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2013年4月1日月曜日

韓国の近現代史~その七、漢江の奇跡

 前回ではクーデターを起こした朴正煕が権力を握る過程を解説しました。そこで今回は実際の朴正煕の施政とばかりに、彼の時代に「漢江の奇跡」と呼ばれるほど急成長した韓国経済を取り上げます。

 まず初めに朴正煕についてもう少し説明します。彼は日本統治下の1917年に非常に貧しい家庭で生まれ、長じてからは3年間の教師生活を経てから新京(現在の吉林省長春市)に渡り、そこで満州国の陸軍士官学校に入りました。たまに朴正煕は「旧日本陸軍の軍人だった」と書かれていることがありますが、正確には「満州国軍人」であって自分が歴史テストの教官ならここでひっかけ問題を作ることでしょう。
 第二次大戦終了後は母国の韓国に戻り、そこでも軍人として任官を受けます。ただ一時期に南朝鮮労働党(共産党)に参加していたことがあり、軍にばれて死刑まで宣告されておりますが、当局に情報を提供することによって執行を免れております。

 こうした来歴を持つ朴正煕ですが、その私生活は清廉潔白であったことはどの研究者の間でも一致しております。死後に残された財産はほとんどなく、また変に疑われないようにと親戚関係者をソウルに一切近寄らせなかったというエピソードまであります。そうした姿勢はクーデター直後にも見られ、最高権力者に上るや反社会勢力の大規模摘発にすぐ乗り出しております。

 そろそろ本題に入りますが、最高権力者(国家再建最高会議の議長、1963年からは大統領)となった朴正煕の最大の政治課題は国内の経済問題でした。以前にも書きましたが当時の韓国は世界の最貧国の一つで、国民の生活は非常に苦しかったそうです。かといって当時の韓国には産業と呼べるものはほとんどなく、米国の通商代表団も砂糖などといった作物以外にはなにも輸出するものはないと断じております。

 このような状況下で朴正煕が取った行動というのは、海外からの経済援助をばねに投資を行うという戦略でした。クーデター直後の1961年に訪米してケネディ大統領と会い、自ら韓国軍のベトナム派兵を申し出たと言われております。実際の派兵はケネディが暗殺されジョンソンに大統領職が移った3年後の1964年ですが、この派兵によって韓国は膨大な金額の経済支援を米国から受けることとなります。
 また米国からの帰途では日本に立ち寄り、当時の池田隼人首相と会って国交正常化の交渉を始めることで同意しております。日本とは国内の反対運動を押し切り最終的に1965年、日韓基本条約を結び国交を回復しますが、この時に日本が約束した韓国への経済支援額は当時の韓国の国家予算の約3倍にも迫る金額でした。朴正煕自身は日本に対してそれほど敵愾心を持っておらず、リアリストに徹した外交を展開したと研究者の間では言われております。

 こうして得た膨大な資金を元に浦項製鉄所(現ポスコ)を創立したほか道路といった国内インフラを整備し、民間企業なども振興するなど、日本や中国と同じように国内建設によって主導する経済政策を実行しました。こうした政策の成果がわかるデータを引用すると、1961年の韓国人1人当たりの所得は80米ドルでしたが、1979年には1620米ドルと実に20倍もの成長を果たしております。また当時の経済成長は国家主導ではありましたが、この頃に韓国を代表するサムスン、そして今は亡きダエウーといった財閥も急伸し、書いてるこっちの身としても現代にようやく近づいてきたなという感じがします。

 以上のように朴正煕は国内の経済回復という大きな問題の解決には見事成功しました。にもかかわらず彼への評価は今でも大きく二分しており、というのも国内では徹底的な情報統制、政治弾圧を行っていたからです。その弾圧、検閲ぶりは徹底されており、韓国版CIAことKCIAを創設し、無実の罪で投獄、処刑された人間は数え切れるものではありません。Wikipediaにも書かれてありますが朴正煕の政治姿勢は社会主義的な要素が非常に強く、彼のバックグラウンドを見るとあながち遠い話ではない気がします。

