一応政治系ブログなんだから何かしら政治ニュースについて書かなければとこのごろ思うものの、一体何を書けばいいのかと思うくらい最近は政治ニュースが不振です。通常国会前なので仕方のないことでしょうが、ネットで見る限りこのところ報道されていることといったら民主党の小沢氏か仙石氏が辞めるか辞めないかといった人事の去就ばかりで、あまり政治議題に関する報道は目に入りません。こういうのを見ていると、まだまだ日本はどうでもいいことしか話題にならなくて余裕あるなという気がします。
そんなわけで今日は、ある程度適当な事いうのが許されると勝手に思っている経済こと今年の景気について書いてこうと思います。
こと株価に関しては年が明けてからは割と好調でこのところ日経平均は一万円台で推移しています。この株価の上昇要因はアメリカの株価が上がり失業率にも改善が見られて来たことが原因だと言われていますが、日本の株価というのは日本人投資家の力ではなく海外投資家の力で変わるものなのでアメリカの好影響が反映されているという見方に同感です。ただ日本経済自体がある意味地面を這いつくしたというか、切るところまで切ったのでこれ以上悪くなりようがないという逆説的な評価も出来るので去年よりはまだ今年の景気はマシになる可能性が高いように思えます。
とは言うものの、依然として新卒の就職率は悪いままですし社会保障にかかる国家支出も今後増大することを考えるとまだまだ先行きは明るいとはいえません。特に若者の立場から言わせてもらうと自分たちの世代は二世帯住宅ローンのように上の世代のツケを払わされているだけでなく(自分は今一切日本に税金払ってないが)、やれ草食系だとかゆとりだとか言われたりしてむかっ腹が立って仕方がありません。この前もどう反応していいかわからないニュースで、最近のゲームセンターは若者より時間と金をもてあましている中高年が多く集まり、ゲームセンター側も彼らを顧客ターゲットにした営業を行い始めたというものがありましたが、実際に日本にいた頃にゲームセンター行くと中高年が多いように私も思っており、ちょっと言いすぎな気もしますが、若者の居場所がここまでなくなったのかという気が少しします。
業種別の話をすると、まず言えるのは2000年代中盤に栄華を誇った自動車業界は今後はあまり先行きがよくないと言わざるを得ません。エコカー減税が終了したこともありますし、何よりも今後ますます電気自動車が増えていくことを考えるとエンジン、マフラー、ギア、ラジエーターといった主要部品はすべて必要なくなり、裾野の広い業界なだけに、今年一年ではともかく十年スパンで考えるとこの方面に従事してきた人にとってはビッグバンに近い影響を被る可能性が高いでしょう。
では今後はどこの業界がよくなるかですが向こう一年で間違いなく強盛を誇るのは家電小売業界で、前の陽月秘話時代にも書きましたが家電メーカーの社員を新装開店時に呼んで働かせたり、家電以外に店舗内のテナントで服飾店や飲食店を入れたりなど、あれだけ値下げ競争が激しいのによくもまぁここまでやれるもんだなと思うくらい羽振りがいいです。働いている従業員は大変でしょうが、実際に家電屋で働いている小学校時代の同級生は何度も辞めようとしては思いとどまって続けてます。
今日はあまりやる気がないのもあって適当に文字数を埋めるような記事を現在書いていますが、経済の話を行うつもりであれば本来ならこういった枝葉末節の内容は書かないに越したことはありません。株価がどうとかこうとか、どの業界がいいかと言うのは全体の経済を考える上ではほとんど意味がなく、大局的な見地で物を見ないと大きな手の上で踊るだけです。
では大局的な見地で言えば何が言えるかですが、現時点で私が言えるとしたら今の日本経済の最大の問題点は高級中華料理屋よりも「餃子の王将」が流行っているということに尽きます。別に「餃子の王将」に恨みを持っているわけでなくもののたとえですが、要するに高い価格には客が全く寄り付かずに安い価格に客が押し寄せるデフレ状況が一番問題というわけです。
前に友人にも簡単に講義しましたがそもそもの不況、ひいては自殺や鬱などといった社会問題もひっくるめて根本的な原因はデフレにあって、このデフレをどうにかしない限りはいくら金をばら撒いても意味がないように私は思います。最近は低い価格が定着してしまったためかデフレという言葉も以前ほど聞かれなくなりましたが、日本の経済を考える上で一瞬たりとも忘れてはならないとのが、今日の私の意見です。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2011年1月11日火曜日
寿命の尽きない時代に向けて その二
昨日の記事に続き、技術が発達して不老不死が実現する世界について考察を行います。
昨日は不老不死のうち不老のみ実現したらという仮想のもと、人体のサイボーク、クローン化が行われる世界について考えてみましたが、これとは逆に老化はありうるけれども不死である世界についてはあまり考察する必要がないかと思います。何故かと言うと不老ではないけれども不死になるということに魅力を感じる人間が多いとは思えず、よっぽど酔狂な人か脳味噌単体となってでも知識を集めたがる人でない限りはこんなことしようと思わないでしょう。
それでは今日はどんな場合を想定するかですが、いよいよ本番というべきか不老不死が完全に実現する世界についてです。
昨日の記事でも書きましたが人間は恐らく文明を持つ以前からこの不老不死というテーマについてその思考をめぐらしてきたことだと思います。不老不死が当たり前なギリシャ神話の神々はもとより日本においては人魚伝説と組み合わさった不老不死の八百比丘尼の話や、古事記において食べると不死身になれる常世の実を探しに行くスクナビコナ(都市伝説の小さいおっさんとは彼のことだろうか?)の話など不老不死に関する話は枚挙に暇がありません。
そういった不老不死が出てくる話で最近に私が読んだというかはまったのに、漫画家の弐瓶勉氏による「BIOMEGA」があります。現代漫画家の中ではハードSFを描かせると恐らく右に出る人はいない弐瓶氏ですが、基本的にこの人の漫画の主人公や登場人物は不老不死であるのが当たり前で最新作の「シドニアの騎士」でも数百歳の人物がごろごろ出てきますが、今回取り上げたい「BIOMEGA」では最高で600歳、次点で300歳の人物が出てきます。どちらも医療技術の発達を受け延命手術を行いつつ生き続けているのですが、作中ではさらに効率的で無限に生き続けられる可能性を持つ技術が見つかったことからいろいろと抗争が激しくなっていき、その技術に対して対立する二人が以下のような会話を行う場面があります。
「無限に人が生き続けても、星が人で溢れ返るだけだ」
「人口抑制こそが、人類の理想形だ」
ちょっと原作が手元になく上記の台詞は私の記憶によるもので不確かですが、不老不死が実現する世の中について実に的確な一言だと思って最近あちこちに聞かせまわっております。
不老不死が実現するとなると単純に人口が爆発することとなります。現時点ですら医療技術の発達、防疫の普及によって地球が持つ資源以上に人間が溢れてしまって(先進国並みの生活が世界中で行われたら資源が持たない)いますが、不老不死が確立されるのであればそういった資源がどうとかと言っている場合じゃ済まないでしょう。そのため不老不死が実現するとなれば必然的に、その不老不死の処置を受けられる人間を限定するか人間の生殖を厳しく制限して人口を抑制せざるを得ません。
可能性としてありうるのは前者の不老不死処置者の限定の方で、先ほどちょこっと書いた「シドニアの騎士」では特別にそのような処置を受け続けられる「不死の船員会」というメンバーが出てきますが(っていうか、そいつら以外はほぼクローンで光合成するし)、社会的に重要な地位や役割を果たすもののみ、場合によってはその処置を受けられるだけのお金を持っている人間に不老不死技術が独占される可能性が高いと私は見ています。私自身はそれほど魅力を感じないので気にしませんがこれだと中には反感を持つ人も出てきて、不老不死者に対してむやみやたらな攻撃が加えられたりするかもしれません。
また単純に適者生存というわけじゃありませんが、そのような不老不死処置者の選定において恐らく重要視されると思われる要素として遺伝子が挙げられて来ます。サラブレッドじゃありませんがより優秀な遺伝子を残すことで人類の質を向上させようという考えが浸透するかもしれません。これは不老不死までは行かずとも、世界人口が深刻なほど膨張した際にも生殖の限定方法として使われる可能性があります。
ただもし人類がそれこそ宇宙内でも活動できるようになったり、無尽蔵なエネルギーを得られた場合は案外簡単に人類全体が不老不死化するかもしれません。それはそれで結構かもしれませんがもしそうなった場合に私が想像することとしては、殺人や事故死といったものへの忌避感が極端に高まるのではないかと思います。
