この仮定に立った場合、現在精神疾患者が激増中の日本はメンタルが全体として弱くなっていることは間違いなく、ならなんでメンタルが弱くなっているのかというと過去の苦行、激烈体験がそれ以前よりも減ってきているという風に解釈できます。では過去、具体的には昭和時代の人たちは苦しいことのベンチマークとなるような体験として何を経験してきたかっていうのが、意外と重要な着目点となってくるわけです。
仮に戦前世代まで掘り起こした場合、この世代の最大の苦行はやはり戦時体験でしょう。直接戦地に赴いた人だけでなく、日本国内のいても空襲や、戦後の食糧不足という筆舌にし難い苦しい体験を乗り越えてきており、実際にこの世代から「戦時中に比べれば」という言葉を自分もよく耳にしました。この世代からすれば、その後の人生における困難もストレスを大きく受けるほどのものにはならなかったでしょう。
では戦後世代はどうか。結論から言ってしまえば、昭和から平成初期にかけて日本人のメンタル教育において非常に重きをなしたのは「しごき」だったのではないかと今思います。しごきという言葉の定義については省略しますが、学校での部活、職業現場での上下関係によるしごきは、殴る蹴るは当たり前、人格否定の罵詈雑言は日常茶飯事で、現代とは比べ物にならないほど激しいものがありました。
なおソ連人民の敵であるうちの親父は就職間もないころ、「契約取ってくるまで絶対帰ってくるな!」と上司に言われ、神主やってたいとこの家にも売り込みに行って「何考えとんねん!」と追い返されてたそうです。
話を戻すと、令和の現代において完全に否定されているこの「しごき」ですが、ことメンタル教育という面では日本社会において大きな役割を持っていたことは否定できないでしょう。昭和のこの手のしごきは理不尽さ、過酷さをひたすら追求している節があり、理不尽さに耐える力という点ではその育成効果は間違いなくあったと感じます。
ではメンタルが弱くなりつつある現代日本において、その対策として戸塚ヨットスクールの人じゃないですがまたしごきを復活させればいいのか。この問いに対する私の答えはノーです。
というのもしごきというのは確かにメンタルを強くするうえでは明確な効果があると思いますが、その代わりと言ってしごきを受ける人間は合理的な思考や考えを失い、盲従的になる可能性が高いと思うからです。日本のスポーツ教育が昭和期に世界で通用しなかったのはまさにこの点にあり、陸上や水泳とかならまだしも、野球やサッカーなどで海外に全く勝てなかったのはこうした面の弱さにあると私は思います。
またこの手のしごきを受けた人間の中には、暴力性を顕著に高める人間も残念ながらいます。部活指導中の事故死や育児中の虐待死を起こした大人の多くは判で押したかのように、「自分は子供の頃にもっときつい仕打ちを受けていた」という言い訳をしてきますが、恐らく実際にはそう思い込んでいるだけで、子供を死に追いやるほどの仕打ちを彼らは受けてはいないでしょう。
しかしある程度のしごきを自分が受けてきたから、「自分が受けた分はほかの子供にやり返していい」という勘違いを起こした挙句、自分が受けた以上のしごきを課して虐待するというパターンは実際よく見られます。何故こうなるのかというと、かつてのしごきには教育としての合理的価値がハナから無視されており、「苦しませればいい子に育つ」的に苦しませるだけで、その結果としてしごきを受けた人の合理的判断能力を喪失させていた節があるように見えます。
ならしごきはやってはだめなのかという話になりますが、そうなると今度は現代のようにメンタルが弱い人を量産することとなってしまいます。実際、この流れで日本人はメンタルが弱くなっていき、精神疾患者が増える一因にもなっていると考えています。
まどろっこしいので言いたいこと書くと、子供の教育に当たっては合理的な根拠や目的のもとに、苦しませるべきだと思います。昔のうさび飛びのように運動能力向上に何ら貢献しない苦行をやらせるのではなく、健康を崩さずしっかり身体を育成する科学的な訓練メニューを用意して、感情的な判断はせずしごきを行うのであれば、精神的にも肉体的にもいい教育になると私は思います。
その上で、そうした訓練の目的や効果についてしっかり子供たちにも教え、「こうやるとこうなるんだよ」的に理解させたうえで、子供たちに自発性を持たせ行わせることも大事かと思います。こうすることによって、子供たちもそのしごきの合理性を考え、合理的な価値観や考え方を育んでいくことになります。
何が言いたいのかというと、「合理的に苦しませろ」というのが、現代日本のメンタル教育に対する私かの意見です。何も学校に限らず勤労現場でも、きちんと苦しむ理由を教えた上でハードワークを課すことが大事だと思え、これがびっくりするくらい日系企業は出来ていない気がします。なんでかというと、中間管理職以上にその手の合理的思考がない人が多いからです。
