本題とは全く関係ありませんが大相撲で先日、豊真将関が引退することを発表しました。私は彼が幕内に初めて上がった頃から見ていて比較的多才な取り組み、そしてインタビュー時の真面目な受け答えの仕方から現在いる幕内力士の中で実は一番好きな力士でした。今回の引退は怪我に泣いてとのことで、涙を流しながらインタビューに応じる姿を見て自分も涙腺が緩みました。本当に素晴らしい気力士でした、本当にお疲れ様でしたとこの場を使って述べたいと思います。
そんな熱い私の思いは置いといて本題に入りますが(我ながらどっちが本題かわからない)、先月に「美濃加茂市長の公判について」の記事で私も取り上げた、業者から現金を授受したとされる藤井浩人現美濃加茂市長の事件で昨日、市長に現金を渡したと自ら主張する業者社長に対し贈賄、詐欺行為への刑として懲役四年の判決が名古屋地裁でおりました。結論から話せばなかなか筋張った構造の判決の仕方かなと私には思いました。
・美濃加茂市長へ30万円、贈賄業者に懲役4年(読売新聞)
できることなら先月の私の記事を読んでもらえばありがたいのですがこの事件について簡単に前説明をすると、業者から口利きの謝礼として現金を受け取ったとして藤井市長は岐阜・愛知県警によって逮捕、立件され、現在検察との間で刑事裁判が行われています。しかしこの事件では直接的証拠は一切存在せず、しかも現金が授受された現場には第三者もいてその証言者は授受した現場は見ていないと述べています。
そのため贈賄があったという根拠は目下の所、金を渡したという業者社長の自白証言しかないのですが、この業者社長はこれ以前から詐欺によって数億円の資金を病院や銀行からだまし取っており、検察から藤井市長に贈賄をしたという証言をすればいくつかの詐欺事件の立件は目をつぶると言われたことを知人に洩らすなど、疑惑真っ黒の人物であったりします。結論から言えばこの事件はちんけな詐欺師に偽の供述を強要することで起こった、検察による捏造事件ではないかと現時点で私は強く疑っています。
今回出たニュースは藤井市長の件とは別件の裁判で、この贈賄をしたとされる社長個人に対する贈賄、詐欺行為に対する刑事裁判です。今回出た判決では行政から大規模な取引を受注したと偽り金融機関から融資金6100万円を搾取した詐欺行為、市長への贈賄行為が裁判所によって認定され、社長に対し懲役四年が下りました。
一つ一つポイントを整理すると、まず詐欺行為に関しては社長自身も認めており、また実際に被害に遭った金融機関もあって内容に関して特に大きな争点はないのですが、金額に関してはちょっと妙なしこりが残っています。というのもこの社長が搾取した金額は6100万円ではなく実際には数億円に上るそうですが、そのうち検察が立件したのはごく一部の融資だけで、そのほかの搾取に関してはノータッチです。この点については前回記事というかさっきにも述べていますが、検察との間で証言を行う代わりに目をつむるという司法取引があった可能性が高いです。
もう一つの藤井市長に対する贈賄ですが、この社長の裁判では贈賄はあったものと認定され懲役に加算されているようですが、この点で注意してもらいたいのはこれは社長の裁判であって藤井市長の裁判ではありません。これまでの裁判でも同じ当事者の別々の裁判で事実認定が異なる展開は数多くあり、藤井市長の裁判では贈賄行為があったと認定されない可能性は高い、というかそうならなかったらなんやねんと私はむしろ思います。
とりあえず今回の裁判で言えることは市長に贈賄したとされる社長は根っからの詐欺師だったことと、検察が敢えて立件してきたのは社長が美濃加茂市長に口利きしたとされる受注案件による詐欺だったということで、始めから市長を狙い撃ちにして社長の裁判も組み上げていったという事でしょう。まぁ手の込んでいることと呆れますが、藤井市長の裁判の判決は三月五日に下りる予定なのでその時期が来たらまた続きを書くことになりそうです。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2015年1月17日土曜日
2015年1月15日木曜日
主観的嗜好からの選択
上の集合写真は先日ネット上をさまよっている最中に偶然見つけた画像なのですが、一目見てたまげたというかこんなすごい集合写真がこの世にあったのかと大きな衝撃を受けました。見てわかる通りこの集合写真は昭和期のメジャーな漫画家とその奥さんが写っているのですが、その写ってる面々たるや手塚治虫、水木しげる、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、横山光輝、さいとうたかを、藤子不二雄×2など、数え上げたらきりがないくらいレジェンド級の漫画家がずらりと並んでおり、「日本漫画界版アベンジャーズ~世界よ、これが漫画家だ」と言ってもいいような凄い写真です。よくもまぁこれだけの大物が一堂に会せたものだと重ね重ね驚嘆に値します。
なおこの中の真ん中右上に「デビルマン」や「マジンガーZ」でお馴染みの永井豪も写っていますが一目見て、「若っΣ(゚Д゚;)」という声が飛び出てきました(マジで)。あと手塚治虫の左隣に水木しげるが入っておりますが、この写真の並びについて手塚治虫のウィキペディアのページの中にある両者の不仲説とその真相に対する項目の中で少し触れられています。
話しはこの二人の漫画家の特徴について書きだしていきますが、横山光輝とともに最前列に並んでいることから察するにこの写真が取られた当時としても両者は漫画界の超大物として扱われていたと考えられます。ある漫画評論家をして「日本の漫画は90%が手塚治虫、10%が水木しげるの影響を受けている」と評されていることからも日本漫画史における両者の存在感は非常に大きいと私も考えています。
しかしこの両者の漫画はまるきり正反対というか好対照と言ってもいい作りをしていると常々言われており、手塚自身もその事実をことある毎にそうした傾向について話しています。現在残っている手塚の言及をまとめると、手塚自身は緻密にストーリーを練り上げ読者が何を求めているかを計算した上で漫画を描くのに対し、水木などは自分の感性のままに好きなこと、面白いと思うことを勝手気ままにストーリーを組み立て漫画を描いているとのことで、そう言われてみると両者の漫画はそのような正反対な特徴を持っているかのように見えてきます。
それで非常に僭越ながら両者と比べると、私自身はどちらかといえば水木のようなスタイルでもってこのブログを書いており、だからこそ水木作品に対して異常な愛着を持つなどシンパシーを持っているのだと思います。手塚作品ももちろん面白くて好きですが。
私がこのブログの記事を書くに当たってどういう基準で記事の内容を決めているのかというと、一言で言えば「自分が面白いと思うこと」を基準にして選んでいます。歴史ネタ然り政治ネタ然り、あと見ていて非常に怒りを覚えてほかの人にもぜひ自分と一緒にその怒りを共有してもらいたいような社会問題など、自分の興味(むしろ欲望)の赴くままに記事を書き綴っています。逆に読者におもねるというか、アクセスが増えそうなホットな話題や注目度の高い事件などは全く書かないわけではありませんが興味が向かなければ無視してしまい、たまに周囲からも「なんであんな大きな話題となっている事件を取り上げないの?」と聞かれることがあります。
