久々に政治解説です。細かい内容ですが、最近あまりやっていないのでちょっと取り上げようと思います。
さて最近、バラエティや討論番組にて民主党の国会議員が登場する際に、「ネクスト○○大臣の、××氏です」といった紹介のされ方が増えてきていると思います。一体これはなんなのかというと、いわば民主党内での各政策の担当責任者であるということを意味しており、民主党のサイトではこのネクスト大臣の名簿が一覧にされているので早速リンクをつけておきます。
■鳩山『次の内閣』閣僚名簿(民主党web-site)
この制度が日本の民主党にいつ頃から出来たのかはわかりませんが恐らく、というよりは間違いなく英国の「影の内閣」制度をもじったものでしょう。その英国の「影の内閣」こと「Shadow cabinet」ですが、これは先ほども言った通りに野党内の各政策担当者、責任者を公にすることで、政策論議や党内意思決定を明確にするという制度です。
国会議員といっても、防衛から外交、経済、労働などすべての政策をカバーする人間はほぼ皆無といっていいほどおりません。どの議員も何かしら自分の専門とする分野を持ち、その分野の国会内の委員会に参加することで議論や意思決定を行って行きます。
与党においては基本的にそれら各分野の責任者こと担当者は内閣内の国務大臣で、彼らが党内でも最高責任者となります。それに対して野党はというと、英国などではかなり以前から与党の国務大臣に対応する形で野党内にも似たように各分野の責任者を定め、与党側の担当者に対して自党の担当者である「影の大臣」を質問などに立たせて議論を行わせたり、党内での意見の集約などを行わせてきました。
この制度があるとどのように有効であるかですが、まずは国民に対して与党の提案する政策に対して対案を見せやすくなり、また人材を含めて広く対比しやすくすることが出来ます。その上、仮に選挙前であれば、
「もし我々が与党になった暁には、この分野の大臣にはわが党のこの議員を大臣にします」
という、予告先発ならぬ予告大臣を見せることとなり、有権者に政権を担わせるかどうかの判断材料を提供することになります。
まぁこういう制度なので、政治を注視する私の側からも誰がどの分野に強いのか、どういった意見が野党内で強いのかがわかりやすくなるのでありがたいことこの上ない制度なのですが、注目すべきなのは日本の民主党が使っている「ネクスト内閣」というこの名称です。
本家英国では先ほども書いたとおりに「Shadow cabinet」で、直訳するのなら「影の内閣」です。「ネクスト内閣」では日本語も混ざってますがこちらも直訳すると「次の内閣」で、ちょっと意味が違っています。何故このように名称を敢えて本家と変えたのかですが、私の予想では恐らく日本語で「影の内閣」と呼ぶと意味的には「黒衣の宰相」こと、「政権を裏で操る者」という意味を連想しやすいからだと思います。実際に小泉元首相の元秘書の飯島勲氏がかつて、確かライス国務長官(当時)に冗談で、
「I am a shadow cabinet.」
と言ったことがあったと記憶していますが、この時の意味合いはあくまで冗談でしょうが、「政策を決めているのは実は私ですよ」というような意味合いで言ったのだと思います。
こうしたイメージ的なものから、やや苦しいながらも「ネクスト内閣」という名称にしたのでしょうが、まだこの野党内擬似内閣制度が定着していないのを考えるとこういう風にするのも仕方がないと思います。しいて言えば、日本語を英語を混ぜるくらいなら初めから「次の内閣」という風のがいい気がしますが。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年6月6日土曜日
私が文章を書くようになったきっかけ
ちょっと思うところがあったので先月5月は一体どれくらいこのブログの記事を書いたのかと改めて計測してみると、大まかな計算で文字数にして約52,000字、400字詰め原稿用紙に換算すると約130枚分書いていました。このところ投稿のペースがやや減少気味ですが、それでもこの数字ですのでほぼ毎月100枚は書いていると見て間違いないでしょう。
実は今日は暇も手伝って大学受験時にお世話になった地元の予備校を尋ねたのですが、うれしいことにそこの予備校の恩師らは自分を覚えていてくれており、しばし雑談に花を咲かせてまいりました。その際に英語を教わった恩師から、こんなことを聞かれました。
「ところで、君はまだ文章は書いているのか?」
この恩師には高校時代に私が書き溜めていた文章を何度かお見せしたことがあり、そうしたことをまだ覚えていてくれていたようです。ひとまずこのブログのことを教えておきましたが、この記事も見ていてくれてるのかな。
今ちらっと言いましたが、高校時代の段階ですでに私は相当量の文章を当時から書いていました。当時は小説が主で今みたいに評論を書くことはまだ少なかったのですが、それでも執筆量で言えば多分今より多かったと思います。調子のよかった頃は毎日二時間は何かしら書いており、一つの作品で原稿量が100枚を越えるのもザラでした。
では一体いつ、何をきっかけにしてこんだけダダ長いブログを書くほどまでに私が文章を書くようになったかですが、結論を一気に述べてしまうと最初は小説家を夢見たことがきっかけでした。
今はどうだか知りませんが、私が中学生の頃は「スレイヤーズ」などの青少年向けのファンタジー小説が大流行だった頃で、一つ私もそういった作品を書いてみたいと思ったことがきっかけで小説を書くようになりました。しかし今から思うと当時の文章力はお世辞にも立派なものではなく、よくあんな内容で新人賞に投稿をしてたなと自分で呆れるほどの腕前でしたが、若いせいか勢いだけは立派なもので汚い文字(当時は手書き)でくだらない内容の割には恐ろしい量を毎日書いており、出来上がる傍から学校の友人らに無理やり読ませては感想を聞きだしておりました。
その後も、飽きっぽい性格のクセに高校生になっても文章を書くことだけは何故か続け、高校一年の間はまだ小説を続けていたのですが二年生に入る頃にはなんだか自分は小説よりも評論とかエッセイのが向いているのに気がつき、それ以降は短い文字数ながらも内容にこだわったものを書くようになって行きました。
そして大学時代ですが、不思議なことに何故かこの時はほとんど文章らしい文章を書くことがありませんでした。唯一まとまったものとして形に残したのは中国での留学体験記(確か原稿用紙200枚程度)くらいで、あとはほぼ友人のレポートの代筆とかに無駄に力を発揮した程度です。ちなみに卒業論文の半分までも代筆した友人までもおります。
何故比較的時間に余裕のある大学時代に文章を書かなかったのかですが、それは自分自身、当時は自分の考えや体験を披露するよりも中身をしっかりと磨く必要があると自覚していたからだと思います。大学に入って優秀な友人らと出会ったことで自分の読書量とか知識量が如何に少ないかを思い知り、「こりゃまだ出力する段階じゃない、もっと入力に集中しなければ」と考え、徹底的にではありませんでしたが文章を書くことを自分に対して制限していました。
