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2008年5月28日水曜日

ゲーム会社栄枯盛衰、主にテクモ

 以前友人らと休みの間にどんなゲームをやるかという話で盛り上がった際に、ある友人が、
「俺、自由度の高いゲームをしたいんだよね」
「自由度高いってんなら、昔の「くにおくん」でもやれば。それにしても、あのゲームは自由度高かったよな」
 と、いう話になり、そのまま昔のゲーム談義になりました。

 ちょうど私達の年代は家庭用ゲーム機が発達した時代でもあり、また凋落し始めた時代でもありました。90年代は各産業において不況が続いた時代でありながらゲーム業界だけは成長をし続けて羽振りがよかったのですが、98年にとうとうピークを迎え、それ以降は少子化が影響したのか現在までずっと下降線を辿っております。ちなみに、98年は「ファイナルファンタジー8」が発売した年で、奇しくもこのシリーズでも8がピークとなり、以降は売り上げが落ちていっています。

 それこそ、ファミコンからスーパーファミコン、そしてプレイステーションくらいまでは初期投資も少なく、また簡単に作れるということで参入会社がたくさんありましたが、その後段々と採算が取れなくなるとかつては人気シリーズを排出していたゲーム会社ですらどんどん潰れていきました。前述の「くにおくんシリーズ」も販売元のテクノスが潰れ、あんだけ私が小学生時代に運動会やら時代劇で遊び倒したゲームながら、今では記憶する者も少なくなっています。

 この「くにおくん」のように完全にシリーズが途絶えたものもありますが、中には会社は潰れたものの版権を別会社が引き継ぎ、続編が出されるということもありました。最近の例だと今度最新作が出る「ヘラクレスの栄光」を作っていたデータイーストの例があります。何気に、この会社のゲームは昔からよくやっており、「ヘラクレスの栄光」はもとより格闘ゲームの「水滸演武」なんて何時間遊んだんだろう。この会社は結構面白いゲームを作っていたのですが、末期になるとにっちもさっちも行かなくて、なんでもしいたけを栽培して売っていたというくらい切羽詰っていたらしいです。ゲーム会社がしいたけ作ってもなぁ。

 同じように版権が引き継がれる例だと、90年代中盤においてゲームの王様であった格闘ゲーム業界で、カプコンと雌雄を争ったSNKもあります。ここは「キングオブファイターシリーズ」、いわゆるKOFで一時代を築いたものの、格闘ゲームブームが去るとともに一気に経営が傾き、会社を買収したアルゼに版権も移りましたが、よくはわからないのですがなんかまたクーデターを起こして、版権を奪い返したとかなんたらとか。まぁ奪い返したところで、昔の威光に頼ってても先は暗いんじゃないかな。

 このSNKとは逆に、格闘ゲームブームが去っても命脈を保ったのは今も言ったカプコンです。ここは格闘ゲームのブームが終わる頃には結構経営状態が悪かったらしいのですが、乾坤一擲の思いで2Dゲームから3Dゲームへの転換をはかり、そうして生み出された「バイオハザードシリーズ」にて復活しました。ちなみに、カプコンと聞いて私達の年代は恐らく「ストリートファイターⅡ」か、「ロックマン」が出てくると思います。

 このカプコンに限らず、ファミコン時代から生き残ったゲーム会社というのは時代々々でうまくゲーム分野の転換を図っています。特に、私が肩入れしているのはテクモです。
 このテクモという会社には本当に小さい頃からお世話になっていると自負できます。それこそ、最初のゲーム「キャプテン翼」なんてシャレにならないくらい遊び倒しています。「キャプテン翼Ⅴ」に至っては、あえて敵のドリブルを石崎君の「顔面ブロック」で止めたりしてました。
 この会社もカプコン同様、プレイステーションなど当時に次世代機といわれたハードが出始めた頃に3Dへとうまく転換が図れ、現在では世界中で評価される3D格闘ゲーム「デッドオアアライブシリーズ」(ちなみに私はあやね使い)を筆頭に、和風ホラーの代表作である「零シリーズ」、あとトラップで敵を倒すという一風変わったシステムがよかった「影牢シリーズ」を出しました。私はこれらの大体は遊んでますね。