もちろんアクセス数はモチベーションにもつながるのでなるべく多くの人に見てもらいたいというのは事実です。それにもかかわらず何でもって読者受けするように動かずそのように自分の好きなことばかり書くのかというと、「世の中たくさん人がいるんだから10%くらいは自分と似たようなセンスを持った人がいるだろう。自分が好きなことを書いてたら最低でもその10%程度の人達は食いつくはずだ」なんていう計算が働いているからです。
逆に読者受けするかもしれませんが自分が面白くもないと思うことを書いた場合、自分と似たようなセンスを持った人間も一緒になって面白くないと感じることが予想され、その記事は当たれば残り90%の人間は読むかもしれないが外れれば最悪0%、つまり誰もが面白くないと感じる記事になる可能性があります。それであれば10%を狙う方が手堅いというか、ややインナーな動き方かもしれませんが「自分が面白いと思うかどうか」を絶対の価値基準として記事内容をいつも選んで書いてます。
敢えて言うなら手塚が計算型、水木が直感型であれば私は間違いなく後者のタイプで、記事の選択に限らず普段の行動でも計算して動くというよりはその場その場の直感、「なんとなくこっちの方がよさそう」と感じる方を選択して常日頃生きてます。そんな自分に言わせれば現代日本人の大半は計算型に見え、しかも計算の仕方がおかしいがゆえにマーケティングなどの面で失敗することが多いようにも見えます。
たとえば自動車を例にとると、メーカーとしてはなるべく多くの人間が購入意欲を持つような車を開発しようと考え、狙い方としては上位と下位それぞれ10%の層に嫌われても真ん中の80%のゾーンにいる人間が気に入る車を作れれば大成功と言えます。この最大公約数的な80%のゾーンは「ボリュームゾーン」と言われておりますが、このところ日系メーカーを見ているとこのボリュームゾーンを狙って作ってみたものの出来上がってみれば「誰もが欲しがらない」と思うようなどうしようもない製品に仕上がってしまうケースが多いのではと思います。
こういうケースは日系家電メーカーで特に顕著ですがなんでそんなどうしようもない製品が出来てしまうのかというと、一つは「誰にも嫌われない」に比重を置きすぎるあまりに「嫌われない代わりに誰にも好かれない」製品にしてしまう。二つ目としては目には見えず存在すらしない人間に好かれる製品にするため自分自身の嗜好を置き去りにしてしまってるからではないかと密かに見ています。
というのも、マイナスイオンを発生させるテレビとか数万円もする電子メモ帳とか、一体こんなの誰が欲しがるんだよとツッコみたくなる製品がガラパゴス大国日本ではよく見られるからです。普通にこういう製品を見ていて開発者はこんな製品をお前自身はお店で買うのかと問いたくなるようなものばかりで、開発者やマーケティング担当者からして借金してでも自分は買うと思うような製品を作れているのか強く疑問に感じます。
確かに顧客に受け入れられるような製品を計算して作るのはマーケティングの基本ですが、少なくとも自分自身が好きになれない製品を作ったところで顧客にも受け入れられない可能性の方が高いような気がします。それであればもうちょっと主観的な嗜好で開発者自身が好きになれる製品、あったらいいなと思うような製品を作る方向に努力するべきではと言いたいわけです。
多分読んでると思うけどこのところの友人のブログ記事を見ていてまさに同じことを思っています。ちょっと読者におもねり過ぎというか君自身はこのネタを本当に面白いと思うのか、こうした情報が必要なのかと思え、こうした視点を持つことでもアクセス数は上がるよと言ってあげたいわけです。実際、変に読者を意識して解説ぶった記事よりも自分の不満などを思い切り愚痴ってぶちまける記事の方が案外面白かったりすることもあるし。
最後に蛇足かもしれませんが、こういう直感型というか自分の嗜好を基準にしている代表格としては地味に明石家さんまが来るかもしれません。聞くところによるとさんまは自分のテレビ番組を録画してはよく一人で見て、「俺ほんまおもろいやんけ」と笑い転げるそうですが、これなんか自分が面白いと思うトークを視聴者にも見せて成功している好例と言える気がします。
自分の好きなものばかりを追いかけようとすると独りよがりになると警告する人もいますが、極端な方向でない限りはこういう姿勢も悪くないんじゃないかなと自分を振り返りながら思うところです。
注
今回の記事では故人も出てくるので、引用する人物名は芸名やペンネームということもあって敬称を省略することで統一しています。書いてて非常に畏れ多かった……。
2015年1月14日水曜日
薩摩閥のフェードアウト
最近調べ物でガチで忙しいので、このところ書いてなかったのもあるので日本史ネタでかわすことにします。我ながら思いますが日本史ネタを間に合わせでパッと書く、それも意図的にほかの人間が触れないようなテーマをすぐ用意できるのは多少つけ上がっているかもしれませんが異能振りもいい所でしょう。何気にこの辺のセンスは5年前当たりと比べると明らかに成長している節もあり、何を目指しているのか自分にもよくわからなくなります。
・藩閥(Wikipedia)
そういうわけで本題に入りますが、明治から大正にかけて日本の軍部、政治界における幹部はほぼ薩長閥こと薩摩藩、長州藩出身者によって占められ、このような状態を「藩閥政治」と呼ばれたことは皆さんも知っていると思います。明治期こそ土佐の板垣退助、肥前の大隈重信なども要職を歴任していますがこの二人以外となると海軍大臣や陸軍大臣、元帥などを含めてほぼ薩摩、長州出身者によって占めらることとなります。
しかし大正期に入ると次第に薩摩閥の勢力が徐々にフェードアウトしていき、政党幹部を含めて長州閥の勢力の独壇場となっていきます。一応、山本権兵衛のように薩摩閥でありながら大正時代に首相を務めた人物も下りますが、一体何故一世を風靡した薩摩閥が時代と共にフェードアウトしたのでしょうか。
解説を始める前に先に主だった薩長出身者を列記します。ありそうでないよねこんな表。
<薩摩閥>
・西郷隆盛(元勲、陸軍元帥)
・大久保利通(元勲、内務卿)
・黒田清隆(首相、開拓使長官)
・西郷従道(陸軍卿、海軍大臣、元老)
・松方正義(首相、大蔵相、元老)
・山本権兵衛(首相、海軍大臣)
・大山巌(陸軍大臣、元老)
・樺山資紀(海軍大臣)
・上原勇作(陸軍大臣)
・東郷平八郎(海軍大臣)
<長州閥>
・木戸孝允(元勲)
・伊藤博文(初代首相)
・山縣有朋(首相、陸軍元帥)
・井上馨(首相、外務卿)
・桂太郎(陸軍大臣、首相)
・乃木希典(陸軍大将)
・児玉源太郎(陸軍大臣)
・寺内正毅(首相、陸軍大臣)
・田中義一(首相、陸軍大臣)
※追記:井上馨は「首相」にはなってませんでした。指摘があったので、訂正します。