なもんだから在学中にブログが一般化してブームになりだした頃も、本音では自分でもやってみたいと思いつつも我慢し、卒業を控えた頃に至ってもうこの時期ならいいだろうと、2008年の12月にようやくこのブログを立ち上げる事となりました。ここまで言えばわかると思いますが、別に隠していたわけではないのですが現在の私は会社員で、基本的にこのブログは仕事が終わって帰宅した後に毎日書いております。一番不思議なのは会社に入ってからの方が更新数といい文字数といい、恐ろしい勢いで増えていったということです。ああやっぱり自分は文章が好きなんだなぁと、つくづくこのブログを読み返すたびに思います。
実は今日は暇も手伝って大学受験時にお世話になった地元の予備校を尋ねたのですが、うれしいことにそこの予備校の恩師らは自分を覚えていてくれており、しばし雑談に花を咲かせてまいりました。その際に英語を教わった恩師から、こんなことを聞かれました。
「ところで、君はまだ文章は書いているのか?」
この恩師には高校時代に私が書き溜めていた文章を何度かお見せしたことがあり、そうしたことをまだ覚えていてくれていたようです。ひとまずこのブログのことを教えておきましたが、この記事も見ていてくれてるのかな。
今ちらっと言いましたが、高校時代の段階ですでに私は相当量の文章を当時から書いていました。当時は小説が主で今みたいに評論を書くことはまだ少なかったのですが、それでも執筆量で言えば多分今より多かったと思います。調子のよかった頃は毎日二時間は何かしら書いており、一つの作品で原稿量が100枚を越えるのもザラでした。
では一体いつ、何をきっかけにしてこんだけダダ長いブログを書くほどまでに私が文章を書くようになったかですが、結論を一気に述べてしまうと最初は小説家を夢見たことがきっかけでした。
今はどうだか知りませんが、私が中学生の頃は「スレイヤーズ」などの青少年向けのファンタジー小説が大流行だった頃で、一つ私もそういった作品を書いてみたいと思ったことがきっかけで小説を書くようになりました。しかし今から思うと当時の文章力はお世辞にも立派なものではなく、よくあんな内容で新人賞に投稿をしてたなと自分で呆れるほどの腕前でしたが、若いせいか勢いだけは立派なもので汚い文字(当時は手書き)でくだらない内容の割には恐ろしい量を毎日書いており、出来上がる傍から学校の友人らに無理やり読ませては感想を聞きだしておりました。
その後も、飽きっぽい性格のクセに高校生になっても文章を書くことだけは何故か続け、高校一年の間はまだ小説を続けていたのですが二年生に入る頃にはなんだか自分は小説よりも評論とかエッセイのが向いているのに気がつき、それ以降は短い文字数ながらも内容にこだわったものを書くようになって行きました。
そして大学時代ですが、不思議なことに何故かこの時はほとんど文章らしい文章を書くことがありませんでした。唯一まとまったものとして形に残したのは中国での留学体験記(確か原稿用紙200枚程度)くらいで、あとはほぼ友人のレポートの代筆とかに無駄に力を発揮した程度です。ちなみに卒業論文の半分までも代筆した友人までもおります。
何故比較的時間に余裕のある大学時代に文章を書かなかったのかですが、それは自分自身、当時は自分の考えや体験を披露するよりも中身をしっかりと磨く必要があると自覚していたからだと思います。大学に入って優秀な友人らと出会ったことで自分の読書量とか知識量が如何に少ないかを思い知り、「こりゃまだ出力する段階じゃない、もっと入力に集中しなければ」と考え、徹底的にではありませんでしたが文章を書くことを自分に対して制限していました。
なもんだから在学中にブログが一般化してブームになりだした頃も、本音では自分でもやってみたいと思いつつも我慢し、卒業を控えた頃に至ってもうこの時期ならいいだろうと、2008年の12月にようやくこのブログを立ち上げる事となりました。ここまで言えばわかると思いますが、別に隠していたわけではないのですが現在の私は会社員で、基本的にこのブログは仕事が終わって帰宅した後に毎日書いております。一番不思議なのは会社に入ってからの方が更新数といい文字数といい、恐ろしい勢いで増えていったということです。ああやっぱり自分は文章が好きなんだなぁと、つくづくこのブログを読み返すたびに思います。
2009年6月5日金曜日
天安門事件について
私が北京に留学中、クラスメートのアメリカ人がある日こんなことを聞いてきました。
「今日は何の日か、知っているか?」
「もちろん。天安門事件の日だ」
「(*^ー゚)bニヤリ」
さすが人権にはうるさいアメリカだけあると、この時に強く感じました。
一日ずれてしまいましたが、フランスの日々のSophieさんも記事を書いておられるので自分も天安門事件について書いておこうと思います。
まず基本的な知識として、日本人にとって天安門事件とくれば89年のものしかありませんが、現地中国においては天安門事件という名称は二つの事件を指しており、日本人が連想する89年の事件のほかにも76年に起きた事件もこの名前で呼ばれています。何で同じ名前なのかといったらそれはやはり現中華人民共和国の国家的象徴地である天安門で起きたことと、二つの事件とも周恩来、胡耀邦という政治の実権者の死がきっかけに起きたことが共通しているからだと私は思います。
それで今日話題にするのはもちろん89年の天安門事件の方です。この事件についての詳細はウィキペディアなどの他の記事に任せますが、私が日本に来た中国人留学生に直接聞いたところによると、やっぱり中国国内にいる間はこんな事件が起きていたなんて全然知っていなかったようです。
その留学生の言によると、中国国内でこの事件は当初民主化を叫んでいた学生が次第に暴徒化し、半ばクーデターのような行動を計画、実行したために軍隊が無理やり鎮圧せざるを得なかったと聞いていたようです。そのため日本に来てからこの事件の詳細を知った際は、これほどまで伝え聞いていた事実と違っていたとはと素直に驚いたとも言っていました。
もっとも、一部の日本人中国研究家の中にはこの時の中国共産党の決断をやむを得なかったものだと肯定的に評価する人も少なくありません。何故この時の共産党を評価するのかというと、もしこの時に学生側に下手な妥協をして一挙に民主化の路線をとっていればかつての旧ソ連よろしく中国という巨大な国家が分裂し、再起不能といってもいいくらいの事態に陥っていたと予想されるからです。
案外日本にずっと住んでいると、代表を国民一人一票の選挙によって選ぶ民主主義こそ完璧な政治、社会制度だと一見思いがちですが、その首魁とも言うべきアメリカ人ですらこの制度には欠陥が多がまだマシな制度だから使っているということをよく自覚しています。具体的にどんな欠陥があるのかというと、民主主義というのは基本的には誰もが好きな意見を自由に主張できることを前提にしているので、勢力が似通っていて明らかに意見が大きく異なっている集団が同じ社会にいると猛烈な対立を招いてしまう所があります。
かつての旧ソ連を例に取ると、その崩壊末期にゴルバチョフ氏が一気に民主化路線をとったことから、それまでソ連という枠内で多数派であるロシア人に主導権を握られていた衛星国家らが急激に自己主張を行うようになり、バルト三国を皮切りに次々と独立していって最終的には連邦が崩壊しました。
意外と気づきづらいのですが、民主主義というのは土台となる共通認識を持った多数派が存在していなければ成り立ちづらく、その多数派が少数派に無理やり自己の流儀を押し付ける構図なしには存在し得ないところがあります。アメリカにおけるネイティブアメリカンとか、日本における沖縄人などいったところでしょうか。