それこそ脳味噌吹っ飛ばされても蘇生が可能になるまで技術が高まるのであれば話は違いますが、不老不死者が死ぬとしたら殺人など外部的要因に限定されるようになればその死への恐怖は今以上に劇的に高まることでしょう。となるとどうなるかですが、やはり起こるとしたらそういった殺人をやらかしそうな人間を徹底的に淘汰するのではないでしょうか。それこそちょっとした行動や発言、もしくは過去の殺人者の傾向と一致する人間を見つける傍から徹底的に隔離、排除する密告社会化していくような気がします。それがいいかどうかは別として。
私自身は人生は細く長くよりも太く短くを信条としており、二十歳くらいまでで生きれれば御の字だと思うほどだったのでこの不老不死にはまだそれほど歳がいっていないのもあるでしょうがあまり魅力は感じません。ただ興味があろうとなかろうと現実に人間の平均寿命は伸び続けており、今後もさらに伸びることを考えるとこうしたテーマについて何かしら準備というか考える必要があるだろうと思ってこうして書いてみることにしました。見る人にとってはほかの記事よりもつまらないと感じられるかもしれませんが、たまにはこういうのを書かないと思考が現実側に偏ってしまうので……。
昨日は不老不死のうち不老のみ実現したらという仮想のもと、人体のサイボーク、クローン化が行われる世界について考えてみましたが、これとは逆に老化はありうるけれども不死である世界についてはあまり考察する必要がないかと思います。何故かと言うと不老ではないけれども不死になるということに魅力を感じる人間が多いとは思えず、よっぽど酔狂な人か脳味噌単体となってでも知識を集めたがる人でない限りはこんなことしようと思わないでしょう。
それでは今日はどんな場合を想定するかですが、いよいよ本番というべきか不老不死が完全に実現する世界についてです。
昨日の記事でも書きましたが人間は恐らく文明を持つ以前からこの不老不死というテーマについてその思考をめぐらしてきたことだと思います。不老不死が当たり前なギリシャ神話の神々はもとより日本においては人魚伝説と組み合わさった不老不死の八百比丘尼の話や、古事記において食べると不死身になれる常世の実を探しに行くスクナビコナ(都市伝説の小さいおっさんとは彼のことだろうか?)の話など不老不死に関する話は枚挙に暇がありません。
そういった不老不死が出てくる話で最近に私が読んだというかはまったのに、漫画家の弐瓶勉氏による「BIOMEGA」があります。現代漫画家の中ではハードSFを描かせると恐らく右に出る人はいない弐瓶氏ですが、基本的にこの人の漫画の主人公や登場人物は不老不死であるのが当たり前で最新作の「シドニアの騎士」でも数百歳の人物がごろごろ出てきますが、今回取り上げたい「BIOMEGA」では最高で600歳、次点で300歳の人物が出てきます。どちらも医療技術の発達を受け延命手術を行いつつ生き続けているのですが、作中ではさらに効率的で無限に生き続けられる可能性を持つ技術が見つかったことからいろいろと抗争が激しくなっていき、その技術に対して対立する二人が以下のような会話を行う場面があります。
「無限に人が生き続けても、星が人で溢れ返るだけだ」
「人口抑制こそが、人類の理想形だ」
ちょっと原作が手元になく上記の台詞は私の記憶によるもので不確かですが、不老不死が実現する世の中について実に的確な一言だと思って最近あちこちに聞かせまわっております。
不老不死が実現するとなると単純に人口が爆発することとなります。現時点ですら医療技術の発達、防疫の普及によって地球が持つ資源以上に人間が溢れてしまって(先進国並みの生活が世界中で行われたら資源が持たない)いますが、不老不死が確立されるのであればそういった資源がどうとかと言っている場合じゃ済まないでしょう。そのため不老不死が実現するとなれば必然的に、その不老不死の処置を受けられる人間を限定するか人間の生殖を厳しく制限して人口を抑制せざるを得ません。
可能性としてありうるのは前者の不老不死処置者の限定の方で、先ほどちょこっと書いた「シドニアの騎士」では特別にそのような処置を受け続けられる「不死の船員会」というメンバーが出てきますが(っていうか、そいつら以外はほぼクローンで光合成するし)、社会的に重要な地位や役割を果たすもののみ、場合によってはその処置を受けられるだけのお金を持っている人間に不老不死技術が独占される可能性が高いと私は見ています。私自身はそれほど魅力を感じないので気にしませんがこれだと中には反感を持つ人も出てきて、不老不死者に対してむやみやたらな攻撃が加えられたりするかもしれません。
また単純に適者生存というわけじゃありませんが、そのような不老不死処置者の選定において恐らく重要視されると思われる要素として遺伝子が挙げられて来ます。サラブレッドじゃありませんがより優秀な遺伝子を残すことで人類の質を向上させようという考えが浸透するかもしれません。これは不老不死までは行かずとも、世界人口が深刻なほど膨張した際にも生殖の限定方法として使われる可能性があります。
ただもし人類がそれこそ宇宙内でも活動できるようになったり、無尽蔵なエネルギーを得られた場合は案外簡単に人類全体が不老不死化するかもしれません。それはそれで結構かもしれませんがもしそうなった場合に私が想像することとしては、殺人や事故死といったものへの忌避感が極端に高まるのではないかと思います。
それこそ脳味噌吹っ飛ばされても蘇生が可能になるまで技術が高まるのであれば話は違いますが、不老不死者が死ぬとしたら殺人など外部的要因に限定されるようになればその死への恐怖は今以上に劇的に高まることでしょう。となるとどうなるかですが、やはり起こるとしたらそういった殺人をやらかしそうな人間を徹底的に淘汰するのではないでしょうか。それこそちょっとした行動や発言、もしくは過去の殺人者の傾向と一致する人間を見つける傍から徹底的に隔離、排除する密告社会化していくような気がします。それがいいかどうかは別として。
私自身は人生は細く長くよりも太く短くを信条としており、二十歳くらいまでで生きれれば御の字だと思うほどだったのでこの不老不死にはまだそれほど歳がいっていないのもあるでしょうがあまり魅力は感じません。ただ興味があろうとなかろうと現実に人間の平均寿命は伸び続けており、今後もさらに伸びることを考えるとこうしたテーマについて何かしら準備というか考える必要があるだろうと思ってこうして書いてみることにしました。見る人にとってはほかの記事よりもつまらないと感じられるかもしれませんが、たまにはこういうのを書かないと思考が現実側に偏ってしまうので……。
2011年1月10日月曜日
寿命の尽きない時代に向けて その一
アメリカのブッシュ政権ときたら先の見えない泥沼化したイラク戦争を始めるなどその評価はアメリカ本国でもあまり高くはありませんが、真偽は不確かですが以前に聞いた話で、唯一アンチエイジング治療の研究に予算を割いたことは評価されているといううわさを耳にしたことがあります。
このアンチエイジングという言葉ですが五年くらい前であれば多分誰も知らない言葉だったと思いますが、みんながみんな知っているわけではないもののこの数年間で随分と普及はした感があります。この言葉の意味は英訳そのままで反老化、つまり老化を防いだり寿命を延ばしたりする治療や研究の事を指しております。
近頃は日本においてもアンチエイジングを謳ったクリニックや医院なども現れるなど急速に普及しており、またこの方面の研究で大きな可能性を持つips細胞を京大の山中教授のチームが発見するなどあながち根拠なく広まっているわけではありません。元々日本人自体が世界的にも長寿の民族で本人らも寿命にやけにこだわるところがあり、滅茶苦茶な制度にもかかわらず生涯受け取る年金の額を若いうちからあれこれ計算するなど長生きに対して考える下地があるのかも知れません。
さてこのアンチエイジングですが、私の私見を述べさせてもらえば今後の研究によって人間の寿命が劇的に伸びる可能性は高いと見ております。ips細胞一つとっても慢性病の根治治療に大きな可能性を秘めており、また各種の薬剤の発達によって現時点でも見た目を若くする技術は以前とは比べ物にならないほどの進歩を遂げており、さすがに私が生きている間に不老不死までは行かないでしょうが、それこそ平均寿命が百歳を越えるのが当たり前の時代がやってくるかもしれません。
もちろんこうした技術の発達は歓迎すべきなのでしょうが、私は現時点でいささか、技術の発達に対してその技術を用いる器というか哲学的議論が遅れているような気がします。基本的に技術が思想や想定を超えると、たとえるなら三国時代にビームを撃てる人がいたりすると物事がちょっとおかしくなってしまうように、ある程度哲学的議論は技術に対して専攻しておく必要があると考えています。そこでちょっと気が早いような気もしますが、「不老不死が成立する時代」についていくつか考えを述べようと思います。
