっと話を聞くべきだと思うのは、現役のジャニーズ事務所のタレント以外いないでしょう。無論、聞き方によっては本人を著しく傷つける可能性があるだけに注意を払う必要がありますが、少なくとも同じ事務所内にて、そうした行為があることを知ってて黙認し続けていたのか否か、今後はどういう風に考えているのか、それでもまだジャニーズ事務所に在籍し続けるのか、この三点くらいは聞くべきだと思うし、本人らも語るべきだと私は思います。
 率直に言えば自分も被害に遭ったのかとストレートに聞きたいものですが、逆に口をつぐまれる可能性があるだけに、聞くのを我慢する必要がある質問になるでしょう。ただ先の三点、特にジャニーズを牽引してきた元SMAP、V6、TOKIOのメンバーらには、本当のところどうなんと聞いてみたいですが、この件の報道で具体的なユニット名が一切出てこないあたり、やはりメディアはまだ不要な報道規制を自ら行っていると思います。ビッグな事件なのだからビッグな人間こそが答えるべきだと思うのですが。

 唯一、一時経営を担っていたタッキーこと滝沢氏については「何か語ってくれないかな?」的な報道を見ることがありました。もっとも私自身は滝沢氏は現在すでにジャニーズ事務所と袂を分かっているだけに、この件に関しては無理して答えなくてもいいんじゃないかなと勝手に思っています。もちろん語ってくれたら面白いでしょうが。

 それにしてもこの事件に関しては本当にメディアが報道に対して物凄い恐れているというか奥手になっているのを見て取れます。そんなことだから見出しの通り「沈黙の春」だと感じるわけですが、張本人がすでに死んでいるからという理由で放置していい事件だとは、私は思いません。少なくともジャニーズ事務所が存続しており、この問題に真正面から向き合っていない限り、再びこうした事件が起きるとも限らないだけに、徹底した究明と黙認してきた人たちへの何らかの制裁は必要ではないかと思えてなりません。
 まぁ一番誰が悪いかと言ったら、当時まだ親告罪だったけど、長年にわたり捜査してこなかった警察だと思いますが。

2023年4月23日日曜日

ジャニーズ事務所の性的虐待を放置したのは誰か

 定期的に報じられる傾向があるとはいえ、今回は結構広がりを見せているなと感じるジャニーズ事務所、というより故ジャニー喜多川の性的虐待報道です。今回の報道がこれまでと違うのは海外メディアこと外信で、日本国内はいざ知らずワールドワイドで恥をさらす展開にもとよりジャニーズ事務所を快く思っていなかった人たちなどが色めき立っているように感じます。

 今回報道が広がっているのは上記の通り外信というのもありますが、そのほかにも張本人であるジャニー喜多川が亡くなった後だからという指摘もあります。ただこの逝去後という指摘については若干疑問視しており、というのもそれだったら亡くなった直後にもうちょっと盛り上がりがあってもいいのではと思うのですが、あんまそれはなかったというか感じませんでした。
 むしろ自分が思うのは、こうした報道が出てくるまでにジャニーズ事務所の影響力が落ちてきたからというのが一番大きな背景じゃないかと思います。SMAPの解散に始まり、ジャニー喜多川に後事を託されていたタッキーが離れたりと、花形タレントの離脱、離籍がここ数年で大きく目立つようになっていました。SMAPを離脱したメンバーも当初は苦戦が報じられたものの、その後ゴールデン番組にも出られるようになり、ジャニーズ事務所のメディアに対する出禁指令も大分力を持たなくなってきています。

 こうした影響力の低下が今回の性的虐待報道の広まりを支えていると私は睨んでおり、仮に数年前の時点であれば、外信で報じられても日本国内では全く報じられなかったのではないかとも見ています。

 その上でこの性的虐待報道というか問題について、誰が悪いのかというのをもっと議論すべきじゃないかと思います。一番悪いのはもちろん虐待を行った当事者であるジャニー喜多川ですが、それを見て見ぬ振りした人たちはどうなのかという話です。
 彼の性的虐待疑惑は何十年も語り継がれてきており、実際に被害者が裁判で証言していたことから「自白だけがなくほぼ事実状態」にあったと私は見ています。にもかかわらず同じ事務所の人間はおろか、ジャニーズ事務所のタレントを起用するテレビや新聞メディアは完全に黙殺し切っていました。上記の裁判結果についても、ジャニーズ事務所側の勝訴は報じても、文春側の逆転勝訴は当時ほとんど報じられていませんでした。

 彼にこの時、というか疑惑が出た時点できちんとメディアが報じていたら、その後の被害者の発生は防げていたのではないかと思います。そういう意味では、疑惑レベルの報道すらも黙殺したメディアもこの犯罪に対する責任は非常に重いように思え、そうした負い目があるからこそ現在の外信をっかけとしたこの問題の報道も、大手メディアほどあまり取り上げないのではないかと思います。
 しかし仮に私が取材で、「児童への性的虐待疑惑のある会社と取引しますか?」と尋ねた場合、NOと答えないメディアはまずないでしょう。にもかかわらず大手メディアは現在もジャニーー図事務所との取引を中断することもせず、この問題を放置しているあたりは完全なダブルスタンダードと言わざるを得ません。もっとも児童虐待を問題と思わないというのであれば、ダブルスタンダードは言えないのですが、ぶっちゃけテレビ局辺りはマジでそう思ってそうだから怖い。

 こうした黙殺というかこの問題をタブー視した大手メディアの責任はひたすらに重いと思う一方、本当にこの問題を放置して拡大させた最大の責任者は密かに警察だと思います。ジャニー喜多川の性的虐待報道は何十年も語り継がれた歴史があり、仮に成人相手なら本人が便宜との見返りを望んでの行為であれば判断が分かれますが、未成年に対しては本人が望んだかに係わらず完全な犯罪が即成立するものであり、目の前で児童虐待が起きていながら無視する警察がどこにいるんだって話です。
 それこそ被害を証言した元タレントらに事情聴取するなり、所属タレントに対して第三者匿名ヒアリングを開いたり家宅捜索するなどして途中で止めることはできなかったのか。立件にまで持ち込めずとも捜査を行ったと報じることでいくらかの抑止につながったのではないか。そう考えると、この事件を放置してきた警察、都内なら警視庁の責任こそが最も根深いように思えます。

