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2019年11月5日火曜日

高度な理性とは

 理性的な人物だと言われれば、恐らくまず褒め言葉として受け取られるでしょう。では理性的な人物とは、どんな人が当てはまるのか。
 恐らくこうした問いかけをした場合、一番多く帰ってくると思う答えとしては「常識的な人物」ではないかと思います。しかし私に言わせると、常識というのは時代や場所によって変わるものであり、それこそ貧困国や戦地において日本の常識を維持する人間が「理性的な人物」として取られるかは果たして疑問です。

 では単純に「理性」が多い人間だったらどうか。そもそも理性とは何かというメタな議論へと発展していきそうですが、要するに論理的に考える人のことを指していると私は考えており、その意味で言えば「感情に流されない人」こそが理性的と言えるかもしれません。この場合の「感情的」とは、特に現代日本だと「めったに怒らない人」がそうした代表として扱われると思え、確かにこういうタイプの人なら「理性的な人」と言われても自然ではないかと思います。
 でも、敢えて嫌な言い方をすれば、いついかなる時も怒りを見せない人間が果たして理性的なのかという逆説を問うこともできます。それこそ目の前で親や子供が殺されながらも怒りを見せない人間は理性的と言えるのか、という風に問うこともできます。ただこうしたケースであれば、「怒りではなく悲しみを出すことが自然」として、怒りを見せずとも涙を流すという感情を出しさえすれば、怒りを抑えつつも親類への情をきちんと備えているとして合格、晴れて理性的な人物に認定されるかもしれません。

 ただ上記ケースにおける怒りにしろ悲しみにしろ、それは理性というよりかは感情があるかないかの議論であると私は捉えており、理性の有無の議論とは敢えて分けて考えた方がわかりやすいように思います。目の前で虐殺されるのを見て怒りも悲しみも見せないのはただ単に感情がないだけで、それはそれでやはり不気味な人間だと私も考えます。
 ではこの場合の理性があるかないかはどの点を見るのかというと、端的に言って大きく取り乱すか否かでしょう。怒りや悲しみを見せるとしても、「てめぇこのやろ絶対許さねぇ!」などといって戦車に向かって体当たりをかける人は情が強いことは認めるものの、私の中では理性的ではありません。怒りであろうと悲しみであろうと、無謀な行為や、論理的に明らかに逸脱した行為を見せるというのが理性的ではなく、憎い相手を殺そうとするにしても、死んだ者に涙を流すとしても、その目的に合わせて適切な行為を行い、なおかつ我を失うような慌て方をしないということが理性的であると考えるわけです。

 以上が理性的という言葉に対する私の定義ですが、ではここで、「高度な理性」とは何を指すことになるのでしょうか。要するに、取り乱さないことの程度が高いということで、どんなショッキングな場面においても取り乱さない人が、高度な理性を備えていると言えるでしょう。
 そういう意味では昔にも書いた気がしますが「罪と罰」のラスコーリニコフとナポレオンの比較が好例といえ、何百万人を死に至らしめながら平然と自らの野心を追求したナポレオンに対し、誰からも嫌われる金貸しの老婆とその妹を殺しただけで前後不覚になるラスコーリニコフでは、ナポレオンのほうが理性的だったということになります。

 この「罪と罰」の例は自ら手にかけた場合ですが、他人に手をかけられるという意味では最初の例のように、親族が殺される、知人が殺される、赤の他人が殺される、この順番でどこで取り乱すかでその人の理性が測られることとなるでしょう。
 また無理に殺人を例にしなくても、ジェイソンに会う、フレディに会う、花子さんに会う、貞子に会うというドッキリ恐怖系でも、どこで恐怖から取り乱すかでも測れるかもしれません。もっともこのキャラたちの格付は私にもよくわかりませんが。

 なんでこんな話をするのかと言うと、実は今、超ゴア系アドベンチャーゲームを買うかどうか悩んでます。ネットでチラ見しただけで戦慄というか声が出なくなり、ガチで目を背けたというか画面切ったほどの内容なのですが、「俺の理性はそこまでなのか?」と変な負けん気だして、こんなんでビビんねぇぞとばかりに逆に購入してやってやろうかという気に今なっています。もっともそういいつつ、あれ程の内容ならば触れない方がいいのでは、触ってしまうと逆に歪むのではという懸念も持っています。
 そうした妙なせめぎ合いを感じている最中ですが、少なくとも言えることとしてはやはり私は幼少より、そうしたホラーをはじめとするゴア表現系の映像やらストーリーをよく求めてきて、そうした物に触れるにつれて徐々にですが理性的になってきたという自負はあります。この前も紹介した「シークレットゲーム」でもプレイ中、少なくとも私は目を背けたり映像や表現に慄いたりすることは一切なく、ホラー耐性みたいなものは幼少時と比べると格段に強くなっています。

