昨日にブログを更新しようとしたらいきなり部屋のブレーカーが落ちて停電となり、パソコンを起ち上げることが出来ませんでした。すぐに電気関係の人には来てもらって一部コンセントにつながる配電に問題あるとして、明かりはついたもののパソコン用のコンセントが駄目だったので結局あきらめました。不思議なのは今朝になったら、問題の配電部分にあるブレーカーが元通り起ち上がって普通に使えるって点なんだけど。
あと金曜日も更新をサボりましたが、これは上海に仕事で行って虹橋駅から鉄道で昆山まで帰ろうと六時に駅についてチケットを取ったら、残っているチケットが9時半のチケットしかなく、帰宅したのが10時半くらいだったためです。にしても上海~昆山間20分強の電車に乗るのに3時間待ちっていうのもなぁ。この間平気で待てる自分も中国時間に慣れたもんだ。
話は本題というか前回記事の続きです。前回記事で私は、日本人は「努力=苦痛」と考えている節があり、苦しい体験を重ねることこそが努力だと考えるあまりにトレーニングなどにおいて効率を無視したやたらめったら苦しいだけの練習メニューや回りくどい煩雑な手続きを選んで採用してしまう傾向があるのではと主張しました。逆に、能力向上において効率的で時間が短縮できるメニューは努力しているどころかサボっているとみなし、むしろ敬遠してしまっているところもあると考えております。
こうした情景は中学高校の運動部系部活動に多くみられ、また実社会においても上司が部下に対して簡単に解決できる方法を知っておきながら敢えて教えず、回りくどいやり方で仕事を課したりするなどの点でも見られ、さらにはそうした下積みならぬ無駄な努力を大事な経験として尊重しているように私には見えて仕方ありません。こうした行為は何故起こるのか、一人でじっくり考えてみたところ共通するワードというかセリうに「お前のためを思って敢えてやらせているんだ」というセリフが浮かんできました。
このセリフの意味というのも、「効率の悪い、間違っているやり方だとわかってはいるものの、こうした苦労が後に生きるから敢えて課しているんだ」という意味合いで、要するに相手のためを思っての行為だということを何故か毎回主張しています。私自身もこういう不条理な苦労を強いられた経験が何度もあるしそれに対して抗議してきましたが、そうすると決まって「お前のためを思って」という言葉を言い返され、詭弁だろうと内心では思い続けてきました。しかもこういうセリフを言う奴に限って、自分だけ得すればいいと考えている奴が多いし……。
ここで私が何を言いたいのかというと、相手のためになるのであればどんな苦労を強いても構わないという不文律が日本社会に蔓延していると思います。それどころか、「苦労を強いるのは相手のためになる」と言ってもよく、むしろ率先して強いるべきだなんて考える人間もいるような気がします。効率のいい正解の方法が確立されているにもかかわらず敢えて教えず、「自分で正解を導き出す過程が重要だ」等と言って何も指導しないとか、漫画などに出てくる体を壊しかねないトレーニングを詳しく検証せずに部員に課したりなどと、こういう行為が行われる背景には必ずと言っていいほど「お前のため」というセリフです。
最初考えた時はここら辺までが一つの仮説かなと考えて結論をまとめるつもりだったのですが、ふと思案を巡らしている最中に、突き詰めればこうした「苦労を強いるのは相手のため」という妙な信仰こそが日本人のいじめ行為の根源ではないかと思いつきました。
何故いじめは起こるのか、この問いは長い間議論され続けているものの未だに私は得心する回答どころかまともな仮説すら見たことがありません。そんな自分にとって「相手のためになるのだから何をしてもいい」とする行動原理はいじめをする人間の大きな皇帝材料になっていると思えるだけでなく、彼らのセリフの端々にもそれを感じさせるものがあるような気がします。部活動の上級生から下級生の死後気においても、「こういうしごきがあったから今の俺たちがいる」とか、「苦しいからこそ乗り越える価値がある」などという自己弁護じみた言葉がよく聞こえるようですし、同級生同士のいじめでも「パシリにするのもあいつのため」なんてセリフがなんか聞こえてきそうな気がします。
しかしいうまでもなくいじめ行為というのは相手の為でもなんでもなくいじめる側にとって都合のいい行為でしかありません。しかし最初に挙げた「苦痛=努力」こと「なんでもいいから苦労することはいいことだ」という概念が妙な肯定材料になって、こうしたいじめが日本に蔓延する要因となっているのではと私は言いたいわけです。その際、相手のためになるかどうかはいじめる側が恣意的に判断できるのですが。
