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2009年4月12日日曜日

グローバルルール、ローカルルール

 確かWEBマンガの「ヘタリア」だったと思うけどそこの日本の紹介文で確か、「意外に世間知らずで、他国から見るとびっくりするようなことを平気でやっていたりする」というような内容が書かれていたと思うのですが、この紹介文を見てうまいとこ突いているなぁと私は納得しました。別に日本に限るわけではないでしょうが自国では当たり前でも他国では当たり前じゃないという制度や慣習というのは本人たちにはなかなか気づき辛いもので、国境を陸地で接していない島国の日本ではそういうものが他国よりは多いような気がします。

 そうした例として私が体験したものとしては、まぁ無難な例としては信号に対する意識が出てきます。まず中国では車も歩行者も全く信号を守りません。それこそ隙あらば付け入るとばかりに車も歩行者もこれでもかといわんばかりに飛び出してきますし、それが向こうでは当たり前の世界として広がっています。また中国ほどひどくなくともイギリスでも歩行者はほとんど信号を守らず、左右から車が来ていなければ皆平気でずんずん渡り始めてしまいますので、日本じゃよく大阪の交通マナーが悪いとは言いますが中国やイギリスに比べれば随分とマシなんじゃないかと思ってしまいます。

 この二国以外でもいろいろ人に聞くと、アジア諸国を筆頭として信号を日本人ほど守る国はそれほど多くない気がします。ですが日本人は環境的に自分たちくらい信号を守るのが普通だと思っているのか、仕方が無いとは思いますが他国に行くと「こいつらは信号を全然守らない」として憤懣やるかたなく愚痴を漏らしがちで自分たちの方が少数派であるということをそれほど意識しません。

 もっとも信号ルールくらいの意識の違いは大きな問題ではないでしょうが、これがこと商取引や法律となるとグローバル化の昨今ではいろいろと摩擦を引き起こしてしまいます。特に商取引については日本と中国では根本から意識が違うせいでしょっちゅう問題になりますし、犯罪に対する価値観の違いからも思わぬ事件が起きたりします。
 折角なのでここで書いておきますが、中国では麻薬の所持だけでも死刑が科せられます。というのも南部の麻薬汚染が余りにも大きいがために政府も厳罰を以って望んでおり、そのため最近よくある闇サイトでの仕事斡旋で知らず知らずのうちに麻薬の運搬役となって見つかってしまった場合は本当に言い訳がきかないので、絶対にこういうことに手を出してはなりません。

 ここで話は変わりますが、日本社会ではいろんなところで「マナー」って奴があります。労を労う際に相手が目上の人間であれば「お疲れ様でした」、目下の人間であれば「ご苦労様でした」と同じ意味の言葉でも使い分けねばなりません。このほかにも客先への訪問時にお茶やコーヒーが出されても客先の担当者が口につけるまでこっちは手を出してはならない、ついでに言えば椅子も相手より先に座ってはならない。ほかにも名刺を差し出すときは相手より低い位置から差し出すという、背の高い奴にはどうしろってんだといいたくなるようなものまであります。

 今挙げたルールはほぼ間違いなく日本だけのローカルルールで、私からしたらお互いにこんな細かくくだらない差なんて気にしなければいいじゃないかと思う例です。私なんか後輩から「ご苦労様でした」と言われても別になんとも思わないし、相手がどのように自分を思ってどんな意図を伝えたいのかを考えれば言葉の違いを気にする方のが異常だと思います。

 私は別にマナーすべてを否定する気はありません。ですが狭い範囲でしか通用しないルールを構成員に互いに強制し合って互いに縛り合うというのは非常に無駄な作業だと思うし、細かいことを互いにいちいち気にしないで接し合う社会の方が優れている気がします。
 そして一番始末が悪いのは、ローカルルールとグローバルルールが真っ向から食い違っている場合です。日本企業の品質重視主義など優れたルールは逆に世界へ広げていくべきだとは思いますが、前にも一度書いた「犯罪者の家族への社会的制裁」にて触れたように、過剰な集団主義的な価値観を改めて欧米のような個人主義的な価値観も取り入れていくべきだと思います。

