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2014年6月26日木曜日

昭和天皇の人となり

 先日に歴史ネタで何かリクエストはと知人に尋ねたら昭和天皇について書いてほしいと返ってきました。昭和天皇についてその歴史的な立ち回りについて書こうとしたら一介じゃとても書き切れないし、またその辺の解説は何も自分じゃなくてもほかの人もやっているので何か自分なりの味付けを加えようと考えたところ、昭和天皇の人物像というか人となりであればまだ書けるのではと思い、今日のこの見出しとなったわけです。
 
 昭和天皇がどういう人物であったかについて、日本人であれば知らない人はまずいないでしょう。平成に時代が切り替わった直後に報道各社で昭和時代を振り返る特集が何度も組まれましたが、それら特集のほとんどに「激動の昭和」という言葉が枕詞の様につき、現在においても「安定の昭和」とか「治世の昭和」なんて言われない辺りこの表現が強勢を保っているように思えます。この激動という言葉の通りに昭和時代に日本は敗戦もすればバブル景気も謳歌しており、文字通り底辺とてっ辺を両方とも体験したという歴史的にもこんな国はこれまで存在したことはそんなにないでしょう。
 そんな昭和時代に最も翻弄された日本人となるとやはり私の中で上がってくるのはこの昭和天皇で、国家元首としての地位に生まれ文字通り神様として崇められましたが太平洋戦争の敗戦によってその地位はなくなり、新たな憲法体制下で「人間宣言」を行った上で象徴天皇制の下で新たな役割を演じることとなります。
 
 昭和天皇がどんな人物だったか、私個人の印象をここで述べると一言で言えば責任感が恐ろしく強くて周囲に求められる役割を自分なりに必死で果たそうとするタイプ、といったところです。伝えられている歴史だと少年時代から非常に頭が良くて英邁な君主になると期待されていて、父親の大正天皇が病弱だったことから皇太子時代から摂政として政務に与かり大過なく運営していた点を見るとやはり非凡な人物だったと思えます。そして自分が天皇になると、自ら立憲君主制の君主足らんと行動している節があり、侍従などの日記によると議会の混乱に不安を感じつつも直接政治に口出ししてはならないとして超えてはならない一線をしっかり引いた上で自重しています。もっとも、満州事変の際には嘘ばっか報告する陸軍に怒り、当時の田中義一首相を叱って総辞職させてしまったことがあり、昭和天皇本人もトラウマになるほど後年に反省してますが。
 
 話は戻りますが終戦後に象徴天皇制の中で新たな役割が求められる中、昭和天皇は比較的スムーズに適応してそのまま終生天皇としての役割を果たし続けます。私の勝手な推測ですが戦前まで元首としての振る舞いが求められていたのに終戦後は一転して象徴としての存在に切り替えるのはなかなかできるものではないのではなどと思うのですが、この辺で昭和天皇はきちっと切り替え現在にも続く象徴天皇制の中の天皇の役割というものを確立させた気がします。
 なおここで一つのエピソードですが、終戦後に国民を慰めるために昭和天皇は皇后と共に全国各地を行幸してますが、これは宮内庁側からGHQに発案したとされ、恐らく昭和天皇自身も乗り気で実行したのではないかと見られています。その行幸の際、市民から話を聞くと昭和天皇は当初、「あっそう」と度々言い返してたそうなのですが、行幸が何度も行われて行くうちにどうも「あっそう」というのはこれまで意識しなかったものの世間では失礼な言い返し方だということを自覚したようで、途中からは「大変でしたね」などと言葉を変えたと伝えられています。こういうあたりを見るにつけ本当に立ち直り方が早いな。
 
 このように周りから求められている振る舞いや、こうしてもらいたい行動を言わずもがなで察知して着実に実行に移す、昭和天皇はそういう人物だったのではないかと私は思っています。逆を言えば「私」こと自我がほとんどない、というか徹底的に抑え込むストイックな人物だったとも言えます。
 実際にこれは晩年の闘病中のエピソードですが、医者から「お体で痛むところはありますか?」と問われた際に「痛いとはなんだ?」と聞き返したことがあったそうです。この話を昔教えてくれた佐野眞一氏は、恐らく昭和天皇はそれまでの人生で「痛い」と言ったことがなかったのでは、痛いと思ってもそれを絶対に口にすることはなかったのではと話していましたが、この説に私も同感です。自分に対しここまで厳しい人は市井にも少ないというかまずいないだけに、皮肉な言い方になるかもしれませんが立憲君主制下では本当に理想的な人物像だったかもしれません。
 
