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2008年8月13日水曜日

予想の極意

 本日のMSN産経のニュースにて、「アイフォーン発売1カ月 ブームは息切れ? 料金変更で販売てこ入れ」というニュースが報じられました。私はこのアイフォーンについて以前に、「iPHONE参入に見る日本の携帯電話市場ついて」の記事で、言われているほどそこまで売れないのではないかと予想していましたが、現段階でどうにかその予想が大きく外れていないことがわかり、正直ほっとしています。
 ここで言うのもなんですが、前回の記事を書いていた時は自信はあったものの内心ではひやひやしていました。というのも、発売前から連日報道され、あれだけ宣伝効果の高い商品をはっきり売れないと書くのはなかなか勇気のいる行為だからです。

 それで何故私がアイフォーンを売れないだろうと予想したかですが、まず記事にも書いていますが、「日本の携帯電話は世界的にもすでに高性能である」という、発売前のアイフォーンについての記事があり、これを一つの判断材料にしました。
 その記事の中ではアイフォーンの特徴や利点なども説明されていたのですが、たとえばアイフォーンが多機能でインターネット機能も充実しているという記述ですが、この点では日本ではiモードを筆頭に携帯電話でのネット閲覧機能はすでに普及しており、販売が伸びる要因にはならないと踏みました。同様に、たくさんのソフトを取り込めゲームなどもあれこれできるということも書かれていたのですが、これも日本は他国と比べて携帯ゲーム機がPSPやNINTEMDO DSなどが非常に充実しており、今更ゲームハードとして機能の落ちるアイフォーンを使う人間はいないだろうと思いました。

 以上のように、アイフォーンの売りとされる特徴が日本人には真新しくない、さらに付け加えると日本には欧米と比べてそれほどアップルの信奉者がいないということを考慮に入れ、いくら価格が抑えられたからといって最初の物珍しさがなくなれば恐らく今のようになるという予想に至りました。
 唯一の懸念として、前回の記事にも書きましたがマーケティングによる影響が最も怖かったです。もし今も絶好調の白犬のお父さんのテレビCMがアイフォーンの宣伝に使われたら爆発的に売れるだろうとは思いましたが、恐らくアップル社との契約の関係でコラボレーションはないと踏み、保険のつもりで「マーケティング次第」という記述を加えたりしておきました。ほんと、やらなくて助かった。

 私のことを直接に知っている人間ならわかるでしょうが、基本私は予想屋です。国際政治にしろ経済にしろ、今後どのように世の中が動くのかを予想し、判断材料を周りへと提供しています。過去の記事にもいくつか書いていますが、予想の成否というのは判断者の実力以上に運の要素の方が大きいものです。しかし何故その判断に辿り着いたのかという手順さえ踏んでおけば、たとえその予想が外れたとしても、あらかじめその問題を考えておくことによって事情の推移や背景というものが頭に入るので、たとえ出た結果が予想と異なったものであろうとその後の事態の理解には役に立ちます。そういう意味で予想というのは、成否以上に過程の方が重要だと私は考えています。

 それでも予想は当たるに越したことはありません。では当てるためにはどうすればいいのかですが、今回のアイフォーンの例のように、やはり判断材料をしっかり集め、それを煮詰めることに尽きます。
 しかしただ判断材料を一言で集めるといっても、情報というものは無数にあるものです。それこそアイフォーンの場合、恐らく発売前だと私が選んだ「本当に日本で売れるのか?」という記事はほとんどなく、むしろ「アイフォーンはこんけすごいぞ」、「日本でも絶対バカ売れ」と書かかれた記事の方が断然多かったはずです。にもかかわらず私が判断材料に否定的な記事を選んだのは、私自身が持っている情報とその記事に書かれている情報、そして現実の事実関係の一致があったからです。その事実こそ、もう何度も言ってますが「日本の携帯はもう高性能」という事実で、さらに私の持ち寄った携帯でのネット閲覧や携帯ゲーム機の情報です。こうしていくつもの情報を刷り合わせることで、予想の的中率というのは飛躍的に高まっていきます。