 っていうか今思いついたけど、ジャニーズ事務所を放置しておきながらマイケル・ジャクソンの児童虐待疑惑を報じていたメディアは一体どういう神経してんだろうか。

2022年9月21日水曜日

中国人のウクライナ戦争に対する見方

 今朝五時半ごろ、1階の住人が何を思ったのか外で鍋を打ち鳴らし始め、上の階の住人が「うるせぇ!」と叫ぶと、「何がうるせぇだ!」と言い返したりするなどカオスでした。おかげでやや寝不足です。

 話は本題ですが、ほぼウクライナの戦略的勝利が決まった状況ではありますが、ウクライナとロシアの今回の戦争は未だ続いています。数年続くという予想も出ていましたが、ロシア軍のあまりの脆弱さとウクライナの戦術の上手さからこのところ戦線が動き続けており、早ければ年内、遅くとも来年中には完全決着するとみてもう間違いないと思います。
 個人的な素人意見を述べると、ロシア側はシリア人傭兵部隊を投入したなどといろいろ言われていますが、中東出身の兵隊がウクライナのこれから来る冬に堪えられるのかが気になっています。仮にこうした傭兵部隊が前線で重きをなしていた場合、冬の到来とともにまた劇的な変動が起こりうる可能性があるでしょう。

 さてそんなウクライナ戦争に対して日本人は、鈴木宗男や橋下弁護士などごく一部の変わった嗜好をする人を除けば、首尾一貫してウクライナを応援し、ロシアに対し批判的な見方を持ち続けています。この辺りは日本も長期にわたりロシアとの間で北方領土問題を抱えていることもありますが、それ以上の終戦間際の横紙破り、そしてシベリア抑留などの歴史を経験していることから、ロシアに対する反感がかねてから強かったことが大きいでしょう。
 やや差別的な言い方となるかもしれませんが、もしこれがアフリカにおける国同士の侵略戦争で、今回のロシアのような捕虜虐待や虐殺が行われていたとしても、恐らく日本人は歯牙にもかけないし、虐殺行為を今回ほど批判することもないのではと思います。やはり侵略者がロシアだったからこそ、今回の戦争に対する反感がはっきりと世論に出るに至ったのでしょう。

 ではそんなロシアのお友達、というかロシアがかなり依存してきている中国にいる人はどうなのか。本当はこの辺、JBpressに載せようかとも考えたのですが、主観の強い見方となるためこのブログで書くことにしました。結論から言うと、日本人がかつてのベトナム戦争当時における米国に対する見方が、今の中国のロシアに対する見方に近いのではないかという気がします。

 中国はその立場から、国内でのウクライナ戦争は日本でも報じられている通りロシア寄りの報道がなされ、虐殺などについても敢えて触れないようにされています。あくまで、ロシアとウクライナの間で起こっている大規模な紛争といったトーンで報じており、日本や欧米と比べるとロシアへの批判はほぼ皆無と言っていいでしょう。
 そうした報道もあってか、大半の中国人はこの戦争においてロシア寄りな見方をしています。ウクライナに対して憎いとかそういうのはなく、単純に「ロシアはお友達だし勝ってほしい」的なスタンスで応援しているように見えます。少なくとも「原発攻撃や虐待を繰り返す卑怯な野蛮人のロシア」といった日本人の見方はまるで存在しません。

 とはいえ、虐殺などの報道は完全に封じ込められているわけではなく、ウクライナ側の発表や王エビの報道を引用する形で中国でも報じられることはあります。もっとも、その手の報道の際には「ウクライナ軍もロシア兵捕虜を虐殺している」というロシア側の発表も必ずセットでつけられるのですが。
 何気にちょっと自分もビビったのですが、百度で「ロシア 虐殺」と検索すると、まさに上記の様にロシア兵がウクライナによって虐殺されたニュースしか検索で出てきませんでした。もっとも海外メディアの報道を見ている中国人などは、ロシアの蛮行をちゃんと把握している人も多いですが。

 ただ全体としてみると、私個人の所感で見た場合に中国人はこの戦争について、「ロシアとかが現地で虐殺しているらしいけど、それは戦争でよくある出来事」的に、全く大事だと捉えていないように見えます。その上で先にも書いた通り、心情的に、また米国への対抗意識から、中国としては戦況は今良くないにしてもロシアにこの戦争を勝ってもらいたいという感情を持っているように見えます。

 敢えて比較するなら、冒頭にも書いた日本人の「ベトナム戦争における米国」に対する見方に近いのではないかという気がします。もっとも当時、日本国内にも米国に戦争反対を掲げる層は多かったですが、「虐殺とか現地でやってるらしいけど一応同盟国だし、勝つなら勝ってほしい」的な見方であれば、この時代のベトナム戦争に対する見解に近いように思えます。そういう意味では、現在のロシアに対する日中の見方の違いは、同盟国かそうでないかが大きく影響していると言えるかもしれません。

 やはり自分も日本人であることから、ロシアに対する反感は正直強いです。だからこそというわけではないですが、最近のロシアに対する中国の距離の近さには、逆に中国が心配に思えてきます。
 図らずも、今回の戦争でロシア軍の化けの皮がはがれるとともに、ロシアに兵器を大きく依存している中国の解放軍も、その実力に疑念を持たれるきっかけとなりました。そうした単純な軍事力だけでなく、頼れる相手がウクライナにも勝てないロシアしかいないという中国の現況もさることながら、約束破りの常習犯ともいうべきこの国を頼ることについて、中国は危ないと思わないのか、見ていてこっちがはらはらします。

 この点、マジで周りの中国人に私は、「あいつら平気で後ろから鉄砲撃ってくるよ(´・ω・`)」と、ガチで中国人の知り合いに警告しています。なんか無条件にロシアを信用し過ぎているように見えてならず、中国がどっかでロシアに寝首かかれないか心配です。逆を言えば、結構中国の外交というか外交官の間で怜悧な合理性を失いつつあるようにも見え、その点では日本にとって追い風かもしれません。

2021年10月25日月曜日

上手くいかないことを周りのせいにする風潮

減速続く中国自動車市場でEVだけが大躍進!(JBpress)

