先日従兄弟の子供(12歳)と会った際、こんな会話をしてきました。
「おう○○。お前、ドラクエ9持っとるか?」
「持っとるで」
「どないや、おもろいか?」
「おもろいで」
ドラクエ9とは言うまでもなくこの前発売されたばかりの「ドラゴンクエスト9」のことですが、私は持っていませんが(親父はもう買ったらしいが)やっぱりなんだかんだいって現代の子供は遊んでいるそうです。
今回のドラクエ9は聞くところによると3、4と同じく主人公の性別をスタート時に選べるそうですが、私見ながらドラクエシリーズに限らずRPGのゲームはプレイヤー層に男性が多くいるのが影響しているのか、主人公の性別は男性に固定されていることが多いように思えます。もっともその一方でアクションゲームについて言えばこのところは女性主人公に固定されているのが増えてきているように思え、また当初でこそ男性専用ジャンルの感のあった恋愛ゲームも女性向けのタイトルのが逆転してきているのではないかというほど増えてきているように見えます。
別にここでジェンダー論を振りかざすわけじゃありませんが、こうしたゲームの世界の男性と女性という二つの性別の立ち位置などに社会的背景、影響というものが時代ごとに表出しているのではないかと私は見ています。単純に現代のゲームにおいて女性主人公が増えてきてのも現実の影響じゃないかと言いたいのですがその一方、もう一つの第三の性についてはさすがにまだ主人公キャラででてくるのはあまり見受けられません。この第三の性と言うのはもうわかってるでしょうが、いわゆる同性愛者のことです。
それこそRPGゲームのスタート時の性別選択が、「ハードゲイ」と「ソフトゲイ」の二択しかないゲームなんてまず無いでしょうし、あったとしてもキャッチフレーズが昔のテイルズみたいに「君と響きあうRPG」とか言ったら一体何と響きあうのかいらない想像とかしてしまいます。別にこういうゲームを期待しているわけじゃありませんが、近年の女性の社会進出が昔には考えられなかったことを考えると、いつかは出てくるのかなぁとこの前にしみじみと考えてしまいました。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年8月2日日曜日
2009年7月30日木曜日
映画「ウォルター少年と、夏の休日」について
・ウォルター少年と、夏の休日(ウィキペディア)
この映画を初めて見たのは、確かイギリスから帰国する飛行機の中だったと思います。私は今でもそうですがそれほど映画を見る人間ではなく、この映画も長い飛行機旅にへとへとになって時間が潰せるのならと思ってしぶしぶ見たような感じだったのですが、見終わってみるとそれほど強烈に面白いわけではなかったのですが何故だが深く心に残るような不思議な感覚がありました。
その後、今年か去年かは忘れましたがちょっと前にこの映画がテレビのロードショーにて放送されました。さっきにも書いた通り私はほとんど映画を見ない人間で、テレビのロードショーに至っては以ての外というくらいに見ないのですが、何故かこの時だけはこの映画を初めから最後まで見ていました。
そんな「ウォルター少年と、夏の休日」という映画ですが、あらすじを簡単に説明すると以下の通りです。
主人公のウォルター(12歳くらい)は母親が資格取得の講座を都市で受ける間、半ば強制的に田舎にある大叔父の家に預けられることとなった。このウォルターの母親というのはあまりしっかりした人間ではなく、資格取得とは名ばかりで実際は自分ひとりで愛人と会うためにウォルターを預けるつもりで、また預ける叔父というのも実際に血のつながりがあるかどうかわからない人物だった。またウォルターを預ける前に母親は彼に資産家だと言われる叔父の資産の隠し場所を密かに見つけるようにと言い含め、なんのことはない、ウォルターを預けるのもそれが本当の目的だった。
そうしてウォルターは大叔父と言われる二人の老人とわけの分からないままに暮らすこととなったが、その二人の老人は資産家だと言われるものの無愛想で頑固な性格で、財産目当てでやってくる人間からセールスマンまで毎日玄関先で発砲して追い返す、破天荒な老人だった。
そんな破天荒な老人たちと暮らしている間、ウォルターはあることがきっかけに二人の過去を徐々に知ることとなる。二人は若い頃に一攫千金を狙ってアフリカに渡り、傭兵をやり、砂漠の王女と恋に落ち、王女をつけねらう道楽息子の取り巻きと王女を奪い合うといった御伽噺のような二人の過去を知り、最初はわけの分からない間だった相互の距離は徐々に縮まっていったまさにその時、母親が愛人を連れてウォルターを引き取りに来るのであった。
というようなお話です。
話のコンセプトとしては素知らぬ仲から徐々に打ち解けあうというよくある王道パターンなのですが、この映画がほかのものよりよかったと私が思う点は、主人公の少年の心の内の変化ではなく、彼と一緒に暮らす二人の老人の過去が徐々に分かっていくという、言わば打ち解け合う相手役の心情と過去にスポットを当てた点だと思います。そうした点もさることながら、駄目な母親と今まで全くの他人だった二人の老人のどっちに心を寄せるかという主人公の心の動きも見逃すことができません。
ここで唐突に話は飛躍しますが、私は基本的に子供というのは逃げ場がないと考えています。親は子供が嫌いになれば捨てることができますが、子供は親を捨てることはもとより変えることもできません。それこそ真っ当な両親の元に生まれていれば何も辛い思いをせずに成長してゆけますが、以前より問題となっている児童虐待などを行う親の元に生まれてしまえば子供は逃げることもできず、自身の生存をひたすら耐えることしかできないでしょう。
そんな子供にとって両親以外の大人、それも比較的近しい親類というのは数少ない重要な逃げ場の一つだと思います。私は周りにも自慢できるようないい両親の元に生まれましたが、そんな両親との間でもやっぱり反抗期の11歳から17歳まで(やけに長いな)はいろいろと溝が出来て大変な時期がありました。そんな時、私の叔父や叔母というのはいろいろと揉め事や悩みの相談に乗ってくれたりもすれば、ウォルター少年のように夏休みに自宅に招いてくれて自分の家とは違う環境で生活をさせてくれ、成人となった今になって思えばああした体験が一種の緩衝材のような役割を果たし、致命傷的な問題への発展を防いでくれていたように思えます。