 しかしここまで書いておいて言うのもなんですが、これは佐藤優氏も言ってますが最期に一番ものを言うのは判断者の勘です。なんだかんだいって、一番的中率を上げるのは職人仕事的な言語化することのできない鍛え上げられた直感で、判断者が漠然と「こうなんじゃないかな」と思う気持ちだと思います。こう言うと一見、予想は抽象的な世界のように感じられるかもしれませんが、敢えてこの直感について理論をつけると、その予想をする人間も事態を動かす全体の中の一人だということが元になっています。
 それこそ内閣支持率なんかだと支持するか支持しないかの二択です。その人が今の総理大臣を支持しているか支持していないかどう思うかですが、もしその人の価値観が日本人の中で多数派を占めている価値観であるならば、その人が支持すると思うのならば多数派である同じ価値観の人間も支持すると考え、結果的には支持が上回る結果が起こるということになります。

 言ってしまえば、その人の価値観が当該社会で多数派に属しているのなら、余計な理屈なんて踏まずにその人の思ったことを予想に出せば当たってしまうのです。私の場合はこれを逆説的に用い、今の日本人の多数派の思考や価値観を読み取り、その中でものを判断して予想したりします。今回のアイフォーンの例でも、発売前の報道で自由にプログラムが組めるなど書かれていましたが、私はこの報道に対して、「操作が複雑そうで、手にとりづらいな」と思い、恐らくほかの日本人もそういう風に考えるに違いないと踏んだりしました。

 このやり方は結構地味ですが、意外に強力です。肝心なのは自分個人の判断は全体の1%にも満たないが、その同じ判断をほかの人間がどれだけするかです。さらに言うと、自分が多数派に属しているか少数派に属しているか、日頃からしっかりとわきまえておくことです。私なんて少数派に属すことが多いので、普段は、「大衆は私と反対の考えを持つに違いない」と、自分の考えと逆の内容の予想を作ることの方が多いです。

韓国国営放送トップの解任

 前回、「韓国BSE騒動について」の記事で、韓国の国営放送のKBSがBSE問題について捏造報道を行い、李大統領政権を転覆させようとしているというニュースを紹介しましたが、今日のニュースで李大統領はここのトップを解任することにしたそうです。(ネタ元:YAHOOニュース「KBS社長解任・デモ規制も強化 韓国・李政権攻勢へ」)

 記事によると、韓国でも今オリンピックで盛り上がっており、BSE問題の報道が少なくなってきたところで大統領が反撃に出たとのことです。特に解説する内容があるわけでもなく、続報が来たので紹介しておきます。

2008年8月12日火曜日

漫画家による小説の表紙絵について

 去年、太宰治の著作「人間失格」が漫画「DEATH NOTE」で有名な小畑健氏によって表紙絵が描かれるや爆発的に売れ出したということがありましたが、その後も二匹目の泥鰌とばかりにこのところ人気漫画家の表紙絵で飾る文芸小説の出版が増えております。代表的なのは「伊豆の踊り子」や「地獄変」、「こころ」などがあり、こういった一連の動きに対して中には「これじゃただのラノベ(ライトノベル)だ」と、批判する人もいるようです。ですが私の意見としては、少なくともこういった名作を読まないよりは読む方がいいに決まっているので、表紙絵が人気漫画家によって書かれたことによって手にとるきっかけになるのだったら、別にいいのではないかと思っています。

 と、いいのではと言いつつ、実は私も内心ではこういう表紙の小説が増えていることに対して忸怩たる思いを感じてしまいます。というのも、私は以前にかなり熱心に小説を書いていました。やばい時なんか一日二十枚ペースで毎日書いていき、投稿も結構やっていました。しかし、ちょうど5年前の初夏、本屋である小説が平積みにされているのを見てピタリと小説を書くことをやめました。その小説というのも、今も爆発的な人気を持っている「涼宮ハルヒの憂鬱」です。
 別にこの小説を読んだわけではありません。読んだわけでなく、表紙を見て気づいたのです。

