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2014年7月5日土曜日

北朝鮮への一部制裁解除について

  今朝窓と玄関開けて部屋に風通してたらスイーパーのおばちゃんがドア越しに話しかけてきました
 
「(#゜Д゜)<ちょっとアンタ、いいかしら!」
「(;゜Д゜)<あっ、はい」
「(#゜Д゜)<あんたんとこの隣に住んでる人、犬飼ってるでしょ。その犬が共用部分の廊下にいっつもおしっこ垂れてるから、今度会ったら放し飼いしないよう注意しといて!」
「(;゜Д゜)<は、はぁ……」
 
 会話内容も起こっている内容も全体的にカオスです。これが中国。
 
 話は本題に入りますが、各所での報道の通りに日本政府は北朝鮮に対して実施している制裁の一部を、拉致被害者の調査を全面的にやり直すという北朝鮮側の約束を受けて解除すると発表しました。今回のこの政府の対応に対する私の意見を述べると、大方のメディア同様に時期尚早で、また北朝鮮に騙されるだけなのではないかという気がします。
 
 解除する制裁の内容は発音が難くてアナウンサー泣かせの貨客船万景峰号の入港禁止や日本からの送金停止などですが、私が思うに北朝鮮が一番求めているのは昨年落札された事実上の大使館に当たる朝鮮総連の建物ではないかという気がします。日本側としてはこの朝鮮総連の建物を今回売却停止にしなかった一方で引き渡し強制執行まで実施しない辺り、次回以降のカードに使うつもりではないかと思います。
 
 今回の制裁解除については拉致被害者家族並びに大手メディアなども批判しており、その理由というのもまだ北朝鮮は調査をやると言っているだけで何も成果、具体的には拉致被害者の情報並びに身柄を明け渡しておらず、また調査はしたけど生き残っている拉致被害者はいないという結論を出してくるのではと懸念しております。この批判する側の意見はもっともで、これまでの北朝鮮の行為を考えると十分にありうるシナリオです。かつて安倍首相は官房副長官時代、当時の小泉首相の北朝鮮訪問に同行した際は北朝鮮側から謝罪がない限りは交渉を打ち切るべきだと主張して注目を浴びましたが、今回の対応を見ると月日と共に人柄も変わってしまったなと思えてきます。
 
 ただ全部が全部、政府を批判する気にはなりません。仮に今回の北朝鮮側の調査をやるという回答に満足せず何も日本側がアクションを取らなければそこで交渉は完全ストップしてしまう可能性もあり、北朝鮮を何らかの形で動かして交渉をしていくには最低限の日本側のアクションこと一部制裁解除もやむを得ない気がします。もっともこれは一種の賭けに当たり、仮にまたいつものように北朝鮮が何にもならない調査結果を出そうものなら安倍首相への批判は高まり、大きな痛手を負うこととなるでしょう。
 今回の北朝鮮外交に限るわけじゃないですが、集団的自衛権の容認という安倍首相の悲願が達成されてから安倍首相はどうにも以前ほどの慎重さを欠くようになったのではないかと思えます。この件もそうですがかつての第一次政権を崩壊に追いやる初撃となったホワイトカラーエグゼンプションこと残業代不払い法をまた出して通過させるなど、なんかもう周りに言われるまま政策通すようになってる気がします。肝心の第三の矢とやらはいつになっても飛んでこないし、相変わらず言ってることはよくわからんし。
 
 なお残業代不払い法についてはメディアも馬鹿だなと内心考えてます。今回の法案では年収800万円以上の会社員が対象ということですが、年収800万円以上なら大抵が既に管理職になっており、元から残業代が支払われない人間が大半でしょう。私が記事書くなら大手企業30社あたり、または年収800万円以上の人を200人くらい調査して残業代をもらっているかどうか聞き、限りなく0%に近い数字を出した上で何にもならない法案だと批判するのですが。
 
 最後にもう一度北朝鮮の話をすると、仮に北朝鮮が拉致被害者を返すと言った場合、日本は北朝鮮に食糧支援を含む経済支援を本当にやるのか、この辺についてもう少し考える必要があるでしょう。やるとしたら何億まで出すのか、そして以前に「拉致問題解決に向け天秤にかかる人権」で書いたように、北朝鮮の人権を無視するのか、もうちょっと議論してほしいなというのが正直な意見です。

2014年7月3日木曜日

書き続けられる妙な根気

 友人の麻雀太郎が運営している「ホンマ中国!」というブログでこの前、「中国におけるサッカー、ドイツ代表の人気の謎 」という記事がアップされました。内容は中国では何故かサッカーのドイツチームが人気だということを取り上げておりそこそこ読ませられる内容なので興味がある方は是非読まれることをお勧めします。
 