 ホラーやスプラッタ描写に触れ過ぎると性格がおかしくなる、残虐になるという教育論は昔から多いし私も別に否定しませんが、自分に関してはホラーやスプラッタ描写の行為に憧れるとかそういうのはなく、ただ単に「怖い、だからこそ見てみたい」という単純な興味からであり、恐怖を克服したいとかそういう気も別にあるわけではありません。しかし結果的にそうした動機や行動が「高度な理性」につながってるとしたら、意識して高めているわけじゃないけど、私は割と高度な理性を追い求めて生きてるんだなと思ったわけです。
 
 そんなわけで、そのゲームを買うかどうかマジ悩んでるわけです。本気でここ数年でかつてないくらいにドン引きしたゴア表現でしたが、だからこそ惹かれるというか、久々に高くてもやってみたいと思ったゲームです。まぁこうなったのも、「シークレットゲーム」が少なくとも自分が思ってたよりかはマイルドだったことも少なからず影響している気がしますが。

2019年11月3日日曜日

ドラマはその後


 昨日、中山公園のニトリに言ったら、ニトリが入っている商業施設で剣道試合のイベントが行われていました。個人的には前掛けに漢字の個人名が入っているのが印象的で、中国人でも剣道やる人いるんだなとなかなか興味深く思ってみてました。
 試合を見ながら写真を撮って、これで今夜のブログもバッチリだと思って帰宅しましたが、ドラマはその後に待っていました。

 今回、ニトリで私は発泡スチロールみたいな素材でパズルピースみたく組み立てるフロアマット一畳分を購入しました。何に使うのかと言ったら部屋に敷くためで、スリッパ脱いで動くスペースにこれ敷いておけば冬も床から熱奪われなくて超いいじゃんとか思ったからでしたが、結構サイズが大きく、ナップザックには入らなかったのでビニール袋をもらい、そのまま片手運転の自転車で帰宅しました。
 そしたら案の定というか自転車の前輪が袋を巻き込み、それだけだったら全然余裕だったけど、フロアマットが変に柔らかい素材もあってめっちゃ前輪に食い込み、袋ごと右腕が引っ張られ、そのまま見事に自転車から転げました。自分にしては非常に珍しいのですが、袋とともに右腕引っ張られたところまでは覚えているものの、転げ落ちた瞬間の記憶は何故か曖昧で、具体的にどうどのように転んだのかは今も覚えていません。

 幸い、コケた場所は車の少ないところで、コケた直後にすぐ立ち上がることができたのですが、周りから「大丈夫か?」とすぐ中国人男性二人が駆け寄ってきました。最初はなんで寄ってくるのかわかりませんでしたが、改めて気がつくとかなり激しく顔面から流血しており、よってきた二人以外にも周りの人たちがえらい表情して自分を見ていて事は深刻だと気が付きました。
 その後、声をかけてくれた二人に「大丈夫だから安心して」と言って路肩に寄り、身なりを正しましたが、ようやく段々と痛みが湧いてきて、特に右肩を強く打ったようで流血以上にこっちのがきになりました。そのようにしていたらさっき駆け寄ってきた二人のうち一人が、近くのコンビニから水とティッシュを買ってきてくれて、「これ使いなよ」と言って渡してくれました。お金を払おうとしたものの断られ、何度もありがとうと言って別れましたが、この時は心底「中国に来てよかった」と思いました。

 早速その水とティッシュで顔を拭いたところ、自分でもドン引きするくらいティッシュが真っ赤になってちょいビビりました。幸い流血自体はすぐ止まったのですが、傷口を見るのはなんとなく気分的に嫌だったのであえて見ず、このあとどうやって帰るかについて思案にくれました。
 前輪に巻き込まれたビニール袋は激しく破れていたため、フロアマットは手で持つしかありませんでした。幸い、サイズ自体は極端にでかくなく、片手でこんどはしっかり持てば前輪に巻き込むことはないものの、右肩強打の影響で右手の握力が極端に落ちており、果たして家まできちんと握ってられるかが不安でした。また習近平が来るということで上海市内のあちこちに警官が立っており、片手運転くらいで咎められることは中国の警察にはないものの、流血の痕とのコンボだったらちょっとまずいかもという懸念がありました。