これが中国の場合だと、あの国は同じ漢民族でも華南と華北で全然文化が異なり、少数民族まで考慮すると何をどうやってまとめればいいのかと頭を抱えてしまいます。中には開き直って、中国は今の状態から四つに分裂するぐらいが国家的に運営しやすいサイズだと言う人もいますが、あれだけの人口と国土があるからこそ今の中国が保てていることを考えると、そうもうまくいくかなと私は疑問視しています。
こういった背景から、あの時に武力鎮圧したことが今の中国の成功に繋がった、少なくとも最悪の失敗を避けることはできたと考えるチャイナウォッチャーも少なくなく、私も彼らの意見が全くわからないわけではありません。とはいえ、あの事件がきっかけで中国のエリート層は国内の改革や出世をあきらめ海外に亡命する者が続出し、亡命とまで行かずとも国内の研究機関を離れたものも少なくありません。そういったことを考えると武力鎮圧以外にもっと方法はなかったのか、なんとかならなかったのかと思わずにはいられません。
もっとも、大きな政治の前に個人というのは非常に小さな存在です。そんな都合よく何でも物事が運べるかと、私の考えがおめでたいと言われるとしても今の私には反論することが出来ません。
おまけ
私が一時期に中国語を教わっていたある恩師はちょうどこの天安門事件の際に北京に留学しており、当時の北京は戒厳令が敷かれていて迂闊に外出することが出来なかったので、
「じゃあ旅行に行こうか」
と、日本人の留学仲間らと共に北京を出て中国国内を旅行しまわっていたそうです。そうしていたら軍隊による武力鎮圧が起き、旅先で現地の中国人に「なんか北京で大変なことが起きたらしいよ」と言われて、慌てて恩師の居た日本の大学へと連絡をしたそうです。すると日本では恩師らと連絡が取れなくなっていたためにてんやわんやだったらしく、「○○大学の学生三人、北京にて行方不明」とまで地元の新聞に書かれていたほどで、電話口でこっぴどく起こられた挙句に、
「とりあえず、金がある限り旅を続けろ。今の北京は危険だ」
という指示を受け、旅行をしばらく続けたそうです。結果論からですが、非常に的確な指示だったと私は思います。
「今日は何の日か、知っているか?」
「もちろん。天安門事件の日だ」
「(*^ー゚)bニヤリ」
さすが人権にはうるさいアメリカだけあると、この時に強く感じました。
一日ずれてしまいましたが、フランスの日々のSophieさんも記事を書いておられるので自分も天安門事件について書いておこうと思います。
まず基本的な知識として、日本人にとって天安門事件とくれば89年のものしかありませんが、現地中国においては天安門事件という名称は二つの事件を指しており、日本人が連想する89年の事件のほかにも76年に起きた事件もこの名前で呼ばれています。何で同じ名前なのかといったらそれはやはり現中華人民共和国の国家的象徴地である天安門で起きたことと、二つの事件とも周恩来、胡耀邦という政治の実権者の死がきっかけに起きたことが共通しているからだと私は思います。
それで今日話題にするのはもちろん89年の天安門事件の方です。この事件についての詳細はウィキペディアなどの他の記事に任せますが、私が日本に来た中国人留学生に直接聞いたところによると、やっぱり中国国内にいる間はこんな事件が起きていたなんて全然知っていなかったようです。
その留学生の言によると、中国国内でこの事件は当初民主化を叫んでいた学生が次第に暴徒化し、半ばクーデターのような行動を計画、実行したために軍隊が無理やり鎮圧せざるを得なかったと聞いていたようです。そのため日本に来てからこの事件の詳細を知った際は、これほどまで伝え聞いていた事実と違っていたとはと素直に驚いたとも言っていました。
もっとも、一部の日本人中国研究家の中にはこの時の中国共産党の決断をやむを得なかったものだと肯定的に評価する人も少なくありません。何故この時の共産党を評価するのかというと、もしこの時に学生側に下手な妥協をして一挙に民主化の路線をとっていればかつての旧ソ連よろしく中国という巨大な国家が分裂し、再起不能といってもいいくらいの事態に陥っていたと予想されるからです。
案外日本にずっと住んでいると、代表を国民一人一票の選挙によって選ぶ民主主義こそ完璧な政治、社会制度だと一見思いがちですが、その首魁とも言うべきアメリカ人ですらこの制度には欠陥が多がまだマシな制度だから使っているということをよく自覚しています。具体的にどんな欠陥があるのかというと、民主主義というのは基本的には誰もが好きな意見を自由に主張できることを前提にしているので、勢力が似通っていて明らかに意見が大きく異なっている集団が同じ社会にいると猛烈な対立を招いてしまう所があります。
かつての旧ソ連を例に取ると、その崩壊末期にゴルバチョフ氏が一気に民主化路線をとったことから、それまでソ連という枠内で多数派であるロシア人に主導権を握られていた衛星国家らが急激に自己主張を行うようになり、バルト三国を皮切りに次々と独立していって最終的には連邦が崩壊しました。
意外と気づきづらいのですが、民主主義というのは土台となる共通認識を持った多数派が存在していなければ成り立ちづらく、その多数派が少数派に無理やり自己の流儀を押し付ける構図なしには存在し得ないところがあります。アメリカにおけるネイティブアメリカンとか、日本における沖縄人などいったところでしょうか。
これが中国の場合だと、あの国は同じ漢民族でも華南と華北で全然文化が異なり、少数民族まで考慮すると何をどうやってまとめればいいのかと頭を抱えてしまいます。中には開き直って、中国は今の状態から四つに分裂するぐらいが国家的に運営しやすいサイズだと言う人もいますが、あれだけの人口と国土があるからこそ今の中国が保てていることを考えると、そうもうまくいくかなと私は疑問視しています。
こういった背景から、あの時に武力鎮圧したことが今の中国の成功に繋がった、少なくとも最悪の失敗を避けることはできたと考えるチャイナウォッチャーも少なくなく、私も彼らの意見が全くわからないわけではありません。とはいえ、あの事件がきっかけで中国のエリート層は国内の改革や出世をあきらめ海外に亡命する者が続出し、亡命とまで行かずとも国内の研究機関を離れたものも少なくありません。そういったことを考えると武力鎮圧以外にもっと方法はなかったのか、なんとかならなかったのかと思わずにはいられません。
もっとも、大きな政治の前に個人というのは非常に小さな存在です。そんな都合よく何でも物事が運べるかと、私の考えがおめでたいと言われるとしても今の私には反論することが出来ません。
おまけ
私が一時期に中国語を教わっていたある恩師はちょうどこの天安門事件の際に北京に留学しており、当時の北京は戒厳令が敷かれていて迂闊に外出することが出来なかったので、
「じゃあ旅行に行こうか」
と、日本人の留学仲間らと共に北京を出て中国国内を旅行しまわっていたそうです。そうしていたら軍隊による武力鎮圧が起き、旅先で現地の中国人に「なんか北京で大変なことが起きたらしいよ」と言われて、慌てて恩師の居た日本の大学へと連絡をしたそうです。すると日本では恩師らと連絡が取れなくなっていたためにてんやわんやだったらしく、「○○大学の学生三人、北京にて行方不明」とまで地元の新聞に書かれていたほどで、電話口でこっぴどく起こられた挙句に、
「とりあえず、金がある限り旅を続けろ。今の北京は危険だ」