 上のは四半期恒例の中国自動車統計記事で、記事内容については特段語ることはありません。強いて言えば、記事中にはわざと書きませんでしたが、燃油車の販売が落ち込む中でEVの販売台数が増加しているということは、調達した半導体など不足しがちな部品をEVへ優先的に回している可能性があるのではと見ています。だとしたら面白い動きで、この辺に関してはまた次回にも取り上げる予定です。

 それで本題ですが最近流行りの「親ガチャ」という言葉について、それこそ片親だったり、物凄い虐待するような親であればこうした言葉を使って自らの不遇を嘆くのもまだ理解できますが、この言葉を使ってる人の大半は割かし普通の家庭で、少なくとも親に肋骨折られるような体験談を交えつつ自らの不遇を嘆いている人は見ません。そういう意味で、この言葉はごく一部を除き社会に対する甘えを期待した言葉であるように自分は見ています。
 念のため書いておくと、自分は親に肋骨折られたことはないです。ただ代々やたら骨格の細い家系のせいか小中にかけて手首などを自らの不作為により数回骨折してます。なのに自転車で空飛んだ時は一切骨折らなくって逆にびっくり(´・ω・)

 敢えて自分の育った家庭についていうと、金銭的には非常に恵まれてて進学などでお金が原因で断念するといったことはありませんでした。もっともそれでいながら学生時代は明らかに他の学生より厳しい資金状況を潜り抜けており、これはバイト代でほぼ全額自分の生活費を賄っており、消費を抑える必要があったからです。あと奨学金も借りていたけどこれは就職後1年で全額返済しており、奨学金が返せない等と言っている輩は完全な甘えだとはっきり認識しています。

 話を戻すと、この「親ガチャ」を筆頭に自分が上手くいかない原因をなにかと周囲のせいにする風潮がこのところはびこっています。この風潮に対する自分の意見は半分同意するももう半分は上記の通り行っている人の甘えだと考えています。ではその分かれ目はどこかというと、その状況の打開のために何か行動を採ったか否かにあるとも考えています。

 例えば私のケースで言えば、最初に入った会社は楽ではあったものの仕事自体がなく、何もやることがない勤務だったので、当時の年収から半減することが分かっていながら中国に来て仕事探しました。その結果、記者にもなれたし中国語も上達してそこそこ実力つけましたが、払った犠牲で言えばあのまま最初の会社にしがみついていれば絶対楽でしたでしょう。今はかなりマシな生活しているものの、ここまで来るための犠牲は多分他の人なら普通払えないものだと断言でき、自分より挑戦している人はもっとたくさんいるものの、自分なりにはそこそこ大きなハードルに挑んできたという自負があります。

 そうした、自らの生存すら危うくするような打開的行動を採ったのか。なんとなく見ていると、このままじゃ良くないと考えながら何も対策せず、案の定あかんことになった人ほど「親ガチャ」という、本質的に自分の努力の可能性を完全に無視することになる言葉にすがろうとしているように見えます。冒頭でも書いたように、激しい虐待などを行う親の元で生まれた人たちであれば確かに人生における大きなハンデと考えるのも仕方ないですが、そうでない人間が親の教育方針が悪かったとか、支援が足りなかったとかいうのは、自己努力の放棄でしかないでしょう。

 その一方で、日本国内だと自己努力だけじゃどうにもならないところもあるなと内心考えています。端的に言えば日本の妙な社会習慣がそれで、能力があろうがなかろうが、経歴や見てくれなどが採用を左右したり、就職後もよくわからない習慣で不要な残業などに巻き込まれたりする点から、パフォーマンスが発揮できない面が多々あると自分は見ています。
 ぶっちゃけ自分に関しても、F1マシンにコインパーキングで後ろ向き駐車させられるような働かせ方された覚えがあります。あと就活時に、村田機械製作所の人間は学生を前に「ぶっちゃけ能力なんてあろうがなかろうが関係ないんだけどね( ^ω^ )プッ」とか言ってたし。

 ただ問題なのは、こうした勤務パフォーマンスを下げる悪習に対し、「誰かが何とかしてくれるのを待つ」人が多いという点です。それこそ若者同士で徒党組むなりして余計なことはやめるよう運動したりすればいいのに、そういう行動を誰も取らないので政治家とか芸能人が言及するのをひたすら待つのは見ていてなんだとか思います。派遣問題にしても、私がやるまで誰一人マージン率についてきちんと調べて問題性について訴える人なんていなかったんだし。

 結論をまとめると、上手くいかないのは周りのせいだとは、行動を採った人間のみが言っていいセリフだと自分は考えます。その上で自分は、もう矯正するのは不可能だから一度全部壊した方が早いだろうという結論に至るとともに、そうした世直しはもう自分の仕事じゃないと割り切ることにしました。自分だけが大事というつもりはありませんが、どう呼び掛けても行動を採らない人たちまで救おうとする価値はあるのかという結論にもう5年くらい前に至っています。

2021年6月13日日曜日

和歌山カレー事件に関する所感

和歌山カレー事件 林眞須美死刑囚の娘と孫が関空連絡橋で飛び込み自殺(ガハろぐ)

 既に一部で報じられていますが、先日の関空連絡橋での母娘心中事件で亡くなった母親の方が、和歌山カレー事件の林死刑囚の娘だったと知り、非常に驚いています。そもそもの投身事件自体、自宅では虐待と疑わしき別の娘の遺体があるなど全容が掴めない異常さがあって興味を覚えていましたが、事件とは恐らく関係ないものの、関係者が林死刑囚の係累だったという事実が加わったことでなおさら衝撃を覚えました。
 こっちの事件に関しては関係者の多くが亡くなっているのでこの後全容が解明されるかは、正直難しいでしょう。尼崎事件といい、闇入りする事件が最近多い気がします。

 話を変えると、今回の事件を受けて和歌山カレー事件に関する言及がネットを中心にまた増えてきているような気がします。一時期冤罪事件を調べまくっていたこと、また事件発生時にリアルタイムで報道を見ていた自分としても気になる事件なのですが、私自身の所感を述べると、やはりこの事件は有罪とすべきでなかったという見解を持ちます。

