このところ友人からよく、「国立大出身の奴らは信用が置ける」という話をよく聞きます。一見するとまるで私大出身の自分を揶揄するような発言(その友人も同門だけど)ですが、聞いてる私としてもこの友人の意見には納得する部分もあり、この前こんな風に応答しました。
「俺が進学の際に関東から関西に来た時、周りの学生の優秀さに目を見張ったよ。ほんのちょっと前まで同じ高校生だった人間でも、関東時代の俺の周りにいたのと比べて関西の学生らは会話をしていても明らかに知識や反応が良く、どうしてこんな差があるのかと考えてみたのだが、やっぱり五教科をしっかりやっているかどうかの違いじゃないかと思うんだ」
「五教科っつっても、うちらの大学は試験が三教科の私大やん」
「でも関西って、大坂、神戸、京都大学などと国立大学が多いだけあってうちの大学に来る学生っていったらみんなこのどれかの落第組で、大学受験時にみんな五教科を学んできているじゃん。俺も君も、その口だろ」
「まぁ、そやろな」
「それが関東だと慶應、早稲田を筆頭として私大が多いせいか、高三になった時点で私大専願とばかりに三教科しか勉強しない奴が多いんだ。やっぱ受験時に五教科か三教科って違いはその人の適応力に大きく影響を及ぼすと思うし、国立の連中は必然的に五教科をやっているから君も国立出身の奴らにそう思うんじゃないかな」
上記の会話で私が語った内容はあくまで私個人の実感ですが、やっぱり文系だと数学、理系だと国語をやっているかやっていないかの違いというのは人間性や能力にも出てくるような気がします。関連するといえば、文系出身者で受験時に数学をやっているかやっていないかでその後の年収に大きく差がつくというデータがあり、これを聞いた時には心底数学を勉強しといてよかったとほっとしました。
そんな私立大学の試験ですが、近年、私から見ていて看過できない事態が起こり始めています。上記の三教科試験ならまだともかく、近年は自分の得意な科目でだけ受験できる一科目入試などというものも増えており、さらには以前にも取り上げた事がありますがAO入試など選抜方法として如何なものかと思う試験が非常に増えてきました。実際に教育関係の報道を見ていると、上記のような特別な入試形態で入学してきた学生はやはり学力が追いつかず留年や退学する割合が普通受験者より明らかに多いらしく、AO入試については廃止する大学がこのところ増えてきております。
しかし最近だと、というより以前からでもありますが、近年の私立大学は試験云々以前に内部校からの無試験での進学者割合があまりにも多くなってきつつあります。
有名私立大ほどこの傾向は以前から高かったのですが、近年は少子化に伴い、定員割れなど起こさぬように学生数をあらかじめ確保せんと中堅私大もそれまで縁もゆかりもなかった高校と提携を結ぶことが増えてきております。実際に私も近くにある高校がある日突然、「○○大学付属××高等学校」という風に看板が変わったのを目撃しています。
こうした無試験で大学に入学する内部進学者の問題は教育界というより就職業界においてこのところ問題視され始め、同じ大学出身者でも大学受験を経て入学してきた学生と内部進学者とでは明らかに能力に差があり、今後就職希望者の履歴書には入学方法も書かかせるべきだという意見が出始めてきています。
実際に私が通った大学も系列高校の多い学校で、しかも進学先が文学部と来たもんだから周りは内部生ばかりでその割合は四割五分程度にも上りました。
こうした事態について大学時代の恩師に直接話を聞いてみたのですが、大学としては確実に学生を確保するという目的とともに、受験での入試偏差値を下げたくないという目的からこうした行為を行っているという返事を聞きました。内部進学者と入試偏差値がどう関係するのかというと、単純に志望者の少ない学部や学科に内部進学者を振り分ける事でそこの定員を減らし、外部から受験を経て入学してくる学生数を調節することで入試の難易度を上げることが出来、名門校としての地位を守りつつ受験者を集めて受験料をかき集められるという魂胆です。
具体的に私のいた学科で説明すると、その学科の学生数は180人でしたが実質この中の約半分こと90人は内部進学者で、残り90人の枠を外部受験者が入試で争ったというわけです。もちろん外には180人募集と言ってはいるのですが実際にはその半分で、入試には合格したものの別の大学に進学する学生を考慮して試験では大体200人程度に合格通知を出すそうです。
なおその恩師によるとこうした偏差値の水増しは心理学科ほどよく行われており、どの大学でも心理学部や心理学科は偏差値が比較的に高いのですが、それは人気があるからというより内部生の割合が高いせいだそうです。実際にうちの大学ではそうだったし。
こういう風に見てみると、現代の大学入試というものが如何に形骸化しているか色々と思い悩まされます。入試の難易度が志望者の多さとかレベルに関係なく大学側の意図的な操作によって決められ、またその大学の学生の半分近くが無試験で入学してきているなどと、なんでもかんでも試験が重要だというつもりはありませんがこれだと外から試験で入ろうとする人間だけが馬鹿を見ているような気がします。
逆に国立出身者は特別な事情がない限りはきちんと入学試験を経てきているため、最初に友人が述べたようにその人材性に信頼がおけるというのもあながち五教科というだけとじゃないのでしょう。
この前どこかが発表したデータによると、系列校からの内部進学者と指定校推薦での推薦入学者の割合が全大学生の半分以上にも登ってきているといい、私の実感でもそれくらいの割合と見ており、今や時代はどこの大学に進学できるのかは系列校に入る中学、高校入試にかかってきていると言っても過言じゃないでしょう。
多少偏見もありますが小学生や中学生の時点で、その後の学力や能力が分るかといったらやっぱり疑問です。大学までついていると自由に勉強できるだの、勉強以外の活動もできるなどといいますが、勉強する機会くらいはせめて平等に与えてもらいたいと逆に私は私大関係者に問いたいものです。
補足
文系についてはこの記事で書いたように内部進学者による偏差値の改変が行われているのですが、理系だとやっぱり一定度の学力がないと進学してもすぐに落第してしまうので、あまりこういった行為は行われないそうです。逆を言えば落第し辛い、させ辛いような文系学部、それこそ文学部や経済学部ほどこの行為が行われる傾向が高いそうです。
にもかかわらず内部進学者であった知り合いの女の子は卒業単位が危うかった上、卒業論文も私に半分以上も書かせました。まぁ文章書くのは好きだからいいんだけどさ……。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年4月10日土曜日
2010年4月9日金曜日
マンガ表現における女性の立ち位置の変化
昔、暇だから取ったジェンダー論の授業(何気に音信の取れなくなった先輩と感動の再会を果たしたけど)にてこんな事がありました。
