今日知り合いから最近ブログで中国の事を書いていないという苦言があり、反省も込めて自分の肌感覚での中国の景況感について書いてみます。
結論から述べると、自分が中国に来て移行で言えば現状が最悪なくらいに悪い状態です。しかも現状で底打ちしているのかというとまだわからないだけに、まだまだ楽観はできないといったところです。マクロデータでみると貿易額もこのところ前年比で割っており、また製造業の生産額も大幅な落ち込みを続けていて改善する見込みも余りありません。
唯一まだ元気なのは自動車産業ですが、これも外資系だけが伸びてて中国民族系メーカーはズルズルと落ちてるだけで見ていてやや痛々しい状態です。何気に日系はトヨタを中心に伸ばしており、VWのこの前の不正を受けてこのままジャンプアップと行きたいところですがこの前知り合いに確認したらそこまでVWは急激には落ち込んでないそうです。
少し話が脱線しますが、このところ街中でレクサスを見かける機会が非常に増えてきました。昔は乗っているのは日系企業関係者くらいだったもののこのところは明らかに中国人一般ユーザーも乗っているようにみられ、知り合いのホイールメーカー幹部にその理由を聞いてみました。その幹部曰く、レクサスが中国市場で売り上げを伸ばしているのは確かに事実だそうで、何故売れるようになったのかというと中国のユーザーがレクサスの質の良さを理解してきたからだと説明してくれました。
なんだかんだ言って他のメーカーの高級車と比べても値段に対する品質がレクサスだと高く、「さすが日本車」という具合で購入する人が増えてきているそうです。なお一番見かけるレクサスの車種はステーションワゴンなので恐らくCTシリーズかな。
話は戻りますが街角景気に関してもほんと悪く、私の近くでも「あそこの工場潰れたんだって」、「あそこも給料の遅配が始まったって」などといった噂が流れたりするなど、やはりどこも不況だねっていう感じでみんな感じてるようです。しかし、こう言いながらなんですがあまり悲壮感めいたものはなく、「どこの会社も大変だね」って割と明るい感じでみんな話し合ってて日本国内ほど切迫じみた印象はありません。
一体これは何故なのか。原因はいくつかあるでしょうが私がこれはと思うものを述べるならば労働者自身の収入は増え続けているからではないかと思います。最低賃金は現在進行形で毎年引き上げられており、2005年なんか月収500元くらいだった最低賃金が現在は1000元以上となり、上海や深圳では2000元も突破するに至りました。
そのため全体の景気が落ち込み企業の売上げも下がる中にも関わらず、経営者は前ほど大儲けできなく一方で労働者自体は収入が増えていってるようにみえ、だから中国全体で景気に対する悲壮感は少ないのではと分析しています。また中国の場合は勤め先が潰れたとしても終身雇用制でないこともあってか日本ほど再就職が難しくはないため、「さて、新しい仕事を捜さなきゃ」と切りかえれるのも大きいかもしれません。
最後にちょっとこの記事準備している最中に気になったこととして、中国の失業率って今どのくらいなのだろうかという点がありました。先程調べてみたらどうやら中国政府はほとんどこの失業率データを公表しておらず、断片的にデータを出したのも2013年が最初だったそうです。よくよく思い返してみると私も記者時代にこの失業率データで記事を書いた覚えがなく、なんていうか久々に中国らしさを感じたってところなのですがニュース記事を検索してみると、以下の記事にヒットしました。
・2015年上半年中国31个大城市城镇失业率为5.1%左右(中国青年網)
上の記事は中国の労働省に当たる部署が記者会見で発言した内容をまとめており、その発言によると全国主要31都市における2015年上半期の失業率は5.1%前後だったそうです。全国規模だと第2四半期(Q2)が4.04%と話していますが、ならなんで31都市のデータもQ2単体で出さないんだと思ってくる当たりがやっぱり中国です。
一応参考にはなるデータではあるものの、中国なだけに不利なデータはそのまま出さないであろうことから鵜呑みにはできない数字です。もっともそれを言ったら日本の失業率データもちょっと信用に置けないところもあるので他人の事言えませんが、主要都市で5%台の失業率ならばまだまだ低い水準と言えるでしょう。景気こそ落ち込んでいるもののまだ中国ではいくらか労働力不足な状態が続いているようにみられるだけに、先ほどの収入の向上と相まって悲壮感が漂っていないというのが私の見方です。
逆を言えば、労働力不足してるのに賃金下がり続けているから日本は悲壮感漂いまくりなんだろうな。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2015年12月8日火曜日
2015年12月7日月曜日
統一主義と分離主義
最近あまり思想めいたこと書いてないので今思いついたことをパパッと書いてみようと思います。
先日起きたフランス・パリでのテロ事件以降、先進国各国ではテロ組織に対する敵視が一段と強まり、それが影響したかまでは断言できませんが先週米国で起きた銃乱射事件に対してあのニューヨークタイムズが銃規制について言及するなど、何か世論が変わった動きがします。そもそも何故テロ事件が起きるのかですがそれはテロ組織があるからに決まっており、では何故テロ組織が存在するのかですが、イスラム国のようなのはちょっと特殊ですが大抵は統一主義と分離主義の対立が背景にあります。
同じ記事を読んだ方なら話は早いですが、過去の代表的なテロ組織としてアイルランドの英国からの独立を目指したIRAという組織があります。このIRAは英国内を始めとして世界各国で爆破テロなどを実行しましたが、彼らの主張はアイルランドを英国に取り込むな、異なる存在を認めろというものでした。IRAに限らずとも大半のテロ組織はこういった分離主義を抱えていることが多く、バスク地方、ヨルダン地区などなど、少数派の文化や民族集団が概してテロ組織を発生する土壌にあるということはほぼ間違いないといっていいでしょう。
ここで出てきた分離主義、そしてその対立軸である統一主義ですが、聞くところによるとこの前発売されたゲームの「メタルギアソリッドV ザ・ファントム・ペイン」でも語られており、この作品では世界から永遠に争いをなくすために世界中の言語を強制的に英語へ統一しようとする組織と、それに対して抵抗しようとする少数派の分離主義者が出てくるそうです。
多数派から見れば少数派の連中の方が少ないんだし、彼らが従えばグッと物事ははかどるというのに何故抵抗するんだという価値観なのかもしれません。片や少数派は多数派のシマを別に荒らしているわけでもないのにそれまで自分たちが培ってきた言語、文化を何故無理矢理取り上げようとするのか、また自分たちからしたら不都合極まりない要求を何故押し通そうとするのかという価値観なのかもしれません。
ここで話は日本に持っていきますが、日本という文化は少数派でしょうか、多数派でしょうか?
