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2013年7月28日日曜日

平成史考察~イラク日本人人質事件(2004年)

イラク日本人人質事件(Wikipedia)

 この平成史考察もかなり久々の執筆となりますが、思うところがあれこれあるので今日は2004年にイラクで起きた日本人人質事件について書いてみようと思います。

 まず事件のあらましを簡単に説明すると、前年に起きたイラク戦争において米国の勝利が早々に決まり、各国の関心はその次の占領政策をどうするかに注目が集まっておりました。この占領政策において日本は当時の小泉首相の強い主導のもとに自衛隊をイラクに派遣しましたが、これに対して反米イスラム原理主義者などは米国に協力する国もテロ活動の標的すると発表し、その標的の中には日本も含まれておりました。

 こうした情勢の中、イラク現地で外務省が出していた渡航自粛勧告を無視してイラクに入国した日本人三人(男性二人、女性一人)が現地武装勢力に拉致され、人質となっていることが犯人らの犯行声明で明らかとなりました。犯人らは自衛隊のイラク撤退を要求し、聞き入れられなかった場合は人質を殺害する方針も出しておりましたが当時の政府はこの要求を拒否。人質の安否が気遣われておりましたが最終的には地元有力者による仲介を受け犯人は人質を解放したことで、事件はひとまず落着しました。なお事件は発生から何か進展があるたびに大手新聞社は号外を出し、当時の号外発行回数が異常に多かったのは豆知識です。
 ただこの事件は人質が解放されてからがある意味本番だったともいえる事件で、解放された人質三人に対して世論は軽率すぎる行動だとして大きなパッシングが起こり、危険な所に自ら飛び込んで人質となるのは自業自得だとする、所謂「自己責任論」という言葉が流行して大きな議論となりました。

 最後に書いてもいいのですがなんでこの事件を今日取り上げようかと思ったのかというと、このところ私のブログで「平成史考察~玄倉川水難事故(1999年)」のアクセスが非常に増えているからです。夏場の事件だし思い出す人がいて検索をかけているのだろうと思いますが、私はこの記事で、今思い起こせば注意や勧告を聞き入れずに遭難する人は自業自得なのだからわざわざ救助するべきではないという、自己責任論の端緒とも言える世論が出始めていたと指摘しておりますが、それが花開いたというのがまさにこのイラク日本人人質事件だったと思うからです。
 また先日、芸能人の辛坊治郎氏がヨットでの太平洋横断中に遭難して救助された際も同じように自己責任論が飛び出し、辛坊氏は救助費用を自己負担するべきなのではないかという意見も出ており、ちょっとこの事件を振り返ってみようと思ったからです。

 改めてこの事件が起きた当時の状況を思い起こして書くと、まず第一に言えるのは自衛隊のイラク派遣が本当に国論を二分する大きな議題となっていたことです。賛成派議員としてはここで自衛隊を派遣することによってアメリカとの同盟関係を強化するとともに、自衛隊の運用の幅を広げようとする狙いがありましたが、反対派議員はその逆に、自衛隊の存在意義を否定したいがために反対だったように思えます。
 では国民の間はどうだったかというとこちらも割れてはいましたが、あくまで私の実感だと反対派の方が多かったような気がします。何故反対派が多かったのかというとイラクで自衛隊員が万が一に死傷したらどうなるのかと心配する声もありましたが、それよりも何よりも自衛隊が派遣されることによって日本国内でテロが起きるのではという心配が最大だったように思えます。
 なお当時の私の意見をここで書くと、自衛隊派遣に賛成でした。理由は単純で、直接攻撃した米英軍よりも日本の様な第三者的立場の国が治安維持活動を行う方が理に叶っていると考えたからで、今もこの考えに変わりありません。