 勢いで一気に書いたのでこの記事はあまりまとまりがありませんが、坂本龍馬風に言えば要するに、日本という小さな国の中での違いを気にするよりもっと広い世界に目を向けるべきだぜよ、ってところです。

満州帝国とは~その九、甘粕正彦

 前回に引き続き人物伝です。今日取り上げるのは映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じたことで有名な、満州の夜の帝王と呼ばれた甘粕正彦です。
 甘粕は大学受験レベルでの日本史でも大きく取り上げられておりこの科目を受験した人ならばまず誰もが知っているであろう人物で、関東大震災の混乱のどさくさに紛れて無政府主義者の大杉栄とその内縁の妻であった伊藤野枝、そしてわずか六歳の大杉の甥をその思想信条が将来政府に仇なすであろうことから甘粕の独断で殺害したという、俗に言う甘粕事件の犯人として紹介されています。

 しかしこの甘粕事件については発生した当時からも甘粕正彦が犯人ということ事実は世間から疑問視されていたようで、この連載に使用した資料は最後にまとめて紹介する予定ですが、この甘粕正彦についての資料である去年に出版された佐野真一氏による「甘粕正彦 乱心の曠野」にはその辺りの詳細が詳しく載せられています。

 まず事件発生当時からあった矛盾点として、事件の発端となった大杉らの拉致と殺害に際して甘粕とともに実行した憲兵らは所属で言えば甘粕の部下に当たらず、いくら関東大震災の戒厳令下とはいえ上意下達が厳守されている憲兵組織の指揮系統上、また甘粕自身がこうした憲兵内の軍規に対して忠実な人間であったことから事件に関わった憲兵らを命令することは不可能と見られていました。
 そしてこの事件の甘粕犯人説を否定する決定的な証拠は、戦後になってから発見された大杉らの死亡鑑定書と甘粕の逮捕後から裁判中の供述の食い違いです。甘粕は逮捕後の供述にて取調べ室内で椅子に座っていた大杉の背後から首を絞め殺害し、その後同じ手段で伊藤も殺害したと供述してますが、両者の死亡鑑定書によると執拗な暴行を加えられた上での絞殺となっており甘粕の供述とは明らかに異なっております。

 こうしたことから裁判中も甘粕の弁護士は、真犯人の罪を被ろうとせず真実に基づいた供述をするよう甘粕本人に対して促す質問を繰り返しています。そうした一連の質問の中で、私が最も心を動かされた質問は以下の質問です。

「甘粕大尉、あなたは上杉謙信の部下として川中島の戦いでも活躍した甘粕近江守の末裔であり、勤務には実直でよく部下を可愛がるなど柔和仁慈の者であるあなたがわずか六歳の少年の殺害という残虐な行為を行うとは考え辛く、さらには天皇の名で裁かれる法廷にてわが国の武士道を汚すような虚偽の証言をするはずがない」

 この質問文はさきほどの「甘粕正彦 乱心の曠野」から引用したものですが、整理がつきやすいようにとそのまま引用せずに結構大胆に脚色しております。ちょっと話が外れますがこの質問に出てくる甘粕近江守というのは、今NHKでやっている「天地人」にてパパイヤ鈴木氏が演じている甘粕景持のことで、この人物が甘粕正彦の祖先に当たります。(申し訳ありません。パパイヤ鈴木氏が演じているのは甘粕景継で、この人は甘粕景持の親戚でした。訂正してお詫びします)
 話は戻り弁護士は甘粕に対し大杉、伊藤はともかくとして罪無き子供まで殺したとは考え辛く、誰か部下の罪を被っているのではないのかと再三問い詰めました。これら一連の質問に対して甘粕は「無意識に子供も殺した」と答え続けるものの弁護士の追及はやまず、一時休憩が挟まれた後に甘粕は最後こう答えています。

