通常、どの社会においても殺人行為は処罰の対象となります。これは法律とかそういうもので決められているからではなく生物は基本的にメスの奪い合いなどといった例外事態を除くと同属を殺害する際には強いストレスを感じるように出来ているので、いわば本能に根ざした禁止、自然法的な概念だと私は考えております。しかし人間社会において唯一殺人が奨励され、処罰がなされないのが戦争です。
国際法やら戦争法で決まっているのかどうかまではわかりませんが、基本的に戦争中における兵卒同士の殺人は処罰がなされないこととなっております。もちろん軍属が民間人を殺害した場合は軍法会議などで処罰対象となりますが、双方戦争を行うという合意に基づいての殺人は責任を問われないということになっているそうです。もっとも実際のところは太平洋戦争後のB、C級戦犯などのように戦勝国側に敗戦国側の兵士や仕官が一方的に裁かれることが多く、近年もイラク戦争でもあのアブグレイブ刑務所の捕虜虐待事件とかを見ているとやはりこういったことが行われているのではないかという気がします。
さてこの戦争における殺人ですが、どのように捉えるかは非常に難しいものです。上記のように捕虜や民間人を殺さないという戦争のルールに則っていれば許されるものなのか、それともいくら戦争とはいえ殺人は殺人として許すべきではないのか、人によって意見は様々です。中には日本の自衛隊が影響しているのか自衛戦争において侵略者を殺害するのであれば許されるという意見もたまに見受けられますが、これは戦争には正しい側と正しくない側が存在するという前提があっての意見になり、そうなると戦争に正義はあるのかという議論にまで色々と発展していきそうです。
先日元ライブドア社長の堀江氏がツイッターか何かで、「殺人は犯罪、しかし戦争で人を殺すのは無罪。両者にどんな違いがあるのか?」と書いたそうでなんか一部で議論となっていましたが、この意見を聞いて少し思い出した本があります。その本は加藤尚武氏による「戦争倫理学」という本で、よく人から「戦争に倫理もクソもあるかよ」とタイトルを教えるたびに言われるのですが、戦争という倫理が最も吐き捨てられる場所において最低限どのような概念を持つべきかという内容が書かれているのですが、読んではみたもののいかんせん個々の話がそれぞれ脈絡が少なく覚えている部分が少ないのが正直な感想です。
ただこの本の中で名指しで批判されていたのが「ゴーマニズム宣言」の小林よしのり氏で、小林氏が自著の「戦争論」において、「戦争とは一種のカーニバルみたいなもので、平時は抑えられている欲望とかそういうものを一挙に開放する場所だ」というように描いた内容についてまさに上記の堀江氏のように加藤氏が、「そうだとすると戦争で殺された人間は平時に殺された人間と比べて運がなかったと言うしかないのか」と、同じ殺人として区分すべきというように批判をしていました。
実際のところ、この辺をどのように考えるかは非常に難しいです。戦争における殺人を平時における殺人のように個々に裁いていたらとてもじゃないですが裁判や補償が追いつくわけもなく、かといってそれを戦争だからで全部無視していいのか、また戦争を指示した国家が賠償なりに責任を持てばいいのか、考えてたらはっきり言ってこちらも切りがないです。
実際に「戦争」ということで殺人罪を許された例として、ここで挙げるべきかどうか少し悩みますが小野田寛郎氏の例があります。小野田市は終戦後も29年にわたってフィリピンにてゲリラ戦を行い、この間に現地の警察、米兵を殺害しておりますが、戦争中における行為としてフィリピン政府から特赦を受け帰国しております。
もちろん小野田氏は上官から命令された行為を行っていただけで今現在の日本でも起きている通り魔や強盗といった自己本位による殺人とは動機や目的において一線を画しますし、彼の過酷な潜伏体験を考えると私もとても責任を求める気にはなりません。ですが戦争での殺人ということで何でもかんでも特別視をすることは本当に正しいのか、それともこういうことを考えること自体が馬鹿馬鹿しいのかという点で悩みは尽きません。
名前は出しませんがこれは誰かが言っていた台詞で、国家に対して個人というものは非常に弱く、運命なぞ簡単に翻弄されてしまうといって特攻隊やインパール作戦の犠牲者の悲劇を語る人がいますが、戦争における殺人は個人単位ではなくやはり主体となる国家単位で考えるべきなのかもしれません。国家の殺人となると私の中で真っ先に思い浮かぶのはミドリ十字の薬害エイズ事件ですが、そのミドリ十字の設立者たちには731部隊の面々が関わっていることを考えると同じ殺人をする人間はまた同じ殺人をするのかと考えさせられます。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2011年2月12日土曜日
2011年2月9日水曜日
財政再建には増税が必要なのか
今日もまたネットニュースにて国の借金が増え、国民一人当たりどれくらいの借金を担っているかというニュースが配信されていました。私が小学生の頃の日本の国債発行高は確か400兆円くらいでしたがあれよあれよという間に現在はすでにその時の額から二倍以上にまで膨れ上がり、現今においてこの借金をどう返すかという財政姿勢が主要な政治課題となりつつあります。
そんな財政再建議論において最前面にいる政治家を挙げるとするなら、それはほかでもなく与党民主党の代表である菅首相が挙がって来ます。菅首相は総理就任後の参議院選挙において消費税の増税を掲げ(批判されるやすぐ引っ込めたけど)て財政再建を強く訴えたことから、それ以前からもなかったわけではないですが俄然この問題が前面に出てきた感があり、そこで今日は財政再建に増税が必要かどうかを含め現況を整理するとともに問題提起を行おうかと思います。
まず菅首相の増税論については現状で数多くの批判がなされているのは事実です。理由はいくつかありますが主に財界からの批判としては増税を行うと消費が冷え込み、余計に経済が悪化して税収が落ちるというような批判がされておりますが、実際に97年に当時の橋本政権が消費税率を従来の3%から現在の5%に増税した際は増税したその年こそ税収は増加したもののすぐに景気が悪化し、二年後にはそれ以前より少ない税収となって「失われた十年」の最悪期を引き起こしたと現在でも指摘されております。
では財政再建のためには増税は行うべきではないのかということになってしまいますが、実は私は増税に対しては肯定派の立場を取ります。その理由としては現状でも予算が足らず国債を発行し続けているのに税収を増やさずしてどうしてプライマリーバランスを回復できるのかという考えと、日本の景気を回復させるためにもこうした財政再建を行うという強い姿勢を見せることが必要だと感じるからです。
そもそも何故現在の日本が不況なのかといえば、一つの大きな理由としてはやはり消費が低い水準のまま維持してデフレが続いているからです。では何故消費が少ないのかといえばいろいろ理由はありますが、その中でも将来の社会保障があまりにも不透明ゆえお金を使おうにも使えないということが特に大きな原因ではないかと私は考えております。
将来の社会保障というのは単純に年金や医療保障のことで、若い時分であればまだ働くことが出来るけれども老齢時にはただでさえ就職口がないだけに、自分の身は自分で守れとばかりに現在四十代から五十代の方々はうちの両親同様に老後の蓄えを一定度確保するのに執心しているかと思います。
もし仮に年金など将来の社会保障がしっかりとしていて国民も安心できるのであれば、壮年層もそこまでお金を貯めようとせずに使える時、まだ元気なうちに使ってしまおうと消費に回ってくる可能性があるとかねてから評論家などに言われております。私自身もこの意見に同感なのですが、現在そういった社会保障に何故信頼が置かれないのかといえば杜撰な年金管理はもとより将来基金が枯渇することが確実な欠陥制度に加え、それを担保する国の財政が借金漬けにあることなどが原因でしょう。
そのため確かに97年度の増税時には景気は悪化したものの現時点の増税は国民の側も多少は理解を示すようになっており、こうした将来への不安を多少なりとも和らげる効果があるのであれば私は当時ほどの景気悪化は招かずに税収は増加するのではないかと見ております。
しかし、だからといって私は現時点の菅首相の増税論については真っ向から反対です。先ほども述べた通りに私は増税には賛成ではありますが、菅首相の増税論は日本の借金を返すためというよりはマニフェストに掲げた子供手当てなどといった新たな政策を実行するための資金稼ぎにしかなっておらず、プライマリーバランスの回復にはほとんど寄与しないと断言してもいいです。また仮に増税を行って得た税収をすべて社会保障に回すとしても膨大な借金が残ったままでは福祉がいくら充実したところで国民はやはり安心感が持てず、壮年層の貯蓄傾向と若年層の年金離れは変わらないままでしょう。