恐らく、さりげなく東郷平八郎を薩摩閥出身者として数えるのは日本広しといえども自分を除けばそんなに多くないと思います。彼を藩閥とみなすかはいろいろ意見があるでしょうが、単純に薩摩出身者で要職を務めたという一点でもって敢えて加えました。
ばっと見てもらえばわかる通りに薩摩出身者は海軍の要職を務めていることが多いのに対し、長州出身者は陸軍関係が多いというか、木戸、伊藤、井上を除いたすべてが陸軍最高幹部を必ず経験しています。唯一の例外として薩摩の西郷従道が何故か陸軍卿と海軍大臣の両方を経験していてかなりレアです。
実際、明治の時代においては薩摩閥は海軍、長州閥は陸軍という具合に暗黙のうちに棲み分けが進んでいったようです。そうなったきっかけは話せば長くなるので一言で済ますと西南戦争が原因であるのと、東郷みたいに薩摩出身者は英国に留学する一方で長州出身者は乃木の様にドイツへ留学するなど、主な留学先も別れていたからという可能性もあります。
話は本題に戻しますが、明治でこそ薩摩は海軍、長州は陸軍という具合で棲み分けられていた薩長閥は大正に入る頃辺りから明らかに長州閥と比べて勢力を落としていきます。特に議会においてこの傾向は顕著で、長州閥は伊藤や山縣、桂が何度も長期にわたって首相職を務めたのに対して薩摩閥は黒田清隆の首相時代は短命に終わり、松方や山本はそれぞれ複数首相職になっていますがどちらも長州出身の首相と比べると任期は短いです。特に山本に至っては政権期に重大事件が起こったため、二度も本人とは関係なく責任を取る形で辞職してるし。
軍部においては薩摩、長州共に大正中期辺りから同じ程度に勢力を落としていきますが、どうして政界では薩摩閥が先に脱落していったのか。私の考える理由は大きく分けて二つあり、一つは薩摩閥は軍人タイプが多くて政治に向いた人材が少なかったこと、二つ目は薩摩閥の首魁に政治的野心が極端に少なかったためです。
一つ目の理由について解説すると、明治政府発足当初こそ大久保利通が内務卿となり実質的なリーダーとして政治を運営していましたが、彼は同じ薩摩閥の人間よりも伊藤や井上といった海外経験のある長州出身者を主に使い、大久保の死後はこの二人と山縣がその路線を引き継いでいきます。この時点で政治分野におけるイニシアチブは長州出身者に移ったと言ってもよく、派閥間のバランスを取る形で黒田が伊藤に続く二代目首相として就任しますが経歴を見る限りだと黒田は勢力の調整などといった政治的な才能はそれほどなく、在任中も評判が悪いまま任期を終えています。しかも黒田の場合、同じ薩摩閥の人間からも嫌われていたようで一番仲良かったのは元幕臣の榎本武明だったそうです。
黒田の後、松方はまだ政治・経済分野に明るく首相にも就任しましたが、彼を除くとほかに政界を渡り歩けるようなタイプの人物は薩摩閥からなかなか出ず、後に山本が首相にはなりますが彼を含めて薩摩閥の面々は政治よりどちらかというと軍務に情熱を燃やすタイプの方が多かったように見えます。こうした人材の偏りが主導権を失った大きなきっかけでしょう。
このように薩摩閥は政治分野のファーストステップで主導権を長州閥に握られるわけですが、それに輪をかけたのは薩摩閥の首魁たちの政治的野心の少なさです。これが最も顕著だったのは西郷隆盛の実弟、西郷従道で、彼自身が元勲に数えられる人物で何度か首相就任の打診を受けていたものの西南戦争で逆賊となった兄を気にして、「逆賊の弟が首相になるわけにはいかない」と徹底的に固辞したそうです。年齢、功績から言って薩摩閥の長たる西郷従道がこんな具合で、彼を差し置いて目下の人物が首相になるなんてやはり具合が悪く、また西郷兄弟の従弟である大山巌も同じように、「逆賊の親類が~」と固辞し続ける有様で、みんなして政界での活動に及び腰な態度が見られます。
こうした薩摩閥の面々についてちょこっとだけ掘り下げると、これは恐らく薩摩出身者における一種独特なメンタリティも影響しているように見えます。薩摩、というか現在の鹿児島県にも言えることですが、ここの出身者の理想の人格は昔も今も西郷隆盛です。それがどんな人物像かというと、「普段はどっしり構えて慌てず、やる時はやる」というようなタイプで、事が起こる前かからせこせこ動いたり、猟官運動をするような輩は逆に嫌われます。むしろ、
「もうお前さんしからおらぬ。頼む、やってくれ」
「拙者のような粗忽者でどれだけお役に立てられるか……」
などと言って渋々引き受けるような人間なんか薩摩人の琴線に強く触れると思います。このように自分から積極的に動かないタイプが理想であるため、上から命令されてそれを黙々と実行する軍人とは相性が良くても政治家としては向いていなかったのかもしれません。
逆に長州閥は幕末の長州藩で内部抗争がかなり激しく、否が応でも前に出ないとすぐやられるという修羅場が多かったため渡世術に長けた人間が数多く輩出出来た節があります。人間何ごとも経験かな。
最後に長州閥について少し掘り下げると、長州閥は実質的には山縣閥と言い換えても問題ないと私は考えています。伊藤は明治期に何度も首相となるなど活躍しましたが割と他人には素っ気ない態度の人物で、使用した部下も出身は気にせず必要かどうかだけで採用し、不必要となると切り捨てるところがあったためとうとう自身の派閥は生まれなかったと聞きます。そんな伊藤の主だった部下を見ると陸奥宗光や金子堅太郎、後継に至っては西園寺公望と長州出身者はそんな見当たりません。
それに対し山縣は本人からして権勢を広げることが好きだったのもあるでしょうが、それ以上に身内の面倒を割としっかり見るタイプで、頼ってくる人間を相手しているうちに一大派閥を作っていたと見る説もあります。実査、私も山縣の発言などを見ると自分の出身が武士として最下級だったことを気にしつつ、認めてくれる人間がいれば道は切り開ける的なことをよく言っているように感じられ、自分を頼ってきた人間を切り捨てることはできずに派閥を作っていたようにも見えます。
もっともそれだけ権勢をほしいままにした長州閥も昭和に入る頃にはほとんどいなくなり、そのかわり陸軍内部では皇道派と統制派、海軍内部では艦隊派と条約派に分かれた派閥争いが展開されるわけです。人はいつの時代も派閥争いはやめられないものです。
・藩閥(Wikipedia)
そういうわけで本題に入りますが、明治から大正にかけて日本の軍部、政治界における幹部はほぼ薩長閥こと薩摩藩、長州藩出身者によって占められ、このような状態を「藩閥政治」と呼ばれたことは皆さんも知っていると思います。明治期こそ土佐の板垣退助、肥前の大隈重信なども要職を歴任していますがこの二人以外となると海軍大臣や陸軍大臣、元帥などを含めてほぼ薩摩、長州出身者によって占めらることとなります。
しかし大正期に入ると次第に薩摩閥の勢力が徐々にフェードアウトしていき、政党幹部を含めて長州閥の勢力の独壇場となっていきます。一応、山本権兵衛のように薩摩閥でありながら大正時代に首相を務めた人物も下りますが、一体何故一世を風靡した薩摩閥が時代と共にフェードアウトしたのでしょうか。
