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2015年2月15日日曜日

創業家列伝~島津源蔵(島津製作所)

 長らく期間が空いての連載再開です。なんでこんなに期間空けたのかというと昨年末にかけて「企業居点」の編集作業が忙しかったことと、この編集作業を終えた後も先月は派遣マージン率を陰で調べていて下調べのいるこの連載はなるべく後回しへとされてしまっていました。まぁこの連載記事はある意味で、「腐らない記事」のため、ささっと書き溜めておくに越したことはないのですが。
 そういうわけで今日取り上げる人物ですが、精密機械メーカー大手で過去にはノーベル賞受賞者(田中耕一氏)も輩出した島津製作所の創業家、島津源蔵を取り上げます。どうでもいいですが「源蔵」という名前を見ると「SGGK」と呼ばれるあの人物が真っ先に私の中で浮かんできます。

島津源蔵(2代目)(Wikipedia)

 島津製作所の創業者、というよりは立役者の島津源蔵は1869年に京都府木屋町で生まれます。父親も同じ「源蔵」という名前で扱いとしては初代島津源蔵と呼ばれていますが、京都の鍛冶屋で明治8年からは標本を初めとした学校用品の製作を始めて後に法人化し、島津製作所と名乗るようになります。
 なおこの島津という名字についてですが、薩摩藩で有名な島津家に由来すると言われております。ただその由来については諸説あり、手元の「実録創業者列伝」では先祖は黒田家の重臣だったが関ヶ原から敗走してきた島津義弘の九州への引き上げを世話したことから島津姓を賜ったと書かれてありますが、私が以前に聞いた話だと元々は街道沿いの旅籠を経営しており、参勤交代で利用した薩摩藩がそのもてなしぶりを評価して島津姓を許したという逸話でした。このほかにもまだまだあり、あまりにもはっきりしないので内心では薩摩の島津家とは関係ないのではと密かに考えています。

 話は戻りますが島津源蔵(2代目)の幼少期は非常に貧しく、教育熱心なことで有名な京都にいながら小学校には二年間だけ通って退学しています。しかし向学心が高く勉強熱心だったらしく家業を手伝う傍らで独学を続け、19歳の時には京都師範学校に招かれその後5年間教壇に立ち学生を指導しています。1894年に初代島津源蔵が亡くなると会社を引き継ぎ、実質的に現在の島津製作所はこの時にスタートしたと考えてよいでしょう。

 島津製作所のエポックメイキングが起こるのは源蔵が社長を受け継いだ2年後の1896年で、この時に島津製作所はその前年にレントゲンが世界で初めて成功したエックス線による撮影、所謂レントゲン撮影を日本で初めて成功させます。今の様に通信技術が整っていない時代、ましてやまともな研究設備にすら事欠く日本国内の環境で世界最新の技術を再現してみせたというのは私の目から見ても脅威というよりほかなく、また現在にも続く島津製作所の医療検査機器事業はこの時始まったのかと思うとなかなかこみ上げてくるエピソードです。

 この医療機器事業に続き島津製作所が後に主力とする事業はその翌年、1968年にエポックメイキングが起こります。この年、島津製作所は京大から外国製の見本を供与され、蓄電池の製作を依頼されます。見本もあったことからあっという間に依頼に応え製作を行い、それをきっかけに全国からも同じ蓄電池の製作を依頼されるようになったため源蔵は蓄電池生産を本格的に事業化させていきます。
 蓄電池事業は当初でこそ10A時の小さな電池からスタートしましたが研究に研究を重ね、1904年には150A時の据置用蓄電池の開発に成功します。この時開発された電池は軍にも採用され、日露戦争でバルチック艦隊を発見しあの有名な「敵艦見ゆ」の信号を発した信濃丸の通信機に取り付けられていたそうです。

 この日露戦争のエピソードもあって「電池とくれば島津製作所」と呼ばれるまでに評判を上げ、1908年からは電池規格を作り大量生産化に取り掛かります。この時に自社製電池のブランド名として源蔵は自分のイニシャルである「GS(Genzo Shimazu)」という文字を用い、「GS蓄電池」という商標を使い売り出します。
 察しのいい人ならわかるでしょうが、この「GS」という言葉は現代にも受け継がれています。島津製作所は1917年に電池部門を分離独立させ「日本電池」という会社を設立しますが、この日本電池は2004年に同じ電池大手の「ユアサコーポレーション」と合併し、現在の「ジーエス・ユアサコポーレーション」となるわけです。最近保険大手が合併して長ったらしい変な名前になってますが、そういうのと比べるとブランド名を利用したこのGSユアサの命名はなかなか語呂が良くて悪くないと思えます。

 島津製作所の電池事業は後の第一次世界大戦でドイツとの国交断絶に伴いドイツ製の輸入が止まったことでさらに受注を伸ばしていくのですが、この電池の生産には鉛粉こと鉛酸化物が必要でした。島津製作所は電池の生産では日本国内随一となりましたが生産に必要な鉛粉は日本製だと品質が不均一なため、主に高価な海外製を輸入して使用していたそうですが、どうにかして国産化できないと源蔵は考えていようです。
 鉛粉とはその名前の通りに鉛を粉末化すれば出来るので何とか粉末化させようと源蔵は自らあれこれ実験し、回転容器に鉛球を入れグルグル回すと鉛粉が生産できるところまではこぎつけました。だがこうやってできる鉛粉は品質が相も変わらず不均一で使い物にならず、どうしたもんかと解決策に悩んでいたところ鉛投入孔にやけに良質な鉛の塵こと鉛粉が溜まっていることに気が付き、ここから着想を得て送風させながら回転容器を回すことで非常に質のいい鉛粉、亜酸化鉛を高い効率で生産することに成功します。この製法は当時世界初で、電池製造の分野で一気に島津製作所をスターダムに持っていきました。