ではどうすればいいかですが、ごくごく単純に増税しつつ支出を減らしていくという、徳川吉宗の享保の改革以来の方法を踏襲するよりほかはないでしょう。
これまでの財政再建議論は90年代においてはもっと国債を発行してお金を集め、そのお金で公共事業などを行って景気を回復させれば税収が増えて円満解決だという、まるでばくちで作った借金をばくちで取り返すというようなやり方でしたが、こんなの通用するわけもなく結局景気は回復しないまま余計に借金を増やしただけに終わりました。その後小泉政権において積極財政政策は否定され、「聖域を設けない」という言葉通りに社会保障費などドラスティックに削減した緊縮財政政策が行われましたが、恐らく最低限の支持率を確保するためでしょうがとうとう小泉政権は増税には踏み切りませんでした。
そして今度の菅政権では社会保障+αを増額する代わりに増税を行って財政再建をすると主張していますが、はっきり言いますが論理破綻もよいところです。本気で財政再建を行うというのであれば小泉元首相同様に聖域を設けずに支出を削減した上で増税しなければいけませんが、菅政権、というより民主党には下記のような聖域が明らかに存在します。
・議員定数
・公務員の人件費
・子供手当て
・外国人
・道路
小泉政権の頃も全く聖域がなかったわけではありませんが、それでも国土交通省関連の予算を大幅に削減するなど従来の常識では考えられない領域に手をつけたのは評価に値します。また小泉政権は社会保障を削減して復旧不可能な水準まで破壊したと私も当時に批判を行いましたが、今思うと本当にそれくらいのことをしなければ財政再建なんて夢のまた夢なのではないかと、たとえ現在が破壊されようとも未来に芽を残せるのであれば耐えなければならないのではとやや考え方が変わってきました。
ややもするとこの財政議論は増税か、支出削減かの二択で争われる傾向がありますが、私は最早待ったなしで増税もしつつ支出削減もしなければ財政再建など出来ないところまで来ているのではと考えています。もちろんこんなことしたら享保の改革時同様に不況がさらに悪化するかもしれませんが、私はもともとの不況の原因はデフレで、デフレを克服するためにはプライマリーバランスの回復が何よりも重要だと考えており、財政再建政策を執ることは一時的には大きなダメージを日本に残すかもしれませんが長期的な視野に立てば日本にとって最もよい道ではないかと見ております。
享保の改革時、巷にて一連の改革は確かに厳しいけれども後で効果が出てくるお灸のようなものだと思って我慢するしかない落首が流行ったそうです。人間誰しも痛い目や苦しい思いはしたくはありませんが、それが本当に将来につながるのであれば私は我慢をしてみようという覚悟があります。ほかの人まではわかりませんが。
追伸
つい以前まで増税はせずに緊縮財政、景気回復によって財政再建を主張する竹中平蔵氏を始めとした小泉改革のメンバーのことを「上げ潮派」と読んでましたが、なんだかいつの間にかこの言葉は死語になっていたような気がします。リーマンショック以降は景気回復なんて現実味がなくなったからかな。
追伸2
このところ自分でもしょうもないと思う記事ばかり書いてて悶々としてましたが、敢えて久々にややこしいテーマを選んで書いたところなかなか気持ちよかったです。人間、高いところ目指してそこに立ってないと駄目になりますね。
そんな財政再建議論において最前面にいる政治家を挙げるとするなら、それはほかでもなく与党民主党の代表である菅首相が挙がって来ます。菅首相は総理就任後の参議院選挙において消費税の増税を掲げ(批判されるやすぐ引っ込めたけど)て財政再建を強く訴えたことから、それ以前からもなかったわけではないですが俄然この問題が前面に出てきた感があり、そこで今日は財政再建に増税が必要かどうかを含め現況を整理するとともに問題提起を行おうかと思います。
まず菅首相の増税論については現状で数多くの批判がなされているのは事実です。理由はいくつかありますが主に財界からの批判としては増税を行うと消費が冷え込み、余計に経済が悪化して税収が落ちるというような批判がされておりますが、実際に97年に当時の橋本政権が消費税率を従来の3%から現在の5%に増税した際は増税したその年こそ税収は増加したもののすぐに景気が悪化し、二年後にはそれ以前より少ない税収となって「失われた十年」の最悪期を引き起こしたと現在でも指摘されております。
では財政再建のためには増税は行うべきではないのかということになってしまいますが、実は私は増税に対しては肯定派の立場を取ります。その理由としては現状でも予算が足らず国債を発行し続けているのに税収を増やさずしてどうしてプライマリーバランスを回復できるのかという考えと、日本の景気を回復させるためにもこうした財政再建を行うという強い姿勢を見せることが必要だと感じるからです。
そもそも何故現在の日本が不況なのかといえば、一つの大きな理由としてはやはり消費が低い水準のまま維持してデフレが続いているからです。では何故消費が少ないのかといえばいろいろ理由はありますが、その中でも将来の社会保障があまりにも不透明ゆえお金を使おうにも使えないということが特に大きな原因ではないかと私は考えております。
将来の社会保障というのは単純に年金や医療保障のことで、若い時分であればまだ働くことが出来るけれども老齢時にはただでさえ就職口がないだけに、自分の身は自分で守れとばかりに現在四十代から五十代の方々はうちの両親同様に老後の蓄えを一定度確保するのに執心しているかと思います。
もし仮に年金など将来の社会保障がしっかりとしていて国民も安心できるのであれば、壮年層もそこまでお金を貯めようとせずに使える時、まだ元気なうちに使ってしまおうと消費に回ってくる可能性があるとかねてから評論家などに言われております。私自身もこの意見に同感なのですが、現在そういった社会保障に何故信頼が置かれないのかといえば杜撰な年金管理はもとより将来基金が枯渇することが確実な欠陥制度に加え、それを担保する国の財政が借金漬けにあることなどが原因でしょう。
そのため確かに97年度の増税時には景気は悪化したものの現時点の増税は国民の側も多少は理解を示すようになっており、こうした将来への不安を多少なりとも和らげる効果があるのであれば私は当時ほどの景気悪化は招かずに税収は増加するのではないかと見ております。
しかし、だからといって私は現時点の菅首相の増税論については真っ向から反対です。先ほども述べた通りに私は増税には賛成ではありますが、菅首相の増税論は日本の借金を返すためというよりはマニフェストに掲げた子供手当てなどといった新たな政策を実行するための資金稼ぎにしかなっておらず、プライマリーバランスの回復にはほとんど寄与しないと断言してもいいです。また仮に増税を行って得た税収をすべて社会保障に回すとしても膨大な借金が残ったままでは福祉がいくら充実したところで国民はやはり安心感が持てず、壮年層の貯蓄傾向と若年層の年金離れは変わらないままでしょう。
ではどうすればいいかですが、ごくごく単純に増税しつつ支出を減らしていくという、徳川吉宗の享保の改革以来の方法を踏襲するよりほかはないでしょう。
これまでの財政再建議論は90年代においてはもっと国債を発行してお金を集め、そのお金で公共事業などを行って景気を回復させれば税収が増えて円満解決だという、まるでばくちで作った借金をばくちで取り返すというようなやり方でしたが、こんなの通用するわけもなく結局景気は回復しないまま余計に借金を増やしただけに終わりました。その後小泉政権において積極財政政策は否定され、「聖域を設けない」という言葉通りに社会保障費などドラスティックに削減した緊縮財政政策が行われましたが、恐らく最低限の支持率を確保するためでしょうがとうとう小泉政権は増税には踏み切りませんでした。
そして今度の菅政権では社会保障+αを増額する代わりに増税を行って財政再建をすると主張していますが、はっきり言いますが論理破綻もよいところです。本気で財政再建を行うというのであれば小泉元首相同様に聖域を設けずに支出を削減した上で増税しなければいけませんが、菅政権、というより民主党には下記のような聖域が明らかに存在します。
・議員定数
・公務員の人件費
・子供手当て
・外国人
・道路
小泉政権の頃も全く聖域がなかったわけではありませんが、それでも国土交通省関連の予算を大幅に削減するなど従来の常識では考えられない領域に手をつけたのは評価に値します。また小泉政権は社会保障を削減して復旧不可能な水準まで破壊したと私も当時に批判を行いましたが、今思うと本当にそれくらいのことをしなければ財政再建なんて夢のまた夢なのではないかと、たとえ現在が破壊されようとも未来に芽を残せるのであれば耐えなければならないのではとやや考え方が変わってきました。