 このように自分が言いたいこと、やりたいことがあってもそれをしっかり我慢するのが昭和天皇ですが、自我が全くなかったというわけではなく「譲れない一点」というかこだわるようなポイントはもちろんありました。それはどこかというと昭和天皇の専門領域である生物学に関する分野で、戦後に農林省が植林事業を行うに当たって資材になりやすい杉やヒノキをガンガン植えようと提案したら、「針葉樹ばかりでは広葉樹が減り生態系が崩れるのでは」とチクリと釘を刺したそうです。実際にそうなってクマが大量に下りてくるわ、花粉症という風土病が出来上がるわでこの時ばかりは昭和天皇にもうちょっと前に出てもらいたかったものです。
 同じく生物学に関するエピソードだと、これは以前にも紹介しましたが和歌山の奇人こと南方熊楠に戦前、昭和天皇は個人講義を依頼しています。警察官や裁判官に向かって平気でゲロをぶっかける南方熊楠もさすがに昭和天皇の前ではかしこまり講義中は終始緊張しっぱなしだったそうですが、この講義を昭和天皇も非常に気に入ってたようで侍従から予定時間が終わると通知されるや、「続けなさい」といって前代未聞の延長コールを出しています。後年に至っても相当印象に残っていたようで、戦後に昭和天皇が歌った和歌では天皇御製としては非常に珍しく、「熊楠」という個人名を入れた歌を作るほど懐かしがるほどでした。
 
 現代の今上天皇、そして皇太子も決して人格的に問題があるわけでなく、むしろよく頑張られているとは思うものの、これらのエピソードから垣間見える昭和天皇のストイック振りと比べるならさすがに敵うべくもないでしょう。ちょっと大げさな話をすると、仮に将来天皇制が廃止されるとしても昭和天皇の事績とその生き方に関しては歴史に大きく刻まれ続けるのではないかと思います。
 
  余談
 当時の年齢も覚えていないほど幼児だった頃、ある年の冬の情景だけ何故かくっきり覚えています。その冬はぐずついた天気が多かったのですが外に出ても何故か人通りは少なく、ひっそりしていて、自分も外で遊ぶことは控えて友達と一緒に近所のコンビニ(セブンイレブン)で買ったトランプを使って部屋の中で遊ぶ時間がやけに長かった気がします。今思えば、あの冬が大葬の冬だったのかもしれません。

2014年6月25日水曜日

電子書籍価格の戦略なき変動

 いきなり本題に入りますが、このところAmazonで販売される電子書籍の価格が恐ろしいほど激しい変動を繰り返しております。電子書籍といっても私が買ってるのは恥ずかしながら漫画が主なのですが、誇張ではなくここ数ヶ月は毎月と言っていいほど値段が変わっています。
 具体的な金額を挙げると、たとえば「ヤングジャンプ」などといった集英社の青年コミックだと今年三月までは一冊368円だったのが、四月に入ると何故か300円に下がり、そして五月のGW明けにはこれがまた368円に戻ると、六月になったら想定外の500円に値上がりました。この流れを矢印で書くと以下の通りです。
 
 三月 → 四月 → 五月 → 六月 
368円→300円→368円→500円
 
 同様に角川書店の角川コミックスも、五月までは一冊378円だったのが六月に入った現在だと432円に値上がりしています。ちなみに買っているのは「新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画」という漫画ですが、ちょっと記憶があいまいではっきりしないものの、六月前半には一時500円になってたのを見たような……。もしかして六月中にまた値段下げたのかもしれません。
 