子供は基本的には親の元で生活するにしても、時折その環境下から一時的にでも抜け出す逃げ場というものが私は非常に重要だと思います。その逃げ場となるのは友人でもペットでもいいのですが、出来れば親と子供の間の目線に立てる祖父母や叔父叔母がなるのが理想的な気がいます。
私にとっては叔父と叔母がまさにその理想的な逃げ場だったのですが、今朝その叔父が亡くなったということをお袋から連絡されました。肝臓が悪くなって酒は飲むなと医者から言われていたのに、死んでもいいから酒が飲みたい鹿児島人らしく全く言うことを聞かずに飲んでばっかだったそうです。叔父らしいといえば非常に叔父らしい最期だったのですが、この報せを聞いて自分の中では一つの少年時代が完結したような感傷を覚えました。
今の私は成人しているだけでなく両親とも円満にやっているので「逃げ場」というものは必要ないのですが、今までその役割を果たしてくれた叔父には感謝の気持ちに堪えません。そして、今度は自分がそのような子供らの頼られる「逃げ場」にならねばと強く思うわけです。
この映画を初めて見たのは、確かイギリスから帰国する飛行機の中だったと思います。私は今でもそうですがそれほど映画を見る人間ではなく、この映画も長い飛行機旅にへとへとになって時間が潰せるのならと思ってしぶしぶ見たような感じだったのですが、見終わってみるとそれほど強烈に面白いわけではなかったのですが何故だが深く心に残るような不思議な感覚がありました。
その後、今年か去年かは忘れましたがちょっと前にこの映画がテレビのロードショーにて放送されました。さっきにも書いた通り私はほとんど映画を見ない人間で、テレビのロードショーに至っては以ての外というくらいに見ないのですが、何故かこの時だけはこの映画を初めから最後まで見ていました。
そんな「ウォルター少年と、夏の休日」という映画ですが、あらすじを簡単に説明すると以下の通りです。
主人公のウォルター(12歳くらい)は母親が資格取得の講座を都市で受ける間、半ば強制的に田舎にある大叔父の家に預けられることとなった。このウォルターの母親というのはあまりしっかりした人間ではなく、資格取得とは名ばかりで実際は自分ひとりで愛人と会うためにウォルターを預けるつもりで、また預ける叔父というのも実際に血のつながりがあるかどうかわからない人物だった。またウォルターを預ける前に母親は彼に資産家だと言われる叔父の資産の隠し場所を密かに見つけるようにと言い含め、なんのことはない、ウォルターを預けるのもそれが本当の目的だった。
そうしてウォルターは大叔父と言われる二人の老人とわけの分からないままに暮らすこととなったが、その二人の老人は資産家だと言われるものの無愛想で頑固な性格で、財産目当てでやってくる人間からセールスマンまで毎日玄関先で発砲して追い返す、破天荒な老人だった。
そんな破天荒な老人たちと暮らしている間、ウォルターはあることがきっかけに二人の過去を徐々に知ることとなる。二人は若い頃に一攫千金を狙ってアフリカに渡り、傭兵をやり、砂漠の王女と恋に落ち、王女をつけねらう道楽息子の取り巻きと王女を奪い合うといった御伽噺のような二人の過去を知り、最初はわけの分からない間だった相互の距離は徐々に縮まっていったまさにその時、母親が愛人を連れてウォルターを引き取りに来るのであった。
というようなお話です。
話のコンセプトとしては素知らぬ仲から徐々に打ち解けあうというよくある王道パターンなのですが、この映画がほかのものよりよかったと私が思う点は、主人公の少年の心の内の変化ではなく、彼と一緒に暮らす二人の老人の過去が徐々に分かっていくという、言わば打ち解け合う相手役の心情と過去にスポットを当てた点だと思います。そうした点もさることながら、駄目な母親と今まで全くの他人だった二人の老人のどっちに心を寄せるかという主人公の心の動きも見逃すことができません。
ここで唐突に話は飛躍しますが、私は基本的に子供というのは逃げ場がないと考えています。親は子供が嫌いになれば捨てることができますが、子供は親を捨てることはもとより変えることもできません。それこそ真っ当な両親の元に生まれていれば何も辛い思いをせずに成長してゆけますが、以前より問題となっている児童虐待などを行う親の元に生まれてしまえば子供は逃げることもできず、自身の生存をひたすら耐えることしかできないでしょう。
そんな子供にとって両親以外の大人、それも比較的近しい親類というのは数少ない重要な逃げ場の一つだと思います。私は周りにも自慢できるようないい両親の元に生まれましたが、そんな両親との間でもやっぱり反抗期の11歳から17歳まで(やけに長いな)はいろいろと溝が出来て大変な時期がありました。そんな時、私の叔父や叔母というのはいろいろと揉め事や悩みの相談に乗ってくれたりもすれば、ウォルター少年のように夏休みに自宅に招いてくれて自分の家とは違う環境で生活をさせてくれ、成人となった今になって思えばああした体験が一種の緩衝材のような役割を果たし、致命傷的な問題への発展を防いでくれていたように思えます。
子供は基本的には親の元で生活するにしても、時折その環境下から一時的にでも抜け出す逃げ場というものが私は非常に重要だと思います。その逃げ場となるのは友人でもペットでもいいのですが、出来れば親と子供の間の目線に立てる祖父母や叔父叔母がなるのが理想的な気がいます。
私にとっては叔父と叔母がまさにその理想的な逃げ場だったのですが、今朝その叔父が亡くなったということをお袋から連絡されました。肝臓が悪くなって酒は飲むなと医者から言われていたのに、死んでもいいから酒が飲みたい鹿児島人らしく全く言うことを聞かずに飲んでばっかだったそうです。叔父らしいといえば非常に叔父らしい最期だったのですが、この報せを聞いて自分の中では一つの少年時代が完結したような感傷を覚えました。
今の私は成人しているだけでなく両親とも円満にやっているので「逃げ場」というものは必要ないのですが、今までその役割を果たしてくれた叔父には感謝の気持ちに堪えません。そして、今度は自分がそのような子供らの頼られる「逃げ場」にならねばと強く思うわけです。
三国志の主人公は誰だ?