 ただこの亜酸化鉛の製法の特許を巡ってはちょっと一悶着があり、英国とフランスではすぐ取れたのに対し何故か本国の日本では、「物理学上の発見であって技術上の発明ではない」として、なかなか特許の認可が得られなかったそうです。日本らしいっちゃ日本らしいけど。
 さらにもう一つエピソードを付け加えると、島津製作所はこの時出来た亜酸化鉛から防錆剤を作りだし、当初は日本電池で売り出してましたが途中でまた分離独立化させ、「鉛粉塗料株式会社」を設立し、この会社はその後他社との合併などを経て現在は大日本塗料株式会社となりました。

 以上が島津源蔵の主な経歴ですが、書いてて感じたこととしては「一体この人、何社の設立に関わってるんだろうか」という底の知れなさです。現代でも認知度の高い大手企業の創業に何らかの形で関わってることが多いし、またどれも自身の発明をとっかかりにしている点で実に恐ろしいまでの才能の持ち主です。経営者のタイプとしては典型的な発明者型ではあるものの、複数の業界大手企業を設立していることからただ技術が高かっただけでなく発明品を事業化させる才能も桁違いに高かったのではと私は評価しています。

 知ってる人には有名ですが京都にある大手企業はどれも知名度、業績はよくても従業員(+取引先)にとってはブラックな会社であることが多いというかほぼ全部そうなのですが、この島津製作所に関しては真面目にそういう悪い噂はほとんど聞かず、私の就活中なんかは「京都企業の良心」などと呼んでいました。実際入社して働いたわけでもないのにこのように言うのもどうかなという気がするし島津のポンプメーカーの人に聞いたら、「実際中はそんなでもないですよ」という証言も得られましたが、先ほど出てきた田中耕一氏の会見を見ている限りだとやはり一線を画す社風だと覚えます。
 というのもノーベル賞受賞の発表があってすぐ社内で開かれた会見で田中氏は、背広ではなく普段通りの作業着で会見に臨んでいました。ただ単に背広を準備する時間がなかったり田中氏の個人的な好みなだけだっただけかもしれませんが、ああした会見にも普段通りの作業着で臨まれるという会社はやっぱり一味違うと思うし、技術というか現場を第一に考える社風なのかなという印象を覚えます。まぁそれ以上に田中氏の人柄が非常に素晴らしかったの一言に尽きますが。

 最後に蛇足ですが、島津製作所製蓄電池が取り付けられ日本海海戦で軍艦三笠に対し重要な通信を送った信濃丸ですが、実はこの船はその後の二次大戦中にも兵員を南方へ運ぶ運搬船に使われ、その時に運ばれた兵員の中にはあの水木しげる氏もおりました。当時としても竣工から30年以上経過しており乗船した水木氏も、「えー、あの信濃丸がまだ動いてんの!?」と驚愕したそうですが、大半の輸送船が途中、米軍の攻撃によって撃破される中で無事に任務を果たし終戦後まで沈没せず生還を果たしました。
 さらに続けると水木氏は終戦後に日本へ復員する際、開戦から終戦に至るまで主要な海戦ほぼすべてに参戦し、他の艦船がほぼ全滅した中で生き残り「不沈艦」とまで号された駆逐艦「雪風」に乗船しております。こうしてみると水木氏は行きも帰りも気違いじみた強運に守られた船に乗っており、彼にはある種、幸運の女神ような何かが始めからついて回っていたのかもしれないとこの記事書きながら思いました。


  参考文献
「実録 創業者列伝」(学習研究社) 2004年発行

4 件のコメント:

若生わこ さんのコメント...

島津製作所には野村克也さんのお兄さんが勤めておられたそうです。
なんでも中卒で丁稚にいかされる予定だった弟のためにお兄さんが
「大学には進学せず働くから克也も高校に行かせてやってくれ」と母に頼みこみ就職したとか。

それがなければ野村さんは恩師である清水義一さんとの出会いもなく、プロ入りできていなかったかも知れない。そうなると日本の野球技術の発展が大きく遅れていたかも知れない…。
などと考えてみると運というか、運命が味方についている人とはどんなに恵まれていないように見えても、人の縁に恵まれているのではないか?と思ってしまいます。
水木先生もきっとそうだったのではないでしょうか。もちろん運だけでなく努力を怠らなかった面も大きいとは思いますが。

花園祐 さんのコメント...

 人に歴史あり、会社に歴史ありですね。
 水木しげる氏のエピソードでもそうですけど、意外な所で意外な者同士が関連をもって、それが後に大きな影響を及ぼしているというのを知るというのは歴史を学ぶ醍醐味です。この島津製作所のエピソードも然りで、野村克也氏がいなければ日本の野球は10年は遅れてたでしょうし、やはりそういう運命めいたものがあったのかもしれません。

上海忍者 さんのコメント...

島津製作所は受注を獲得する為に、入札段階で中国石油に賄賂をあげたそうです。
ご存じでしょうか?

花園祐 さんのコメント...

 日本の大手企業で中国国営企業に賄賂を渡してない会社はまずないんだから、島津に関しては大目に見てやってや。けっこう買ってるねんこの会社。