不老不死について考えるといった矢先ですが、まず不老と不死は分けて考える必要があるでしょう。たとえば不老ではあるものの寿命があって不死ではないという場合か、限りなく寿命が長くて不死に近いものの不老ではない場合かですが、両者ともにSF小説はもとより神話においてすらも題材に取られて描かれたりします。そういった空想のお話は大抵悲劇的結末で終わるのがオチで後者なんかは強欲な金持ちがよく妙な延命手術とかしてあーだこーだする展開ですが、今現在で近いうちに実現するとしたら前者の方でしょう。要するに見かけはある程度若さを保っていられるものの、寿命自体は多少は伸びるとしても大体現在の平均寿命で死んでしまうというような話です。
現実のアンチエイジング治療研究も大体はこっちを想定しており、寿命自体を伸ばすことよりも如何に若さを保つかという技術の開発が行われております。恐らくほかの方もそうでしょうがいくら長生きできるからといって体が弱って寝たきりのままでは意味がなく、それよりも八十歳や九十歳でも元気で走れ回れる方が生きている価値が高いと感じるでしょう。
私自身はこのような未来が実現するとしたら、それはきっと肉体の半機械化ことサイボーグ化が実現する未来だろうと見ています。すでに盲目の人の視神経とカメラを繋ぐことで視覚を一部回復する技術は実現していますし、今後も漫画の「攻殻機動隊」や「鋼の錬金術師」などのように肉体の一部を無機機械化する技術は高まっていくと予想されるのですが、その際に引っかかるというかどうしても代替出来ないだろうと思う組織として脳が挙げられます。思考や記憶を司っており、いわば魂に最も近い肉体組織の脳はさすがに機械化することは現時点では想像もつかず(漫画の「銃夢」ではコンピューターチップ化してたが)、肉体自体は機械化、もしくはクローンに脳を換装することで半永久的に保つことは出来るとしても脳だけは取替えが利きません。もちろん脳自体もたんぱく質で出来ているので細胞として寿命があり、最近は治療法も進んできてアルツハイマーなどについては現時点で根治治療は出来ないものの病状の進行はほぼ止められるレベルまで来ておりますが加齢による衰えはまだ克服しておらず、肉体は不老不死を保てるとしても結局は脳の寿命がその人の寿命(ほぼ現時点の寿命)に落ち着くのではないかと考えています。
多分近い未来に起こるとしたら上記のような事態でしょうが、このような事態で想定される問題としては果たして人間は死を受け入れられるか否かです。普通は寿命とともに徐々に肉体が弱っていって周囲も本人も死を徐々に実感していくものですが、肉体が不老不死では果たしてそうやすやすと受け入れられるものなのか私には疑問です。本人自身も脳の衰えを受けてやや整合の取れない行動を繰り返すようになっても肉体は元気なままですし、自分が近いうちに死ぬということを認知できるのか、場合によってはそれが認知できないまま元気に動き回り続けるということも考えられます。
こう言葉で表現するのは難しいですが、それが幸せなのか不幸なのかというよりそれでいいのかという風に私は思います。
多分こうなるだろうとは思ってましたがまだまだ書ききれておりませんので、続きはまた明日以降に書きます。平日にこんなややこしい記事に取り組むべきじゃなかったな。
あと余談ですが、やはり体力のある方が脳の痴呆症状を起こすと世話をする方の負担は凄まじいそうです。うちのおふくろの友人も生前に父親が痴呆を起こしたそうなのですが、戦時中に片腕を失ったにもかかわらず夜中に自転車でどこかへ行ってしまうなど大変だったそうです。この話に限るわけじゃないですが、おふくろの故郷の阿久根は自分の想像を超える話に満ち溢れている気がします。
このアンチエイジングという言葉ですが五年くらい前であれば多分誰も知らない言葉だったと思いますが、みんながみんな知っているわけではないもののこの数年間で随分と普及はした感があります。この言葉の意味は英訳そのままで反老化、つまり老化を防いだり寿命を延ばしたりする治療や研究の事を指しております。
近頃は日本においてもアンチエイジングを謳ったクリニックや医院なども現れるなど急速に普及しており、またこの方面の研究で大きな可能性を持つips細胞を京大の山中教授のチームが発見するなどあながち根拠なく広まっているわけではありません。元々日本人自体が世界的にも長寿の民族で本人らも寿命にやけにこだわるところがあり、滅茶苦茶な制度にもかかわらず生涯受け取る年金の額を若いうちからあれこれ計算するなど長生きに対して考える下地があるのかも知れません。
さてこのアンチエイジングですが、私の私見を述べさせてもらえば今後の研究によって人間の寿命が劇的に伸びる可能性は高いと見ております。ips細胞一つとっても慢性病の根治治療に大きな可能性を秘めており、また各種の薬剤の発達によって現時点でも見た目を若くする技術は以前とは比べ物にならないほどの進歩を遂げており、さすがに私が生きている間に不老不死までは行かないでしょうが、それこそ平均寿命が百歳を越えるのが当たり前の時代がやってくるかもしれません。
もちろんこうした技術の発達は歓迎すべきなのでしょうが、私は現時点でいささか、技術の発達に対してその技術を用いる器というか哲学的議論が遅れているような気がします。基本的に技術が思想や想定を超えると、たとえるなら三国時代にビームを撃てる人がいたりすると物事がちょっとおかしくなってしまうように、ある程度哲学的議論は技術に対して専攻しておく必要があると考えています。そこでちょっと気が早いような気もしますが、「不老不死が成立する時代」についていくつか考えを述べようと思います。
不老不死について考えるといった矢先ですが、まず不老と不死は分けて考える必要があるでしょう。たとえば不老ではあるものの寿命があって不死ではないという場合か、限りなく寿命が長くて不死に近いものの不老ではない場合かですが、両者ともにSF小説はもとより神話においてすらも題材に取られて描かれたりします。そういった空想のお話は大抵悲劇的結末で終わるのがオチで後者なんかは強欲な金持ちがよく妙な延命手術とかしてあーだこーだする展開ですが、今現在で近いうちに実現するとしたら前者の方でしょう。要するに見かけはある程度若さを保っていられるものの、寿命自体は多少は伸びるとしても大体現在の平均寿命で死んでしまうというような話です。
現実のアンチエイジング治療研究も大体はこっちを想定しており、寿命自体を伸ばすことよりも如何に若さを保つかという技術の開発が行われております。恐らくほかの方もそうでしょうがいくら長生きできるからといって体が弱って寝たきりのままでは意味がなく、それよりも八十歳や九十歳でも元気で走れ回れる方が生きている価値が高いと感じるでしょう。
私自身はこのような未来が実現するとしたら、それはきっと肉体の半機械化ことサイボーグ化が実現する未来だろうと見ています。すでに盲目の人の視神経とカメラを繋ぐことで視覚を一部回復する技術は実現していますし、今後も漫画の「攻殻機動隊」や「鋼の錬金術師」などのように肉体の一部を無機機械化する技術は高まっていくと予想されるのですが、その際に引っかかるというかどうしても代替出来ないだろうと思う組織として脳が挙げられます。思考や記憶を司っており、いわば魂に最も近い肉体組織の脳はさすがに機械化することは現時点では想像もつかず(漫画の「銃夢」ではコンピューターチップ化してたが)、肉体自体は機械化、もしくはクローンに脳を換装することで半永久的に保つことは出来るとしても脳だけは取替えが利きません。もちろん脳自体もたんぱく質で出来ているので細胞として寿命があり、最近は治療法も進んできてアルツハイマーなどについては現時点で根治治療は出来ないものの病状の進行はほぼ止められるレベルまで来ておりますが加齢による衰えはまだ克服しておらず、肉体は不老不死を保てるとしても結局は脳の寿命がその人の寿命(ほぼ現時点の寿命)に落ち着くのではないかと考えています。
多分近い未来に起こるとしたら上記のような事態でしょうが、このような事態で想定される問題としては果たして人間は死を受け入れられるか否かです。普通は寿命とともに徐々に肉体が弱っていって周囲も本人も死を徐々に実感していくものですが、肉体が不老不死では果たしてそうやすやすと受け入れられるものなのか私には疑問です。本人自身も脳の衰えを受けてやや整合の取れない行動を繰り返すようになっても肉体は元気なままですし、自分が近いうちに死ぬということを認知できるのか、場合によってはそれが認知できないまま元気に動き回り続けるということも考えられます。
こう言葉で表現するのは難しいですが、それが幸せなのか不幸なのかというよりそれでいいのかという風に私は思います。
多分こうなるだろうとは思ってましたがまだまだ書ききれておりませんので、続きはまた明日以降に書きます。平日にこんなややこしい記事に取り組むべきじゃなかったな。