 一部で報じられていますが、犯人とされた林死刑囚は過去に保険金詐欺を繰り返していたことは事実であり、善良な一市民とはとても言えない人間であることは間違いありません。しかしこのカレー事件に関しては有罪の根拠とされた証言があやふやであり、また証拠とされた混入ヒ素の同一性に関しても強い疑いが残されています。確実に林死刑囚が犯人であるという証拠はなく、事件当時に際立って怪しいかというとまたそうでもない立場であるというのが私の見方です。
 では何故犯人視されたのかというと、やはり前述の保険金詐欺という経歴からでしょう。この過去の経歴から容疑者扱いされるという点に関して幾分仕方のない点もあると思いますが、しかし事件の有罪性となると話は別で、確実な証拠がないのであれば無罪とすべきだった、少なくとも死刑ではなく将来の再審を考慮して無期懲役にすべきだったと自分は思います。

 なおこの和歌山カレー事件に関して昔中国で職場に不満を持った中国人が食堂の料理に毒入れたというニュースを話題にしたら、「日本でも前あったじゃん」と中国人の友人に言われました。年代的に事件発生当時に日本にはいなかったはずですが、そんな彼でもこの事件のことを知っているほど有名な事件だったのだなと当時に認識しています。

2018年7月17日火曜日

いじめられっ子は何故いじめっ子に変わるのか?

  毎度毎度書いていますが日本はいじめ自殺が起きるたびに「いじめは大変だ、よくない、なくさなきゃ」と言いつつ、いじめそのもののメカニズムや統計についてはあまり言及されずフェードアウトし、しばらくたってまた自殺が起きると話題にするというのを繰り返している現状があります。特に統計に関してはひどいもので、どの都道府県が多いのかとか、男女比、学年、クラス規模、偏差値等、一部は統計が取られているもののテレビやネットでの議論に活用されることはなく、今後もこうした無駄なサイクルが繰り返されると予想します。

 そのいじめのメカニズムですが、地味に無視できないというか検討する価値のある要素として、いじめられていた側がいじめる側に変わるという現象があります。この現象についてネットで検索すると出るわ出るわで、発言小町に至っては、真実かどうかは検証しかねますがかつていじめられっ子だった息子が他の子をいじめるようになりどうすればいいのかと、非常に真剣な相談が書かれてあってなかなか読ませられました。
 現実にというかこの現象、私も実際に何度も目の当たりにしており、また報道によると2015年の川崎市中1男子生徒殺害事件の主犯格だった少年もかつてはいじめられっ子だったものの、長じて自分より年下の子をいじめるようになったと言われています。このほかの未成年による目立った刑事事件でも、「元いじめられっ子」というキーワードをよく見ます。

 具体的な統計がない(多分調べようともしてないだろうし)ので発生割合は測りかねますが、必ずしもいじめられた子がいじめっ子に変わるというわけでないものの、少なくともこうした逆転現象が世の中で起きていることはほぼ確実だと私は体感的に考えています。たとえは変ですがマルクス主義者が市場原理主義者に、ビアンカ派がフローラ派に変わってしまうのはそうそうないと思うのに、いじめを軸にしたこの逆転現象は何故かよく起こるのはやはり不思議でしょう。
 っていうか自分で書いててたとえが意味わかんない。

 何故こうした逆転現象が起きるかについてネットで見たあるブログでは、「いじめられていた子はいじめる子に憧れを持つ、いじめる側の立場になることを望むようになる」というような分析をしていました。私は以前にこのブログで、「虐待されていた子は虐待する親を憎みながらも、長じて虐待する親になりやすい」という絶対的な統計結果を紹介した上で、先ほどの分析のように「憎みながらも暴力を行使する親に憧れを持つようになる」という心理傾向があるという研究の話を書きましたが、メカニズムではやはりこれと共通すると思え、先の分析を支持します。
 やはり暴力というのは晒されるのはただただ苦痛なものの、受けた人間からすればその威力もわかるわけで、行使したくなるのかもしれません。もちろんまともな子は自分が受けた苦痛を他人には与えないように心がけるでしょうが、まともじゃない価値観の子だと「自分だって苦しんだんだから他の人間も苦しむべきだ」という方向に考えが行ってしまうのでしょう。

 ある意味でこうしたメカニズムがはっきり出るのは軍隊や部活動のしごきでしょう。「やられたんだからやり返してもいい」を金科玉条に、何故かしごきを行ってきた相手本人ではなく無関係の下級生に暴力を行うという負の連鎖が起きるわけで、やはりこの背景には上級生に対する憧れめいたものが見え隠れします。
 ようやく最近になって時代が私に追いついてきたのか、「ブラック部活動」という言葉とともにこうしたしごきや先輩や顧問からの理不尽な要求を社会が排除するようになってきています。防衛大でもこの前このような報道があっただけに、いい方向に変わっていると私自身は考えています。

 しかしこの、いじめられっ子がいじめっ子に変わるメカニズムについて、やはりもっと深く突っ込んで対策などを議論してほしいのが本音です。昔のドラマの「人間失格」なんかまさにこの逆転現象を描いていて今思うとあの時に議論するべきだったなとも思えてきますが、この現象に対して対策を打つことでそれなりないじめ対策になるのではと密かに思います。

 と、以上を踏まえて敢えて私がこの議論で踏み込むとすると、地味に前から不思議だと思うのがこうした逆転現象で、何故かいじめから庇ってくれた人を元いじめられっ子がいじめるようになるという現象が少なからず起きているという点です。先ほどの「人間失格」で堂本剛氏が演じたキャラの役割がまさにこの庇った側でしたが、ちょっとこの点についてなんとなくそれらしいメカニズムが見えてきたので、次回にて詳しく説明します。

2017年8月2日水曜日

書評「『鬼畜』の家―わが子を殺す親たち―」

 前回に「アホガール」を取り上げて書いておきながら今日はこの内容を書く当たり、いつもながらその記事のまとまりのなさに自分で驚きます。記事ジャンルのまとまりのなさでいえばこのブログは日本一かもしれません。