「大杉、伊藤の両人を殺したのは考えがあったことからです」

 こう述べた後、甘粕はすすり泣きながら続けました。

「部下の者に罪を負わせるのは忍びませんので、ただいままで偽りを申し立てておりました。実際は私は子供を殺さんのであります。菰包みになったのを見て、はじめてそれを知ったのであります」

 この下りは何度読んでも胸がつかえる思いがします。この甘粕の証言の後、では一体誰が大杉の甥を殺害したのかという質問について甘粕はわからないとの一点張りで、最終的には甘粕と共に逮捕された憲兵が実行したと裁判中に供述しすることでうやむやのうちに結論がつけられています。

 こうした経緯がありながらも裁判は結局甘粕の主犯によるものということ決着し、甘粕へは懲役刑の判決が言い渡されて結審しています。そして甘粕は出所後はまるで人目から遠ざけられるように陸軍よりパリへと留学させられた挙句、周り回って満州の関東軍内で謀略を巡らす機関の責任者にもなり、以前の記事にて紹介したように満州事変時に日本領事館へと爆弾を投げ込んでこれを中国軍によるものとして戦火を拡大させ、事変後の満州政府の設立のためにラストエンペラーの溥儀を迎えるなど歴史の暗部で活躍を見せることとなりました。

 そして満州事変後、甘粕は請われて満映こと満州映画協会の理事長となり、映画の「ラストエンペラー」ではこの時の甘粕が登場しています。もっとも映画ではさも悪人のように描かれていますが実態は少し違っていたようで、会社の金を役員が平気で持ち出していた放漫経営を叩き直しただけでなく、日本人社員と中国人社員で大きな差のあった給料額を平等にするなど格差是正に努めていたそうです。実際にこの時満映に属していた森重久弥氏や山口淑子氏は甘粕について好意的な証言を寄せており、無口で一見恐そうな印象(この時の写真を見ると私からしても恐そうに思える)をしているが周囲に対しては人一倍気を使う人で非常に優しい人物であったと述べています。
 またこの満映時代、甘粕は自身の運命から思うところがあったのか、日本で左翼活動をしていたとして社会から弾き出されていた運動家等を非常に多く満映に招聘しています。

 最終的には終戦と共に甘粕は幼い子供を残して青酸カリを含んでの自殺を遂げていますが、「甘粕正彦 乱心の曠野」の書評にて佐藤優氏は、忠実であるがゆえに歴史に一生を翻弄された官僚だと、多少自分と重ねるような評価をしているのかもしれませんがこの意見に私も同感です。先ほど挙げた矛盾点からわかる通り、専門家らの間で甘粕事件の犯人は甘粕ではないだろうと見られているものの、現在も中高の教科書にて凄惨な事件を起こした冷血な犯人として書かれているというのには不憫に思えます。

2009年4月11日土曜日

ゲームの体験版について

 いろいろ書きたい内容がいっぱいあるのですが昨日に八時間も寝たにもかかわらず今とてつもなく眠いので、今日もちょっと短めの記事にします。明日一気に書かないとなぁ。

 さてゲーム業界は規模的には90年代末期が最も栄えており、以前にも書きましたが当時は中には冗談とも思えるような奇抜なゲームが出るなどいろいろな意味で活力に満ちた時代でした。私はやったことはないのですが「モンスターファーム」というゲームでは通常に市販されている音楽CDからゲームで使用するキャラクターを作るという発想力に満ちたゲームもこの時に出ており、何か新しいジャンルに挑戦するという意味ではこの時期が一番挑戦されていた気がします。

 何故この時代のゲーム業界がそれほどまでに意欲的だったかといえば、プレイステーションやセガサターンといったゲームハードが登場することによってそれまで作りたいと思ってもハードの制約上作れなかった内容がある程度実現しやすくなった上、現在に連なるプレイステーション2の時代のようにゲームの一本当たり開発費が今ほど高騰しておらず、何か新しい分野に挑戦しやすい時代だったからだと思います。