という指示を受け、旅行をしばらく続けたそうです。結果論からですが、非常に的確な指示だったと私は思います。
2009年6月4日木曜日
足利事件、菅家受刑者釈放について
・足利事件:菅家受刑者釈放へ「無罪可能性高い」東京高検(毎日jp)
本日、1990年に起きた幼女殺害事件、通称足利事件の犯人とされて無期懲役刑を言い渡されていた菅家受刑者が、逮捕の決め手となったDNA鑑定の結果が近年の技術で再鑑定された結果覆り、冤罪である可能性が高いと認められたことによって釈放を認められました。
この足利事件については私も四月に「死刑制度について」で簡単に言及していますが、まさかこれほどまで早く菅家氏の釈放が認められるとは思っていませんでした。とはいえ犯人のものとされる体液のDNAと菅家氏のDNAが異なっていたという鑑定結果が複数の鑑定人よりでているので、菅家氏がこの事件の犯人ではないことはもはや明白といっても過言ではなく、無事釈放された事実はひとまず歓迎したいと思います。
しかし冤罪に巻き込まれた菅家氏は逮捕から実に約十七年という長い期間を獄中につなぎ置かれ、いくら釈放されたとしても警察、検察、裁判所が奪った彼のこの時間はもう戻ってきません。先ほど会見の模様を私もニュースで見ましたが、自分などでは到底理解することも出来ないほどの無念を抱えていたと思うたびに胸がきつくつかえました。菅家氏は会見で警察や検察、裁判官を許すことが出来ないと述べていましたが、彼の受けてきた苦しみを考えるとそれも無理もないことだと思います。
ではその菅家氏を無実の罪で苦しめた連中はどうかといえば、先ほどの報道ステーションでのインタビューによると、
「当時としては最高の技術であるDNAの鑑定が出た(一致した)のだから、ベストの判断だった」
と述べていましたが、これについては私からはっきりと詭弁だと言わせてもらいます。
実は以前にこの足利事件の発生当時の詳しい状況を調べたことがありましたが、やはり当時からも捜査手法に問題がある、冤罪なのではという声が少なからずあったそうです。そうした菅家氏が犯人だとする捜査結果の代表的な疑問として、ちょっと今細かい確認はとっていないのですが、なんでも菅家氏が犯人だと判決されたこの足利事件以外にも、発生当時の現場周辺で幼児の殺人事件がほかに複数あったそうです。
そんな背景もあり、足利事件で菅家氏が容疑者で捕まったもんだから他の事件も関与しているだろうと世間も思ったそうですし捜査関係者もにらんで捜査をしていたらしいのですが、ある日突然他の事件については捜査が打ち切られ、足利事件だけが菅家氏が犯人だと立件されたそうです。
何故手口も似ていて同一の犯人が疑われる他の事件が無視され足利事件だけが立件されたか、それはやはり他の事件も菅家氏が犯人だとするといろいろと矛盾が起きてくることが見えてきたからに尽きます。このほか犯行経路を警察犬に探索させたら想定していたのと全然逆方向に行ったり、証拠も状況も滅茶苦茶だったりと、どうしてこんなずさんな内容で今まで冤罪だと気がつかなかったのかと思わざるを得ない事件でした。
私は子供の頃、警察はみんな市民の味方だと思っていました。もちろん大半の警察官は未だそうであると信じたいのですが、昨今の痴漢冤罪事件や西松建設事件を見るにつけ、彼らの目線が国民からいつの間にか国家という実体のない大きなものへと移り変わっているのではないかと感じてしまいます。シーマ・ガラハウじゃないけど、「お前はどっちの味方だ!?」と声を大にして警察や検察、果てには裁判官に問うてみたいです。
本日、1990年に起きた幼女殺害事件、通称足利事件の犯人とされて無期懲役刑を言い渡されていた菅家受刑者が、逮捕の決め手となったDNA鑑定の結果が近年の技術で再鑑定された結果覆り、冤罪である可能性が高いと認められたことによって釈放を認められました。
この足利事件については私も四月に「死刑制度について」で簡単に言及していますが、まさかこれほどまで早く菅家氏の釈放が認められるとは思っていませんでした。とはいえ犯人のものとされる体液のDNAと菅家氏のDNAが異なっていたという鑑定結果が複数の鑑定人よりでているので、菅家氏がこの事件の犯人ではないことはもはや明白といっても過言ではなく、無事釈放された事実はひとまず歓迎したいと思います。
しかし冤罪に巻き込まれた菅家氏は逮捕から実に約十七年という長い期間を獄中につなぎ置かれ、いくら釈放されたとしても警察、検察、裁判所が奪った彼のこの時間はもう戻ってきません。先ほど会見の模様を私もニュースで見ましたが、自分などでは到底理解することも出来ないほどの無念を抱えていたと思うたびに胸がきつくつかえました。菅家氏は会見で警察や検察、裁判官を許すことが出来ないと述べていましたが、彼の受けてきた苦しみを考えるとそれも無理もないことだと思います。
ではその菅家氏を無実の罪で苦しめた連中はどうかといえば、先ほどの報道ステーションでのインタビューによると、
「当時としては最高の技術であるDNAの鑑定が出た(一致した)のだから、ベストの判断だった」
と述べていましたが、これについては私からはっきりと詭弁だと言わせてもらいます。
実は以前にこの足利事件の発生当時の詳しい状況を調べたことがありましたが、やはり当時からも捜査手法に問題がある、冤罪なのではという声が少なからずあったそうです。そうした菅家氏が犯人だとする捜査結果の代表的な疑問として、ちょっと今細かい確認はとっていないのですが、なんでも菅家氏が犯人だと判決されたこの足利事件以外にも、発生当時の現場周辺で幼児の殺人事件がほかに複数あったそうです。
そんな背景もあり、足利事件で菅家氏が容疑者で捕まったもんだから他の事件も関与しているだろうと世間も思ったそうですし捜査関係者もにらんで捜査をしていたらしいのですが、ある日突然他の事件については捜査が打ち切られ、足利事件だけが菅家氏が犯人だと立件されたそうです。
何故手口も似ていて同一の犯人が疑われる他の事件が無視され足利事件だけが立件されたか、それはやはり他の事件も菅家氏が犯人だとするといろいろと矛盾が起きてくることが見えてきたからに尽きます。このほか犯行経路を警察犬に探索させたら想定していたのと全然逆方向に行ったり、証拠も状況も滅茶苦茶だったりと、どうしてこんなずさんな内容で今まで冤罪だと気がつかなかったのかと思わざるを得ない事件でした。
私は子供の頃、警察はみんな市民の味方だと思っていました。もちろん大半の警察官は未だそうであると信じたいのですが、昨今の痴漢冤罪事件や西松建設事件を見るにつけ、彼らの目線が国民からいつの間にか国家という実体のない大きなものへと移り変わっているのではないかと感じてしまいます。シーマ・ガラハウじゃないけど、「お前はどっちの味方だ!?」と声を大にして警察や検察、果てには裁判官に問うてみたいです。
2009年6月3日水曜日
オウム真理教は何故、過激化したのか
このブログでも既に何度か取り上げていますが、またオウム真理教の事件についてです。
以前にも一度、「広瀬健一氏の手紙について」の記事の中でこのオウム事件を取り上げたことがありますが、既にあの事件から十年以上経っているとはいえ、私は今だからこそ再検証するべき課題がこの事件にはまだたくさん残されていると思います。特に私がもっと真剣に検証しなおすべき必要のあると信じてやまないと考える、何故エリートたちはオウム真理教にのめりこんだのかという点について今日は愚説ながら私見を述べようと思います。