 なお戦後直後の日本も同じように社会主義の色の強い経済政策(統制経済)を採っており、ソ連も5ヶ年計画で躍進したりお隣中国も改革・開放政策で一気に伸びてますが、案外どん底の経済状態から立て直すには社会主義経済政策に分があるのかもしれません。ある程度伸びたら使えなくなるでしょうが。

 ざっと彼の経済政策を眺めてきましたが、この朴正煕政権期のどこが面白いのかというとこうしたマクロな話ではなく、ミクロなところです。なもんだから次回はより焦点を絞り、韓国軍のベトナム戦争派兵について取り上げます。

2013年3月31日日曜日

0増5減の選挙制度改革案について

 このところ政治解説が疎かになっているので、一票の格差を解消するため現在審議されている「0増5減案」について私の意見を今日は解説します。結論から言えば次回の参議院選挙が今夏に予定されていることもあり、一時的な代替策としては現法案で問題はないと考えております。


 一票の格差問題についてはさすがにいちいち解説しませんが、今検討されているこの0増5減案が成立することによって1人の国会議員が当選するのに必要な得票数の差は前回選挙での最大2.52倍から1.998倍に縮小されるそうです。世界的には2倍以下が合理的とされているので無理矢理数字を合わせた感がありますが、既に述べているように次回の選挙も近いことですし、現状は早期にこの改革案を成立させもっと別の問題の議論に時間を投じた方がいいと私は思います。

 ただこの改革案ですが、都市部への人口集中が続いている現状からすると1.998倍の差は5年もすればまた2倍以上に開くことは確実です。そういう意味では根本的な解決に至っていないともいえ、現状はこれでいいとしても選挙の度に毎回区割りを修正するのも問題ですし、抜本的な改革案は今後も求められます。

 ではどういう風に改革すればいいのかですが、一つの議題となるのは比例代表制の議席枠です。民主党なんか比例の議席枠をもっと減らすべきだなどと主張しているようですが、小政党からしたら地方選よりも比例選の方が議席が取りやすく、公明党と連立を組んでいる自民党としても比例枠を減らしたくないのが本音でしょう。

 私自身としては現在の比例制だと政治家の新陳代謝が働かない、要するに無能な重鎮が生き残りやすいためあまり好ましく思っていませんが、地方選との二重出馬を禁止するならば小政党を生かすために存続した方がいいと考えております。となるとやっぱり地方選の区割り、または議席数を大胆に修正していくというのが無難な案といえるかもしれません。

 補足として選挙制度についてもう一点加えると、以前からも主張しておりますが現在の参議院はタレント議員が多い上に衆議院と何の差もなく、その存在意義に対し強い疑問を私は感じております。はっきり言って不要だと思えるくらいで、それであればもっと独自性の強い議員にすべきと考えており、選挙制度をこの際だから抜本的に改革したらどうかと思います。どんな選挙制度がいいのか私の案を述べると、やはりアメリカ同様に、各都道府県につき2人ずつ当選し、47都道府県だから94人が定員の議員にした方がいいと思います。

 この選挙制度の特徴はなんといっても、人口比に縛られず各地方の代表が確実に2人ずつ議会に送られてくる点にあります。言ってしまえば衆議院に比べて都市部よりも地方の意見力が強く発信されやすく、国の代表たる衆議院議員に対して地方の代表たる参議院議員という構図が出来ます。優越権はもちろん現行制度の通り衆議院が持ちますが、地方の代表者が国政の場で意見を発信しやすくさせるためにこの制度が一番ありじゃないかというのが、今日の私の意見です。