 そういう時代だったゆえか、今思うと当時はいろんなところでいろんなゲームの体験版が溢れていたように思えます。最近ゲーム雑誌を買っていないので今はどんな具合なのかはよくわかっていないのですが、当時はそういったゲーム雑誌についていたり、ゲーム業界のイベントなどでは体験版CDが配られていたり、中には通常販売されているゲームにその会社で製作中のゲームの体験版が付いていたりすることが多かった気がします。
 最後の例の体験版が付属していた例である意味有名なのは「ブレイブフェンサー武蔵伝」というスクウェアのゲームで、このゲームには当時に全盛期を謳歌していたファイナルファンタジー8の体験版が付属されていたため一部のユーザーなどからは「FF8の体験版に武蔵伝が付いている」とまで言われましたし、実際に私の周りでもFF8の体験版目当てでこのゲームの購入を検討していたのが結構いました。

 当時は私は中学生でしたが、あまりお金もないということで友人同士で集まった際にゲームをするときはよくこういった体験版のゲームでも盛り上がって遊んでいました。特に一番盛り上がったのは「エアガイツ」というスクウェアの格闘ゲームの体験版で、製品版に対して体験版では使用キャラが三人に限定されるのですがそんなのお構いなしに延々とその三キャラで対戦を繰り返していました。またこのエアガイツに限らなくとも雑誌の付録ゲームでもそこそこ時間を潰したりして遊んでいましたが、残念ながら私に限って言えばそうした体験版が製品版の購入につながった例は全くといっていいほどありませんでした。
 そんなんだから、こうした体験版って少なくなったのかなぁ。

2009年4月10日金曜日

学部定員数について

 先ほど友人と一緒に夕食をしながら話をしてきたので、今日はちょっとその際に出てきた大学の定員数にについて話をします。

 国立はともかく私立大学では大学学部の定員は自由に決められると私の周りでは信じている方が多いのですが、実際はそうではなくて学部の定員数というのはあらかじめ国によって決められています。特に最近問題になっている医師不足問題の発端となったのは当時の文部省が社会にいる医者の数が多すぎると、実態的には当時でも不足していた上に現在のように高齢化が進んで需要が高まることが予想されていたにもかかわらず、医学部の定員数を増員するどころか政府は逆に毎年徐々に削減していったために、いわば人災的に引き起こされたという面も少なからずあります。

 その一方でこれは私が現役の歯科医の方から直接聞いた話ですが、現在歯科医は逆に社会の中で過剰に有り余っている状況で、歯学部を出た若者がいたとしても既に開かれている医院では新たに人員を雇う余裕がなく、かといって自分で医院を開設しても他にも医院は有り余っているのでとても生活することが出来ず、続々と社会に出る歯学部の卒業生たちはどうしようもない状況に追い込まれているそうです。
 この話をしてくれた歯科医の方は文部科学省の役人たちは需要予測からこうなることがわかっていたはずなのに、歯学部の定員を減らしていかなかったばかりに歯科医ならやっていけると勘違いした若者を路頭に迷わせてしまっていると激しく怒っていましたが、どうもほかからも伝え洩れる話を聞いていると現実にそのような状況が広がっているらしいです。

 このように大学の定員というのは分野ごとに世に送り出す人材数を決めてしまうので、その時代ごとの需要に合わせる形で対応していかなければ後々の社会に対して大きな悪影響を及ぼしてしまう重要な変数なのです。ですがこの定員、実際のところは先ほどの医師の例の様に将来はおろか現実の状況すらもきちんと把握されずに決められているケースが極めて多いといわざるを得ません。
 まずその代表格は理系学生の定員です。現在工業分野といった方面の理系の人材が日本で不足し始めていますが、この問題を解決するためとして理系学部の定員数の増加や文系学生より費用のかかりやすい授業費の補助といった対策は私見ではあまり行われていないように思えます。もっとも理系学生については最近の中高生の理科離れの影響もあって一部の大学では定員割れも起きているそうなので、定員を増やしたからといって人材数が増える可能性は非常に低いと言わざるを得ませんが。