私の答えを述べると多数派で、そう思うきっかけは留学中にルーマニア人のルームメイトと会ったためで、彼曰くルーマニア語は世界的にそれほどメジャーな言語ではないからちょっと調べ物しようとしてもルーマニア語のサイトだけでは不足すると話していました。それに対して日本人ですが、少なくとも1億人以上の話者は存在しており、難しい問題や手続きでもネットで検索すれば誰かしら解説するサイトを開いているはずです。また高等教育においても各分野の専門家が日本には揃っているため明治時代よろしく、英語で講義を聞かなくてはならないというハンデは他の言語と比べると少ないでしょう。話者で言えば世界最大の中国語においてすらもこの高等教育での言語においてはハンデがあるため、見方によっては日本語の方が世界では強いということもできるかもしれません。
ここでもう一つ問いたいこととして、日本人は言語や文化を取り巻く自分たちの現状についてちゃんと認識しているのか否かです。これもはっきり答えを言うとそもそもそれほど考えたことはなく、自分たちが多数派なのか少数派なのかは意識していないというのが実態でしょう。
これ自体は別に問題はありませんが、少数派に対してどういう風な態度で接するのかはもうちょっと考えた方がいいと思います。日本国内でもアイヌ民族という少数派がおり、また最近は減ってますが南米からの労働移民、そして技能研修生という名の奴隷制度でやってくるアジア人、彼らは紛れもなく日本社会では少数派です。
日本は島国ということもあって割かし統一意識が高く、知らず知らずのうちに統一主義的な考えや行動を取る傾向があるのではと密かに見ています。もちろんこれ自体は何も悪いことではないですが、もう少し少数派こと異なる文化や言語を持つ人に対しても対応を取組めばもっと日本社会はよくなるのではという気がします。少なくとも部屋の保証人制度は廃止してもらいたいと思っており、外国人などはこれのせいで部屋探しに半端ない苦労を負うと聞くだけに。
私自身は日本人ではあるものの、日本社会では常に少数派に回ってきたと自負できます。そのためやや自分でも過剰だと思うくらいマイノリティに対して思い入れを持つ傾向があり、だからこの記事でもどちらかと言えば分離主義的な発言が続くのでしょう。しかし長い時間で見るならばやはり文化や概念、価値観は統一されていくべきだと思っており、そうすることによって地球連邦のような世界統一組織が生まれることも願っております。
ただそうした統一までにはどうしても時間が必要です。ゆっくりゆっくり自然と各文化や概念を合わせて行く必要があり、それを無理やり統一しようものなら対抗する動きことテロリストが生まれるだけに、決して急いではならないというのが私の持論です。そして同時に、多数派もまた少数派に少しずつ合わせていくという態度も必要であるとも考えています。
本当に勢いで全部書いたので全くまとまりがない記事になりましたが、結論としては「急いで取り込むな」ということと、もうちょっと少数派に気兼ねしてほしいという要望です。
先日起きたフランス・パリでのテロ事件以降、先進国各国ではテロ組織に対する敵視が一段と強まり、それが影響したかまでは断言できませんが先週米国で起きた銃乱射事件に対してあのニューヨークタイムズが銃規制について言及するなど、何か世論が変わった動きがします。そもそも何故テロ事件が起きるのかですがそれはテロ組織があるからに決まっており、では何故テロ組織が存在するのかですが、イスラム国のようなのはちょっと特殊ですが大抵は統一主義と分離主義の対立が背景にあります。
同じ記事を読んだ方なら話は早いですが、過去の代表的なテロ組織としてアイルランドの英国からの独立を目指したIRAという組織があります。このIRAは英国内を始めとして世界各国で爆破テロなどを実行しましたが、彼らの主張はアイルランドを英国に取り込むな、異なる存在を認めろというものでした。IRAに限らずとも大半のテロ組織はこういった分離主義を抱えていることが多く、バスク地方、ヨルダン地区などなど、少数派の文化や民族集団が概してテロ組織を発生する土壌にあるということはほぼ間違いないといっていいでしょう。
ここで出てきた分離主義、そしてその対立軸である統一主義ですが、聞くところによるとこの前発売されたゲームの「メタルギアソリッドV ザ・ファントム・ペイン」でも語られており、この作品では世界から永遠に争いをなくすために世界中の言語を強制的に英語へ統一しようとする組織と、それに対して抵抗しようとする少数派の分離主義者が出てくるそうです。
多数派から見れば少数派の連中の方が少ないんだし、彼らが従えばグッと物事ははかどるというのに何故抵抗するんだという価値観なのかもしれません。片や少数派は多数派のシマを別に荒らしているわけでもないのにそれまで自分たちが培ってきた言語、文化を何故無理矢理取り上げようとするのか、また自分たちからしたら不都合極まりない要求を何故押し通そうとするのかという価値観なのかもしれません。
ここで話は日本に持っていきますが、日本という文化は少数派でしょうか、多数派でしょうか?