あと余談ですが、やはり体力のある方が脳の痴呆症状を起こすと世話をする方の負担は凄まじいそうです。うちのおふくろの友人も生前に父親が痴呆を起こしたそうなのですが、戦時中に片腕を失ったにもかかわらず夜中に自転車でどこかへ行ってしまうなど大変だったそうです。この話に限るわけじゃないですが、おふくろの故郷の阿久根は自分の想像を超える話に満ち溢れている気がします。
2011年1月9日日曜日
猛将列伝~ヴァレンシュタイン
先日ネットのニュースにて、すでに二十年以上も連載が続いているファンタジー漫画の金字塔と呼ばれる「ベルセルク」が映画にて映像化されるという話を聞きました。ベルセルクとくれば昔の知り合いがすごい好きでそいつに紹介される形で私も読み出し、現在も新刊が出ていれば必ずチェックする漫画の一つなだけに映画化と聞いて素直に喜ぶ一方、私だけじゃないだろうけどストーリーがめちゃ長い漫画なだけに本当にできるのかという不安がこのニュースを見てよぎりました。
さてベルセルクとくれば中世ヨーロッパ、それも神聖ローマ帝国時代のドイツを模したような世界が舞台の漫画で、物語序盤までは主人公も所属している「傭兵団」の存在が非常に大きなキーワードとなっております。このヨーロッパにおける傭兵についてですが、大体十字軍の時代ごろから定着したようで14世紀には名高いスイス人傭兵が各国の戦争で使われるようになり、国民軍がこれに取って代わるフランス革命期までは事実上戦争の主役だったそうです。そんな傭兵団において最大規模の勢力を率いたのが、今日紹介しようと思うヴァレンシュタインです。
・アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(Wikipedia)
高校にて世界史を勉強していた方なら名前だけ覚えているかもしれません。彼は国家という概念で初めて行われたというドイツ三十年戦争において活躍した傭兵隊長で、教科書によってはワレンシュタインという名前で紹介されています。
ヴァレンシュタインはボヘミアの小貴族の家に生まれ、元々はプロテスタントでありましたが早くにカトリックに改宗して総本山のイタリアに留学しております。そのイタリアでの留学帰国後から傭兵業を営むようになったのですが、当時のドイツ、というよりヨーロッパはアウグスブルクの和議を経てピークこそ過ぎていたものの未だに新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)の対立が激しく、ドイツにおいては各地域を支配する領主によってその信仰が決められておりました。これはつまりその地域の領主がカトリックなら領民以下はカトリックを信仰せねばならず、逆にプロテスタントならプロテスタントにならなければならなかったというわけです。向こうの価値観ではいちおうこれでも名目上は信仰の自由は持たれたと解釈していたようですが言うまでもなくこれだと領主のみしか自由はなく、領民らについては信仰の自由は未だにありませんでした。
そこでやはりというか起きたのが、三十年戦争の発端となったボヘミア反乱です。当時のボヘミアを支配していたのは後のマリー・アントワネットをも連ねるハプスブルグ家なのですが、この一族は代々熱烈なカトリック一家で当時支配していたボヘミアにおいて新教徒の弾圧を行ったそうです。これに対してボヘミアにおける新教徒の貴族らは反発して領主であるハプスブルグ家に反乱を起こしたわけなのですが、この騒動に目をつけた周辺諸国は同じプロテスタントの同志を救うという名目の元、本心は勢力を拡大するハプスブルグ家を叩く為に続々と戦争に参加して泥沼化したのがこの三十年戦争の大まかな姿です。こんな具合で起こった戦争だったので、中にはハプスブルグ家と同じカトリックの癖にフランスはプロテスタント側で戦っております。
当初、この戦争は新教側が優勢だったのですが苦戦するハプスブルグ家に対して助力を自ら申し出てきたのがヴァレンシュタインでした。彼は自身が募集し、訓練した傭兵団二万を率いて颯爽と現れるとドイツに押し寄せていたデンマーク軍を次々と撃破して逆にデンマーク領を侵すまでに進軍を行ったのですが、彼のあまりの活躍ぶりと彼が取った免奪税などの軍税に対してドイツ諸侯から批判が起こり、功績に対する褒賞として領土を得たものの軍指揮官職を罷免されてしまいました。
ここで彼の取った軍税について説明を行いますが、当時の傭兵団は傭兵を派遣する領主や貴族は派遣先から派遣費を受け取るものの、派遣される傭兵自身は活動期間中に雇い主から給金を支払ってもらうことはなかったそうです。そのため領主らの命令とはいえ戦地で戦ったとしても何も得るものがなく、その代わりの対価とばかりに占領地で略奪を行うのが常で、この三十年戦争によってドイツ内の諸都市が大いに荒廃する一因となったそうです。
その中でも一際有名でプロテスタント側を勢いづかせるきっかけとなったのがマグデブルクの戦いで、新教勢力が立てこもるマグデブルクという都市をを旧教勢力が陥落させたものの、陥落後は傭兵の統制が利かず大いに略奪が行われたために当時三万人いたマグデブルクの人口が陥落後はわずか五千人にまで減少し、しかもその生き残りのほとんどは成人の女性だったそうです。
こうした傭兵の略奪は当時としてはよくあることだったのですが、ヴァレンシュタインは自分の傭兵団においては傭兵一人一人に対して給金を支払う代わり、一切略奪を禁じていました。この給金の出所は自分の領地から来る収入を充てていたのですがこれだけではもちろん足りるわけがなく、そのために彼が創設したのが占領地において軍隊が市民に課す免奪税でした。この免奪税はその言葉の通りに「略奪を行わない代わりに取る税」で、彼は戦闘期間中に占領した各都市から勝手にこのような税金を取って傭兵らへの給金に充て、その後似た手法が他でも採用されるなどその後の軍政史に影響を与えています。西郷札も広義で軍税に入るかな。
この給金を支払って傭兵を率いるやり方は当初はうまくいっていたようです。しかし戦争が続くにしれそのうわさを聞きつけた他の傭兵らが続々と参加したことでヴァレンシュタインの軍は徐々に肥大化し、最盛期には十万を越す大軍団にもなってしまったようです。もちろんこれだけの人数の軍隊は当時のヨーロッパにはなく軍勢だけならヴァレンシュタインはナンバー1となったのですが、逆にこれだけの人数となると維持をするのも大変で恐らくその軍税の取り立ても人数に比例して激しくなっていき、それが諸侯らの反感を買って罷免される原因となったのでしょう。
こうしてヴァレンシュタインは一時罷免されたのですが、彼が降ろされるやデンマーク軍に変わり今度はグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍がドイツに侵入してきました。友人曰くこの時が、「スウェーデンが一番輝いた時期」というだけあってスウェーデン軍は連戦連勝し、これにうろたえたハプスブルグ家は罷免していたヴァレンシュタインを再び指揮官に任命することを決めました。この再登板の際、ヴァレンシュタインは前の一件で相当懲りたのかハプスブルグ家に対してかなり交渉で粘り、軍指揮権全権や外交権を認めさせ、そしてわからない人はいいですが皇帝選帝侯位まで求めたといわれております。
こうして復職したヴァレンシュタインですが再任後に任された部隊は自分子飼いの軍隊でなかったため当初は苦戦するも徐々に戦線を押し返し、最終的にはグスタフ・アドルフ自身の不注意(霧の中一人で敵軍に突っ込んだらしい)もありますが彼を戦死せしめることに成功します。ただこのグスタフ・アドルフ撃破は彼自身の命取りにもつながり、最早脅威はないと判断したハプスブルグ家は用済みとばかりにヴァレンシュタインを暗殺しました。ヴァレンシュタインは元々成り上がりということで嫌われていましたし、また彼の豊富な軍事的才能が恐れられたというのもあるでしょうがこの暗殺により旧教側は足並みが乱れ、その後フランスの参戦によって再び劣勢に立たされる事になります。この時ヴァレンシュタインを暗殺したハプスブルグ家当主、というより神聖ローマ皇帝はフェルディナント二世ですが、少しは反省位すればいいのに。
ヴァレンシュタインについては以上のような人物なのですが、大規模の軍隊を長期に維持するなど戦略家としてみるなら稀有な才能の持ち主と言えるでしょう。それだけに強過ぎるゆえに警戒され同じく暗殺された前漢の韓信と重なって見えます。
最後に話は戻って漫画の「ベルセルク」についてですが、この漫画における主人公の宿敵ことグリフィスも傭兵団を率いて活躍するもその後彼自身のヘマもありますが投獄、拷問を受けることとなります。グリフィスは結局ベヘリット使ってゴッドハンドになったけど、ヴァレンシュタインはそうはならなかったのかな。
さてベルセルクとくれば中世ヨーロッパ、それも神聖ローマ帝国時代のドイツを模したような世界が舞台の漫画で、物語序盤までは主人公も所属している「傭兵団」の存在が非常に大きなキーワードとなっております。このヨーロッパにおける傭兵についてですが、大体十字軍の時代ごろから定着したようで14世紀には名高いスイス人傭兵が各国の戦争で使われるようになり、国民軍がこれに取って代わるフランス革命期までは事実上戦争の主役だったそうです。そんな傭兵団において最大規模の勢力を率いたのが、今日紹介しようと思うヴァレンシュタインです。
・アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(Wikipedia)
高校にて世界史を勉強していた方なら名前だけ覚えているかもしれません。彼は国家という概念で初めて行われたというドイツ三十年戦争において活躍した傭兵隊長で、教科書によってはワレンシュタインという名前で紹介されています。
ヴァレンシュタインはボヘミアの小貴族の家に生まれ、元々はプロテスタントでありましたが早くにカトリックに改宗して総本山のイタリアに留学しております。そのイタリアでの留学帰国後から傭兵業を営むようになったのですが、当時のドイツ、というよりヨーロッパはアウグスブルクの和議を経てピークこそ過ぎていたものの未だに新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)の対立が激しく、ドイツにおいては各地域を支配する領主によってその信仰が決められておりました。これはつまりその地域の領主がカトリックなら領民以下はカトリックを信仰せねばならず、逆にプロテスタントならプロテスタントにならなければならなかったというわけです。向こうの価値観ではいちおうこれでも名目上は信仰の自由は持たれたと解釈していたようですが言うまでもなくこれだと領主のみしか自由はなく、領民らについては信仰の自由は未だにありませんでした。
そこでやはりというか起きたのが、三十年戦争の発端となったボヘミア反乱です。当時のボヘミアを支配していたのは後のマリー・アントワネットをも連ねるハプスブルグ家なのですが、この一族は代々熱烈なカトリック一家で当時支配していたボヘミアにおいて新教徒の弾圧を行ったそうです。これに対してボヘミアにおける新教徒の貴族らは反発して領主であるハプスブルグ家に反乱を起こしたわけなのですが、この騒動に目をつけた周辺諸国は同じプロテスタントの同志を救うという名目の元、本心は勢力を拡大するハプスブルグ家を叩く為に続々と戦争に参加して泥沼化したのがこの三十年戦争の大まかな姿です。こんな具合で起こった戦争だったので、中にはハプスブルグ家と同じカトリックの癖にフランスはプロテスタント側で戦っております。
当初、この戦争は新教側が優勢だったのですが苦戦するハプスブルグ家に対して助力を自ら申し出てきたのがヴァレンシュタインでした。彼は自身が募集し、訓練した傭兵団二万を率いて颯爽と現れるとドイツに押し寄せていたデンマーク軍を次々と撃破して逆にデンマーク領を侵すまでに進軍を行ったのですが、彼のあまりの活躍ぶりと彼が取った免奪税などの軍税に対してドイツ諸侯から批判が起こり、功績に対する褒賞として領土を得たものの軍指揮官職を罷免されてしまいました。
ここで彼の取った軍税について説明を行いますが、当時の傭兵団は傭兵を派遣する領主や貴族は派遣先から派遣費を受け取るものの、派遣される傭兵自身は活動期間中に雇い主から給金を支払ってもらうことはなかったそうです。そのため領主らの命令とはいえ戦地で戦ったとしても何も得るものがなく、その代わりの対価とばかりに占領地で略奪を行うのが常で、この三十年戦争によってドイツ内の諸都市が大いに荒廃する一因となったそうです。
その中でも一際有名でプロテスタント側を勢いづかせるきっかけとなったのがマグデブルクの戦いで、新教勢力が立てこもるマグデブルクという都市をを旧教勢力が陥落させたものの、陥落後は傭兵の統制が利かず大いに略奪が行われたために当時三万人いたマグデブルクの人口が陥落後はわずか五千人にまで減少し、しかもその生き残りのほとんどは成人の女性だったそうです。
こうした傭兵の略奪は当時としてはよくあることだったのですが、ヴァレンシュタインは自分の傭兵団においては傭兵一人一人に対して給金を支払う代わり、一切略奪を禁じていました。この給金の出所は自分の領地から来る収入を充てていたのですがこれだけではもちろん足りるわけがなく、そのために彼が創設したのが占領地において軍隊が市民に課す免奪税でした。この免奪税はその言葉の通りに「略奪を行わない代わりに取る税」で、彼は戦闘期間中に占領した各都市から勝手にこのような税金を取って傭兵らへの給金に充て、その後似た手法が他でも採用されるなどその後の軍政史に影響を与えています。西郷札も広義で軍税に入るかな。
この給金を支払って傭兵を率いるやり方は当初はうまくいっていたようです。しかし戦争が続くにしれそのうわさを聞きつけた他の傭兵らが続々と参加したことでヴァレンシュタインの軍は徐々に肥大化し、最盛期には十万を越す大軍団にもなってしまったようです。もちろんこれだけの人数の軍隊は当時のヨーロッパにはなく軍勢だけならヴァレンシュタインはナンバー1となったのですが、逆にこれだけの人数となると維持をするのも大変で恐らくその軍税の取り立ても人数に比例して激しくなっていき、それが諸侯らの反感を買って罷免される原因となったのでしょう。
こうしてヴァレンシュタインは一時罷免されたのですが、彼が降ろされるやデンマーク軍に変わり今度はグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍がドイツに侵入してきました。友人曰くこの時が、「スウェーデンが一番輝いた時期」というだけあってスウェーデン軍は連戦連勝し、これにうろたえたハプスブルグ家は罷免していたヴァレンシュタインを再び指揮官に任命することを決めました。この再登板の際、ヴァレンシュタインは前の一件で相当懲りたのかハプスブルグ家に対してかなり交渉で粘り、軍指揮権全権や外交権を認めさせ、そしてわからない人はいいですが皇帝選帝侯位まで求めたといわれております。
こうして復職したヴァレンシュタインですが再任後に任された部隊は自分子飼いの軍隊でなかったため当初は苦戦するも徐々に戦線を押し返し、最終的にはグスタフ・アドルフ自身の不注意(霧の中一人で敵軍に突っ込んだらしい)もありますが彼を戦死せしめることに成功します。ただこのグスタフ・アドルフ撃破は彼自身の命取りにもつながり、最早脅威はないと判断したハプスブルグ家は用済みとばかりにヴァレンシュタインを暗殺しました。ヴァレンシュタインは元々成り上がりということで嫌われていましたし、また彼の豊富な軍事的才能が恐れられたというのもあるでしょうがこの暗殺により旧教側は足並みが乱れ、その後フランスの参戦によって再び劣勢に立たされる事になります。この時ヴァレンシュタインを暗殺したハプスブルグ家当主、というより神聖ローマ皇帝はフェルディナント二世ですが、少しは反省位すればいいのに。
ヴァレンシュタインについては以上のような人物なのですが、大規模の軍隊を長期に維持するなど戦略家としてみるなら稀有な才能の持ち主と言えるでしょう。それだけに強過ぎるゆえに警戒され同じく暗殺された前漢の韓信と重なって見えます。
最後に話は戻って漫画の「ベルセルク」についてですが、この漫画における主人公の宿敵ことグリフィスも傭兵団を率いて活躍するもその後彼自身のヘマもありますが投獄、拷問を受けることとなります。グリフィスは結局ベヘリット使ってゴッドハンドになったけど、ヴァレンシュタインはそうはならなかったのかな。
昨日の上海周遊
私は現在上海近郊に住んでいるのですが、昨日は中心部に行き「京橋のキムタク」と自称する上海人の友人と会ってきました。
待ち合わせは上海氏地下鉄駅の水城路で、昼前に合流した私たちはまずは近くのDVD屋に行きました。この水城路を含む上海市西部は日本領事館を初めとして各国の外交使節がたくさんあることから外国人居住者も比較的多い地域で、特に日本人については留学生などもこの辺りによく住んでいるとのことです。そのため駅から出てしばらく歩くだけですぐに何軒もの日本食レストランを発見することが出来、以前に来た際にはイタリアンレストランのサイゼリヤまであったのには驚かされました。
ちなみにそのような日本料理屋ですが、調理を行う人間ならともかく給仕は大体どこも中国人スタッフです。中には留学生らしき日本人もアルバイトしていますが、値段の設定や宣伝などを見ているとどうも端から中国人客を相手にせず日本人客だけをターゲットにして商売しているような印象を覚えるのですが、それで商売が成り立ってしまうのかもしれません。
今回、我々は興味本位でDVD屋にどんなもんがあるのかを調査するために訪れました。中国でDVDというと基本的にどれも違法コピー版で、むしろどこに行けば正規版が買えるのかというくらいに偽者で溢れ返ってます。もちろんこんなのに手は出さないとして、では一体どういうものが流通しているのかをちょっと見に行こうかということで来たわけなのですが、看板文字まで日本語で「DVDの販売してます」と書いてあるだけあり訪れた店は本当にあるわあるわで、よくこんなものまでコピーしたなというものまでありました。特に友人が強い反応しを示したのは、この一枚です。