「ああ、もう美少女を前面に出さないと、小説は売れないんだな」
 
 実は私の投稿先というのはいわゆるライトノベルと言われるジャンルの小説賞でした。私自身、アクション映画や戦闘アニメが大好きなので、そういう活劇的な表現が自由に許されるライトノベルでアクション小説を書きたいと思っていました。しかし私が書くことをやめた五年前にはもう、本屋においてあるライトノベルの小説の表紙は皆、美少女が描かれたものしかなくなっていました。
 別に美少女を出すことを否定するわけではありません。物語のエッセンスとして、美形のヒロインは大抵必要になるでしょう。しかし、何でもかんでも美少女を中心におかなくてはいけないというわけでもないでしょう。

 ですが今の本屋を見ていると、やっぱり表紙に美少女を描かないと小説は売れないようです。スピード社の水着じゃないですけど、本が売れるのは小説の話のおかげなのか表紙の絵のおかげなのか、これじゃ全くわかりません。そういうことに気づいたとき、多分自分の小説は評価されないだろう、売れないだろうと思い、ぱっと小説を書くことをやめてしまいました。

 今回の文芸小説の売り上げも、やっぱり表紙に負う所が多いのでしょう。内容が評価されず、外っ面ばかりが重んじられる世の中を私は昔から批判してきましたが、ここまで影響力が強くなってしまうと、なんか声を上げる気力すらなくなってきました。願わくば今回そうやって文芸小説を手にとった読者の方がその文芸の面白さに気づき、他の文芸作品にも自主的に手にとるようになり、中身のわかる読者へと変わっていってもらいたいものです。そういいつつ、私も「NHKにようこそ」というライトノベルを、表紙絵が私の大好きな安倍吉俊氏が書いていたから買っちゃったんだけど。内容はやっぱり面白くなかったけど。

なぜ批判をするのか

 また先日のサンデープロジェクトの話ですが、この前の主な議題はこの前起こった秋葉原での無差別殺傷事件についてでした。その中で東浩紀氏という東工大の教授が、2ちゃんねる内のこの事件の犯人に関連するスレッドのうち、犯人を擁護したり同情的な内容が書き込まれるスレッドが全体の4分の1もあったと説明していましたが、こんな何の信用性もないデータを曲がりなりにも大学教授が持ち出すことに私は驚きました。それこそ2ちゃんねるの言葉を使うなら、自作自演であんたがそういうスレッドを立てたんじゃないか、とも反論できますし。

 それはさておきこの東氏は、犯人に対してなぜ一部の人間が同情や共感を覚えるのかということについて格差社会ゆえに社会に対して不満を抱える人間がいるためだと主張し、それに対して櫻井よしこ氏は法律体系の問題があるなどとあれこれ議論していましたが、このどれにも私は真っ向から否定します。私の意見は単純明快で、みんなが話題にするから、中にはそういうこともいう奴が出てきたのだと思います。

 これは私自身以前に論文にまとめましたが、社会学者の鈴木謙介氏の「カーニヴァル化する社会」という本の中の説を採用しています。鈴木氏によると、昔と比べて最近の若者はバックボーンとなるような固定的な価値概念を持たず、その対象が単純に自分の感性に合うか合わないか、つまり面白いと思うかどうかで自分の立場を変えると主張しています。

 一つ例を出しましょう。たとえば領土問題などで中国や韓国を激しく非難する人がいます。しかし、その人は直接的に中国人や韓国人に殴られたりするなど実害を受けたことがないにも関わらず、領土問題などであいつらは汚いと罵ります。かといって、日本に対して愛国心を持っているわけではなくて、投票にも行きません。そして政治家の汚職問題が起こるや、やれ政治家は腐っているなどと非難します。これを見て、不思議に思いませんか?

 鈴木氏によると、その人が何故中国や韓国を非難するかといったら、ほかの人も2ちゃんねる内などで非難しており、なんとなく楽しそうだから混ざっているだけだといいます。もちろんそんないい加減な理由で非難しているだけだから日本に対して愛国心はないし、実際に問題を真剣に考えているわけでもない。何かしらの政治的、思想的信条があるわけでもないのに、場当たり的に批判、賛美を今の若者は行っていると指摘しており、私もこれに同感します。

 今回の秋葉原の事件も同様で、犯人を擁護する意見があるといっても、格差社会に不満を持ってたりとか大そうな理由とかは一切なく、ただなんとなく適当なことを言ったり、その場のノリで擁護する側に回っているだけだと思います。恐らく今度また別の事件、たとえばお金持ちの人が大きな事件を起こしたら、「お金があるが故の孤独を感じていたに違いない」とか同じ人でも言い出すんじゃないでしょうか。