私の答えを述べると多数派で、そう思うきっかけは留学中にルーマニア人のルームメイトと会ったためで、彼曰くルーマニア語は世界的にそれほどメジャーな言語ではないからちょっと調べ物しようとしてもルーマニア語のサイトだけでは不足すると話していました。それに対して日本人ですが、少なくとも1億人以上の話者は存在しており、難しい問題や手続きでもネットで検索すれば誰かしら解説するサイトを開いているはずです。また高等教育においても各分野の専門家が日本には揃っているため明治時代よろしく、英語で講義を聞かなくてはならないというハンデは他の言語と比べると少ないでしょう。話者で言えば世界最大の中国語においてすらもこの高等教育での言語においてはハンデがあるため、見方によっては日本語の方が世界では強いということもできるかもしれません。
ここでもう一つ問いたいこととして、日本人は言語や文化を取り巻く自分たちの現状についてちゃんと認識しているのか否かです。これもはっきり答えを言うとそもそもそれほど考えたことはなく、自分たちが多数派なのか少数派なのかは意識していないというのが実態でしょう。
これ自体は別に問題はありませんが、少数派に対してどういう風な態度で接するのかはもうちょっと考えた方がいいと思います。日本国内でもアイヌ民族という少数派がおり、また最近は減ってますが南米からの労働移民、そして技能研修生という名の奴隷制度でやってくるアジア人、彼らは紛れもなく日本社会では少数派です。
日本は島国ということもあって割かし統一意識が高く、知らず知らずのうちに統一主義的な考えや行動を取る傾向があるのではと密かに見ています。もちろんこれ自体は何も悪いことではないですが、もう少し少数派こと異なる文化や言語を持つ人に対しても対応を取組めばもっと日本社会はよくなるのではという気がします。少なくとも部屋の保証人制度は廃止してもらいたいと思っており、外国人などはこれのせいで部屋探しに半端ない苦労を負うと聞くだけに。
私自身は日本人ではあるものの、日本社会では常に少数派に回ってきたと自負できます。そのためやや自分でも過剰だと思うくらいマイノリティに対して思い入れを持つ傾向があり、だからこの記事でもどちらかと言えば分離主義的な発言が続くのでしょう。しかし長い時間で見るならばやはり文化や概念、価値観は統一されていくべきだと思っており、そうすることによって地球連邦のような世界統一組織が生まれることも願っております。
ただそうした統一までにはどうしても時間が必要です。ゆっくりゆっくり自然と各文化や概念を合わせて行く必要があり、それを無理やり統一しようものなら対抗する動きことテロリストが生まれるだけに、決して急いではならないというのが私の持論です。そして同時に、多数派もまた少数派に少しずつ合わせていくという態度も必要であるとも考えています。
本当に勢いで全部書いたので全くまとまりがない記事になりましたが、結論としては「急いで取り込むな」ということと、もうちょっと少数派に気兼ねしてほしいという要望です。
2015年12月6日日曜日
平成史考察~明治大学法学部大量留年事件(1991年)
・携帯料金会議 格安スマホの普及に独自サービス必要との声(毎日新聞)
上記リンク先はちょっと古い11月26日の記事ですが、現在値下げ議論で盛り上がっている携帯料金について有識者会議の議論内容を伝えているものです。この携帯料金の値下げ議論については以前にもこのブログで書いていますが、この記事で私が注目したのは乗り換えする人への過剰な優遇どうこうではなくこの会議の取りまとめ役をしているある人物の名前でした。
その人物というのも新美育文明治大学教授で、この人はかつて明治大学で起こったある事件で非常に有名になった人物です。最初この名前をこの記事で見た時は「どっかで見たような……」というくらいの反応しかできませんでしたが、やや気になったので検索してみたところようやくこの人の経歴を思い出せたので、折角だからここでもかつて起きたその事件を紹介しようと思います。
それにしても、この名前だけで反応できたのは我ながら凄いと思う。
・明治大学法学部大量留年事件(Wikipedia)
その事件が起きたのは1991年の明治大学でした。当時、日本はバブル絶頂期で明治大学ほどの有名大学の学生であれば卒業後の進路は引手数多で卒業を控えた四年生の学生は誰もが有名企業の内定を得られ、後は卒業を待つだけの身でした。
そんなバラ色の将来が確約されのんびり過ごしていた学生に激震が走ったのはこの年の3月。この時、明治大学法学部は四年生の学生257人に対し留年させることを決定し、このうち147人は新美教授が担当する必修科目「債権法」のみが未修了であったことから卒業が認められませんでした。
この発表に対し慌てたのはもちろん学生たちで、卒業後の進路も決まっていた状態でこの通知が来たもんだからまさに青天の霹靂のように受け取り、多くの留年学生が新美教授に対し採点の再考、つまり単位を出して卒業させるよう求めたそうです。しかしこうした学生たちの訴えに対して新美教授は「あくまで厳正な採点の結果」であるとして突っぱね、ならばとばかりに学生が詰め寄った小松俊雄法学部長も明治大学の「独立・自治」の建学精神を引用し、新美教授の判断を尊重するとして卒業を認めませんでした。
一見すると新美教授は厳しい採点を強行して多くの留年者を出したように見えますが、実態はそうではなかったようです。問題となった「債権法」の授業は二年生時から履修できる科目で、四年間で卒業する学生は都合、三回履修する機会がありました。しかし留年した学生らはその三回の機会に未履修、または落第し、更には夏に行われる再試と、卒業間際の三月に行われた特別試験でも満足な成績が残せませんでした。
採点を行った新美教授は最後の特別試験の結果を鑑みてさすがに留年者数が多過ぎると感じ、試験を難しくし過ぎたのかとも感じたそうです。しかし改めてリポートなどで各学生の学力を確認するとやはり学生個人らの学力が不足していると思え、厳しい判断になることは承知の上で大量の「不可」を出すことにしました。
この決断について新美教授は取材に対し、簡単に内定が得られる時代もあってか最低限の勉強すら行わない学生が増えていると話したそうです。学会内でもこの新美教授の決断に対し、授業への取り組みに対し警鐘を促してくれたなどと好意的な意見が多く集まるなど歓迎され、事件が大きく報道されるにつけ大学入学後は勉強しなくなる学生をそのまま放置して卒業させることに問題があるなど大学教育全体を問う議論へと発展していきました。
ここから私の所見となりますが大体90年代中盤から後半に至る間、猛勉強して大学入った後は何も勉強しない学生というのがちょっとした社会問題になり、「分数の出来ない大学生」などといった本も出版されていました。実際に昨日会って話聞いた人も午前中に大学行って麻雀のメンツ集めるとそのまま雀荘へというのが普通で、授業なんてほとんど出なかったと述懐しており、こういってはなんですがやっぱり自分の世代とは違ってたんだなぁって気がします。