 ついでに書くと、最初のあの「キャプテン翼」は原作もそうですけどゲーム内容も相当ぶっ飛んでおり、私なんてⅣで試合開始と共にセンターサークルからストラットにメガロゾーンシュートを打たせたら、GKを含めてブロックに来た選手四人をふっとばし、挙句にゴールネットも突き破りました。もはや少林サッカーだろこれ。
 V以降はやってないのですが、どうもこのゲームのDNAはテクモに残っていたのか、以前にみたゲームのレビューによると、「レッドカード」という、あからさまに何かやってくれそうなタイトルでまたサッカーゲームを出していたそうです。パッケージ裏のキャッチコピーからして、「神の手を超えろ」と、ここまでくるとまともなサッカーゲームはもう期待できません。事実、サッカーゲームの癖に各選手には必殺技ゲージがあり、たまると相手選手にソバットを食らわせたりできるそうです。よく、こんな会社が生き残ったなぁ。

2008年5月27日火曜日

武田邦彦氏のシンポジウム 追記

 武田氏のホームページでも前回私が行って来たシンポジウムの内容がアップされたので(http://takedanet.com/2008/05/post_917a.html)、その内容に合わせて私の感想も述べようと思います。実際、前回だけじゃ書き足りなかったし。

 まず武田氏が挙げている他のパネリストからの主要な反論(1)の、
「 環境白書には「極地」としている中に北極の海氷や南極の氷は入らない」
 これは環境省の役人の方が言っていた内容ですが、この人に言わせると武田氏が環境省を批判する際によく使う環境調査機関の報告書によると、その報告書内の極地を武田氏は南極と北極だけを定義していると述べていましたが、環境省の人は報告書の別のページに、緯度と経度で極地の定義がなされており、その範囲は北極や南極だけでなく、グリーンランドやシベリアの陸地における氷についてあれこれ書かれてあると主張していました。この件に関しては武田氏も今後続報を出すと言っております。

 次に(4)の「環境負荷はお金の額とは比例しない」の件ですが、その言わんとする内容は、武田氏は環境を考えて生活の消費を控えても、その分余ったお金は別のものに使われては結局環境への負荷は一緒だということを言っており、結局どれだけお金を使うかが環境の負荷の大きさも決める比例関係にあると自著で述べています。しかし、たとえば100万円ガソリン代に使うのと、100万円食料に使うのでは最終的に排出される二酸化炭素量は違う、というのがこの意見の中身です。これについては武田氏も強く反論はしていませんでした。

 そして今度は一般参加者からの質問ですが、まず(1)の、
「国民はリサイクルを始め政府の主導する環境対策を進めているのに、なぜ二酸化炭素は減るどころか、増えているのか?」
 ですが、これは1990年と現在を比べて環境対策技術は進歩して、国民の環境への意識が高まったと言われているが、実際の統計などを見ると増えているがこれは一体どうして、というような内容でした。
 言われて見ると確かにという話で、この質問についてはパネラーの方が答え、事業単位では減っているものの運輸部門と民生部門、つまり国民の生活レベルでの排出が増えたことによる結果らしいです。

 次に(2)の、
「二酸化炭素が蓄積している「層」が上空にあると政府は説明しているが、二酸化炭素が「層」をなすのか?」
 という質問ですが、これについては武田氏とパネラーそろって、「えっ?」ってな感じであまり話が進みませんでした。質問をした方は溶接を仕事としている方で、普段から炭酸ガスを扱い専門家を自称していることから、二酸化炭素が上空の対流圏まで登ると二酸化炭素同士で固まり、層を作って温暖化を助長するらしいのですが、武田氏はそんなことはないと言い、二酸化炭素は対流圏で他のガスと混合、霧散するので層にならないといいましが、質問者はそんなことあるはずがないが、今日はこれまでにしておくと言って席に着きました。

 実を言うと、私もいわゆるガスの専門家とまでは言えませんが、ガス関係に普段携わっているので、早速近くのその筋に詳しい人に今日聞いてみましたが、そんな話は聞いたことはないと、武田氏と同じ解答が聞きました。私自身、炭酸ガスが層化するなんて話や特性は今まで聞いたことがありません。因みにどうでもいいですが、溶接作業時には炭酸ガス、もしくはアルゴンガスなどの不活性ガスが必ず必要です。