 ちなみに理系学部の増員という話では、2007年に大阪外語大学が大阪大学に統合される際に外語学部の定員が減らされ、その減らされた分だけ理工学部の定員が増員されたという話を聞いたことがあります。これは各大学ごとに定員数を政府が縛っているため、大阪大学が大阪外語大を統合することで外語大の定員数を得たことにより行えた、言うなれば同大学内の定員調整といったところです。大阪外語大出身の私の先生はこの時に滅茶苦茶怒っていたけど。

 このように学部の定員は文科省がいろんな意味で縛っているので、私立であろうとそうおいそれと増やすことが出来ないそうです。基本的に文科省は定員割れを起こしているいわゆるFランク大学の出現を受けてあまり定員の増員は許可しない方針だそうですが、新たに学部を新設する際の定員増員はまだ認めているため、慶応学部がやりだして以降はいろんな大学で新設学部のラッシュが続きました。
 ただこの学部新設ももちろん文科省の許可がいるのでそう簡単にはいかないのですが、実は「国際~」とか「政策」という名前の付く学部は比較的新設の許可がおりやすいと言われています。というのも文科省が、

「国際性豊かな人材が今後のグローバル時代には必要」
「プランを具体化して実行する人材が日本には不足している」

 という掛け声の元で、このような名前の学部新設を許可しまくっているそうです。そのため中には大学運営のためにまず定員増員ありきで、新設する学部でどのような教育を行うかも何も考えずに学部新設の申請作業を始める大学も少なくないそうです。そのため私が大学受験をする際に予備校の講師から国際と名の付く学部には気をつけろと注意を受けましたが、改めてこのような学部の実情を見るにつけて講師の助言は間違っていなかったと確信しています。まぁ私の行った文学部もあまり人のこと言えないんんだけど。

2009年4月9日木曜日

ナポレオンにとっての幸せ

 今日プロ野球チップスを買ってきたらいきなり阪神の金本選手と日ハムの稲葉選手のカード(キラじゃないけど)が出てきてびっくりしました。二人とも昨日の試合で三回もホームランを出しているので、何かとタイムリーなカードの出方でなかなかうれしいものです。
 さて最近は自分でもちょっと固い話ばかり書いていると思うので今日は寓話形式に簡単な記事にしようと、ナポレオンのとあるエピソードを紹介しようと思います。

 ナポレオンとくれば説明もいらないほどの世界史での超有名人物で、何でもある調査によると世界で最も数多くの伝記が書かれてもいる人物だそうです。日本人からするとあまりピンとこないかもしれませんが彼がヨーロッパ、ひいてはアメリカに与えた影響は非常に大きく、現在の人権思想からウィーン条約によって形作られた国家体制など彼がいるかいないかで世界史は全然違ったものになっていたことでしょう。
 そんなナポレオンですが、彼は生粋のフランス人ではなく彼が生まれる前までは独立をしていたコルシカ島の出身で陸軍幼年学校の入学の際にフランス本国へと初めて渡り、当初はフランス語もあまり出来なかったため学校ではフランス人の他の級友らによってよくいじめられていたといいます。

 いじめられたことによるものか元々の性格のものかまではわかりませんが、青春期のナポレオンはあまり同年代の友人らとは深く付き合わず一人で読書するなど自ら周囲と距離を作って生活していたそうです。だからといって大人しい性格だったかといえばそうではなく、教師に対してもあまり従順ではなく反抗的で、何か意見が違えれば誰彼構わずすぐに言い合いを起こしたりと絵に描いた問題児振りを発揮していたそうです。

 そんなある日に学校の授業にて教師が、「どんなことが人間にとって幸福なのか」という問いを発したところナポレオンが真っ先に立ち上がってこう答えたそうです。

「自分の能力を最大限に発揮することこそがその人にとって最大の幸福です」

 当時の彼の状況と後年の有り余るばかりの軍事的な才能と政治上での立ち回りを考えるにつけ、当時からナポレオンは自分自身に対して相当な自負心などがあってこのような発言をしたのだと私は思います。はからずも彼は少年時代に教師から、「君はギリシャ時代に生まれてくればよかったのにね」とまで言われた時代にあって、ただの一軍人から皇帝という地位にまで上り詰めるに至りました。

