前回に引き続き、社会ルールの変更に関する概念について思ったことを書いてきます。それにしても前回記事は調子が悪かったこともあってわかりづらいな。
まず簡単におさらいすると、社会にははっきりと明示されているわけではないもののたくさんルールというものがあり、みんな無意識にそのルールに従って生活したり仕事をしたりしております。ただそれらのルールは時間と共に意外と変わることが多く、うっかりしていると置いてかれるということもありうるということが前回に言いたかったことです。
ただ置いてかれると言っても、社会ルールというのは紙に書いて張り出されているものではなく、やたら新ルールを追いかけていたら元のルールに慣れた人間たちから総スカンを食らって袋叩きになることもあり、状況にもよりますがルールを追いかける上で加減というものは非常に大事になってきます。
こうした新ルールを早くに追い過ぎた例として敢えてここで挙げると、鹿内宏明氏なんかそうだったんじゃないかとこの頃思います。知ってる人には早いですが鹿内氏というのはフジテレビや産経新聞をはじめとしたフジサンケイグループの元会長でしたが、1992年に社内クーデターに遭って経営職から解任された人です。何故鹿内氏が解任されたのかという理由についてはいろいろ説はありますが、一般的にはグループ内の企業を束ねる持ち株会社を作り統一した経営体制を作ろうとしたことに対して反発を受けたことが原因とされています。
しかしその後のフジサンケイグループはまさにこの時の鹿内氏の構想通りに持ち株会社、フジ・メディア・ホールディングスを中心とするメディアグループが出来上がるわけなのですが、これを推進したのが鹿内氏を追い出した張本人である日枝久会長で、持ち株化を進める過程でかねてからの懸念通りにライブドアによるニッポン放送株の買い付け事件が起きたというのは皮肉以外の何物でもないでしょう。こう言ってはなんですが、初めから鹿内氏に任せておけばライブドアによる混乱も起きなかったんじゃないのというのが私の感想です。
話は少し横道にそれましたが、基本的に新ルールには適応していかなくてはいかないものの、あまりに先を行き過ぎると失敗してしまうこともあります。ではどんな風にルールを追えばいいかが、まさにこれが重要となってきます。
結論を述べると、ルールを追うも何もルールを作る側に回ることが一番強いです。これをは国際的に行っているのは言わずもがなのアメリカで、自分ところで新兵器を作っては危険性が高いと言ってほかの国には研究開発を禁止したり、貿易とか金融ルールを、「これがニューヨークのトレンドなんだよ(・∀・)ニヤニヤ」という具合で、偏見入っているかもしれないけど自分たちの都合のいい内容にして押し付けたりするのが異様にうまいです。ただくれぐれも言っておきますが私はこんなアメリカが好きですし、ほかの先進国も多かれ少なかれ、「自分のルールに相手を巻き込む」戦略というものを持っていると思えて、これが本来あるべき姿でしょう。
それに対して日本、というか日本人はこうしたルール作りが非常に下手で、思考のスタートからして「どうやってルールに追いつこう」と、自らを大きく限定してしまいがちなところがあります。それこそさっきのライブドアのニッポン放送株買い付け事件も、合法だったにもかかわらず前例がないという理由だけであれほどまで総叩きくらって、日興コーディアルとかオリンパスがあの程度で済んだのに逮捕されて実刑くらうまでに制裁を受けるというのはちょっとやりすぎでしょう。
概して、日本ではやはり保守派が異常に強すぎると言わざるを得ません。社会ルールも競争力があるとか合理性があるとかじゃなく、保守派にとって都合がいいかどうかで決まりがちだと思えますし、新分野を開拓して新ルールを作るなんて以ての外として扱われるでしょう。
もちろん、重ねて言いますが新ルールを作ったり追従したりすることがなんでもかんでも正しいわけではありません。アメリカなんて自らが作った金融ルールによってリーマンショックを引き起こして自滅したわけですし、保守的な姿勢も伝統芸能とかそういったものを守る上ではいい面もあると思います。またなんでもかんでもルール破りを奨励するというのも、紅衛兵じゃないですけどそれはそれで破滅しか招きません。
ではこんなことを言う自分はどんな態度を取っているのかというと、非常に傲慢ですが自分が納得するかどうかでそのルールを守るか無視するかをはっきりと決めております。その為、人によってはどうも異常に従順で安定を求めた生き方をしているようにみられることもあれば、山っ気が強く非常に反抗的な人物と両極端な評価を受けることが多々あります。こうなったのも日本における既存ルール下では不利になる立場であったため、かなり早い時期からルールを作る、もしくは改正する、果てには及ばないところに避難しなければならないという価値観を持ったような気がします。そもそも社会学自体が他の学問では自明とする因果関係をよく疑う学問なあたり、相性が良かったのかもしれません。
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