 でもって最後の質問(3)、
「温暖化が環境破壊であることは間違いないのに、なぜそんなことを議論しているのか?」
 この質問の内容は特に解説するまでもないのでいちいちせずに私の感想を言いますが、非常にナンセンスな質問だと思います。というのも、武田氏がなぜ環境省やリサイクル業者を批判しているかというと、連中の行っていることは実際の環境の保護になっておらずむしろ助長しているばかりか、リサイクルや環境保護の名の下に利権団体のような所へ国民の税金がばら撒かれている現状があるからです。武田氏自身も実際は環境を憂えているように私には見えますが、それだからこそこのいい加減な現状を黙って見てられないのだと思いますし、私自身この武田氏の見方を指示します。少なくとも、現状のリサイクル業者の状況は詐欺に近いものがあるでしょう。

 今後も武田氏のホームページで細かい書く内容がアップされるというので、それに合わせて私も感想を書いていくつもりです。
 それにしても、これ書いている途中でYou Tubeがうまく動かないで、そっちの方にえらく時間取られたな。

日本の国語教育について

 この前かな、安倍前総理の怨念とも言うべき教育再生会議が最終答申を出したのは。ちょっと記憶が定かじゃないんですが、それくらい報道も少なかった気がします。まぁ実際、結局のところ何がしたかったのという具合で終わりましたし、答申も今後の教育会議につながる内容だったのかどうか、ヤンボコの義家氏はこれからどうなるのかさっぱりわかりません。

 そこで今日の本題の日本の国語教育についてですが、現在日本の読解力は有意に下がっていると断言できます。その根拠は毎年行われる国際学力テスト、通称PISAにおいて年々この読解力が下がっており、同時に国内の調査でもひと月あたりの読書数が下がってきています。
 私が思うに、日本の子供の学力が全体で低下しているのはこの国語教育が崩壊していることが原因だと思います。というのも、国語で伸びるのは理解力で、すべての学問の根幹ともなる部分です。この理解力が発達しなければ数学でも外国語でも、結局理解することができなくて一緒に成績が落ちていくのではないかと私は考えます。文系だからこんな事言うのかも知れないけど。

 では国語教育のどこが問題なのかというと、自分が見ていてまず一番おかしいと思うのはテスト問題です。たとえば、
「このとき、作者の心境はどんなものか。以下の中から選択して答えなさい」
 そんな作品ごとに作者は感想行っているわけでもないのに、この手の問題はごまんと巷に溢れています。しかも、こういった問題の大半が作者というより問題作成者の心境で、作品の中身より問題作成者の意図を読まねばならないというのが国語能力の発達を阻害している気がしてなりません。
 実際に、「蛍の墓」原作者である野坂昭如は、娘が学校の授業中に父の作品でこの手の問題が出されたから聞いてみたところ、「締め切りに追われて必死だった」と答えています。もちろん、そう答えたら間違っていると娘は先生に言われたそうです。

 多分この野坂昭如に限らず大抵の作家はこんなもんでしょう。こんなんで国語の力なんて伸びるわけありません。こんな感じで国語の成績というものは決まっていくもんだから、自然と生徒達もテクニックのような、模範的な解答しか出さなくなります。私なんて独特な解答にこだわったもんだから……。
 逆に、何が一番国語の能力を伸ばすのかといったら、なによりもまず作文を書かせることに限ります。日記でも小説でもいいから、原稿用紙百枚くらい文章を書かせたら人間一皮剥けます。私なんて中学生くらいの頃から何百枚も書いてましたし。また作文に限らず、長い文章を短く要約させるのも非常に効果があると思います。芥川龍之介の「河童」を原稿用紙一枚に要約、それができたら今度は二行に要約、というように。短いから簡単そうに見えますが、逆にこうされると、文字数がほしい、と大抵の人は思うようになります。そうして表現の方法を本人にあれこれ考えさせるのが一番いいと私は思います。

 このほか国語教育についてはまだまだ言いたいことはありますが、まずは書かせること、これに限ります。しかるに現在の日本では未だに読ませる教育しかしておらず、子供の能力が落ちていくのも自明でしょう。