 書き終ってからなんだけど、0増5減についてほとんど語ってないな……。

2013年3月30日土曜日

暗殺者列伝~山口二矢

 このところ「暗殺教室」、「AZUMI」という暗殺に関わる漫画ばかり読んでて「暗殺」という言葉に対していろいろ思うことがあるので、実在した暗殺者を取り上げて皆さんと一緒に考えてみたくなりました。そんなわけで、「猛将列伝」に続く列伝物のカテゴリーとして今日から「暗殺者列伝」っていうのを始めます。栄えある一発目は物知りな友人も知らなくて「ヨッシャヽ(・∀・ )ノ」と思った17歳のテロリストこと、山口二矢(やまぐちおとや)を取り上げます。

山口二矢(Wikipedia)

 恐らく自分と同世代の人間はまず間違いなくこの人のことを知らないでしょう。自分よりやや年上の世代でも同じかもしれませんが、1950年より前に生まれた人であればこの名前を見るだけでピューリッツァー賞も受賞したあの写真の情景が浮かんでくるかと思います。この山口二矢がどんな人物か簡単に述べると、17歳時に当時の日本社会党委員長である浅沼稲次郎を刺殺し、逮捕後は東京少年鑑別所内で首を吊って自殺した人物です。

 山口二矢は1943年、戦後になってからでしょうが父親が自衛官という家庭に二男として生まれます。幼少の頃から軍国主義的な性格の兄の影響を受け右翼思想を持ったとされ、高校に入学後は右翼団体とも交流を開始し、高校を中退してからは正式に愛国党という党員になります。

 彼が行った暗殺は既に記してある通り、浅沼稲次郎の暗殺です。左派勢力に反感を抱いていた山口二矢は自宅にあった脇差を忍び、日比谷公会堂で開かれた自民党、社会党、民社党の3党党首演説会で壇上に立った浅沼稲次郎に飛びかかり、彼の胸を2度突き刺して暗殺しました。この暗殺時の情景はネットで検索すれば出てくると思いますが、毎日新聞の長尾靖カメラマンが見事に収めたことによって後に彼を日本人初のピューリッツァー賞受賞へと導きます。
 もっともこの時の撮影については以前に誰かが、当時はまだフィルムが貴重な時代でほかのカメラマンは演者がみんな登壇した時に撮影して使い切っていたところ、長尾カメラマンは仕事を横着していたことからたまたまフィルムを残しており、うまいこと撮影に成功出来たと書いておりました。本当かどうかはわからないけど。

 話は戻りますが、刺された浅沼稲次郎はほぼ即死で、山口二矢はその場で自決を図りますが警官に取り押さえられています。取り調べに対し山口二矢は比較的落ち着いた態度だったとされており、警察は何かしら背後に暗殺を指示した組織があるのではないかと問い詰めたものの本人はあくまで単独犯だと主張し、暗殺理由については浅沼稲次郎個人に恨みはないものの、社会党の指導的立場にいることから決行したと証言したとされます。
 そして逮捕から三週間後、山口二矢は鑑別所内で首を吊って自殺します。壁には歯磨き粉で「七生報国 天皇陛下万才」と書いておりました。こうした鮮烈な一生であったことから死後は右翼勢力に祭り上げられたそうで、未だに追悼祭なども開かれていると聞きます。

 私はこの事件を高校生の時に知りましたが、正直に言ってびっくりするような強い印象を覚えました。当時の心境を言うと、当時の自分と同じような年齢でこんな大それた事件をやった奴がいたのかと思うのと同時に、今現在イラクやアフガニスタンで起きているような政界重鎮の暗殺がこの頃の日本に起こっていたのかなどということを思ったのを今でもよく覚えています。ただ山口二矢の行動に関しては間違いなくテロそのものであり肯定する気にはなれず、尊敬とか崇望みたいな感情はついぞ覚えることはありませんでした。

 しかし、ちょっと表現し辛いのですが、尊敬や崇望はしなかったものの、少なからず共感は感じました。こう書くとなんか自分が危ない人間に思われる懸念はありますがありのままに書くと、あの時の共感は十代における思い込みの激しさや、まるですがりつくかのように一つの思想・概念に凝り固まりやすい時期だったからじゃないのかと、今現在思います。