 さて本題ですが、恐らく「でっちあげ」、「モンスターマザー」などノンフィクション系の本を買いあさっていたことからおすすめに表示されたのだと思いますが、あらすじを読んで興味を持ったことからこの「鬼畜の家」を読むこととしました。内容を簡単に説明すると、実際に幼児を虐待死させた三組の親たちについて、その事件詳細と関係者らに対し取材した内容となっています。正直、書評を書くべきかどうか少し悩んだというか、非常に書きづらい内容です。

 この本の中で紹介されている三件の虐待事例を書き出すと以下の通りです。

1、幼児を室内にテープで目張りするなど監禁し餓死させ、7年間にわたり死体を放置した父親
2、生まれたばかりの赤ん坊を出産直後に殺害し、死体を隠蔽というのを2回やった母親
3、うさぎ用ケージの中に幼児を監禁し、衰弱死した子供を山に埋めた父親と母親

 どれも本当にあったのかと疑いたくなる内容で事件発覚当時はメディアでも大きく報じられていたそうですが、自分にしては珍しくどの事件も記憶にありませんでした。それだけ幼児虐待死の事件が世の中に溢れているというか、今日も一件報じられていましたけど印象に残らないほど日常的なものになってきているのかもしれません。

 さて通常の虐待死関連報道では如何に両親がひどい人間で子供達がかわいそうだったかを軸に報じられることが多いのですが、この「鬼畜の家」ではいい意味で視点がやや異なっているというか、偏見なく事件や虐待をした親を平等に見ており、取材して得た事実を淡々と書き綴っています。その上で作者の石井光太氏は、どの事件の親も子供のことを真剣にかわいがっていた、そして異常なまでに幼稚だったという点が強調されています。
 虐待事件というと私もそうでしたが、ややもすると虐待を行った親たちは残虐な性格で、それこそ子供のことを児童手当の金づるみたいにしか考えていない奴らだと思いがちですが、石井氏はそうした点について児童手当はすべて特定人物に巻き上げられていたことなどを根拠に否定し、信じ難いことだが彼らなりに子供を愛そうとしていたということを何度も書いています。では何故かわいがっていた子供を自ら虐待死に至らしめたのかというと、それはひとえに彼らが幼稚な性格だったということが何よりも原因だとして、そのような幼稚な性格に至った背景についても、具体的には親たちの幼児期の家庭環境などを挙げつつ説明しています。

 仮に作者が取材した内容が本当に事実だとすれば、私はこうした石井氏の主張を信じます。それだけこの本で取り上げられている取材内容は説得力があり、また石井氏の丹念な取材努力には頭が下がるというか、読んでいて「よくこんな所に取材に行ったな」と思うような描写も書かれてあります。その丹念に行われた取材では虐待を行った親たちの幼少期も辿っており、案の定というか彼らは明らかに一般的な家庭で育ってはおらず、その親たちから常識では考えられない仕打ちを受けながら育ってきたことが書かれてあり、いわゆる虐待を受けた子が長じて虐待をする負の連鎖が存在していることを指摘しています。
 個人的に印象に残ったのは、彼ら虐待を行った親たちは確かに幼少期不幸な家庭環境にはあるものの、普通科の高校を卒業したり、勤務先では真面目でA評定を受けたりなどと、知能的には一般レベルにあると書かれてあったことです。特に勤務態度に関しては1番目、2番目の例などはきわめて真面目で職場での評価も高かったことはもとより、2番目の親に至っては秘密裏に出産、殺害をした前日と翌日も朝から晩までファミレスなどのバイトに出勤しているなど、どうしてこんな人がこんなことをと読んでて目を疑いました。

 ただ、既に上にも書いている通り知能的にはまともで且つ勤務態度は真面目でありながら、三例とも虐待を行った親は共通して性格が幼稚で、目の前の状況をただ受け入れるだけで現状を変えようとする努力をほとんど見せないどころか、やることなすこと小学生みたいに場当たり的な行動を取ってしまうほど幼稚であることが書かれてあります。一時期アダルトチルドレンという言葉がありましたが字面から判断すればまさにその典型と思うような人ばかりで、言い方は悪いですが何故こんな幼稚な人たちが知的障碍者とはならないのかとすら私は覚えました。
 それだけにというか、私はこの本を読んでいろいろと分からなくなってしまいました。かつて私はこのブログで虐待対策としては子殺しの親にはもっと厳罰を科すべきだと主張したものの、今現在に至ってはそれは何の解決にも至らないのでないのかという疑念が強くなっています。言い方を変えると、何が間違っていてこのような虐待死事件が起きたのかがわからず、恐らくこの本で紹介されている親たちは「彼らなり」に子供を愛していたと信じ切っており、罪の意識が全くないように思えるからです。そんな人間に厳罰を科したところで反省など起きると思えず、現在進行で虐待を行っている親の抑止力になるとも思えなくなったわけです。
 個人的な推量ですが、恐らく虐待を行って懲役を受けた親が、出所後に再び子供を作って虐待をするという事件が今後起きると思うし、すでに起きているとすら思えます。何故なら子供を愛しているし、虐待について何の呵責もないからです。

 結構だらだらと書いてまとまりがない文章で申し訳ないのですが、この本を読んだ感想として私が伝えたいこととしては、虐待への対策とは一体何なのかがこの本を読むと本当に見えなくなるということです。行政の介入とか引き離しとか事後対策手段はまだ確かに存在するものの、事前対策としての虐待を行わないようにする教育なんてのはハナから無理があるのではと、正直思います。それだけに、虐待をしてしまう人が親になってしまったらもうどうにもならないように思えてしまうわけです。

 通常、書評記事にはAmazonの広告を貼ってますが、この本に関しては読後はほぼ確実にストレスを受けるので今回はありません。自分も読了後は軽い倦怠感を覚えたほどで、その内容の価値の高さ、面白さについては太鼓判を押しますが、真面目に生半可な気持ちでは読むべきではない本なので手に取ろうとする方はその辺をよく考えた上でお取りください。

2016年6月19日日曜日

広島で被爆死した米兵捕虜を追った郷土史家

 漫画「はだしのゲン」の原爆投下直後のワンシーンに、原爆によって亡くなったと思われる米兵捕虜に老婆が石を投げつつ、「アメリカめ、自国民まで巻き添えにしおって!」というような内容のセリフを述べるシーンがあるのですが、このシーンが事実に基づいた内容であったということをつい最近知り、非常に強い衝撃を覚えました。