その授業は各時代ごとのテレビドラマを取り上げては女性の社会的地位の変化を問うという授業で、「初代 白い巨塔」と「現代版 白い巨塔」、そして「東京ラヴストーリー」から「アットホームダディ」などのドラマを取り上げては時代が下るごとに向上していった女性の社会的地位がこうした娯楽作品にも現れて来ていると解説し、その一方、よく見てみると男性陣らより一段下に置かれていて未だ立場を完全に逆転するにまでは至っていないという具合でまとめていました。
この授業のテスト方式は講師がゆるいということもあってドラマでもマンガでもいいから何かしら題材を取ってその中の男女の描かれ方をまとめよという内容だったのですが、私はちょっと試しに「夜王」という、一応ホストマンガなんだけどいろんな所に突っ込みどころが満載な素晴らしいギャグマンガを取り上げ(詳細は「夜王 用語辞典」を参照)、このマンガに出てくる男性キャラは基本的に学歴も何もないホスト達ばかりで客としてやってくる女性キャラ達よりも明らかに社会的地位が低いものの、ホスト達は自分より地位も名誉もついでにお金もある女性を固定客にすることでホスト界での地位向上を図ろうとしており、いわば女性を手段としてみなしている節があると書いたところ、なんと92点もの高得点をいただけました。
こういったジェンダーの描かれ方というのは案外意識しないとその変化というか変遷というものは分り辛く、私もこの授業を受けてからいろいろと過去と現代の男女の描かれ方に注意してみるようになったのですが、結論から言えばやはり年代が下るごとにこうしたサブカルチャーにおいて描かれる女性の地位は明らかに向上していると思います。特に近年、私が強く感じるのはマンガやゲームにおけるヒロインの立ち位置で、これなんか私が子供だった頃と比べると明らかに女性はパワフルになっております。
具体的にどのようなところが変化しているのかというと、恋愛マンガや推理マンガならまだともかく、バトルマンガや冒険マンガにおいては現代のヒロインはほぼ確実といっていいほど男性主人公と同じく戦うなり前に出るなりしており、ただ守られたり見守っているだけのヒロインというのはもはや皆無に近くなっております。それこそゲームだとドラクエ1におけるローラ姫や、さらわれるだけのピーチ姫みたいなキャラを今の作品で挙げろと言われてもすぐにはピンと来ません。まぁピーチ姫はスマブラで戦ったり、マリオカートではキノコも投げつけてはきますけど。
この言うなれば戦う女性ヒロインの存在ですが、過去の作品においても全くいなかったわけではありません。私くらいの年齢の男の子なら子供の頃に「ダイの大冒険」とか読んでいると思いますが、この作品においては基本的に女性キャラもみんな前線で平気で戦ったりしていますが、やっぱり思い起こすとこういうのは当時はまだ例外扱いで、一時的な参戦やサポート役としての出撃、このほかサブキャラクターの女性が戦うのならまだしもメインヒロインは前に出て戦うというよりも主人公を見守るというケースのが多かったという気がします。古いのを挙げると、戦闘力こそ高かったものの「CITY HUNTER」の槇村香や「乱馬1/2」の天道茜など。
ではいつから現代の戦うヒロイン像が現れるようになったのかというと、私が思うにターニングポイントとなったのはやっぱり「セーラームーン」、そしてこちらは小説ですが「スレイヤーズ」じゃないかと思います。前者は少女漫画ながら少年漫画の要素だと捉えられていたバトル的要素を取り込んだところ女性読者の中で思わぬ大ヒットを引き起こし、後者は好戦的な女性キャラがヒロインどころか主人公となってアニメ化までして大ヒットした作品です。
当時としてはまだ女性キャラがメインとなって戦うというのが物珍しく、そのギャップを物語の面白さとして売り出すためにこの様な作品が出て行ったのかと思われます。然るに現代においては先にも述べたとおりにこの様な戦うヒロイン像、下手すりゃ男性主人公より戦闘力のある女性ヒロインも珍しくなく、守られたり見守るだけのヒロインの方が珍しくなるというほど見事に逆転しているように私には思え、かえってそのような弱々しいヒロインを出したりした方が売れる作品が出来るんじゃないかなとこの頃考えているわけであります。
このようなヒロイン像の変化について友人と話をしたところ、やはり実社会における女性の社会進出が進んだ結果だからではないかという結論に落ち着きました。私としては女性が強くなったとというよりも、それまでも見栄だけだったかもしれませんが男性が弱くなり過ぎたということの方が大きいと思え、体育会系のノリは大嫌いですが一応はもう少し男らしさというものを定義しなおして責任感ある強い男が日本でも増えていってくれればいいなと思います。
おまけ
なお今連載中のマンガで私が一番好きなヒロインを挙げるとしたら、ヤングジャンプで連載中の「GANTZ」に出てくるレイカが一番お気に入りです。このキャラも一応戦ったりするけど。
おまけ2
戦う女性ヒロインは昔は少なかったと書いたものの、昔から今にいたらるまで「攻殻機動隊」の士郎正宗氏は延々とそういった強い女性をメインに書き続けております。SFやサイバーパンクの世界では昔から女性キャラが強かったけど、それってやっぱり未来を暗示しているのだろうか……。
その授業は各時代ごとのテレビドラマを取り上げては女性の社会的地位の変化を問うという授業で、「初代 白い巨塔」と「現代版 白い巨塔」、そして「東京ラヴストーリー」から「アットホームダディ」などのドラマを取り上げては時代が下るごとに向上していった女性の社会的地位がこうした娯楽作品にも現れて来ていると解説し、その一方、よく見てみると男性陣らより一段下に置かれていて未だ立場を完全に逆転するにまでは至っていないという具合でまとめていました。
この授業のテスト方式は講師がゆるいということもあってドラマでもマンガでもいいから何かしら題材を取ってその中の男女の描かれ方をまとめよという内容だったのですが、私はちょっと試しに「夜王」という、一応ホストマンガなんだけどいろんな所に突っ込みどころが満載な素晴らしいギャグマンガを取り上げ(詳細は「夜王 用語辞典」を参照)、このマンガに出てくる男性キャラは基本的に学歴も何もないホスト達ばかりで客としてやってくる女性キャラ達よりも明らかに社会的地位が低いものの、ホスト達は自分より地位も名誉もついでにお金もある女性を固定客にすることでホスト界での地位向上を図ろうとしており、いわば女性を手段としてみなしている節があると書いたところ、なんと92点もの高得点をいただけました。
こういったジェンダーの描かれ方というのは案外意識しないとその変化というか変遷というものは分り辛く、私もこの授業を受けてからいろいろと過去と現代の男女の描かれ方に注意してみるようになったのですが、結論から言えばやはり年代が下るごとにこうしたサブカルチャーにおいて描かれる女性の地位は明らかに向上していると思います。特に近年、私が強く感じるのはマンガやゲームにおけるヒロインの立ち位置で、これなんか私が子供だった頃と比べると明らかに女性はパワフルになっております。