 話は戻りますがこういう状況下で起きたのがこの事件で、発生当初は「それみろ、やっぱりこういう事件が起きるのだから自衛隊は行くべきじゃなかった」というようなトーンで報じられていたように思えます。ただその潮目が変わったのははっきり申し上げると、人質となった被害者の家族が記者会見に出たその時からでした。会見で家族らは政府を激しく批判して今すぐ自衛隊を撤退させるようにかなり強い口調、具体的に書けば机を叩いて怒鳴る姿がテレビに映り、見ていた私も「心配するのはわかるが止めていたのに勝手に行って、身の安全も保障しろというのは虫が良すぎやしないか」とはっきり感じました。
 とはいえまだこの時点ではそれほど批判は起きず安否を心配する声が大半でありましたが、解放された人質の一人が「またイラクに行きたい」と話したと報じられた直後、インターネットを中心に一気に火が噴き、件の自己責任論が出てくるようになりました。挙句にはそもそも人質となったのは自衛隊をイラクから撤退させるための自作自演だったのではないかいという意見まで飛び出し、あまりの過熱さから被害者は帰国後も記者会見を行わず表舞台から身を隠す羽目となっております。
 念のため書いておきますが、自作自演説についてはさすがに有り得ないと私は考えています。

 何故この時から自己責任論が噴出するようになったかですが、背景にはやはりインターネットの発達が大きいかと思います。ネットが発達して個人でも意見が発信できるようになり、それ以前と比べて一般個人の「本音」がよりくっきり出るようになり、メディアの側もそうした声を拾うようになってきたことが原因だと思えます。
 更に付け加えると、自衛隊のイラク派遣に批判的だった議員や団体がこの事件を政治的に利用しようとする動きがあったことに大きく反感が持たれたことも影響しているように思えます。テロリストへの対応として彼らの要求に決して屈してはならないのはいうまでもありませんが、イラク派遣反対派は事件が起こるやこれ見よがしにこういうことがあるのだから派遣すべきでなかったと声高に主張し、国会などでも批判材料として大いに活用しました。こうした近視眼的な行動を国民もちゃんと見ていて、心なしか事件後からイラク派遣に対する賛成派が増えたような気もします。

 最後に自己責任論について当時、「日本人の心は貧しくなった」などという主張をする評論家がたくさん出てきましたが、何ていうかこういう意見は「自分たちは違うんだぞ!」と言っているようにも見えてあまりいい印象を覚えませんでした。ただ中にはこの事件を指して、「国は守ってくれないのだから自分自身で常に身を守るしかない」と考える人が増えてきたことも影響しているのではと書く人もいて、この意見に関しては逆に「そうだねぇ」などと思うようになりました。

2013年7月26日金曜日

技術は国を滅ぼす?

 私とかかわりのある人間なら一度か二度くらいは聞いたことあるかもしれませんが、折に触れて「技術者が日本を滅ぼすよ」ということを口にすることがあります。数多くの理系を敵に回すこと覚悟で続けますが、今の日本の製品というのはオーバースペックというか過剰品質、性能の感があり、こうした点を如何に克服するかが大きな課題だと私は考えております。

 以前にとあるメーカーで営業職をされていた方と話す機会があったのですが、あれこれ往年の仕事の話を聞いている際によく、「これで行こうと話が進んたのに、技術者がこの性能じゃダメだと言ってなかなか製品化出来ないという例が数多くあった」ということを何度も口にしていました。それどころか最後の方に至っては、「出せば売れるって言っても技術者は自分たちの持っている技術水準を下回る商品の発売を認めようとしないし、逆に他社の商品で自社製よりも性能で優れている点については敢えて口にしないところがある」と話し、恐らく折衝とかで相当苦労されてきたんだなぁという風な感じでした。

 この方のいた会社に限らず私自身も記者時代にあれこれ取材して感じたこととして、日本のメーカーは技術者がとにもかくにもやたら性能やスペックにこだわりを持ち、価格を下げる代わりに性能を落とした商品を出そうとしても認めようとしない、それどころかもっと品質なり性能を引き上げれば必ず売れるという信仰に近い考えを目にしております。結論から言えばこんな具合だからこそ海外市場に日本製商品は売れなくなってきて、しまいにゃ中国の新聞にまで「日本製テレビのリモコンはやたらボタンが多くて使いづらい」とまで指摘される始末です。機能を絞って価格を安くするというか、そのような技術思想が日本には乏しいと感じます。

 ただこの技術信仰、未だに国を挙げてやっている感もあります。「技術立国」というスローガンそのものが典型ですが、今の時代、技術は確かに大事ですがそれと共にマーケティングの重要度も高まってきています。日本人が好む商品が外人に受けるという保証はなく、誰が何を求めているのか、こうした視点が非常に重要になってきている時代です。そんな中で技術に過剰偏重している状態では先行きが乏しく、敢えて警告するという意味合いで「技術が国を滅ぼす」などと、強い言葉を使った次第です。

2013年7月24日水曜日

仏教は宗教なのか?