こんなDVD、日本にあったことすら知らないぞ私は。
そうやって一通り眺めた後はちょっと移動して同じく地下鉄で新天地駅へと向かい、スープがメインの飲茶屋でしたの写真のような昼食を取りました。

別に昼食内容まで公開せずともと思ったのですが、友人が写真撮っとけと言ったので挙げときます。
そんな具合で昼食後、この日のメインとして取ってあったユニクロへと赴きました。すでに日本でも大々的に報じられていますし去年は新入社員の三割が中国人だったというだけあり、ユニクロは現在中国各地に店舗の展開を行っております。特にここ上海においては一店どころの騒ぎじゃなくちょっとしたデパートなりビルなりに入ると結構簡単に見つけることが出来ます。


それぞれ店の外観と内部の写真ですが、この日は土曜ということもあって人が多くにぎやかでした。耳をそばだてるとやっぱりあちこちで日本語も聞こえ、さらにはゲームの「モンスターハンター」とのコラボレーションTシャツが売られているのも発見しました。友人いわくユニクロはブランド品としては値段も安く、最低限品質は保証されるから買いやすいとのことなのですが、日本にいると品質なんて保証されてて当たり前ですからあまり気にならなかったものの中国だと値段は確かに安いもののすぐに型が崩れたろ破れたりする衣類も珍しくありません。私も吸盤で壁に貼り付けるタオル掛けを買ってきたら買ったその日にプラスチック部が破損するという痛い目を見ましたが、こういった最低限の保証がいるのであれば多少値段が張るのも仕方ないと思うようになって来ました。
で、結局このユニクロでは「モンスターハンター」のTシャツを買おうかどうか悩んだものの結局買わず、運動時に着るようなTシャツを一枚買ってそのまま近くの今度はGAPの店に行きました。
こちらは写真がありませんが半額セールのためにユニクロ以上に人で込んでおり、シャツ一枚を購入しようとレジに並んだもののなかなか列が進まずに苦労をしました。その行列に並んでいる最中に近くのレジを見て見ると、なにやら子供服ばかり大量に買い込んでいる親子連れがいて友人としげしげと見ていたのですが、まだ精算の途中であったものの購入金額がすでに3500元(約45,500円)を超えていました。子供服だけでこれだけの金額を購入するのも驚きですが、それ以上に子供へとかける中国の親の情熱を垣間見た気がします。
こうしてショッピングを終えると、その後友人の案内で「田子坊」という観光地へと行きました。

この田子坊はレトロな建物を残した一角で、細く複雑な路地が入り組んでいる中で観光客向けにいろいろな店がレストランなりお土産屋をやっている場所ですが、路地自体は悪くないものの友人も言ってましたが売っているみやげ物が中国ではどこにでも売っているようなものばかりでオリジナリティがなく、まだまだ観光地としては中途半端な場所だと私も感じました。
ただここで唯一面白かったというかなんというか、突然後ろから「すいませんミユキさん」と流暢な日本語が聞こえたので振り返って見たら、欧米人らしき男性が別の日本人女性を呼んでました。私も友人も、「日本ならともかく、何で上海であんな人が日本語を……」とどうにも決まりの悪い印象を覚えました。
そうこうしてその後また何軒か服飾店を見て周って一緒に夕食を取ってその日は別れたのですが、別れる直前に友人が、「君、夜一人じゃ寂しいでしょ」といって、路上で物売っているおっさんからこれを買うように勧められました。

値段は25元(300円)だったから別にいいけど、おっさんも変な顔してたなぁ。
待ち合わせは上海氏地下鉄駅の水城路で、昼前に合流した私たちはまずは近くのDVD屋に行きました。この水城路を含む上海市西部は日本領事館を初めとして各国の外交使節がたくさんあることから外国人居住者も比較的多い地域で、特に日本人については留学生などもこの辺りによく住んでいるとのことです。そのため駅から出てしばらく歩くだけですぐに何軒もの日本食レストランを発見することが出来、以前に来た際にはイタリアンレストランのサイゼリヤまであったのには驚かされました。
ちなみにそのような日本料理屋ですが、調理を行う人間ならともかく給仕は大体どこも中国人スタッフです。中には留学生らしき日本人もアルバイトしていますが、値段の設定や宣伝などを見ているとどうも端から中国人客を相手にせず日本人客だけをターゲットにして商売しているような印象を覚えるのですが、それで商売が成り立ってしまうのかもしれません。
今回、我々は興味本位でDVD屋にどんなもんがあるのかを調査するために訪れました。中国でDVDというと基本的にどれも違法コピー版で、むしろどこに行けば正規版が買えるのかというくらいに偽者で溢れ返ってます。もちろんこんなのに手は出さないとして、では一体どういうものが流通しているのかをちょっと見に行こうかということで来たわけなのですが、看板文字まで日本語で「DVDの販売してます」と書いてあるだけあり訪れた店は本当にあるわあるわで、よくこんなものまでコピーしたなというものまでありました。特に友人が強い反応しを示したのは、この一枚です。

こんなDVD、日本にあったことすら知らないぞ私は。
そうやって一通り眺めた後はちょっと移動して同じく地下鉄で新天地駅へと向かい、スープがメインの飲茶屋でしたの写真のような昼食を取りました。

別に昼食内容まで公開せずともと思ったのですが、友人が写真撮っとけと言ったので挙げときます。
そんな具合で昼食後、この日のメインとして取ってあったユニクロへと赴きました。すでに日本でも大々的に報じられていますし去年は新入社員の三割が中国人だったというだけあり、ユニクロは現在中国各地に店舗の展開を行っております。特にここ上海においては一店どころの騒ぎじゃなくちょっとしたデパートなりビルなりに入ると結構簡単に見つけることが出来ます。


それぞれ店の外観と内部の写真ですが、この日は土曜ということもあって人が多くにぎやかでした。耳をそばだてるとやっぱりあちこちで日本語も聞こえ、さらにはゲームの「モンスターハンター」とのコラボレーションTシャツが売られているのも発見しました。友人いわくユニクロはブランド品としては値段も安く、最低限品質は保証されるから買いやすいとのことなのですが、日本にいると品質なんて保証されてて当たり前ですからあまり気にならなかったものの中国だと値段は確かに安いもののすぐに型が崩れたろ破れたりする衣類も珍しくありません。私も吸盤で壁に貼り付けるタオル掛けを買ってきたら買ったその日にプラスチック部が破損するという痛い目を見ましたが、こういった最低限の保証がいるのであれば多少値段が張るのも仕方ないと思うようになって来ました。
で、結局このユニクロでは「モンスターハンター」のTシャツを買おうかどうか悩んだものの結局買わず、運動時に着るようなTシャツを一枚買ってそのまま近くの今度はGAPの店に行きました。
こちらは写真がありませんが半額セールのためにユニクロ以上に人で込んでおり、シャツ一枚を購入しようとレジに並んだもののなかなか列が進まずに苦労をしました。その行列に並んでいる最中に近くのレジを見て見ると、なにやら子供服ばかり大量に買い込んでいる親子連れがいて友人としげしげと見ていたのですが、まだ精算の途中であったものの購入金額がすでに3500元(約45,500円)を超えていました。子供服だけでこれだけの金額を購入するのも驚きですが、それ以上に子供へとかける中国の親の情熱を垣間見た気がします。
こうしてショッピングを終えると、その後友人の案内で「田子坊」という観光地へと行きました。

この田子坊はレトロな建物を残した一角で、細く複雑な路地が入り組んでいる中で観光客向けにいろいろな店がレストランなりお土産屋をやっている場所ですが、路地自体は悪くないものの友人も言ってましたが売っているみやげ物が中国ではどこにでも売っているようなものばかりでオリジナリティがなく、まだまだ観光地としては中途半端な場所だと私も感じました。
ただここで唯一面白かったというかなんというか、突然後ろから「すいませんミユキさん」と流暢な日本語が聞こえたので振り返って見たら、欧米人らしき男性が別の日本人女性を呼んでました。私も友人も、「日本ならともかく、何で上海であんな人が日本語を……」とどうにも決まりの悪い印象を覚えました。
そうこうしてその後また何軒か服飾店を見て周って一緒に夕食を取ってその日は別れたのですが、別れる直前に友人が、「君、夜一人じゃ寂しいでしょ」といって、路上で物売っているおっさんからこれを買うように勧められました。

値段は25元(300円)だったから別にいいけど、おっさんも変な顔してたなぁ。
2011年1月7日金曜日
中国の新聞メディア
今日も昨日に引き続き中国の話で、中国の新聞メディアについてざらっと解説します。
