先日に歴史ネタで何かリクエストはと知人に尋ねたら昭和天皇について書いてほしいと返ってきました。昭和天皇についてその歴史的な立ち回りについて書こうとしたら一介じゃとても書き切れないし、またその辺の解説は何も自分じゃなくてもほかの人もやっているので何か自分なりの味付けを加えようと考えたところ、昭和天皇の人物像というか人となりであればまだ書けるのではと思い、今日のこの見出しとなったわけです。
昭和天皇がどういう人物であったかについて、日本人であれば知らない人はまずいないでしょう。平成に時代が切り替わった直後に報道各社で昭和時代を振り返る特集が何度も組まれましたが、それら特集のほとんどに「激動の昭和」という言葉が枕詞の様につき、現在においても「安定の昭和」とか「治世の昭和」なんて言われない辺りこの表現が強勢を保っているように思えます。この激動という言葉の通りに昭和時代に日本は敗戦もすればバブル景気も謳歌しており、文字通り底辺とてっ辺を両方とも体験したという歴史的にもこんな国はこれまで存在したことはそんなにないでしょう。
そんな昭和時代に最も翻弄された日本人となるとやはり私の中で上がってくるのはこの昭和天皇で、国家元首としての地位に生まれ文字通り神様として崇められましたが太平洋戦争の敗戦によってその地位はなくなり、新たな憲法体制下で「人間宣言」を行った上で象徴天皇制の下で新たな役割を演じることとなります。
昭和天皇がどんな人物だったか、私個人の印象をここで述べると一言で言えば責任感が恐ろしく強くて周囲に求められる役割を自分なりに必死で果たそうとするタイプ、といったところです。伝えられている歴史だと少年時代から非常に頭が良くて英邁な君主になると期待されていて、父親の大正天皇が病弱だったことから皇太子時代から摂政として政務に与かり大過なく運営していた点を見るとやはり非凡な人物だったと思えます。そして自分が天皇になると、自ら立憲君主制の君主足らんと行動している節があり、侍従などの日記によると議会の混乱に不安を感じつつも直接政治に口出ししてはならないとして超えてはならない一線をしっかり引いた上で自重しています。もっとも、満州事変の際には嘘ばっか報告する陸軍に怒り、当時の田中義一首相を叱って総辞職させてしまったことがあり、昭和天皇本人もトラウマになるほど後年に反省してますが。
話は戻りますが終戦後に象徴天皇制の中で新たな役割が求められる中、昭和天皇は比較的スムーズに適応してそのまま終生天皇としての役割を果たし続けます。私の勝手な推測ですが戦前まで元首としての振る舞いが求められていたのに終戦後は一転して象徴としての存在に切り替えるのはなかなかできるものではないのではなどと思うのですが、この辺で昭和天皇はきちっと切り替え現在にも続く象徴天皇制の中の天皇の役割というものを確立させた気がします。
なおここで一つのエピソードですが、終戦後に国民を慰めるために昭和天皇は皇后と共に全国各地を行幸してますが、これは宮内庁側からGHQに発案したとされ、恐らく昭和天皇自身も乗り気で実行したのではないかと見られています。その行幸の際、市民から話を聞くと昭和天皇は当初、「あっそう」と度々言い返してたそうなのですが、行幸が何度も行われて行くうちにどうも「あっそう」というのはこれまで意識しなかったものの世間では失礼な言い返し方だということを自覚したようで、途中からは「大変でしたね」などと言葉を変えたと伝えられています。こういうあたりを見るにつけ本当に立ち直り方が早いな。
このように周りから求められている振る舞いや、こうしてもらいたい行動を言わずもがなで察知して着実に実行に移す、昭和天皇はそういう人物だったのではないかと私は思っています。逆を言えば「私」こと自我がほとんどない、というか徹底的に抑え込むストイックな人物だったとも言えます。
実際にこれは晩年の闘病中のエピソードですが、医者から「お体で痛むところはありますか?」と問われた際に「痛いとはなんだ?」と聞き返したことがあったそうです。この話を昔教えてくれた佐野眞一氏は、恐らく昭和天皇はそれまでの人生で「痛い」と言ったことがなかったのでは、痛いと思ってもそれを絶対に口にすることはなかったのではと話していましたが、この説に私も同感です。自分に対しここまで厳しい人は市井にも少ないというかまずいないだけに、皮肉な言い方になるかもしれませんが立憲君主制下では本当に理想的な人物像だったかもしれません。
このように自分が言いたいこと、やりたいことがあってもそれをしっかり我慢するのが昭和天皇ですが、自我が全くなかったというわけではなく「譲れない一点」というかこだわるようなポイントはもちろんありました。それはどこかというと昭和天皇の専門領域である生物学に関する分野で、戦後に農林省が植林事業を行うに当たって資材になりやすい杉やヒノキをガンガン植えようと提案したら、「針葉樹ばかりでは広葉樹が減り生態系が崩れるのでは」とチクリと釘を刺したそうです。実際にそうなってクマが大量に下りてくるわ、花粉症という風土病が出来上がるわでこの時ばかりは昭和天皇にもうちょっと前に出てもらいたかったものです。
同じく生物学に関するエピソードだと、これは以前にも紹介しましたが和歌山の奇人こと南方熊楠に戦前、昭和天皇は個人講義を依頼しています。警察官や裁判官に向かって平気でゲロをぶっかける南方熊楠もさすがに昭和天皇の前ではかしこまり講義中は終始緊張しっぱなしだったそうですが、この講義を昭和天皇も非常に気に入ってたようで侍従から予定時間が終わると通知されるや、「続けなさい」といって前代未聞の延長コールを出しています。後年に至っても相当印象に残っていたようで、戦後に昭和天皇が歌った和歌では天皇御製としては非常に珍しく、「熊楠」という個人名を入れた歌を作るほど懐かしがるほどでした。
現代の今上天皇、そして皇太子も決して人格的に問題があるわけでなく、むしろよく頑張られているとは思うものの、これらのエピソードから垣間見える昭和天皇のストイック振りと比べるならさすがに敵うべくもないでしょう。ちょっと大げさな話をすると、仮に将来天皇制が廃止されるとしても昭和天皇の事績とその生き方に関しては歴史に大きく刻まれ続けるのではないかと思います。
余談
当時の年齢も覚えていないほど幼児だった頃、ある年の冬の情景だけ何故かくっきり覚えています。その冬はぐずついた天気が多かったのですが外に出ても何故か人通りは少なく、ひっそりしていて、自分も外で遊ぶことは控えて友達と一緒に近所のコンビニ(セブンイレブン)で買ったトランプを使って部屋の中で遊ぶ時間がやけに長かった気がします。今思えば、あの冬が大葬の冬だったのかもしれません。