 大分前にも書きましたが、私も中学から高校の一時期はやや表現が古いですが軍国少年っぽい思想を持ち、政治とかにも興味を持ってわかった振りして吹聴し回ってたのですが、ああいう風になるのは反抗期の影響が強い気がします。自分の周囲も自分ほど極端ではなくとも、親とか教師とか学校とか既存の概念に対して反感を持つ一方、国家とか宗教、オカルトみたいなとかく巨大で一見確固としてそうな概念に魅かれる、しかもかなり思い込み激しく傾倒するところがあったように思え、あの年代というか10代の中盤から後半ってのはそういう時期だと考えてます。
 ただそうした思い込みはあくまで思い込みに留まり、実際の行動として出てくるのは中二病と呼ばれる痛い行動程度なのが一般です。それだけに、暗殺というとてつもなく恐ろしい事を本当に実行してしまったという点で、高校生の自分は山口二矢に対して感じるところというか、自分みたいに妄想だけで実行しない臆病者とは違うんだなと思ったのでしょう。無論、そんな臆病者で自分はよかったと、年を食った自分は思うわけなのですが。

2013年3月29日金曜日

日本人女性の化粧技術は世界一ィィィィ

 無駄に見出しをジョジョ風にしましたが、特に意味はありません。じゃあなんでしたのかっていうと、なんとなく書く話題にジョジョっぽい雰囲気が合いそうだなとか感じたからです。

 唐突ですが私個人の実感として、日本人女性の平均的な化粧技術は真面目に世界一、少なくともトップクラスにあると思います。一体なんでこう思うようになったのかというと、このブログで何度も出てくる上海人の友人が、「日本の女の子はみんな化粧が上手い」と言った一言からでした。改めて言われてみると、中国の街中を歩いている女性はみんな化粧っ気が少ないように思え、化粧をしている女の子も、「なんかメイクの仕方間違ってない?」と男の自分ですら思うほどなってなかったりします。

 では女性の目から見たらどうなのか。前の会社にいた頃に日本人女性の同僚にも聞いてみたところ、「確かに中国の街中を歩いていると、素材はいいのにと思う女の子が多い」と話し、化粧技術が日本人に比べて大きく劣り、ちょっと弄ればグッと良くなると他人でありながらよく思うと話しておりました。
 ぶっちゃけた話、日本と中国以外で女性の化粧技術の差にそれほど着目しているわけじゃありませんが、留学中に見た多国籍の女子学生を思い出すにつけ、確かに日本人女性は化粧が上手いなという気はします。一体なんで日本で発達したのかは資生堂あたりに聞いてもらいたいものですが、一つの日本人女性の特徴として覚えておくと面白いかもしれません。

2013年3月28日木曜日

現在と未来の優先順位

 このところよく考える哲学テーマの中の一つに、未来に対する価値観というものがあります。未来といえば現在より時間が進んだ先の状態、ということには間違いないのですが、その未来をどのように捉えるかでこのところ、というか中国に渡ったきた辺りから価値観が変わってきました。

 まず前提として、多かれ少なかれの日本人は将来、10年先とは言わずとも2~3年先くらいの自分の未来がどのようにあってほしいのか、どうあるべきなのかという予測とも希望ともいう漠然としたイメージがあると思います。多分、高度経済成長期であれば今ほどイノベーションというか世の中の動きが激しくなかったので20年とか超長期スパンで物事を考えていた人もいたかもしれません。
 ではそうした未来の自分に対するイメージは現在の自分にどのような影響を与えるのか。改めて考えるといろいろあって、たとえば将来の仕事に必要だからと思って実行するかどうかは別にして英語を勉強しようと考えたり、資格取得を目指したり、生活に根差したものなら住宅ローンを組んだらどうだとか、組んでいる人はいつごろに返済するかとかそういうものを逆算して現在の収支を組んだりなどするかもしれません。こうした見方からすると、未来に対するイメージは長ければ長いほど、確固としていれば確固としていた方がいいようにも見えます。何故なら、現在の行動の方向性が掴みやすいからです。