具体的にどのようなところが変化しているのかというと、恋愛マンガや推理マンガならまだともかく、バトルマンガや冒険マンガにおいては現代のヒロインはほぼ確実といっていいほど男性主人公と同じく戦うなり前に出るなりしており、ただ守られたり見守っているだけのヒロインというのはもはや皆無に近くなっております。それこそゲームだとドラクエ1におけるローラ姫や、さらわれるだけのピーチ姫みたいなキャラを今の作品で挙げろと言われてもすぐにはピンと来ません。まぁピーチ姫はスマブラで戦ったり、マリオカートではキノコも投げつけてはきますけど。
この言うなれば戦う女性ヒロインの存在ですが、過去の作品においても全くいなかったわけではありません。私くらいの年齢の男の子なら子供の頃に「ダイの大冒険」とか読んでいると思いますが、この作品においては基本的に女性キャラもみんな前線で平気で戦ったりしていますが、やっぱり思い起こすとこういうのは当時はまだ例外扱いで、一時的な参戦やサポート役としての出撃、このほかサブキャラクターの女性が戦うのならまだしもメインヒロインは前に出て戦うというよりも主人公を見守るというケースのが多かったという気がします。古いのを挙げると、戦闘力こそ高かったものの「CITY HUNTER」の槇村香や「乱馬1/2」の天道茜など。
ではいつから現代の戦うヒロイン像が現れるようになったのかというと、私が思うにターニングポイントとなったのはやっぱり「セーラームーン」、そしてこちらは小説ですが「スレイヤーズ」じゃないかと思います。前者は少女漫画ながら少年漫画の要素だと捉えられていたバトル的要素を取り込んだところ女性読者の中で思わぬ大ヒットを引き起こし、後者は好戦的な女性キャラがヒロインどころか主人公となってアニメ化までして大ヒットした作品です。
当時としてはまだ女性キャラがメインとなって戦うというのが物珍しく、そのギャップを物語の面白さとして売り出すためにこの様な作品が出て行ったのかと思われます。然るに現代においては先にも述べたとおりにこの様な戦うヒロイン像、下手すりゃ男性主人公より戦闘力のある女性ヒロインも珍しくなく、守られたり見守るだけのヒロインの方が珍しくなるというほど見事に逆転しているように私には思え、かえってそのような弱々しいヒロインを出したりした方が売れる作品が出来るんじゃないかなとこの頃考えているわけであります。
このようなヒロイン像の変化について友人と話をしたところ、やはり実社会における女性の社会進出が進んだ結果だからではないかという結論に落ち着きました。私としては女性が強くなったとというよりも、それまでも見栄だけだったかもしれませんが男性が弱くなり過ぎたということの方が大きいと思え、体育会系のノリは大嫌いですが一応はもう少し男らしさというものを定義しなおして責任感ある強い男が日本でも増えていってくれればいいなと思います。
おまけ
なお今連載中のマンガで私が一番好きなヒロインを挙げるとしたら、ヤングジャンプで連載中の「GANTZ」に出てくるレイカが一番お気に入りです。このキャラも一応戦ったりするけど。
おまけ2
戦う女性ヒロインは昔は少なかったと書いたものの、昔から今にいたらるまで「攻殻機動隊」の士郎正宗氏は延々とそういった強い女性をメインに書き続けております。SFやサイバーパンクの世界では昔から女性キャラが強かったけど、それってやっぱり未来を暗示しているのだろうか……。
2010年4月8日木曜日
食糧自給率100%は不可能という仮説
昨日に引き続き友人から借り受けた本の話になりますが、今日は堺屋太一氏の「東大講義録 ―文明を解く―」という本とその中で述べられているある考えを紹介します。
はっきり言って、これまで私は堺屋太一氏のことをあまり評価しておりませんでした。堺屋氏の小説は何度か読んだのですがお世辞にもあまり面白いとは思えず、またどこかの雑誌で読んだ論評にて、「現代のアメリカとモンゴル帝国はどちらも女性の権威が高くて似通っている」という、ちょっと共感し難い意見などを述べられていてどんなものかと思っていました。
それが今回友人が貸してくれたこの本は、確か2002年の出版ですが八年も前の本とは思えないほどに示唆に富んだ内容で、その後の世相を見事に言い当てていることに驚きを感じずにはいられませんでした。この本はその題の通りに堺屋氏が東大で講義した際の内容を編集しなおしたものなのですが、歴史に沿って文明の成り立ち、そして変遷をわかりやすく且つ知見に富んだ目線で説明されております。
その文明の成り立ちについてここで簡単に抜粋して説明すると、堺屋氏は文明の発展とともに人間の交友範囲が変化していったと唱え、大まかに表にすると下記の通りになるとしています。
始代:採集社会=血縁社会
古代:農耕社会=地縁社会
近代:産業社会=職縁社会
現代:知価社会=知縁社会
読んだのが一ヶ月くらい前なのでちょっと記憶が曖昧ですが、大体この様な具合で文明の発展とともに人々の交友範囲、いわゆる縁の持ち方が変わってきたというわけです。なお最後の知縁社会というのは堺屋氏の造語で、共通した目的を持つもの同士で交友を持っていくという社会を意味しており、簡単な例だとこういうブログが縁で連絡を取り合う中のようなものです。
この文明論だけでも十分におなか一杯の内容なのですが、短いながら日本の食糧政策についてもドキリとすることを堺屋氏はこの本の中で述べており、それはどのような内容かというとこのようなものでした。
「現在、農水省の官僚は日本の自給率を100%にしようなどと言っていますが、私が子供だった戦後直後は山の斜面からの石の多い河原に至るまで、日本中の土地という土地にサツマイモを植えたにもかかわらず当時の日本の人口7000万人を食べさせる事が出来なかったのですから、根本的に日本で食糧を自給する事は不可能なのです。
だからこそ私は質の低い作物を日本で植えて作るよりも海外で高く取引される作物を栽培し、それを売って得たお金で海外の安い作物を輸入すべきだと考えるのです」(この会話文内容は私の解釈によるもので、原書からの抜粋にあらず)
言われてみる事まさにその通りで、今よりも人口が低く、国会議事堂前ですら作付けが行われたほど耕地も多かった戦後直後で支えきれなかった食糧自給が、一億二千万にも膨れ上がった現代においてどうして支えられるものかとまさに頭をがんと殴られたような気がした一言でした。