 とはいえ自転車をほっぽって置くわけにも行かないし、強打した右肩と顔面がやや痛むものの、右手にフロアマット、左手にハンドルを持って再び片手運転に漕ぎ出しました。漕ぎ出してすぐ、案の定握力が弱っててちょっとした段差にぶつかるやフロアマットを落としましたが。
 ともかく握力がやたら弱くなってたので段差の振動でもやばく、速度も比較的低めで漕ぎ出しました。そして警察が立っている十字路とかでは、予め距離を置いて信号待ちし、信号が変わるやさっと素知らぬふりして通り抜けるということを繰り返して進みました。案の定、片手運転については中国の警官は何も咎めませんでした。前に両手手放し運転した時は流石に怒られたけど。

 そんな感じで約30分間走り、無事に家まで辿り着きました。最後の自宅アパート階段を自転車持って登るのが結構辛かったし。ちなみに自宅に着くまでの間は何故か、グランド・ジョラスでのビカール・サンな気分をしてました。
 家着いて、嫌だと思いつつも頑張って鏡を見たところ、擦り切れたというよりかは強打して皮膚が破れた感じの右頬はともかく、眼鏡金具で切れた鼻の頭付近と、左耳の付け根が切れてて、ここから激しく流血した痕が見られました。あと右肩は出血していないものかなり内出血しており、しばらくは肩上げるのも痛かったです。それと痛みのある左手首には血がべったりついていたので裂傷下かと思ってましたが、水で洗い流すと傷口はなく、ただ単に打ち身してただけでした。逆を言えば裂傷したと勘違いするほど血がついてたんだけど。

 各傷口から判断するに、おそらく自転車が右斜めに傾いて倒れ、まず右肩を地面にぶつけた後で右頬をうち、その後倒れた自転車の金具でも左耳に当たって切れたのだと思います。真面目に記憶力に自信のある自分でありながら、こうも転倒時の記憶がないのは不思議です。
 幸いだったのはこの前買ったばかりの眼鏡は落としたり、ぶつけたりせず、レンズも傷一つなかったことです。っていうか耳切るよりレンズに傷つくほうが嫌でした。

 一夜明けた今日は傷口もそこまで深くなかったことから、今日会って話しした人にも説明しないと出血した痕だと気づかれないくらい目立たず、また右肩もまだ触ると痛むものの、肩自体は問題なく可動するようになり、事後は比較的順調です。また午前中には、恐らく倒れた影響からか目視でもはっきりわかるくらい前輪が左右に歪んでいたことから、自転車屋まで乗っていき直してもらいました。スポークを調整するだけで済みましたが(20元=約300円)、倒れた事以外にも経年劣化による長年の歪みの影響もあったでしょう。
 あと少し汚い話ですが、今日出した尿は毎回非常に濃くなっており、なんとなく体直すのに細胞がフル稼働しているのが見て取れました。

 何気に今回の転倒で地味に痛かったのは、本当は昨日の夜に次のJBpressの原稿を書こうと考えていたのですが、流石に自転車で転倒して、耳切って流血したあとに書く気にはなれず、すぐに寝ちゃって、ついさっきまで急いで書く必要に迫られたことです。スケジューリングはマジ大事。
 それにしても、自転車で顔から突っ込んだのは約10年ぶりです。これだけあっても普通に今日、部屋の模様替えとか買い物、原稿執筆するあたり落ち着きがないと自分でも思います。

2019年10月31日木曜日

何故ラグビーワールドカップは成功したのか

 決勝戦は明後日ですが、現在日本で開催中のラグビーワールドカップは近年の日本主催の国際スポーツ大会としては稀に見るほどの大成功だったと言えるでしょう。これまで日本ではあまり人気があるとは言えなかったラグビーに対し、試合中継では高視聴率を連発した上、また揉めやすいレフェリーの判定についてもこれまで目立った騒動も聞きません。
 極めつけは日本に滞在した外国人選手との交流で、報道されている限りでは日本側の受入は各地で好評だったようで、先日の台風被害のあとにボランティアに参加してくれたカナダチーム選手など、多方面で素晴らしい交流が行われたと考えています。

 なお高校時代はラグビーやってたのに大学入ってからダルいとかいってテニスに鞍替えしたうちの名古屋に左遷された親父によると、「片手でパスするのが不思議」だったそうです。親父の時代はきちんと投げるため何が何でも両手でパスするよう指導されていたそうですが、現代のラグビー選手は平気で片手でパスしながら正確にボールを送っており、この点は親父の世代からするととんでもない時代の変化に感じたそうですが。

 話は戻りますが、そもそもどうして今回これほど成功したのかが気になってます。正直、前評判も高くなかっただけにどうしてこれほど盛り上がったのかが不思議で仕方ありませんでした。単純に日本のラグビー関連団体が努力したと言えばそれで済むのかもしれませんが、それならそれで何が良かったのかが気になります。
 特に来年に東京五輪を控えているだけに、その成功要因は今からでもしっかりと共有しておくにこしたことはないでしょう。