 では現代人は自分の将来像をしっかり持った方がいいのか。ここまで書いておきながらですが、私はこの見方に対して異を唱えます。つまり、自分の将来像を固めすぎるとあまり良くないと言いたいのです。
 一体何故こんな風に言うのかですが、単純に現代社会は未来がほとんど読めないからです。恐らく就職活動をする学生さんは応募する企業に対して多少なりとも将来性を考えるでしょうが、5年前に日系メーカーとしては一番勢いのあったシャープが現在では青息吐息な状態であるなど、 現代社会はとにもかくにもイノベーションが激しく、今後も更に加速して行きかねません。それ故にうまくいけばめっけものですが急なトラブルというか方向転換を迫られる事態に巻き込まれた場合、 自分の将来像を固め過ぎてると返って選択肢を狭めかねず、言ってしまえば応用が効かなくなる可能性があります。

 では将来像を全く持たずにその場その場で刹那的に生きるべきなのかという声も出てきそうですが、これでは極端から極端に走りすぎです。全く将来像を描かずに「現在」しか見ないで生きるというのも自らの活躍、発展の可能性を狭めてしまいます。
 じゃあ一体どうしろってんだとそろそろ言われそうですが、結論としてはこれはあくまで日本人限定ですが、もう少し未来より現在に意識を集中して生きた方がいいのではというのが私の意見です。

 一体何故私がこんな意見を持つようになったのかというと、言ってしまえば中国での体験が原因です。中国人は概して、日本人と比べると刹那的に生きている人が多いです。10年先なんて知ったこっちゃないよと言わんばかりに勢いで行動するし、仕事も長期スパンの計画とかが苦手で面倒くさい問題は後回しというか放置(日本人も見なかったことにすることが多いが)、キャリアプランも深く考えずちょくちょく転職も実行します。
 自分も一応は日本人であるのでちょっと中国人は刹那的過ぎるかなぁとは思うのですが、その一方で日本人は長期的に物を考え過ぎるあまりに、いざ方向転換しようと思ったら時既に遅しというパターンが多すぎる気がします。中国人を見習えっていうわけじゃありませんが、今感じていること、考えていること、やりたいこと、やるべきことをもうちょっとストレートに即実行しようとしてみる方が長い目で見ると返っていいのではと思います。

 こんな風な考えを持つに至った故というべきか、未来に対する意識というか価値観が数年前と比べて何か自分の中で変わった気がします。敢えて表現するなら、以前は「出来ればこうあってほしいなぁ」という希望イメージだったものが、「現在を積み重ねた結果」と考えています。
 この辺が非常に表現しづらいのですが、以前は希望する、期待する未来のイメージに現在の自分をどう近づけるかを主に考えていましたが、今はあまりそういった未来のイメージを持たず、今現在で頑張ったり、努力したりすればいい未来に繋がり、逆なら悪い未来に恐らく繋がるだろうというようなアバウトな価値観になってます。要するに、先のことは知らないけどまぁ今目前でやるべきことをしっかりやってれば多分良くなっていく、こんな信仰です。

ホリエモンの釈放について

 このところ連載にかまけて時事ネタと中国ネタが放置に近いので、先に時事ネタとばかりにホリエモンこと堀江貴文元ライブドア社長の刑務所出所について書いてみようと思います。

 既に各ニュースで報じられている通り、一時は時の人だった堀江氏が保護観察の身分とはいえ刑務所から出所しました。各新聞、テレビは入所前の写真を持ち合わせその激やせ(30kg減)ぶりを大きく取り扱いましたが、この人は確か拘置所に一時収監、出所した際も痩せ、そしてまた太ってだったので、なんとなくリバウンドが激しい人だなぁと思いました。