 先日に宗教学者である島田裕巳氏の著書「無宗教こそ日本人の宗教である」を読んだのですが、読んでて自分とは異なる意見もいくつか見られたものの、日本人の無宗教性を「特定の信仰を持たない状態」ではなく「意識的に信仰しようとしない」一つの思想として捉えた点が非常に面白く感じました。ただそうした島田氏の捉え方と共に、明治にキリスト教が知識人層に広まっていったことで日本人の宗教概念が変わったという、話に何故だかアンテナに引っかかり、今日はそのあたりを好きな風に書いてこうかなと思います。

 まず結論から書いてしまうと、タイトルにも掲げている通りに仏教は宗教なのかという疑問を覚えました。たとえばキリスト教とイスラム教に対して仏教は一神教と多神教で異なるとよく言われますが、それ以前の信仰の形式というか形で大きく異なるのではないかと思うようになりました。まだ考えがまとまっていないので端的に書くと、キリスト教やイスラム教は人類全体を救済するという目的を持っているのに対して仏教はどちらかと言えば信仰する本人、個人が悟りを開けるかどうかに重点が置かれているような気がします。仏教にも衆生を救済するという概念はもちろんありますがやはりその本質は輪廻の輪っかから解脱することにあり、キリスト教やイスラム教の様に世界を破滅から救ったりとかそういう意識が極端に薄い気がします。

 ここで先ほど出した島田氏の言葉ですが、明治以降に日本人の宗教という概念が大きく変わったという説です。宗教というと信仰する神様がいて、戒律によって生活の一部を制限して、自分の振興をほかの人にも勧めようとする、大体この三要素を持った思想を指すとみんな考えていると思いますが、仏教もこれらの要素を持ちながらもその程度はキリスト教やイスラム教と比べると極端に低く、浄土真宗に至っては結婚も生臭物の接種もOKというフリーダムぶりです。そのように考えると、仏教を西欧や中東における「宗教」という概念と一緒に並列していいものなのか、思想は思想でも「宗教」というカテゴリーにまとめずに敢えて別の言葉に置き換えて区別した方がいいのではないかと思ってきたわけです。

 そのように考えていたらふと出てきたのが、「道」という言葉です。最近だとこの「道」という一文字を見たらリアルに「タオ」と読んでしまうのですがそれは置いといて、仏教と同義の「仏道」と日本古来の神話思想の「神道」という言葉にはこの「道」という言葉が使われますが、「キリスト道」とか「イスラム道」という言葉は一般的ではないというか普通はまず使いません。
 個人的にここが両者を分けるポイントだと思うのですが「道」というのは分野というか専門といった意味を持つ言葉ですが、それと同時に訓練して獲得するような技能などにも使われる文字です。具体例だと「剣道」や「弓道」、マイナーなのだと「天狗道」とかありますが、私はやはり「仏道」や「神道」というのは究極的に、その個人が修行したり魂を磨くということに価値を置いているからこそ「道」という言葉が使われるのだと思います。

 それに対してキリスト教やイスラム教は、確かに精神を鍛えるという面もありますがどちらかというと論理を追及するところにより価値が置かれているようにも思え、それがため「宗教」なんじゃないかと思います。なのでまとめると、仏教や神道は「道」であって「宗教」というか「教」とは一線を画すべきなのではというのが私のいいたいことです。
 もっともここまで言いながらですが、じゃあ中国の「道教」はどっちなんだと言いたくなってきます。もう「タオ」でいいだろと言いたくなってきますが。


2013年7月23日火曜日

韓国の近現代史~その二十、民主化宣言

 前回までに全斗煥政権期における北朝鮮の国際テロ事件を取り上げました。こうしたテロ事件が頻発した中で全斗煥政権はソウル五輪の招致に成功するのですが、全斗煥本人は1988年に大統領任期が切れ、後任に士官学校で動機であった盧泰愚を指名し、院政を敷こうと考えていました。しかし彼が院政を敷く前に韓国では再び大規模な民主化運動が起こり、その結果として朴正煕政権以来(李承晩期も含んでいいが)続いていた軍事政権が崩壊することとなります。