三国志の主人公が誰なのかと聞いたら、恐らく大半の人は劉備玄徳だと答えるでしょう。しかしこの三国志、読んでみると分かりますが前半に至っては劉備の出番は非常に少なくむしろ曹操が主人公なんじゃないかと思うくらいに彼のことばかり書かれています。それでも中盤になってくると劉備とその軍団の描写が完全に中心になるのですが、後半に入るところで劉備は死んでしまい、バトンタッチとばかりにそれからは諸葛亮がほぼ主人公として描かれていきます。
後半の諸葛亮へのバトンタッチは劉備が死んじゃうのでまだわかるにしても、何故前半部は劉備ではなく、それも本来善玉の劉備の敵役となるべき悪玉の曹操の記述が多いかですが、これはひとえに実際の歴史が深く影響しております。
三国志は後漢王朝が滅び始めるところから中国が三国に分裂した三国時代へと移り、最後に晋という次の統一王朝へと移るまでのお話です。その晋は三国のうちの魏、曹操の一族が建国した国を母体として成立した国家で、王朝の移り変わりで見るならば統一こそしていないものの歴史的には魏が正統な王朝として現在でも扱われております。
ところが三国志は小説として成立する以前から講談家が話を大衆に聞かせると、どんなところでも劉備に人気が集まって曹操は逆に不人気だったそうです。そのため三国志の作者の羅貫中は敏感に空気を読んで劉備を主人公に、蜀を正統な王朝のようにして話を組み立てたのですが、それだと最後まで貫き通した場合にはやっぱり実際の歴史との間に無理が出てきてしまうため、後漢末の群雄割拠だった時代からやや勢力がまとまって華北をほぼ曹操が統一するまでは曹操が主人公かのように描かれたのだろうと各評論家より言われております。
そういう意味では三国志の前半においてはその登場数といい、明らかに曹操が主人公としてだということになります。私の見方では始まりから官渡の戦いまでの前半部の主人公は曹操で、官渡の戦い後から劉備が大敗する夷陵の戦いまでの中盤の主人公が劉備で、劉備の死からその本人が死ぬまでの後半部の主人公が諸葛亮だと考えております。ちょっと下にまとめると、
前半:始まり~官渡の戦い
主人公:曹操
中盤:官渡の戦い~劉備の死
主人公:劉備
後半:劉備の死~諸葛亮の死
主人公:諸葛亮
エピローグ:諸葛亮の死~終わり
主人公:該当者なし
という具合に見ております。
ちなみにこれは話を大まかに三つに分けていますが、前半後半の二つに分けるとしたらちょうど中間点に当たる場面はこの前やってた「レッドクリフ」の「赤壁の戦い」だと思います。
三国志は話全体で見れば確かに劉備が主人公として描かれているのですが、前半部の主人公なだけあって曹操も敵役でありながらむしろりりしく描かれている場面も少なくありません。一見すると冷酷で酷薄な性格に見える曹操ですが(実際にそうなんだけど)、不思議と彼の元にやってきた武将らはほとんどと言っていいほど彼を裏切っていません。典偉や許猪はもとより、賈詡や張遼といったそれまで何度も主君を変えている人間も曹操の下では最後まで忠節を尽くしております。
また曹操が一時関羽を部下にした際も関羽へ異常なくらいに愛情を注ぎ、彼が辞去する際には最初こそ別れの挨拶をしようとする関羽との面会を断って暗に引きとめようとしたものの、
「一国の宰相として、君を快く送ってやろうとしなかったのを恥ずかしく思う」
と述べて、最終的には追っ手も出さずに彼を劉備の元へ走らせております。
恐らく日本人からしたら冷酷な一方で清々しいまでのさわやかさを持つ曹操のこの二面性がたまらないのだと思います。私自身も曹操贔屓の人間ですが、中国人には前にも言いましたがこれでもないかと言うくらいに嫌われております。単純な当て推量ですが、日本人には魅力的に映る曹操の二面性は逆に中国人には嫌悪の対象なのかもしれません。それだともし三国志が日本で小説ととして成立していたら、曹操が主人公で劉備が敵役になっていたのかもしれません。その場合だと諸葛亮と司馬懿のキャラも立ち変わるのかな、お互いにビームを撃てるのは共通してるけど。
後半の諸葛亮へのバトンタッチは劉備が死んじゃうのでまだわかるにしても、何故前半部は劉備ではなく、それも本来善玉の劉備の敵役となるべき悪玉の曹操の記述が多いかですが、これはひとえに実際の歴史が深く影響しております。
三国志は後漢王朝が滅び始めるところから中国が三国に分裂した三国時代へと移り、最後に晋という次の統一王朝へと移るまでのお話です。その晋は三国のうちの魏、曹操の一族が建国した国を母体として成立した国家で、王朝の移り変わりで見るならば統一こそしていないものの歴史的には魏が正統な王朝として現在でも扱われております。
ところが三国志は小説として成立する以前から講談家が話を大衆に聞かせると、どんなところでも劉備に人気が集まって曹操は逆に不人気だったそうです。そのため三国志の作者の羅貫中は敏感に空気を読んで劉備を主人公に、蜀を正統な王朝のようにして話を組み立てたのですが、それだと最後まで貫き通した場合にはやっぱり実際の歴史との間に無理が出てきてしまうため、後漢末の群雄割拠だった時代からやや勢力がまとまって華北をほぼ曹操が統一するまでは曹操が主人公かのように描かれたのだろうと各評論家より言われております。
そういう意味では三国志の前半においてはその登場数といい、明らかに曹操が主人公としてだということになります。私の見方では始まりから官渡の戦いまでの前半部の主人公は曹操で、官渡の戦い後から劉備が大敗する夷陵の戦いまでの中盤の主人公が劉備で、劉備の死からその本人が死ぬまでの後半部の主人公が諸葛亮だと考えております。ちょっと下にまとめると、
前半:始まり~官渡の戦い
主人公:曹操
中盤:官渡の戦い~劉備の死
主人公:劉備
後半:劉備の死~諸葛亮の死
主人公:諸葛亮
エピローグ:諸葛亮の死~終わり
主人公:該当者なし
という具合に見ております。
ちなみにこれは話を大まかに三つに分けていますが、前半後半の二つに分けるとしたらちょうど中間点に当たる場面はこの前やってた「レッドクリフ」の「赤壁の戦い」だと思います。
三国志は話全体で見れば確かに劉備が主人公として描かれているのですが、前半部の主人公なだけあって曹操も敵役でありながらむしろりりしく描かれている場面も少なくありません。一見すると冷酷で酷薄な性格に見える曹操ですが(実際にそうなんだけど)、不思議と彼の元にやってきた武将らはほとんどと言っていいほど彼を裏切っていません。典偉や許猪はもとより、賈詡や張遼といったそれまで何度も主君を変えている人間も曹操の下では最後まで忠節を尽くしております。
