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2017年4月24日月曜日

反日意識の芽

 明日はブログ書けないから今日のうちに何か一本書かないといけないのにあまり書きたいネタも浮かばないので好き勝手に書くことにして、反日意識がどこから芽生えるのかについて自己体験を踏まえて書きます。結論から言うと、日本社会だと自らの立場が不利となるからこそ反日意識を持つと私は思います。

 私が日本の事が一番嫌いだったのは大体高校生くらいのことでしたが、多分そこらの高校生と比べれば政治や社会関連への関心は桁違いに強く、当時から政治家の名前は相当数暗記していただけでなく各財政政策や法案の問題点、課題内容などは今の自分から見ても及第点出せるくらいには把握していました。普通こういった政治に関心のある若い子は自国の事が好きなり、傾向としては愛国系の思想を持つ事が多いのですが、私の場合は何故かそこまでいかず、むしろ中学位の頃の方がそういった思想を持っていました。
 では何故高校生くらいの頃に反日意識を強く持ったのかというと、言ってしまえば自分がこの社会で確実に不利な立場に置かれる側だということを暗に理解していたからです。いくらか被害者意識も入っていましたがおおむね間違っていたというわけでなく、実際に現時点でも私が日本に変えればその実力を持て余すような事態に至るでしょう。

 何故私が日本社会で不利な立場を強いられるのかというと、一つは強烈に強い自我を持っていること、二つに一切媚びることがない性格を持っているからです。

 前者については言うまでもなく日本社会では自分でものを考える人間より何も考えないで周りに流されるだけの人間の方が大事にされ、興味を持つことにのめり込んだり、受け入れられないものに強烈な拒否反応、場合によっては反抗するような自我はマイナス以外の何物でもありません。大分前にも書きましたが、たまに学校教育で自分の意見や考えを持つように教えることがありますが、こんなのは眉唾で私は日本の学校教育は徹頭徹尾自我を削ぎ落とすことに特化していると思います。

 二つ目については大学時代にロシア語講師に指摘され、当時はピンとこなかったけどここ二、三年くらいでようやく合点がいった内容ですが、基本的に初対面の人間に対して遜ったり阿ったりする態度は意識的にしないようにしています。理由は何故かというと相手がどういう人物かもわからない、下手すればどうしようもないクズかもしれないのに下手な態度に出るのはどうかという疑問心からですが、見る人によっては「なんて生意気な奴だ」と確実に思われます。
 もっとも最近は年齢を重ねたこともあって以前よりは若輩と見られ舐められることは減っているものの、やはり大半の人間から初対面の印象としては何かうまくつかみきれないような不気味さを感じたという人が多いです。

 上記例はあくまで私個人の資質ですが、これに限らなくても日本社会に適合しない要素があれば多かれ少なかれその人物は反日意識なりというか国家に対する反感を覚えると思います。もっとも反感を抱かずに依存心を抱く人間もいるでしょうし、そういった人間は逆に変な愛国心を持つのかもしれません。
 敢えて変な言葉で述べると、内部からの反日意識は国家の無関心からではなく押しつけから生まれます。外部からの反日意識は断言してもいいですがただの嫉妬です。

 現時点で私は何も日本で一人一揆を起こそうなどというような反日意識は持ち合わせていませんが、日本社会にいては才能を生かし切れず無駄に食い潰されるだけだということを自覚しているので敢えて距離を置いているところがあります。日本という国というか社会に対しては以前ほど必死で盛り立てたいとか、叩き潰してやりたいとかそういう風に思うことはほとんどなくなり、やはり他人事めいたような視点で見るようになってきています。真面目な話、日本の将来よりも鳥取県と奈良県の行く末の方が心配です。

 最後にどうでもいいことを書くと、上の段落で「一揆」と書いた箇所は最初「テロ」と書いていましたが、案外テロという単語を全部一揆に置き換えて報道していれば過激派とかも馬鹿馬鹿しくなって活動やめるんじゃないかとも思えてきました。「極左団体が上野で一揆」とか、「フランスパリ郊外で若者が一揆を計画」、「元一揆団体幹部が出所」なんて具合で。

2 件のコメント:

おでこ さんのコメント...

いや、先日、馬鹿な民進党が一揆はテロかと法務委員会で質問してました。

花園祐 さんのコメント...

 言ってる傍から既に使用例があったとは!?
 まぁテロというのは国家の側から見た体勢を崩そうとする行為や一派を指すので、あながち間違いではないとは思いますけどね。でもテロと書くのと一揆と書くのとでは物凄く印象替わるだけに、日本語は深いなぁと思います。