 そうした外見に関する話は置いとき、出所後のインタビューでは混乱を招いて株主や関係者に迷惑をかけたと謝罪してましたが、これにはいい意味で違和感を覚えました。というのもわかる人には早いですが、堀江氏の逮捕容疑は有価証券報告書での架空計上、要するに実体のない取引でさも利益があるように粉飾したという内容でこれ自体は確かに違反背反です。しかし架空計上した金額は確か50億円程度で、言ってはなんですが微々たる金額で果たして逮捕、しかも初犯で実刑を食らうほどかとなるとアメリカさんじゃあるまいし日本の司法上では異例です。
 しかも堀江氏の逮捕後、もっと悪質な手法で金額もでかかった日興コーディアルグループの粉飾事件では逮捕者は一人も出ず、さらにオリンパスに至っては長年に渡って隠し負債があったことが発覚したにもかかわらず処分が異常に緩いという、不公平もいいところだというくらいに司法の判断が分かれました。

 上記の背景があるだけに、真に株主らを混乱に陥れたのは私は日本の司法こと検察だと私は考えているので堀江氏は別に謝らなくてもいいんじゃないのとすら思うのですが、なんか殊勝な態度を見せてきたので、年相応にこの人も落ち着いてきたのかなという印象を覚えます。まぁ最初だけかもしれないけど。

 あとこれは堀江氏が近鉄球団買収(2004年)に名乗りを挙げた際の友人の言ですが、「僕は堀江社長が近鉄の買収に名乗りを上げた事にはそんなに感じることはないんだけど、この人が宇宙開発をしたいと言っていることにはすごい共感する」と評価しておりました。それにしても昔のことを自分も良く未だに覚えているもんだ。
 今回の出所後インタビューで堀江氏は昔同様に、「これからは宇宙開発とか実験に関わっていきたい」と話しておりました。このセリフを聞いて上記の友人のエピソードを思い出したのですが、こういうところは首尾一貫しているなぁと思え、私が言うような立場ではないのでしょうが、堀江氏には是非その方面で活躍してほしいと密かに思います。

2013年3月27日水曜日

韓国の近現代史~その六、朴正煕のクーデター

 この連載も個人的に書いてて楽しいところまでようやくたどり着いた気がします。そんな今回はある意味で今ホットというか恐らく韓国史を扱う上で最重要人物の一人である朴正煕の政治界デビューこと、5・16軍事クーデターを取り上げます。

5・16軍事クーデター(Wikipedia)

 最初に前回までのおさらいをします。前回では韓国の初代大統領、李承晩が朝鮮戦争を経た後も自身の地位保全のため選挙妨害などを行うなどしたことからデモが起こり、1960年に退陣して亡命するところまで書きました。
 李承晩の退陣後、韓国では尹潽善(ユン・ボソン)という初代ソウル市長でもある民主党最高委員が二代目韓国大統領として就任しました。ただ李承晩の後に改正された韓国の憲法では大統領にはあまり実権がなく、政権はむしろ首相であった張勉という人物が運営するような形でした。この時期の韓国政界の特徴としては、ほかの時代や国でも同じですが、共通の敵(=李承晩)を打倒した後というものは主導権争いこと内紛が起こるもので、韓国でも与党である民主党内部で激しい内紛が起こり政局は安定しませんでした。また本来協力し合わなければならない大統領の尹潽善、首相の張勉の二人の関係もしっくりと行かず、こうした状態に懸念を持つ勢力が出てきたということです。

 その懸念を持った勢力こそ、ほかの何物でもない軍部で、1961年には後に大統領となる朴正煕ら韓国陸軍士官学校8期生を中心に軍事クーデターが実行されます。
 彼ら軍部がどうしてクーデターを引き起こしたは色々な要因がありますが、Wikipediaに書かれている内容を抜粋すると以下の通りとなります。