また曹操が一時関羽を部下にした際も関羽へ異常なくらいに愛情を注ぎ、彼が辞去する際には最初こそ別れの挨拶をしようとする関羽との面会を断って暗に引きとめようとしたものの、
「一国の宰相として、君を快く送ってやろうとしなかったのを恥ずかしく思う」
と述べて、最終的には追っ手も出さずに彼を劉備の元へ走らせております。
恐らく日本人からしたら冷酷な一方で清々しいまでのさわやかさを持つ曹操のこの二面性がたまらないのだと思います。私自身も曹操贔屓の人間ですが、中国人には前にも言いましたがこれでもないかと言うくらいに嫌われております。単純な当て推量ですが、日本人には魅力的に映る曹操の二面性は逆に中国人には嫌悪の対象なのかもしれません。それだともし三国志が日本で小説ととして成立していたら、曹操が主人公で劉備が敵役になっていたのかもしれません。その場合だと諸葛亮と司馬懿のキャラも立ち変わるのかな、お互いにビームを撃てるのは共通してるけど。
2009年7月29日水曜日
北京留学記~その八、北京の歴史
今日は簡単に、北京の都市としての歴史を紹介します。
現在でこそ中華人民共和国の首都として名だたる国際都市の一つとなっている北京ですが、中国史の大部分においては一地方都市としてであった時代の方がずっと長くありました。都市として成立したのは紀元前の春秋戦国時代で、当時の燕国の首都として成立したのが初めてでした。その当時の北京は「薊」という名称でしたがその次の秦の時代になると「北平」(発音はペイピン)と変わり、しばらくはその名で主に北方の対異民族部隊の中心基地のような役割でその後数世紀を経たところ、その当の対抗相手の異民族であるモンゴル民族が建てた元の時代になると「大都」と改名された上、歴史上初めて中国の首都となりました。その後、何度も壊されてはいますが、現在の紫禁城も元の時代に作られています。
そして元の次の王朝である明の時代になると成立当初は首都は南京へと移ったのですが、なんとも皮肉というか、初代皇帝が逝去して二代目皇帝の時代に入るや北平にいた皇族がクーデターを起こして政権を奪い、明の三代目皇帝として即位したのです。この皇帝は「永楽通宝」で日本でも有名な「永楽帝」なのですが、彼は即位後に首都を南京から自分の本拠地へ移し、その際に「北平」という名を「北京」に初めて改名したのです。その明が滅んだ後もの清の時代も引き続き北京は首都として置かれ、現在にまで引き続かれております。
なお現在の北京の都市としてのデータはというと面積は日本の四国程の広さで、人口は東京都の在住人口とほぼ同じ1300万人だそうです。
余談ですが台湾に政府のある中華民国では首都は「南京」としており、大陸の中華人民国政府も台湾を「台湾省」として一地方だとそれぞれ勝手に主張しあっています。
現在でこそ中華人民共和国の首都として名だたる国際都市の一つとなっている北京ですが、中国史の大部分においては一地方都市としてであった時代の方がずっと長くありました。都市として成立したのは紀元前の春秋戦国時代で、当時の燕国の首都として成立したのが初めてでした。その当時の北京は「薊」という名称でしたがその次の秦の時代になると「北平」(発音はペイピン)と変わり、しばらくはその名で主に北方の対異民族部隊の中心基地のような役割でその後数世紀を経たところ、その当の対抗相手の異民族であるモンゴル民族が建てた元の時代になると「大都」と改名された上、歴史上初めて中国の首都となりました。その後、何度も壊されてはいますが、現在の紫禁城も元の時代に作られています。
そして元の次の王朝である明の時代になると成立当初は首都は南京へと移ったのですが、なんとも皮肉というか、初代皇帝が逝去して二代目皇帝の時代に入るや北平にいた皇族がクーデターを起こして政権を奪い、明の三代目皇帝として即位したのです。この皇帝は「永楽通宝」で日本でも有名な「永楽帝」なのですが、彼は即位後に首都を南京から自分の本拠地へ移し、その際に「北平」という名を「北京」に初めて改名したのです。その明が滅んだ後もの清の時代も引き続き北京は首都として置かれ、現在にまで引き続かれております。
なお現在の北京の都市としてのデータはというと面積は日本の四国程の広さで、人口は東京都の在住人口とほぼ同じ1300万人だそうです。
余談ですが台湾に政府のある中華民国では首都は「南京」としており、大陸の中華人民国政府も台湾を「台湾省」として一地方だとそれぞれ勝手に主張しあっています。
2009年7月28日火曜日
休日の私の服装
八時から見たい番組があるので、今日は久々に気楽に読める記事を書こうと思います。
前にどこかで「日本人から見たアメリカ人の変な行動」という内容の掲示板のログを見たのですがその中に、「アメリカ人はほとんど服装に気を使わない」というコメントも含まれていました。そのコメントに下には同感だという内容で、「あいつらは本当に服装に無頓着だよな。普段は平気で販促用のTシャツとかを着て街中を歩いているよ」という風に続いていました。
このやりとりを見てどう思うかは人それぞれだと思いますが、私の感想はと言うと「やっぱり日本人は服装を気にしすぎるなぁ」というものでした。実は私も休日、ってか家に帰ってきてくつろいでいる今も、胸にでっかく「燃焼系 トルネードステッパー!」と書かれた通販会社の販促用のTシャツを着ていますし、休日ともなるとこのTシャツに加えて下にハーフパンツという組み合わせで自転車を乗り回しております。何気に以前にこのTシャツを着て友人と東京の街中を歩いていると、
「花園さん、なんか僕らジロジロ周りに見られますね」
と友人が言うほどで、特に女子高生からは「ありえない……(゚Д゚;)」ってな顔して凝視されました。
別にこの販促用のTシャツに限らず、私本人は気にしていませんが周りからはよく派手な格好を平気でしていると言われます。Tシャツシリーズだと一番多く着るのはうちのお袋が世界各地から買い付けてきた「HARD ROCK CAFE」のTシャツですが、キワモノだと中国で買ってきた「作好漢」と胸に描かれた真っ赤なものとか、毛沢東がでっかく描かれているTシャツでも着たりします。
でもって昔から暑いのが苦手なので六月ごろから下には絶対に長ズボンは履かず、ハーフパンツ一筋で九月まで過ごすもんだから陰で「短パンの花園」と呼ばれていたそうです。