 これら電子書籍の値段の決定権は販売しているAmazonではなく出版社側であるため、この激しい変動振りは出版社の作為によるものと見て間違いないでしょう。ただAmazonに対しても不信感が全くないというわけではなく、というのもこれらの価格改定を事前に全く通知してくれないからです。念のためこの記事を書く前に何度もサイト内を調べましたが価格改定を事前に通知するようなページはついぞ見当たりませんでした。
 読んでてわかるでしょうが、正直に言ってこの一連の値段変更は私にとって不快です。恐らく4月中は販促キャンペーンかなんかで一冊300円にして売り出してたのでしょうが、もしこの価格が四月限定であるとあらかじめ通知されていればこの時期にまとめて買っていただろうし、同様に六月から価格を実に35.9%も引き上げるということがわかっていたら、ひとまず今欲しいものに関してはあらかじめ購入していたでしょう。それ以前というか予告なしに30%超もいきなり値段引き上げるなんて消費者をちょっと軽んじすぎやしないか。
 
 一体何故出版社はこのように値段を、それこそ猫の目のようにころころ変更するのか。結論を言えば特に戦略など持っておらず適当に設定して適当に変えているようにしか見えません。しかしほぼ毎月値段を変更するというのは株や生鮮品でもないというのに如何なもののように思え、またキャンペーンで一時的に値段を下げるという戦術はまだ理解できるものの、それを周知しようとしないというのは一体何のためにキャンペーンをやっているのか中途半端もいい所でしょう。
 私の予想だとそう遠くないうちに出版社はまた値段を変えてくると思います。これで七月に入ってまた変えたら傑作ですが、多分出版社は確固たる販売戦略を持ってないと思えるだけに、また適当な気分で変えてくるのは目に見えています。それだけに大きく値段を引き上げられた状態である今、消費者はどう行動するかというとそれもまた明白。少なくとも私に限ればまた値段を下げるまで買わないの一点に尽きます。
 
 自分ほど細かく価格をチェックしてなおかつ文句垂れるのは珍しいにしろ、なんだかんだ言いながら消費者はこういう売り手のあいまいな態度をちゃんと見透かして消費行動にきちんと反映させてくると私は思います。なので今後も出版社がころころ値段を変えようものなら虻鉢取らずな結果に陥ると思うだけに、価格を引き上げるにしろ引き下げるしろもうチョイはっきりとした戦略を持てよというのが今日の私の意見です。

2014年6月23日月曜日

自民党都議のセクハラ発言問題について

 久々に政治記事を書きますが、各所で報道されている通りに先日都議会で塩村文夏都議に対して「早く結婚しろ!」などという品のない野次が飛んできた件について、自民党の鈴木章浩が本日、自らが発言主だと明らかにした上で塩村都議に謝罪しました。あんま長く書く記事ではないのでちゃっちゃといいたいことを書きますが、まぁ次の目はないでしょうね。
 
 一応というか渦中の中で自ら名乗り出てきたのは評価してあげたいものの、既にこの問題が取り上げられ始めた時点で発言主は鈴木都議ではないかとネットを中心にささやかれており、今日の発表を見て私も「ああやっぱこの人だったんだ」と思ったほどでした。何を言いたいのかというと今回の発表は刑事用語でいうなら自首ではなく出頭、つまり犯人がわからない状態で自分がやったと名乗り出たというよりはもうバレバレだったから、「そうよ、何を隠そう俺こそが犯人だ」とばかりに開き直って名乗り出たようにしか見えず、実際にあまり反省してるようにはとてもじゃないけど思えません。
 さらに鈴木議員自身が問題発生当初に記者からのインタビューで、「そのような野次は聞こえなかった」などと言った本人でもあるにも関わらず否定しており、自分の発言が問題あったとわかっていた上で隠そうしていたのは明白でしょう。それから名乗り出るまでの時間は数日あったにもかかわらずダンマリ決め込んでたんだから、うやむやにする気は満々でさっきも言ったように隠し通せないから開き直っただけでしょう。
 
 こういってはなんですが、ガンダムで言えばアルベオ・ピピニーデン(わかる人いるかな?)並に情けない奴としか思えません。発言の品のなさもさることながらバレバレの癖にしらばっくれて、事と問題が大きくなってから観念して白状するなど時代劇の小悪党ですらもっと堂々としてる気がします。それだけに、「子供は産めないのか」という野次は言っていないと抗弁してますが、果たして本当にそうなのか私個人としてはまた嘘ついてるのではと強い疑問を感じます。
 この件に限るわけじゃないですが地方議員に白国会議員にしろ、政治的知識や立ち回りの良さ以前に人間としての資質が明らかに終わっている人間がいくらなんでも多すぎます。もっともイタリアにはベルルスコーニという大物もいますが。
 