この新美教授の行動はその後の世論を考えるだに、勉強しない学生に対する警鐘としては最初期に当たるものだったのではないかと思います。少なくとも一回こっきりのワンチャンスにめちゃくちゃ難しい試験で振り落すということはしておらず、むしろ何度もチャンス与えた上での決断ですから至極真っ当な判断で教育者としては実に立派な態度と言えるでしょう。それだけに最初の有識者会議も仕切っていると聞いて、この件でこの人が関わっているというだけでなんとなく良くなるんじゃないかという期待感が持てます。
なおこの記事を書くに当たって明治大学出身の友人に、「この人知ってる?」と振ってみたところ、「直接授業を受けたりとかはないが、伝説となっている教授」だと返信が来ました。
おまけ
私が学生だった頃、よく大学教授からは「最近の学生はちゃんと授業に出席する」とよく言われ、先ほども言った通り時代というのは大きく変わってきており大学に入って遊び放題する方が今は少数派なのかもしれません。さらに、私はその中でも特別授業に出席する方で、卒業単位は124単位で足りたけど興味ある授業に片っ端から出てたためか最終的には160単位を数え、単位認定されない授業も含めれば180単位くらいは取っていたように思います。なのであんま、大学でもっと勉強したかったと思うことはないな。
上記リンク先はちょっと古い11月26日の記事ですが、現在値下げ議論で盛り上がっている携帯料金について有識者会議の議論内容を伝えているものです。この携帯料金の値下げ議論については以前にもこのブログで書いていますが、この記事で私が注目したのは乗り換えする人への過剰な優遇どうこうではなくこの会議の取りまとめ役をしているある人物の名前でした。
その人物というのも新美育文明治大学教授で、この人はかつて明治大学で起こったある事件で非常に有名になった人物です。最初この名前をこの記事で見た時は「どっかで見たような……」というくらいの反応しかできませんでしたが、やや気になったので検索してみたところようやくこの人の経歴を思い出せたので、折角だからここでもかつて起きたその事件を紹介しようと思います。
それにしても、この名前だけで反応できたのは我ながら凄いと思う。
・明治大学法学部大量留年事件(Wikipedia)
その事件が起きたのは1991年の明治大学でした。当時、日本はバブル絶頂期で明治大学ほどの有名大学の学生であれば卒業後の進路は引手数多で卒業を控えた四年生の学生は誰もが有名企業の内定を得られ、後は卒業を待つだけの身でした。
そんなバラ色の将来が確約されのんびり過ごしていた学生に激震が走ったのはこの年の3月。この時、明治大学法学部は四年生の学生257人に対し留年させることを決定し、このうち147人は新美教授が担当する必修科目「債権法」のみが未修了であったことから卒業が認められませんでした。
この発表に対し慌てたのはもちろん学生たちで、卒業後の進路も決まっていた状態でこの通知が来たもんだからまさに青天の霹靂のように受け取り、多くの留年学生が新美教授に対し採点の再考、つまり単位を出して卒業させるよう求めたそうです。しかしこうした学生たちの訴えに対して新美教授は「あくまで厳正な採点の結果」であるとして突っぱね、ならばとばかりに学生が詰め寄った小松俊雄法学部長も明治大学の「独立・自治」の建学精神を引用し、新美教授の判断を尊重するとして卒業を認めませんでした。
一見すると新美教授は厳しい採点を強行して多くの留年者を出したように見えますが、実態はそうではなかったようです。問題となった「債権法」の授業は二年生時から履修できる科目で、四年間で卒業する学生は都合、三回履修する機会がありました。しかし留年した学生らはその三回の機会に未履修、または落第し、更には夏に行われる再試と、卒業間際の三月に行われた特別試験でも満足な成績が残せませんでした。
採点を行った新美教授は最後の特別試験の結果を鑑みてさすがに留年者数が多過ぎると感じ、試験を難しくし過ぎたのかとも感じたそうです。しかし改めてリポートなどで各学生の学力を確認するとやはり学生個人らの学力が不足していると思え、厳しい判断になることは承知の上で大量の「不可」を出すことにしました。
この決断について新美教授は取材に対し、簡単に内定が得られる時代もあってか最低限の勉強すら行わない学生が増えていると話したそうです。学会内でもこの新美教授の決断に対し、授業への取り組みに対し警鐘を促してくれたなどと好意的な意見が多く集まるなど歓迎され、事件が大きく報道されるにつけ大学入学後は勉強しなくなる学生をそのまま放置して卒業させることに問題があるなど大学教育全体を問う議論へと発展していきました。
ここから私の所見となりますが大体90年代中盤から後半に至る間、猛勉強して大学入った後は何も勉強しない学生というのがちょっとした社会問題になり、「分数の出来ない大学生」などといった本も出版されていました。実際に昨日会って話聞いた人も午前中に大学行って麻雀のメンツ集めるとそのまま雀荘へというのが普通で、授業なんてほとんど出なかったと述懐しており、こういってはなんですがやっぱり自分の世代とは違ってたんだなぁって気がします。
この新美教授の行動はその後の世論を考えるだに、勉強しない学生に対する警鐘としては最初期に当たるものだったのではないかと思います。少なくとも一回こっきりのワンチャンスにめちゃくちゃ難しい試験で振り落すということはしておらず、むしろ何度もチャンス与えた上での決断ですから至極真っ当な判断で教育者としては実に立派な態度と言えるでしょう。それだけに最初の有識者会議も仕切っていると聞いて、この件でこの人が関わっているというだけでなんとなく良くなるんじゃないかという期待感が持てます。
なおこの記事を書くに当たって明治大学出身の友人に、「この人知ってる?」と振ってみたところ、「直接授業を受けたりとかはないが、伝説となっている教授」だと返信が来ました。
おまけ
私が学生だった頃、よく大学教授からは「最近の学生はちゃんと授業に出席する」とよく言われ、先ほども言った通り時代というのは大きく変わってきており大学に入って遊び放題する方が今は少数派なのかもしれません。さらに、私はその中でも特別授業に出席する方で、卒業単位は124単位で足りたけど興味ある授業に片っ端から出てたためか最終的には160単位を数え、単位認定されない授業も含めれば180単位くらいは取っていたように思います。なのであんま、大学でもっと勉強したかったと思うことはないな。
漫画レビュー「ちおちゃんの通学路」
また漫画に関する記事ですが、一ヶ月くらい前から準備しておきながらこれまでほかの記事を優先するため執筆にこぎつけなかったのがこの作品、「ちおちゃんの通学路」です。
・同級生が男子から告白されるのを友人と共にのぞき見しようとしてばれそうになる
・暴走族に絡まれハッタリかまして切り抜けようとする