 まず考えられる理由としては、情報発信が非常に良かったという点です。滞在中の外国人選手らの日常風景、試合スケジュールや今後の展開について非常に細かく且つわかりやすく情報が発信され、台風で試合が中止になった際も早め早めにその可能性に言及しており、この点は見事な発信の仕方だったと思います。

 次に、これはジャケット着ているだけで「秋なのに上着を着るなんて花園さんらしくない」と久しぶりに会うなりディスってきた後輩の主張ですが、試合中継などでアイドルや芸人などを一切使用せず、硬派な中継を心がけたという点です。このところっつても大分前からですが、競技経験のあるアイドルや芸人を呼んでは試合の実況解説に混ぜる放送が非常に多いです。サッカーが特に顕著ですが、ミルがわからしたらアイドルや芸人呼ばれても何も響かないというか、見たいのはやはり試合の中身であるのに、試合前後に無駄にそういったゲストがあれこれトークするのは私自身も正直あまりいいとは思っていませんでした。

 後輩によると、今回のラグビーワールドカップの試合では競技経験のあるアイドルや芸人がそもそもいなかったからかもしれませんが、かなりガチな競技経験者が毎回登場し、また実況や放送も視聴者にわかるよう細かくルール解説がされていて非常に見やすかったそうです。私も一試合の放送を見ましたが、確かに野球やサッカーと比べて無駄に視聴者を煽るような発言とかなく、落ち着いた試合中継で見ていて悪い気分しませんでした。逆を言えば、変なゲストの戯言ほど不快にさせるものはないんだなと改めて感じました。

 あと最後に私自身の見解ですが、日本のラグビー業界でそこそこ力持っている森元総理が、弱ってきてあまり大会運営に口出ししなかったからうまくいったのではないかと本気で思っています。それこそ東京五輪でもこれまで出てきては余計なことを言って現場を混乱させてきましたが、最近急に痩せて顔色も優れないなど、明らかに弱ってきている様子が見て取れます。
 非常に不謹慎なことをさっきから言っていますが、この人に限って言えば存在するよりしないほうが物事が確実にうまく回ると思うくらい問題がある人物だと私はかねてから認識しており、今回のラグビーワールドカップの成功振りを見て、ますますこの考えに確信が持てました。公人である以上、これくらいの批判はまぁありでしょう。さらに言えば、東京五輪も正直どうなるかと危ぶんでいましたが、名誉会長がこんな感じで何も言わなくなったらうまくいくのではと光明が見えてきました。

 最後に関係ないけど、この前日本帰った時の親父へのお土産は、免税店で買ったタバコとイスラム教徒がかぶる白い帽子でした。後者は、親父が被った姿は完全な中東人で、あれなら普通に中東コミュニティに潜り込めるなと思うほどでした。

2019年10月29日火曜日

ゲームレビュー「シークレットゲーム」

 大学時代のロシア語の授業である学生が、

「せんせー、昨日徹夜でカラオケしたから喉痛い。飴ちゃんちょうだい(´・ω・`)」
「あんた大阪のおばちゃんみんなが飴ちゃん持ってるとでも思ってるの?まぁ持ってるけど( ´ー`)ゴソゴソ」

 という出来事がありましたが今日、

「花園さーん、マウス持ってたらちょうだい(´・ω・`)」
「あるよ。ほなこれ持ってき( ´ー`)ゴソゴソ」

 という妙なやり取りをかましてきました。ちなみに家には使っていないマウスが10台くらいあります。

 話は本題ですが昨日の記事で私は今、ニンテンドースイッチライトで「キラークイーン」というゲームをやってると書きましたが、これ聞いて大概の人はジョジョに出てくるスタイリッシュなスタンドを想像したのではないかと思います。実際はそっちではなく、キラークイーン、もとい「シークレットゲーム」というアドベンチャーゲームです。

 この「キラークイーン」というのは初出が2008年に出た18禁の同人ゲームで、その後PS2とかパソコン向けにリメイクされたのが「シークレットゲーム」です。内容はどんなのかというといわゆるデスゲームで、謎の施設に閉じ込められた人たちが武器を与えられ、殺し合いをするという典型的な内容となっています。
 私はこのゲームを2010年頃に知って、PSP版も出ていると知ったので最初はそっちで遊ぼうかと考えていましたが、当時はPSPのダウンロード版の値段が高く、そこそこ古いゲームなのにその値段で購入することに抵抗もあったことから見送っていました。そしたらニンテンドースイッチにソフトが移植されており、且つ値段もお手頃となっていることを知ったので、先日の日本帰国時に続編の「リベリオン」とともに大人買いしました。