 本来議員を監視するべきマスコミも国会議員は愚かこういう地方銀になると完全にするーもいい所で、もう少しメディアの監視として地方議員を力入れて取り上げるべきだと前々から思います。そもそも日本で政治家が育たないというのも、こうしたレベルアップの場である地方議会があまりにもレベルが低すぎる点もあると思うんだし。
 なお地方議員出身者として過去にいた大物としては、やっぱ私の中では野中広務氏が挙がってきます。そこまで嫌ってるわけじゃないけど、やっぱ悪人というかダーティな人は長生きするなぁ。

2014年6月22日日曜日

目下に苦痛を強いる日本人、といじめの構造

 昨日にブログを更新しようとしたらいきなり部屋のブレーカーが落ちて停電となり、パソコンを起ち上げることが出来ませんでした。すぐに電気関係の人には来てもらって一部コンセントにつながる配電に問題あるとして、明かりはついたもののパソコン用のコンセントが駄目だったので結局あきらめました。不思議なのは今朝になったら、問題の配電部分にあるブレーカーが元通り起ち上がって普通に使えるって点なんだけど。
 あと金曜日も更新をサボりましたが、これは上海に仕事で行って虹橋駅から鉄道で昆山まで帰ろうと六時に駅についてチケットを取ったら、残っているチケットが9時半のチケットしかなく、帰宅したのが10時半くらいだったためです。にしても上海~昆山間20分強の電車に乗るのに3時間待ちっていうのもなぁ。この間平気で待てる自分も中国時間に慣れたもんだ。
 
 話は本題というか前回記事の続きです。前回記事で私は、日本人は「努力=苦痛」と考えている節があり、苦しい体験を重ねることこそが努力だと考えるあまりにトレーニングなどにおいて効率を無視したやたらめったら苦しいだけの練習メニューや回りくどい煩雑な手続きを選んで採用してしまう傾向があるのではと主張しました。逆に、能力向上において効率的で時間が短縮できるメニューは努力しているどころかサボっているとみなし、むしろ敬遠してしまっているところもあると考えております。
 こうした情景は中学高校の運動部系部活動に多くみられ、また実社会においても上司が部下に対して簡単に解決できる方法を知っておきながら敢えて教えず、回りくどいやり方で仕事を課したりするなどの点でも見られ、さらにはそうした下積みならぬ無駄な努力を大事な経験として尊重しているように私には見えて仕方ありません。こうした行為は何故起こるのか、一人でじっくり考えてみたところ共通するワードというかセリうに「お前のためを思って敢えてやらせているんだ」というセリフが浮かんできました。
 
 このセリフの意味というのも、「効率の悪い、間違っているやり方だとわかってはいるものの、こうした苦労が後に生きるから敢えて課しているんだ」という意味合いで、要するに相手のためを思っての行為だということを何故か毎回主張しています。私自身もこういう不条理な苦労を強いられた経験が何度もあるしそれに対して抗議してきましたが、そうすると決まって「お前のためを思って」という言葉を言い返され、詭弁だろうと内心では思い続けてきました。しかもこういうセリフを言う奴に限って、自分だけ得すればいいと考えている奴が多いし……。
 
 ここで私が何を言いたいのかというと、相手のためになるのであればどんな苦労を強いても構わないという不文律が日本社会に蔓延していると思います。それどころか、「苦労を強いるのは相手のためになる」と言ってもよく、むしろ率先して強いるべきだなんて考える人間もいるような気がします。効率のいい正解の方法が確立されているにもかかわらず敢えて教えず、「自分で正解を導き出す過程が重要だ」等と言って何も指導しないとか、漫画などに出てくる体を壊しかねないトレーニングを詳しく検証せずに部員に課したりなどと、こういう行為が行われる背景には必ずと言っていいほど「お前のため」というセリフです。
 最初考えた時はここら辺までが一つの仮説かなと考えて結論をまとめるつもりだったのですが、ふと思案を巡らしている最中に、突き詰めればこうした「苦労を強いるのは相手のため」という妙な信仰こそが日本人のいじめ行為の根源ではないかと思いつきました。
 