 以前にもこのブログで私は人間は仕事を為すことを通して初めて自分自身に対してプライドを持つことが出来るのではと主張しましたが、仕事を為すためには能力が必要で、能力を蓄えてもそれを発揮する場所がなければ仕事を為すことはできません。
 そういう意味でこのナポレオンの発言というのは地味に人間の幸福について的を得た発言のように思え、私に欧州史の中でナポレオンを一番好きな偉人とさせている最大の要因になっているわけです。

2009年4月8日水曜日

麻生邸見学ツアー逮捕事件について

 先月から今月にかけての一ヶ月間、自分にしては珍しく大量に本を読んでいました。よく人から、「それだけいろいろ知っているのだからいつもたくさん本を読んでいるのでしょ」などということをよく言われるのですが実際には私は恥ずかしいくらい本をあまり読まない人間で、18歳くらいの頃に知り合った友人らの読書量と比べて自分が全然本を読んでいなかったのを我ながら呆れたくらいです。
 そんな自分が毎月読んでいるのは文芸春秋くらいなのですが、なんか体調が悪かったのも影響してかこの一ヶ月間は自分にしては大量の本をさばけたのでちょっと記録がてらに下記に羅列します。

・「文芸春秋四月号」(文芸春秋社)
・「徹底抗戦」 堀江貴文著(集英社)
・「日本の10大新宗教」 島田裕巳著(幻冬社新書)
・「<満州>の歴史」 小林英夫著(講談社現代新書)
・「未熟者」 藤川球児著(ベースボール・マガジン社新書)
・「関ケ原合戦・あの人の「その後」」 日本博学倶楽部(PHP文庫)
・「日本史ライバルたちの「意外な結末」」 日本博学倶楽部(PHP文庫)
・「ジャーナリズム崩壊」 上杉隆著(ジャーナリズム崩壊)
・「第三次世界大戦 左巻、右巻」 田原総一朗、佐藤優(アスコム)
・「排除の空気に唾を吐け」 雨宮処凛(講談社現代新書)

 四月十日にはまた文芸春秋の五月号が発売されるので、今日の段階で最後の「排除の空気に唾を吐け」を読み終えられたのがよかったです。まぁ量こそ十一冊ありますが、読みやすい新書ばかりなのであんまりたいした事はありませんが。
 さてこの中でどれが一番面白かったといえば個人的には上杉隆氏の「ジャーナリズム崩壊」がそうで、前から興味を持ちながらようやく今回手にとったのですが、記者クラブと日本のジャーナリズムの抱える問題についてこれほどわかりやすい本は今までになく改めて言論について考えさせられるいい刺激になりました。

 なのでこの本について延々と書いてもいいですが、実は今日の本題は上杉氏ではなく最後の本の著者である雨宮処凛氏についてです。私が雨宮氏を知ったのはこれまた今月に読んだ「第三次世界大戦 右巻」の中で、私も尊敬している佐藤優氏が田原総一朗氏との対談にて雨宮氏をべた褒めしているのを見てからでした。別に佐藤氏が批判してばっかであまり他人を誉めない人だとは思っていませんが、この対談本の中で雨宮氏への言及が明らかに他の人とは違って熱があり、そうして誉めているのを見て私も興味を持って上記の本を手にとったのですが、佐藤氏が誉めるだけあって「排除の空気に唾を吐け」にて雨宮氏が取り上げた内容は素晴らしく、是非この本は他の人にも読んでもらいたい本です。