「苦しいけど儲かる仕事」と「苦しいのに儲からない仕事」では90度でなく180度意味が違い、後者に関しては儲からないならむしろやらない方がマシ的なものも少なくありません。この手の見極めをした上で、勤労初心者に価値ある苦しみを与えて育成することが、結果的にその人らのメンタル教育にもキャリアアップにもつながると私は考えます。
冒頭に書いた通り、現代日本でしごきは敬遠されがちです。私自身も不合理なしごきは排除すべきだと考えますが、「必要で合理的なしごき」こと苦行はメンタル教育的にも、やはり若い時にこそ経験しておくべきだとも考えます。そうした、一体何が必要な苦行で何がそうでないかを判断できず、結果的にメンタル教育がおざなりになっているのが現代日本だと思え、あと10年くらいはこの状態が続くかなとみています。
なお自分の経験で言うと、肉体的な苦行はそれほど経験しませんでしたが、あまりにも非効率な指示に下で不要な業務だとわかっているのに従事させられたのはマジ苦しく、合理性失いかけたけどメンタル的には貢献したかなと考えています。あれに比べれば中国に行って転職活動したりする方が楽だったな。
4 件のコメント:
メンタル弱化の問題を根本から解決するには、人々が高等教育を受けられる機会を敢えて減らすという策が有効だと考えます。
確かに苦行というのも一つの有効策でしょう。ですがそれ以前に、人間が一人前の大人に育つまでの期間が昔に比べて長くなったのもメンタル弱化の要因の一つだと考えています。
近世までの日本は12歳で元服して大人と認められていました。近代化ひいては工業化にあたって労働者への高等教育がある程度必要になり、人間を労働市場へ出荷するまでの工数が伸びた故に、成人と見做される年齢が時代を下る毎に延びていったのです。
そもそも子供時代から大人社会へのギャップを埋めるのはなるべく幼い内からが良いはずです。何故なら歳を経る毎に『こうあるべき』という価値観が固定化されていくからです。
人間が病む事の本質は、『世の中こうあるべき』もしくは『自分はこうしたい』という理想や自意識と現実のギャップ、からの逃避なのではないかとも思います。
冒頭に戻りますが、今の日本(もしくは先進国共通の課題かもしれませんが)には熱意も必要もないのに高等教育を受けている人が多すぎます。
古文や数理法則を全員に教える時間があるなら交通規則と口の聞き方の指導要領でも組み込んだ方が社会とのギャップは埋まる気がします。
ちょうど自分の2つ上の世代くらいまでは、わざと怒ってみせる、「叱る」ができる先輩がいましたが、1つ上の世代くらいからそれがいなくなり、単に「怒る」ことしかできなくなったように感じています。
「しごき」もそうで、必要だからあえてやっていると理解できていれば耐えられますが、意味のないしごき、単に苦しませたいだけのサディスティックなしごきが増えて、耐えられない人が増えたのかなと思います。
言わば、「今までやってたからやってるだけ」以上に意味を考えられなくなった指導者がメンタルをどんどん弱くしていったと言え、何故必要なのかを考えるのをやめてしまうと廃れる一方なのだろうと思います。
人が人を育てる、他人に真摯に向き合うということが一番重要なんだと思うのですが、それをめんどくさがる人が増えた印象です。
自分もかねてから日本における大学進学率の制限、職業訓練校の拡充を提唱していて、勉強が苦手な子に無理して大学進学せずとも社会人として生きていける知恵、技術の強化、また大卒者との棲み分けが進むといいなと思っています。
コメント見て思ったこととして、やっぱ金銭的自立がその手の責任感、ひいてはメンタル強化で重要なのではという気がしてきます。そういう意味では高等教育を必要としない子には早いうちに勤労体験を経て、金銭的自立とともに強いメンタルを養ってもらうのも一つの手だと思います。
パソコンの不具合でメンタルやられたため、この記事は中盤から結構荒れているのですが、いい感じにまとめてくれて助かります(ヽ''ω`)
自分も一番激烈な叱り方を受けたのは新聞社時代ですが、あの時の上司には毎回親父ギャグに愛想笑いをしなければならなかったのを除けば何の恨みもなく、今でも感謝しています。やはり叱られる合理的理由や目的が当時でもわかったし、そうしたものにはどれだけしごかれても納得感があって、「叱り方」が上手な上司だったように思えます。
そういう意味ではこの記事では「しごき」に焦点を当てて日本のメンタル弱化を分析しましたが、「叱り方」でもまた別の分析ができるかもしれません。
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