 ちなみにこの友人のブログですが、こういってはなんですが自分に影響されてブログを始めた友人らの中ではまだ頑張っている方で、引かk的長く続いているだけでなく更新数もなかなか多いです。これまでにも私の周りでは何人かブログを始めているのですが、大体が半年も持たず、あと更新回数も一ヶ月に一回くらいが限度で言ってしまえば長く続かないことが多いです。
 実際にブログをやっている人ならわかると思いますが、最初は色々と夢が膨らむものの続けていくとなるとなかなか思うようにはならず、序盤なんかはモチベーションが下がることも多いと思います。また細々と継続していくのも案外難しく、この友人も先日に話をした時、「ブログを書かなきゃ」と追われるように思うのが負担に感じる時があると正直に述べていました。
 
 そんな中で私は、というか私のブログは際立っているというか、更新回数で言えばほぼ毎日に一回程度でツイッターとかと比べると控え目ですが、その一回に公開されるテキスト量は自分で読み返していてもマジで引くくらい膨大で、テキスト量だけ見れば日本でも屈指のブログサイトになってきたなと我ながら思います。よく周りからもなんでネタ切れしないのと何度も聞かれていますが、私に言わせると書きたい内容はいくらでもあるのに書く暇がない、書き切れないのが実情で、「ブログ書かなきゃ」と追われるような気持ちになったことも多分全くないでしょう。
 知ってる人には早いですが私はこれまでに何度も勤務先変えてるし見方によれば飽きっぽい性格に見えるでしょうが、意外に自分は根気強いというか異常な執念深さを持っているとこの頃よく思います。このブログだけでも「真似できるなら真似してみろよ」と言いたくなるような内容ですし、また姉妹サイトの「企業居点」についても、何故万単位の海外法人のデータを気が狂うこともなく一人で黙々と収集してアップしているのだろうか、果たして同じことが出来る人間はほかにいるのかと、誇張ではなく頭おかしいんじゃないかという風に我が事ながら思います。
 
 ただ根気があればいいってもんじゃないですし、間違った行為をしているとわかっていながらその間違っている組織に居続ける人などに対して私は正直に言って軽蔑しますが、周囲に影響されることなくじっと集中し続けられるという意味では意外と自分は稀有な存在だったのかもしれません。それで最終的に何が言いたいのかというと、やっぱりブログは毎日とかじゃなく、自分のやれるペースで毎週でも毎月でもいいから心に負担を感じない程度で地道に続けるのがいいんじゃないかなということです。
 
 それにしてもたまに思うのですが、仮に一日ずっと好き放題に書いたら自分はどれだけ記事が書けるのだろうか、試してみたくなるけどそれだと読む側がえらい負担になると思い、手控えてます。

2014年7月2日水曜日

習近平の支持率

 今日おっさんが一人でやっている汚い売店でバナナを買おうとして5本くれって言ったら、何故かおっさん8本切ってそのまま売ってきました。ただ10.6元の所を端数切って10元にしてきたのでまぁいいやと思いそのまま買いましたが、家についてよくよく見ると結構痛んでて、在庫処分とばかりにまとめて買わされたのかなと思えてきました。おっさんにしてやられましたが、店内で放し飼いにしている子猫に免じて水に流すことにします。今日、子猫に指噛まれたけど。
 
 話は本題に入りますが、中国では日本と違って世論調査というか支持率調査といった類のアンケートは一切行われません。なので今月の共産党の支持率はなんて語られることはまずないのですが、ここだけの話として習近平総書記に対する中国人の支持率は相当高いように思えます。言ってしまえば前任の胡錦濤などよりも明らかに支持されており、この辺を日本の報道はうまくつかみ切れていないと現地に来てみて率直に感じました。
 
 習近平とくると恐らく大抵の日本人からしたら尖閣諸島や南沙諸島でやけにごり押ししてくる印象が強いだけに、どっちかっていうと信頼できる人間というよりは横暴なタイプに見え、どことなく見かけもジャイアンに似てるように思えるから腹の中で「ジャイアン近平」なんて呼ぶ人も私以外にいるかもしれません。そんな習近平を何故中国国民は支持するのか、外交で強気の態度に出ているからかと思われるかもしれませんがむしろ彼が評価されているのは内政で、それも汚職撲滅に熱心だと見られているからです。
 
 知ってる方には早いですが一昨日、人民解放軍の元ナンバー2の徐才厚が収賄などの容疑によって中国共産党の党籍を剥奪されました。卑近な例で申し訳ないのですが今の会社の中国人同僚などは朝挨拶をするやこの事件を持ち出し、「習近平はよくやった」とえらく褒め称え、やや興奮した面持ちでした。
 今回の徐才厚を始め、習近平が総書記に就任してからというものの汚職事件での逮捕者はどんどん増えており、しかもこれまでなら絶対に捜査が行き届くはずがないと思われるほどの大物が次々と捕まっております。個人的に一番私のツボにはまったのは中国の環境局の局長で、なんと自宅から一億元(約17億円)が見つかり、余りの金額であったことから捜査の際、札束の枚数を数える機械が途中で4台も壊れるという中国ならではのスケールの大きい汚職をやってました。
 