冬場はこれらに比べればまだ大人しい格好を自分ではしていると思うのですがどうしてこれほどまでに周りからは割と引かれる格好でも私が平気でしていられるかというと、変な格好だと変な目で見られると日本人は思いがちなのかもしれませんが、私は変な格好だろうと何だろうと周りはそんなにいちいち気にしないだろうという風に考えているからです。考えても見れば真夜中の比叡山の山道に自転車押して一人で上り続けていれば確かに変に見られるかもしれませんが、休日に人がたくさんいる中で一人くらいちょっと変わった格好をしても誰も気にも留めないし、記憶にも留めないと思います。
なんか最近の2ちゃんねるの掲示板を見ていると引きこもりだと自称する人らが冗談で、「外に出ようにも着る服が無い」と言っては「ファッションセンターしまむら」の話題へとつながっていくパターンがこのところよく見かけますが、外へ出るのにいちいち服装を着にするという前提なしでは成立しないパターンだと私は考えております。
私自身があまり日本人っぽくない価値観だからかもしれませんがそんなに自分が意識するほど周りからは相手にされてないので、もうすこし日本人は服装に無頓着になってもいいような気がします。少なくとも、我慢大会じゃないんだから夏場に背広を着るのだけはとっとと根絶してもらいたいです。できれば長ズボンもオフィシャルから外してもらいたいけど。
前にどこかで「日本人から見たアメリカ人の変な行動」という内容の掲示板のログを見たのですがその中に、「アメリカ人はほとんど服装に気を使わない」というコメントも含まれていました。そのコメントに下には同感だという内容で、「あいつらは本当に服装に無頓着だよな。普段は平気で販促用のTシャツとかを着て街中を歩いているよ」という風に続いていました。
このやりとりを見てどう思うかは人それぞれだと思いますが、私の感想はと言うと「やっぱり日本人は服装を気にしすぎるなぁ」というものでした。実は私も休日、ってか家に帰ってきてくつろいでいる今も、胸にでっかく「燃焼系 トルネードステッパー!」と書かれた通販会社の販促用のTシャツを着ていますし、休日ともなるとこのTシャツに加えて下にハーフパンツという組み合わせで自転車を乗り回しております。何気に以前にこのTシャツを着て友人と東京の街中を歩いていると、
「花園さん、なんか僕らジロジロ周りに見られますね」
と友人が言うほどで、特に女子高生からは「ありえない……(゚Д゚;)」ってな顔して凝視されました。
別にこの販促用のTシャツに限らず、私本人は気にしていませんが周りからはよく派手な格好を平気でしていると言われます。Tシャツシリーズだと一番多く着るのはうちのお袋が世界各地から買い付けてきた「HARD ROCK CAFE」のTシャツですが、キワモノだと中国で買ってきた「作好漢」と胸に描かれた真っ赤なものとか、毛沢東がでっかく描かれているTシャツでも着たりします。
でもって昔から暑いのが苦手なので六月ごろから下には絶対に長ズボンは履かず、ハーフパンツ一筋で九月まで過ごすもんだから陰で「短パンの花園」と呼ばれていたそうです。
冬場はこれらに比べればまだ大人しい格好を自分ではしていると思うのですがどうしてこれほどまでに周りからは割と引かれる格好でも私が平気でしていられるかというと、変な格好だと変な目で見られると日本人は思いがちなのかもしれませんが、私は変な格好だろうと何だろうと周りはそんなにいちいち気にしないだろうという風に考えているからです。考えても見れば真夜中の比叡山の山道に自転車押して一人で上り続けていれば確かに変に見られるかもしれませんが、休日に人がたくさんいる中で一人くらいちょっと変わった格好をしても誰も気にも留めないし、記憶にも留めないと思います。
なんか最近の2ちゃんねるの掲示板を見ていると引きこもりだと自称する人らが冗談で、「外に出ようにも着る服が無い」と言っては「ファッションセンターしまむら」の話題へとつながっていくパターンがこのところよく見かけますが、外へ出るのにいちいち服装を着にするという前提なしでは成立しないパターンだと私は考えております。
私自身があまり日本人っぽくない価値観だからかもしれませんがそんなに自分が意識するほど周りからは相手にされてないので、もうすこし日本人は服装に無頓着になってもいいような気がします。少なくとも、我慢大会じゃないんだから夏場に背広を着るのだけはとっとと根絶してもらいたいです。できれば長ズボンもオフィシャルから外してもらいたいけど。
2009年7月27日月曜日
私が大事にしている信条
先日に久々に遠方の友人と話してこのブログについて聞いたところ、最近の記事では「Zガンダム風、幸村と家康の対峙」がよかったと褒めてもらえました。まぁあれはマニア向けの記事ですからガンダムネタのわかるその友人には受けるだろうと踏んでいたのですが、この記事とともに先月に書いた「プライドの売り方、買い方」の記事も合わせて褒めてもらったのは正直なところうれしかったです。こっちの記事はそれこそ数年前から私が漠然と思っていたことを記事にまとめた内容でそれだけに力も入っており、他の記事を差し置いてこの記事を挙げてくるあたりさすがだとその友人に感じました。
そうした過去の記事のことは置いといて、今日は私が日ごろから大事にしている信条のいくつかを紹介しようと思います。
人間、長い間生きていればそれこそ昔と価値観が変わったり、その場によって判断を変えたりしながら日々やりくりをしながら生きております。しかしそんな中でこそあまり変動することの無い価値観こと信条というものは個人を識別する上で非常に大事であり、また生き方を決める上でも大きな比重を占めることになります。もちろん私にもそういう信条がいくつかあり、「これだけは何が何でも変えてはならない価値観だ」と大事にしながら生きております。そうした信条をどうして持つに至ったのかを含めて、ちょっとストーリ仕立てにして今日はお送りしようと思います。
1、「周りに流されるな」
いくつかある信条の中で最も早く私の中で固まったのは、この「周りに流されるな」という信条でした。これは私が幼稚園生だった頃、さすがに何をやったのかもう自分でも覚えていませんが何か粗相をやらかして保母さんに怒られた際に私は、「○○君もやっていたよ」と、なんでそんな粗相をしたのかという言い訳を吐いたところ保母さんは、「ほかの人がやっていることなら悪いことでも何をしてもいいの」と言い返してきました。
