2013年10月17日木曜日

武田信玄の上洛はなんのため?

 昨夜のNHKのテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」では上杉謙信が特集されておりました。その番組で知ったのですが以前やっていた大河ドラマ「風林火山」の放映以降、川中島の観光イベントにこのドラマで上杉謙信役を演じたGackt氏が毎年ゲスト参加して好評を博しているそうです。ここだけの話、よくドラマで話題性を得るためだけに役者ではなく芸能人を配役することがありますが、「風林火山」における上杉謙信役にGackt氏はベストキャストだったと思え、放映以降の上杉謙信のイメージは今じゃGackt氏以外には考えられません。
 もう少しおまけ情報を入れると、上杉謙信はよく僧形の姿で描かれることがあり、白い頭巾を被れば上杉謙信のモノマネとして通用するくらいイメージが強いですが、「風林火山」における上杉謙信は長髪の痩せた武士の姿、っていうかまんまGackt氏の普段の姿で描かれてます。ウィキペディアの情報によるとこれはGackt氏の提案によって実現したそうで、その根拠というのも「川中島の合戦時にはまだ上杉謙信は出家していない」とGackt氏が主張したことからだそうです。

 また前置きが長くなってしまいましたが本題に移ると、上杉謙信のライバルとくれば武田信玄ですが、前々から納得いかないというか疑問に感じていることに、武田信玄は何故晩年に上洛しようとしたのかという事実があります。そこで今日は現在の説ととともに私の意見を載せてみます。

西上作戦(Wikipedia)

 織田信長にとって本能寺の変を除く人生最大のピンチとくれば、武田信玄が上洛に動いた1572~1573年であることに歴史通なら誰もが頷くでしょう。この時期、信長は浅井、朝倉の連合軍はもとより一向宗、上杉家、毛利家、そんでもってそれらをたきつけた足利家との光線が続いており、それこそほんの一刺しバランスが崩れることで一気に尾だけが崩壊しかねないような状況にありました。
 こんなにっちもさっちもいかない状況に飛び込んできたのが武田信玄です。甲斐を進発すると駿河を経由して途中にある徳川家の城を次々と攻略し、家康本隊も三方ヶ原の戦いで壊滅させております。仮にあのまま尾張にでも進軍していたら織田家は崩壊していただろうと言われますが運がいいというか途中で信玄が病没し、武田家は結局、志半ばで甲斐に撤退することとなります。

 さてこの武田家による西上作戦に対して私が何に疑問を持っているのか一言でいうと、適当な地盤も持たずに遠征を行う価値が本当にあったのかという点です。要するに、この遠征は戦略上、そこまで価値があったのかについて疑問があるわけです。
 確かに当時の織田家は「SAN値!ピンチ!」って言いたいくらいに逼迫した状況下で、武田家が徳川家を破って背面から突きようものなら致命傷を与えることも不可能ではなかったと思います。しかしそれはあくまで仮説であり、、仮に織田家が犠牲を覚悟で武田家に向き合うのであれば勝機はやはり織田家にあったように思えます。

 当時、反織田勢力は一向宗は元気100倍みたいな状況で手が付けられないくらいでしたが、浅井、朝倉の連合軍は1570年の姉川の戦い以降は衰退の一途をたどっております。当時の織田家の戦線が近畿から北陸、東海と広い版図故に長く伸びきっていたのは事実であったものの、仮に近畿地方を放棄して岐阜周辺に兵力を集中させ防衛に徹していれば武田家の兵力に対しても十分対抗できたように思えます。しかも長期戦に持ち込むことが出来たら、この後に述べる補給の点から言っても十中八九の割合で織田家が勝っていたでしょう。

 この補給についてですが、武田家は上杉、北条と同盟し後顧の憂いを断って遠征に打って出ましたが、遠征軍故に補給の問題がかなり大きかったように思えます。ただでさえ信玄の領土は山地が多く米があまり取れない場所で、それに大兵力だったことを考えると長期戦に耐えられるとはとても思えません。
 また仮に尾張まで武田家が進撃できたとしても、本国との距離は果てしなく遠くなり、逆に徳川家の残存勢力なり織田家の別動隊が後方攪乱を行えば一気に瓦解しかねない状況になります。徳川家を完全に踏み潰してから行くのであればまだわかるんだけど。

 要は兵糧というか補給の面でかなり怪しい面が多いと思うだけに、何故信玄がそんな無謀な上洛を行おうとしたのかが理解できないわけです。よしんば織田家を叩いて京都にまで行ったとしても、そこからまたすぐに甲斐に引き返すんじゃ骨折り損のくたびれもうけだし、撃破した織田家の領土を丸ごと得ようったって、果たして短期間でそううまく管理できるのかなとも思えますし。

 このように考えると、信玄は本当に上洛が目的で遠征を起こしたのかも怪しく思えてきます。一説では上洛というよりは徳川家の領土制圧が目的だったという意見もあるそうで、まだこっちの方が隣接地を併呑する形になるわけですから理解が出来ます。

 さっきからなんかうまくまとめきれていませんが、武田家にはもう一つ問題があるというか、織田家と違って武田軍を構成する兵士のほとんどが農民兵です。織田家は戦争のみを遂行する職業兵士を擁することによって度重なる遠征や迅速な移動を可能にしましたが、当時の織田家以外の大名家では半農半兵の兵士が主力で、農繁期は農作業を行う必要があるために戦争を行うことが出来ませんでした。武田家の西上作戦は1573年の4月に信玄の急死を受けて終了していますが、仮に生きていたとしても農作業の予定から言ってあれ以上の期間は軍を動かせなかったことでしょう。

 以上の様に、私の目から言ってあの武田家の遠征は上洛を果たすには穴だらけというか問題があまりにも多すぎます。そのため信玄の目的は上洛して天下に号令を出すことよりも、既に記述しているように徳川家の領土制圧か、織田家に一撃を喰らわせて浅井、朝倉家を始めとする反織田勢力が盛り返すチャンスを作ることだけにあり、織田家を本気で攻め滅ぼすつもりは毛頭なかったのではないかと思います。逆を言えばこの信玄の戦略が読めていれば、織田家はひたすら防衛に徹して長期戦に持ち込むことで逆に武田家を窮地に誘い込むことも出来なくはなかったとも考えられます。

 まとめとしては上記の二つの目的はどちらも信玄の急死、または計画に無理があって果たせず終いで、あの遠征は家康に冷や汗をかかせただけの結果しか作れなかったとしか言えず、評価としてはあまり芳しくない遠征だったと言いたいわけです。それなら目的を絞って、浜松城の完全奪取だけでもやっておけばよかったのにと、結果論からなら言えるわけです。

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