この漫画を知ったのはたまたまAmazonのページ内に表紙が映っていたのを見たことがきっかけですが、その時表示されていたのは2巻の表紙で、タイトルと共に街角らしき場所で爆発が起こっているのを尻目に不敵な笑みを浮かべる女子高生が描かれており、一見して「なにこれ?」と思って興味を持ちました。調べてみるとまだ三巻までしか発売されていないことから全巻揃えるのは容易だし、試しに一巻だけ買ってみてその内容を見てから続きを買うかどうか検討しようと決断し、結果的にはすぐに三冊全部揃えることとなりました。
この「ちおちゃんの通学路」がどんな漫画かというと、タイトルの通りにちおちゃんという女子高生が主人公の通学にまつわる話です。最初見た感じ、ドジな女子高生が通学途中に毎回トラブルに巻き込まれて遅刻しそうになる漫画なのかなと思って読み始めましたが、実際には遅刻しそうになるのは第一話だけで、それ以降の話は無駄に運動神経良くて出てくるのは銃とオヤジとゴリラみたいな女性キャラだけな海外ゲームをやりこんでいるコアゲーマーな女子高生が通学途中の行く先々でトラブルを引き起こすという内容でした。自分で書いてて思いますが、改めてみるとやたら濃い設定な気がします。
具体的にちおちゃんがどういうトラブルを起こすのかいくつかあらすじを抜粋すると、
・スクールカースト上位の同級生に声かけられきょどり、SWATターン決めて逃げようとする
・暴走族に絡まれハッタリかまして切り抜けようとする
・洋ゲー特集雑誌を買おうとして寄ったコンビニでBLゲー雑誌を手に取る
・車からポイ捨てされる煙草をダイビングキャッチして鉄柱に鎖骨を強打する
・回り道して坂道上るよりショートカットになると思って舗装された壁面をよじ登ろうとする
どの話でも共通するのは主人公のちおちゃんが無駄に行動力が有り余ってて悉く「やらなきゃいいのに」と思うようなことに首突っこんではピンチに陥るという点です。特に一番笑った回の話では橋の上を歩く友人を見かけて、「こういう時、ゲームだったら橋の縁にエルード(ぶら下がり)してにじり寄る」ということを思い付き、それをそのまま実行してしまうというゲーム脳ぶりを見せます。無論、女子高生の腕力なので友人を驚かせる前に途中で力尽き、どうせ川に落ちるくらいなら諸共に落ちようと友人の足を掴んで引きずり込もうとしますが。
どの話もテンポがよく、なおかつ高いテンションで描かれているのでギャグ漫画としての勢いは十分な作品です。それとともに個人的に注目したのは各キャラの表情の描き分けと、漫画における特殊効果です。前者はギャグ漫画を描く上でギャグセンスと共に重要なものであることは言うまでもありませんが、後者に関しては集中線や遠景、下からのズームなどあらゆる漫画表現が効果的に駆使されており、地味にこの作者は器用な人だと感心させられました。
またどの話もきちんと通学路上での話に絞っており、よくこれだけ限定された状況下で毎回話を作れるなという点でも感心させられます。ほかにはセリフ回しも案外凝ってて、個人的にツボにはまったのは、「昭和生まれの世代はゆとり教育を受けていないため、新聞の配達が少しでも遅れると理性を失ってしまう(物凄く怒る)」というセリフです。
以上が私の分析ですが、現在出ているギャグ漫画の中で一番はまっていて文句なしにお勧めできる作品です。ちょっとほめ過ぎなような気もしますが、興味を持たれた方にはぜひ手に取ってもらいたいです。
2015年12月5日土曜日
パソコン三社の事業統合報道について
・パソコン3社が事業統合 東芝・富士通・VAIO交渉へ (日経新聞、12/4 2:00)
・東芝と富士通、パソコン事業で合弁交渉(読売新聞、12/4 3:15)
・<東芝>富士通とVAIO パソコン事業統合検討(毎日新聞、12/4 11:20)
・東芝、富士通、VAIOの3社がPC事業を統合か--報道に対し3社が否定のコメント(CNET Japan、15:01)
本日、各メディアで東芝、富士通、VAIOのパソコンメーカー大手三社が事業統合を検討していることを報じるニュースが飛び出してきました。私が確認する限りだとこのスクープを物にしたのはやはり日経のようで、いろいろ調べた中では最も早くかつ具体的、そして簡潔に報じております。
この日経の報道を受けてすぐ後追いで記事を出したのは読売で、日経の配信から約1時間後に記事を配信しています。ただ読売の記事では東芝と富士通しか触れておらず三社目のVAIOについては名前すら出てきません。恐らくこれはVAIOに関しては裏付けがきちっと取れなかったため安牌を切るようにほぼ確実そうだと見込めた先の二社に限って報じたのでしょう。そのかわり2014年の日本国内パソコン市場シェアを引用して統合後はNEC、レノボ連合を追い抜くと説明している辺りは好感が持てます。
読売の報道から大きく時間が経った11時台に報じたのは毎日ですが、ここはスクープに追いつけなかった代わりに後追い取材が丁寧になされており、東芝に対して行った取材(恐らく電話取材)の回答内容を詳細に乗せた上で今後の展望などをしっかり書いてる当たり合格点です。逆にふざけてるというか「てめぇもう記者辞めろ」と言いたくなるのが最後のCNET Japanの記事で、ここは見出しに「報道に対し3社が否定のコメント」と載せていますが、後追い取材を行ってはいるもののそのコメントを見る限りだと否定しているとは言い難いものです。大まかなコメント内容を抜粋すると下記の通りです。
東芝
「報道は当社が発表したものではないが、事業編成を含め様々な可能性を検討している。まだ合意、決定した事項はない」
富士通
「報道は当社が発表したものではないが、パソコン事業の分社化は既に決まっており、分社化後の展開に関しては様々な可能性を検討しているがまだ決定した事項はない」
VAIO
「憶測記事に対してコメントは差し控える。現時点においてVAIOとして交渉を行っている事実はない」
これらのコメントを見る限り、報道されている通りに事業統合を検討をしていることを暗に認めているとしか思えません。要はまだ完全合意になって決定したわけではないけど、検討している案の中に統合は入っており、でもって完全否定できないほど現実味は持ち合わせているってことでしょう。何をどう読んだらこれで「報道を否定」だなんて言えるのか、この会社はあんま深く知らないけどいい加減で取材力のない記者もいるもんだなと読んでて呆れます。
ちなみにVAIOにこんな返答された場合私は、
「じゃあ日経の記事は間違った報道だって言うんですか?誤った事実が世の中に伝播することに御社は黙って見過ごすってんですか?VAIOとして交渉を行っていないってのはどういう意味で、役員がスタンドプレーで交渉してるとでもいうのかっ!」
って、早口&怒鳴りで次の回答を引き出します。
こうした取材では相手広報への余計な容赦は必要なく、記者は徹底的に攻めなくてはなりません。だからこそ記者って人間性を段々失っていくんですが。