2008年5月26日月曜日

ヨーロッパ哲学の究極目的とは

 なんか設定を改めて見てみると、コメントがすぐに反映されないようには設定されていました。せっかく書いてもらっているのに悪いので、ちょっといじりなおして今度はすぐに反映するようにしました。

 そんなことはさておき今日のネタですが、昔、倫理の授業にてある先生から、
「ヨーロッパ哲学の究極目的は、すべての事象を言語化することだ」
 という話を聞いたので早速、自分の友人らにも受け売りで話してみました。現在のところ、この先生の言葉だけを話して、「なるほど」と、一瞬で理解できたのは二人だけですね。

 もっとも、これだけで理解する方がむしろ異常です。実際にその二人のうち片っ方は私の友人の中でもエース級で、もう一人はこういった倫理や哲学に造詣の深い友人ですので、そういった素養があるからだと思います。

 さてさて、ではこの言葉の意味することはなんでしょうか。私自身、完全に理解しているとは言い難いのですが、鍵となる言葉を言うと、物事というのは言語化されて始めて理解されるのです。
 たとえば、今まで見たことも聞いたこともないものに、ある日誰かが触れたとします。しかも、偶然が重なり、なんと同じ日に二回もそんなことがありました。早速友人にその誰かは、
「今日、見たことも聞いたこともないものに触ったんだ。しかも二回も」
「その二回とも、同じものだったのか?」
「いいや違うよ。けどどちらも見たことも聞いたこともないものだった」
「そんなこといっても、聞いてる俺達には区別できないよ」
 とな感じで、見たことも聞いたこともないものはたとえ別々のものでも、何かしら言語化、それこそ片方は丸いがもう片方は四角いなどとしなければ区別、果てには理解できないということです。

 もともと、対象に名前を与えるということはその対象をその名前で定義するということになります。初めてメロンをメロンといった人によって、それまでただの果物だったものはメロンと定義されていくのです。
 この論を発展して先ほどの先生は、ヨーロッパ哲学というのは物体から現象に至るまですべてに名前を振ることによって理解するのが目的だ、と私は言いたかったんだと思います。実際にヨーロッパ、というよりは欧米の科学的概念というのは物事をひたすら細かく分類することに注力しています。元々学問自体が事実の分類を進めることですが、日本とか中国などの東洋哲学はこの点が割とあいまいで、わからないことはわからないなりに話を進めようとして、儒教とか仏教では、
「なぜ空は青いのか」
「それは見る人の心がきれいだからだよ」
 というような禅問答が成立したりします。それに対して欧米では、
「なぜ空は青いのか」
「普通、光があるとものが見えるだろ。つまり、光が関係しているのでは。そしてそれを敢えて名づけるなら、光の反射現象とでも……」
 ちょっと極端な例ですが、割とうまいこと比較できたと思います。

 こんな感じで、ヨーロッパでは各種の病気などにも名前をつけるだけでなく、心理現象などにも名前をつけ、細かく分類するようになっていきました。一番最初の例のように、体が発熱した状態でもウィルス性のものか栄養バランスの崩壊によるものかなどと言語化することによって分けて、そして理解します。こんなのがヨーロッパ哲学の概念だと、私は考えています。

 そういう意味で、現在の日本の学問体系もヨーロッパ式に倣っています。まぁ確かに悪いわけじゃないんですが、逆に言うとこの形式では言語化しづらい領域は自然、無関心になりやすくなり、それこそ死後の世界と生き方とかはあまり真面目に議論されません。東洋哲学は逆にこの点が強いので、やはり両方学ぶのがベストだと私は思います。

2008年5月24日土曜日

赤いちゃんちゃんこの怪談話

 子供の頃に聞いた怪談話で、トイレに入ったら「赤いちゃんちゃんこ、着てみませんか~」という声がするので「着てみる」と答えたら、血だらけになって死んでしまう、という怪談話がありました。まぁその血の跡がちゃんちゃんこみたいになるっていうオチですどね。

