2016年12月15日木曜日

水戸藩は何故幕末に失墜したか

 見出しつけるのに悩んだけどインパクトを狙うとしたらやはり失墜を選ぶべきだと思ってこうしました。何気に新聞記事ならまだしもネット記事なら見出しでアクセスが決まると言っても過言ではなく、前にJBpressで書いた記事でも「中国バブル崩壊」という言葉を敢えて入れたからその記事はアクセスよかったんだろうなと思いますし。

 さて話は本題に入りますが、この前則天武后書いたついでに水戸光圀の「圀」という文字が側転文字だと言及したところかなり久々にコメントもらえました。最近少コメントなかったから寂しかったのもありちょっと心が動いたのですが、幕末の尊王攘夷運動で当初は最も主導的であって水戸藩が最後は全く明治維新に関わらず終わってしまったことを解説していなかったことを思い出したので、今日はそのテーマについて解説します。結論から述べると、内ゲバで内部崩壊したことが原因です。

水戸藩(Wikipedia)

 水戸藩といえば水戸黄門でお馴染みの例のあれですが、幕府の開幕当初から徳川本家とはやや距離を置いていたというか、親藩の中でも割と独自路線を突き進み続けた藩であります。なんでそうなったのかというと一つは御三家の中で最も江戸に近い位置に属し必然的に「永遠のナンバー2」的な役割を背負わされたこと(本家相続に一切絡まなかったし)、もう一つとして水戸光圀以降に始まる水戸学という独自の思想・歴史観を持つ学問が盛んだったためだと私は考えます。
 水戸学について簡単に述べると、水戸光圀が独自に日本史をまとめあげようと「大日本史」という歴史書籍の編纂を始めたことがきっかけで過去の歴史や思想について本家のことをお構いなしに収集、議論するようになり、一種独特の思想が形作られまとまったものを指します。具体的に述べると石田三成に対して初めて好意的な評価を行っていたとも言われ、この点一つとっても反中央的な思想も少なからず持っていたのでは想像させられます。

 そんな水戸藩ですが、九代目の徳川斉昭が割とカッカした人物だったというか政治参画意識が高い人間で、折しも黒船来航の時代とあって幕府に対して公然と異論を唱えたり生温いなどと文句言うなどして江戸の本家との対立を深めました。こうした斉昭の姿勢は藩士も同様で、水戸学の中で国学が勢いあり、徳川家の癖に天皇家への意識も高かったもんだから自然と尊王攘夷論が藩の主論となっていきます。
 こうした水戸藩を危険と考えた幕府は猛然と抑えにかかり、将軍の後継争いで斉昭の実施であり一橋家に養子に出された慶喜が負け紀伊藩出身の家茂が選ばれ、大老に井伊直弼が就任すると本格化し、直弼の主導した安政の大獄で水戸藩士が片っ端から処刑されたほか斉昭も隠居を強要され、徹底的に叩かれます。逆にこうした弾圧によって水戸藩内では尊王攘夷論がますます高まり、自藩だけでなく長州や薩摩といった他藩の攘夷志士たちにすらも水戸藩士が指導を行うなど全国的なリーダー役を務めるようになり、直弼が暗殺された桜田門外の変の頃に一つのピークを迎えます。

 しかし、全体的に尊王攘夷で過激な思想を持っていた水戸藩ですが、全体的に過激であることは間違いないのですがその集団中でもいくらか温度差があり、その温度差から過激派の天狗党と、穏健派(つってもかなり過激)の諸生党に内部分裂し、なかなか攘夷が実施されないことにしびれを切らした天狗党が挙兵して起こったのが天狗党の乱です。

天狗党の乱(Wikipedia)

 はっきり言ってこの天狗党の乱は完全な内ゲバで、同じ水戸藩士同士でガチの戦争をやり合って双方ともに多大な犠牲を出します。またここまで大事でなくても、水戸藩内の攘夷派同士でちょっとした路線の違いとかで暗殺とかも普段からやり合ってたことも想像に難くなく、そうこうしているうちに任期と実力を兼ね備えた指導者らがどんどんと消え去り、全国的にも水戸藩出身の攘夷志士の発言力はみるみる落ちていきました。
 敢えてもう一つ水戸藩の内部抗争が激しくなった理由を挙げると、桜田門外の変の後で一橋慶喜が謹慎から解放された上に幕政に参画するようになり、水戸藩と幕府との距離が縮まったことからそのまま佐幕路線を歩むか、あくまで幕府と袂を分かって独自路線を歩むかで水戸藩内が割れるようになったのではと勝手に想像しています。

 一方、維新の立役者となった長州や薩摩は早くから藩内の意見統一を図り、また大勢が決まるや余計な内部抗争は行わず一丸となって行動したこともあって、維新を主導しただけでなく次の明治の時代にあっても重鎮を成すに至りました。特に薩摩藩においては意見統一を図るため、藩内の過激な譲位論者を寺田屋騒動でまとめて粛清するという冷徹な決断も行っており、そうした甲斐あって長州以上にガチッとした組織を維持できていたと思います。同様に土佐藩も、武市半平太率いる土佐勤王党を粛清して意見統一を行い、薩長以上に余計な血を流さず漁夫の利を得て戦後のキャスティングボードを握るに至りました。

