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2016年12月13日火曜日

中国で唯一の女帝

 作家の塩野七生氏がヒラリー・クリントンの大統領選敗退について、「自分でガラスの天井がどうとかだなんて言うからだよ」って具合で辛辣に言ってて笑えました。でもこの発言、男が言ったら言ったで問題になる辺り、ガラスの天井がってとこなんでしょう。
 なお中国では女性の社会進出はかなり当たり前で、企業の経営者とかでも確実に日本より多くいます。政治の世界では男性が依然とメインですが、私が見る限りだと恐らく米国よりかは最高権力者に女性が来ても中国人は抵抗感を覚えないのではという気がします。ただ過去の歴史で言えば日本は何人も女性天皇が出ているのに対し、中国で女性の皇帝はただ一人だけです。

武則天(Wikipedia)

 上のリンク先は武則天と書いていますが変換が面倒くさいので則天武后でこの記事は通します。

 則天武后とは唐の時代、「王の中の王」とまで言われた中国屈指の名君と謳われる二代目皇帝太宗の側室として歴史の表舞台に出ます。元々、隋唐時代の貴族の娘として生まれ幼いころから機転が効く美人だったため側室となったのですが、どういうわけか後宮入りした後で皇太子に見初められ、太宗が死んだ後は太宗の側室は全員尼にならなければならないところをどうにかこうにか書類とかをごまかすことで尼にはならず、帝位を継いだ皇太子こと三代皇帝の高宗の側室にクラスチェンジします。

 当初はあくまで数ある側室の中の一人という立場でしたが、ちょうどそのころに高宗の正室である皇后と寵姫が後宮内で対立しており、皇后側が寵姫に対抗するため則天武后を自分の派閥に引き入れたことで寵姫陣営は徐々に勢力を失って行ったのですが、頭の回る則天武后は皇后をも追い落とし、自らが高宗の皇后の座に取って代わってしまいました。
 なお元皇后を追い落とした際のエピソードとして真偽不明ながらも、則天武后が生んだ子供を元皇后が見に行った直後、則天武后は自ら自分の子供を殺し、子供が死んだのは元皇后が毒殺したせいだと訴えたためという話があります。本当にこんな話があったのかはまだわかりませんが、則天武后が気が強く野心深い性格であったのはその後の人生を見る限り間違ってはいません。

 話は戻り見事皇后の座についた則天武后は自分の生んだ息子を皇太子に据え、政治に興味のなかった高宗に代わって摂政のように政治を自らが動かしていきます。この則天武后が治めた時代に大和朝廷が朝鮮半島で行った最後の決戦の白村江の戦いが起こっており、この戦いを制して朝鮮半島の支配権を唐が確立しています。
 その後、旦那の高宗が死に息子の中宗が継ぎますが頼りないので一旦廃位させ、その後は下の息子の睿宗を帝位に継がせますが、やっぱり途中で頼りなくなったのでこの際だからといって自らが皇帝となり、国号も「唐」から「周」に変えさせました。

 こうした則天武后の専横に皇族などからも反乱がおきますが片っ端から鎮圧され、でもって危険だと思った奴は片っ端から処刑していき、権力を固めていきました。しかし則天武后の場合、刑罰や粛清は苛烈ではあったもののこれと思う人材は出自を問わず採用していき、その中からは名臣、名将と呼ぶに相応しい人物が何人も現れたため、宮廷内はおどろおどろしながらも国全体で言えば政治的にも非常に安定して平和を保ち続けました。
 よくコップの中の嵐と言いますがまさにこの時の唐の宮廷がそうで、コップの外の国全体は平穏を保っていたため、女性でありながら簒奪を行ったにもかかわらず則天武后に対しては比較的中立的な評価がなされることが多く、現代においても主人公のドラマがよく撮影されるほど、「性格はあれだけど政治家、皇帝としては有能だった」という評価は揺るぎません。

 最終的には重臣らに半ば脅迫される形で一度は自ら廃した中宗を次の皇帝に指名したことで「周」は一代限りの国として終わりますが、それ以前もその後も中国には女帝が出ていないことからも、彼女が中国史においても稀有な人物であったことは間違いないでしょう。

 なんで今日にこんなメジャーな人物を取り上げようかと思ったのかというと、もし則天武后をわかりやすい例えに持ってくるとしたら何がいいかなと思い、京都の和菓子屋辺りがいいのではと思いついたからです。
 話としては、老舗の和菓子屋で正妻と内縁の妻が対立を起こし、先代の当主が手を付けていた頭のいい女中を正妻が自陣に引き入れて見事内縁の妻を追い出したところ、今度はその女中が現当主に取り入り、引き入れた正妻すらも追放した上で女中が正妻となり、その後は自らが店を切り盛りして腕のいい職人や番頭を集め、現当主の死後も和菓子屋を拡大し続けた……的な話を考えていました。考えているうちになんか朝ドラ辺りでこういうドロドロした話をやってもらいたいなぁと思ったとさ。

  おまけ
 則天武后は在位中、やたらと名称改変を好んで新しい漢字を作らせまくってました。そうしてできた漢字は「則天文字」と言われるのですが、日本人に一番有名なのとなると「水戸光圀」の「圀」という漢字で、これは「国」を意味なく変えたものです。中国に住んでて「圀」という漢字は今まで見たことがないだけに、則天文字は多分中国よりも日本の方がよく使っているような気がします。

  おまけ2
 やたらと名称改変を好んだ当たり、日本の称徳天皇とダブります。

2 件のコメント:

片倉(焼くとタイプ) さんのコメント...

水戸光圀はなぜ、わざわざ則天文字を自分の名前にしたのかは不明です。 光圀が弟に王位を
譲るために周を去った太伯・虞仲に影響を受けた事は理解できますが(光圀は兄を差し置いて
藩主になったことをずっと気にしていました)
もしかしたらこの文字はカッコいいとか単純な理由で自分の名前にしたのかもしれません。
なにせ光圀自身若い頃は荒れていて、「水戸の跡継ぎは傾奇者だ」と言われていたくらい
ですから、普通の人がやらない事をやりたかったのでしょう。

花園祐 さんのコメント...

 そのご意見に自分も同感です。水戸光圀は中国から亡命してきた中国人にラーメン作らせるなど明らかに新しい物、珍しい物好きな人だったと伺え、圀という字を用いたのも単純に格好いいと考えたからでしょうね。
 折角なので次回はその水戸藩について記事書きます。今日疲れてるから明日以降だけど。