解説を始める前に先に主だった薩長出身者を列記します。ありそうでないよねこんな表。
<薩摩閥>
・西郷隆盛(元勲、陸軍元帥)
・大久保利通(元勲、内務卿)
・黒田清隆(首相、開拓使長官)
・西郷従道(陸軍卿、海軍大臣、元老)
・松方正義(首相、大蔵相、元老)
・山本権兵衛(首相、海軍大臣)
・大山巌(陸軍大臣、元老)
・樺山資紀(海軍大臣)
・上原勇作(陸軍大臣)
・東郷平八郎(海軍大臣)
<長州閥>
・木戸孝允(元勲)
・伊藤博文(初代首相)
・山縣有朋(首相、陸軍元帥)
・井上馨(
・桂太郎(陸軍大臣、首相)
・乃木希典(陸軍大将)
・児玉源太郎(陸軍大臣)
・寺内正毅(首相、陸軍大臣)
・田中義一(首相、陸軍大臣)
※追記:井上馨は「首相」にはなってませんでした。指摘があったので、訂正します。
恐らく、さりげなく東郷平八郎を薩摩閥出身者として数えるのは日本広しといえども自分を除けばそんなに多くないと思います。彼を藩閥とみなすかはいろいろ意見があるでしょうが、単純に薩摩出身者で要職を務めたという一点でもって敢えて加えました。
ばっと見てもらえばわかる通りに薩摩出身者は海軍の要職を務めていることが多いのに対し、長州出身者は陸軍関係が多いというか、木戸、伊藤、井上を除いたすべてが陸軍最高幹部を必ず経験しています。唯一の例外として薩摩の西郷従道が何故か陸軍卿と海軍大臣の両方を経験していてかなりレアです。
実際、明治の時代においては薩摩閥は海軍、長州閥は陸軍という具合に暗黙のうちに棲み分けが進んでいったようです。そうなったきっかけは話せば長くなるので一言で済ますと西南戦争が原因であるのと、東郷みたいに薩摩出身者は英国に留学する一方で長州出身者は乃木の様にドイツへ留学するなど、主な留学先も別れていたからという可能性もあります。
話は本題に戻しますが、明治でこそ薩摩は海軍、長州は陸軍という具合で棲み分けられていた薩長閥は大正に入る頃辺りから明らかに長州閥と比べて勢力を落としていきます。特に議会においてこの傾向は顕著で、長州閥は伊藤や山縣、桂が何度も長期にわたって首相職を務めたのに対して薩摩閥は黒田清隆の首相時代は短命に終わり、松方や山本はそれぞれ複数首相職になっていますがどちらも長州出身の首相と比べると任期は短いです。特に山本に至っては政権期に重大事件が起こったため、二度も本人とは関係なく責任を取る形で辞職してるし。
軍部においては薩摩、長州共に大正中期辺りから同じ程度に勢力を落としていきますが、どうして政界では薩摩閥が先に脱落していったのか。私の考える理由は大きく分けて二つあり、一つは薩摩閥は軍人タイプが多くて政治に向いた人材が少なかったこと、二つ目は薩摩閥の首魁に政治的野心が極端に少なかったためです。
一つ目の理由について解説すると、明治政府発足当初こそ大久保利通が内務卿となり実質的なリーダーとして政治を運営していましたが、彼は同じ薩摩閥の人間よりも伊藤や井上といった海外経験のある長州出身者を主に使い、大久保の死後はこの二人と山縣がその路線を引き継いでいきます。この時点で政治分野におけるイニシアチブは長州出身者に移ったと言ってもよく、派閥間のバランスを取る形で黒田が伊藤に続く二代目首相として就任しますが経歴を見る限りだと黒田は勢力の調整などといった政治的な才能はそれほどなく、在任中も評判が悪いまま任期を終えています。しかも黒田の場合、同じ薩摩閥の人間からも嫌われていたようで一番仲良かったのは元幕臣の榎本武明だったそうです。
黒田の後、松方はまだ政治・経済分野に明るく首相にも就任しましたが、彼を除くとほかに政界を渡り歩けるようなタイプの人物は薩摩閥からなかなか出ず、後に山本が首相にはなりますが彼を含めて薩摩閥の面々は政治よりどちらかというと軍務に情熱を燃やすタイプの方が多かったように見えます。こうした人材の偏りが主導権を失った大きなきっかけでしょう。
このように薩摩閥は政治分野のファーストステップで主導権を長州閥に握られるわけですが、それに輪をかけたのは薩摩閥の首魁たちの政治的野心の少なさです。これが最も顕著だったのは西郷隆盛の実弟、西郷従道で、彼自身が元勲に数えられる人物で何度か首相就任の打診を受けていたものの西南戦争で逆賊となった兄を気にして、「逆賊の弟が首相になるわけにはいかない」と徹底的に固辞したそうです。年齢、功績から言って薩摩閥の長たる西郷従道がこんな具合で、彼を差し置いて目下の人物が首相になるなんてやはり具合が悪く、また西郷兄弟の従弟である大山巌も同じように、「逆賊の親類が~」と固辞し続ける有様で、みんなして政界での活動に及び腰な態度が見られます。
こうした薩摩閥の面々についてちょこっとだけ掘り下げると、これは恐らく薩摩出身者における一種独特なメンタリティも影響しているように見えます。薩摩、というか現在の鹿児島県にも言えることですが、ここの出身者の理想の人格は昔も今も西郷隆盛です。それがどんな人物像かというと、「普段はどっしり構えて慌てず、やる時はやる」というようなタイプで、事が起こる前かからせこせこ動いたり、猟官運動をするような輩は逆に嫌われます。むしろ、
「もうお前さんしからおらぬ。頼む、やってくれ」
「拙者のような粗忽者でどれだけお役に立てられるか……」
などと言って渋々引き受けるような人間なんか薩摩人の琴線に強く触れると思います。このように自分から積極的に動かないタイプが理想であるため、上から命令されてそれを黙々と実行する軍人とは相性が良くても政治家としては向いていなかったのかもしれません。
逆に長州閥は幕末の長州藩で内部抗争がかなり激しく、否が応でも前に出ないとすぐやられるという修羅場が多かったため渡世術に長けた人間が数多く輩出出来た節があります。人間何ごとも経験かな。
最後に長州閥について少し掘り下げると、長州閥は実質的には山縣閥と言い換えても問題ないと私は考えています。伊藤は明治期に何度も首相となるなど活躍しましたが割と他人には素っ気ない態度の人物で、使用した部下も出身は気にせず必要かどうかだけで採用し、不必要となると切り捨てるところがあったためとうとう自身の派閥は生まれなかったと聞きます。そんな伊藤の主だった部下を見ると陸奥宗光や金子堅太郎、後継に至っては西園寺公望と長州出身者はそんな見当たりません。
それに対し山縣は本人からして権勢を広げることが好きだったのもあるでしょうが、それ以上に身内の面倒を割としっかり見るタイプで、頼ってくる人間を相手しているうちに一大派閥を作っていたと見る説もあります。実査、私も山縣の発言などを見ると自分の出身が武士として最下級だったことを気にしつつ、認めてくれる人間がいれば道は切り開ける的なことをよく言っているように感じられ、自分を頼ってきた人間を切り捨てることはできずに派閥を作っていたようにも見えます。
もっともそれだけ権勢をほしいままにした長州閥も昭和に入る頃にはほとんどいなくなり、そのかわり陸軍内部では皇道派と統制派、海軍内部では艦隊派と条約派に分かれた派閥争いが展開されるわけです。人はいつの時代も派閥争いはやめられないものです。
漫画レビュー「もっけ」
