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2011年1月10日月曜日

寿命の尽きない時代に向けて その一

 アメリカのブッシュ政権ときたら先の見えない泥沼化したイラク戦争を始めるなどその評価はアメリカ本国でもあまり高くはありませんが、真偽は不確かですが以前に聞いた話で、唯一アンチエイジング治療の研究に予算を割いたことは評価されているといううわさを耳にしたことがあります。
 このアンチエイジングという言葉ですが五年くらい前であれば多分誰も知らない言葉だったと思いますが、みんながみんな知っているわけではないもののこの数年間で随分と普及はした感があります。この言葉の意味は英訳そのままで反老化、つまり老化を防いだり寿命を延ばしたりする治療や研究の事を指しております。

 近頃は日本においてもアンチエイジングを謳ったクリニックや医院なども現れるなど急速に普及しており、またこの方面の研究で大きな可能性を持つips細胞を京大の山中教授のチームが発見するなどあながち根拠なく広まっているわけではありません。元々日本人自体が世界的にも長寿の民族で本人らも寿命にやけにこだわるところがあり、滅茶苦茶な制度にもかかわらず生涯受け取る年金の額を若いうちからあれこれ計算するなど長生きに対して考える下地があるのかも知れません。

 さてこのアンチエイジングですが、私の私見を述べさせてもらえば今後の研究によって人間の寿命が劇的に伸びる可能性は高いと見ております。ips細胞一つとっても慢性病の根治治療に大きな可能性を秘めており、また各種の薬剤の発達によって現時点でも見た目を若くする技術は以前とは比べ物にならないほどの進歩を遂げており、さすがに私が生きている間に不老不死までは行かないでしょうが、それこそ平均寿命が百歳を越えるのが当たり前の時代がやってくるかもしれません。
 もちろんこうした技術の発達は歓迎すべきなのでしょうが、私は現時点でいささか、技術の発達に対してその技術を用いる器というか哲学的議論が遅れているような気がします。基本的に技術が思想や想定を超えると、たとえるなら三国時代にビームを撃てる人がいたりすると物事がちょっとおかしくなってしまうように、ある程度哲学的議論は技術に対して専攻しておく必要があると考えています。そこでちょっと気が早いような気もしますが、「不老不死が成立する時代」についていくつか考えを述べようと思います。

 不老不死について考えるといった矢先ですが、まず不老と不死は分けて考える必要があるでしょう。たとえば不老ではあるものの寿命があって不死ではないという場合か、限りなく寿命が長くて不死に近いものの不老ではない場合かですが、両者ともにSF小説はもとより神話においてすらも題材に取られて描かれたりします。そういった空想のお話は大抵悲劇的結末で終わるのがオチで後者なんかは強欲な金持ちがよく妙な延命手術とかしてあーだこーだする展開ですが、今現在で近いうちに実現するとしたら前者の方でしょう。要するに見かけはある程度若さを保っていられるものの、寿命自体は多少は伸びるとしても大体現在の平均寿命で死んでしまうというような話です。
 現実のアンチエイジング治療研究も大体はこっちを想定しており、寿命自体を伸ばすことよりも如何に若さを保つかという技術の開発が行われております。恐らくほかの方もそうでしょうがいくら長生きできるからといって体が弱って寝たきりのままでは意味がなく、それよりも八十歳や九十歳でも元気で走れ回れる方が生きている価値が高いと感じるでしょう。

 私自身はこのような未来が実現するとしたら、それはきっと肉体の半機械化ことサイボーグ化が実現する未来だろうと見ています。すでに盲目の人の視神経とカメラを繋ぐことで視覚を一部回復する技術は実現していますし、今後も漫画の「攻殻機動隊」や「鋼の錬金術師」などのように肉体の一部を無機機械化する技術は高まっていくと予想されるのですが、その際に引っかかるというかどうしても代替出来ないだろうと思う組織として脳が挙げられます。思考や記憶を司っており、いわば魂に最も近い肉体組織の脳はさすがに機械化することは現時点では想像もつかず(漫画の「銃夢」ではコンピューターチップ化してたが)、肉体自体は機械化、もしくはクローンに脳を換装することで半永久的に保つことは出来るとしても脳だけは取替えが利きません。もちろん脳自体もたんぱく質で出来ているので細胞として寿命があり、最近は治療法も進んできてアルツハイマーなどについては現時点で根治治療は出来ないものの病状の進行はほぼ止められるレベルまで来ておりますが加齢による衰えはまだ克服しておらず、肉体は不老不死を保てるとしても結局は脳の寿命がその人の寿命(ほぼ現時点の寿命)に落ち着くのではないかと考えています。

 多分近い未来に起こるとしたら上記のような事態でしょうが、このような事態で想定される問題としては果たして人間は死を受け入れられるか否かです。普通は寿命とともに徐々に肉体が弱っていって周囲も本人も死を徐々に実感していくものですが、肉体が不老不死では果たしてそうやすやすと受け入れられるものなのか私には疑問です。本人自身も脳の衰えを受けてやや整合の取れない行動を繰り返すようになっても肉体は元気なままですし、自分が近いうちに死ぬということを認知できるのか、場合によってはそれが認知できないまま元気に動き回り続けるということも考えられます。
 こう言葉で表現するのは難しいですが、それが幸せなのか不幸なのかというよりそれでいいのかという風に私は思います。

 多分こうなるだろうとは思ってましたがまだまだ書ききれておりませんので、続きはまた明日以降に書きます。平日にこんなややこしい記事に取り組むべきじゃなかったな。

 あと余談ですが、やはり体力のある方が脳の痴呆症状を起こすと世話をする方の負担は凄まじいそうです。うちのおふくろの友人も生前に父親が痴呆を起こしたそうなのですが、戦時中に片腕を失ったにもかかわらず夜中に自転車でどこかへ行ってしまうなど大変だったそうです。この話に限るわけじゃないですが、おふくろの故郷の阿久根は自分の想像を超える話に満ち溢れている気がします。

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