 しかしいまどき、「ちゃんちゃんこ」と言う人はいるのでしょうか。昔の鬼太郎はよくちゃんちゃんこを投げて敵にぶつけてたけど、今の鬼太郎はどうなっているのだろう。「ちゃんちゃんこ」と言わずに、「ベスト」と言うのかな。それなら、
「赤いベスト、着てみませんか~」
 こんな感じに怪談も変わるのでしょうか。ってか、これじゃただのユニクロの店員でしかないけど。

 それより、この前ふと思いついたのですが、もしこれがちゃんちゃんこじゃない、別の服だったらどうなのだろうかと。
 まずは「赤いコート」、間違いなく血だるまだ。次に「赤いブラジャー」、なんか卑猥だ。じゃあ「赤い全身タイツ」、ホラー映画化だ。それなら「赤いYシャツ」、ヤクザかよ。

 ここまでならそんなネタにするほどではないのですが、その後しばらくしてとんでもないものを考えてしまいました。
「赤いふんどし、はいてみんかいっ!!」
 そう、赤フンならどうなるのか。やっぱ自然と声もこんな感じになるのかな。でもって、「はいたろうじゃねぇかっ!!」とか言っちゃうと、「ぎゃぁぁああ……」ってなことになり、下半身だけ真っ赤……なんだろうか、このくそみそテクニックなホモ展開……。

武田邦彦氏の公開討論会に行って

 本日、午後一時半から吉祥寺で行われた、「温暖化対策とリサイクルは地球を救う ウソ?ホント?」というシンポジウムを見学しに行ってきました。主役はこのブログでも何度も取り上げている、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」という本で、環境省やリサイクル団体を批判している武田邦彦氏です。

 このシンポジウムは他にも数人のパネリストを揃え、それぞれが温暖化とリサイクルについて持論を展開して討論する形式でしたが、なかなか有意義で面白い内容でした。パネリスト、司会者もそれぞれの意見に対して、「それが正しいかどうかはともかく、さまざまな異論が聞けたことがよかった」と口々に述べておいり、聞いている私個人も同感でした。
 パネリストの中には現役の環境省の役人もいれば、国立研究所の研究員もおり、やはりそれぞれの立場から武田氏とは全く意見が異なる、というより、「でたらめを言うな」という言い合いもありましたが、なにも罵り合うというほどでもなかったので、よい討論の仕方をしていたと思います。

 それで、この討論をすべて一から書いていたまたえらく長くなりそうなので、いくつか気になった点だけを紹介します。
 まず全体的な内容ですが、すべてのパネリストの方の一致した意見として、「内容はともかく、武田氏の環境問題への問題提起はすばらしい」ということでした。いくつかはスタンスの違い、根拠となるデータが怪しいなどの反論はあるものの、実際に環境対策として使われているお金、そしてリサイクルの仕組みには不明瞭なものも多く、環境の名の下で無茶が通っているものもすくなくないのですが、そういった部分に光を当てた意味では武田氏の功績を皆評価していました。

 それで各パネリストの意見はというと、主役の武田氏の主張については彼の書いた本を読んでいたのでほとんどがすでに知っている内容でした。もし興味をもった方があるなら、是非本を買って手に取ってください。それにしても、テレビでも何度かこの人を見たことがあるのですが、実際に見てみると本当に喋り方がうまい。話の展開が早く、論点が結構知らないうちに変わってたりするので、学者より政治家のが向いている気がします。
 この武田氏以外だと、朝日新聞の社員である杉本裕明氏の話が一番面白くて、彼の話によると、なんでも政府の環境を守る名目としてとして集めた税金は、現段階でも余っているそうなのです。特に使い道がなく余っている横で、現在の道路特定財源を環境税に変えるといって、また余計な方向へ政府がそのお金が使うのではないかという危惧を持っていましたが、これは初耳でした。けど、なんかそうありそうです。
 さらに、現在国が立ち上げている環境対策の計画を実行することとなると、一世帯辺り四十万円もの負担を新たに強いることとなるのですが、そういったことは一切説明せずに、「環境にいいから」という意味で認めてはならないということも言っていました。これは他の話題についての武田氏の言及でしたが、政府はそれが本当に環境にいいのかどうか詳しい内実を話さずに、計画を実行する癖があるとも言っています。