さらに私のほうからこの堺屋氏の主張に付け加えると、現代は戦後直後よりも農業技術から作物の品種改良も飛躍的に向上しており一概に60年以上前のデータと比較するべきでないという意見も十分理解できるのですが、その一方で現代農業には近い将来に大きなリスクが予想されております。そのリスクというのは環境問題の欺瞞性を指摘して一躍名を轟かせた中部大学の武田邦彦教授がこれまた指摘しているもので、現代農業に必須とも言える農薬原料の有機リンが確実に枯渇し始めてきているというものです。武田氏が言うにはこの有機リンが完全に枯渇しないでも現在よりも産出量が減れば価格は高騰し、農薬に頼りきった現代農業では直にコストに跳ね返ってくると予想しております。
もちろんエコロジスト張りに、「有機リンがないなら、自然肥料に頼ればいいじゃない」などと主張するのは簡単ですが、私も伝え聞く限りでは化学肥料なしでは日本の農業、下手すりゃ世界中の農業は立ち行かないとまでされており、とてもじゃないですが自然肥料で代替出来るとは信じられません。
この様に考えると、堺屋氏の言うとおりに下手に数字上の自給率の達成ばかりを追い求めるのではなく、いかに日本人の食糧を繋ぎとめるかという視点から少数精鋭とばかりに高級作物をより支援していくという方針の方が正しいのかもしれません。なんか真に受けすぎな気が、自分でもするけど。
はっきり言って、これまで私は堺屋太一氏のことをあまり評価しておりませんでした。堺屋氏の小説は何度か読んだのですがお世辞にもあまり面白いとは思えず、またどこかの雑誌で読んだ論評にて、「現代のアメリカとモンゴル帝国はどちらも女性の権威が高くて似通っている」という、ちょっと共感し難い意見などを述べられていてどんなものかと思っていました。
それが今回友人が貸してくれたこの本は、確か2002年の出版ですが八年も前の本とは思えないほどに示唆に富んだ内容で、その後の世相を見事に言い当てていることに驚きを感じずにはいられませんでした。この本はその題の通りに堺屋氏が東大で講義した際の内容を編集しなおしたものなのですが、歴史に沿って文明の成り立ち、そして変遷をわかりやすく且つ知見に富んだ目線で説明されております。
その文明の成り立ちについてここで簡単に抜粋して説明すると、堺屋氏は文明の発展とともに人間の交友範囲が変化していったと唱え、大まかに表にすると下記の通りになるとしています。
始代:採集社会=血縁社会
古代:農耕社会=地縁社会
近代:産業社会=職縁社会
現代:知価社会=知縁社会
読んだのが一ヶ月くらい前なのでちょっと記憶が曖昧ですが、大体この様な具合で文明の発展とともに人々の交友範囲、いわゆる縁の持ち方が変わってきたというわけです。なお最後の知縁社会というのは堺屋氏の造語で、共通した目的を持つもの同士で交友を持っていくという社会を意味しており、簡単な例だとこういうブログが縁で連絡を取り合う中のようなものです。
この文明論だけでも十分におなか一杯の内容なのですが、短いながら日本の食糧政策についてもドキリとすることを堺屋氏はこの本の中で述べており、それはどのような内容かというとこのようなものでした。
「現在、農水省の官僚は日本の自給率を100%にしようなどと言っていますが、私が子供だった戦後直後は山の斜面からの石の多い河原に至るまで、日本中の土地という土地にサツマイモを植えたにもかかわらず当時の日本の人口7000万人を食べさせる事が出来なかったのですから、根本的に日本で食糧を自給する事は不可能なのです。
だからこそ私は質の低い作物を日本で植えて作るよりも海外で高く取引される作物を栽培し、それを売って得たお金で海外の安い作物を輸入すべきだと考えるのです」(この会話文内容は私の解釈によるもので、原書からの抜粋にあらず)
言われてみる事まさにその通りで、今よりも人口が低く、国会議事堂前ですら作付けが行われたほど耕地も多かった戦後直後で支えきれなかった食糧自給が、一億二千万にも膨れ上がった現代においてどうして支えられるものかとまさに頭をがんと殴られたような気がした一言でした。
さらに私のほうからこの堺屋氏の主張に付け加えると、現代は戦後直後よりも農業技術から作物の品種改良も飛躍的に向上しており一概に60年以上前のデータと比較するべきでないという意見も十分理解できるのですが、その一方で現代農業には近い将来に大きなリスクが予想されております。そのリスクというのは環境問題の欺瞞性を指摘して一躍名を轟かせた中部大学の武田邦彦教授がこれまた指摘しているもので、現代農業に必須とも言える農薬原料の有機リンが確実に枯渇し始めてきているというものです。武田氏が言うにはこの有機リンが完全に枯渇しないでも現在よりも産出量が減れば価格は高騰し、農薬に頼りきった現代農業では直にコストに跳ね返ってくると予想しております。
もちろんエコロジスト張りに、「有機リンがないなら、自然肥料に頼ればいいじゃない」などと主張するのは簡単ですが、私も伝え聞く限りでは化学肥料なしでは日本の農業、下手すりゃ世界中の農業は立ち行かないとまでされており、とてもじゃないですが自然肥料で代替出来るとは信じられません。
この様に考えると、堺屋氏の言うとおりに下手に数字上の自給率の達成ばかりを追い求めるのではなく、いかに日本人の食糧を繋ぎとめるかという視点から少数精鋭とばかりに高級作物をより支援していくという方針の方が正しいのかもしれません。なんか真に受けすぎな気が、自分でもするけど。
2010年4月7日水曜日
書評「無理」
先日友人より、「これ、長いけど」といってまた一冊の本を借り受けました。特に特定の本を当時読み進めていたわけでもないものの、4/10になると文芸春秋の最新号が発売されてそっちに忙殺される事から、小説とはいえ543ページもの厚さもあることだし読み終わるのは恐らく一ヶ月くらい先だろうと受け取った際に私は想定しました。
しかしそれが、わずか三日で読み終わってしまうとは夢想だにもしませんでした。
そんな借り受けた本というのは、直木賞作家でもある奥田英朗氏著の「無理」(原題「ゆめの」)という小説です。元々この奥田氏の本は出世作ともなった精神科医シリーズの「空中ブランコ」は買って読んだ事はあり、この作品は私も贔屓にしている堺雅人氏も出演してのドラマ化までされましたが、読んだ当時は確かにつまらなくはない小説であったものの果たして直木賞受賞作品と言えるほど面白いかとなると首を傾げる内容でした。なんていうか、話の締まり方がワンパターンだったし。
それが今回の「無理」では文字通り、貪りつくくらいの面白さで読み始めると一気にページが進んでわずか三日、一日平均180ページのペースで読了まであっという間に持っていかれました。
この小説のあらすじを簡単に説明すると、市町村合併によって新たに出来た地方都市の「ゆめの市」を舞台に、年齢も職業も性別も全く異なる五人の男女がそれぞれの生活の中でお互いに全く接点を持ち合わずにそれぞれの事件に遭遇していくという内容です。