ややもするとこの財政議論は増税か、支出削減かの二択で争われる傾向がありますが、私は最早待ったなしで増税もしつつ支出削減もしなければ財政再建など出来ないところまで来ているのではと考えています。もちろんこんなことしたら享保の改革時同様に不況がさらに悪化するかもしれませんが、私はもともとの不況の原因はデフレで、デフレを克服するためにはプライマリーバランスの回復が何よりも重要だと考えており、財政再建政策を執ることは一時的には大きなダメージを日本に残すかもしれませんが長期的な視野に立てば日本にとって最もよい道ではないかと見ております。
享保の改革時、巷にて一連の改革は確かに厳しいけれども後で効果が出てくるお灸のようなものだと思って我慢するしかない落首が流行ったそうです。人間誰しも痛い目や苦しい思いはしたくはありませんが、それが本当に将来につながるのであれば私は我慢をしてみようという覚悟があります。ほかの人まではわかりませんが。
追伸
つい以前まで増税はせずに緊縮財政、景気回復によって財政再建を主張する竹中平蔵氏を始めとした小泉改革のメンバーのことを「上げ潮派」と読んでましたが、なんだかいつの間にかこの言葉は死語になっていたような気がします。リーマンショック以降は景気回復なんて現実味がなくなったからかな。
追伸2
このところ自分でもしょうもないと思う記事ばかり書いてて悶々としてましたが、敢えて久々にややこしいテーマを選んで書いたところなかなか気持ちよかったです。人間、高いところ目指してそこに立ってないと駄目になりますね。
漫画家の北条司氏について思うこと
私が現役の漫画家の中で個人的に最も高く評価をしているのは、「シティーハンター」を代表作として持つ北条司氏です。
「シティーハンター」自体がもう大分昔の作品なのでもしかしたらどんな作品かわからない方もいるかもしれませんが、多分私と同い年くらいの人間なら夕方五時半からよくやっていたアニメの再放送などで見ていた経験があるかと思います。内容については主題ではないのここではあまり解説しませんが、一回このブログにて「男がかっこいいと思う男性キャラクター」というテーマで記事を書こうとした際にまず真っ先に思い浮かんだのがこのマンガの主人公である冴羽獠でした。結局この企画はほかに出てくるのが「ルパン三世」のルパンくらいだったので企画倒れとなってしまいましたが。
私はこの「シティハンター」を幼児ながら当時同じジャンプで連載されていた「ドラゴンボール」を読む傍ら、放映されていたアニメとともによく読んでいました。とはいってもさすがに幼児の時分で後年になると大まかなあらすじは知っているものの内容についてはほとんど覚えてなかったのですが、大学生時代にブックオフ内で古本が売られているのを見つけ、思うところがあって改めて単行本を買い集めて改めて読んでみたところ、あの「もっこり」という表現を始めとして暗殺などを生業とする主人公が出るなど、よくこんな大人向けのマンガがジャンプで連載されていたなと感心するとともに、そんなマンガを幼児であった自分も楽しんで読んでいたという事実に驚きました。
その上である程度年齢の乗った状態で読み返してみると、子供の頃にはわからなかった部分がわかるようになってか当時とは違った感覚で読み返すことが出来ました。また買い集めた単行本を部屋に置いていたところ私の部屋に遊びにくる友人らがことごとく見つけては、「シティーハンターや!Σ(゚∀゚ノ)ノ」といっては勝手に読み出し、私の部屋の漫画本の中では「鬼切丸」を越えて貸し出し回数No.1でした。
北条氏のマンガの特徴を挙げると、何を置いてもまず描かれるキャラクター絵の秀麗さに尽きます。デビュー作の「キャッツアイ」を始めとして女性キャラクターを描かせたら天下一品だとよく言われていますが、私は女性キャラクターももちろんのこと男性キャラクターにおいてもそれぞれの特徴がしっかりと現れているので注目に値するかと思います。
その上で私なりの着目点を述べると、北条氏のマンガは写実的な背景など現代世界を舞台にしていることが多く、頭身が高くデフォルメの少ないキャラクター絵とあいまってほかのマンガと比べてテレビドラマや映画のような観点で読めるものが多いです。このような現実感の強いマンガは北条氏に始まるわけでなく、それ以前にこちらも私が大好きな池上遼一氏のマンガでも展開されていますが、少年漫画においてこれほどまでスタンダードを作ったという意味では北条氏の功績は高いかと思います。
さらに言うと、これは私も最近知ったのですが北条氏のアシスタント経験者には「スラムダンク」の井上雄彦氏、「BØY」の梅澤春人氏がいたらしく、二人とも北条氏同様に現代世界を舞台に頭身の高いキャラクターが出る作品を多く書いているだけにそれぞれの初期の作品には北条氏のマンガの匂いがします。両者ともに90年代中盤のジャンプを引っ張る連載作品を出しているだけに良将は良兵を生むといったところですが、どっちももう大御所といっていいくらいの大物なのでこの言い方は失礼かもしれません。
これは漫画家に限るわけじゃないですが、後藤新平ではないですが人を評価する上でその人物がどれだけの仕事を成し遂げたということよりも、どれだけ後世への影響を与えたかで見るべきだと私は考えています。90年代最大、というより日本のマンガが始まって以来の最大のヒット作は間違いなく「ドラゴンボール」ですが、良くも悪くも「ドラゴンボール」はあらゆる点で突き抜けていたためにその表現技法などを引き継いだ漫画家はほとんどいないのではないかと見ています(しいて挙げれば尾田栄一郎)。
それに対して北条氏ですが、私は現代の少年漫画は多かれ少なかれ彼の影響を受けているのではないかと考えています。北条氏の後進の漫画家が活躍していることもそうですが、マンガの技法やストーリー展開などで地味に強い影響力を残しているのではないかと思います。
もちろん厳密にみればもっと影響力の強い漫画家がほかにもいるでしょうが、北条氏を「シティーハンターの漫画家」ではなく、「少年漫画に一石を投じた漫画家」として見てはいかがかと思ってこうして記事にまとめました。
「シティーハンター」自体がもう大分昔の作品なのでもしかしたらどんな作品かわからない方もいるかもしれませんが、多分私と同い年くらいの人間なら夕方五時半からよくやっていたアニメの再放送などで見ていた経験があるかと思います。内容については主題ではないのここではあまり解説しませんが、一回このブログにて「男がかっこいいと思う男性キャラクター」というテーマで記事を書こうとした際にまず真っ先に思い浮かんだのがこのマンガの主人公である冴羽獠でした。結局この企画はほかに出てくるのが「ルパン三世」のルパンくらいだったので企画倒れとなってしまいましたが。
私はこの「シティハンター」を幼児ながら当時同じジャンプで連載されていた「ドラゴンボール」を読む傍ら、放映されていたアニメとともによく読んでいました。とはいってもさすがに幼児の時分で後年になると大まかなあらすじは知っているものの内容についてはほとんど覚えてなかったのですが、大学生時代にブックオフ内で古本が売られているのを見つけ、思うところがあって改めて単行本を買い集めて改めて読んでみたところ、あの「もっこり」という表現を始めとして暗殺などを生業とする主人公が出るなど、よくこんな大人向けのマンガがジャンプで連載されていたなと感心するとともに、そんなマンガを幼児であった自分も楽しんで読んでいたという事実に驚きました。
その上である程度年齢の乗った状態で読み返してみると、子供の頃にはわからなかった部分がわかるようになってか当時とは違った感覚で読み返すことが出来ました。また買い集めた単行本を部屋に置いていたところ私の部屋に遊びにくる友人らがことごとく見つけては、「シティーハンターや!Σ(゚∀゚ノ)ノ」といっては勝手に読み出し、私の部屋の漫画本の中では「鬼切丸」を越えて貸し出し回数No.1でした。
北条氏のマンガの特徴を挙げると、何を置いてもまず描かれるキャラクター絵の秀麗さに尽きます。デビュー作の「キャッツアイ」を始めとして女性キャラクターを描かせたら天下一品だとよく言われていますが、私は女性キャラクターももちろんのこと男性キャラクターにおいてもそれぞれの特徴がしっかりと現れているので注目に値するかと思います。
その上で私なりの着目点を述べると、北条氏のマンガは写実的な背景など現代世界を舞台にしていることが多く、頭身が高くデフォルメの少ないキャラクター絵とあいまってほかのマンガと比べてテレビドラマや映画のような観点で読めるものが多いです。このような現実感の強いマンガは北条氏に始まるわけでなく、それ以前にこちらも私が大好きな池上遼一氏のマンガでも展開されていますが、少年漫画においてこれほどまでスタンダードを作ったという意味では北条氏の功績は高いかと思います。
