自分は男なのでもちろん女性用下着をつけることはありませんが、知り合いの女性に「ワコールってどんなん?」って聞くとほぼ必ず、「高い。けど確かに質はいい」という答えが返ってきます。そんなワコールの下着は中国のお店にもよく並んで広告も見たりしますが、やっぱりこっちで売られてるのも高いです。
・塚本幸一(Wikipedia)
そんな日本の女性用下着メーカーの代表たらんワコールを創業したのは上記リンク先にある塚本幸一です。ワコールの創業は戦後の1946年に塚本が「塚本商事」を設立したことに端を発しますが、日本では明治維新後、日清日露戦争後、二次大戦後がいわゆる創業ブームに当たって現在を代表する多くの大企業が生まれており、このワコールもその例に洩れません。
ワコールを創業した塚本幸一は生まれこそ宮城県仙台市ですが育ちは滋賀県の東近江市で、両親はこの地域に多い繊維問屋を商っておりました。なお豆知識ですが関西商人と来ると関東の人は大阪の人を思い浮かべがちであるものの、真の意味で商売がうまい関西商人とは紛れもなく近江人こと滋賀県民で、滋賀にルーツを発する創業家は実は多かったりします。
塚本は1920年の生まれなのですが、この時代に生まれた日本人男子の宿命として二次大戦にも従軍しております。ただ塚本の場合は一線を画していたというか、あの忌まわしきインパール作戦に従軍しておりました。インパール作戦については以前に記事にした「猛将列伝~宮崎繁三郎」の中で気合入れて説明しておりますが、二次大戦中に日本軍が体験した戦闘の中でも最も熾烈且つ苦難に満ちた戦いで、従軍した兵士はいい加減な作戦を強制された上に補給もなく、文字通り全滅に近いほどの大損害を受けました。
塚本はその熾烈な戦いを無事生き残り帰還することが出来ましたが、彼が所属した小隊では全55人中で生還者は塚本を含めわずか3人しかいなかったとのことで、塚本自身もこの体験を後年に至るまで深く影響を受けたと述べており、「自分は生き残ったというよりは生かされたのだろう」などと振り返り、どうせ拾った命とばかりに安定を求めず起業したと回想しています。この辺はダイエーの中内功の話しとも共通します。
こうして日本に帰国後、起業した塚本ですが、取り扱う商品は恐らく両親が繊維問屋を営んでいたという影響もあったのでしょうが女性用アクセサリーから始めました。当初は細々とした商売だったものの、1949年に取引先からこれからは西洋の衣装が流行るとブラ・パットを持ち込まれたことから転機が生まれます。これは売れると考えた塚本はパットを固定するための紐をつけてブラジャーを開発し、従業員や生産工場を整備した上で現在のワコールの源流が出来たわけです。
当時の塚本の状況について昔にテレビ番組で特集が組まれていたのを見ましたが、中内功が「物がたくさんあるということが豊かなことだ」と主張したのに対して塚本は、「女性が美しく着飾れる時代こそが豊かな時代だ」として女性用下着・衣類の生産販売に従事したとのことです。どちらも成功した後から格好いいこと言っただけなんじゃないかと思うものの、両者ともに凄惨な戦争体験を持った上で話しており、なおかつ「豊かさとは何か?」を述べているのは現代人とは別の哲学を持っていると感じます。あと創業間もない塚本についてその番組では、「奥さんと共に毎日ちゃぶ台でブラジャーを弄り、ああでもないこうでもないなどと商品開発にいそしんだ」などと取り上げてて、周囲からはやっぱ変わった人みたいに見られてたようです。こっちは日清食品の安藤百福とおなじだな、向こうのが明らかに変な人だったけど。
話は戻りワコールの成長史ですが、ブラジャーの販売を始めたもののやっぱり当初はうまくいかず、初年度には赤字も在庫もかさみいきなり大ピンチを迎えます。さすがに塚本も憔悴していたそうですがここから妙な負けん気を持ち出して、まだ従業員が9人しかいないのに、「今後50年で世界制覇だ」とばかりに、五ヶ年計画成らぬ五十ヶ年計画をぶち上げます。そのやる気が天に届いたのか徐々に業績は拡大していきますが、1962年には労働争議が起こり生産も停滞化します。ここでも塚本はまた妙なやる気を出して、「わかりました、それじゃあこれからは労組の要求を100%飲みます」なんて言い出し、逆に労働組合の方が焦って塚本の提案受け入れを渋ると、「やるかやらないか、やる時はすぐ決めるんだ!」と怒鳴り返して争議をまとめたという、自分も今まで聞いたことのないような荒業をやってのけてます。
その後も折に触れてワコールの苦難はたびたび訪れ、自分は生まれてないのでわかりませんが1970年にはユニセックスなどの思想が入ってきて「ノーブラ運動」が起こり、売上げが一気に減少したそうです。ただこの時も塚本は強気に、「落ち着け、この流れは一時的だ」と主張して社内の動揺を鎮めます。どうでもいいですが、現代において「ノーブラ運動」を女性から提唱しようものなら痴女みたいに見られるでしょうが、男性からは深い支持を得られそうだ。
その後、ノーブラ運動は塚本の予想通りにしぼみはしましたが、今度は1973年にオイルショックが起こり原材料費が一気に高騰します。ここで塚本が取った行動はまたも破天荒な、「お値段据え置き」こと、値上げ凍結でした。ほかの物価が高騰する中で従来価格を維持したことからワコールは大きな支持を得ましたが、その背景では徹底的なコストカットに取り組んでおり、こうした経営体験が「失われた十年」という不況を越え続く現代のワコールの原動力になっているかもしれません。もっとも現代では冒頭に述べたように「ワコールの下着は質はいいが高い」と認知されてますが。
度々の危機を潜り抜けた塚本は1987年に社長職を退任しますが、その後も京都、並びに関西財界で有力人物として振る舞い、松下幸之助とも親しく付き合っていたそうです。中でも笑えるのは京都府知事をしていた蜷川虎三とのエピソードで、内心では認め合っていたようですが何故か顔を合わすと仲が悪く、塚本はわざわざ玄関に虎の毛皮を敷いて通るたびに3度踏んだり、蜷川も蜷川で塚本のことを「女のふんどし屋」などと呼んでいたそうです。恐らく、本当は仲が良かったんじゃないかなぁこの二人。
なお「ふんどし屋」というワコールの呼び方ですが、これは実際に今の京都人も「パンツ屋」などと呼んでいます。京都は新参者に厳しい風土があり任天堂も「花札屋」等という蔑称をまだ受けています。京都のお菓子屋の組合に所属するには「創業100年以上」という条件があるそうで、ワコールも任天堂ももうちょい年期経たないと認めてもらえないかもしれません。
塚本に対する私の評価を述べると、なんだかんだ言いながら女性用下着一本を貫き通して社業を成長させたことと、「ワコール」というブランドを日本はおろかアジアにまで広げたその手腕は疑うものがありません。また個人的にワコールという会社が行うマーケティング調査というのがなかなか面白く、以前に見た物だと「胸を小さく見せたい女性は少数ながら存在する」という結果から胸を小さく見せるブラを作って成功したり、都道府県別平均バストの統計を作ったりと、こういってはなんですが視点が非常に面白いです。
会社の歴史というか塚本の決断を見ていると全体的にユニークな印象を覚え、それがしっかり会社哲学に根差したことこそがワコールの強みだと個人的に思える次第です。
参考文献
「実録創業者列伝」 学習研究社 2004年発行
2 件のコメント:
ワコールはなぜ男性用下着を発売しませんか?
企業聴取願います。
高い値段で売れへんからやろ。
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