この時私は幼稚園生ながら確かに言われてみるとその通りだと思い、それ以降は貫徹しているとはさすがに言い切りませんが周りの人間が何をしようと、何と言おうと、自分が間違っていると思う行動に対しては絶対に組みしたりせず、また間違っていると思うものに対しては一人でも批判するように努めてきました。言葉的には「抵抗する態度」と言ったほうが適当かもしれませんが、その後に反抗してなんぼの(決してそんなわけないけど)キリスト教の精神に触れたり、戦前の日本の軍国主義時代の挙国一致体制の欺瞞などを知ったりしてますますこういった態度が強くなっていったように思えます。
良く言えば意思を貫き通すようになり、悪く言えば頑固になってしまった信条ですが、自分には非常に合っている信条だと思って未だに堅持しております。
2、「形より実、建前より本音」
これは小学生の頃に固まった信条ですが、きっかけは塾で読んだある評論からでした。その評論の内容というのは、以下の通りです。
ある冬山で遭難した男が山の中で姉妹が住む家にたどり着いたところ、出迎えた姉妹のうち妹は男に声をかけて元気付け続けたのに対し、姉のほうは男に言葉もかけずに黙々とスープだけを作って男に差し出した。この姉妹の行動を比べると一見どっちもどっちに見えるが、真に価値があるのは姉の行動である。確かに遭難して心細い男を元気付けるのは悪いことではないが、この時の男に真に必要なのは体を温め栄養を取るという行為である。たとえ元気付けようとしなくとも、男にとって必要とされるスープを差し出した姉の行動こそがこの状況では正しいのである。
私がこの評論を読んだ当初は額面通りに受け取らず、そうは言っても元気付けるのも大事なことなんじゃないかなぁと思ってむしろ筆者に対して逆の感情を覚えました。しかしそれから月日が経つにつれ、何故だかこの評論が引っかかってだんだんと筆者のいう通りなんじゃないかと思い直すようになっていったわけです。何でそのように考え方が反転していったのかというと、日々生活しているとみんなあちこちで「あれが必要だ」、「ああすべきだ」などと毎日のように口には出すもののそれを実際に行動に移す、もしくは移そうとする人間となるとほとんどいません。それこそ環境問題を例にとると環境保護が大事だと主張する人間はたくさんいますが、その保護のために実際にボランティアとして働いたりする人となるとほとんどいなくなってしまいます。中にはエコカーに乗り換えたと言う人もいますが、それだったら自転車に乗り変えた方がずっとエコだと言い返してやりたいです。
こうしたことから私は、下手に周りに合わせて心配したり喜んだりする態度を敢えてとらないようになりました。そんな態度をとる必要があるのならその状況下で少しでもプラスになるような行動をとるべきと、見かけにこだわらず実をとことんまで追求し、理解に中途半端な時間をかけるなら建前を用いずとっとと本音と結論をぽんと出すべきだという風になっていったわけです。そういうのが影響しているのか、文化も質実剛健が売りな鎌倉文化が好きなわけです。
そうした過去の記事のことは置いといて、今日は私が日ごろから大事にしている信条のいくつかを紹介しようと思います。
人間、長い間生きていればそれこそ昔と価値観が変わったり、その場によって判断を変えたりしながら日々やりくりをしながら生きております。しかしそんな中でこそあまり変動することの無い価値観こと信条というものは個人を識別する上で非常に大事であり、また生き方を決める上でも大きな比重を占めることになります。もちろん私にもそういう信条がいくつかあり、「これだけは何が何でも変えてはならない価値観だ」と大事にしながら生きております。そうした信条をどうして持つに至ったのかを含めて、ちょっとストーリ仕立てにして今日はお送りしようと思います。
1、「周りに流されるな」
いくつかある信条の中で最も早く私の中で固まったのは、この「周りに流されるな」という信条でした。これは私が幼稚園生だった頃、さすがに何をやったのかもう自分でも覚えていませんが何か粗相をやらかして保母さんに怒られた際に私は、「○○君もやっていたよ」と、なんでそんな粗相をしたのかという言い訳を吐いたところ保母さんは、「ほかの人がやっていることなら悪いことでも何をしてもいいの」と言い返してきました。
この時私は幼稚園生ながら確かに言われてみるとその通りだと思い、それ以降は貫徹しているとはさすがに言い切りませんが周りの人間が何をしようと、何と言おうと、自分が間違っていると思う行動に対しては絶対に組みしたりせず、また間違っていると思うものに対しては一人でも批判するように努めてきました。言葉的には「抵抗する態度」と言ったほうが適当かもしれませんが、その後に反抗してなんぼの(決してそんなわけないけど)キリスト教の精神に触れたり、戦前の日本の軍国主義時代の挙国一致体制の欺瞞などを知ったりしてますますこういった態度が強くなっていったように思えます。
良く言えば意思を貫き通すようになり、悪く言えば頑固になってしまった信条ですが、自分には非常に合っている信条だと思って未だに堅持しております。
2、「形より実、建前より本音」
これは小学生の頃に固まった信条ですが、きっかけは塾で読んだある評論からでした。その評論の内容というのは、以下の通りです。
ある冬山で遭難した男が山の中で姉妹が住む家にたどり着いたところ、出迎えた姉妹のうち妹は男に声をかけて元気付け続けたのに対し、姉のほうは男に言葉もかけずに黙々とスープだけを作って男に差し出した。この姉妹の行動を比べると一見どっちもどっちに見えるが、真に価値があるのは姉の行動である。確かに遭難して心細い男を元気付けるのは悪いことではないが、この時の男に真に必要なのは体を温め栄養を取るという行為である。たとえ元気付けようとしなくとも、男にとって必要とされるスープを差し出した姉の行動こそがこの状況では正しいのである。
私がこの評論を読んだ当初は額面通りに受け取らず、そうは言っても元気付けるのも大事なことなんじゃないかなぁと思ってむしろ筆者に対して逆の感情を覚えました。しかしそれから月日が経つにつれ、何故だかこの評論が引っかかってだんだんと筆者のいう通りなんじゃないかと思い直すようになっていったわけです。何でそのように考え方が反転していったのかというと、日々生活しているとみんなあちこちで「あれが必要だ」、「ああすべきだ」などと毎日のように口には出すもののそれを実際に行動に移す、もしくは移そうとする人間となるとほとんどいません。それこそ環境問題を例にとると環境保護が大事だと主張する人間はたくさんいますが、その保護のために実際にボランティアとして働いたりする人となるとほとんどいなくなってしまいます。中にはエコカーに乗り換えたと言う人もいますが、それだったら自転車に乗り変えた方がずっとエコだと言い返してやりたいです。