まずこの前の記事でも取り上げた広瀬氏ですが、彼は学生時代には将来を嘱望されるほどの優秀な学生で、恩師にそのまま学会に残っていれば偉大な研究を世に残したとまで言われたほどの秀才でした。なにもこの広瀬氏に限らず、オウム真理教には世の中からすれば相当なエリートに当たる人材が数多く集まっており、オウム事件が取り沙汰された頃には何故彼らのような賢い人間たちほどオウムというカルトにハマってしまったのかという検証が毎日取り沙汰されていました。
しかし結論から言わせてもらうと、当時は結局ワイドショー的な議論を脱することはなく、この問いについて私が納得するような答えを得ることは出来ませんでした。その頃私はまだ小学生でしたが、自分が大きくなったあとにこんな風な変な宗教に引っかかったりはしないものかなどといらぬ心配をしてましたが、こういう事件を二度と引き起こさないため、ある程度事実に整理がついた今だからこそ検証をする必要があるのではないかと、オウムに集まったエリートたちに関する海外の宗教論文を読んだ三、四年前から常々一人で悩んでいました。
そんな中、自分にとってそんな問いへの大きなヒントになる本を見つけました。その本というのも前にも一回取り上げたことがあるかもしれない、島田裕巳氏の「平成宗教20年史」です。
本の内容を説明する前にまず作者である島田氏の経歴について説明しますが、島田氏は第一線の宗教学者として活躍されていたのですが、松本サリン事件が起きるより以前から自身の研究の一貫としてオウム真理教内部の修行やセミナーに参与観察をしていたことから、地下鉄サリン事件以降のオウムバッシングの際に「オウムの擁護者」などと根も葉もないレッテルをつけられて一時学会を追放された事がある学者です。現在は学会に復帰していくつか著作も出しているのですが、この本と並んで「日本の10大宗教」は取って入りやすい内容で私からもお勧めの本です。
さてそんな必ずしも自分と無関係でない島田氏がオウム事件に対してどのような見解を持っているかですが、特筆すべき意見としてオウム真理教をバブル期以前と以後に分けている点です。これはオウム真理教に限らず昭和に躍進した創価学会や統一教会にも一致する特徴なのですが、これら新宗教はバブル崩壊以前までは信者数が一貫して増加をし続けたものの、バブル崩壊以後はどこも新規入信者数に一定の歯止めがかかり、伸び悩みの傾向を見せているのです。
唯一といっていいほどの例外は真如苑ですが、オウム真理教もバブル崩壊までは信者数が右肩上がりに増えており、その頃の教団は後にあれほどの凶悪犯罪を起こす気配はあまり持っていなかったそうです。
一概にこれがすべての原因だとは言い切れないとしつつも島田氏は、オウムが凶悪化した原因の一つとしてバブル崩壊によってこれまでの規定路線による信者の拡大が思うように図れなくなったのも遠因しているのではないかと主張しています。もちろん、バブル崩壊によって前みたいに無尽蔵にお布施を集められなくなったのも原因として挙げていますが。
では何故バブル崩壊後、オウム真理教のみならず他の宗教でも同じように信者数の増加に歯止めがかかったのかですが、島田氏の意見を私の解釈で説明すると、
「いつの時代も世の中の動きについて来れない人間はおり、特にバブル期のように享楽的に消費生活を送ることが自明視された時代に反発を覚える人間は少なくなく、そんな人間に対してカルトとされる宗教はお金は邪なものだから捨てなさいといって彼らのお金をお布施として巻き上げるが、お金だけが価値じゃない世界を変わりに彼らに与えることで信者を獲得していた」
といったところでしょうか。
つまりバブルや高度経済成長の波に乗ることが出来なかった層をカルトは取り込んでいたのですが、肝心のバブル自体がなくなったことでそういった世の流れにあぶれる層自体がいなくなり、新規入信者が先細っていったという解釈です。案外、こんな感じじゃないかと私も思います。
このようにバブル崩壊という環境の激変が組織内部が先鋭化していったのがオウムの暴走の原因となったという説ですが、私はそれ以上に、バブル期の世の中について来れない人間がオウムに行き着いたという話の方が印象に残りました。
もし仮にバブル期でも、あまり消費欲もなく静かに暮らして生きたい人間たちも悠然と構えて暮らしていける世の中だったら、オウム内部であれだけの兵器を作ったエリートは集まらなかったのではないかと思わずにはいられません。私は社会の安定のために何が一番大切かといったら、多様な存在を同一社会において認められる多様性と慣用性をまず挙げるようにしております。
言ってしまえばオウムに集まったエリートたちはそうした社会の慣用性が低かったためにオウムに走ったのではないか、そう最近になって思うようになりました。これはカルトに限らずテロリストの話にもつながっていきますが、知らず知らずのうちに社会の中で囲い込みをすることが潜在的な危険を増やすとされ、こうした事態を防ぐために常日頃から社会の慣用性を強く持つよう構成員は自覚するべきというのが私の持論です。少なくとも、飲み会に出るか出ないかというくらいで付合いが悪い、悪くないといった評価をするのを日本人は止めるべきなんじゃないかと、酒が飲めない自分が代表して言っておきます。
以前にも一度、「広瀬健一氏の手紙について」の記事の中でこのオウム事件を取り上げたことがありますが、既にあの事件から十年以上経っているとはいえ、私は今だからこそ再検証するべき課題がこの事件にはまだたくさん残されていると思います。特に私がもっと真剣に検証しなおすべき必要のあると信じてやまないと考える、何故エリートたちはオウム真理教にのめりこんだのかという点について今日は愚説ながら私見を述べようと思います。
まずこの前の記事でも取り上げた広瀬氏ですが、彼は学生時代には将来を嘱望されるほどの優秀な学生で、恩師にそのまま学会に残っていれば偉大な研究を世に残したとまで言われたほどの秀才でした。なにもこの広瀬氏に限らず、オウム真理教には世の中からすれば相当なエリートに当たる人材が数多く集まっており、オウム事件が取り沙汰された頃には何故彼らのような賢い人間たちほどオウムというカルトにハマってしまったのかという検証が毎日取り沙汰されていました。
しかし結論から言わせてもらうと、当時は結局ワイドショー的な議論を脱することはなく、この問いについて私が納得するような答えを得ることは出来ませんでした。その頃私はまだ小学生でしたが、自分が大きくなったあとにこんな風な変な宗教に引っかかったりはしないものかなどといらぬ心配をしてましたが、こういう事件を二度と引き起こさないため、ある程度事実に整理がついた今だからこそ検証をする必要があるのではないかと、オウムに集まったエリートたちに関する海外の宗教論文を読んだ三、四年前から常々一人で悩んでいました。
そんな中、自分にとってそんな問いへの大きなヒントになる本を見つけました。その本というのも前にも一回取り上げたことがあるかもしれない、島田裕巳氏の「平成宗教20年史」です。
本の内容を説明する前にまず作者である島田氏の経歴について説明しますが、島田氏は第一線の宗教学者として活躍されていたのですが、松本サリン事件が起きるより以前から自身の研究の一貫としてオウム真理教内部の修行やセミナーに参与観察をしていたことから、地下鉄サリン事件以降のオウムバッシングの際に「オウムの擁護者」などと根も葉もないレッテルをつけられて一時学会を追放された事がある学者です。現在は学会に復帰していくつか著作も出しているのですが、この本と並んで「日本の10大宗教」は取って入りやすい内容で私からもお勧めの本です。