 私がこのゲームの何に興味を惹かれたのかというと、一言で言えばめちゃくちゃ人が死にそうな内容だったからで、それ以外は何もありません。もっとも遊んでみた感想としては確かに9割方死ぬけど殺害方法は蜂の巣になるようなのばっかで、それほど凄惨というわけではありません。凄惨さで言ったら、前にもレビュー書いた「ゼロエスケープ」がフッ酸シャワーを始め群を抜いており、あれに比べればまだ「シークレットゲーム」はマイルドな方です。

 それでゲーム自体についてですが、そもそもこのゲームをゲームと呼ぶには少し難があります。というのも一般的なアドベンチャーゲームと違ってこのゲームにはシナリオの分岐はほぼなく、基本的には用意されたテキストを読むだけで、ビジュアルノベルのような内容だからです。通常のアドベンチャーは選択肢によって展開が変わることを主軸とするだけに、随分と思い切ったやり方したなと感じます。
 ただ、複数あるシナリオのテキスト量は非常に膨大で、完読するには普通に数時間が必要なだけに、選択肢による分岐がなくても正直あまり気になりません。それどころかテキストは非常に面白く、先が気になる内容と高い品質を持っており、世間で評価が高いというのも非常に納得できました。

 このゲームのテキストが何故優れているのかというと、舞台設定とキャラ設定がとにかく優れていることに尽きます。
 通常、デスゲームというのは平等に武器とか与えられて、互いに協力し、時には裏切り、最後に愛と友情で生き残るというのがお決まりの流れですが、「シークレットゲーム」ではゲームに登場する各プレイヤーそれぞれ別個に、「何人か殺す」、「特定の場所を回る」、「特定人物を殺す」、「数人から持ち物を奪う」、「特定時間まで生き残る」などのクリア条件が設けられ、条件によっては完全に競合して対立せざるを得なかったり、逆に協力するほうがメリットがあると言った状況が生まれたりします。そのため他のデスゲームと違って、キャラ間の駆け引きもクリア条件が重要となり、シナリオにもそれが反映されます。

 次のキャラ設定についてですが、このゲームではパラレルワールド的に複数のシナリオが用意されており、登場人物や大まかな舞台設定は共通するものの、シナリオによって死ぬ人や生き残る人が変わり、展開も変わってきて、選択肢によるシナリオ分岐の役割を代わりに果たしています。
 ただ、他のアドベンチャーゲームだと分岐したシナリオによってキャラの設定や性格が変わったりして、時には別人のようになってしまうことも珍しくありません。それがこの「シークレットゲーム」では、各登場人物の行動原理、観念がすべてのシナリオで完全に共通しており、シナリオによって主人公に協力したり、狂行に走ったりと行動そのものは変わるものの、その行動原理となる価値観や考え方が驚くくらい共通というか一致が保たれており、各登場人物が各シナリオでどうしてそんな行動を取ったのかについて深く納得できるようになっています。
 では何故シナリオによって行動が変わるのかというと、具体的には物語冒頭でどんな人物と接触したか、スタート地点がどこだったか、持ち物がどんなだったかによって行動が変わってきます。あるキャラに至っては、誰かに接触する前に罠にかかっていきなり死んだりもするし。

 今現在自分は最終章途中まで進めており、トラブルがなければこのまま最終エンドまで今日中にたどり着けると思います。正直言ってシナリオを読むだけのゲームですが、シナリオの完成度が非常に高いのは保証でき、ギャルゲーらしい目玉の大きなキャラクターの造形さえ我慢できれば確かにおすすめできる内容です。あんまグロくないし。

 なお声優の演技については取り立てて評価するほどの人はいないなと感じますが、ある女性キャラの声優を名前で検索したところ、「このひと、コトノハサマだったのか……」という言葉が自然と漏れてきました。
 それにしても最近は「ヤンデレ」という言葉も以前よりすっかり聞かなくなった気がします。っていうか2005年から2008年のリーマン・ショックまでの間にやたらとこの手のキャラが異常に量産されていたようにも思え、何ていうかそういう時代だったんだなと再認識しました。

2019年10月28日月曜日

ニンテンドースイッチライトの中国での稼働状況などなど

 先日、友人から「ニンテンドースイッチライトどう?」と聞かれたので、いま得ている情報を簡単にまとめておきます。

 少し前のブログにも書いたように(書いたっけ?(´・ω・`))、先日の日本帰国時にニンテンドースイッチの携帯機特価版に当たるニンテンドースイッチライトを書いてきました、いい加減長い名将にうんざりなのでスイッチライトと書きますが、まず触ってみた第一の感想としては「重い(´・ω・`)」でした。
 というのも、これまで私が主力武器として長年中国で連れ添ってきたPSVitaと比べると画面などがやや大きくなっており、ガワ全体もVitaより少し大きいことから、重量も少し重くなっています。