読み始めてすぐの頃、この小説の形式はかつてチュンソフトから発売された「街」という、これまた全然接点のない八人の男女の渋谷における五日間を読み進めるというゲームに近いなという印象を覚えました。この「無理」を貸してくれた友人も「街」が好きだったからわざわざ私にも貸してきたのだろうと考えたのですが、確かに「街」のように各主人公らが微妙に接点を持つというなどは共通してはいるものの、それ以上に「ゆめの市」という、架空の地方都市における生活の描写がまさに絶妙でした。
地方公務員の主人公は後を絶たない生活補助申請の処理に手をあぐね、女子高生の主人公はなんとしても東京の大学に進学して田舎だと考える故郷を脱出しようと画策し、詐欺商品のセールス販売員である主人公は仕事のないその地域ゆえに自らの行為を正当化し、孤独な主婦の主人公は新興宗教にすがり、市議会議員の主人公はより大きな県政へ打って出るため地元ヤクザとつるむなど、それぞれの生活者の視点がやや誇張した話の中とはいえ実に生活観に溢れて生き生きと書かれております。
しかしそうした描写の良さもさることながら、この作品で私が最も惹きつけられたのは地方都市特有の閉塞感です。私は人生の大半を現在も住んでいる関東のベッドタウンにて東京圏の文化を受けながら過ごしており、お世辞にもあまり地方の現状や生活に触れてきたとは言えない人間ではあります。しかし大学生になった当初、キャンパスの設置地の関係で一応行政区分は市ではあるものの田舎の間隔が抜け切れないようなある地方都市に数年の間生活しましたが、その際に覚えた閉塞感というのはそれまでの自分が如何に恵まれた場所、文化圏で生活してきたのかを思い知らされるには十分なものでした。
まず何が一番辛かったといえば、自分が情報に取り残されていくという様な感覚です。それこそ関東圏で東京キー局のテレビ番組を毎日見ていたころは意識せずとも現在の流行や注目を集める情報が入ってきていたのが、地方に行くとNHKを除いてローカル局のテレビ放送となってしまってこうした情報も意識してもなかなか手に入らなくなりました。しかもその地での生活を始めた当初はインターネットも繋いでいなかったので二次媒体で補完する事も出来ず、時たま電話で話す関東圏の友人の情報を聞く度に自分が置いていかれていくように感じて心細さを日々感じていました。
ついでに書くと、年齢がばれるかもしれませんが当時すでに関東では一般的となっていたICカード式定期券が関西では誰も知らなかったというのも激しくショックを受けました。
更に言えば、当時はなにぶんお金がなかったもので進学に合わせてすぐにでもとアルバイト先を探したものの、関東であればそれこそちょこっと歩けばどこの店頭にもアルバイト募集の看板があるのに対し、その地域ではアルバイト情報誌をいくらひっくり返しても電車で30分くらいかけなければ募集先などなく、交通費だってあまり持ちたくないのにどないすればええねんと言いたくなるような状況でした。結局見つけたのは電車で40分の場所だったし……。
そのときに感じた感傷というか閉塞感が、今回この「無理」を読んで一度にまとめて呼び起こされたわけです。ちょこっと地方に住んでいただけでえらそうに言うべきではないと分ってはいますが、近年の日本の地方都市には東京や大坂近辺にずっと住んでいる人間にはとてもじゃないですが理解のしようのない、絶望感にも近い閉塞間は確かにあると私は思います。それら閉塞感が何故生まれるのかといえばネットを初めとした情報通信の発達や、不況による失業者の増加、地方格差などいくらでも理由をあげる事は出来ますが、実際にはどのような閉塞感があるのかとなるとこれまで納得させられるような表現や説明は今まで見てきませんでした。
それが今回、多少持ち上げすぎな気もしますが「無理」の中では各主人公を通して彼らの抱える閉塞感が如何なく書かれており、徐々に地方都市に適応していった自分に対して最後まで閉塞感と戦い続けた別の友人には是非読んでもらいたい作品です。
おまけ
今回「無理」を貸してくれた友人は類稀な読書家で、「少年H」は嘘八百ばかりだということも教えてくれた友人でした。会う度にいろいろと本を貸してくれるので、恐らく去年に私が読んだ本の八割は彼からの提供によるものです。
しかしそれが、わずか三日で読み終わってしまうとは夢想だにもしませんでした。
そんな借り受けた本というのは、直木賞作家でもある奥田英朗氏著の「無理」(原題「ゆめの」)という小説です。元々この奥田氏の本は出世作ともなった精神科医シリーズの「空中ブランコ」は買って読んだ事はあり、この作品は私も贔屓にしている堺雅人氏も出演してのドラマ化までされましたが、読んだ当時は確かにつまらなくはない小説であったものの果たして直木賞受賞作品と言えるほど面白いかとなると首を傾げる内容でした。なんていうか、話の締まり方がワンパターンだったし。
それが今回の「無理」では文字通り、貪りつくくらいの面白さで読み始めると一気にページが進んでわずか三日、一日平均180ページのペースで読了まであっという間に持っていかれました。
この小説のあらすじを簡単に説明すると、市町村合併によって新たに出来た地方都市の「ゆめの市」を舞台に、年齢も職業も性別も全く異なる五人の男女がそれぞれの生活の中でお互いに全く接点を持ち合わずにそれぞれの事件に遭遇していくという内容です。
読み始めてすぐの頃、この小説の形式はかつてチュンソフトから発売された「街」という、これまた全然接点のない八人の男女の渋谷における五日間を読み進めるというゲームに近いなという印象を覚えました。この「無理」を貸してくれた友人も「街」が好きだったからわざわざ私にも貸してきたのだろうと考えたのですが、確かに「街」のように各主人公らが微妙に接点を持つというなどは共通してはいるものの、それ以上に「ゆめの市」という、架空の地方都市における生活の描写がまさに絶妙でした。
地方公務員の主人公は後を絶たない生活補助申請の処理に手をあぐね、女子高生の主人公はなんとしても東京の大学に進学して田舎だと考える故郷を脱出しようと画策し、詐欺商品のセールス販売員である主人公は仕事のないその地域ゆえに自らの行為を正当化し、孤独な主婦の主人公は新興宗教にすがり、市議会議員の主人公はより大きな県政へ打って出るため地元ヤクザとつるむなど、それぞれの生活者の視点がやや誇張した話の中とはいえ実に生活観に溢れて生き生きと書かれております。
しかしそうした描写の良さもさることながら、この作品で私が最も惹きつけられたのは地方都市特有の閉塞感です。私は人生の大半を現在も住んでいる関東のベッドタウンにて東京圏の文化を受けながら過ごしており、お世辞にもあまり地方の現状や生活に触れてきたとは言えない人間ではあります。しかし大学生になった当初、キャンパスの設置地の関係で一応行政区分は市ではあるものの田舎の間隔が抜け切れないようなある地方都市に数年の間生活しましたが、その際に覚えた閉塞感というのはそれまでの自分が如何に恵まれた場所、文化圏で生活してきたのかを思い知らされるには十分なものでした。