 何故いじめは起こるのか、この問いは長い間議論され続けているものの未だに私は得心する回答どころかまともな仮説すら見たことがありません。そんな自分にとって「相手のためになるのだから何をしてもいい」とする行動原理はいじめをする人間の大きな皇帝材料になっていると思えるだけでなく、彼らのセリフの端々にもそれを感じさせるものがあるような気がします。部活動の上級生から下級生の死後気においても、「こういうしごきがあったから今の俺たちがいる」とか、「苦しいからこそ乗り越える価値がある」などという自己弁護じみた言葉がよく聞こえるようですし、同級生同士のいじめでも「パシリにするのもあいつのため」なんてセリフがなんか聞こえてきそうな気がします。
 しかしいうまでもなくいじめ行為というのは相手の為でもなんでもなくいじめる側にとって都合のいい行為でしかありません。しかし最初に挙げた「苦痛=努力」こと「なんでもいいから苦労することはいいことだ」という概念が妙な肯定材料になって、こうしたいじめが日本に蔓延する要因となっているのではと私は言いたいわけです。その際、相手のためになるかどうかはいじめる側が恣意的に判断できるのですが。
 
 結論を述べると日本人はこういう妙な「苦労することはいいことだ」、「苦労を乗り越えた先に価値を得られる」という信仰を早く捨てるべきでしょう。かなり昔に私は苦労にも二種類あり、必要な苦労と無駄な苦労があると主張しましたが、日本における苦労は大半が無駄な徒労です。逆に必要な苦労ほど注目もされず、また邪道なやり方として批判される傾向があった気がします(一昔前のウェイトトレーニングなど)。こうした信仰は早く捨て、成長にためには「正しい選択こそ重要」という価値観を得ない限り、いじめも案外なくならないんじゃないかと勝手に思っている次第です。
 
  おまけ
 体育会系のしごきに対して猛批判をしている人物の一人に元巨人の桑田氏がおります。実際に桑田氏と同年代のPL高校出身者はみんな口をそろえて、「桑田さんは一切自分たちをいじめなかった」、「しごきとか全くなかった」と話しており、昔からフラットな考え方を持っていた人物だったんだと私も陰ながら評価しております。
 ただちょっと気になる点として、桑田氏と同学年でPL高校野球部に在籍した清原選手に関しては何故か誰も桑田氏みたいな印象を述べる人がおらず、同時期なのに誰も言及しないのが返って怪しいと思ってたりします。まぁ想像はつくけどさ。

2014年6月19日木曜日

「努力=苦痛」と考える日本人

 先月書いた「伝えることに全く努力しない日本人」の記事に潮風大使さんから続編を期待するようなコメントを書いていただきましたが、実は自分としてもこの記事は言いたいことを完全に書き切れておらず、態勢が整い次第にまた続きを書こうと考えていた記事でした。なおここだけの話、そこそこ面白い内容書いたからもうちょっと反応あってもいいかなと思ってましたが、直接コメントくれたのは某上海人だけだったという。
 そんなわけで今日はその続きの記事となるのですが趣旨はちょっと変わります。結論からスパッと述べると、私が見るに日本人は見出しに掲げた通り「努力=苦痛」と考え、言うなれば「努力には苦痛を伴う」を通り越して苦痛を味わうことそれ自体が努力だと本気で信じ込んでいるように見えます。見方はいくつかできますがこの考え方は弊害が多く、突き詰めていくと日本人の最も暗部たる部分の根源につながるのではないかと見ております。
 