ちなみに、同じ後追い取材でも実力の差がはっきり出てしまったというか、毎日の方では検討している事実を相手先に認めさせています。以下、その箇所を抜粋しましょう。
「東芝関係者は毎日新聞の取材に対し、統合検討の事実を認めた上で『各社のブランドをどうするかも固まっておらず、いつ合意できるか分からない』と指摘。また、VAIOの関係者は統合に慎重な見方を示しており、東芝・富士通だけの統合になったり、統合自体が白紙になったりする可能性もある。」(上記リンク先の毎日の記事より)
この毎日の取材内容と比較するにつけ、CNET Japanの記事の書き方は誤報と言ってもいい内容です。普通こういう時は曖昧にして逃げるんだが、よくデスクもこんな見出しでOK出したなぁ。
なお三社のパソコン事業統合の可能性について私個人の見方を述べると、十分あり得る話かなというのが正直な感想です。ノートパソコン事業は既に斜陽産業となっており、その機能の大半はスマートフォンに取られたため今後再浮上する可能性はほとんどないでしょう。特に東芝に至っては不正会計をした中にこのパソコン事業も入っていたと見られており、いまいち実態が明らかになりませんが既に赤字事業と成り果てている可能性すら有り得ます。
となるとまだ息してる間にほかの会社と事業統合するというのは次善の策であり悪くはなく、また三社とも明らかにブランド力が落ちているのでここらが潮時かなというのが寂しさと共に感じます。先程も友人に延々と説明し続けましたが、このところ日系パソコンメーカー各社は値段と性能が釣り合わないというか、レノボやASUSのパソコンと比べても性能は同じなのに値段は高いだけというラインナップが目立ちます。しかもデザインもこう言ってはなんですがどれもダサく、特にかつてはデザインの良さで一世を風靡したVAIOに至っては現在のラインナップを見て、「正気か?」と思うくらいダサいです。表面カバー本体に「VAIO」って書いてあるだけで、ぶっちゃけ「FUJITSU」とか「NEC」、「dynabook」と書き換えたらそれで済みそうなくらいダサいです。
逆にというか、この統合話に入っていない会社の方こそ注目に値するような気がします。NECに関しては既にレノボと連合組んでいるのでそれほど言及することはありませんが、パナソニックは「レッツノート」のブランドで「頑丈でタフなパソコン」というイメージを幅広いユーザーに認知させており、業界において独自で確固たる地位を築いているのではないかと見ております。実際私の周りのIT関係者もレッツノートを絶賛する人間が多く、将来はわかりませんが今回の話に入っていないだけなかなか有力株なのかもしれません。パナソニックの製品は系列会社にいる友人がアホみたいに働かされている(月間残業時間200時間オーバー、みなし残業で)から買うつもりないけど。
・東芝と富士通、パソコン事業で合弁交渉(読売新聞、12/4 3:15)
・<東芝>富士通とVAIO パソコン事業統合検討(毎日新聞、12/4 11:20)
・東芝、富士通、VAIOの3社がPC事業を統合か--報道に対し3社が否定のコメント(CNET Japan、15:01)
本日、各メディアで東芝、富士通、VAIOのパソコンメーカー大手三社が事業統合を検討していることを報じるニュースが飛び出してきました。私が確認する限りだとこのスクープを物にしたのはやはり日経のようで、いろいろ調べた中では最も早くかつ具体的、そして簡潔に報じております。
この日経の報道を受けてすぐ後追いで記事を出したのは読売で、日経の配信から約1時間後に記事を配信しています。ただ読売の記事では東芝と富士通しか触れておらず三社目のVAIOについては名前すら出てきません。恐らくこれはVAIOに関しては裏付けがきちっと取れなかったため安牌を切るようにほぼ確実そうだと見込めた先の二社に限って報じたのでしょう。そのかわり2014年の日本国内パソコン市場シェアを引用して統合後はNEC、レノボ連合を追い抜くと説明している辺りは好感が持てます。
読売の報道から大きく時間が経った11時台に報じたのは毎日ですが、ここはスクープに追いつけなかった代わりに後追い取材が丁寧になされており、東芝に対して行った取材(恐らく電話取材)の回答内容を詳細に乗せた上で今後の展望などをしっかり書いてる当たり合格点です。逆にふざけてるというか「てめぇもう記者辞めろ」と言いたくなるのが最後のCNET Japanの記事で、ここは見出しに「報道に対し3社が否定のコメント」と載せていますが、後追い取材を行ってはいるもののそのコメントを見る限りだと否定しているとは言い難いものです。大まかなコメント内容を抜粋すると下記の通りです。
東芝
「報道は当社が発表したものではないが、事業編成を含め様々な可能性を検討している。まだ合意、決定した事項はない」
富士通
「報道は当社が発表したものではないが、パソコン事業の分社化は既に決まっており、分社化後の展開に関しては様々な可能性を検討しているがまだ決定した事項はない」
VAIO
「憶測記事に対してコメントは差し控える。現時点においてVAIOとして交渉を行っている事実はない」
これらのコメントを見る限り、報道されている通りに事業統合を検討をしていることを暗に認めているとしか思えません。要はまだ完全合意になって決定したわけではないけど、検討している案の中に統合は入っており、でもって完全否定できないほど現実味は持ち合わせているってことでしょう。何をどう読んだらこれで「報道を否定」だなんて言えるのか、この会社はあんま深く知らないけどいい加減で取材力のない記者もいるもんだなと読んでて呆れます。
ちなみにVAIOにこんな返答された場合私は、
「じゃあ日経の記事は間違った報道だって言うんですか?誤った事実が世の中に伝播することに御社は黙って見過ごすってんですか?VAIOとして交渉を行っていないってのはどういう意味で、役員がスタンドプレーで交渉してるとでもいうのかっ!」
って、早口&怒鳴りで次の回答を引き出します。
こうした取材では相手広報への余計な容赦は必要なく、記者は徹底的に攻めなくてはなりません。だからこそ記者って人間性を段々失っていくんですが。
ちなみに、同じ後追い取材でも実力の差がはっきり出てしまったというか、毎日の方では検討している事実を相手先に認めさせています。以下、その箇所を抜粋しましょう。
「東芝関係者は毎日新聞の取材に対し、統合検討の事実を認めた上で『各社のブランドをどうするかも固まっておらず、いつ合意できるか分からない』と指摘。また、VAIOの関係者は統合に慎重な見方を示しており、東芝・富士通だけの統合になったり、統合自体が白紙になったりする可能性もある。」(上記リンク先の毎日の記事より)
この毎日の取材内容と比較するにつけ、CNET Japanの記事の書き方は誤報と言ってもいい内容です。普通こういう時は曖昧にして逃げるんだが、よくデスクもこんな見出しでOK出したなぁ。
