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2016年6月19日日曜日

広島で被爆死した米兵捕虜を追った郷土史家

 漫画「はだしのゲン」の原爆投下直後のワンシーンに、原爆によって亡くなったと思われる米兵捕虜に老婆が石を投げつつ、「アメリカめ、自国民まで巻き添えにしおって!」というような内容のセリフを述べるシーンがあるのですが、このシーンが事実に基づいた内容であったということをつい最近知り、非常に強い衝撃を覚えました。

広島原爆で被爆したアメリカ人(Wikipedia)

 私がこの事実を知ったのは今月の文芸春秋(七月号)にて、広島で被爆死した米兵捕虜を追った郷土史家の森重昭氏の手記を読んだことからです。私は知らなかったのですが森氏は先日行われたオバマ大統領の広島訪問時の式典に招かれ、直接オバマ大統領から抱擁されて翌日の新聞ではどこもオバマ氏と森氏の2ショットが一面に載せられてたいようなので、もしかしたらこのブログを読んでいる方は既に森氏の事はご存じであったかもしれません。
 なおこの時のことについて森氏は直後のインタビューにも答えた通りに「頭が真っ白になった」と書いておりますが、それもそのはずというか式典への招待自体は前もって電話で連絡を受けていったものでしたがてっきり会場の遠くからオバマ大統領を見ることになるだろうと思っていたところ、なんと広島知事らを押しのけて最前列の席に案内され、そのまま上記の通りにオバマ大統領から直接声をかけてもらった上にハグしてもらったとのことです。逆を言えば他の人間を差し置いて森氏にこうした対応を取る辺りはさすがはオバマ大統領だと思うとともに、こうした歓待を受けるほど森氏の功績が高く評価されたのだと思います。

 手記によると森氏は8歳の頃に広島で被爆しています。その後成人して会社勤めをする傍ら地元広島で原爆投下時に米兵捕虜が亡くなっていたということを知ってから、後世のためにきちんとした記録を残したい、そして国籍など関係なく被爆死した人間を弔いたいという考えから調査を始めたと語っています。なお森氏の勤め先は山一證券、次いでヤマハだったとのことで、何気にエリートサラリーマンだったようです。

 調査を始めた森氏は休日を使って当時の資料やまだ生きていた原爆体験者らから話を聞き集めるという地道な活動を行っていきました。そんな折、同じく米兵捕虜を追っていた広島大学研究所の宇吹暁氏が、戦後に外務省がGHQへ提出したとされる被爆死した米兵捕虜20人のリストを発見したことによって手がかりをつかみ、このリストに書かれてあった人名から詳細な確認作業へと着手していくこととなりました。
 最終的にこのリスト内容は完全には正しくなく、実際に被爆死した米兵捕虜は12人だったということが森氏の調査で明らかとなっております。その大半は撃墜された爆撃機B24(リベレーター)のロンサム・レディー号とタロア号の乗組員たちで、彼らの氏名、所属、そして被爆死した状況についても様々な角度から検証されて事実が確認されています。

 特に驚いたのはこの時の森氏の調査に対する熱意で、インターネットもなかった時代に国際電話をかけ、リストにあった米兵捕虜と同姓の家庭へしらみつぶしに電話をかけて親族を探したそうです。そんなことするもんだから電話代はかさんで月7万円を超えた月もあり奥さんからは白い目で見られたそうですが、それにもめげずに努力し続け実際に親族と連絡を取り合うことに成功しています。もっとも最初は胡散臭い詐欺師のように思われて相手にしてもらえなかったこともあったそうですが森氏の熱意を受けて情報を提供してくれる親族らも段々と増えていき、そして幸運なことに撃墜されたB24ロンサム・レディー号の機長であったトーマス・カートライト(2015年1月死去)が当時まだ存命しており、森氏の調査に協力してくれました。
 トーマス機長は尋問のため一人だけ広島市から東京へ移送されていたことから難を逃れ、戦後に解放されて米国へ帰国した後も上層部からは部下が広島で被爆死したことを言明するなと指示されていたそうです。実際、GHQは占領してすぐに原爆で米兵捕虜が亡くなっていたことを把握していたもののその事実は「不都合な真実」として公表せず、被爆死した米兵捕虜の家族らにも当初「行方不明」としか説明していませんでした。実際、ロンサム・レディー号の乗組員だったジェームズ・ライアンの家族には終戦二年後になって初めて、「広島の原爆投下時に死亡」とだけ通知され、原爆との因果関係も何も説明されていなかったようで被爆後に虐待死されたのではという疑念を家族らは持っていたそうです。