 自分が何故このような考えを思いついたのかというと、「伝えることに~」の記事で上司が部下にほとんどまともな指示を与えていないにもかかわらず自体が上手くいかなかったら部下を責めるという構図の例を持ち出した時、「恐らく、こういう時の上司って自分が指示をちゃんと伝えようとしていないことを内心では自覚しているはずだよな」と思ったことからでした。自分の実体験もそうですし他人の体験、そして横から見ていた実例などを鑑みても明らかに不足した指示内容で部下を動かす上司は大抵その後、「お前が今後相手の意を汲んで動けるようになれるため敢えてこういう風にやってるんだ」というような感じで自慢げに言う輩がマジ多かったです。自分に言わせるなら、相手が指示内容を理解しているどうかを読み取れない人間が言うセリフじゃないなという気がしますが。
 
 上記のような構図は上司が敢えて部下に苦痛を与えさせようとしている構造なのではないかと考えた際、そもそも日本では指導者が指導を受ける側に対して効率性を無視し、やたら苦痛を与えようとすることが多いのではないかとふと閃きました。代表例は言うまでもなく中学や高校の運動部系部活で、自分もギリギリ「水は飲むな」と言われてきた世代ですが、これら運動部系部活の練習はどこか体力や技術の向上というより、身も蓋もない言い方をすると如何に部員を苦しませるかに重きが置かれている気がしてなりません。
 確かにスポーツにおいては体力や技術に加えて試合などでは精神力も要求されるため苦しいことを耐え抜く体験も全く無意味ではないと私も思いますが、それを推しても日本の部活動は度が過ぎています。それこそ脱水症状や筋肉疲労など体を壊す恐れのあるほど無茶な練習を休憩抜きで強制することはもとより、うさぎ跳びや片足ケンケンなど体力・技術の向上に全く無意味な徒労ともいえる練習メニューすら課したりします。自分なんか小っちゃい頃から納得しないことには反発が強かったあまり、この練習は無意味で役に立たないと思って中学で最初に入ったバスケ部をすぐに辞めましたけど。
 
 恐らく現代の運動部でも効率の悪い、危険な練習が日々繰り返されていることだと思います。同じ練習時間にやるのであれば効率のいい練習メニューをこなす方が良いに決まっているのに恐らく日本の運動部指導者はそうしたメニューを優先的に選ぶことよりも、怪我させない程度に部員がどれだけ苦しい思いをするかでメニューを選んでいるような気がしないでもありません。そしてその行動原理たるは「流した汗の分だけ強くなれる」という、最初に掲げた「苦しい思いをすることこそが努力」という概念にあるのではないかと考えるわけです。くどいようですが要するに、苦痛に耐えることこそが努力で成長の原動力になるという妙な信仰を日本人は持っているのではと私は言いたいのです。
 
 言ってしまえば、10キロくらい走って汗を流すのと、サウナに入って汗を流すのでは同じ汗を流す行為でも意味合いは全然変わってきます。ですが日本の運動部とかでは本当に流す汗の量を競おうというような練習が見られ、文字通りサウナでもなんでもいいから汗を流す量を増やそうとするかのような練習をやっているように見えます。しかし体力や技術の向上は流した汗の量に必ずしも比例するわけではないのは普通に考えれば当たり前です。体力・技術の向上に多少の汗を流すことは必要でも、苦痛を伴わなければならないとは私には思えませんし、サウナで汗をいくら流したって、それがそのスポーツ能力の向上に直結しないのであれば無駄な汗以外の何物でもありません。
 
 やたら例ばかり出してあまりノリのいい文章とは言えませんが、突き詰めると日本の運動部は体力・技術の向上以上にどれだけの苦痛に耐え抜くか、どれだけ苦痛に耐えたかを目指しているところがあると断言します。そして努力というのは、体力や技術の向上をどれだけ目指すかではなく、どれだけ苦痛に耐えたかという意味合いで考えているというわけです。
 私に言わせればこれは本末転倒以外の何物でもないのですが、こうした考えは運動部に限らず日本社会全体に案外浸透しきっている気がしてなりません。ここまで極端な言い方しなくても「努力というのは苦しい思いをすること」といえば日本人なら誰もが頷くでしょうし、苦しい思いをした人間の方が工夫をして楽に物事を運んだ人間より必ず偉くて強いはずだときっとみんな信じていることでしょう。
 