こうしたことから私は、下手に周りに合わせて心配したり喜んだりする態度を敢えてとらないようになりました。そんな態度をとる必要があるのならその状況下で少しでもプラスになるような行動をとるべきと、見かけにこだわらず実をとことんまで追求し、理解に中途半端な時間をかけるなら建前を用いずとっとと本音と結論をぽんと出すべきだという風になっていったわけです。そういうのが影響しているのか、文化も質実剛健が売りな鎌倉文化が好きなわけです。
2009年7月26日日曜日
麻生首相のサハリン訪問で失ったもの
昨日にちょっと触れたので、麻生首相が二月に行ったサハリン訪問の経緯とその意義を解説します。
・麻生首相、ロシア大統領と会談 戦後初のサハリン訪問(asahi.com)
リンクの記事は当時の朝日の記事です。生憎細かい部分までの解説がないのですが、ログを残しているだけでもまだマシでしょう。最初に言っておきますが、私はこの時のサハリン訪問は日本の外交的立場上、非常にまずいものだったと考えております。というのもこのサハリンに日本の首相がロシア側の招きに応じて訪問するということはサハリンの領土権、ならびに北方領土の領有権をロシア側にあるということを暗に認めてしまいかねない態度で、今後の領土問題に大して強い悪影響を及ぼしてしまうからです。
本題に入る前に、日本とロシアの間にある領土問題とその経緯について説明します。話は戦後直後の1951年のサンフランシスコ平和条約にまで遡り、日本はこの条約によってアメリカの占領統治から再び独立を得ることになるのですが、その際に復帰する領土の中には戦前に日本が保有していた南サハリンと択捉島を初めとした北方四島を調印文書に含まれていませんでした。仮にこの平和条約にロシア(当時はソ連)も調印していれば北方領土の話はソ連が領有することで終わっていたでしょうが、実はこの時にソ連側は調印内容に異議を呈してこの条約に調印しませんでした。
国際法上では通常、戦争後に対戦国同士で平和条約が結ばれることで国境と領土が画定されるのですが、サンフランシスコ平和条約にソ連側が調印しなかったのでアメリカを始めとした他国とは異なり、この時日露の間では領土画定は棚上げにされたわけです。その後日露は1956年に日ソ共同宣言によって国交こそ回復したものの平和条約は現在に至るまで未だに結ばれておらず、厳密に言えば未だに戦争状態が続いていることになるのです。
となるとどの領土に関する条約が日露の間で最後に結ばれたものになるのかと言うと、これはサンフランシスコ平和条約よりさらに昔の日露戦争後のポーツマス条約になります。このポーツマス条約では北方四島を初めとして南サハリンも日本の領土として日露間で確認され、事実戦前までこれらの地域は日本の支配下にありました。それが何故現在ロシア側は支配しているのかと言うと、言うに及ばずですが二次大戦中にこれらの地域へソ連軍が進軍し、占領したからです。
しかも二次大戦でソ連が日本へ進軍した時期はそれ以前に正式に取り交わされた、日ソ中立条約の有効期限内でした。ソ連が独ソ戦で非常に苦しい状況であった時期にすら日本は当時の同盟国のドイツに協力をせず中立を保ったにもかかわらず、ソ連は終戦間際になって日露の間で交わされた正式な国際条約に明確に違反をして進軍、占領をしたわけで、国際法に違反してソ連が占領しているのだからロシアは北方領土を日本に返せと日本外務省は主張しているわけです。
専門家でない私が言うのもなんですが、言うこととしては確かに日本側の主張に筋が通っているように思えます。折角ですのでついでに紹介しますが、二次大戦で日本は八月十五日で終戦して戦闘行為もその日を境に終わったとよく思われがちですが、実はそれ以後もソ連軍は火事場泥棒的に領土を奪っておこうとかまわず進軍を続けてきていました。ただ当時の北方守備隊が武装解除命令を受けてはいたもののこれらソ連軍に対して反撃して撃退を続けたので大きく領土を奪われることはありませんでしたが、下手したら北海道を丸ごと奪われていた可能性すらこの時はあったと思います。
そういうわけで日本外務省は北方領土を返還に向けて佐藤優氏などを始めとしてあの手この手でロシア側と交渉を続けてきたのですが、そうした努力をよそ目に今年二月に麻生首相はサハリンへ行ってしまったわけです。
日本側としてはこれまで択捉島を始めとした北方四島のみの返還を要求しており、先ほどの主張ならば北方四島同様に本来領有権のあるはずの南サハリンについては返還要求をしてきませんでした。これは暗に、「サハリンはくれてやるから北方四島は絶対に返せ」という立場を示していたのだと思いますが、かといってサハリンを根っから放棄していたわけでなく、佐藤優氏によるともしロシア側が返還交渉に乗ってくる態度を見せなかったら、「じゃあサハリンも返せよ」とばかりに要求度合いを高めるための無言の脅しであったそうで、サハリンの領有権を放棄するという態度はこれまで日本は一切示してこず、日本の首相も誰一人として足を踏み入れてこなかったのです。
それが二月、麻生首相がロシア側の招きで、しかもかつて日本に領有権のあった南サハリンに入るユジノサハリンスクに訪問したせいで、日本側が南サハリンはロシアのものだと国際的に暗に認めてしまったことになります。実際、現時点で仮にサハリンの領有権を主張しても、「あんた、前にここをロシアの地域として訪問したでしょ?」と言われてしまえばぐうの音も出ません。言わば先ほどの「無言の脅し」が事実上なくなってしまったことになります。
私からしても誰か外務省に止める人間はいなかったのかと悔やんでならない訪問だったのですが、何故麻生首相はそれにもかかわらずこの時に訪問を強行したのかと言うと、私の見方では麻生首相が自分の外交的功績を何が何でも作りたかったからだと思います。麻生首相は首相になる以前から自分は外交通だなどとあちこちで吹いており、総裁選においても現状では何もしていないけど北朝鮮の拉致問題を解決するなどと主張していました。しかし実際のところそういう場面がほとんど無いばかりか支持率が下がり始めた頃だったので、小泉首相が北朝鮮訪問で支持率を急回復させたように、自分の功績作りと支持率回復のために何も考えずにロシア側の招きに応じてほいほいとサハリンへ訪問したのだと思います。思えばサミットの帰国直後に解散を決意したのも、せめてサミットにだけは出ておきたかったからないかとすら今では思います。