このブログのヘビーリーダーなら言うまでもないでしょうが私は妖怪漫画の第一人者である水木しげる氏の大ファンです。なんで好きなのかそこらへんは置いときますが、ある日ネットの掲示板で非常に良くできた妖怪漫画あると聞き、一つ試しに買って読んでみるかと手に取ってみました。
・もっけ(Wikipedia)
この漫画の大まかな概要を話すと、勿怪(もっけ)ことあちらの世界の人たちが直接目に見える姉と、そういったものにやたら憑りつかれやすい妹という組み合わせの姉妹のお話です。作中、姉は中学二年生、妹は小学五年生からスタートしますが話の進展に従ってそれぞれ高二、中二にまで成長し、この間の成長の過程で遭遇する様々な現象を基本一話完結の話でまとめられた上で話は進んでいきます。
この漫画の最大の特徴は上記の、「あちらの存在」と関わる姉妹の役割が明確に分かれている点でしょう。姉妹は都市部に住む両親とは離れ田舎に住む元拝み屋の祖父と共に暮らしているのですが、姉は好むと好まざるを関係なく霊的な存在を見て危険を察知することができるものの、祖父の命令もあってそれを周囲には伝えられず、周囲の人が「障る(さわる)」ことによって怪我などするのを黙ってみているだけということにやきもきします。その甲斐あってこっちのお姉ちゃんはどの話でも困った顔をいつも浮かべてます。
そんな姉に対し妹は姉ほど霊的な存在を事前に見えることないのに、ほぼ毎回不意打ち的に憑りつかれて一方的に被害を被ることが多いです。もっともこっちの妹は、大人しくて女の子らしい姉とは違い活発な性格、悪く言えばお転婆なキャラのため、毎回痛い目に遭いながらもめげることはないのですが、話によっては溺れ死ぬ直前にまで引っ張り込まれたりするので意外と笑えない事態に巻き込まれることも少なくありません。
それで肝心のこの漫画に出てくる妖怪、といっても作中ではほぼ全く「妖怪」という言葉は出て来ず「彼岸(あちら)の存在」として表現されます。中にはかわいらしくデフォルメされたデザインで他愛もなく姉妹と関わりを持つのもいる一方、最初は姉妹に対し協力的な態度を見せながら、ふとした拍子に牙をむくというか彼岸の世界、つまり死後の世界へ姉妹を引っ張り込もうとするのももおり、一言では言い切れない強い不気味さを持ったキャラクターが多数出てきます。恐らく作者も意図してのことでしょうが、「何が目的かわからない、掴みどころのない存在」をうまく表現できているように見えます。
こうした「あちらの存在」には元拝み屋の祖父が解説し、時と場合によっては姉妹に手を貸すことで祓うようなこともしますが、基本この祖父は妖怪たちについて「そこに存在していることが自然」であるとしてゴーストバスターズみたいに祓うという行為は積極的に行わず、むしろ姉妹に自己解決するよう突き放すことのが多いです。このような祖父の態度というのが私個人的には非常にツボで、妖怪など物の怪の類は「眼には見えないがそこにいるのが当たり前」、「祓うという行為自体が自然の摂理に反する」、「祟られないよう触れずにおく」という価値観が非常に納得するとともに、通常の妖怪漫画と一線を画す所だと思います。
勝手な想像で描いていくと、この漫画における妖怪に対する思想は日本古来の霊的なものに対する価値観がよく出ていると思います。既に書いてある通り、日本は神仏はもちろんのこと動物霊なども含めてあちらの存在は「どんな理由があろうと触れてはならない」というもので、向こうが困っていても協力しない、こちらへ手を貸すと言われても耳を貸さないという具合に、こちらとは異なる世界の住人であるためどんな理由があろうと関わってはならないという鉄則が徹頭徹尾貫かれています。
人によって意見は違うと思いますが、私は霊的な存在に対する態度というのは斯くあるべきだと内心考えています。頼りにしても駄目、頼られても駄目という具合に、興味こそ覚えても絶対に近づくべきではないし近づかれてもよくないという存在な気がします。しかしそうだとわかっていても何故だか興味を覚え、知りたくなる、近づきたくなるという不思議さこそが妖怪の妖怪たる所以でしょう。
そのような存在、価値観が非常に丁寧に書かれてあり、また登場する「あちらの存在」も江戸時代の文献や絵巻をふんだんに引用しながら聞いてて本当に存在するかのような解説が加えられているため、一言で言って非常に面白い漫画で、どうして連載中に手に取ることが出来なかったのかと本気で後悔しました。
あとちょっと専門的なことを話すと、作中の世界こと姉妹が住む田舎の風景が背景の中で非常に良く描かれており、まるで本当に妖怪の一匹や二匹が潜んでいてもおかしくない印象を覚えます。水木氏の漫画にも言えますが、こうした漫画というのは地味に背景が一番重要な気がします。水木氏の漫画もキャラクターは非常にデフォルメ化されていますが、背景は「点描を打ったような背景」と称されるほどこれでもかというくらいに緻密に描かれており、雰囲気を表現するのに大きな役割を果たしています。
・もっけ(Wikipedia)
この漫画の大まかな概要を話すと、勿怪(もっけ)ことあちらの世界の人たちが直接目に見える姉と、そういったものにやたら憑りつかれやすい妹という組み合わせの姉妹のお話です。作中、姉は中学二年生、妹は小学五年生からスタートしますが話の進展に従ってそれぞれ高二、中二にまで成長し、この間の成長の過程で遭遇する様々な現象を基本一話完結の話でまとめられた上で話は進んでいきます。
この漫画の最大の特徴は上記の、「あちらの存在」と関わる姉妹の役割が明確に分かれている点でしょう。姉妹は都市部に住む両親とは離れ田舎に住む元拝み屋の祖父と共に暮らしているのですが、姉は好むと好まざるを関係なく霊的な存在を見て危険を察知することができるものの、祖父の命令もあってそれを周囲には伝えられず、周囲の人が「障る(さわる)」ことによって怪我などするのを黙ってみているだけということにやきもきします。その甲斐あってこっちのお姉ちゃんはどの話でも困った顔をいつも浮かべてます。
そんな姉に対し妹は姉ほど霊的な存在を事前に見えることないのに、ほぼ毎回不意打ち的に憑りつかれて一方的に被害を被ることが多いです。もっともこっちの妹は、大人しくて女の子らしい姉とは違い活発な性格、悪く言えばお転婆なキャラのため、毎回痛い目に遭いながらもめげることはないのですが、話によっては溺れ死ぬ直前にまで引っ張り込まれたりするので意外と笑えない事態に巻き込まれることも少なくありません。
それで肝心のこの漫画に出てくる妖怪、といっても作中ではほぼ全く「妖怪」という言葉は出て来ず「彼岸(あちら)の存在」として表現されます。中にはかわいらしくデフォルメされたデザインで他愛もなく姉妹と関わりを持つのもいる一方、最初は姉妹に対し協力的な態度を見せながら、ふとした拍子に牙をむくというか彼岸の世界、つまり死後の世界へ姉妹を引っ張り込もうとするのももおり、一言では言い切れない強い不気味さを持ったキャラクターが多数出てきます。恐らく作者も意図してのことでしょうが、「何が目的かわからない、掴みどころのない存在」をうまく表現できているように見えます。