広島原爆で被爆したアメリカ人(Wikipedia)

 私がこの事実を知ったのは今月の文芸春秋(七月号)にて、広島で被爆死した米兵捕虜を追った郷土史家の森重昭氏の手記を読んだことからです。私は知らなかったのですが森氏は先日行われたオバマ大統領の広島訪問時の式典に招かれ、直接オバマ大統領から抱擁されて翌日の新聞ではどこもオバマ氏と森氏の2ショットが一面に載せられてたいようなので、もしかしたらこのブログを読んでいる方は既に森氏の事はご存じであったかもしれません。
 なおこの時のことについて森氏は直後のインタビューにも答えた通りに「頭が真っ白になった」と書いておりますが、それもそのはずというか式典への招待自体は前もって電話で連絡を受けていったものでしたがてっきり会場の遠くからオバマ大統領を見ることになるだろうと思っていたところ、なんと広島知事らを押しのけて最前列の席に案内され、そのまま上記の通りにオバマ大統領から直接声をかけてもらった上にハグしてもらったとのことです。逆を言えば他の人間を差し置いて森氏にこうした対応を取る辺りはさすがはオバマ大統領だと思うとともに、こうした歓待を受けるほど森氏の功績が高く評価されたのだと思います。

 手記によると森氏は8歳の頃に広島で被爆しています。その後成人して会社勤めをする傍ら地元広島で原爆投下時に米兵捕虜が亡くなっていたということを知ってから、後世のためにきちんとした記録を残したい、そして国籍など関係なく被爆死した人間を弔いたいという考えから調査を始めたと語っています。なお森氏の勤め先は山一證券、次いでヤマハだったとのことで、何気にエリートサラリーマンだったようです。

 調査を始めた森氏は休日を使って当時の資料やまだ生きていた原爆体験者らから話を聞き集めるという地道な活動を行っていきました。そんな折、同じく米兵捕虜を追っていた広島大学研究所の宇吹暁氏が、戦後に外務省がGHQへ提出したとされる被爆死した米兵捕虜20人のリストを発見したことによって手がかりをつかみ、このリストに書かれてあった人名から詳細な確認作業へと着手していくこととなりました。
 最終的にこのリスト内容は完全には正しくなく、実際に被爆死した米兵捕虜は12人だったということが森氏の調査で明らかとなっております。その大半は撃墜された爆撃機B24(リベレーター)のロンサム・レディー号とタロア号の乗組員たちで、彼らの氏名、所属、そして被爆死した状況についても様々な角度から検証されて事実が確認されています。

 特に驚いたのはこの時の森氏の調査に対する熱意で、インターネットもなかった時代に国際電話をかけ、リストにあった米兵捕虜と同姓の家庭へしらみつぶしに電話をかけて親族を探したそうです。そんなことするもんだから電話代はかさんで月7万円を超えた月もあり奥さんからは白い目で見られたそうですが、それにもめげずに努力し続け実際に親族と連絡を取り合うことに成功しています。もっとも最初は胡散臭い詐欺師のように思われて相手にしてもらえなかったこともあったそうですが森氏の熱意を受けて情報を提供してくれる親族らも段々と増えていき、そして幸運なことに撃墜されたB24ロンサム・レディー号の機長であったトーマス・カートライト(2015年1月死去)が当時まだ存命しており、森氏の調査に協力してくれました。
 トーマス機長は尋問のため一人だけ広島市から東京へ移送されていたことから難を逃れ、戦後に解放されて米国へ帰国した後も上層部からは部下が広島で被爆死したことを言明するなと指示されていたそうです。実際、GHQは占領してすぐに原爆で米兵捕虜が亡くなっていたことを把握していたもののその事実は「不都合な真実」として公表せず、被爆死した米兵捕虜の家族らにも当初「行方不明」としか説明していませんでした。実際、ロンサム・レディー号の乗組員だったジェームズ・ライアンの家族には終戦二年後になって初めて、「広島の原爆投下時に死亡」とだけ通知され、原爆との因果関係も何も説明されていなかったようで被爆後に虐待死されたのではという疑念を家族らは持っていたそうです。

 そして、冒頭の石を投げつけられていたという米兵捕虜についてですが、この捕虜はロンサム・レディー号の乗組員ヒュー・アトキンソンだったということが種々の調査などから明らかとなっております。その死の状況については原爆投下地点(原爆ドーム)から400メートル離れた捕虜収容所で他の捕虜ともども被爆したものの、即死してはおらず重傷ではありましたが当初はまだ生きていたそうです。そして被爆直後の混乱の中、移送することもままならず処遇に困った憲兵が一旦相生橋欄干につないだところしばらくしたら死亡しており、そのまま現場に放置したというのが実態だったそうです。
 この死亡時の状況について当初は、「橋に繋がれた米兵捕虜が投石されて殺された」などとも言われており当時現場にいた証言者もそのように述べたそうですが、森氏曰く往々にして記憶というのは変わりやすいもので、以前そのように述べた証言者もその後確認を進めた上で聞き直すと、「既に死亡していて、死体に石を投げつけていた」と証言が変わったりすることも多かったそうです。この一回限りの証言で完結させない辺り、歴史のリサーチャーとして森氏が格段に優れていると思わせられる手腕です。

 また同じくロンサム・レディー号の乗組員であったラルフ・ニールについてですが、彼の家族らは戦後生まれた彼の甥に同じ「ラルフ」という名前を付けたそうです。その甥であるラルフ・ニール氏は森氏をテーマにしたドキュメンタリー映画「ペーパーランタン」の撮影で広島を訪れ、資料館にある叔父の写真を15分間も無言で眺めつづけたそうです。森氏は一連の調査を進める傍らで彼ら米兵捕虜にも日本人と同じく墓碑に名を刻むべきだと考え、既に定年退職した身であったことからアルバイトで貯めた約65万円を投じてわざわざ米兵捕虜の慰霊碑を打ち建てるとともにまだ存命していたカートライト機長を案内したとのことで、重ね重ね森氏の行動には頭が下がります。