さてそんな必ずしも自分と無関係でない島田氏がオウム事件に対してどのような見解を持っているかですが、特筆すべき意見としてオウム真理教をバブル期以前と以後に分けている点です。これはオウム真理教に限らず昭和に躍進した創価学会や統一教会にも一致する特徴なのですが、これら新宗教はバブル崩壊以前までは信者数が一貫して増加をし続けたものの、バブル崩壊以後はどこも新規入信者数に一定の歯止めがかかり、伸び悩みの傾向を見せているのです。
唯一といっていいほどの例外は真如苑ですが、オウム真理教もバブル崩壊までは信者数が右肩上がりに増えており、その頃の教団は後にあれほどの凶悪犯罪を起こす気配はあまり持っていなかったそうです。
一概にこれがすべての原因だとは言い切れないとしつつも島田氏は、オウムが凶悪化した原因の一つとしてバブル崩壊によってこれまでの規定路線による信者の拡大が思うように図れなくなったのも遠因しているのではないかと主張しています。もちろん、バブル崩壊によって前みたいに無尽蔵にお布施を集められなくなったのも原因として挙げていますが。
では何故バブル崩壊後、オウム真理教のみならず他の宗教でも同じように信者数の増加に歯止めがかかったのかですが、島田氏の意見を私の解釈で説明すると、
「いつの時代も世の中の動きについて来れない人間はおり、特にバブル期のように享楽的に消費生活を送ることが自明視された時代に反発を覚える人間は少なくなく、そんな人間に対してカルトとされる宗教はお金は邪なものだから捨てなさいといって彼らのお金をお布施として巻き上げるが、お金だけが価値じゃない世界を変わりに彼らに与えることで信者を獲得していた」
といったところでしょうか。
つまりバブルや高度経済成長の波に乗ることが出来なかった層をカルトは取り込んでいたのですが、肝心のバブル自体がなくなったことでそういった世の流れにあぶれる層自体がいなくなり、新規入信者が先細っていったという解釈です。案外、こんな感じじゃないかと私も思います。
このようにバブル崩壊という環境の激変が組織内部が先鋭化していったのがオウムの暴走の原因となったという説ですが、私はそれ以上に、バブル期の世の中について来れない人間がオウムに行き着いたという話の方が印象に残りました。
もし仮にバブル期でも、あまり消費欲もなく静かに暮らして生きたい人間たちも悠然と構えて暮らしていける世の中だったら、オウム内部であれだけの兵器を作ったエリートは集まらなかったのではないかと思わずにはいられません。私は社会の安定のために何が一番大切かといったら、多様な存在を同一社会において認められる多様性と慣用性をまず挙げるようにしております。
言ってしまえばオウムに集まったエリートたちはそうした社会の慣用性が低かったためにオウムに走ったのではないか、そう最近になって思うようになりました。これはカルトに限らずテロリストの話にもつながっていきますが、知らず知らずのうちに社会の中で囲い込みをすることが潜在的な危険を増やすとされ、こうした事態を防ぐために常日頃から社会の慣用性を強く持つよう構成員は自覚するべきというのが私の持論です。少なくとも、飲み会に出るか出ないかというくらいで付合いが悪い、悪くないといった評価をするのを日本人は止めるべきなんじゃないかと、酒が飲めない自分が代表して言っておきます。
2009年6月2日火曜日
加速する経済世界
ここ二、三年の間のうちの親父の口癖に、こんなものがあります。
「昔は一つのビジネスモデルが三十年続いた。今は三年持てばいいほうだ」
親父の言う通りボーっと消費者で居続けるとあまり気がつきませんが、この十数年間の経済変動は19世紀における百年間の変動よりも大きいのではないかと思うほどに変動が激しいと言われています。
一例を上げると、今から十年前にあって今の日本にはほぼ全くといっていいほどになくなってしまったものとしてPHSがあります。
大体95年くらいから携帯電話の電池技術が進んで個人用の電話を持つ日本人が増えていったのですが、その携帯電話市場は今の世代の中高生には信じられないかもしれませんが、同じ携帯電話でも現存の携帯電話よりPHSという電波などの仕様が異なっていた電話機の方がシェアが強く、また携帯電話会社でも当初はJ-PHONEといって、現ソフトバンクモバイルの前身となった会社が一番シェアを持っていました。
このPHSは電波が弱いものの携帯電話より通話料や基本料金が割安ということで当初早く普及して行ったのですが、2000年に入る頃には携帯電話の通話料もどんどん安くなっていき、同じ値段なら機能も充実していることから徐々に乗り換えられていってしまった電話です。年代にして大体私より二学年くらい上の世代はまだこれを使ったことがありますが、私らの年代だとマセたクラスメートくらいしか使っていませんでした。逆に二学年下になるともはや見たこともないというほどで、実に短い間だけだったのだと今更ながら思います。
そうしてPHSを携帯電話市場から追い出した現存の携帯電話も、当初はJ-PHONEが一番強かったのに97年頃にNTTドコモが「ⅰモード」を作り出すや一変し、一挙にシェアを奪い取られてしまいました。かと思った2000年初頭にauが洗練されたデザインと「着うた」を引っさげるやぐっと躍進したものの、今では「着うた」はどこの携帯電話会社でも標準装備となり、ドコモとソフトバンクがシェアを増やしてauだけが一人負けの様相を見せています。
ここ十数年で一番めまぐるしい変動があったのはこの携帯電話市場ですが、ほかのいろんな日本の市場でもこれと似たようなめまぐるしく市場変動が起きています。それこそかつて勝者だった企業がそのすぐ後には敗者になっていることも最近では珍しくなく、うちの親父の言っている事もあながち間違ってはいないでしょう。
では何故それほどまで経済世界の変動が激しいのか、その原因は言ってしまえば技術革新、サービス革命の速度が上がっているということに尽きるでしょう。
それこそ昔であれば地元に店を開いて落ち着けばそこで十年以上は安定して営業できたものが、今では毎年何かしらのてこ入れやら店舗拡大を図らなければすぐに潰れてしまう、というような具合です。しかも現状の具合の悪いところは、潰れないためにてこ入れをしたからって必ずそれが効果を出すとは限らず、下手をしたら命取りにもなってしまうことです。
これは逆を言えば、新規参入側はⅰ-podのように一気に大もうけできる可能性が広がったと見ることもできます。ですがあまりにも早すぎる変動では技術的、経済的には良くとも、その社会に住む人間にとってはかえって住みづらくはないんじゃないか、と言うのがこのところの私のマイブームです。
確かに既得権益層がいつまでも何もせずに生活できるような世界は問題外ですが、人生死ぬまで努力し続けなければならない世の中もどんなものかということで、親父の言を借りるなら一つのビジネスが三年も持たない世の中というのは息苦しい気がします。
じゃあ具体的にどうすればいいのかですが、私の案は一つは過剰なグローバル化にやや制限をかけて過剰な国際競争にブレーキをかけることだと思います。何も共産主義ほど徹底するのには反対ですが、人間の競争を野放しにするのはそれはそれで危険なことではないかと思い始めてきました。