こうした「あちらの存在」には元拝み屋の祖父が解説し、時と場合によっては姉妹に手を貸すことで祓うようなこともしますが、基本この祖父は妖怪たちについて「そこに存在していることが自然」であるとしてゴーストバスターズみたいに祓うという行為は積極的に行わず、むしろ姉妹に自己解決するよう突き放すことのが多いです。このような祖父の態度というのが私個人的には非常にツボで、妖怪など物の怪の類は「眼には見えないがそこにいるのが当たり前」、「祓うという行為自体が自然の摂理に反する」、「祟られないよう触れずにおく」という価値観が非常に納得するとともに、通常の妖怪漫画と一線を画す所だと思います。
勝手な想像で描いていくと、この漫画における妖怪に対する思想は日本古来の霊的なものに対する価値観がよく出ていると思います。既に書いてある通り、日本は神仏はもちろんのこと動物霊なども含めてあちらの存在は「どんな理由があろうと触れてはならない」というもので、向こうが困っていても協力しない、こちらへ手を貸すと言われても耳を貸さないという具合に、こちらとは異なる世界の住人であるためどんな理由があろうと関わってはならないという鉄則が徹頭徹尾貫かれています。
人によって意見は違うと思いますが、私は霊的な存在に対する態度というのは斯くあるべきだと内心考えています。頼りにしても駄目、頼られても駄目という具合に、興味こそ覚えても絶対に近づくべきではないし近づかれてもよくないという存在な気がします。しかしそうだとわかっていても何故だか興味を覚え、知りたくなる、近づきたくなるという不思議さこそが妖怪の妖怪たる所以でしょう。
そのような存在、価値観が非常に丁寧に書かれてあり、また登場する「あちらの存在」も江戸時代の文献や絵巻をふんだんに引用しながら聞いてて本当に存在するかのような解説が加えられているため、一言で言って非常に面白い漫画で、どうして連載中に手に取ることが出来なかったのかと本気で後悔しました。
あとちょっと専門的なことを話すと、作中の世界こと姉妹が住む田舎の風景が背景の中で非常に良く描かれており、まるで本当に妖怪の一匹や二匹が潜んでいてもおかしくない印象を覚えます。水木氏の漫画にも言えますが、こうした漫画というのは地味に背景が一番重要な気がします。水木氏の漫画もキャラクターは非常にデフォルメ化されていますが、背景は「点描を打ったような背景」と称されるほどこれでもかというくらいに緻密に描かれており、雰囲気を表現するのに大きな役割を果たしています。
2015年1月11日日曜日
香港でもGoogle関連のアクセス制限か?
先日このブログにも書いた通りに昨年末に中国でGメールが規制された煽りを受け、現在このブログはVPN(言うなれば海外サーバー)を経由することによって記事を投稿しております。以前はGメールからメール投稿をしていたのですが、単純に手間が増えただけにこのところ毎日ファッキンファッキンとつぶやいています。
そういうわけで今日も元気に漫画レビューなどでも投稿しようと香港経由のVPNを接続したらあら不思議、このブログにもGメールにもつながらない有様です。なもんだから現在この記事は東京のサーバー経由でアクセスしているのですが、このブログが何で香港経由でつながらなかったのかというと間違いなくGoogle社のBloggerというブログソフトだからでしょう。言わばGoogle関連のアクセスが制限されている状態です。
もしかしたらこの香港での制限は一時的なもので明日にはまた復旧するかもしれませんが、実はここ数日、中国でネットのアクセスが異常に悪くなっています。先日もYahoo Japanへのアクセスが極端に悪くてニュースもメールもまともに見れず、中国国内のサイトもなんか心もち速度が悪かったです。
当初はこのブログにまで書くつもりはなかったのですが勝手な予想を述べると、何か大きな事件の前触れなのかもと思うような不気味さがあります。何事もなければいいのですが、国内のコピーソフトを摘発せずにGoogleなど外資ばかり叩いてばかりってのは見ていていい気がしません。日系メディアもフランスばっか報じずにもっとこっちの事も書いてほしいな。
追記
翌日にはまた香港経由でGoogle関連サイトにアクセスできるようになりました。鳥越苦労だったのだろうか……。
そういうわけで今日も元気に漫画レビューなどでも投稿しようと香港経由のVPNを接続したらあら不思議、このブログにもGメールにもつながらない有様です。なもんだから現在この記事は東京のサーバー経由でアクセスしているのですが、このブログが何で香港経由でつながらなかったのかというと間違いなくGoogle社のBloggerというブログソフトだからでしょう。言わばGoogle関連のアクセスが制限されている状態です。
もしかしたらこの香港での制限は一時的なもので明日にはまた復旧するかもしれませんが、実はここ数日、中国でネットのアクセスが異常に悪くなっています。先日もYahoo Japanへのアクセスが極端に悪くてニュースもメールもまともに見れず、中国国内のサイトもなんか心もち速度が悪かったです。
当初はこのブログにまで書くつもりはなかったのですが勝手な予想を述べると、何か大きな事件の前触れなのかもと思うような不気味さがあります。何事もなければいいのですが、国内のコピーソフトを摘発せずにGoogleなど外資ばかり叩いてばかりってのは見ていていい気がしません。日系メディアもフランスばっか報じずにもっとこっちの事も書いてほしいな。
追記
翌日にはまた香港経由でGoogle関連サイトにアクセスできるようになりました。鳥越苦労だったのだろうか……。
2015年1月10日土曜日
平成史考察~毎日デイリーニューズWaiWai事件(2008年)
昨年、朝日新聞が従軍慰安婦を巡る報道で誤報があったこと、またその問題を池上彰氏がコラムに取り上げようとしたところ掲載を見合わせたことについて、編集に問題があったと認めた上、責任を取る形で当時の社長などが退任しました。もっとも報告書は変にぼかして「責任を感じての退任・更迭であって謝罪ではない」と、新聞記者にあるまじき妙な表現でぼかされていましたが。
実はこの一連の朝日の妙な会見を見ながら私は、かつての毎日新聞の事件と比較する記事はいつごろ出てくるかと、他人には一切話さず虎視眈々と他のメディアの記事を眺めていましたがついぞお目にかかることなく年を空けてしまいました。誰もやらないなら自分がやるというのがモットーであるのと、そろそろ書かないと記憶から薄れるという危惧もあるので今日は久々の平成史考察で2008年に問題が発覚した毎日デイリーニューWaiWaiで起きた異常な記事問題とその後の毎日の無様な対応について取り上げます。
・毎日デイリーニューズWaiWai問題(Wikipedia)
覚えている人はまず皆無でしょうが、実は私は2007年に開設したこのブログでこの事件を当時に取り上げています。当時の記事を読み返すとなんか妙に読者へ語りかけるような文体で書かれてるため自分で読んでてイライラしてきますが冒頭にて、