 この本の大まかな内容は、去年末から問題になっている派遣切りに遭った人などといった社会的貧困者たちの生々しい現状です。ここ数年で餓死した人の生活記録や派遣難民の現状、そして私も知らなかったのですが池袋通り魔事件の犯人の経歴など、中には目をそらしたくなるほどの苦しい現実などが描かれており、これまでの貧困に対する自分の価値観も一気に引っくり返されるほどの迫力があります。
 その中でも特筆して面白いのは、作者の雨宮氏も是非しっかり読んでもらいたいと前書きで述べている「イラクで料理人として働いた安田純平さん」の章で、貧困と戦争がどれだけ密接に関係しているのか、今後の戦争がどのような形式になるのであろうかという面について非常に示唆に富んだ内容でした。

 そんな雨宮氏のことを佐藤氏は前述の対談本の中で、これまで統計上の数字でしか貧困を考えてこなかった自分らに対し雨宮氏はその目で見た現実や生の心境を話しているのがほかと違うところだと評していますが、私としても同じような感想を持ちました。その上で佐藤氏は続けて、実はここからが本番なのですが下記にリンクを貼った動画を是非見てください。

10/26 麻生邸宅見学に向かおうとしたら逮捕(youtube)

 この動画は総額62億円もの麻生首相の自宅を一度見に行ってみようと有志らが企画してあらかじめ渋谷署に確認を取った上で見学ツアーを行ったところ、突然路上で主催者ら三人が逮捕されることとなった顛末を収めた動画です。見てもらえばわかりますがそれこそ何の前触れもなく突然、しかも路上にて逮捕されることとなった方らが無理やり組み伏せられており、それこそ何かの映画の撮影かとも見まごうかのような強引な逮捕の仕方です。しかもツアーを行っていた方らは別に街宣車を繰り出しているのでもなければ手に鉄パイプなどといった凶器を持っているわけでもなく、詳しい経緯を説明している「麻生でてこい!!リアリティツアー救援会ブログ」で公開されている渋谷署との違法性の有無を尋ねる動画を見るにつけこれほどの逮捕劇が繰り広げられる理由が浮かびません。

 佐藤氏も何故この事件をマスコミはどこも取り上げないのだと激しく憤っていますが、なんでもこのツアーに関わっていた雨宮氏から佐藤氏へと事件直後に連絡があって、佐藤氏経由で鈴木宗男氏や亀井静香氏らが逮捕者の解放するようにと動き、それらが影響したかはどうかはともかく逮捕者らはその後無起訴で釈放されたそうです。こう書いている自分も今の今までこんなことがあったなんて全く知らず、いつの間にか日本はやりづらい国になったのだといろいろな意味でショックを受けました。

 自分は別に警察や公安が市民の味方だと本気で信じているわけではありませんが、今の今までここまで露骨にやってくるとは思ってもいませんでした。他の方らもいろいろ述べていますが、一体今はどんな時代なのかと考えさせられた事件でした。

2009年4月7日火曜日

満州帝国とは~その八、石原莞爾

 大分ブランクが空いての連載再開です。正直に言って私自身もこの連載に少し飽きてきているところがあり先週に展開したインドの旅行記を優先させたくらいです。もっともこれからは時系列的な話から開放されてトピックスを絞って解説できるので、しばらくしたらまたやる気が出てくると自らに期待はしていますが。
 そういうわけで、今回から紀伝体調に人物を絞って解説を行っていきます。その栄えある第一回目はまさに満州帝国の生みの親こと石原莞爾についてです。

 この石原莞爾については有名人ということもあって、私がここで多くを語らなくとも情報が数多く溢れている人物なの今日はちょっと加工した情報を展開してみようと思うのですが、まず生まれは東北の山形県で小さい頃の家は非常に貧乏だったそうです。しかし石原は幼少時より頭脳は明晰で数えで16歳の頃に東京の陸軍幼年学校に進学をするのですが、なんでも上京して初めて図書館という施設があることを知り、「タダで本が好きなだけ読めるのか」と言って貪る様に読書をしたそうで、向学心は幼少より相当に高かったことが伺えます。