さらに言うと、これは私も最近知ったのですが北条氏のアシスタント経験者には「スラムダンク」の井上雄彦氏、「BØY」の梅澤春人氏がいたらしく、二人とも北条氏同様に現代世界を舞台に頭身の高いキャラクターが出る作品を多く書いているだけにそれぞれの初期の作品には北条氏のマンガの匂いがします。両者ともに90年代中盤のジャンプを引っ張る連載作品を出しているだけに良将は良兵を生むといったところですが、どっちももう大御所といっていいくらいの大物なのでこの言い方は失礼かもしれません。
これは漫画家に限るわけじゃないですが、後藤新平ではないですが人を評価する上でその人物がどれだけの仕事を成し遂げたということよりも、どれだけ後世への影響を与えたかで見るべきだと私は考えています。90年代最大、というより日本のマンガが始まって以来の最大のヒット作は間違いなく「ドラゴンボール」ですが、良くも悪くも「ドラゴンボール」はあらゆる点で突き抜けていたためにその表現技法などを引き継いだ漫画家はほとんどいないのではないかと見ています(しいて挙げれば尾田栄一郎)。
それに対して北条氏ですが、私は現代の少年漫画は多かれ少なかれ彼の影響を受けているのではないかと考えています。北条氏の後進の漫画家が活躍していることもそうですが、マンガの技法やストーリー展開などで地味に強い影響力を残しているのではないかと思います。
もちろん厳密にみればもっと影響力の強い漫画家がほかにもいるでしょうが、北条氏を「シティーハンターの漫画家」ではなく、「少年漫画に一石を投じた漫画家」として見てはいかがかと思ってこうして記事にまとめました。
病苦自殺の一般化について
最近中国語をまたしっかり勉強しなおそうとmsnやYahooの中国サイトにあるニュースをよく読んでます。中国のニュースは日本みたいにこざっぱりまとめることは少なくどれも全力力一杯の長文ばかりで読んでて嫌になることが多いのですが、自分が習ってきた中国語とはまた異なる記事用の中国語が使われるので勉強のしがいがあります。
また読む際に大概の単語は読み取れますが一部はっきり理解できないのも少なくなく、「フランスの日々」のSophieさんが紹介している「Goggle Chroma」のアドオンを使い、マウスオーバーによって手軽に単語の意味を確認したりしています。私は普段使うブラウザは「Opera」なのですが、Operaだとなんか使っているOSの相性やバージョンの違いによって簡体字が表示されないことがあり、私のパソコンも自宅用は表示しないくせに会社用は表示したりします。そういう対処も含めてChromaと併用というのもまた妙な話です。
さてそんなわけで今日もまたニュースを読んでたわけですが、ちょっと気になるというか思うところがあるニュースとしてこんなのがありました。
・长沙77岁患病老太不愿给家人添负担投江自杀(红网)
例によって記事を書いている私のOperaのブラウザ上だと嫌味な位に簡体字部分は空白となっておりますがそれはまぁ置いといて記事の内容を簡単に翻訳して説明すると、中国の長沙という場所で77歳のおばあさんが河に身を投げて投身自殺を図るも警察らによって救出されて自殺理由を尋ねたところ、おばあさんは病気となったものの治療するお金がなく、家族に負担をかけられないとして自殺を図ったと証言したと報じられております。
これは私の造語ですが、病を苦にした安楽死を含む自殺をそのまま「病苦自殺」として表題に掲げましたが、この中国のおばあさんの自殺も典型的な病苦自殺の一種です。日本で病の治療費や家族の負担を気にする原因とした自殺ときたら森鴎外が「高瀬舟」に書いた話が代表的ですが、現実の話として今現在の日本でもこのような自殺は少なからずあると思います。ただでさえ少子高齢化で医療費の負担が大きく響く時代で、きちんと知識があれば保険適用範囲内の治療であれば年間約十万円の負担で日本は済みますが保険適用外の治療や、こういった医療費還付の法令を知らないあまり、自殺を行う老人の話を日本でもたまに耳にしたりします。
私が今回何が言いたいのかというと、この中国の病苦自殺未遂のニュースを見て、日本だったらもしかしたらニュースにならないかもと思ったわけです。2009年の年末に、年の瀬ということもあって毎朝東京都内の列車が人身事故で遅延が発生しているもにもかかわらずどの報道機関も何も取り上げず、何か日本は知らないところで感覚がおかしくなっていないかということを記事に書きましたが、総じて日本では自殺関係だとちょっとやそっとの内容ではもう注目されないために件数は増えているにもかかわらずニュースとして取り上げられる数は減ってきているように思えます。一時は大きく取り上げられた硫化水素自殺も、自分が言うのもなんですがもうなんか一般化してしまっている気がしますし。
病苦自殺も同様で、それ自体は不幸なケースとして見られるかもしれませんがニュースとしての価値は日本ではもうほとんどないかもしれない、中国とは違ってニュースとして報じられていない裏で相当な件数が起きているのではないかと思ったわけです。
人間何が一番怖いかって、無意識にとんでもないものに感覚が慣れてしまうことほど怖いものはないです。そういう意味で海外ニュースというものは自国人が気づかない一面を気づかせる一助となることが多く、和む外国人の話とか見ていて色々と飽きないものです。
また読む際に大概の単語は読み取れますが一部はっきり理解できないのも少なくなく、「フランスの日々」のSophieさんが紹介している「Goggle Chroma」のアドオンを使い、マウスオーバーによって手軽に単語の意味を確認したりしています。私は普段使うブラウザは「Opera」なのですが、Operaだとなんか使っているOSの相性やバージョンの違いによって簡体字が表示されないことがあり、私のパソコンも自宅用は表示しないくせに会社用は表示したりします。そういう対処も含めてChromaと併用というのもまた妙な話です。
さてそんなわけで今日もまたニュースを読んでたわけですが、ちょっと気になるというか思うところがあるニュースとしてこんなのがありました。
・长沙77岁患病老太不愿给家人添负担投江自杀(红网)
例によって記事を書いている私のOperaのブラウザ上だと嫌味な位に簡体字部分は空白となっておりますがそれはまぁ置いといて記事の内容を簡単に翻訳して説明すると、中国の長沙という場所で77歳のおばあさんが河に身を投げて投身自殺を図るも警察らによって救出されて自殺理由を尋ねたところ、おばあさんは病気となったものの治療するお金がなく、家族に負担をかけられないとして自殺を図ったと証言したと報じられております。
これは私の造語ですが、病を苦にした安楽死を含む自殺をそのまま「病苦自殺」として表題に掲げましたが、この中国のおばあさんの自殺も典型的な病苦自殺の一種です。日本で病の治療費や家族の負担を気にする原因とした自殺ときたら森鴎外が「高瀬舟」に書いた話が代表的ですが、現実の話として今現在の日本でもこのような自殺は少なからずあると思います。ただでさえ少子高齢化で医療費の負担が大きく響く時代で、きちんと知識があれば保険適用範囲内の治療であれば年間約十万円の負担で日本は済みますが保険適用外の治療や、こういった医療費還付の法令を知らないあまり、自殺を行う老人の話を日本でもたまに耳にしたりします。
私が今回何が言いたいのかというと、この中国の病苦自殺未遂のニュースを見て、日本だったらもしかしたらニュースにならないかもと思ったわけです。2009年の年末に、年の瀬ということもあって毎朝東京都内の列車が人身事故で遅延が発生しているもにもかかわらずどの報道機関も何も取り上げず、何か日本は知らないところで感覚がおかしくなっていないかということを記事に書きましたが、総じて日本では自殺関係だとちょっとやそっとの内容ではもう注目されないために件数は増えているにもかかわらずニュースとして取り上げられる数は減ってきているように思えます。一時は大きく取り上げられた硫化水素自殺も、自分が言うのもなんですがもうなんか一般化してしまっている気がしますし。
病苦自殺も同様で、それ自体は不幸なケースとして見られるかもしれませんがニュースとしての価値は日本ではもうほとんどないかもしれない、中国とは違ってニュースとして報じられていない裏で相当な件数が起きているのではないかと思ったわけです。
人間何が一番怖いかって、無意識にとんでもないものに感覚が慣れてしまうことほど怖いものはないです。そういう意味で海外ニュースというものは自国人が気づかない一面を気づかせる一助となることが多く、和む外国人の話とか見ていて色々と飽きないものです。
2011年2月8日火曜日
80年代生まれと70年代生まれのお金の価値観の違い
中国は二月に入ってから旧正月休暇のためどこの企業も休みで、大体明日くらいからまた業務再開のところが多いです。私のいる会社はメーカーのため休暇前と休暇後の土日を出勤日とする代わりにまとまって休日を作っており、私自身も休暇は明日までで明後日からまた出社する予定となっております。
