2016年4月6日水曜日

中国史におけるミスター転職

 日本で多くの主の間を渡り歩いた人物とくれば藤堂高虎が有名で、彼が主にした主だった人物を上げても浅井長政、羽柴秀長、豊臣秀吉、徳川家康など、戦国時代全体を通してもこれだけビッグネームな人物たちの下にいたのは他にはいません。本人も、「武士は七度は主を替えねば武士とは呼べぬ」と豪語しており、自らの転職歴を忠義心のない行為だとは考えずむしろ誇るように話してたそうです。
 彼ほど転職を繰り返して成功した歴史人物は恐らく日本において他にはいないでしょうが、海を渡った中国には確実に彼を上回る、みていて何や年と思う人物が一人いるので今日はその人を紹介しようと思います。

馮道(Wikipedia)

 馮道(ふうどう)とは中国の唐王朝が滅んだ後の五代十国と呼ばれる、具体的には10世紀頃に活躍した人物です。彼のいた五代十国時代は長く中国を治めてきた唐王朝が滅んだことによって中原に異民族が多数侵入したことによって混乱が起き、軍閥が各地を支配するようにもなり、新たな王朝が生まれては消え消えては生まれを繰り返して最終的には五つの王朝と、その王朝に組み込まれない十ヶ国が誕生したことをもじって五代十国と言い表すようになりました。

 馮道は当初、北方に興った燕の国で文官をしていましたが外交戦略で主君を諌めたところ幽閉されます。しかしその後で燕を滅ぼして後に「後唐」という王朝を作る将軍に評価されたことによって幕臣に迎えられますが、その将軍が殺された後はその身内に付き、その身内も死んだあとは一旦は左遷されます。
 その後、後唐が滅んで後晋という王朝が起こり、新皇帝は左遷されていた馮道を宰相に抜擢して外交を任せられますがその皇帝が死去するや再び左遷されます。しかし使者として訪れた異民族王朝の「遼」の皇帝が後晋を滅ぼすと馮道は再び召し出され、またも宰相に任命されます。

 しかしその遼も中原を長く支配することが出来ずに北方へと帰還することとなり、その過程で馮道を抜擢した皇帝が死去したため馮道は再び中原へと戻ります。中原ではまた新たな王朝の「後漢」が興っておりそこでまたまた馮道は召し出されて宰相に任じられますが、この後漢も反乱軍にやられて敢え無く滅亡し、今度は「後周」という王朝が興り、そこでもまたまたまた馮道は採用されて、その後死去するまで仕え続けました。

 馮道の最終的な経歴は「五朝八姓十一君」になると言われ、これは「五つの王朝、八つの一族、十一の主君」に仕えたという意味なのですが、一つや二つでも大変なのにこれだけ多く、しかもその大半を宰相という事実上の最高職で勤め上げたのですから彼以上の転職上手はまずこの世にいないでしょう。
 この馮道の波乱万丈な人生については古来より盛んに議論されており、忠義心のない人間だ批判する者もあれば、時代を考慮すると批判はできずむしろその才能を如何なく発揮したとかばう者もおり、彼は国や皇帝に仕えたのではなく中華圏の文化やその人民に仕えたと評価する人もいます。

 私の彼への評価は言うまでもなく三番目の考え方で、実際に遼の皇帝が中原に侵入してきた際は漢人を悉く虐殺しようとしたところを必死で諌めて止めており、国破れて山河ありを実践したと思う人物です。私自身も転職が多いというか日本人の感覚からしたらかなりイカれた人生を送っていますが、これは私自身が望んだというよりそういう渦に巻き込まれたと思う節があるだけに、この馮道はその渦を見事にさばき切ったんだなぁと見ていてしみじみ思うわけです。

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