 まず韓国の民主化運動についてですが、はっきり言って非常に長い歴史があります。現代にも伝わる流れとしては朴正煕政権時代に民主化を求めて金泳三、金大中が活発に活動していたのでこの辺りから見るべきかなと考えるのですが、民主化運動というのは言い換えれば政府の政治弾圧の歴史と言ってもよく、光州事件など死傷者が多数出る事件にもしょっちゅう発展しています。しかし死傷者が多数出ながらも韓国ではなかなか民主化へと至らなかったのですが、全斗煥政権期に起きたいくつかの変化が大きく作用して軍事政権は倒れることとなりました。

 その変化というのは主に二つあり、一つは中間層の拡大と、もう一つはソウル五輪です。全斗煥は国内で大衆政策と共に経済振興を実施したので生活に余裕のある中間層が韓国でも増えていきました。これら中間層はそれまで大学生が主体だった民主化運動に加わるようになり、なまじっか経済の担い手でもあるため政府としても対応に苦慮したと言われます。
 次のソウル五輪ですが、度々政治デモが起こっていたことから当時、五輪開催は難しいのではと思われて場合によってはロサンゼルスで代理開催を行うことまで議論されたそうです。政権側としても国家のメンツのかかったイベントであるだけにデモの鎮静化が最優先課題となったわけなのですが、こうした中で妥協案として出てきたのが民主化宣言です。

 朴正煕政権以来、韓国の大統領は軍部の息のかかった人間の投票によって決められる間接選挙制で選ばれていたのですが、盧泰愚はこれを国民の投票による直接選挙制に改めると宣言することで妥協を図りました。結果としては上手く作用してデモは鎮静化し、ソウル五輪も無事開催できたわけなのですが、問題なのは次の大統領選。案の定というか全斗煥の跡目を争う1987年の選挙では民主派の代表格である金泳三と金大中が出馬して来て盧泰愚とぶつかり合ったのですが、皮肉なことに民主派の票が金泳三と金大中の二人に別れてしまい、漁夫の利的に盧泰愚が当選しました。人間やってみるもんだね。

 ただ議会選挙では民主派が保守派に勝利したことから盧泰愚は金泳三陣営と連立を組み、議会においては民主制が先に実現しました。そして1992年の大統領選挙で金泳三が今度は無事に当選し、32年間続いた韓国軍事政権は終わりを告げることとなったわけです。

 私個人の歴史観で言えばここまでが韓国の近代史であって、金泳三政権以降が現代史になると考えております。というのも民主主義大統領が生まれて徐々に国の政策も開放的になり、行ってしまえば他の資本主義国に韓国が明確に近付いたのがこの時期だからではないかと思うからです。
 そういうわけで次回は、退任後も変な不正疑惑が付きまとわない珍しい韓国大統領経験者の金泳三の時代を取り上げます。

2013年7月22日月曜日

参院選の結果について

 書く前からなんですが、全くやる気が起きません。というのも参院選の結果があまりにも予想通りというか予定調和というか、これほど結果の見えた選挙というのも私が見た限り今までありません。こういってはなんだけど、どう転ぶかわからない選挙の方が見ていて楽しいです。郵政選挙とかさ。

 この見方は市場も同じだったようで、選挙の後は普通、ご祝儀で株価が上がるのに今日の日経平均は68円高でしょぼい結果に留まりました。朝一で180円高になったと報じるメディアもありましたが、もうチョイ落着けば良かったのに。あと「株価全然上がんない」と泣き言を言ってくる先輩もいました。朝9時半にメールだよ。

 それで今後の展開ですが前にも少し書いていたのに補足すると、安倍政権はすぐに憲法改正に着手することはまず有り得ないと思います。というのも当面の課題はアベノミクスこと経済政策だし、改憲に着手しようったって自民党内ですらまだ一枚岩ではありません。そして何より国民の間に議論が起こっておらず、そういう空気にはなれないでしょう。そういう意味では中国や韓国のメディアが改憲が行われるのではないかと報じているのは見当違いも甚だしく、こういってはなんですが向こうの記者は日本の政界を読み切れていないとも言えるのでなんだか安心します。