 下衆な言い方をすればこうした思想はマゾ気質もいい所で、どれだけ汗を流した、血を流した、ゲロ吐いたかで人間の価値が高まるなんてチャンチャラおかしく、こうした苦労自慢をあちこちでやる日本人というのも変な方向に振れたもんだなぁと素直に思います。もっとも、人が嫌がることを率先してやってきた人間に対しては私は価値が高いと認めますが。
 
 という具合でいつにもましてやたら挑発的な文章を綴りましたが最後に言いたいこととして、日本人が自分一人で勝手に苦痛を求めたがるというのは気持ち悪いけどそれ自体は問題ないなと私は考えます。真に問題なのは、仮説ではありますがこうした苦痛を日本人は他人にも求めているのではないかということで、次回では何故日本人はいじめを好むのか、この「努力=苦痛」という信仰と絡めて自説を紹介します。

2014年6月18日水曜日

東京女子医大の事件について

 書きたいネタは溜まっているのですがいまいち気分が乗ってこないから週末に回そうという判断で、このところはさらりとかわせるネタで凌いでおります。気合入った記事は後から見ても出来が良く、閲覧数もコメントもそこそこ伸びはするのですがやっぱり書いている時の負担も大きいわけで、なるべく本調子の時に書きたいのが真情です。今日もそういうわけで東京女子医大の事件についてですが、案外今日の記事は自分にしか書けないんじゃないかな。古い事件を引っ張ってくる辺りで。
 
 
事件の内容はあちこちで報じられていると思うから知っている方もいると思いますけど簡単に説明すると、東京女子医大で今年二月、本来子供への投与が禁じられている鎮静剤「プロポフォール」を投じられた二歳の男児が投与から三日後に死亡し、警察が業務上過失致傷の疑いで捜査を始めたとのことです。この事件で引っかかるのは、投与されたプロポフォールは子供への投与が禁じられているにもかかわらず使われたという点だけでもきな臭いのですが、今回の事件で投与された量は成人に対して使う場合の基準値の約2.7倍という異様な量だったそうです。さらに東京女子医大は過去にも今回の男児以外にも子供に対して投与しており、因果関係はまだはっきりしていないものの一切に投与された子供のうち12人がその後に死亡したことが報告されています。仮にこれらの報道や報告が事実だとすれば、違法な行為によって何人もの子供を死に至らしめたという、近年でも稀なほどの医療過誤事件になるのではないかと密かに見ています。
 
 上記のような点だけでも十分注目に値するのですが、私がこの事件で何よりも注目したのはこの事件が東京女子医大で起きたという点です。というのも東京女子医大は過去にも心臓手術で大きな事件を起こし、捏造も図ったという前科があったからです。
 
東京女子医大事件(Wikipedia)
 
 事件内容は上記リンク先に簡単に書かれていますが2001年に東京女子医大で心臓の外科手術が行われた際、人工心肺装置に不具合が起こり、患者であった当時十二歳の女児が手術から二日後に死亡しました。この死亡事故後、東京女子医大では手術のカルテが改竄され、手術当時の状況がぼかされただけでなく手術中に人工心肺装置を操作していた助手がミスをしたことが原因であるという内容にしつらえており、病院側もその改竄されたカルテ通りの発表を行いました。
 その後の裁判での検証によると、人工心肺装置を動かしていた助手の捜査には過失がなく、むしろ不必要に取り付けられたフィルターが閉塞したためという人工心肺装置自体の瑕疵が原因であると結論付けられ、事件後に逮捕されたものの助手には無罪が下り、カルテを改竄をした医師のみが有罪となりました。
 
 事件自体は予見できない事故であったものの、事故後の対応についてこの病院は一体何なんだと真面目に当時覚えました。未だに覚えているくらいだから相当悪い印象だったのでしょうけど、今回の鎮静剤の事件報道を見て「また東京女子医大か」などと思うのと同時に、また何か隠蔽工作をしているのではないかという疑いを率直に持ちました。
 
 先日にも高校のバスの手配を忘れたことを隠蔽するために脅迫状を偽造したJTBの社員が逮捕されましたが、大きな失敗やミスは起きてしまった後にはもう取り返しはつきません。大事なのはその後のカバー対応で、そういう意味で今度の東京女子医大は過去の反省を活かせるか正念場じゃないでしょうか。
 といっても、以前から禁止されている子供への投与を繰り返してたって点で反省がないと証明しているようなもんですが。あと今回の事件とかこの事件を区別する上で、「東京女子医大事件」じゃ見分けつかないなぁ。