 Vitaより重いといっても実際それほどものすごい重量というわけじゃないのですが、やはり携帯ゲーム機というのは常に手に持って、場合によっては長時間遊び続けることもあるだけに、軽いに越したことはありません。もっとも私が重いと感じるのはVitaに慣れているだけであって、実際に数日間スイッチライトを使っているうちに段々と重さにも慣れてきました。何ていうか、この重力にも慣れてきたというか。

 ゲームソフトに関しては最近はVitaでも全部そうなので、全てダウンロードで購入しており、日本国内でメモリーカード買ってダウンロードしてきました。メモリーカードはVitaで当初16GBのを買って入れてましたが、途中で容量足りなくなってもう一枚16GBを購入したという反省を踏まえ、今まで知らない謎のメーカーのマイクロSDカード128GBを購入して入れています。Vitaと違って汎用のメモリーカードなのは任天堂もいい仕事しており、っていうかソニーは無駄に独自規格作るのやめろよと改めて思いました。

 操作性に関してはまだアクションゲームを直接遊んではいないのですが、先程述べた重量と、画面の大きさからやや横幅の長い形状から、これでアクションゲームをガキガキやるのは厳しいとすぐに感じました。そこで外付けのケースというか、スイッチライト本体を握りやすくするためのこういう外付けカバーを即購入しました。
 Vitaにもこういうケースカバーがありましたがこれまで使ったことはなかったものの、スイッチライトにつけたケースカバーは割と触感もよく、グリップ加減も良くて気に入っています。逆に、こういうケースカバー無しだと激しいアクションゲームは厳しい気がします。

 なおケースカバー、あと持ち運び用のポーチはどちらも白色を選びましたが、「白なんてすぐに汚れる」と親父と上海人の二人に全く同じセリフを言われました。奴らは白の良さをまだ理解していない( ゚д゚)

 このほか気になった点を上げると、サウンドというかスピーカーは明らかにVitaと比べて優れています。Vitaは表面のボタン付近にスピーカー口があり、ゲーム中に親指が重なると急に音が塞がれるといったトラブルが良くありましたが、スイッチライトは本体下部にあって手や指で塞がることはほぼなく、なおかつ音の聞こえ具合も明らかにVitaよりクリアです。
 一方、まだ完全には把握しきっていませんが、ゲームプレイ以外の本体付属機能とUIに関してはあまり誉められたものではなく、現時点では私があまり評価していないVita以下の状態です。メイン画面ではダウンロードしたゲームタイトルが割と大きいアイコンでズラッと並んでおり、ゲームを選ぶ際の選択でやや違和感があります。またメニュー画面のカラーパターンこそ選べるものの、背景画像やアイコンを含めたテーマ設定は弄れず、設定のカスタマイズ範囲は非常に限定されています。携帯ゲーム機である上は、もっと個性を主張したいところなのですが。

 あ、あと肝心なこと書き忘れていましたが、中国でスイッチのゲームをダウンロードできるかについて書いておきます。結論から言うと「イケそう」な気がします。
 ゲーム機本体の所在地設定には「香港、台湾」はあるものの中国本土は含まれていないのですが、無料販売されているゲームはスイッチライト本体からニンテンドーeショップから直接購入することができ、ダウンロード自体も行えました。ただ正式に価格のついたゲームソフトはまだ試しておらず、この辺を今後買いたいゲームが出てきた際に試してみるつもりです。
 もっともゲームソフト自体はPCからVPN経由で購入することはほぼ確実に可能であるだけに、ダウンロードが行けるんなら中国からでも問題なく購入し、遊べるのではないかと見ています。

 最後に、実際のゲームはどんなもんといったところですが、実はまだ一本のゲームしか遊んでいません。スイッチライトを買うと決めた時に最初に買うことを決めたソフトは「ベヨネッタ」の1と2でこれらはもちろん買っていますが、現在遊んでいるゲームはこれではありません。何かというと「キラークイーン」で、こちらに関してはまた次回紹介します。

多重下請けの弊害

中国の自動車市場、完全に成長が止まった模様(JBpress)