まず何が一番辛かったといえば、自分が情報に取り残されていくという様な感覚です。それこそ関東圏で東京キー局のテレビ番組を毎日見ていたころは意識せずとも現在の流行や注目を集める情報が入ってきていたのが、地方に行くとNHKを除いてローカル局のテレビ放送となってしまってこうした情報も意識してもなかなか手に入らなくなりました。しかもその地での生活を始めた当初はインターネットも繋いでいなかったので二次媒体で補完する事も出来ず、時たま電話で話す関東圏の友人の情報を聞く度に自分が置いていかれていくように感じて心細さを日々感じていました。
ついでに書くと、年齢がばれるかもしれませんが当時すでに関東では一般的となっていたICカード式定期券が関西では誰も知らなかったというのも激しくショックを受けました。
更に言えば、当時はなにぶんお金がなかったもので進学に合わせてすぐにでもとアルバイト先を探したものの、関東であればそれこそちょこっと歩けばどこの店頭にもアルバイト募集の看板があるのに対し、その地域ではアルバイト情報誌をいくらひっくり返しても電車で30分くらいかけなければ募集先などなく、交通費だってあまり持ちたくないのにどないすればええねんと言いたくなるような状況でした。結局見つけたのは電車で40分の場所だったし……。
そのときに感じた感傷というか閉塞感が、今回この「無理」を読んで一度にまとめて呼び起こされたわけです。ちょこっと地方に住んでいただけでえらそうに言うべきではないと分ってはいますが、近年の日本の地方都市には東京や大坂近辺にずっと住んでいる人間にはとてもじゃないですが理解のしようのない、絶望感にも近い閉塞間は確かにあると私は思います。それら閉塞感が何故生まれるのかといえばネットを初めとした情報通信の発達や、不況による失業者の増加、地方格差などいくらでも理由をあげる事は出来ますが、実際にはどのような閉塞感があるのかとなるとこれまで納得させられるような表現や説明は今まで見てきませんでした。
それが今回、多少持ち上げすぎな気もしますが「無理」の中では各主人公を通して彼らの抱える閉塞感が如何なく書かれており、徐々に地方都市に適応していった自分に対して最後まで閉塞感と戦い続けた別の友人には是非読んでもらいたい作品です。
おまけ
今回「無理」を貸してくれた友人は類稀な読書家で、「少年H」は嘘八百ばかりだということも教えてくれた友人でした。会う度にいろいろと本を貸してくれるので、恐らく去年に私が読んだ本の八割は彼からの提供によるものです。
2010年4月6日火曜日
続・平沼、与謝野新党について
友人からこの件について質問のメールが来たので、今日はそれに答える形でまた新党について解説します。
今回作られる新党には現代の爆弾男といってよい鳩山邦夫氏が参加しないとすでに報じられており、本人もそう語っている事から少なくとも設立メンバーには加わらない事は確実でしょう。今日来た友人からの質問は邦夫氏が自民党を離党する際に与謝野氏と何らかの打ち合わせをしていなかったのかという質問だったのですが、恐らく彼の性格と行動振りを考えるとそういうものは一切なく、離党してはみたものの与謝野氏からはやっぱり相手にされなかったのが実情だと思います。
それで与謝野氏と平沼氏が何故邦夫氏を相手にしなかったかというと、まず第一に邦夫氏も兄の由紀夫氏同様に実母から献金を受けるという問題のある行動を取っていたことと、邦夫氏の破天荒な性格による行動によって新党の規律が緩んだりするのを恐れたのかと思います。ただこうした邦夫氏への処遇はまったく理解できないわけではないのですが、今回こうして明確に拒絶したことで新たに賛同者、特に自民党からの離党者を受け入れるに当たって「人を選ぶ」という印象が付きまとってしまい、参院選までの組織拡大においてしこりとなっていく可能性があります。もっとも、後述する理由からそんなことをあまり考える必要はないのかもしれませんが。
実はこの平沼、与謝野新党について日曜日の朝日新聞にて、面白い論評が書かれてありました。
概要を簡単に説明すると、現在民主党を不支持とする層が増加しているものの現在の自民党ではそのような反民主層の受け皿にはなりきれず、このままだとそうした票が丸々「みんなの党」といった第三局の政党へ票が流れていく事が予想されます。そこで自民党としては敢えて与謝野氏を平沼氏とも打ち合わせをした上で自民党の外に新党を作らせ、みんなの党へと流れる票を新党で吸収し、票の確保に努めるという作戦に出たという論評です。いわば、参院選に向けて自民党は自身の支部政党を与謝野氏と平沼氏に作らせたというわけです。
あまり持ち上げるのもなんですが、これが全く根拠のない説だとは私は思いません。というのも新党立ち上げに至る過程で与謝野氏が何故自民党を離れる必要があるのか、これまで通りに頼りない執行部の刷新を求めていくだけじゃ何で駄目なのかがはっきりしません。また新党がどのような政策を訴えていくのかも全く見えてこず、むしろ与謝野氏や平沼氏のかねてからの主張を考えると今の自民党が主張する政策と全く同じことを主張する可能性が非常に高いです。
そして新党の構成メンバーを見ても、どう見ても古い自民党を捨てて新しい船出を乗り出していこうという風には全く見えない高齢の、しかもかなりずぶずぶに古い自民党に染まりきった政治家ばかりです。まだ河野太郎氏や塩崎恭久氏のような人が離党して新党を作るのなら理解できるにしろ、どうしてこのメンバーが新党をわざわざ作るのか、藤井孝雄氏なんて私があまり知らないせいかも知れないけど考えれば考えるほど分らなくなってくる人物です。
こうした疑問も、上記に上げた自民の支部政党として票を集める、議員を受からせるだけの見せ掛けの組織だというのであればある程度納得できます。無論確証は未だありませんが、政局を判断していくのに参考にはなる考え方だと思います。
今回作られる新党には現代の爆弾男といってよい鳩山邦夫氏が参加しないとすでに報じられており、本人もそう語っている事から少なくとも設立メンバーには加わらない事は確実でしょう。今日来た友人からの質問は邦夫氏が自民党を離党する際に与謝野氏と何らかの打ち合わせをしていなかったのかという質問だったのですが、恐らく彼の性格と行動振りを考えるとそういうものは一切なく、離党してはみたものの与謝野氏からはやっぱり相手にされなかったのが実情だと思います。
それで与謝野氏と平沼氏が何故邦夫氏を相手にしなかったかというと、まず第一に邦夫氏も兄の由紀夫氏同様に実母から献金を受けるという問題のある行動を取っていたことと、邦夫氏の破天荒な性格による行動によって新党の規律が緩んだりするのを恐れたのかと思います。ただこうした邦夫氏への処遇はまったく理解できないわけではないのですが、今回こうして明確に拒絶したことで新たに賛同者、特に自民党からの離党者を受け入れるに当たって「人を選ぶ」という印象が付きまとってしまい、参院選までの組織拡大においてしこりとなっていく可能性があります。もっとも、後述する理由からそんなことをあまり考える必要はないのかもしれませんが。