「こうしてみると問題発覚から実に三ヶ月も過ぎております。光陰矢のごとしとは言いますが、あの頃時事問題として取り上げた記事を再検証にて再び使うことになろうとは三ヶ月前には思いもよりませんでした。」
ということを書いていますが、まさか七年後にこのネタを掘り返す、しかも平成史という現代史ネタとして自らまた取り上げるなんて当時は夢にも思わなかったでしょう。それにしても、自分のブログも結構年季入ってきたな。
話は本題に入りますが当時の事件を覚えてない人もいるでしょうから簡単に概要を説明すると、毎日新聞社が運営していた英字ウェブサイトにあったコラム「WaiWai」で長期間に渡り、裏付けの取れない性的で低俗な記事が掲載され続けていました。掲載されていた内容は文字に起こすのも嫌になるくらい汚い内容ばかりで興味のある方はウィキペディアのページに行ってみてもらいたいのですが一つだけ引用すると、「日本の女子高生は刺激のためにノーブラ・ノーパンになる」というのもあったようで、私に限らず日本人からしたら何を以ってこんな嘘を堂々と報じるのかと少なくない怒りを覚えるかと思います。
このWaiWaiの問題の責任を毎日新聞が認めたのは2008年でしたが、実際にはネット上を中心にそれ以前からこのコラムの異常性、問題性を指摘する声は多数出ており、中には直接毎日新聞社に通知や抗議したもののまともな対応らしい対応はなかったとも聞きます。そうした毎日のまるで他人事のような杜撰な対応に関してはウィキペディアのページに詳しく書かれてありここでは省略しますが、敢えてここで私が槍玉に挙げたいのは問題を認めた後に毎日が行った関係者への処分内容です。
確信犯で事実とは思えない異常な翻訳記事を書いていたライアン・コネルという記者は懲戒解雇されずに休職三ヶ月となりました。何の確認もなくあくまで私の勘ですが、まだこの人は毎日にいるんじゃないかな。
そしてデジタルメディアを統括していた朝比奈豊常務(当時)は役員報酬の10%返上という処分を受けましたが、処分が発表された2008年6月27日の二日前の6月25日に毎日新聞社の社長に昇進しており、大きな問題を犯したにもかかわらずまともな処分が行われなかったばかりかまるで意に介さないかのような不可解な人事が取られています。そのほかの処分者に関しても大体似たり寄ったりです。なお朝比奈豊は現在TBSの取締役をしている模様です。
通常、というかまともな会社なら不祥事を起こした当事者とその監督・責任者は更迭か、場合によっては解雇されるのが普通です。しかし毎日は上記の様に更迭どころか全く逆に昇進させており、誤報が許されないメディア企業としてみると理解のできない人事としか言いようがありません。
なお日系メディアでこの辺の人事に関して最も厳しいのは共同通信だと断言します。誤報や間違った写真を載せた記者は即刻解雇され、それを見抜けなかった編集長も確実に更迭されます。実はそういう経緯で更迭されたばかりの編集長が自分の上司になったことがあったのですが、「なんでこんな立派な人が本人ではなく部下のミスで飛ばさなければいけないんだろう?」と思うくらいしっかりした人だったもので、共同通信は恐ろしいけど確かに凄い所だと畏敬の念を覚えました。それにしても自分も妙な体験多いな。
話しは戻しますが、変な言い方となるものの上記の毎日の対応と比べるならまだ朝日の対応というか処分はまともだったなという気がします。もっとも朝日に対しても「あくまで謝罪ではない」など妙な言い訳したり、会見では池上氏のコラム不掲載について、「現場の編集長の判断」と説明したところ実際には社長の関与があったなどの点で強い不誠実さを覚えますが、何が問題なのかと言わんばかりの毎日のイカれた対応と比べれば非常にかわいいものです。
ここだけの話、以前から私は毎日の記事を見ていてガバナンスの欠如というか、メディアとしてまともな会社じゃないという評価をしていました。というのも常軌を逸しているとしか思えない記事が普通に紙面に載っかって来ることが多く、いくつか例を出すとこのページにも紹介されていますが、2012年には満開の桜の写真と共に花見客が多いという記事が載せられましたが、実はこの桜の木は前年に台風で折れており、折れる以前に撮った写真をそのまま流用して存在もしない桜の木を取り上げていました。
また2005年に起きた「JR羽越本線脱線事故」では、現場関係者や航空・鉄道事故調査委員会が脱線は予想のできない突風によるもので予見は不可能だという意見を出す中、この事件を取り上げた毎日の社説では、「この路線を何度も運転している運転士ならば、風の音を聞き、風の息遣いを感じられたはずだ」と書かれてあり、まるで運転士のミスであるかのように主張しています。風の息遣いを感じられるだなんて、書いた奴はゲームかなんかのやり過ぎじゃないのか。
どちらの記事も掲載前の編集段階でどうしてストップをかけられなかったのか、載せたらまずいとどうして思えなかったのかが自分には不思議でしょうがありません。そう思えるほどに毎日の編集部はガバナンスがまるで聞いておらず、少なくとも朝日新聞を批判するような立場ではないでしょう。
・毎日新聞秋田版がおわび掲載 「テカテカ光った自民県連幹部」問題(産経新聞)
などという記事を用意していたら、またも毎日がガバナンスが効いていないことを証明するかのようなとんでもない誤報記事を掲載していたというニュースが入ってきました。この記事の文章も下品極まりないし編集は何を見てこんな汚い文章を紙面に載せるのか、もはやレベルが低いとかいう問題ではないでしょう。毎日はバイトにでも記事を書かせているのか、はたまた記者がバイトレベルなのかのどっちかであるというのが私の意見です。
実はこの一連の朝日の妙な会見を見ながら私は、かつての毎日新聞の事件と比較する記事はいつごろ出てくるかと、他人には一切話さず虎視眈々と他のメディアの記事を眺めていましたがついぞお目にかかることなく年を空けてしまいました。誰もやらないなら自分がやるというのがモットーであるのと、そろそろ書かないと記憶から薄れるという危惧もあるので今日は久々の平成史考察で2008年に問題が発覚した毎日デイリーニューWaiWaiで起きた異常な記事問題とその後の毎日の無様な対応について取り上げます。
・毎日デイリーニューズWaiWai問題(Wikipedia)
覚えている人はまず皆無でしょうが、実は私は2007年に開設したこのブログでこの事件を当時に取り上げています。当時の記事を読み返すとなんか妙に読者へ語りかけるような文体で書かれてるため自分で読んでてイライラしてきますが冒頭にて、
「こうしてみると問題発覚から実に三ヶ月も過ぎております。光陰矢のごとしとは言いますが、あの頃時事問題として取り上げた記事を再検証にて再び使うことになろうとは三ヶ月前には思いもよりませんでした。」
ということを書いていますが、まさか七年後にこのネタを掘り返す、しかも平成史という現代史ネタとして自らまた取り上げるなんて当時は夢にも思わなかったでしょう。それにしても、自分のブログも結構年季入ってきたな。