 正直な感想を述べると、今までこのような事実があったということを知らなかったこと自体が恥ずかしく感じるとともに、冒頭で述べた「はだしのゲン」のワンシーンにこんな背景があり、そしてそれを事実として確認するために膨大な労力が払われたのだということを考えると森氏には強い尊敬の念を覚えます。そしてそれをきちんと評価してその努力を労ったオバマ大統領をはじめとする米国政府の面々も改めて大した連中だと思うと共に、公式に米兵捕虜が一緒に被爆死していたという事実を明らかにしたその対応はなかなか真似できるものではないとばかりに、米国の底力というものを覚えさせられます。
 逆を言えば、どうして今まで日本はこうした森氏のような人物を取り上げてこなかったのか。先程の映画「ペーパーランタン」も日本では未公開とのことで、「プロジェクトX」ではないですが「地上の星」に対し目が向けられていないのではという気持ちにさせられます。

 最後に余談というかなんというか広島で被爆死した捕虜の中にいたタロア号の乗組員たちですが、彼らはどうも、広島に新型爆弾が落とされる予定であるという事実を知っていたそうです。余計なことは書かず素直な心情を述べると、この事実を知って私はゾッとした感情を覚え、被爆時の彼らの胸中は如何なるものだったのかと慮りました。

2015年11月3日火曜日

B、C級戦犯

 先日、名古屋に左遷された親父に進められて角田房子著の「責任 ラバウルの将軍今村均」という本を読みました。なんでこんな本を進められたのかというとブログで何度も今村均について書いてたのを親父が読んだためですが、自分もこれまで彼のまともな評伝を読んだことがなく、読んでみて今まで知らなかった点や有名なエピソードの背景などについて知ることが出来てそんなに悪くなかったです。

 ただ、この本は作者による入念な取材の上で今村均の人生を描き切っていてそのどれもが見ていて惚れ惚れするほどの見事な取材ぶりなのですが、その中でも特に前半部に描かれているB、C級戦犯について書かれた下りは読んでいて強い衝撃を受けました。
 説明するまでもないかもしれませんがB、C級戦犯とは二次大戦中の日本軍人の中で、捕虜や現地住民に対して虐殺、虐待などの戦争犯罪を犯したとして裁かれた人を指します。日本で戦犯というと基本的には「侵略戦争を拡大させた」という政治的理由で裁かれたA級戦犯のことを指しますが、そのA級戦犯の陰に隠れてこのB、C級戦犯は日本だけでなく東南アジア諸国に設けられた収容所、そして裁判所で刑が執行されており、死刑となった者は千人を超すとまで言われております。

 今村均もこの時に戦犯指定を受けてインドネシアなどの収容所に送られた時期があり、その当時についてもこの本では詳しく開設されているのですが、収容所を管理するオランダ軍の無用な虐待が過剰な労働は日常茶飯事で、また収容所設備もひどいものだったと環境的には最悪だったそうです。ただ今村均はこうした虐待に対して現地責任者に対し毅然と抗議をし続けたので、彼のいた収容所はどこも統率がとれており、逆に彼がいなくなるや再び虐待が始まったなどいうことは多くの証言者の間で一致しております。

 しかしそんな今村均でも死刑判決を受けた旧軍の士官ら戦犯に対しては救う手立てはなく、またそのような死刑判決者は日本に残す遺族らへ遺書を書くことすら許されずに悉く処刑されていったそうです。また死刑とされる判断理由も戦犯裁判であるが故というべきか過分にオランダ軍の報復的要素を含んでおり、出所のわからない情報でありながら捕虜虐殺をしたと訴えられ、実際には無実であったかも知れない死刑判決者も多数いたとされます。有名なものだと、自分たちの食糧すらままならない中で捕虜へなけなしのごぼうを食べさせたところ、「木の根を無理やり食べさせられた」と虐待と見られてしまい、その士官は死刑判決を受けたという話もあります。

 裁判過程も非常に偏ったもので、通訳すら満足に用意してもらえなかったほか有利な証言は悉く否定されたり、また元兵士や日本軍が雇った民間業者といった相手証言の矛盾を突こうにも証言者は最初だけ出廷して後の裁判には出て来ず、無実であるという証明はほとんど通用しなかったとされます。誰かが犠牲にならざるを得ない事態も多く、かの仲間を助けようと複数いる被告の中から自分が行ったと自ら自白することによってほただ一人で刑に服すといった行為も多く見られたそうです。

 このような目で見ると同情に余りあることこの上ないのですが、その一方で作者は、弾劾されるのも仕方のない事例もあったとこの本の中で指摘しています。
 それはどんな事例かというと、日本軍が占領した離島で戦時中、墜落した飛行機に乗っていた米国人兵士二人を駐留していた日本軍の部隊が捕虜とせず、殺害したことがあったそうです。その後、終戦を迎えた後で捕虜殺害がばれるのを恐れたその部隊は何をしたのかというと、民兵の様に日本軍が訓練していた現地住民四百人(二百人だったかもしれない)を口封じのためすべて殺害したそうです。

 元々その島には現地住民がいたのですが戦争が進むにつれて女子供老人はほかの島へ避難させた上で、若い男性たちは島の防衛に使おうとして残した上で訓練を施していました。彼ら島の男性らは米国人殺害を知っていましたが、かといって直前まで日本軍と敵対していたわけでもなく、むしろ互いに協力し合う関係でもあったのに戦犯になることを恐れた日本軍によって全て抹殺されてしまいました。無論こんな人数を殺しておきながらばれないなんてことはなく、戦争が終わったにも関わらず一向に戻ってこないことを不審に思った家族らによって事が明るみとなり、この虐殺を指揮した士官らは懸念した通りに戦犯となってそのまま死刑を受けることとなりました。
 作者はこの事件を取材の過程で伝聞形式で知り、なんとか詳細を確認できないかと思っていたところたまたま知り合った元軍人の人物がこの時の虐殺に関わったと自ら切り出す場面に遭遇します。その場面について作者は文字通りに体が震えたと同時に、本当に事実であったことを確認できたと書き記しております。

 自分もこの辺の下りは読んでいて体の震えを感じましたが、二人殺害したことを隠蔽するため四百人を殺害するという、何故こんな本末転倒なことをと思うと同時に、ここ数年で久々に「狂ってる」という印象をまざまざと感じました。先程も書いた通りにいくつかの戦犯は無実でありながら懲役や死刑に服すなどして同情に余りある一方、本当に処刑されても仕方のない戦犯もいたのだと思え、そして日本はこういった者たちに自ら裁くべきだったのでは、それがないから責任が未だに曖昧なのではと複雑な気持ちにさせられました。