 ここでちょっと話は変わりますが、やはり私の周りにもしっかりとした立場や信条を持たずに、激しく何かを批判する人間が溢れています。政治問題には興味を示さないくせに中国や韓国を口汚く罵ったり、誰がどのような経済政策を提言、実行しているかもわかっていないくせに政治家の誰々のせいで格差が広がったとか、根拠も何もない割にびっくりするような剣幕でまくし立てるその姿には、驚きを通り越して呆れる事すらあります。

 別に私はわかってないから、根拠がないからといって批判をするなと言うつもりはありません。しかし、正義感を持って社会悪を批判する際に、決して個人的感情を交えてはいけません。ただ憎たらしいとか気に入らないとか、よくわかってないけど皆があいつは悪い奴だと言っているからという理由だけで批判するのはもとより、必要以上の怒りを持って批判もしてはいけません。批判をする際は、何が、どのように社会を悪くさせているのかをわきまえ、では何をすべきかという自らの目的との差異をきちんと認識した上でやらなければ、それはただの八つ当たりと言われてもしょうがないと思います。

 老婆心ながら、現代の日本の若者に対して言っておきます。社会悪に対して怒りを持つことはとてもよいことです。ですが、その社会悪たる問題に対しては冷静な分析を行い、何が本当の悪なのか、自分のどんな考えと相違があるのかを自分の頭でしっかり考えた上で憎んでください。かくいう私自身も、中学生くらいの頃は何もわかってないくせに結構個人的な感情でメディアや政治家を罵っていましたが、やっぱり後から考えると愚かだったと後悔しています。けど大体高校生くらいになると、知識では不足していたところが見えるものの、まだちゃんと冷静に怒っていたなと思えます。

 そんな自分の経験があるからこそ言えるのです。何をされても怒らないのはよくないですが、何もされてないのに怒りすぎるのもまたよくありません。特に、他人の被害や痛みを、まるで自分が受けたように語らないように。私が考えるに被害者意識というのは、最も攻撃的になりやすく危険な意識だと思うからです。

 文章がちぐはぐだなぁ。書きたい事を一気に書いたせいだろな。

2008年8月11日月曜日

友人とのガンダム会話

 ある日友人と、こんな話になりました。

「君は私と違って、実力はたんまりあるのに社会に対して自ら働きかけ、改善しようとしないね」
「僕は君と違って、現実の世界に興味はないもん」
「しかしだな君、これだけの実力があって何故何もしないんだ。私としては私ほど前面に立たなくとも、せっかく天が与えた君の能力なのだから、それを社会へ向けてほしいんだが」
「いや、それは君の方が間違えてるよ。君は責任感が強いから何が何でも社会に身を捧げようとしているけど、もっと自分を大事にした方がいい」
「なんていうかこの会話、「逆襲のシャア」のアムロとシャアの会話だなぁ」
「そうだね、別に狙ったわけじゃないけど」

 この場合、私がシャアで友人がアムロでした。世の中を良くするためにアクシズを落とすような行動が必要で、それを実行しようとするシャアに対し、あくまで見守るだけで自分から介入、というより巻き込まれたがらないアムロのような構図です。「Zガンダム」ではシャアもあまり介入したがらなかったけどね。

 その後、この友人はどんどんとアムロ的な性格を強化し、最期にはアムロを突き破ってシロッコ的な、「傍観者であり続けたい」という性格へと発展していきました。相変わらず面白いけど。

柔道の精神

 一昨日、テレビでオリンピック柔道の中継を見ていたところ、メダル授与のシーンで東京五輪の柔道で金メダルを取った、オランダ人のアントン・へーシンク氏が授与者をやっているところが映されました。
 今でこそオリンピックの人気種目となっている柔道ですが、もともとは東京五輪限定のゲスト種目、つまり一回こっきりの予定でした。それがこのアントン・へーシンク氏が無差別級にて本家の日本人を下し金メダルを取ったことによって、外国人でも金メダルを取れることが確認され、皮肉な話ですがこれ以後のオリンピックでも柔道が行われることが決まった要因となったと言われます。