 そして、冒頭の石を投げつけられていたという米兵捕虜についてですが、この捕虜はロンサム・レディー号の乗組員ヒュー・アトキンソンだったということが種々の調査などから明らかとなっております。その死の状況については原爆投下地点(原爆ドーム)から400メートル離れた捕虜収容所で他の捕虜ともども被爆したものの、即死してはおらず重傷ではありましたが当初はまだ生きていたそうです。そして被爆直後の混乱の中、移送することもままならず処遇に困った憲兵が一旦相生橋欄干につないだところしばらくしたら死亡しており、そのまま現場に放置したというのが実態だったそうです。
 この死亡時の状況について当初は、「橋に繋がれた米兵捕虜が投石されて殺された」などとも言われており当時現場にいた証言者もそのように述べたそうですが、森氏曰く往々にして記憶というのは変わりやすいもので、以前そのように述べた証言者もその後確認を進めた上で聞き直すと、「既に死亡していて、死体に石を投げつけていた」と証言が変わったりすることも多かったそうです。この一回限りの証言で完結させない辺り、歴史のリサーチャーとして森氏が格段に優れていると思わせられる手腕です。

 また同じくロンサム・レディー号の乗組員であったラルフ・ニールについてですが、彼の家族らは戦後生まれた彼の甥に同じ「ラルフ」という名前を付けたそうです。その甥であるラルフ・ニール氏は森氏をテーマにしたドキュメンタリー映画「ペーパーランタン」の撮影で広島を訪れ、資料館にある叔父の写真を15分間も無言で眺めつづけたそうです。森氏は一連の調査を進める傍らで彼ら米兵捕虜にも日本人と同じく墓碑に名を刻むべきだと考え、既に定年退職した身であったことからアルバイトで貯めた約65万円を投じてわざわざ米兵捕虜の慰霊碑を打ち建てるとともにまだ存命していたカートライト機長を案内したとのことで、重ね重ね森氏の行動には頭が下がります。

 正直な感想を述べると、今までこのような事実があったということを知らなかったこと自体が恥ずかしく感じるとともに、冒頭で述べた「はだしのゲン」のワンシーンにこんな背景があり、そしてそれを事実として確認するために膨大な労力が払われたのだということを考えると森氏には強い尊敬の念を覚えます。そしてそれをきちんと評価してその努力を労ったオバマ大統領をはじめとする米国政府の面々も改めて大した連中だと思うと共に、公式に米兵捕虜が一緒に被爆死していたという事実を明らかにしたその対応はなかなか真似できるものではないとばかりに、米国の底力というものを覚えさせられます。
 逆を言えば、どうして今まで日本はこうした森氏のような人物を取り上げてこなかったのか。先程の映画「ペーパーランタン」も日本では未公開とのことで、「プロジェクトX」ではないですが「地上の星」に対し目が向けられていないのではという気持ちにさせられます。

 最後に余談というかなんというか広島で被爆死した捕虜の中にいたタロア号の乗組員たちですが、彼らはどうも、広島に新型爆弾が落とされる予定であるという事実を知っていたそうです。余計なことは書かず素直な心情を述べると、この事実を知って私はゾッとした感情を覚え、被爆時の彼らの胸中は如何なるものだったのかと慮りました。

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