あまりプライベートなことを書いても仕方がないですが、先ほどネットで見た「日本の嫌な慣習」というテーマの掲示板内にて日本企業における「飲みニュケーション」を挙げている方がいましたが、こういったことは日本に限らずというか中国は日本以上にアルコールの強制が多く、私の親父の知り合いであるレクサスのハイブリッドエンジン搭載車を乗り回している(ちょっとうらやましい)社長も中国に商談で訪れた際に無理やり酒を飲まされ、なんでも入院までしたそうです。となるともちろん中国で働いている私も例外ではなく、休暇に入る前に何度もあった忘年会の度に紹興酒やワインの一気飲みを何杯も強制され、元々アルコールに弱いのもあって幾度となく吐かされては肺気胸を起こすくらいの痩せ型なのにさらに体重を大きく落としたため、この休暇中はともかく体重を増やすために出来るだけ多く食べてはよく眠ることに努めました。
体重計が家にないために具体的に測定することは出来ませんが鏡で見る限りは一時は大きくこけた頬が大分戻り、食欲も一食にご飯二合を食べた上に夜食にインスタントラーメンやらおやつもバリバリ食えるくらいに順調で、健康状態は現在すこぶる良好です。ただ早朝にランニングを行ったところ、息が切れるより早く足が痛んで走れなくなるというのが我ながらちょっと不思議でした。足腰は自転車でそこそこ鍛えているのに。
話は本題に入りますが、体調がいいということもあって久々に挑戦的な内容を記事にまとめようと思います。
このブログで何度か書いておりますが、私は80年代の生まれです。この世代の特徴を挙げるとすれば物心ついたときから日本は不況であったため、割と世の中を斜めにというか悲観的に見る人間が多いと一部で言われております。これについては私の在学中、リーマンショック直前の日本の景気がやや持ち直して好況だと言われた時期にある授業で講師が、「最近好況だと言われているもののどうも君たち学生の反応が薄いように前々から感じてましたが、考えてみたら君たちは生まれてこのかた好況というものを一度も経験していなかったですね」と授業中に話したことがありますが、私はこの講師の発言こそが我々の世代と別の世代を比較する上で重要なファクターだと考え、よく周りにも話しております。
私の専門は社会学だったために学生時代はこのような世代間の認識の違いことジェネレーションギャップについていろいろと友人と議論したり自分で勉強していましたが、同じ80年代生まれでもこの世代の青春期に当たる90年代後半から2000年代前半において携帯電話など小型通信機器が異常に発達したため、一年や二年の差でポケベルとかPHSを見た、触ったなどといった経験が変わってくるために一緒くたにすべきではないのですが、敢えて十年タームで区切ってその一つ前の70年代生まれの世代と比較すると、あくまで私自身の感覚でですがお金に関する価値観が真逆とも言っていいくらい違いがある気がします。
具体的にどのようにお金に対する価値観が違うのかというと、どちらの世代も月給でいくら稼いでいるのかはもちろん気にはするのですが、私を含む80年代生まれはその上でどれだけお金を貯蓄しているかに価値を重く置いているように感じます。実際に私と周囲の友人も、さすがに中国みたいに「月給いくら?」とストレートに聞くことはしませんが(中国人はすぐ聞くし教えてくれる。これはこれでいいんだけど)、毎月どれくらい貯蓄に回して一年間でどれくらい貯金を貯めたかについては割合によく尋ね合い、節約方法や支出の抑え方についてよく話し合っています。
それに対して70年代生まれですが、あくまで私の実感としてよくこの世代の人からは、「旅行に三十万使ったんだ」、「一晩で十万使った」などと、自分の感覚からすると何かと消費した金額を周囲にやや自慢げに話すことが多く、80年代生まれと比べてどれだけお金を消費したのか、貯蓄に対して消費することに強く価値を置いているように感じます。
そのため学生時代からケチで鳴らした私はこの世代からよく、「もっとお金は使わなきゃ駄目だ」、「そんなに貯めてどうする」などと言われるのですが、ちょっと不思議というか同じ年長の世代でも60年代生まれの人からはあまりこういうことは言われることがありません。接点が少ないというのが一番大きいでしょうが。
恐らくほかの世代とも比べると、我々80年代生まれは明らかに貯蓄傾向が強く物事に対して慎重な人間が多いように思います。何故そうなったのか仮説を挙げるとすればやはり生まれ育った環境というか、生活は物質上豊かでも世の中は不況一色で中高年のリストラや就職氷河期を見ているだけに、人生何が起こるかわからない(+レールから外れたらもう戻れない)というのを強いレベルで意識しているのではないかと私は考えます。
それに対して70年代生まれは、こちらは私自身がその世代に属していないためにはっきりと言い切る自信はありませんが、やはりバブル期を見た、経験したというのが一番大きいかと思います。また自分の実感で話させてもらえば、自分は一度失ったお金は二度と返ってこないと思うのに対して70年代生まれの人の話を聞いていると、使ったお金はまたすぐに自分に帰ってくる、すぐに稼ぎなおせばいいというような考えを持っている方が多いように感じます。
くれぐれも言っておきますが、私は80年代生まれの貯蓄傾向と70年代生まれの消費傾向のどちらが正しくてどちらが悪いと区別するつもりはなく、どっちもどっちでいい面もあれば悪い面もあると考えていますし、またそれぞれの世代の中には反対の傾向を持つ人間も少なからずいると思います。ただ今回の記事で私が言いたいのは、世代別で見ると全体としてこのような傾向があるのではということと、バブル時代を見ているかいないかは日本の世代別傾向を探る上で非常に大きなファクターであるということを強く主張しておきたく思います。
あまりプライベートなことを書いても仕方がないですが、先ほどネットで見た「日本の嫌な慣習」というテーマの掲示板内にて日本企業における「飲みニュケーション」を挙げている方がいましたが、こういったことは日本に限らずというか中国は日本以上にアルコールの強制が多く、私の親父の知り合いであるレクサスのハイブリッドエンジン搭載車を乗り回している(ちょっとうらやましい)社長も中国に商談で訪れた際に無理やり酒を飲まされ、なんでも入院までしたそうです。となるともちろん中国で働いている私も例外ではなく、休暇に入る前に何度もあった忘年会の度に紹興酒やワインの一気飲みを何杯も強制され、元々アルコールに弱いのもあって幾度となく吐かされては肺気胸を起こすくらいの痩せ型なのにさらに体重を大きく落としたため、この休暇中はともかく体重を増やすために出来るだけ多く食べてはよく眠ることに努めました。
体重計が家にないために具体的に測定することは出来ませんが鏡で見る限りは一時は大きくこけた頬が大分戻り、食欲も一食にご飯二合を食べた上に夜食にインスタントラーメンやらおやつもバリバリ食えるくらいに順調で、健康状態は現在すこぶる良好です。ただ早朝にランニングを行ったところ、息が切れるより早く足が痛んで走れなくなるというのが我ながらちょっと不思議でした。足腰は自転車でそこそこ鍛えているのに。
話は本題に入りますが、体調がいいということもあって久々に挑戦的な内容を記事にまとめようと思います。
このブログで何度か書いておりますが、私は80年代の生まれです。この世代の特徴を挙げるとすれば物心ついたときから日本は不況であったため、割と世の中を斜めにというか悲観的に見る人間が多いと一部で言われております。これについては私の在学中、リーマンショック直前の日本の景気がやや持ち直して好況だと言われた時期にある授業で講師が、「最近好況だと言われているもののどうも君たち学生の反応が薄いように前々から感じてましたが、考えてみたら君たちは生まれてこのかた好況というものを一度も経験していなかったですね」と授業中に話したことがありますが、私はこの講師の発言こそが我々の世代と別の世代を比較する上で重要なファクターだと考え、よく周りにも話しております。
私の専門は社会学だったために学生時代はこのような世代間の認識の違いことジェネレーションギャップについていろいろと友人と議論したり自分で勉強していましたが、同じ80年代生まれでもこの世代の青春期に当たる90年代後半から2000年代前半において携帯電話など小型通信機器が異常に発達したため、一年や二年の差でポケベルとかPHSを見た、触ったなどといった経験が変わってくるために一緒くたにすべきではないのですが、敢えて十年タームで区切ってその一つ前の70年代生まれの世代と比較すると、あくまで私自身の感覚でですがお金に関する価値観が真逆とも言っていいくらい違いがある気がします。