中国の新聞とくれば恐らく大概の日本人は人民日報を思い浮かべるかもしれませんが、実は日本人はこの人民日報に対して大きな誤解を持っています。よく日本のメディアは中国関係のニュースの際に、「人民日報によると~」という書き出しなり前置きなりを置いてよく報じるのでさぞや影響力のある新聞だと感じられるかもしれませんが、これは直接複数の中国人にも確認しましたが実は当の中国人らは人民日報を読むことなんてほとんどなく、講読している人なんてほぼ皆無といっていいくらいいません。そもそも読もうにも人民日報はそこらの売店や本屋では販売されておらず入手する方が難しいくらいで、実際に私も中国滞在中に目にすることはほとんどなく、唯一見かけるとしたら大学内の掲示板や団地内の掲示板に貼り付けられいるのを見るくらいです。日本人のイメージだと人民日報は朝日新聞や読売新聞のように全国津々浦々に配られているようなイメージがあるでしょうが、実際のところは読んでる人がいたら結構珍しいような新聞です。
では人民日報とはどんな新聞なのかですがこれは単純に中国共産党の機関紙で、昔はほかに新聞がなかったから確かに全国でも読まれて発行部数もそこそこあったのですが、作って発行している所が所なだけに現地中国ですら、「日付と題名しか正しくない」とまで言われる始末で(天気予報はどうなんだろ)、競合メディアがほかにも出来た今では共産党内で読まれるだけの業界紙的な立場に追いやられております。ただ何度も言いますが作って発行している所が所なだけに政府の公式見解や発表を知る上では重要な情報源足りうるので、日本人が誤解するくらいに下手すりゃ本国以上に外国メディアや研究者などと海外で読まれる代物なのかもしれません。
ならば中国の新聞メディアは一体どんなものが読まれているのかですが、まだまだ文盲者が多くいる環境だけに日本みたいに電車や喫茶店で広げられて読まれる姿はほとんど見かけませんが、中にはよく買って読んでいる人はいるそうです。新聞事情については日本は毎朝配達されるのが当たり前など世界の中でも一番特別で説明がやや面倒なのですが、中国では基本的に新聞は雑誌などともに街頭にある売店で販売されており、値段は新聞によって違いますが大体日本円だと100円以下でまず買えます。
それではどの新聞が影響力があるのかですが、これについてはどれが強いとは一概に言い切れません。というのも中国の新聞で全国紙と呼べるのはほとんど読まれてないけど人民日報だけで、ほかは地方ごとにそれぞれ発行されている新聞が異なっております。北京なら北京の地方新聞、上海なら上海の地方新聞が発行されて現地の人間に読まれており、地方ごとならともかく中国という国単位でオピニオンリーダーと呼べるような新聞はまだないのが現実です。
また地方新聞と言ったって日本みたいに一県に一紙とかいうレベルじゃなく、上海などの大都市であればきちんと数えたことはないけど十種類以上はあるんじゃないかと思います。その中でも人気のある新聞とかはあるんでしょうが、どれがどのような新聞かはよく読んでいる人じゃないと多分わからないでしょう。
これから私もいろいろと研究していこうと考えてはいますが中には専門紙というか誰が読むんだというような新聞もあり、以前に私が手に取ったのだと軍事専門紙なんてものがあり、書いてる内容も人民解放軍内の人事異動とかどこそこにどんな兵器が配備されたなどというあまり生活上役に立たない情報で満載でした。ちなみに新聞に限らずテレビでも軍事専門チャンネルってのがあって、よく訓練中の兵士のインタビューとかが放映されてます。
最後に中国全土の各新聞社についてですが、基本的に民間メディアというものは存在せず地方新聞に至ってもどれも官営メディアです。人民日報のように中国共産党こと中央が運営しているのもあれば地方政府が発行したり資本関係にあったりなど、なにかしら役所が背後に付きまとってきます。ただ近年は以前よりも新聞メディアの独自の動きというか必ずしも政府の意向に沿うわけでなく、海外メディアに報じられるくらい変わった報道とか行動を起こすことが見えてきました。
古い例だと六年前に私が贔屓にしている北京の「新京報」がストライキを起こしたり、近い例だと産経新聞で報じられてましたが広東省のある新聞がここでは書きづらい人物を暗に祝福したりなどと。ただ広東省は省政府や地元住人が元から北京こと中央に対して反感を持っていると聞きますので、あれは案外省ぐるみの行動だったのかもしれません。
中国の新聞とくれば恐らく大概の日本人は人民日報を思い浮かべるかもしれませんが、実は日本人はこの人民日報に対して大きな誤解を持っています。よく日本のメディアは中国関係のニュースの際に、「人民日報によると~」という書き出しなり前置きなりを置いてよく報じるのでさぞや影響力のある新聞だと感じられるかもしれませんが、これは直接複数の中国人にも確認しましたが実は当の中国人らは人民日報を読むことなんてほとんどなく、講読している人なんてほぼ皆無といっていいくらいいません。そもそも読もうにも人民日報はそこらの売店や本屋では販売されておらず入手する方が難しいくらいで、実際に私も中国滞在中に目にすることはほとんどなく、唯一見かけるとしたら大学内の掲示板や団地内の掲示板に貼り付けられいるのを見るくらいです。日本人のイメージだと人民日報は朝日新聞や読売新聞のように全国津々浦々に配られているようなイメージがあるでしょうが、実際のところは読んでる人がいたら結構珍しいような新聞です。
では人民日報とはどんな新聞なのかですがこれは単純に中国共産党の機関紙で、昔はほかに新聞がなかったから確かに全国でも読まれて発行部数もそこそこあったのですが、作って発行している所が所なだけに現地中国ですら、「日付と題名しか正しくない」とまで言われる始末で(天気予報はどうなんだろ)、競合メディアがほかにも出来た今では共産党内で読まれるだけの業界紙的な立場に追いやられております。ただ何度も言いますが作って発行している所が所なだけに政府の公式見解や発表を知る上では重要な情報源足りうるので、日本人が誤解するくらいに下手すりゃ本国以上に外国メディアや研究者などと海外で読まれる代物なのかもしれません。
ならば中国の新聞メディアは一体どんなものが読まれているのかですが、まだまだ文盲者が多くいる環境だけに日本みたいに電車や喫茶店で広げられて読まれる姿はほとんど見かけませんが、中にはよく買って読んでいる人はいるそうです。新聞事情については日本は毎朝配達されるのが当たり前など世界の中でも一番特別で説明がやや面倒なのですが、中国では基本的に新聞は雑誌などともに街頭にある売店で販売されており、値段は新聞によって違いますが大体日本円だと100円以下でまず買えます。
それではどの新聞が影響力があるのかですが、これについてはどれが強いとは一概に言い切れません。というのも中国の新聞で全国紙と呼べるのはほとんど読まれてないけど人民日報だけで、ほかは地方ごとにそれぞれ発行されている新聞が異なっております。北京なら北京の地方新聞、上海なら上海の地方新聞が発行されて現地の人間に読まれており、地方ごとならともかく中国という国単位でオピニオンリーダーと呼べるような新聞はまだないのが現実です。
また地方新聞と言ったって日本みたいに一県に一紙とかいうレベルじゃなく、上海などの大都市であればきちんと数えたことはないけど十種類以上はあるんじゃないかと思います。その中でも人気のある新聞とかはあるんでしょうが、どれがどのような新聞かはよく読んでいる人じゃないと多分わからないでしょう。
これから私もいろいろと研究していこうと考えてはいますが中には専門紙というか誰が読むんだというような新聞もあり、以前に私が手に取ったのだと軍事専門紙なんてものがあり、書いてる内容も人民解放軍内の人事異動とかどこそこにどんな兵器が配備されたなどというあまり生活上役に立たない情報で満載でした。ちなみに新聞に限らずテレビでも軍事専門チャンネルってのがあって、よく訓練中の兵士のインタビューとかが放映されてます。
最後に中国全土の各新聞社についてですが、基本的に民間メディアというものは存在せず地方新聞に至ってもどれも官営メディアです。人民日報のように中国共産党こと中央が運営しているのもあれば地方政府が発行したり資本関係にあったりなど、なにかしら役所が背後に付きまとってきます。ただ近年は以前よりも新聞メディアの独自の動きというか必ずしも政府の意向に沿うわけでなく、海外メディアに報じられるくらい変わった報道とか行動を起こすことが見えてきました。
古い例だと六年前に私が贔屓にしている北京の「新京報」がストライキを起こしたり、近い例だと産経新聞で報じられてましたが広東省のある新聞がここでは書きづらい人物を暗に祝福したりなどと。ただ広東省は省政府や地元住人が元から北京こと中央に対して反感を持っていると聞きますので、あれは案外省ぐるみの行動だったのかもしれません。
2011年1月5日水曜日
職歴社会の今後を考える