「昔は一つのビジネスモデルが三十年続いた。今は三年持てばいいほうだ」
親父の言う通りボーっと消費者で居続けるとあまり気がつきませんが、この十数年間の経済変動は19世紀における百年間の変動よりも大きいのではないかと思うほどに変動が激しいと言われています。
一例を上げると、今から十年前にあって今の日本にはほぼ全くといっていいほどになくなってしまったものとしてPHSがあります。
大体95年くらいから携帯電話の電池技術が進んで個人用の電話を持つ日本人が増えていったのですが、その携帯電話市場は今の世代の中高生には信じられないかもしれませんが、同じ携帯電話でも現存の携帯電話よりPHSという電波などの仕様が異なっていた電話機の方がシェアが強く、また携帯電話会社でも当初はJ-PHONEといって、現ソフトバンクモバイルの前身となった会社が一番シェアを持っていました。
このPHSは電波が弱いものの携帯電話より通話料や基本料金が割安ということで当初早く普及して行ったのですが、2000年に入る頃には携帯電話の通話料もどんどん安くなっていき、同じ値段なら機能も充実していることから徐々に乗り換えられていってしまった電話です。年代にして大体私より二学年くらい上の世代はまだこれを使ったことがありますが、私らの年代だとマセたクラスメートくらいしか使っていませんでした。逆に二学年下になるともはや見たこともないというほどで、実に短い間だけだったのだと今更ながら思います。
そうしてPHSを携帯電話市場から追い出した現存の携帯電話も、当初はJ-PHONEが一番強かったのに97年頃にNTTドコモが「ⅰモード」を作り出すや一変し、一挙にシェアを奪い取られてしまいました。かと思った2000年初頭にauが洗練されたデザインと「着うた」を引っさげるやぐっと躍進したものの、今では「着うた」はどこの携帯電話会社でも標準装備となり、ドコモとソフトバンクがシェアを増やしてauだけが一人負けの様相を見せています。
ここ十数年で一番めまぐるしい変動があったのはこの携帯電話市場ですが、ほかのいろんな日本の市場でもこれと似たようなめまぐるしく市場変動が起きています。それこそかつて勝者だった企業がそのすぐ後には敗者になっていることも最近では珍しくなく、うちの親父の言っている事もあながち間違ってはいないでしょう。
では何故それほどまで経済世界の変動が激しいのか、その原因は言ってしまえば技術革新、サービス革命の速度が上がっているということに尽きるでしょう。
それこそ昔であれば地元に店を開いて落ち着けばそこで十年以上は安定して営業できたものが、今では毎年何かしらのてこ入れやら店舗拡大を図らなければすぐに潰れてしまう、というような具合です。しかも現状の具合の悪いところは、潰れないためにてこ入れをしたからって必ずそれが効果を出すとは限らず、下手をしたら命取りにもなってしまうことです。
これは逆を言えば、新規参入側はⅰ-podのように一気に大もうけできる可能性が広がったと見ることもできます。ですがあまりにも早すぎる変動では技術的、経済的には良くとも、その社会に住む人間にとってはかえって住みづらくはないんじゃないか、と言うのがこのところの私のマイブームです。
確かに既得権益層がいつまでも何もせずに生活できるような世界は問題外ですが、人生死ぬまで努力し続けなければならない世の中もどんなものかということで、親父の言を借りるなら一つのビジネスが三年も持たない世の中というのは息苦しい気がします。
じゃあ具体的にどうすればいいのかですが、私の案は一つは過剰なグローバル化にやや制限をかけて過剰な国際競争にブレーキをかけることだと思います。何も共産主義ほど徹底するのには反対ですが、人間の競争を野放しにするのはそれはそれで危険なことではないかと思い始めてきました。
2009年5月31日日曜日
罪悪感とは 後編
前回の罪悪感についての記事の続きです。
さて前回はまず罪悪感を人間が持つのは先天的か後天的かと触れ、仮に後天的に得られるのであれば悪事とされる行為の後の制裁に対する恐怖に近くなるが、罪悪感は制裁後も何かと気に悩んだり悔いたりする感情だからこれではちょっと違うんじゃないんじゃないかというところで話を終えました。そこで今日は罪悪感についていくつかの症例を紹介し、私の考える罪悪感の定義について解説しようと思います。
ではその罪悪感の症例という奴ですが、エスパーみたいに察しのいい人とか文学好きな人ならもしかしたらピンと来ているかもしれませんが、あのロシアの文豪ドストエフスキーが最高傑作と呼び声の高い「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフの話です。
ラスコーリニコフは金がないために大学を休学せざるを得なかったのですが、彼がその追い詰められた状況を打開するために考えた行動というのが、誰からも嫌われている金貸しの老婆を殺害してお金を奪うということでした。彼は誰からも嫌われている人物を殺すのだし、そうして奪ったお金で優秀な学生である自分が大学を出て世に貢献するのだから何も悪びれることはないと決心してこの計画を実行します。しかしその際、金貸しの老婆だけでなくたまたま家に戻ってきた、こちらは嫌われていなかった老婆の妹まで殺してしまいます。
よく解説などを読むとこの無関係な妹を殺したことがラスコーリニコフの後の苦悩へとつながったという解説が多いのですが、私が読んだ印象だとそこまで妹の殺害が影響したようにはあまり思えず、それよりも老婆を含めた殺人というそれ自体の事実が、自ら計画時に正当化しているにもかかわらず、その後彼を狂人かのように延々と思い悩ませる原因だったのではないかと感じました。
とまぁ罪と罰のあらすじはそんな感じで、周到に正当化していたにもかかわらずラスコーリニコフは殺害後に悩み、そうまでして奪った金も手元には残さず半ば投げ捨てるかのように手放してしまい、会う人すべてに猜疑心を持ってはしっちゃかめっちゃかな行動を続けます。なおそんなラスコーリニコフにかなり早い段階で犯人だと目星をつけた刑事ポルフィーリィーとのやり取りは実に内容が鋭く、この作品の最大の見せ場となっております。
このラスコーリニコフの思い悩むシーンに良く出てくる単語の一つに、ナポレオンという言葉があります。ラスコーリニコフはナポレオンがエジプト遠征から帰国する際に自分が引き連れてきた兵隊皆を置き去りにし、帰国するやクーデターを起こして最高権力者に就いた事実を引用しては、英雄は自らがどれだけ残酷で冷徹な行為を行ってもそれを全く意に介さない、しかるに自分はあの老婆の殺害でこれほどまで苦しめられるのだから英雄のような大人物ではなかったのか、というように自問自答をします。
当時のヨーロッパでナポレオンという存在が知識人層に与えた影響は相当強かったと思わせられるエピソードですが、私は言ってしまえばここに一般の人間が持つ罪悪感という正体が隠されていると考えています。
それがどれだけ後につながる行為だとしても、どれだけ正当だと言いわけできるような行為だとしても、犯罪とされる殺人や盗みという行為に対して人間は本能的に拒否する感情があるのではないかと私は思います。生物学によるとどの種族も基本的には自分の属する種の繁栄を遺伝子レベルで望むため、雌の奪い合いといった特殊な状況は除き、同種間で殺害が行われると行った生物は高いストレスを覚えるそうです。人間の場合は戦争といった他の種族とは大きく異なる形で殺人を行うことはありますが、私が知る限り少なくとも同部族、同文化間で殺人や盗みを奨励した社会はなく、遺伝子的な影響によるものだとしてもこうした意識こそが人間が先天的に持つ良心ではないかと考えています。