具体的にどのようにお金に対する価値観が違うのかというと、どちらの世代も月給でいくら稼いでいるのかはもちろん気にはするのですが、私を含む80年代生まれはその上でどれだけお金を貯蓄しているかに価値を重く置いているように感じます。実際に私と周囲の友人も、さすがに中国みたいに「月給いくら?」とストレートに聞くことはしませんが(中国人はすぐ聞くし教えてくれる。これはこれでいいんだけど)、毎月どれくらい貯蓄に回して一年間でどれくらい貯金を貯めたかについては割合によく尋ね合い、節約方法や支出の抑え方についてよく話し合っています。
それに対して70年代生まれですが、あくまで私の実感としてよくこの世代の人からは、「旅行に三十万使ったんだ」、「一晩で十万使った」などと、自分の感覚からすると何かと消費した金額を周囲にやや自慢げに話すことが多く、80年代生まれと比べてどれだけお金を消費したのか、貯蓄に対して消費することに強く価値を置いているように感じます。
そのため学生時代からケチで鳴らした私はこの世代からよく、「もっとお金は使わなきゃ駄目だ」、「そんなに貯めてどうする」などと言われるのですが、ちょっと不思議というか同じ年長の世代でも60年代生まれの人からはあまりこういうことは言われることがありません。接点が少ないというのが一番大きいでしょうが。
恐らくほかの世代とも比べると、我々80年代生まれは明らかに貯蓄傾向が強く物事に対して慎重な人間が多いように思います。何故そうなったのか仮説を挙げるとすればやはり生まれ育った環境というか、生活は物質上豊かでも世の中は不況一色で中高年のリストラや就職氷河期を見ているだけに、人生何が起こるかわからない(+レールから外れたらもう戻れない)というのを強いレベルで意識しているのではないかと私は考えます。
それに対して70年代生まれは、こちらは私自身がその世代に属していないためにはっきりと言い切る自信はありませんが、やはりバブル期を見た、経験したというのが一番大きいかと思います。また自分の実感で話させてもらえば、自分は一度失ったお金は二度と返ってこないと思うのに対して70年代生まれの人の話を聞いていると、使ったお金はまたすぐに自分に帰ってくる、すぐに稼ぎなおせばいいというような考えを持っている方が多いように感じます。
くれぐれも言っておきますが、私は80年代生まれの貯蓄傾向と70年代生まれの消費傾向のどちらが正しくてどちらが悪いと区別するつもりはなく、どっちもどっちでいい面もあれば悪い面もあると考えていますし、またそれぞれの世代の中には反対の傾向を持つ人間も少なからずいると思います。ただ今回の記事で私が言いたいのは、世代別で見ると全体としてこのような傾向があるのではということと、バブル時代を見ているかいないかは日本の世代別傾向を探る上で非常に大きなファクターであるということを強く主張しておきたく思います。
2011年2月7日月曜日
昨日の過ごし方
昨日はまた友人に会うため、朝早くから家を出て上海中心部まで出かけました。すでに上海には何度も行っているし去年は一ヶ月も滞在したのでめぼしい場所はほとんど観光し終わっているのですが、改めて調べて見たところ「新天地」と呼ばれる、外国人向け観光街周辺にある共産党関係の旧跡に行ってなかったことに気がついたので今回その辺を歩いて見ました。
まず最初に行ったのは新天地のすぐそば、ってか新天地と呼ばれる一画の中にある、陳独秀らが中心となって中国共産党が始めて会合を行った建物でした。入場料はタダで素晴らしいことこの上ないのですが入り口ではX線による手荷物検査が行われるなど通常の博物館として見たらやはり党の建物だということを意識させられるものの、展示内容は初期の中国共産党の動きと上海市の関わりについてパネルで説明されており、展示されている写真には若い頃の毛沢東や周恩来の写真もあってなかなか新鮮でした。
館内の売店では例の赤い旗やらバッジやらが売っていたのですが、その中には私も以前にほかの土産物屋で購入して日本で見せびらかしては好評を得ていたこんな時計も売っていました。
通称「毛沢東ウォッチ」と呼ばれるこの代物ですが何がすごいかというと秒針に合わせて左右に手を振るところで、しょうもないと思いつつも意外な発想が受けてか私の友人らにはぜひ譲ってほしいという声が多いものの未だ譲らずに持ち続けております。画像は時計表面が赤いですが、青いバージョンと合わせて私は二つも持っております。
それにしてもこの時計はこういう共産党関係の施設内で売られているということは、てっきり商魂たくましい連中が勝手に造って売っていると思っていましたがどうやら党公認の代物だったようです。あとこの画像は楽天のサイトから取ってきましたが、楽天もこんなもんまでいちいち輸入して販売するなよとちょっと思います。
話は戻って昨日の話です。そうして博物館を見終わると中国人の友人と合流し、今度は新天地からやや離れた孫文と周恩来の、それぞれの旧宅跡を尋ねました。このうち孫文の旧宅は入場料がいたので外から見ただけですが、周恩来の方は入場無料でした。両方とも思念路という通り沿いにあるのですが友人曰く、この地域は旧フランス租界で別荘が多い高級住宅地だそうで、言うだけあってレンガや石造りの洋館などおしゃれな建物が立ち並んでいました。
ちなみに友人は上海に子供の頃からずっと住み続けておりますが、この日に私と来るまで周恩来の邸宅跡が上海にあるとは知らなかったそうです。この邸宅は日中戦争後に国民党と共産党が今後について協議を行った際に周恩来が拠点として使っていた邸宅だそうですが、京都市民もよく京都にこんな史跡があったとは知らなかったとは言うことがありますが、案外世界中どの都市でも似たようなことがあるのかもしれません。
そんな風にして最後はジーパン一枚買って家路に着いたわけですが、上海に来る際の列車のチケットを買う際にこんなことがありました。
私が上海に赴く際は高速鉄道に乗っていつも行っているのですが、ほかのチケットと違って高速鉄道においては一部区間で児童券売機が設置されているものの、まだこのような券売機に慣れていない中国人が多いために駅員の販売するチケット売り場に乗客が集中して大混雑しているにもかかわらず、自動券売機の前に列が作られることはほぼありません。私としてはこっちの方がすぐ買えるので重宝しているのですが、昨日私がチケットを買うや後ろから老夫婦が私に話しかけ、同じ上海行きの列車のチケットをどのようにして買えばいいのかと尋ねてきました。
比較的聞き取りやすい中国語だったのでもしかしたらその老夫婦は北方から来ている旅行者だったかもしれませんが、話が通じやすいのもあって券売機の操作方法を教えて夫婦二枚分のチケットを購入させてあげたところ、発券前に指定座席を見てみると二枚のチケットで座席の位置が大きく離れておりました。
座席位置は購入時に券売機が自動で決めるのですが、ほかに二人並んで空いている席が少なかったのかばらばらで席が決められていたようです。そこで直前に買った私のチケットを見てみると、やはりというか夫婦の持っているチケットの片方と隣り合った席番号だったので、内容を説明して隣り合って座れるように私のチケットと夫婦の持っている離れている席のチケットを交換してあげました。
夫婦からはもちろんお礼を言われて、「聞き慣れない発音だけどどこの出身?」と聞かれて「日本人だよ」といって別れましたが、大したことではないもののやらないよりは矢っていいことをしたと思えてなかなか気分よく出発することが出来ました。
多分どの人間も、自分が他人に対してよいと思われる行動を取った際は多少なりともこの時の私のように気分がよくなったり得意になったりするかと思います。これは子供においてもそうであるために後天的な教育によるものというよりは人間は先天的に他人への協力を喜んで行う面があると私は考えており、そういう意味では性善説を多少は信じていいかなという気がします。
まず最初に行ったのは新天地のすぐそば、ってか新天地と呼ばれる一画の中にある、陳独秀らが中心となって中国共産党が始めて会合を行った建物でした。入場料はタダで素晴らしいことこの上ないのですが入り口ではX線による手荷物検査が行われるなど通常の博物館として見たらやはり党の建物だということを意識させられるものの、展示内容は初期の中国共産党の動きと上海市の関わりについてパネルで説明されており、展示されている写真には若い頃の毛沢東や周恩来の写真もあってなかなか新鮮でした。
館内の売店では例の赤い旗やらバッジやらが売っていたのですが、その中には私も以前にほかの土産物屋で購入して日本で見せびらかしては好評を得ていたこんな時計も売っていました。
通称「毛沢東ウォッチ」と呼ばれるこの代物ですが何がすごいかというと秒針に合わせて左右に手を振るところで、しょうもないと思いつつも意外な発想が受けてか私の友人らにはぜひ譲ってほしいという声が多いものの未だ譲らずに持ち続けております。画像は時計表面が赤いですが、青いバージョンと合わせて私は二つも持っております。