 しかし、私はこのアントン氏が金メダルを取ったということより、決勝に勝った後の彼の取った行為に賞賛の気持ちを感じずにはいられません。アントン氏が決勝に勝った瞬間、彼の故国のオランダの関係者は喜びのあまりに彼に抱きつこうと駆け寄ってきたのですが、アントン氏は「礼に始まり礼に終わる」、柔道の敗者を辱めず純粋に技を競い合う精神からその関係者たちを制止して試合場に上がらせず、喜ぶようなそぶりは一切見せずに試合場を後にしたそうです。
 さらにその後、日本での恩師であった当時の日本柔道代表監督の下へ行き、「先生、申し訳ありませんでした」とまで言ったそうです。ここまでやらずとも……。

 私がこの話を知ったのはちょうど四年前、前回のオリンピックにて谷亮子氏が決勝に勝ったその瞬間、ガッツポーズをとって喜ぶ姿を見せたことに対して苦言を呈したコラムからでした。まぁその谷氏は一昨日負けちゃったんだけど。
 しかし、この話を思い出すにつれていろいろ考えることが出てきます。このところ、日本の柔道界では日本ルールと国際ルールとの間でせめぎ合いがよく起こっています。。昔からあり、日本人には有利(とされている?)日本ルールですが、国際柔道連盟にはすでに外国人の理事も数多く、彼らの主張する国際ルールを日本側も受け入れざるを得なくなり、このままでは本来の伝統的な柔道からかけ離れてしまうのではないかという意見が関係者たちからよく聞かれます。

 確かに、こうルールの変更がされていくことによって伝統的な柔道から離れていくという話は分かりますが、今の柔道に守るべき伝統というものが残っているのか、ここに私は疑問を呈します。というのも、試合とか見てるとこのところ勝った選手は皆ためらわずに喜ぶ姿を見せるようになっています。
 別に喜ぶなとは言いません。しかし、敗者に対しても礼を尽くす、私が愛する柔道の精神はこれです。この中心たる精神なくして、何が伝統的な柔道と言えるのでしょうか。せめて相手選手のいる試合場くらいは勝者は黙って退場すべきでしょう。

 ここで私の意見を言います。柔道の国際ルール、日本ルールのことであれこれ言い合うくらいなら、元の精神に立ち返り、根本を固めることが今柔道界に必要な改革なのではないしょうか。それこそ、あのアントン・ヘーシンク氏のように。

トリクルダウン

 アクセスカウンターのついている出張所だと、なんか昨日今日とアクセス数がやけに増えています。なんだろう、スカイ・クロラがよかったのかな、それとも韓国かな。

 そんなことはほっといて、早速今日の一発目の投稿です。前回、「格差社会を読み解く、経済学の系譜」の中で「トリクルダウン」という言葉について簡単に書きましたが、今回の記事はそれについての補則です。
 まずこのトリクルダウン、訳は文字通り「水の滴り」です。これは新自由主義者が主張している経済効果のことを指します。

 具体的にどのような効果かというと、その言葉の通りに器の水の量が多ければ下の方へと自然と滴り落ちるという意味から、所得の大きい層、つまり金持ちをどんどんさらに儲けさせることによって彼らの消費、つまりお金の使用量が増えるので、結果的には低所得層にもお金がどんどんと回り、みんなでよい生活ができるという考え方です。

 しかし結論から言うと、このトリクルダウンが現象として発生したことは歴史上、一度たりともありません。贔屓目に見ても、トリクルダウンを敢えて発生させるような政策が採られた南米諸国からお隣の韓国、そして現在の日本でも格差はどんどんと広がり、経済も見かけ上の数字しか上がらず実態としては縮小しかおこりません。それにも関わらず、新自由主義陣営は未だにトリクルダウンを絶対信条としておき、政策を作っているのですから空恐ろしいものです。

 ちなみに、前から出そうと思っていたデータですが、日本で当初所得の下位20%と上位20%のそれぞれの合計額は1984年は13倍の差だったのですが、2002年になるとこれが168倍にまで広がっています。単純にこの結果から、貧乏な人の所得と金持ちの所得の差はこの20年近くで約13倍広がったということになります。