となるとなんというか、麻生首相は外交通ではなく外交がしたかっただけということになってしまいます。ひどいと言えば、ひどいものです。
・麻生首相、ロシア大統領と会談 戦後初のサハリン訪問(asahi.com)
リンクの記事は当時の朝日の記事です。生憎細かい部分までの解説がないのですが、ログを残しているだけでもまだマシでしょう。最初に言っておきますが、私はこの時のサハリン訪問は日本の外交的立場上、非常にまずいものだったと考えております。というのもこのサハリンに日本の首相がロシア側の招きに応じて訪問するということはサハリンの領土権、ならびに北方領土の領有権をロシア側にあるということを暗に認めてしまいかねない態度で、今後の領土問題に大して強い悪影響を及ぼしてしまうからです。
本題に入る前に、日本とロシアの間にある領土問題とその経緯について説明します。話は戦後直後の1951年のサンフランシスコ平和条約にまで遡り、日本はこの条約によってアメリカの占領統治から再び独立を得ることになるのですが、その際に復帰する領土の中には戦前に日本が保有していた南サハリンと択捉島を初めとした北方四島を調印文書に含まれていませんでした。仮にこの平和条約にロシア(当時はソ連)も調印していれば北方領土の話はソ連が領有することで終わっていたでしょうが、実はこの時にソ連側は調印内容に異議を呈してこの条約に調印しませんでした。
国際法上では通常、戦争後に対戦国同士で平和条約が結ばれることで国境と領土が画定されるのですが、サンフランシスコ平和条約にソ連側が調印しなかったのでアメリカを始めとした他国とは異なり、この時日露の間では領土画定は棚上げにされたわけです。その後日露は1956年に日ソ共同宣言によって国交こそ回復したものの平和条約は現在に至るまで未だに結ばれておらず、厳密に言えば未だに戦争状態が続いていることになるのです。
となるとどの領土に関する条約が日露の間で最後に結ばれたものになるのかと言うと、これはサンフランシスコ平和条約よりさらに昔の日露戦争後のポーツマス条約になります。このポーツマス条約では北方四島を初めとして南サハリンも日本の領土として日露間で確認され、事実戦前までこれらの地域は日本の支配下にありました。それが何故現在ロシア側は支配しているのかと言うと、言うに及ばずですが二次大戦中にこれらの地域へソ連軍が進軍し、占領したからです。
しかも二次大戦でソ連が日本へ進軍した時期はそれ以前に正式に取り交わされた、日ソ中立条約の有効期限内でした。ソ連が独ソ戦で非常に苦しい状況であった時期にすら日本は当時の同盟国のドイツに協力をせず中立を保ったにもかかわらず、ソ連は終戦間際になって日露の間で交わされた正式な国際条約に明確に違反をして進軍、占領をしたわけで、国際法に違反してソ連が占領しているのだからロシアは北方領土を日本に返せと日本外務省は主張しているわけです。
専門家でない私が言うのもなんですが、言うこととしては確かに日本側の主張に筋が通っているように思えます。折角ですのでついでに紹介しますが、二次大戦で日本は八月十五日で終戦して戦闘行為もその日を境に終わったとよく思われがちですが、実はそれ以後もソ連軍は火事場泥棒的に領土を奪っておこうとかまわず進軍を続けてきていました。ただ当時の北方守備隊が武装解除命令を受けてはいたもののこれらソ連軍に対して反撃して撃退を続けたので大きく領土を奪われることはありませんでしたが、下手したら北海道を丸ごと奪われていた可能性すらこの時はあったと思います。
そういうわけで日本外務省は北方領土を返還に向けて佐藤優氏などを始めとしてあの手この手でロシア側と交渉を続けてきたのですが、そうした努力をよそ目に今年二月に麻生首相はサハリンへ行ってしまったわけです。
日本側としてはこれまで択捉島を始めとした北方四島のみの返還を要求しており、先ほどの主張ならば北方四島同様に本来領有権のあるはずの南サハリンについては返還要求をしてきませんでした。これは暗に、「サハリンはくれてやるから北方四島は絶対に返せ」という立場を示していたのだと思いますが、かといってサハリンを根っから放棄していたわけでなく、佐藤優氏によるともしロシア側が返還交渉に乗ってくる態度を見せなかったら、「じゃあサハリンも返せよ」とばかりに要求度合いを高めるための無言の脅しであったそうで、サハリンの領有権を放棄するという態度はこれまで日本は一切示してこず、日本の首相も誰一人として足を踏み入れてこなかったのです。
それが二月、麻生首相がロシア側の招きで、しかもかつて日本に領有権のあった南サハリンに入るユジノサハリンスクに訪問したせいで、日本側が南サハリンはロシアのものだと国際的に暗に認めてしまったことになります。実際、現時点で仮にサハリンの領有権を主張しても、「あんた、前にここをロシアの地域として訪問したでしょ?」と言われてしまえばぐうの音も出ません。言わば先ほどの「無言の脅し」が事実上なくなってしまったことになります。
私からしても誰か外務省に止める人間はいなかったのかと悔やんでならない訪問だったのですが、何故麻生首相はそれにもかかわらずこの時に訪問を強行したのかと言うと、私の見方では麻生首相が自分の外交的功績を何が何でも作りたかったからだと思います。麻生首相は首相になる以前から自分は外交通だなどとあちこちで吹いており、総裁選においても現状では何もしていないけど北朝鮮の拉致問題を解決するなどと主張していました。しかし実際のところそういう場面がほとんど無いばかりか支持率が下がり始めた頃だったので、小泉首相が北朝鮮訪問で支持率を急回復させたように、自分の功績作りと支持率回復のために何も考えずにロシア側の招きに応じてほいほいとサハリンへ訪問したのだと思います。思えばサミットの帰国直後に解散を決意したのも、せめてサミットにだけは出ておきたかったからないかとすら今では思います。
となるとなんというか、麻生首相は外交通ではなく外交がしたかっただけということになってしまいます。ひどいと言えば、ひどいものです。
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