実はこの平沼、与謝野新党について日曜日の朝日新聞にて、面白い論評が書かれてありました。
概要を簡単に説明すると、現在民主党を不支持とする層が増加しているものの現在の自民党ではそのような反民主層の受け皿にはなりきれず、このままだとそうした票が丸々「みんなの党」といった第三局の政党へ票が流れていく事が予想されます。そこで自民党としては敢えて与謝野氏を平沼氏とも打ち合わせをした上で自民党の外に新党を作らせ、みんなの党へと流れる票を新党で吸収し、票の確保に努めるという作戦に出たという論評です。いわば、参院選に向けて自民党は自身の支部政党を与謝野氏と平沼氏に作らせたというわけです。
あまり持ち上げるのもなんですが、これが全く根拠のない説だとは私は思いません。というのも新党立ち上げに至る過程で与謝野氏が何故自民党を離れる必要があるのか、これまで通りに頼りない執行部の刷新を求めていくだけじゃ何で駄目なのかがはっきりしません。また新党がどのような政策を訴えていくのかも全く見えてこず、むしろ与謝野氏や平沼氏のかねてからの主張を考えると今の自民党が主張する政策と全く同じことを主張する可能性が非常に高いです。
そして新党の構成メンバーを見ても、どう見ても古い自民党を捨てて新しい船出を乗り出していこうという風には全く見えない高齢の、しかもかなりずぶずぶに古い自民党に染まりきった政治家ばかりです。まだ河野太郎氏や塩崎恭久氏のような人が離党して新党を作るのなら理解できるにしろ、どうしてこのメンバーが新党をわざわざ作るのか、藤井孝雄氏なんて私があまり知らないせいかも知れないけど考えれば考えるほど分らなくなってくる人物です。
こうした疑問も、上記に上げた自民の支部政党として票を集める、議員を受からせるだけの見せ掛けの組織だというのであればある程度納得できます。無論確証は未だありませんが、政局を判断していくのに参考にはなる考え方だと思います。
2010年4月5日月曜日
私が高校進学を拒否しようとしたわけ
またちょっと時間がないのと頭痛があるため短くまとめられる自分の近況についてですが、先日、実に七年ぶりに母校の中学、高校に友人とともに尋ねて行きました。中高一貫校のその学校はこのブログでも何度か書いておりますが私にとってはあまりいい場所ではなく、はっきり言って中学高校時代はもう一度過ごせと言われても心からお断りしたいような嫌な時代でしたが、教えてもらった教師らに対しては親身に相談に乗ってもらっていたので人並みに敬意を持っていたことから今回友人にくっついて訪問する事にしました。
具体的にその恩師らに何をどうこう話したかまでは書きませんでしたが、恐らく一番厄介な問題を吹っかけた恩師と久々に会った際に、私が中学三年の頃に言い出したとんでもない発言をお互い振り返っていました。
具体的にどんな事を過去の私は言い出したのかというと、なんと付属の高校には進学せず、高校生にはならないと言い出したのです。というのもすでに当時から文章で身を立てる作家になろうと目標を持っており、その目標に対して高校は時間の制約も大きい上に何のプラスにもならないと判断し、作家となれるよう文章力を磨きつついろんなことを経験していく上では高校に行かない方が自分にはいいだろうと考えたからです。当時から私は学校の授業を受けるより自分で勉強した方が効率がよくなっており、大学には専門的な知識や活動を行う上で進学する必要はあると考えていたので高校は行かずに大検を取得する道のほうがいいと思ったわけです。
もちろんこんなの両親は許さないだろうし自分がいくら願った所で叶うまいということは分っていたのですが、時の担任には一応念のためにこういう風に考えていると相談し、案の定というか高校くらいは行っとけと言われたわけです。結局私は高校にそのまま進級してきちんと卒業するまで変にぐれることなく通い続けたわけですが、今思いなおしても多分行っても行かなくってもそんなに大きな人生の変化はなかったんじゃないかと思います。あんまりこういうことは大きな声で言うべきだとは思いませんが、本人にやりたいことがはっきりと定まっているのであれば変に世間体を気にせずその道に進んだ方がずっといいんじゃないかと思います。見つからない人は見つからない人でどう知れば一番まだ妥協できるか、割がいいのかを考えればいいのだし、すくなくとも人生を後ろ向きに考えるよりリスクテイクをしてでも前向きに見ていった方が何事も楽しいんじゃないでしょうか。
少なくとも私にとっては、あの高校時代は無意味以外の何者でもなかったしなぁ。
具体的にその恩師らに何をどうこう話したかまでは書きませんでしたが、恐らく一番厄介な問題を吹っかけた恩師と久々に会った際に、私が中学三年の頃に言い出したとんでもない発言をお互い振り返っていました。
具体的にどんな事を過去の私は言い出したのかというと、なんと付属の高校には進学せず、高校生にはならないと言い出したのです。というのもすでに当時から文章で身を立てる作家になろうと目標を持っており、その目標に対して高校は時間の制約も大きい上に何のプラスにもならないと判断し、作家となれるよう文章力を磨きつついろんなことを経験していく上では高校に行かない方が自分にはいいだろうと考えたからです。当時から私は学校の授業を受けるより自分で勉強した方が効率がよくなっており、大学には専門的な知識や活動を行う上で進学する必要はあると考えていたので高校は行かずに大検を取得する道のほうがいいと思ったわけです。
もちろんこんなの両親は許さないだろうし自分がいくら願った所で叶うまいということは分っていたのですが、時の担任には一応念のためにこういう風に考えていると相談し、案の定というか高校くらいは行っとけと言われたわけです。結局私は高校にそのまま進級してきちんと卒業するまで変にぐれることなく通い続けたわけですが、今思いなおしても多分行っても行かなくってもそんなに大きな人生の変化はなかったんじゃないかと思います。あんまりこういうことは大きな声で言うべきだとは思いませんが、本人にやりたいことがはっきりと定まっているのであれば変に世間体を気にせずその道に進んだ方がずっといいんじゃないかと思います。見つからない人は見つからない人でどう知れば一番まだ妥協できるか、割がいいのかを考えればいいのだし、すくなくとも人生を後ろ向きに考えるよりリスクテイクをしてでも前向きに見ていった方が何事も楽しいんじゃないでしょうか。
少なくとも私にとっては、あの高校時代は無意味以外の何者でもなかったしなぁ。
2010年4月4日日曜日
コヴェントリーのゴディバのエピソード
先日に地元の友人と会って話しをしてきたのですが、その友人は私と同じくイギリスに行った経験がある友人だったのでふとしたことからイギリスの話になりました。イギリスというと一般にはイギリス紳士ばかりが浮かんできますが、なんだかんだいって個性が強い国なのでイギリス紳士に限らず知っている物同士では話題にするネタが次から次へと湧いて来る国です。恐らく最も話題になるのは、「メシがまずい」、「それなのに物価が高い」ことでしょうが。
