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2019年6月10日月曜日

引きこもりの息子殺害事件について

 昨日の記事に書き忘れましたがこの前のサイクリング中、前を走る50代、60代の古参メンバーの足の筋肉がめちゃすごいレベルで発達している事に気が付きました。というか数年前と比べて明らかに巡航速度が上がっており、別の古参メンバーとともに、「絶対前より速くなってる」、「知らないうちにメンバーがパワーアップしている」などと、付いていくのが辛くなった気持ちを共有し合いました。
 あとこの日170キロ走ったけど、筋肉痛とか一切ないのに自分でもびっくりでした。

 話は本題に入りますが、やはりネガティブワードは流行が早いなと思うというか「子どもおじさん」という言葉がすごく流行ってきました。またこの言葉の流行に合わせたかのように、川崎での通り魔事件と、元事務次官の息子殺害事件が相次いで発生し、年齢の高い引きこもり対象者への関心が非常に高まってきています。
 上記の二つの事件のうち、川崎の通り魔事件については非常に痛ましい事件であったものの、以前にも同じような通り魔事件が発生していることからそれほど犯人について興味はいだきませんでした。「無敵の人」とか、「一人で死ねとか言うな」などというキーワードが議論となっていましたが、どちらも議論が浅くで終わる上にあまり事件の実態を貫いていないように思え、正直つまらない議論だと感じます。

 一方、元事務次官の息子殺害事件についてはその後のドラクエザオラル騒動が皮肉っぽい結末でちょっと面白いと感じましたが、それ以上に同類と言っていいものか少し悩むものの、私が見て似ていると感じた事件が過去にありました。

浦和・高校教師夫妻による息子刺殺事件(オワリナキアクム)

 四の五の言う前にリンク先を読んでもらうのが一番早いですが、かいつまんで言うと1992年に起きた両親による23歳のフリーターの息子殺害事件です。死人を悪く言うのもなんですが、説明されている事件内容を読む限りだと殺されても仕方のない奴だなと正直思え、司法もそのように判断したか両親に対して執行猶予付き判決を下しています。
 この殺された息子は高校、大学を中退した上、家庭内暴力を繰り返し、母親に「ラーメン作れ!」と命令して一口食べるや「まずい!」と言って丼ごと投げ捨てたり、親の金で遊び回ったりと、もし自分が親であっても殺すだろうとはっきり思えるくらいのクズです。ただ今回の事件と違うのは普段から外出はしており、焼肉店でアルバイトなどはしていたなど、引きこもりであったわけではありません。

 この事件で私がとみに興味を感じるた点は、殺された息子の危機管理意識についてです。引用した記事によると両親がまさに殺害を決意した夜、アルバイト先のマネージャーに対して息子は、「家がまずい。出ないとまずい」と話していたいそうです。にもかかわらず彼は深夜バイト後に帰宅した後は呑気に寝始め、頃合いを見計らっていた両親によって包丁で一突きされています。
 この際、不運というか包丁は心臓を外れた上、刃先が折れてしまいました。母親が代わりの包丁を取ってくる間にこの息子は父親に対し、「許してくれ。俺が悪かった。お願いだから殺さないでくれ」と言ったそうですが、これまで度重なる家庭内暴力に我慢していた父親には通じず、止めを刺されています。

 自分が不思議に思うのは、なんでこのバカ息子は「やばい」と感じていながら家を出るなりといった防衛手段を取らなかったのかということです。危機意識は割と正常に、というか殺される前夜にピタリと的中する発言している辺りは鋭いとすら思うのに、実際の退避アクションを何故取らなかったのか。そんなんじゃ危機管理終了だよといいたくなるようながっかりぶりです。
 また殺される直前の発言からも、自らの愚行が両親を殺害行動に駆り立てたということをほぼ自覚していながら、どうしてそれを改めなかったのかということです。命乞いをしなかったのならまだ理解できるものの、殺されたくないのであれば殺されまいとする態度を取るべきでしょう。しかし「このままじゃやばい」と思っていながらそうした対応すら取らなかったということは、殺されたくはないけど殺害されるリスクを自ら引き上げているような状況を作り出しているように見えます。

 極端な話、破滅願望があって自らの被殺害リスクを自ら引き上げるのなら理解できますが、殺されたくないのに自ら引き上げる、具体的には両親を煽る行為を取るというのは、生存本能的に生物として終わっているように見えてなりません。それだけにこの殺された息子について私は、わがままで両親に対する一連の無作法な行為より、生存本能を無視する行為というべきか、「どうせ何やったって殺されるまではないだろう」という高をくくった態度の方が癇に障ります。人生というのはいいか悪いかではなく生きるか死ぬかだと普段から考えているだけに、この生き死にに対する舐め腐った態度の一点でもっても死ぬべき人間だったろうという点で、この事件は強く印象に残っていました。

 締めに入ると、報道を見る限りだと今回の元事務次官に殺害された息子も家庭内暴力を繰り返していたとされ、1992年の事件の息子と私の中で非常に被ります。どちらも、親に対してどんだけ辛く当たっても殺されることはないだろうという甘えの入った高をくくった態度が見え、案の定というかその甘い想定が崩れたことで逆襲を受け身の破滅を招いています。どちらも生存本能が破綻というかおかしくなっているように見え、たとえ両親の手によるものでなくても、自然界の法則的に処分される結末のほうが自然の原理に則しているように私には思えます。

 引きこもりであっても、死にたくないと思うのなら死なない、殺されないような態度や手段を取るべきでしょう。無論、そうした努力を取ったとしても世間や庇護者が認める基準に達せず何らかの原因によって死んだり殺されたりすることは十分ありえるしそれも現実だと思いますが、そうした者たちについてはまだ理解できるし、如何なる死に方にも同情が湧きます。しかし、「やれるもんならやってみろ」と言わんばかりに限度の外れた行動や、庇護者への挑発行為を繰り返す者というのは、飛んで火にいる夏の虫というべきか、その時点で生物としては本能的にある意味死んでいる生物だと私には思え、どのような死に方をしたところで全く感情を覚えません。強いて言えば、死体処理がやや面倒だろうなってくらいでしょう。

 何がいいたいのかと言うと、死ぬべき人間がただ死んだだけなので騒ぐことかと言われたらそうではないものの、それなりにニュースになっている辺りは、「そうそう簡単には殺されない」という意識がまだ社会で強いのだろうなというのが私の見方です。

2 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

サイクリングをしても筋肉痛にならないのは僕も同じで、むしろ60歳の父親も同じです。おそらく全身運動をするためか、筋肉痛になりにくい運動なんでしょうね。

死ぬべくして死ぬというのは、ある意味納得です。いつも泥水を沸かして生活しなければならないアフリカの一部の人たちは、いつお腹を壊して死ぬかわからない状況で生きているわけで、今の日本では働かなくても生活保護で前述の人たちよりも遥かにいい『最低限度』の生活ができます。そう考えると、人に世話になっておきながら、害悪を与える人は殺されたとしても自業自得なのでしょうね。

花園祐 さんのコメント...

 生きてく上で周りの人間に迷惑をかけることになるのはある程度仕方ないにしても、限度というものはやはりあるでしょう。一つの明確なラインが犯罪ですが、法に触れなければ何でもしていいわけじゃなく、一線を越えたら殺られるという認識に欠けていた結果だとも考えています。

 確かに自転車は筋肉痛にそもそもなりづらいんでしょうね。ちなみに自分は今年の冬、キーボードの叩きすぎなのかガチで左手がずっとしびれるように痛くて、「俺の左手もここまでか……」などと中二病っぽく振る舞ってました。