 今日配信された私の記事はこれですが、正直こんなニュースどうでもいいと思ってしまうビッグニュースが同時期に配信されていました。少しだけコメントつけておくと、ヤフコメ見るとやはりというか見出しの総生産台数落ち込みばかりに言及していて、個人的にはもっと重要だと思える新エネ車の腰折れについて言及ないのがやや残念でした。あと個人的に一番嬉しかったのは、シビックについて言及するコメントがあったことです。

「5次請け」の殺し屋、報酬安すぎで手抜きし事件発覚 中国(AFP)

 見出しからしてどこから突っ込んでいいのかわからないニュースですが、中身を見るともっとカオスです。

 ぜひ記事内容をその目で確認してほしいのですが概要を簡単に説明すると、中国で訴訟を起こされた不動産業者が、訴訟費用のが高く付くと考えて殺し屋に200万元(約3000万円)で殺害を依頼しました。しかし依頼された殺し屋は、「俺の手は汚したくない」と考えて別の人物に100万元(約1500万円)で依頼を転注というかアウトソーシングしました。
 そしたら転注された男は「俺の手は汚したくない」と考えて更に別の人物に77万元(約1200万円)で、そしたらそいつも「俺の手は汚したくない」と考えて他の人物に70万元(約1100万円)で、でもってそいつも「俺の手は汚したくない」と考えて最後の男に10万元(約150万円)で殺害を依頼した層です。

 しかし最後の男は、「こんな金額では割に合わない」と考え、なんと殺害相手に直接コンタクトを取り、殺害を果たしたと偽るために縛って猿ぐつわをかませた写真を撮影させてもらうことに同意して、見事撮影を果たしたそうです。撮影後、狙われていた人物は警察へ通報し、依頼者ほか五人の殺し屋はまとめて逮捕されたそうです。

 もうどこから突っ込めばいいのかわからないくらい愉快なニュースと言うか、最初は3000万円だったら報酬が何も仕事を果たさない下請けを経由していくうちに最終的には150万円まで減ってしまい、割に合わないと考えられて仕事放棄させられるというオチは小説でもなかなかないでしょう。しかも最後の男に至っては仕事せずに報酬を得ようと殺害対象と撮影会まで開いており、のどかというかなんというか図太い神経しています。
 ネットでコメントとか見ていると、「原発除染作業を始めとする日本の労働現場のようだ」、「多重下請け、よくない」みたいなコメントがたくさん並んでいて、面白がる一方で意外に笑えないというような皮肉めいたコメントがよく見られます。実際、私もそう感じましたし。

 たまに「どうして中国に来たの?」という質問を受けることがありますが、普段は中国史が好きだったからと答えるものの、「唖然とするトンデモニュースが飛び交うのが中国とインドくらいだから」という答え方をすることがあります。軽く冗談が入っているもののこの回答も本心であり、トンデモ事件が頻発するからこそ中国であり、それが中国の魅力であると本気で考えています。
 しかし経済成長を果たしてからというものの、中国国内ではこういうトンデモニュースがだんだん減ってきた感じがします。それだけに今回のニュースは久々に心躍らせるニュースで、これがあるから中国はやめられないと無駄に元気になりました。

2019年10月27日日曜日

結果主義の弊害

 記事には書いていませんでしたが先日壊れたと疑いのあったSIMカードを通信キャリアに持っていったら、やっぱり壊れていたようで、交換したらすぐ元通りとなりました。なお交換の際、最初の契約時に使用したパスポートはすでに期限が切れて切り替えていたので、最初は交換ができず、二回目に新旧パスポートを携えて無事に問題解決できました。古いパスポート捨てずにおいてよかった。
 話は本題ですが、日本滞在中に何故か友人の弟に説教していました。その内容というのも、結果主義の弊害とプロセス遵守の必要性についてです。

 1931年の満州事変と言えば言うまでもなく日本が二次大戦に踏み出す最初の一手であることに間違いありません。この満州事変は主に石原莞爾、河本大作、板垣征四郎などの関東軍幹部によって企図、実行されたもので、中央に当たる東京の参謀本部には諮らずに実行されたものでした。
 敢えて現代風に言えば、海外支店が本社の了解や決済なく企業買収を仕掛けるような行為であり、言うまでもなく独断専行的な命令違反と言っていい行為でした。またこの満州事変の際には当時朝鮮半島に駐留していた軍隊を、林銑十郎がこちらもまた中央の了解なしに中国東北部へと動かしております。こちらに至っては統帥権の干犯もいいところで、米軍のイラク駐留部隊が勝手にイランへ攻め込むような行為といえばその危険性がよく分かるかと思います。

 しかし、こうした命令違反に当たる軍事行動を行った軍人らはその後処罰されることは全くありませんでした。というのも、結果的には満州事変は軍事的には大成功して、それまでは瀋陽など一部都市と満州鉄道沿線のみだった日本の支配地域は、中国東北部全体にまで広がったからです。このため石原莞爾などは勝手に軍隊を動かした罪で処罰されるどころか昇進したわけです。