それにしてもこの時計はこういう共産党関係の施設内で売られているということは、てっきり商魂たくましい連中が勝手に造って売っていると思っていましたがどうやら党公認の代物だったようです。あとこの画像は楽天のサイトから取ってきましたが、楽天もこんなもんまでいちいち輸入して販売するなよとちょっと思います。
話は戻って昨日の話です。そうして博物館を見終わると中国人の友人と合流し、今度は新天地からやや離れた孫文と周恩来の、それぞれの旧宅跡を尋ねました。このうち孫文の旧宅は入場料がいたので外から見ただけですが、周恩来の方は入場無料でした。両方とも思念路という通り沿いにあるのですが友人曰く、この地域は旧フランス租界で別荘が多い高級住宅地だそうで、言うだけあってレンガや石造りの洋館などおしゃれな建物が立ち並んでいました。
ちなみに友人は上海に子供の頃からずっと住み続けておりますが、この日に私と来るまで周恩来の邸宅跡が上海にあるとは知らなかったそうです。この邸宅は日中戦争後に国民党と共産党が今後について協議を行った際に周恩来が拠点として使っていた邸宅だそうですが、京都市民もよく京都にこんな史跡があったとは知らなかったとは言うことがありますが、案外世界中どの都市でも似たようなことがあるのかもしれません。
そんな風にして最後はジーパン一枚買って家路に着いたわけですが、上海に来る際の列車のチケットを買う際にこんなことがありました。
私が上海に赴く際は高速鉄道に乗っていつも行っているのですが、ほかのチケットと違って高速鉄道においては一部区間で児童券売機が設置されているものの、まだこのような券売機に慣れていない中国人が多いために駅員の販売するチケット売り場に乗客が集中して大混雑しているにもかかわらず、自動券売機の前に列が作られることはほぼありません。私としてはこっちの方がすぐ買えるので重宝しているのですが、昨日私がチケットを買うや後ろから老夫婦が私に話しかけ、同じ上海行きの列車のチケットをどのようにして買えばいいのかと尋ねてきました。
比較的聞き取りやすい中国語だったのでもしかしたらその老夫婦は北方から来ている旅行者だったかもしれませんが、話が通じやすいのもあって券売機の操作方法を教えて夫婦二枚分のチケットを購入させてあげたところ、発券前に指定座席を見てみると二枚のチケットで座席の位置が大きく離れておりました。
座席位置は購入時に券売機が自動で決めるのですが、ほかに二人並んで空いている席が少なかったのかばらばらで席が決められていたようです。そこで直前に買った私のチケットを見てみると、やはりというか夫婦の持っているチケットの片方と隣り合った席番号だったので、内容を説明して隣り合って座れるように私のチケットと夫婦の持っている離れている席のチケットを交換してあげました。
夫婦からはもちろんお礼を言われて、「聞き慣れない発音だけどどこの出身?」と聞かれて「日本人だよ」といって別れましたが、大したことではないもののやらないよりは矢っていいことをしたと思えてなかなか気分よく出発することが出来ました。
多分どの人間も、自分が他人に対してよいと思われる行動を取った際は多少なりともこの時の私のように気分がよくなったり得意になったりするかと思います。これは子供においてもそうであるために後天的な教育によるものというよりは人間は先天的に他人への協力を喜んで行う面があると私は考えており、そういう意味では性善説を多少は信じていいかなという気がします。
2011年2月5日土曜日
大相撲の八百長問題について
今日の記事は書こうかどうか少し迷いましたが、書いておくべきだろうと考え書くことにしました。
・大相撲 春場所が中止へ 65年ぶり(産経新聞)
恐らく日本ではこのところのワイドショーはこの相撲界の八百長問題で持ちきりかと思います。前回の野球賭博問題で膿を出し切るといった言っていた傍からまだこのような問題を相撲協会は放置していたなどと考えると、一相撲ファンとしては悲しい限りです。
さてこの八百長問題ですが現時点では幕内、十両の一部の力士に限って行われていたと報じられているようですが、私個人の意見を述べさせてもらうとこの八百長はとてもそんな小さい身内の話ではなく、もっと広範囲で行われていたように感じます。そう思うのもかねてから相撲の中継を見ていて、場所中の千秋楽を七勝七敗で迎えた力士が最後の取組みで勝ち越しを決めるというパターンが異様に多いように感じていたからです。実際にアメリカの学者がこの件に関して統計を取っていたようで、七勝七敗で迎えた力士が勝ちやすいという有意な勝率結果が出ているそうです
・八百長驚かない 7勝7敗力士勝率80%(日刊スポーツ)
この記事によると過去の対戦成績から出した通常の対戦勝率が48・7%であるのに対し、実際に七勝七敗で迎えた際の取組みの勝率はなんと79・6%に跳ね上がるとして八百長が行われているのではないかと著者は疑義を呈しているそうです。今回の問題を受けてかこの統計が紹介されている本は問い合わせが相次いで早くも増刷がかけられることとなっているそうですが、実際によく調べているもんだという気がします。
私個人の意見を言わせてもらうと、あらかじめシナリオが立てられているプロレスならともかく見ている観客は真剣勝負をしているものだと思っていた大相撲で八百長が行われていたなど言語道断で、しかも金銭が動いていたとなれば決して許される行為ではありません。これは野球賭博の問題と比べても問題性は劣らず、関わっていた力士はどのような理由があれ全員角界から追放されても仕方がないかと思います。
その上でこの問題が発覚後、野球賭博のようにヤクザの間では相撲賭博も行われており、その相撲賭博と今回の八百長が何らかの形で関わっていたのではないのかという疑義が一部で呈されておりますが、全く懲りることのなく不祥事の芽を摘み取らなかった今の相撲協会を見ていると私としてもそのようなものがあるのではないかという気がしてきます。どちらにしろ、恐らく今回の不祥事で相撲協会は公益法人資格剥奪はやむを得ないでしょう。
くれぐれも言っておきますが、私は相撲を愛しております。しかしこう何度も問題を起こして形ばかりの対応策を取ってうやむやにしているようでは、とてもこれ以上応援する気にはなれません。もちろん真面目に取組みを行っている力士らには今後もがんばってもらいたいのですが、こういった通常の感覚では考えられない行為をいつまでも野放しにしている体質では見ている我々としても非常に複雑な気分にさせられます。
さてここからが今日の記事の本番ですが、私の視点から見て率直に八百長が疑われる力士とそうでない力士をいくつか挙げることにします。
まずは横綱白鵬ですが、この人は間違いなく八百長はしていないと思います。どの取組みを見ても正攻法とも言うべき勝ち方をしており、去年は歴代二位の63連勝を達成していることから一部で「話題づくりのための出来レース」ではとも囁かれましたが、皮肉にも連勝記録更新を目の前にして稀勢之里に阻まれたあたり、彼自身の不断の努力によってこの偉大な記録が作られたのだということに真実味を持たせる結果となりました。また白鵬についてもう少し付け加えるとテレビで見ていてもあっと言わせるような恐るべき反応速度で取組みで相手を負かしており、とてもじゃないですがあれが八百長による相撲だとは思えない内容です。
同様に去年引退した朝青龍についても、この人の持ち味も桁違いの反応速度で、特に出足に失敗して相手に一時押し込まれてから巻き返す際の動きの俊敏さは人間離れしており、彼自身の荒々しい取組みぶり(土俵を割っている力士に平気で駄目押しする)などから八百長らしさは全く感じられませんでした。
朝青龍については現役時、週刊現代に八百長を行っていると報じられ裁判にまでなりましたが、最終的に裁判で記事には信用性がないと判決が下され、発行元の講談社に取り上げられた力士らへ損害賠償が課されました。今こうして八百長が取りざたされてみるとこの週刊現代の記事は方向性はともかくとして取り上げる力士を間違えており、私自身としても朝青龍叩きに便乗していたようなおかしな記事だったなという気がします。ただこの記事が出た際に私は、「取り上げる力士が違うだろ」と周りに言い回っていたのですが、今回の八百長騒ぎが起きる前から私が八百長を強く疑っていた力士がおります。
その力士についてはまだしっかりとした証拠も出ていないので実名は挙げませんが日本人大関で、これまでに何度も負け越して何度も角番を迎えているものの何故か角番の場所だけは毎回のように勝ち越しを続けて現在もなお大関の地位に就いております。ではその取組みはどうかというとはっきり言って明らかに不自然な動きをしており、対戦相手を含めて見ていて「あれっ?」と思うような動きでいつも勝ち星を得ております。
さらに場所ごとの勝敗も見て見ると明らかに不自然だと思えるくらいに「八勝七敗」で終えることが多く、同じ大関でも琴欧州などは十勝を上げないとしょっちゅうNHKのアナウンサーや解説者に、「二桁勝利は大関としての義務」だなどと毎場所ではないものの二桁勝利をあげることもあるにもかかわらず批判されるのですが、その日本人大関は実に三年間も二桁勝利をあげていなかったにも関わらず誰にも咎められることはありませんでした。