結論を述べると日本人はこういう妙な「苦労することはいいことだ」、「苦労を乗り越えた先に価値を得られる」という信仰を早く捨てるべきでしょう。かなり昔に私は苦労にも二種類あり、必要な苦労と無駄な苦労があると主張しましたが、日本における苦労は大半が無駄な徒労です。逆に必要な苦労ほど注目もされず、また邪道なやり方として批判される傾向があった気がします(一昔前のウェイトトレーニングなど)。こうした信仰は早く捨て、成長にためには「正しい選択こそ重要」という価値観を得ない限り、いじめも案外なくならないんじゃないかと勝手に思っている次第です。
おまけ
体育会系のしごきに対して猛批判をしている人物の一人に元巨人の桑田氏がおります。実際に桑田氏と同年代のPL高校出身者はみんな口をそろえて、「桑田さんは一切自分たちをいじめなかった」、「しごきとか全くなかった」と話しており、昔からフラットな考え方を持っていた人物だったんだと私も陰ながら評価しております。
ただちょっと気になる点として、桑田氏と同学年でPL高校野球部に在籍した清原選手に関しては何故か誰も桑田氏みたいな印象を述べる人がおらず、同時期なのに誰も言及しないのが返って怪しいと思ってたりします。まぁ想像はつくけどさ。
4 件のコメント:
私思うにですが、その手の肉体的・精神的シゴキとかが、
蔓延する背景には「やる側の人間自身」の自信の無さの裏返し
ではないかと思っております。
「俺はこれに耐えて今の地位を得たんだ!オレってエライだろ?」とか、
「オレって本当は怖いんだぞ!だから尊敬しろ」ってなヤツです。
それでもって、この連鎖です。
ついていけない人間は辞めることで淘汰され、
服従したものだけが生き残るという結果を生み出します。
これが後に派閥形成を成して派閥ピラミッドを作り上げていくワケです。
ただこれは年功序列という絶対的担保があってこそ成立するシステムで、
欧米型の絶対的成果主義が導入されるようになってくると、
自分が生き残ることだけで精一杯になるので学校の後輩だろうがなんだろうが、
人になんか構っていられない切迫した事態を引き起こしていくことになります。
一人を育てるということは逆に今では自分の淘汰を意味します。
企業は若くて仕事ができてかつ給料の安い人材だけが欲しいので、
「用済み」の人間は貢献度に関係なく容赦なくリストラしていきます。
ましてや結果が出ないとなれば尚更でパワハラが即命取りになります。
というか現在、そういう状況が実際に起き始めています。
ただこれはこれで大問題を孕むことになっていて、
自分の周り全員が敵という状況を作り出し、
かつて日本の企業でしかあり得なかった独特の
チームワークシステムの崩壊を意味します。
そのプロセスを現在リアルタイムで観察しているワケですが、
最終的には、実際のところどういう人が残っていくのか?
いや結果的に秩序の崩壊が組織そのものを衰退させてゆくのか?
観察テーマとしては結構面白いネタではないかと・・・思っております。
それにしても花園さんの着眼点は本当に面白いですね(^^)
つい昨日に、警察官に就職したものの警察学校内の訓練中に3割くらいが辞めてしまう、しかも辞めていくのは警察内部の腐敗に憤りを感じ様な正義感の強い人ばかりで上司に迎合する人間しか残らない、という話を読んだばかりなのでなかなか意義深く感じます。
潮風大志さんの言う通りにこの記事で書いた様なしごきの類は年功序列制とセットになっている部分が自分も大きいと思います。しかし年功序列制ももはや完全に崩壊しており、それだけに自分のような「これっておかしくね?」という人間も出てくるようになったのかも。
しかししごきの部分を抜きにしても、仰るとおりにこのところの日本の雇用環境はかなりめちゃくちゃな状態じゃないかと言われて思います。指導する側も始動される側も何すりゃいいか混乱しているように見えるし、企業内での団結はもとより個々人としての幸福追求もあいまいで、仕事を行う価値観がなんか埋没しているような。また思いつくことあれば、この手のテーマで記事を書いてみますね。
今度、タクシーにて帰りましょう。
なんかよくわからんがまぁタクシーのろか。
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