2014年2月17日月曜日

憲法の解釈議論に関する私の意見

 先週はやや更新数が落ちましたが基本的にこのブログは毎日更新です。たまになんでこうも毎日長文をだらだら書いているのだろうかとラップでも口ずさみたくなりますが、それでも続けているということはやっぱりいいストレス解消になっているのでしょう。なお記者だった前職の職場で同僚に、文章を書くことに対して何もストレスを感じないと話したら同じ仕事をしている同僚にすら驚かれてました。

 話は本題に入りますが先日に安倍首相は憲法解釈に会する答弁で、一部分、といっても噛んで含めるように言っていたから曲解ではないと考えるのですが、憲法解釈は総理大臣が全責任を負うと共にその解釈を決める権利がある上、法制局は国の位置機関であって総理の解釈に口をはさむことはできないというような発言をされました。この発言は言い換えるなら、憲法解釈は総理大臣が恣意的に決めることが出来るとも取れる発言、というよりそれ以外に取りようがない発言であり、さすがに自民党内からもこの安倍首相の発言に対して批判が集まったことから安倍首相もこの件に関する話題には敢えて触れないようにしているように見えます。
 この安倍首相の発言に対する私の意見を述べると、あんまり与したくはないけど社民党とか共産党の連中と同じく法治国家の根幹を揺るがしかねないほどの問題ある発言で、やはり座視することはできないと考えたことからこうして記事にしています。もっとも私は日本は法治国家ではなく、程度や志向の差こそあれ中国と同じく役人らのさじ加減でいくらでもルールが変わる人治国家であると前から思っていますが。

 具体的に安倍首相の発言の何が問題なのかというと、総理の判断である程度隙に憲法の解釈を変えられるということになったら、総理が代わる毎に憲法解釈が変わってしまうことです。法律というのは改正されない限りずっと同じ効力を持つからこそ価値があるのであって、ある政権ではOKとされることが次の政権では禁止されてしまっては誰も法律を信用しなくなり、ルールを守る人間は減っていきます。信なくば立たずとはこういう事ですが、これすらもアリだと安倍首相は言ってしまったと私は考えています。
 更に憲法というのは一般的な法律を規制する「法の法」です。法治国家(日本は違うけど)であるならば非常に重要な概念であって、その性格は過去には国王や皇帝、現代においては首相や大統領といった最高権力者の権限範囲を制限するものであって、それが逆に最高権力者によって恣意的に運用されるというのならもはや存在しないといっても同然でしょう。

 なお昨日会った友人は今回の安倍首相の発言について、馬脚が出たというか本音が出たと評していました。その友人曰く、安倍首相はアベノミクスとか経済政策には端から興味なんて何もなく、ただ支持を得るために嫌々やっているにしかすぎず、本当は憲法改正しかやりたくないんだろうとのことで、私もこの友人と同意見を持っております。

 ここで少し話題を変えますが、そもそも何故日本ではこうした憲法の解釈議論が延々と続くのでしょうか。寒くてこのところ体力消費が激しく食事量も80%くらい増えている(体重はむしろ減っている)状態なのでもう結論を書きますが、憲法の定義にどうあってもそぐわないほど現状が変わっているにもかかわらず憲法改正が難しいという一点に尽きると私は思います。
 はっきり言ってしまえば自衛隊は英語だと「Self difense force (SDF)」と書く辺りからも明らかに軍隊であるため憲法違反だし、成人の年齢規定でも少年法との兼ね合いから言ってもはや有名無実化していると私は考えます。ただこれらの憲法違反は成立した直後の状況と現状があまりにも乖離しており、現状の課題を克服するためには必要な憲法違反であると私は考えており、社会を有益にさせる憲法違反であるならばもういっそ憲法自体を変えてしまった方がいいと考えることから改正派の立場を以前から取っています。

 然るに何故日本の憲法は改正されないのか。理由は単純に言って日本の憲法は改正するまでの条件が厳しい硬性憲法であるからです。国会で三分の二以上の改正同意が必要であること、国民投票で過半数の賛成が必要なことというこの二条件が主なハードルでありますが、なかなか改正できないにもかかわらず現状の課題に対応するためには無視するしかないため、「条文は同じだが解釈を変える」という、如何にも日本人らしいしょうゆ臭い妙な価値観でこれまでやり過ごしてきました。
 しかしこの解釈を変えるという手段ですが、逆を言えば解釈次第でどうとでもなる悪しき前例を作っていると言っても過言じゃありません。極論を言えば今の状態ならば解釈次第で日本は宣戦布告することすらできるのではないかと見ております。

 ちょっと前置きが長かったかなと反省してますが私が何を一番言いたいのかというと、改正することが難しい硬性憲法では解釈主義に走りがちとなり憲法は有名無実化しやすく、それであるならば改正しやすい軟性憲法に変えた上で解釈主義を徹底的に排除するべきではないかということです。現状では解釈次第でなんでもかんでも実行できかねない状況で、かといって一切の条文違反を認めないとなると国政が滞るのは目に見えています。ならば後世の判断に任せるという意味合いでも、憲法改正手続きの条件を緩和する代わりに一切の条文批判を認めない、敢えて私の言葉で表現するなら「縛りの緩い硬性憲法」から「縛りのきつい軟性憲法」へと変えるべきだとここで主張します。

 なんで軟性憲法にした方がいいと私は主張するのかというと、硬性憲法において悪しき前例を過去に見ているからです。それは19世紀に成立したある国の憲法ですが、国家元首から国民へと与えるという欽定憲法という形で発布したため、不可侵性を持つ憲法として改正されることはタブーとされた憲法でした。それによって何が起きたかというと現代日本と同じく解釈主義に陥り、それ以前は全く問題とされなかった条文が解釈変更によって強い拘束性を持ち、やれ天皇機関説とか統帥権の干犯だとか、政治闘争のための批判材料として無意味な抗争のために散々利用されることとなりました。決して誇張ではなく、誰も言わないから自分が言うけどだから滅んだんだよこの国は。
 もちろん軟性憲法であればそれはそれなりにデメリットはあるでしょう。しかし日本の曖昧で適当な解釈に走りがちな民族性を考慮すると今の硬性憲法はリスクが高すぎるように思え、それであれば安倍首相が現在提唱しているように、国会での憲法改正動議の条件を現状の三分の二から過半数へと緩和する方がいいように思えます。安倍首相を批判しているのか持ち上げているのかよくわからない記事となったなぁ。

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