なお三社のパソコン事業統合の可能性について私個人の見方を述べると、十分あり得る話かなというのが正直な感想です。ノートパソコン事業は既に斜陽産業となっており、その機能の大半はスマートフォンに取られたため今後再浮上する可能性はほとんどないでしょう。特に東芝に至っては不正会計をした中にこのパソコン事業も入っていたと見られており、いまいち実態が明らかになりませんが既に赤字事業と成り果てている可能性すら有り得ます。
となるとまだ息してる間にほかの会社と事業統合するというのは次善の策であり悪くはなく、また三社とも明らかにブランド力が落ちているのでここらが潮時かなというのが寂しさと共に感じます。先程も友人に延々と説明し続けましたが、このところ日系パソコンメーカー各社は値段と性能が釣り合わないというか、レノボやASUSのパソコンと比べても性能は同じなのに値段は高いだけというラインナップが目立ちます。しかもデザインもこう言ってはなんですがどれもダサく、特にかつてはデザインの良さで一世を風靡したVAIOに至っては現在のラインナップを見て、「正気か?」と思うくらいダサいです。表面カバー本体に「VAIO」って書いてあるだけで、ぶっちゃけ「FUJITSU」とか「NEC」、「dynabook」と書き換えたらそれで済みそうなくらいダサいです。
逆にというか、この統合話に入っていない会社の方こそ注目に値するような気がします。NECに関しては既にレノボと連合組んでいるのでそれほど言及することはありませんが、パナソニックは「レッツノート」のブランドで「頑丈でタフなパソコン」というイメージを幅広いユーザーに認知させており、業界において独自で確固たる地位を築いているのではないかと見ております。実際私の周りのIT関係者もレッツノートを絶賛する人間が多く、将来はわかりませんが今回の話に入っていないだけなかなか有力株なのかもしれません。パナソニックの製品は系列会社にいる友人がアホみたいに働かされている(月間残業時間200時間オーバー、みなし残業で)から買うつもりないけど。
2015年12月4日金曜日
ある警備犬の逝去に触れて
・<警備犬>レスター号死ぬ 中越地震で男児突き止め(毎日新聞)
小さなニュースですがどうしても取り上げたいと感じるニュースなのでこのブログで取り上げることにします。詳細はリンク先の記事に書いておりますが警備犬として災害救助の現場で活躍したレスター号が本日、都内の警察犬訓練所にて老衰で亡くなったそうです。このレスター号ですが2004年の新潟県中越地震時にも出動しており、その際には土中に埋まった車を発見して災害発生から92時間後に2歳児が救出されるという奇跡に導いています。
少し話が脱線しますがこの時の救出は非常に印象的で私もよく覚えており、その車には母、姉、弟の家族三人が乗っていたのですが母と姉は地震発生直後に即死していたものの、土中に埋まったまま食べ物も何もない中で実に四日以上も2歳児の男の子は一人で生き残り続けました。通常であれば栄養状態の悪化、または不安から発狂するなどといったことも考えられる状況でっただけに、まさしく奇跡のような救出であったと思います。
話はレスター号に戻りますが、人が他県中越地震後も警備犬として活躍し続け、なんと四川大地震の際にも出動していたそうです。そして2011年に引退した後、救出へとつなげた男の子から手紙をもらったりなどつつがない余生を送っていたと報じられています。
小さなニュースと言えばそれまでですが、人の命をたくさん救ってくれた犬について触れる人間が多少はいてもいいと思え、このブログにも書き残すこととしました。
小さなニュースですがどうしても取り上げたいと感じるニュースなのでこのブログで取り上げることにします。詳細はリンク先の記事に書いておりますが警備犬として災害救助の現場で活躍したレスター号が本日、都内の警察犬訓練所にて老衰で亡くなったそうです。このレスター号ですが2004年の新潟県中越地震時にも出動しており、その際には土中に埋まった車を発見して災害発生から92時間後に2歳児が救出されるという奇跡に導いています。
少し話が脱線しますがこの時の救出は非常に印象的で私もよく覚えており、その車には母、姉、弟の家族三人が乗っていたのですが母と姉は地震発生直後に即死していたものの、土中に埋まったまま食べ物も何もない中で実に四日以上も2歳児の男の子は一人で生き残り続けました。通常であれば栄養状態の悪化、または不安から発狂するなどといったことも考えられる状況でっただけに、まさしく奇跡のような救出であったと思います。
話はレスター号に戻りますが、人が他県中越地震後も警備犬として活躍し続け、なんと四川大地震の際にも出動していたそうです。そして2011年に引退した後、救出へとつなげた男の子から手紙をもらったりなどつつがない余生を送っていたと報じられています。
小さなニュースと言えばそれまでですが、人の命をたくさん救ってくれた犬について触れる人間が多少はいてもいいと思え、このブログにも書き残すこととしました。
2015年12月3日木曜日
水木しげるは反戦だったのか?
水木しげる氏の逝去を受けて各メディアでこのところ、水木氏の往時の業績や辿った人生についてまとめる記事が数多く出されております。ただこうした記事について一部ネットで、彼の戦争体験を引用しては無理に戦争批判へと繋げようとする報道があり違和感を覚えるといった意見が出ており、かくいう私もその違和感を感じた一人でした。
有名なので知ってる方も多いでしょうが、水木氏は戦時中に徴兵されて南方の激戦地であるラバウルに派遣されそこでの空爆を受けて左腕を失う大怪我を負いました。この戦争時の体験については自伝漫画にも詳しく記述され当人にとっても激烈な体験であったことは想像に難くなく、また軍隊内では持ち前のマイペースな性格が災いして度々ビンタを喰らってたりなど、当時の上官らに対しては不満があったことを率直に書いております。
こうした本人の証言からか、「水木氏は戦争に対して批判的であった」などという風に書くメディアを実際に私も数多く見たのですが、先ほども述べた通りにこうした報道に対して何となく違和感を覚えました。もちろんこれは水木氏の作品や証言をどう読み取るかによるもので絶対的に何が正しいか否かはよほど明確な証言記録が残っていない限り、本人が逝去した今だと確認のしようがないものです。それでも敢えて私の理解を述べるなら、水木氏は「反戦」というよりは「鎮魂」を訴えていたのではないかと思えてなりません。
まず話の前提として、水木氏はかなりのミリタリーマニアことミリオタであったことはほぼ間違いありません。出征時に乗り込んだ船が日露戦争時にバルチック艦隊を信濃丸だと知って驚いたり、戦後も売れない漫画家時代に知人から融通してもらったプラモで奥さんと一緒に連合艦隊の再現に取り組んだりと、意外と軍事・兵器関連に妙な造詣を見せております。なお水木氏の直弟子にあたる漫画家の池上遼一氏も、最近「ガールズパンツァー」にはまっているとカミングアウトする当たり、師弟揃って意外とミリオタだったようです。