つまりはその生まれ持った良心の延長に反する行為、当該社会内で犯罪とされる行為に対して深いストレスや自責の念を生じさせる罪悪感というのは、後天的にその範囲や効力が強化されることはあっても、根っこのところでは先天的なものが起因しているのではないかということです。
逆を言えば先ほどのラスコーリニコフの考えるナポレオンのように、自らの行為に対して罪悪感のような呵責を覚えない人間というのはいい意味でも、悪い意味でも手に負えないところがあるように思えます。織田信長や曹操にもこうした面がありますが、講談の中でならいざ知らず、いざ身近にこんな人物がいたら厄介なことこの上ないでしょう。
最後に宗教的な話をしますが、私の解釈だと他の宗教に比してキリスト教はこの罪悪感を強く打ち出して信仰をしているように見えます。まず最初にアダムとイヴが天界で罪を犯したせいで彼らの子孫である人間は下界に落とされてしまったので、この世に生きている間は必死に許しを乞いて神へ贖いをしなければならないというのがキリスト教の基本的な教えなのですが、やっぱり私が見ていると何か罪悪感というものを強く持ちなさいという様に言っているように感じます。私なんか子供の頃は今でこそ素で引くような滅茶苦茶なことばっかしていて、このキリスト教の教えに触れた際に一時は猛烈に罪悪感を感じて強く惹き込まれた経験があります。今ではキリスト教に対して強い敬意を抱くのに変わりはありませんがちょっと違うなぁと思うところも出てきて距離を置いていますが、そういった下地があるからこそこの罪悪感について強く思うところがあるのかもしれません。
さて前回はまず罪悪感を人間が持つのは先天的か後天的かと触れ、仮に後天的に得られるのであれば悪事とされる行為の後の制裁に対する恐怖に近くなるが、罪悪感は制裁後も何かと気に悩んだり悔いたりする感情だからこれではちょっと違うんじゃないんじゃないかというところで話を終えました。そこで今日は罪悪感についていくつかの症例を紹介し、私の考える罪悪感の定義について解説しようと思います。
ではその罪悪感の症例という奴ですが、エスパーみたいに察しのいい人とか文学好きな人ならもしかしたらピンと来ているかもしれませんが、あのロシアの文豪ドストエフスキーが最高傑作と呼び声の高い「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフの話です。
ラスコーリニコフは金がないために大学を休学せざるを得なかったのですが、彼がその追い詰められた状況を打開するために考えた行動というのが、誰からも嫌われている金貸しの老婆を殺害してお金を奪うということでした。彼は誰からも嫌われている人物を殺すのだし、そうして奪ったお金で優秀な学生である自分が大学を出て世に貢献するのだから何も悪びれることはないと決心してこの計画を実行します。しかしその際、金貸しの老婆だけでなくたまたま家に戻ってきた、こちらは嫌われていなかった老婆の妹まで殺してしまいます。
よく解説などを読むとこの無関係な妹を殺したことがラスコーリニコフの後の苦悩へとつながったという解説が多いのですが、私が読んだ印象だとそこまで妹の殺害が影響したようにはあまり思えず、それよりも老婆を含めた殺人というそれ自体の事実が、自ら計画時に正当化しているにもかかわらず、その後彼を狂人かのように延々と思い悩ませる原因だったのではないかと感じました。
とまぁ罪と罰のあらすじはそんな感じで、周到に正当化していたにもかかわらずラスコーリニコフは殺害後に悩み、そうまでして奪った金も手元には残さず半ば投げ捨てるかのように手放してしまい、会う人すべてに猜疑心を持ってはしっちゃかめっちゃかな行動を続けます。なおそんなラスコーリニコフにかなり早い段階で犯人だと目星をつけた刑事ポルフィーリィーとのやり取りは実に内容が鋭く、この作品の最大の見せ場となっております。
このラスコーリニコフの思い悩むシーンに良く出てくる単語の一つに、ナポレオンという言葉があります。ラスコーリニコフはナポレオンがエジプト遠征から帰国する際に自分が引き連れてきた兵隊皆を置き去りにし、帰国するやクーデターを起こして最高権力者に就いた事実を引用しては、英雄は自らがどれだけ残酷で冷徹な行為を行ってもそれを全く意に介さない、しかるに自分はあの老婆の殺害でこれほどまで苦しめられるのだから英雄のような大人物ではなかったのか、というように自問自答をします。
当時のヨーロッパでナポレオンという存在が知識人層に与えた影響は相当強かったと思わせられるエピソードですが、私は言ってしまえばここに一般の人間が持つ罪悪感という正体が隠されていると考えています。
それがどれだけ後につながる行為だとしても、どれだけ正当だと言いわけできるような行為だとしても、犯罪とされる殺人や盗みという行為に対して人間は本能的に拒否する感情があるのではないかと私は思います。生物学によるとどの種族も基本的には自分の属する種の繁栄を遺伝子レベルで望むため、雌の奪い合いといった特殊な状況は除き、同種間で殺害が行われると行った生物は高いストレスを覚えるそうです。人間の場合は戦争といった他の種族とは大きく異なる形で殺人を行うことはありますが、私が知る限り少なくとも同部族、同文化間で殺人や盗みを奨励した社会はなく、遺伝子的な影響によるものだとしてもこうした意識こそが人間が先天的に持つ良心ではないかと考えています。
つまりはその生まれ持った良心の延長に反する行為、当該社会内で犯罪とされる行為に対して深いストレスや自責の念を生じさせる罪悪感というのは、後天的にその範囲や効力が強化されることはあっても、根っこのところでは先天的なものが起因しているのではないかということです。
逆を言えば先ほどのラスコーリニコフの考えるナポレオンのように、自らの行為に対して罪悪感のような呵責を覚えない人間というのはいい意味でも、悪い意味でも手に負えないところがあるように思えます。織田信長や曹操にもこうした面がありますが、講談の中でならいざ知らず、いざ身近にこんな人物がいたら厄介なことこの上ないでしょう。
最後に宗教的な話をしますが、私の解釈だと他の宗教に比してキリスト教はこの罪悪感を強く打ち出して信仰をしているように見えます。まず最初にアダムとイヴが天界で罪を犯したせいで彼らの子孫である人間は下界に落とされてしまったので、この世に生きている間は必死に許しを乞いて神へ贖いをしなければならないというのがキリスト教の基本的な教えなのですが、やっぱり私が見ていると何か罪悪感というものを強く持ちなさいという様に言っているように感じます。私なんか子供の頃は今でこそ素で引くような滅茶苦茶なことばっかしていて、このキリスト教の教えに触れた際に一時は猛烈に罪悪感を感じて強く惹き込まれた経験があります。今ではキリスト教に対して強い敬意を抱くのに変わりはありませんがちょっと違うなぁと思うところも出てきて距離を置いていますが、そういった下地があるからこそこの罪悪感について強く思うところがあるのかもしれません。
登録:
投稿 (Atom)