 まとめとなりますが日本では戦犯というとA級戦犯ばかり取り上げられるものの、もっとB、C級戦犯にも目を向け、あの戦争の中で何が起きていたのか、またどのように処分されたのかをもっと検証すべきじゃないかという気がします。戦争というのはマクロではなくミクロな視点が求められると大学で口を酸っぱくして教えられましたが、この本を読んだことによってその点が前以上に強く意識するようなった気がするし、まだまだ勉強が足りないと反省する次第です。


2015年7月23日木曜日

家庭で親から受ける精神的影響

 昨日は負の連鎖を避けるためにも教育において家庭と学校の距離をしっかりと置いて、学校は独立した立場で子供に教育をしなくてはならないという持論を勝手に展開しました。物のついでなので今日は、家庭で親から受ける精神的な影響についてまたかってな主張を述べていくこととします。

 私は教育学を学んでいないのであくまで社会学の目線でこのテーマについて語っていきますが、社会学において個人の心的発達を考える場合、両親のことを「重要な他者」という言葉で表現します。この言葉の表現する通りに子供が親から受ける精神的影響は計り知れないほどに大きく、人格形成において一般常識通りに無視してはならない存在だと考えます。
 何もここで私がもったいぶって言わなくても、子供というのは多かれ少なかれ親の影響を受けて、その性格も多少なりとも親に似てくるところがあるのは周知の事実でしょう。ただこれだけを語るのであれば芸がないのでここで一工夫したことを書くと、子供が親のことを慕っていようが憎んでいようがその性格は似てくる傾向がある、と私は考えております。

 仲のいい親子で性格が似てくるというのは素直に想像できるでしょうが、仲の悪い親子同士でも性格が似てくると言っても疑問に持つ方もおられるかと思います。しかしこれまでの私の経験から言うと案外この傾向はあり、口汚く片方を批判する姿がもう片方が同じように批判する姿と非常にそっくりだなとみて、「なんだかんだ言いながらよく似てやがる」とほくそ笑んだことも少なくありません。

 では一体何故仲が悪くても似てくるのか。やや極端な例ですが、暴力の激しい家庭なんかがこれを考える上でいいモデルケースじゃないかと思えます。父親が激しく暴力を振るう家庭に生まれ、小さい時から散々に抑圧されてきた子供が成長して同じように子供を持つと何故かかつての父親のように激しく暴力を振るう親となる、このようなケースを耳にしたことのある人は少なくないでしょう。とある教育本で、「暴力で教えられた子供は暴力で解決しようとして、会話で諭された子供は会話で解決しようとする」と教える内容があるそうですが、社会学的にこの過程を分析するなら説得手段がただ単に暴力や会話だったからではなく、単純に親の性格を受け継いだからではと私なりには考えます。

 仮に嫌う人間がいたとしたらそのような人間になりたくないと思うのが普通です。しかし実際には部活動の上級生から下級生へのしごきのように、理不尽な行為を受けた人間が長じて同じような理不尽な行為を課すことは珍しくはないでしょう。
 昔、哲学科出身の友人にこういう事例を話題にしたところ、「恐怖というのは憧れと紙一重だ」といったような内容を教えられました。曰く、暴力に晒されている間は恐怖を感じて強いストレスを覚えるが、その一方で自分もこのような強い人間になりたい、他者をねじ伏せたいという憧れに似た願望が芽生えるそうです。この説明を聞いてなんとなくそうかもしれないと思うと同時に、虐待とまで行かなくても仲の悪い親子間で「こんな人間になるもんか」と思いつつも案外、そのような立場に取って代わりたいという憧れに似た感情を持つ人も少なくないのではと思え、なんかいろいろな疑問が氷解したのをまだ覚えてます。

 何が言いたいのかというと、親子間で仲が良かろうが悪かろうがどうあがいても親からの影響を子供は免れ得ないと言いたいわけです。下手すれば憎悪という感情が強い分、仲のいい親子より仲の悪い親子の方が案外似た者親子になるかもしれません。

 ただもしそうだとすると虐待を受けた子供は将来虐待を必ず行うということになりかねず、人文主義者でもある私の立場からするとそれは認めることができず、必ず後天的な教育によって人間は真っ当に生まれ変われるはずだとして最初に述べた学校の独立性を担保することで矯正を行う価値を強調したいわけです。
 学校で矯正できるとはいっても、親からの影響を100%排除することはやっぱり難しいでしょう。それほどまでに親からの影響は半端なく強いだけに、だからこそ虐待するなどといったおかしな価値観を持つ親からはもっと積極的に子供を隔離させるべきだと思え、子供は社会で育てるものとして行政にもそのような強い権限を持たせるべきではないかと個人的に思います。

 最後に逆の話として、親からの精神的影響をほとんど受けない人間とはどういう人間なのかを考えてみます。勝手な推論ながら結論から言うと幼少時から自我が相当強い人間、言い換えるなら人の話を全く聞かないアナキン・スカイウォーカーのような人間がそれに当たると自分を省みながら思います。
 人の話を聞かないことに関しては周囲から定評がある私ですが、これも周囲から言われますがほとんど親から性格的な影響を受け継がずに今日までやってきてしまいました。なんで昔から自我が強かったのかというともはや先天的としか言いようがありませんが両親と比べても性格的に一致する部分はほとんどなく、価値観に至っては完全に正反対と言っていいほど異なっています。
 もっとも冷静に考えると別に両親に限らなくても、自分みたくハイリスキーな性格が一致する人間というのが周囲に誰もいないように思え、親からの影響云々を議論する以前なような気がします私に関しては。

 なお名古屋に左遷された親父とは趣味は合ってても性格なり行動原理は全く逆と言っていいほど違ってますが、アルコールに弱いという身体的な特徴は完全に遺伝してどっちも甘党です。辛い物は自分の方が親父よりやや耐性が強く、上海で一回火鍋屋に連れて行ったら途中から親父は何も食べなくなりました。