 そうして士官学校を卒業後、連隊に務めながらエリート選抜学校でもある陸大にも入学し、その後回り回って満州にある関東軍参謀として駐在中、あの満州事変を板垣征士郎と企図、実行し、短期間であの広大な満州全土を占領してしまうなど戦果的には大きな功績を残すものの、その後戦線が広がった日中戦争には不拡大の姿勢を見せたことによりかねてから仲の悪かった東条英機によって左遷を受けています。
 この東条との関係ですが、同じ陸軍内に在籍しておきながらそれこそ犬猿の仲と言うほどに悪かったそうで、両者のエピソードから伺える性格もまるで正反対なので無理もないことなのですが、なんでも部隊内の訓練時の際も正反対で、東条は前例に倣って一から十まで順序良く規律正しくなぞるように行進を行うよう指導したのに対して石原は、「いつも通りやれ」という一言で済ませていたそうです。

 また石原、東条の両者の元で部下を経験したことのある士官によると、その士官が陸大を受験しようと勉強し始めると石原はその士官の仕事の負担を途端に増やしたそうです。石原に言わせると幹部になればそれだけの仕事量をこなさねばならなくなるので、仕事量が増えたことで勉強時間が取れなくなって合格できないのであれば始めから受験しない方がいいという考えの元で仕向けたそうですが、これに対して東条の場合は逆に仕事の負担を減らして勉強時間を持たせるばかりかよく自ら相談に乗ってきたそうで、その士官によると人間的な温かみで言えば明らかに東条の方が上だったと述べていますが、こんなところまで正反対なんだから仲がいいわけないでしょうね。

 ここで本筋の満州についての話に戻りますが、石原はいわゆる「世界最終戦争論」という独自の理論こと未来予測を立て、将来に日本と覇権を争い必ず戦うであろうアメリカに対抗するために資源のある満州を今のうちに必ず占領しなければならないという目的の元で満州事変を計画したと言われています。この満州への石原の野心自体はいろんなところでも言われている意見なのですが、そうした一般の満州事変の解説において石原の最終戦争論は全く独自のかつ斬新な構想、といった内容の言葉をよく見受けるのですがこれについては私は疑問視しています。

 というのも佐藤優氏によると、一次大戦後は石原の唱えた最終戦争論のようないわゆるハルマゲドン説のような主張が世界各国で展開されており、石原独自の意見というよりは当時の大恐慌下において流行した思想だったそうです。この佐藤氏の話を私も細かく確認こそしていませんが、ちょっと前になくなったサミュエル・ハンチントン氏が出した「文明の衝突」のように、異なる文明同士が最後に大きく衝突することで後の世界が大きく変わるというような意見はそれこそ神話の時代から現在に至るまでよくあることなので、世界最終戦争論は石原独自の意見というより、石原が持った当時あった意見というのが本当のところなんじゃないかと私は思います。別にアメリカと衝突することを予測したのは当時の日本でも石原に限るわけじゃないんだし。

 ついでにもう少し話を進めると、石原が最終戦争論を持ったのは彼の信仰していた日蓮宗系の国柱会の影響があったとよく言われていますが、戦前の新興宗教の系統で日蓮宗の流れを受けて設立されたものはほぼすべてといっていいほど軍国下の日本政府に対して肯定的な態度を取っています。これなんかまた別の記事に細かく書いても面白いと思うのですが、当の日蓮自体は元寇を予言して日本は敗北すると言いまわったせいで流刑にまであっており、元寇での神風を期待した日本政府に対して日蓮宗系の宗派が協力的だったというのはなかなかに皮肉に思います。

 そんな石原ですが戦時中に東条と反目して左遷を受けたことにより、ある意味日本を最も戦争に引き込んだ最大の張本人であるにもかかわらず、東京裁判では訴追されないばかりか東条らの糾弾を行う立場の証人として出廷しています。この石原の東京裁判における去就については昭和天皇も相当に不快感を覚えていたらしく、「何故石原のような者が証人として(東京裁判に)出廷しているのか」とまで不満を口にしたそうですが、私自身同じ思いがします。