話は本題に入りますが当時の事件を覚えてない人もいるでしょうから簡単に概要を説明すると、毎日新聞社が運営していた英字ウェブサイトにあったコラム「WaiWai」で長期間に渡り、裏付けの取れない性的で低俗な記事が掲載され続けていました。掲載されていた内容は文字に起こすのも嫌になるくらい汚い内容ばかりで興味のある方はウィキペディアのページに行ってみてもらいたいのですが一つだけ引用すると、「日本の女子高生は刺激のためにノーブラ・ノーパンになる」というのもあったようで、私に限らず日本人からしたら何を以ってこんな嘘を堂々と報じるのかと少なくない怒りを覚えるかと思います。
このWaiWaiの問題の責任を毎日新聞が認めたのは2008年でしたが、実際にはネット上を中心にそれ以前からこのコラムの異常性、問題性を指摘する声は多数出ており、中には直接毎日新聞社に通知や抗議したもののまともな対応らしい対応はなかったとも聞きます。そうした毎日のまるで他人事のような杜撰な対応に関してはウィキペディアのページに詳しく書かれてありここでは省略しますが、敢えてここで私が槍玉に挙げたいのは問題を認めた後に毎日が行った関係者への処分内容です。
確信犯で事実とは思えない異常な翻訳記事を書いていたライアン・コネルという記者は懲戒解雇されずに休職三ヶ月となりました。何の確認もなくあくまで私の勘ですが、まだこの人は毎日にいるんじゃないかな。
そしてデジタルメディアを統括していた朝比奈豊常務(当時)は役員報酬の10%返上という処分を受けましたが、処分が発表された2008年6月27日の二日前の6月25日に毎日新聞社の社長に昇進しており、大きな問題を犯したにもかかわらずまともな処分が行われなかったばかりかまるで意に介さないかのような不可解な人事が取られています。そのほかの処分者に関しても大体似たり寄ったりです。なお朝比奈豊は現在TBSの取締役をしている模様です。
通常、というかまともな会社なら不祥事を起こした当事者とその監督・責任者は更迭か、場合によっては解雇されるのが普通です。しかし毎日は上記の様に更迭どころか全く逆に昇進させており、誤報が許されないメディア企業としてみると理解のできない人事としか言いようがありません。
なお日系メディアでこの辺の人事に関して最も厳しいのは共同通信だと断言します。誤報や間違った写真を載せた記者は即刻解雇され、それを見抜けなかった編集長も確実に更迭されます。実はそういう経緯で更迭されたばかりの編集長が自分の上司になったことがあったのですが、「なんでこんな立派な人が本人ではなく部下のミスで飛ばさなければいけないんだろう?」と思うくらいしっかりした人だったもので、共同通信は恐ろしいけど確かに凄い所だと畏敬の念を覚えました。それにしても自分も妙な体験多いな。
話しは戻しますが、変な言い方となるものの上記の毎日の対応と比べるならまだ朝日の対応というか処分はまともだったなという気がします。もっとも朝日に対しても「あくまで謝罪ではない」など妙な言い訳したり、会見では池上氏のコラム不掲載について、「現場の編集長の判断」と説明したところ実際には社長の関与があったなどの点で強い不誠実さを覚えますが、何が問題なのかと言わんばかりの毎日のイカれた対応と比べれば非常にかわいいものです。
ここだけの話、以前から私は毎日の記事を見ていてガバナンスの欠如というか、メディアとしてまともな会社じゃないという評価をしていました。というのも常軌を逸しているとしか思えない記事が普通に紙面に載っかって来ることが多く、いくつか例を出すとこのページにも紹介されていますが、2012年には満開の桜の写真と共に花見客が多いという記事が載せられましたが、実はこの桜の木は前年に台風で折れており、折れる以前に撮った写真をそのまま流用して存在もしない桜の木を取り上げていました。
また2005年に起きた「JR羽越本線脱線事故」では、現場関係者や航空・鉄道事故調査委員会が脱線は予想のできない突風によるもので予見は不可能だという意見を出す中、この事件を取り上げた毎日の社説では、「この路線を何度も運転している運転士ならば、風の音を聞き、風の息遣いを感じられたはずだ」と書かれてあり、まるで運転士のミスであるかのように主張しています。風の息遣いを感じられるだなんて、書いた奴はゲームかなんかのやり過ぎじゃないのか。
どちらの記事も掲載前の編集段階でどうしてストップをかけられなかったのか、載せたらまずいとどうして思えなかったのかが自分には不思議でしょうがありません。そう思えるほどに毎日の編集部はガバナンスがまるで聞いておらず、少なくとも朝日新聞を批判するような立場ではないでしょう。
・毎日新聞秋田版がおわび掲載 「テカテカ光った自民県連幹部」問題(産経新聞)
などという記事を用意していたら、またも毎日がガバナンスが効いていないことを証明するかのようなとんでもない誤報記事を掲載していたというニュースが入ってきました。この記事の文章も下品極まりないし編集は何を見てこんな汚い文章を紙面に載せるのか、もはやレベルが低いとかいう問題ではないでしょう。毎日はバイトにでも記事を書かせているのか、はたまた記者がバイトレベルなのかのどっちかであるというのが私の意見です。
フォントサイズの変更
いつもこのブログを見に来られている方々にはすぐわかったかもしれませんが、文字フォントを一回り大きくしてみました。大きくした理由はやはりスマホなどの普及によってパソコン用モニターで見ない人からすると以前の文字サイズだときついのではないかと前々から思っていたからです。
逆を言えば何故今まで多分普通のブログにしては割合小さいフォントサイズでこのブログを運営してきたのかというと、私の記事はどれも比較的文量が長く、なるべく一目で多くの文字数を見られるような構成にした方が私個人にとっては読みやすいように思えたからです。しかし技術の発達によって心霊写真がめっきり減ったように、このような小さいフォントサイズをいつまでも拘泥して維持し続けるべきかというのは難しい所で、思い切って今回大きくしてみました。
といっても今後しばらく様子を見て、やっぱり具合が悪かったらまた小さいサイズに戻そうかなとも考えています。とりあえずは久々のレイアウト更新なので、何も言わないよりかは一言書こうと思った次第です。
逆を言えば何故今まで多分普通のブログにしては割合小さいフォントサイズでこのブログを運営してきたのかというと、私の記事はどれも比較的文量が長く、なるべく一目で多くの文字数を見られるような構成にした方が私個人にとっては読みやすいように思えたからです。しかし技術の発達によって心霊写真がめっきり減ったように、このような小さいフォントサイズをいつまでも拘泥して維持し続けるべきかというのは難しい所で、思い切って今回大きくしてみました。
といっても今後しばらく様子を見て、やっぱり具合が悪かったらまた小さいサイズに戻そうかなとも考えています。とりあえずは久々のレイアウト更新なので、何も言わないよりかは一言書こうと思った次第です。
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