もちろんミリオタであっても平和主義者はいるでしょうからおかしいってことではないものの、なんとなく水木氏の作品を読んでいると戦争を根本的に否定するような素振りはなく、自身の体験以外だとやはり独特の視点というかやや皮肉っぽく他人事のように戦争を描いているように見えます。少なくとも、殊更悲惨さや空しさを強調しているようには見えませんでした。
しかしその一方で、「総員玉砕せよ!」に代表されるように自身の体験に根差した戦争作品を大量に書いているのは事実で、それらの作品に対する思い入れは深いと生前に度々話していました。そうした水木氏の作品をみていて私が感じるのは先ほども述べた通り反戦ではなく、むしろ敢え無く散っていった戦友や同胞たちに対する深い鎮魂の意思じゃないかと感じられました。
水木氏の戦争作品ではどれも指揮官目線ではなく末端の兵士、または前線隊長の目線で語られ、厳しい戦況や無茶な作戦に振り回され散っていく話がフィクション、ノンフィクションの区別なく数多く描かれています。特にほぼ実体験である「総員玉砕せよ!」では死にゆく兵士らに対して強い同情心を覚えさせられるように描かれており、これらの作品を読む限りと私は水木氏はどちらかというとあの戦争で死んでいった兵士らへの鎮魂、そして彼らを知らない日本人にも彼らという存在があったことを知ってほしいという目的で描いていたのではないかと思います。
確かに言い方を変えればこうした視点も「反戦」と言えるかもしれませんが、本来の意図通りに述べるならば「鎮魂」こそが水木氏の戦争作品のテーマだと思え、反戦という言葉で引用するのは少し方向性が違うのではないかという気がします。
言うまでもなく水木氏は妖怪漫画の大御所としてこの分野の裾野を広げた漫画家ですが、そんな経歴なだけあって神霊や超常現象に関しては興味や造詣が深く90年代などは世界各地を飛び回っては観察、紹介しおります。それだけあって死語の世界や魂、成仏、怨霊、地縛霊などといった存在や価値観についてもあれこれ思索していることを書き残しており、そんな水木氏だからこそ散っていった何百万ともいう兵士たちへ強い同情心を覚え、彼らの魂を慰め、鎮めたいという気持ちも強かったのではないかと私には思えてなりません。
あくまで上記の解釈は私個人の解釈によるもので自分の意見が絶対正しいなんていうつもりは全くなく、ただ自分はこう読みとったというものでしかありません。その上で私は、あの戦争あ正しかったのか悪かったのかという肯定か否定の議論以上に、亡くなられた兵士や民間人の方々に対しその存在を知り、哀悼の意を持ち続けることこそが何より大事だと考え続けていこうと思います。
有名なので知ってる方も多いでしょうが、水木氏は戦時中に徴兵されて南方の激戦地であるラバウルに派遣されそこでの空爆を受けて左腕を失う大怪我を負いました。この戦争時の体験については自伝漫画にも詳しく記述され当人にとっても激烈な体験であったことは想像に難くなく、また軍隊内では持ち前のマイペースな性格が災いして度々ビンタを喰らってたりなど、当時の上官らに対しては不満があったことを率直に書いております。
こうした本人の証言からか、「水木氏は戦争に対して批判的であった」などという風に書くメディアを実際に私も数多く見たのですが、先ほども述べた通りにこうした報道に対して何となく違和感を覚えました。もちろんこれは水木氏の作品や証言をどう読み取るかによるもので絶対的に何が正しいか否かはよほど明確な証言記録が残っていない限り、本人が逝去した今だと確認のしようがないものです。それでも敢えて私の理解を述べるなら、水木氏は「反戦」というよりは「鎮魂」を訴えていたのではないかと思えてなりません。
まず話の前提として、水木氏はかなりのミリタリーマニアことミリオタであったことはほぼ間違いありません。出征時に乗り込んだ船が日露戦争時にバルチック艦隊を信濃丸だと知って驚いたり、戦後も売れない漫画家時代に知人から融通してもらったプラモで奥さんと一緒に連合艦隊の再現に取り組んだりと、意外と軍事・兵器関連に妙な造詣を見せております。なお水木氏の直弟子にあたる漫画家の池上遼一氏も、最近「ガールズパンツァー」にはまっているとカミングアウトする当たり、師弟揃って意外とミリオタだったようです。
もちろんミリオタであっても平和主義者はいるでしょうからおかしいってことではないものの、なんとなく水木氏の作品を読んでいると戦争を根本的に否定するような素振りはなく、自身の体験以外だとやはり独特の視点というかやや皮肉っぽく他人事のように戦争を描いているように見えます。少なくとも、殊更悲惨さや空しさを強調しているようには見えませんでした。
しかしその一方で、「総員玉砕せよ!」に代表されるように自身の体験に根差した戦争作品を大量に書いているのは事実で、それらの作品に対する思い入れは深いと生前に度々話していました。そうした水木氏の作品をみていて私が感じるのは先ほども述べた通り反戦ではなく、むしろ敢え無く散っていった戦友や同胞たちに対する深い鎮魂の意思じゃないかと感じられました。
水木氏の戦争作品ではどれも指揮官目線ではなく末端の兵士、または前線隊長の目線で語られ、厳しい戦況や無茶な作戦に振り回され散っていく話がフィクション、ノンフィクションの区別なく数多く描かれています。特にほぼ実体験である「総員玉砕せよ!」では死にゆく兵士らに対して強い同情心を覚えさせられるように描かれており、これらの作品を読む限りと私は水木氏はどちらかというとあの戦争で死んでいった兵士らへの鎮魂、そして彼らを知らない日本人にも彼らという存在があったことを知ってほしいという目的で描いていたのではないかと思います。
確かに言い方を変えればこうした視点も「反戦」と言えるかもしれませんが、本来の意図通りに述べるならば「鎮魂」こそが水木氏の戦争作品のテーマだと思え、反戦という言葉で引用するのは少し方向性が違うのではないかという気がします。
言うまでもなく水木氏は妖怪漫画の大御所としてこの分野の裾野を広げた漫画家ですが、そんな経歴なだけあって神霊や超常現象に関しては興味や造詣が深く90年代などは世界各地を飛び回っては観察、紹介しおります。それだけあって死語の世界や魂、成仏、怨霊、地縛霊などといった存在や価値観についてもあれこれ思索していることを書き残しており、そんな水木氏だからこそ散っていった何百万ともいう兵士たちへ強い同情心を覚え、彼らの魂を慰め、鎮めたいという気持ちも強かったのではないかと私には思えてなりません。
あくまで上記の解釈は私個人の解釈によるもので自分の意見が絶対正しいなんていうつもりは全くなく、ただ自分はこう読みとったというものでしかありません。その上で私は、あの戦争あ正しかったのか悪かったのかという肯定か否定の議論以上に、亡くなられた兵士や民間人の方々に対しその存在を知り、哀悼の意を持ち続けることこそが何より大事だと考え続けていこうと思います。
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