1、自由党政権を引き継いだ民主党政権の政治的無策と党内抗争
2、民主的改革に対する民主党の曖昧な態度、経済状況悪化[2]に対する国民の不安の高まり
3、学生や革新政党を中心とする民主化運動と「行こう!北へ!来たれ!南へ!会おう板門店で!」をスローガンとした統一運動の高まりに対して軍部が危機感を抱いた。
4、分断の固定化と朝鮮戦争によって肥大化した韓国軍では軍人事が停滞し、それによって進級が進まなかった下級将校に不満が蓄積されていた。
5、不正腐敗を働いた高級軍人を追放するため下級将校によって進められた「整軍運動」が失敗し、運動の首謀者が追放されそうになっていた。

 1~3までが社会的背景で、4~5が直接的要因と書かれてあります。私個人の意見としてはやはり4番の理由こと、出世要因が最も大きいとみます。軍人というのは基本、戦争がなければ飛び抜けた実力、才能があってもなかなか出世しづらい職業です。それ故に平時は官僚同様に年紀で昇進するわけなのですが、上記にも書かれている通りに何かの拍子で軍人が余っちゃうと途端に出世が遅れ、8期生とか11期生とか、士官学校の卒業年代別で階級に大きな隔たりが生まれます。それ故に軍隊というのは世代間対立が激しい所で、戦前の日本で起こった皇道派、統制派の対立も突き詰めると世代間対立が原因で、最終的に二二六事件にまで発展したことを考えるとこのクーデターもそう言った対立の延長かなと思ってしまいます。

 話はクーデターに戻り、当時少将だった朴正煕を中心とした8期生の将校らはデモ鎮圧を口実に出動し、そのまま国会やテレビ局といった国家の主要施設の占拠に成功します。驚くべきはこの時のクーデター実行部隊兵数で、わずか5000人にも満たない兵力だったそうです。
 何故それだけの兵力で国盗りが見事に成功できたのかというと、一つにソウルの主要施設をすぐに占領できたことと、軍部の長老の懐柔にうまく成功できたという二点が挙がります。後者の軍長老の懐柔ですが、要するに身の安全や今後の保証を約束した上でクーデターの正当性を認めさせたということなのですが、実際にはこの約束は反故にされてクーデターの成功後、軍の長老らはみんな放逐されております。

 また成功要因としてもう一つ、権力保持側である政権がほとんど抵抗する姿勢をみせなかったということもあります。クーデター開始後、時の首相の張勉は女子修道院に隠れ姿を見せず、大統領の尹潽善もクーデター実行部隊側の要求を聞き入れて非常戒厳令を追認しております。こうした二者の行動に対して批判する声もありますが、当事者としては命にかかわる事態だっただけに私としては批判する気はありません。

 こうして権力を握った朴正煕は国家再建最高会議を組織し、自らが議長に就任。反対デモなどを武力で抑えて軍政を展開します。こうした事態に対して米国こと在韓米軍は、クーデター直後は尹潽善にクーデター軍鎮圧のため軍隊を出すべきだと進言しますが内乱を過熱化させるとして尹潽善は拒否します。そうこうしているうちに米本国は、当時はケネディ政権でしたが朴正煕政権を追認し、朴正煕もこれに応じる形で訪米を果たしております。
 この時の米国の追認ですが、背景にあったのはベトナム戦争だと私は考えています。既に米国はベトナムへの干渉を行ったものの事態は泥沼化を辿っており、下手に手を突っ込んでグダグダになるくらいなら、政権移行がスムースに行くようであれば追認してしまおうと考えたのではないかと思います。どうでもいいですが、日本ではケネディはベトナムからの撤退を準備していたという神話が流れておりますが、ベトナムを泥沼化に追い込んだのはほかならぬケネディでしょう。

 そういうわけで次回は、軍事政権を経て大統領に就任した朴正煕の施政を解説していきます。