 それから時代を経た1937年、満州国と中国国境の盧溝橋での偶発的戦闘開始によって日中戦争が開始されます。勃発当初、東京の参謀本部は戦火の拡大を防ぐために現地部隊に対して不要な戦闘は避け軍事行動は控えるように通達しますが、現地部隊はこれらを一切無視して中国領土をガンガン攻め続けました。しかもこの時の参謀本部には出世した石原莞爾もいたのですが、再三の抑止呼びかけに対して周囲から、「お前も命令違反して出世したじゃないか」と言われ、絶句したというエピソードが残っています。

 つまり当時の日本陸軍の中では、「命令違反しても成果を上げれば問題ない」という結果主義がはびこっていたことに間違いありません。そしてその源流は満州事変の成功とその後の関係者の昇進であり、その結果盧溝橋事件以降の日中戦争では中央の命令を完全に無視して、軍事行動が行われる下地を作ったと言えます。
 これら全ては結果主義による弊害といってよく、「結果さえ良ければ手段や過程は問わない」という意識がはびこることによって起こるモデルケースと言っていい事態です。その後の結果については言わずもがなですが、日本は日中戦争から泥沼の戦争状態に陥ったばかりか、米国との太平洋戦争にも突入して亡国の道をたどることとなりました。

 なお同じような結果主義の弊害によるケースとしては、「シャア少佐だって、戦場の戦いで勝って、出世したんだ!」でおなじみのガンダムに出てくるジーンの例が好例でしょう。この時彼は偵察のみが命令で同僚からも止められていたにもかかわらず攻撃行動に移った結果、ガンダムに乗り込んだアムロ・レイに反撃されて命を落としています。
 仮に彼が結果主義に走らず偵察だけで終えていたらアムロ・レイは一年戦争に参加しなかった可能性が高いです。アムロは戦争でやばいくらい活躍しただけに、ジーンが手を出さなかったらジオン軍は敗北どころか連邦に勝利していたのではとまで推測されることから、ジオン軍最大の戦犯という評価を現在得ています。

 以上を含めて何がいいたい、というか友人の弟に何を伝えたかったのかというと、結果主義がはびこると組織というのは得てして命令違反が繰り返されるようになり、日本陸軍の例は極端だとしても、基本的には弊害が大きく組織そのものを含め損害を負うこととなります。そのため結果主義というのは可能な限り排除すべきであり、多少鬱陶してくても行動や計画を実行に移す際はきちんとプロセスに則って手続きを踏み、行う必要があると伝えました。
 直近の例だと加計学園系列大学の獣医学部認可がありますがあれなぞ、「安倍首相の友達→安倍首相は喜ぶであろう」という忖度のもとで、本来行うべき審査プロセスがすっ飛ばされて実施されており、安倍首相が直接指示して行われてなければ結果主義の弊害の典型とも言える事件でした。またその前後の森友学園問題も同様で、安倍首相関連事案だからという結果主義により土地売却プロセスが正当に踏まれていなかった感が見られます。

 では結果主義を排除するためにはどうすればいいか。結論から言えばきちんと定められたプロセスを遵守するよう徹底し、これに違反したものは、たとえどれだけ素晴らしい結果を生んだとしてもきちんと処罰するということに尽きます。仮に満州事変で石原莞爾らをきちんと処罰していれば、日中戦争は起こらなかった可能性があると私は本気で考えています。
 ただ、何でもかんでも杓子定規にプロセスを遵守しろとまで主張するつもりはありません。それこそ未曾有の事態や、どう考えても既存の設定プロセスが当てはめられない異常な事態に対しては、現場での臨機応変な対応が求められるし、それを認めるべきだという立場を取ります。一例を上げると、米軍の軍事ヘリが戦地で墜落した際、階級上では指揮する立場ではないもののサバイバル能力に優れたあるパイロットが生存者を率いて見事生還したという例があります。

 以上をまとめると、きちんとプロセスが定められている事態に対してはプロセス遵守を徹底する。プロセスが存在しない、または通用しない超異常事態に限ってのみ現場判断を認めるという姿勢こそが、結果主義を排除する手段であり、これをきちんと守るかどうかは非常に重要だと言いたいです。
 なお一部の日本企業を見ていると、実力主義と勘違いして結果主義を蔓延させているケースが見られます。具体的には「チャレンジ」で有名な東芝とかですが、実力主義との混同は非常に危険で、この方面にもやはり注意が必要だと私は感じます。