実際にある掲示板でここ数年間、ほかの力士を含む七勝七敗で千秋楽を迎えた数人の日本人大関の対戦成績がまとめられておりましたが、見事といっていいくらいに皆勝ち星を挙げて最後の最後で勝ち越しを決めております。ただ二例ほど例外があり、その例外時の対戦相手がどちらも朝青龍で相手となった日本人大関に負け越しを決めさせているのを見ると、先ほどの琴欧州の話といい相撲会は未だに外国人差別を行っているのではないのか、朝青龍叩きはこの八百長問題の延長上にあったのではないかと疑わざるを得ません。それは同時にこの八百長問題は日本人力士の間で広く行われているのではないかという疑念にもつながります。
ここで書いたことはあくまで私個人の意見で、データ面などはともかくとして推論については各自でご判断ください。
それにしても野球賭博問題で後がないと言われていただけに、もう相撲界は駄目かもしれません。これは記事にしていませんが先の野球賭博問題では元琴光喜の追放は仕方がないと私も当初は主張しましたが、後になって詳しく調べて見るとどうも追放になった元琴光喜と元大嶽親方は先の理事選で慣例に反して貴乃花親方に投票を行ったことからかねてから目をつけられており、ほかにも野球賭博に関与し、発覚後も関与を隠していた力士がいたにもかかわらずこの二人のみ始めからこの問題にかこつけて追放するという算段があったようです。
相撲界は何が悪かったのか、何を正せばよかったのかですが、今となってはそれすらも考えることが馬鹿馬鹿しいほどです。
・大相撲 春場所が中止へ 65年ぶり(産経新聞)
恐らく日本ではこのところのワイドショーはこの相撲界の八百長問題で持ちきりかと思います。前回の野球賭博問題で膿を出し切るといった言っていた傍からまだこのような問題を相撲協会は放置していたなどと考えると、一相撲ファンとしては悲しい限りです。
さてこの八百長問題ですが現時点では幕内、十両の一部の力士に限って行われていたと報じられているようですが、私個人の意見を述べさせてもらうとこの八百長はとてもそんな小さい身内の話ではなく、もっと広範囲で行われていたように感じます。そう思うのもかねてから相撲の中継を見ていて、場所中の千秋楽を七勝七敗で迎えた力士が最後の取組みで勝ち越しを決めるというパターンが異様に多いように感じていたからです。実際にアメリカの学者がこの件に関して統計を取っていたようで、七勝七敗で迎えた力士が勝ちやすいという有意な勝率結果が出ているそうです
・八百長驚かない 7勝7敗力士勝率80%(日刊スポーツ)
この記事によると過去の対戦成績から出した通常の対戦勝率が48・7%であるのに対し、実際に七勝七敗で迎えた際の取組みの勝率はなんと79・6%に跳ね上がるとして八百長が行われているのではないかと著者は疑義を呈しているそうです。今回の問題を受けてかこの統計が紹介されている本は問い合わせが相次いで早くも増刷がかけられることとなっているそうですが、実際によく調べているもんだという気がします。
私個人の意見を言わせてもらうと、あらかじめシナリオが立てられているプロレスならともかく見ている観客は真剣勝負をしているものだと思っていた大相撲で八百長が行われていたなど言語道断で、しかも金銭が動いていたとなれば決して許される行為ではありません。これは野球賭博の問題と比べても問題性は劣らず、関わっていた力士はどのような理由があれ全員角界から追放されても仕方がないかと思います。
その上でこの問題が発覚後、野球賭博のようにヤクザの間では相撲賭博も行われており、その相撲賭博と今回の八百長が何らかの形で関わっていたのではないのかという疑義が一部で呈されておりますが、全く懲りることのなく不祥事の芽を摘み取らなかった今の相撲協会を見ていると私としてもそのようなものがあるのではないかという気がしてきます。どちらにしろ、恐らく今回の不祥事で相撲協会は公益法人資格剥奪はやむを得ないでしょう。
くれぐれも言っておきますが、私は相撲を愛しております。しかしこう何度も問題を起こして形ばかりの対応策を取ってうやむやにしているようでは、とてもこれ以上応援する気にはなれません。もちろん真面目に取組みを行っている力士らには今後もがんばってもらいたいのですが、こういった通常の感覚では考えられない行為をいつまでも野放しにしている体質では見ている我々としても非常に複雑な気分にさせられます。
さてここからが今日の記事の本番ですが、私の視点から見て率直に八百長が疑われる力士とそうでない力士をいくつか挙げることにします。
まずは横綱白鵬ですが、この人は間違いなく八百長はしていないと思います。どの取組みを見ても正攻法とも言うべき勝ち方をしており、去年は歴代二位の63連勝を達成していることから一部で「話題づくりのための出来レース」ではとも囁かれましたが、皮肉にも連勝記録更新を目の前にして稀勢之里に阻まれたあたり、彼自身の不断の努力によってこの偉大な記録が作られたのだということに真実味を持たせる結果となりました。また白鵬についてもう少し付け加えるとテレビで見ていてもあっと言わせるような恐るべき反応速度で取組みで相手を負かしており、とてもじゃないですがあれが八百長による相撲だとは思えない内容です。
同様に去年引退した朝青龍についても、この人の持ち味も桁違いの反応速度で、特に出足に失敗して相手に一時押し込まれてから巻き返す際の動きの俊敏さは人間離れしており、彼自身の荒々しい取組みぶり(土俵を割っている力士に平気で駄目押しする)などから八百長らしさは全く感じられませんでした。
朝青龍については現役時、週刊現代に八百長を行っていると報じられ裁判にまでなりましたが、最終的に裁判で記事には信用性がないと判決が下され、発行元の講談社に取り上げられた力士らへ損害賠償が課されました。今こうして八百長が取りざたされてみるとこの週刊現代の記事は方向性はともかくとして取り上げる力士を間違えており、私自身としても朝青龍叩きに便乗していたようなおかしな記事だったなという気がします。ただこの記事が出た際に私は、「取り上げる力士が違うだろ」と周りに言い回っていたのですが、今回の八百長騒ぎが起きる前から私が八百長を強く疑っていた力士がおります。
その力士についてはまだしっかりとした証拠も出ていないので実名は挙げませんが日本人大関で、これまでに何度も負け越して何度も角番を迎えているものの何故か角番の場所だけは毎回のように勝ち越しを続けて現在もなお大関の地位に就いております。ではその取組みはどうかというとはっきり言って明らかに不自然な動きをしており、対戦相手を含めて見ていて「あれっ?」と思うような動きでいつも勝ち星を得ております。
さらに場所ごとの勝敗も見て見ると明らかに不自然だと思えるくらいに「八勝七敗」で終えることが多く、同じ大関でも琴欧州などは十勝を上げないとしょっちゅうNHKのアナウンサーや解説者に、「二桁勝利は大関としての義務」だなどと毎場所ではないものの二桁勝利をあげることもあるにもかかわらず批判されるのですが、その日本人大関は実に三年間も二桁勝利をあげていなかったにも関わらず誰にも咎められることはありませんでした。
実際にある掲示板でここ数年間、ほかの力士を含む七勝七敗で千秋楽を迎えた数人の日本人大関の対戦成績がまとめられておりましたが、見事といっていいくらいに皆勝ち星を挙げて最後の最後で勝ち越しを決めております。ただ二例ほど例外があり、その例外時の対戦相手がどちらも朝青龍で相手となった日本人大関に負け越しを決めさせているのを見ると、先ほどの琴欧州の話といい相撲会は未だに外国人差別を行っているのではないのか、朝青龍叩きはこの八百長問題の延長上にあったのではないかと疑わざるを得ません。それは同時にこの八百長問題は日本人力士の間で広く行われているのではないかという疑念にもつながります。
ここで書いたことはあくまで私個人の意見で、データ面などはともかくとして推論については各自でご判断ください。
それにしても野球賭博問題で後がないと言われていただけに、もう相撲界は駄目かもしれません。これは記事にしていませんが先の野球賭博問題では元琴光喜の追放は仕方がないと私も当初は主張しましたが、後になって詳しく調べて見るとどうも追放になった元琴光喜と元大嶽親方は先の理事選で慣例に反して貴乃花親方に投票を行ったことからかねてから目をつけられており、ほかにも野球賭博に関与し、発覚後も関与を隠していた力士がいたにもかかわらずこの二人のみ始めからこの問題にかこつけて追放するという算段があったようです。
相撲界は何が悪かったのか、何を正せばよかったのかですが、今となってはそれすらも考えることが馬鹿馬鹿しいほどです。
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