 このほか一般の方の質問で、
「燃費のいい車に乗り換えることが環境にいいというが、それまで使われてきたまだ乗れる車を放り捨て、新たに車を製造会社に作らせることの方がかえって環境に悪いのでは?」
 という鋭い質問も出てきました。これについては武田氏も言及しており、白熱電球から蛍光灯に取り替えれば電気使用量は減るが、製造コストを考えるとかえってマイナスだともいっています。

 とまぁ片っ端から書いたらこんな感じなのですが、やはりテーマが環境という事なので、一部の参加者からは感情論とも取れる、やたら長いだけで面白みのない質問も数多く出てました。何もこの環境問題だけに限るわけではありませんが、どうも議論を感情論と事実論がごっちゃになって、途中で双方訳がわからなくなることが多いような気がします。もうすこし、はっきりとした事実のみに目を当てて議論はすべきだと思うのですが。
 ただ、この環境問題というのは地球科学からリサイクル関連の経済学など、幅広い知識を持って語らねばならないところ、現在各専門家がそれぞれの分野の立場だけに立ってあれこれ言うのが混乱を作る主要因だと何人かのパネリストが言っていました。実際に範囲がだだっ広いことは間違いなく、いろんなところから意見を聞き、最終的に自分で考えねばならないといって、この討論会は終わりました。

障害者教育について

 先ほど確認してみたらコメント、しかも知らない人から初めて残されていたので、タイムリーでもあるので今日は障害者の教育について書こうと思います。実はこの障害者教育については以前にかなり真剣に調べた事もあり、一家言ある身です。前述の障害者自立支援法と並び、日本はこの手の対策が欧米先進国と比べると非常に遅れているとも言われております。

 まず知的障害者の場合ですが、やはり未だに偏見が強いということもあって幼児期に、「もしかしたらこの子は……」と思っても、それを誰にも相談しないまま育てていってしまう人が多いそうです。専門家によると、たとえ生後時から知的障害を負っていたとしても、生まれた直後からそういった障害者への専門的教育を施すことによってその後の発育はしない場合と比べて大きくよくなるそうなのですが、どうも未だに隠したがる人がまだ多く、五歳や六歳になってようやく相談に行っては処置が手遅れになってしまうケースが多いそうです。。
 この問題の解決方法は言うまでもなく偏見をなくすことなのですが、どうもアメリカと比べると日本では知的障害者、身体障害者双方ともに社会進出が阻まれており、こうした偏見がなかなか払拭できずにいます。

 そして近年、こうした知的障害者の生活環境はすでに紹介した自立支援法とともに、ネット上で加速している、「知的障害だからといって罪が軽減されるのはおかしい」という言論によって追い詰められております。また、各企業に雇用者数ごとにこういった障害者の方を受け入れる規定があるにもかかわらず、規定を守らなかった場合に支払う補償金を払う方が得だといって、なかなか雇用されないとも聞きます。

 さてこっから社会学的な話になりますが、身体障害者だと思考能力には問題なく、それこそデスクワークや簡単な軽作業程度なら働くことに問題はないにも関わらず、健常者と比べて就職率が非常に低くなっております。その理由はいくらでも挙げられるのですが、私が問題視しているのは学歴についてです。
 というのも、実は私の友人も障害とまで言わずとも、生まれつき体の弱い人間でして、大学に入学したものの、毎日通学するだけの体力がなく、結果的には退学せざるを得ませんでした。身体障害者、特に腕や足の障害を持つ方などは助けなしでは通学することは難しく、まして実家から離れて遠くの大学に通おうとしても、住んで生活できる借り部屋などほとんどありません。

 つまり、身体障害が原因となって高等教育の道が閉ざされ、結果的に学歴が付かず就職もままならないという構図になるのではないかと思います。本当はこういった教育面でもっと障害者に日を当てるべきだと思うのですが、現実はさにあらず、日本の大学のホームページにて障害者の入学条件、方法について説明があるサイトは本当にごくわずかです。アメリカなんかはほとんどあるのに……。

 今後もこの障害者関連のネタは書き続けていこうと思いますが、前述の友人がかつて言った、「健康な人は、病気や怪我した時の苦しみを普段は全く考えないよね」という言葉を忘れずに取り上げていこうと思います。