 ちなみにこういう政治がらみの海外メディアの報道ですが、私自身もそうだったという経験から言わせてもらうと、やはりその国の主要紙の意見をほぼなぞってしまう傾向にあります。やはり政治というのは長年見ていないとわかり辛くぽっと出の外信記者が的確に分析しようったって自分でやりながら無理だってとか思う作業です。となるとどうなるかですが、「日本の朝日新聞は~」という感じでその国の主要新聞の意見をそのまま取り入れて発信してしまうことが多いです。
 私が見る限りやはり外国メディアは「なんか知識層が読んでそう」という具合で朝日新聞の意見をやたらなぞるというか朝日のスタンスで政治記事を書くことが多いように見えます。まぁその朝日ですが、このところの原発関連のスクープ記事は見事としか言いようがなく社会部は大したものだと心底思うのですが、政治部はもうちょっと勉強したらというか、安倍首相がそんなに嫌いならはっきり嫌いと書けよと言いたくなるほど見下げてます。

2013年7月21日日曜日

北京空港の爆破事件について

 昨日午後六時過ぎ、中国北京市にある首都国際空港のターミナル3で爆発事件が起こりました。21日付の京華時報などによると、事件を起こしたのは下半身に障害を持つ車いすの34歳男性、名前は冀中星といい、過去に起きた地方警察による処遇への不満から自作の爆弾を爆破させたものだと書かれてあります。被害は冀中星と制止にかかった警官の2人だけで、ともに生死に別条はないそうです。

 報道によると冀中星は広東省出身で、以前はバイクによるタクシー業を営んでいたものの地元警察から摘発を受けた際に暴行を受けたことから下半身麻痺の障害を負い、それに対する不満をミニブログ(微博)に書き込んでいたとのことです。なおその地元の東莞警察は違法な暴行があったかどうかについて現在は回答を濁しております。

 事件の目撃者は当日、冀中星が手製の爆弾を空港内に持ち込み、何事かを主張した後に自ら爆破したと話しており、爆弾そのものについては、「爆発音は爆竹のような音だった」と述べています。爆発後の状況に関しては地面に血が飛び散っていたとの目撃証言が出ていますが、指などの人体パーツが飛んでいたとの話は私が見る限り見当たらず、爆発力は報道の通りにそれほど高くなかったのではないかと推測します。怪我を負った犯人と警官に関しては既に病院で処置が完了しており、犯人は爆弾を持っていたと思われる左手に重傷を負って切断手術が実施されたものの、やはり命に心配はないとのことです。

 私は今回の報道を昨夜の時事通信の報道で見ましたが、その後に中国メディアを眺めたところ大体どこも報じていたので情報隠蔽をした素振りは見られません。まぁ隠蔽したらしたで批判が集まることもわかっているだろうからそんなことすることもなく、むしろ外国メディアに対しても新華社メールで事件一報を通知していたことでしょう。
 ただそれ以上に今回の事件は一般市民が自前のミニブログで現場写真などをアップロードし、それをメディアが追っかけるという展開が顕著にみられました。日本でも最近そうなってきておりますが、世の中変わってきたなぁと思う次第です。

2013年7月20日土曜日

共産党キャラクターのインパクト

 また本題とは関係ありませんが、このブログはGoogleアナリティクスであれこれ訪問者数とかいつも確認しており、毎日それを見るのが密かな楽しみとなっております。ちょっと手の内を明かすと一日の訪問者数は250~300人くらいでこのところ推移しており、かつて10人程度だった頃と比べると随分とパワーアップしたなと思います。
 ただそうした読者数よりも気になるのは検索ワードの方で、最近気が付いたのですが「荒川静 セッション」で検索をかけると、私もセッションを受けたスピリアチュリストである荒川静さんのオフィシャルページを上回り検索順位の最上位に私の記事が表示されます。いくらなんでも、オフィシャルページを上回ったらまずいだろ……。

 そんな余談は置いといて本題ですが、今朝の朝日新聞に今回の参院選で各党がそれぞれゆるきゃらならぬイメージキャラクターを出してきていることを特集する記事がありました。今時PRキャラクターなんて珍しくないし取り留めて気にするほどではないと思ったのですが、共産党のキャラクターがなんかやけに存在感を出していました。


 そのキャラクターというのも上記の「雇用のヨーコ」で、「一体何を狙っているんだ?」と思いたくなるような風貌に何故か心が動きました。っていうか、ほかの党のキャラクターと比べて明らかに浮いてるし。一応はOL風になっていますが個人的には若い人にはわからないだろうけど「マルサの女」にしか見えず、つくづく日本共産党はそこがしれない組織だという気がします。