 私自身は組織なんてクソ食らえで頼りになるのは自分の腕力のみだと公言するほど自他ともに認める個人主義者でありますが、この幕末期においては藩という組織力の差がその後の趨勢を明確に決めた時代であったと考えています。水戸藩は当初は全国をリードするほどの影響力を持ちましたがその後の内部抗争を見る限りだと全体としてやはり個が先立ち過ぎており、それによって自ら滅んでいったと思え、単純に惜しいことをしたと感じさせられます。
 なおこのサイトで茨城の県民性について調べたら、「怒りっぽい性格に、桜田門外の変、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件など、歴史上のテロ事件にすべて絡んでいる茨城県人の過激な血を認識することがある。」と書いてあり、水戸学のスピリッツは現代にも続いているのかとなんか妙にビビりました。

 最後おまけですが、江戸時代における徳川家の各分家と本家との距離感について個人的な見解を下記にまとめておきます。

<遠い~>
・水戸藩:常に距離を置き、むしろ反逆的
・越前藩:藩祖の結城秀康の頃からやや距離感がある

・尾張藩:吉宗の時を除けば常に中立的で、無関心に近い

・紀伊藩:本家継承者を出すなど関係が強いが、明治維新の際はあっさり裏切った
・会津藩:ガチのシンパで、発足当初から崩壊まで本家との結びつきが最強に強い
<~近い>

4 件のコメント:

  1.  以前、水戸に住んだことがあり、結構興味を持って調べたことがあります。そもそも家督をついていた兄が死去した後に、弟の斉昭がいるのにもかかわらず、将軍の子供を養子にしようという意見が出ていました。斉昭の藩主就任後の人材登用は、下級藩士からも才能があるものについては抜擢するという方針だったのですが、このあたり、今になって思うと、反対勢力の弱体化+自己の政治基盤の強化という意図もあったのでしょう。
     改革や立て直し行うために、やや過激な論調をとった結果、おそらく藤田東湖や武田耕雲斎などは、抑えどころがわかっていたように思われるのですが、だんだん激化して抑えがきかなくってしまった印象です。この手のは現代でも、というか特に近年は教訓になりそうな…。

     ・・・・ちなみに水戸藩ですが本来25万石のところを御三家の格式35万石と改めて、また、藩主が江戸在住や、光圀の始めた大日本史編纂などで財政難が続き、光圀公の再来といわれるような方が出るも早世するなどでなかなかうまくいかず、幕府に借金を何度かした結果、ついに断られ成人の君主がいるにもかかわらず、支藩の藩主を後見に改革をするよう命じられるなどなかなか波乱万丈な歴史でした。

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    1.  コメントありがとうございます。
       仰られている通りに水戸藩は親藩なのに、というより親藩ゆえにというほど石高の実際と公表に差があったり、家督相続が歪だったりして雄藩として生き残れなかった面があります。実名を挙げられた藤田東湖や武田耕雲斎などは本当に惜しかったと思える人材も多数出ており、いまいちその実力を発揮することが出来ませんでしたね。
       この記事を書いたのも、「実力はあるのに内ゲバでむざむざ滅んでしまう」という教訓を残そうと思ったこともあり、こうして反応いただけて非常にうれしく思います。

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  2. おっさん労働者2016年12月19日 0:45

    いつもブログの方拝見させてもらっています。

    そもそも水戸藩は初代頼房が相当おかしかった人物だったようで
    江戸に最も近い御三家であるにも関わらず幕政の中心から離されており、
    その後水戸学派の成立などあって、思想の先鋭化がどんどん進んでいったようですね。

    結果からすると水戸藩が内ゲバで滅んでしまったという事実は間違いないですが、
    これを言い出すと、
    薩摩藩=近江屋事件
    長州藩=第2次長州戦争前の政変
    などなど、幕末の内部粛清や内ゲバをあげだすときりがないですが、ここまで意味もなく内ゲバに熱狂したのは水戸藩くらいでしょう。

    個人的な見解をいうと、行き過ぎた教条主義者と現実主義者の相性が最悪で、
    このあたりがいいスパイスになってやりすぎてしまう傾向が歴史的にあるのではないかなぁ。
    むしろ、日本赤軍の山岳ベース事件、中東などの宗教戦争とかに近いかも。

    正直なところ、最近どんどんパヨクの化けの皮がどんどんはがれていっており、
    このあたりの団塊の連中が現実との差に発狂してテロをやりだす時代が近いのかな、、、という予想もしていたり。。

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    1.  コメントありがとうございます。労働問題関連以外の記事でも読んでいただいていたようで、ありがたい限りです。
       いいポイントをご指摘いただいたというか、おっしゃられている通り薩長も「内ゲバ」とも取れる内部紛争を起こしているんですよね。この記事も引用した「寺田屋騒動」も然りで、「近江屋事件」、「長州征伐前の政変(っていうか高杉晋作のクーデター)」などが代表格ですが、薩長ともこうした内ゲバをやった後は勝者側の意見で藩内がガチッと固まったのに対し、水戸藩は負けた側がしぶとく抵抗を続けるなど、もはや藩内闘争を目的とするかのように行動した所がミソのついた点でしょう。
       ある意味テロもそういった、敗者の側のしぶとく足を引っ張る行動と捉えれば内ゲバと言えるかもしれません。しかし彼らテログループが勝利したらそれはそれで革命となるだけに、勝てば官軍といったところでしょうか。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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