それでその友人とのイギリス会話の際、一番盛り上がったのは今日取り上げる「ピーピング・トム」の話でした。このピーピング・トムというのは今も高級チョコとして名高い「ゴディバ」のブランド名に使われたエピソードに出てくる男の話で、概要をWikipediaからそのまま引用すると下記のようになります。
領主レオフリックとゴダイヴァ夫人については有名な伝説がある。重税に苦しむ領民を気の毒に思ったゴダイヴァが、夫レオフリックに税を軽くするように申し述べたところ、レオフリックはゴダイヴァが慎み深い女性であることを知りながら「お前が全裸で馬に乗って町を一周したら考えてやろう」と言った。悩んだ末にゴダイヴァは決意し、町中の民に外を見ないように命じた上、長い髪だけを身にまとって馬で町を一周したのである。町民はみな、このゴダイヴァのふるまいに心を打たれ、窓を閉めて閉じこもった。これにより、レオフリックはやむを得ず税を軽くしたという(なお、このときにただ1人外を覗いた男がおり、これがピーピング・トム(Peeping Tom)という言葉の由来になったという)。
このエピソードから例のチョコレート会社は「ゴディバ(ゴダイヴァ)」という名前をとったわけなのですが、最後に書かれている不心得者の「Peeping Tom」を直訳すると「覗き屋トム」といったところで、和訳として私はよく、「英語版の田代という意味だ」と周りには説明しております。
実は私はイギリスに旅行に行った際、何故かこのゴディバのエピソードの舞台となったコヴェントリーで一泊しました。当初はバーミンガムで宿を取ろうと思っていたところ、たまたまその日は当地でイベントがあって宿がすべて埋まっておりコヴェントリーに行き着いたわけなのですが、元々ゴディバのエピソードも知っていたので着いた場所があの話の舞台と聞いていろいろと思う事がありながら街中にあるゴディバ像とかも見て周りました。
それにしてもこのエピソードは裸の女性が馬に乗るという暴れん坊将軍も真っ青なエピソードぶりといい、ピーピング・トムというお約束なキャラといいすこぶる面白い内容です。なお伝説によるピーピング・トムは神の天罰によってゴディバを見るや失明したそうなのですが、このエピソードを私がよく訪れるイラストサイトの方も引用しておりましたので紹介しておきます。
・レディ・ゴディバでぐぐれ(ギャングスター)
一番トップには裸のゴディバ婦人の絵が描かれていますが、ページ下部ではピーピング・トムの想像図として素晴らしいキャラを紹介してくれております。
結構いろいろとイラストサイトのブックマークを私は持っているのですが、ここのサイト管理人、腹八分味之介氏ほどキワモノ系の悪役を書ける人は未だにお目にかかれておりません。普通に美少女イラストも十分に上手なのですが、腹八分氏曰く「モヒカン系」を書かせたら恐らくこの人の右に出てくるのは北斗の拳の原哲夫氏くらいなものでしょう。このほかホラー映画系にもやけに詳しいので、興味がある方は是非別ページもピーピング・トムばりに覗いていってください。
おまけ
京都の嵐山にて、「ピーピング・トム」というカフェレストランがありました。通る度に気になっていたのですが、なにぶんお金のない頃でしたので結局ここも「中国料理 ほあんほあん」同様に一度も訪れず終いでした。今度京都に行ったらちゃんと行って見ようかな。
それでその友人とのイギリス会話の際、一番盛り上がったのは今日取り上げる「ピーピング・トム」の話でした。このピーピング・トムというのは今も高級チョコとして名高い「ゴディバ」のブランド名に使われたエピソードに出てくる男の話で、概要をWikipediaからそのまま引用すると下記のようになります。
領主レオフリックとゴダイヴァ夫人については有名な伝説がある。重税に苦しむ領民を気の毒に思ったゴダイヴァが、夫レオフリックに税を軽くするように申し述べたところ、レオフリックはゴダイヴァが慎み深い女性であることを知りながら「お前が全裸で馬に乗って町を一周したら考えてやろう」と言った。悩んだ末にゴダイヴァは決意し、町中の民に外を見ないように命じた上、長い髪だけを身にまとって馬で町を一周したのである。町民はみな、このゴダイヴァのふるまいに心を打たれ、窓を閉めて閉じこもった。これにより、レオフリックはやむを得ず税を軽くしたという(なお、このときにただ1人外を覗いた男がおり、これがピーピング・トム(Peeping Tom)という言葉の由来になったという)。
このエピソードから例のチョコレート会社は「ゴディバ(ゴダイヴァ)」という名前をとったわけなのですが、最後に書かれている不心得者の「Peeping Tom」を直訳すると「覗き屋トム」といったところで、和訳として私はよく、「英語版の田代という意味だ」と周りには説明しております。
実は私はイギリスに旅行に行った際、何故かこのゴディバのエピソードの舞台となったコヴェントリーで一泊しました。当初はバーミンガムで宿を取ろうと思っていたところ、たまたまその日は当地でイベントがあって宿がすべて埋まっておりコヴェントリーに行き着いたわけなのですが、元々ゴディバのエピソードも知っていたので着いた場所があの話の舞台と聞いていろいろと思う事がありながら街中にあるゴディバ像とかも見て周りました。
それにしてもこのエピソードは裸の女性が馬に乗るという暴れん坊将軍も真っ青なエピソードぶりといい、ピーピング・トムというお約束なキャラといいすこぶる面白い内容です。なお伝説によるピーピング・トムは神の天罰によってゴディバを見るや失明したそうなのですが、このエピソードを私がよく訪れるイラストサイトの方も引用しておりましたので紹介しておきます。
・レディ・ゴディバでぐぐれ(ギャングスター)
一番トップには裸のゴディバ婦人の絵が描かれていますが、ページ下部ではピーピング・トムの想像図として素晴らしいキャラを紹介してくれております。
結構いろいろとイラストサイトのブックマークを私は持っているのですが、ここのサイト管理人、腹八分味之介氏ほどキワモノ系の悪役を書ける人は未だにお目にかかれておりません。普通に美少女イラストも十分に上手なのですが、腹八分氏曰く「モヒカン系」を書かせたら恐らくこの人の右に出てくるのは北斗の拳の原哲夫氏くらいなものでしょう。このほかホラー映画系にもやけに詳しいので、興味がある方は是非別ページもピーピング・トムばりに覗いていってください。
おまけ
京都の嵐山にて、「ピーピング・トム」というカフェレストランがありました。通る度に気になっていたのですが、なにぶんお金のない頃でしたので結局ここも「中国料理 ほあんほあん」同様に一度も訪れず終いでした。今度京都に行ったらちゃんと行って見ようかな。
登録:
投稿 (Atom)