2014年6月17日火曜日

「今週の調合」というヤバかった企画

 海外生活を送る上で一番厄介なものは病気で、さらに言えばその病気を誘発させるストレスも当てはまります。そのため海外生活を送楼という人間については可能な限りストレスの原因を断った上で(断ちきれないだろうが)、ストレスを軽減する道具なり食べ物なり娯楽なりを持っていくことが重要となります。そういう言い訳を立てた上で私はソニーのPSVitaを購入して、パズドラと共に日々激しく遊ぶ毎日を贈ったりしてます。
 
 そのPSVitaですが、昔のプレイステーション時代のゲームがダウンロードによって遊べるということもあって渡航前にあらかじめいくつかダウンロードしておきました。そのダウンロードしたゲームの中には「マリーのアトリエ」という、現在も続編が続いているガストという会社の花形ゲーム第一騨も入っており、私自身はこれまでこの「アトリエシリーズ」というゲームはやったことはなかったのですが人気の高い作品でもあるので今回遊んでみることにしました。結果から言えば確かによくできたゲームで、ストレスなくサクサク進む上にやりこもうとすれば奥の深いシステムなだけに完成度の高い作品だと文句なしに太鼓判が推せるゲームで、現在はその二作目の「エリーのアトリエ」を時間を見つけては遊んでおります。
 
 そんな「マリーのアトリエ」ですが、このゲームが出た当時に主役の声優をしていた池澤春菜氏がパーソナリティとなってゲームと連動したような企画を持つ「池澤春菜のみんなで、た〜る 〜ラジオ・マリーのアトリエ〜」というラジオ番組があったそうです。自分もつい最近になって知ったのですがこのラジオ番組はそこそこ評判を得たというか、ある企画が妙なインパクトを以ってネット上で検索するとその企画について言及しているサイトがいくつか見られました。その企画というのも、「今週の調合」という企画です。
 
 「マリーのアトリエ」というのは錬金術師の主人公がいろんなアイテムを調合して作るというコンセプトのゲームなのですが、そのコンセプトを現実に持っていき、いろんな原料をミキサーで混ぜて新たな飲み物を作ろう、というのが「今週の調合」の企画内容だったそうです。この企画の内容はリンクを貼ったウィキペディアの記事中に全部書かれているのですが、第1回こそ「マンゴー+特濃牛乳+ガムシロップ」で「マンゴーミルク」という無難な飲み物が出来ましたが、2回目にはもう「梅昆布茶+アロエドリンク+パイナップルスライス」の組み合わせとなり、先行きの不安さを感じさせる組み合わせとなっております。
 そして第4回。この時の組み合わせは「みかん果汁100%ジュース+トマトジュース+苺の板チョコ+フルーツゼリー」で、出来た飲み物に命名された名前というのも「胃液」で、どうやらかなりまずい飲み物、っていうか板チョコが混ざってる時点で最早飲み物なのかと疑いたくなるになったようです。その後も、
 
第10回・ハイソサイエティ(赤貧):カレーヌードル(粉)+鮭缶+牛乳
第12回・ゲロッパ:おかゆ+あんずゼリー+カラムーチョ
第16回・バイヲハザードをおえっ♥:あずきアイス+ヤクルト+夕張メロンジュース+昆布おにぎり
第20回・ぷるぷるクーヘン:麻婆豆腐+生クリーム+バームクーヘン
 
 などと、名前や組み合わせを見ているだけでも色々と不安になってくる物が次々と出来上がっていき、声優とはいえ一体何故こんな無茶な企画をと思わずにはいられません。特に第25回の「賃上げスペシャル 一気したらあげましょう(うまい棒めんたいこ味+焼きそばパン+おでんの出汁+栄養ドリンク(アミールS))」に対する池澤氏の感想が、「飲んだ後悪寒が来て、すっと何かが抜けた」と書かれてあるのには読んでて吹き出しました。それにしても、誰がこんな企画やろうと考え出したんだろうなぁ。