本当は一つ前の記事の「公認会計士の就職難について」の記事に続けて書く予定でしたが、ちょっと収まりが悪いので記事を分けました。先の記事において公認会計士資格合格者の就職難に触れましたがリーマンショック以後の近年は90年代における就職氷河期を越えるほど若者の就職状況は悪化しており、その影響は様々な分野において現れております。
ちょっと前にも就職情報にはいろいろ間違った噂も多いというような記事を書きましたが、私が学生だった頃はボランティア活動をしているといいとか、資格があれば有利とか、履歴書の文字はきれいな方がいいなどあれこれありましたが、公認会計士資格は文句なしに印籠の如く使える資格だと聞いていただけに先の記事での内容はショックを受けたわけです。
ただ前にも書きましたが、皮肉なことにそれまでの日本の雇用慣行において大きな影響力を示していた学歴というものはこの就職環境の悪化によって幾分薄れた感はあります。昔であれば大学の学歴順にその後の出世も決まっていたとか、学閥がどこの会社にもあったなどと聞いていますが、その手の話題はこのところとんと聞きません。
もちろん大企業によってはエントリー時の足きりに大学を基準にするなどということは今でも残っていますが、それでもかつて語られていた「学歴社会」というのはもう死語になりつつあるのではないかという気がします。現実に中国や韓国の状況よりはマシですし。
ただその学歴社会にとって変わってきているのが、この記事の題に据えた職歴社会ではないかと私は考えています。
この職歴社会という言葉は前の「陽月秘話」でも紹介しましたが、私の造語です。意味は読んで字の如く職業として勤務した経験や履歴によって社会的地位が決まりやすい社会ということで、就職するに当たって学力や資格よりも仕事内容ごとによる勤務経験や前に働いていた企業の規模などが影響する社会を指しております。具体例を挙げると、大学新卒時に正社員職を得られないとその後も正社員職への就職が難しくなることや、公認会計士や弁護士資格を取得したばかりの人よりもある程度その方面の仕事の経験者が優遇されるといったことが挙げられます。
この職歴社会の問題点は言うまでもなく、高校や大学卒業時に就職できなかった人たちの不遇です。この新卒問題は公にも認知されており政府も、「卒業後三年以内は新卒扱いにすべし」と企業に通達を出していますがあまり効果は望めることもなく、その後もずっと正社員への門戸が阻まれることを考えると実に根深い問題だといわざるを得ません。運良く新卒時に就職出来た人間は勤務経験も得られてその経験を生かして転職することも出来るのに対し、新卒で就職できなかった方はその後もハンデが付きまとうことを考えるといささか身分制社会のような印象を受けます。
それだけに私は新卒で就職できなかった人間がそのハンデを克服する手段としては難度の高い資格取得しかないのではとこれまで考えていたのですが、弁護士や公認会計士資格ですらも就職状況が悪いというのであればもはやお手上げではないかとショックを受けたわけです。
こういった内容を先日に友人と話していたのですが、このまま行くとゆくゆくは職歴を得るために半ば志願する形で企業に無償で働く、もしくは働かされる人間が出てくるのではないかと予期しました。実際に思い当たる節もないわけでなく、私が上海で転職先を探していた頃に人材会社の人から聞いた話では日本で就職先が見つからないために中国語が全く出来ないにも関わらず中国へ来る人が増えてきているそうです。
以前人気番組のカンブリア宮殿で「餃子の王将」が取り上げられた際に無茶振りもいいとこな新入社員研修のシーンにて、「その仕事、私にやらせてくださいっ!(;Д;)」と、土下座するかのように新人に言わせていた場面があったことから放送後はあれこれ議論となりましたが、職歴社会が今後ますます幅を利かせるようになるとこのような台詞が一般化するのではないかと危惧せずにはいられません。
そういう風に友人と話していたらふとしたことからジブリ映画の「千と千尋の神隠し」にまで話が及び、主人公の千尋が湯婆婆に、「ここで働かせてください!!」と言うシーンがありますがこの台詞が日本のあちこちで聞こえるようになり、「お前の名前は今日から千だ」というようなフレーズが続くのではないかと妙な想像までしてしまいました。
ただこの作品自体が一部評論家よりバブル崩壊後の日本を背負わなければならない子供たちを描いているという評価があり、そういう意味では時代を随分と先取りしているのかもしれず、案外ここで私が書いた内容に通じているのかもしれません。
久々の一日記事二本は疲れました。あとご飯二合を一度に食べたのがよくなかったのか、ちょっとおなか痛くなってきました。
ちょっと前にも就職情報にはいろいろ間違った噂も多いというような記事を書きましたが、私が学生だった頃はボランティア活動をしているといいとか、資格があれば有利とか、履歴書の文字はきれいな方がいいなどあれこれありましたが、公認会計士資格は文句なしに印籠の如く使える資格だと聞いていただけに先の記事での内容はショックを受けたわけです。
ただ前にも書きましたが、皮肉なことにそれまでの日本の雇用慣行において大きな影響力を示していた学歴というものはこの就職環境の悪化によって幾分薄れた感はあります。昔であれば大学の学歴順にその後の出世も決まっていたとか、学閥がどこの会社にもあったなどと聞いていますが、その手の話題はこのところとんと聞きません。
もちろん大企業によってはエントリー時の足きりに大学を基準にするなどということは今でも残っていますが、それでもかつて語られていた「学歴社会」というのはもう死語になりつつあるのではないかという気がします。現実に中国や韓国の状況よりはマシですし。
ただその学歴社会にとって変わってきているのが、この記事の題に据えた職歴社会ではないかと私は考えています。
この職歴社会という言葉は前の「陽月秘話」でも紹介しましたが、私の造語です。意味は読んで字の如く職業として勤務した経験や履歴によって社会的地位が決まりやすい社会ということで、就職するに当たって学力や資格よりも仕事内容ごとによる勤務経験や前に働いていた企業の規模などが影響する社会を指しております。具体例を挙げると、大学新卒時に正社員職を得られないとその後も正社員職への就職が難しくなることや、公認会計士や弁護士資格を取得したばかりの人よりもある程度その方面の仕事の経験者が優遇されるといったことが挙げられます。
この職歴社会の問題点は言うまでもなく、高校や大学卒業時に就職できなかった人たちの不遇です。この新卒問題は公にも認知されており政府も、「卒業後三年以内は新卒扱いにすべし」と企業に通達を出していますがあまり効果は望めることもなく、その後もずっと正社員への門戸が阻まれることを考えると実に根深い問題だといわざるを得ません。運良く新卒時に就職出来た人間は勤務経験も得られてその経験を生かして転職することも出来るのに対し、新卒で就職できなかった方はその後もハンデが付きまとうことを考えるといささか身分制社会のような印象を受けます。
それだけに私は新卒で就職できなかった人間がそのハンデを克服する手段としては難度の高い資格取得しかないのではとこれまで考えていたのですが、弁護士や公認会計士資格ですらも就職状況が悪いというのであればもはやお手上げではないかとショックを受けたわけです。
こういった内容を先日に友人と話していたのですが、このまま行くとゆくゆくは職歴を得るために半ば志願する形で企業に無償で働く、もしくは働かされる人間が出てくるのではないかと予期しました。実際に思い当たる節もないわけでなく、私が上海で転職先を探していた頃に人材会社の人から聞いた話では日本で就職先が見つからないために中国語が全く出来ないにも関わらず中国へ来る人が増えてきているそうです。
以前人気番組のカンブリア宮殿で「餃子の王将」が取り上げられた際に無茶振りもいいとこな新入社員研修のシーンにて、「その仕事、私にやらせてくださいっ!(;Д;)」と、土下座するかのように新人に言わせていた場面があったことから放送後はあれこれ議論となりましたが、職歴社会が今後ますます幅を利かせるようになるとこのような台詞が一般化するのではないかと危惧せずにはいられません。
そういう風に友人と話していたらふとしたことからジブリ映画の「千と千尋の神隠し」にまで話が及び、主人公の千尋が湯婆婆に、「ここで働かせてください!!」と言うシーンがありますがこの台詞が日本のあちこちで聞こえるようになり、「お前の名前は今日から千だ」というようなフレーズが続くのではないかと妙な想像までしてしまいました。
ただこの作品自体が一部評論家よりバブル崩壊後の日本を背負わなければならない子供たちを描いているという評価があり、そういう意味では時代を随分と先取りしているのかもしれず、案外ここで私が書いた内容に通じているのかもしれません。
久々の一日記事二本は疲れました。あとご飯二合を一度に食べたのがよくなかったのか、ちょっとおなか痛くなってきました。
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