 日本人からしたら想像できないことでしょうが、中国では本当に汚職が溢れていてどこの日系企業も少なくない金額を有力者に賄賂として渡しています。ただ中国人としてもこのような賄賂天国はよくない、もとい公務員など役人が見ていて腹立つくらい羨ましいということもあって汚職が蔓延する社会は改善させるべきだと自覚してはいるものの、上層部が率先して汚職をやらかすこともあってこれまで目立った進展はありませんでした。
 そんな中、習近平は私から見ても驚くくらい汚職対策には取り組んでおり、またそれを大きく宣伝していることもあって現時点での中国人からの支持度は相当な高さに来ていると感じます。それだけ支持されているからこそ、外交に関しても国内からは特に何も言われないのかもしれません。まぁ中国外交は支持度とはあんま関係なく昔から強引ですが。
 
 私がここで言いたいこととしては、中国国内での政権への支持度を無視して日本が対中戦略を立てるのはちょっと甘い、というより無頓着過ぎないかということです。更に言えば、韓国は国内からの不満に対し問題解決に取り組むことで和らげるのではなく、外に憎悪を向けさせて政権への批判をかわすような手法を取りがちですが、以前の中国もこれと同じような傾向がありました。しかし今の習近平政権は高まる不満に対してきちんと問題解決の姿勢を示すことで着実に支持を広げており、私個人としてみるならばちょっと手ごわい相手だという気持ちを覚えます。

2014年7月1日火曜日

平成史考察~エヴァンゲリオンのブーム(1995~1997年)

 前回記事でも取り上げて予告しましたが、今日は平成以降のアニメ市場において最大のヒット作と言ってもいい「新世紀エヴァンゲリオン」のブームについて、テレビアニメ版の放映から旧劇場版までの当時の状況について私の肌感覚で紹介することにします。
 
 2011年に「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメが放映されてこの作品もブームとなりましたが、ブームの真っ最中には「まどかはエヴァを越えたんじゃないか?」なんていう言葉がネットの一部掲示板で見受ける事もありましたが、私の印象で述べればとてもじゃないですが比較になるレベルではありませんでした。たしかに「魔法少女まどか☆マギカ」も非常に売れた作品ではありますがそれはあくまでアニメファンの間でのレベルであって、社会現象とまで言われ一般人の間でも高い認知を誇ったエヴァのブームとは雲泥の差と言っていいほど違いがあったように私は思います。
 
 ここに入ってようやくエヴァの作品としての簡単な説明を行いますが、この作品は連続テレビアニメ作品として放映され、放映当初でこそスポンサーも注目しないなど前評判の低い作品でしたが、回が進むごとにストーリーを徐々に評価する声が高まるなどして視聴率がどんどん高まっていきました。そうした注目の中で放映された最終話ははっきり言って視聴者からすればまったく意味のわからない謎なエンディングで締めくくられており、その最終話、というよりラスト2話の評価を巡って大きな議論となったことからさらに注目を集めることとなりました。
 最終的にはテレビ放映後から一年後に完結編となる映画版が作られ、その映画版によって一応はストーリーが締めくくられることとなったのですが、その映画版が公開されるまでの間に様々なメディアミックスが行われ、ゲームに漫画、グッズなどが大量に作られ、中でもサウンドトラックに至ってはアニメ作品のCDとしては何十年ぶりともなるオリコンチャートの一位を取るなど華々しい売上げを記録しています。
 
 何故これほどまでにエヴァンゲリオンはブームになったのか。理由は複数あり、まず一つ目としては単純にアニメ作品として優れていたという点が自分の中で挙がってきます。作品中にはBGMとしてクラッシック音楽が大量に使われているのですが、私の知る限りだとこれほどクラッシック曲を多用したアニメ作品はエヴァが初めてだったと思います。そしてエヴァでの成功を見たことから放映後しばらく、影響を受けたのかこの手のクラッシック曲をBGMに使うアニメ作品が続出していたようにも記憶しています。こうした音楽面もさることながら作画と相まった様々な演出も当時としては革新的なものが多かったです。具体例を挙げれば切りがありませんが、黒字背景に白抜き文字だけのサブタイトルや画像をコマ撮りで連続して出す手法など、その後のアニメ作品にも流用される演出手法が数多く作られています。
 
 ただそうしたものを差し置いて、エヴァをこれだけのブームに仕立て上げた最大の要因はなんといってもストーリー構成に限るでしょう。知ってる人には早いですがこの作品はキリスト教における神話と心理学用語をベースにしたストーリーとなっており、しかも単純に見ているだけでは到底理解できないような伏線や設定を張っているため見ている視聴者からしたらワケワカラン状態になること必定で、「見ていてなんだかよくわからないから気になる」の所まで興味を引っ張るのに成功したストーリー構成となってます。
 更に言うと、このエヴァのストーリーが評価されたのは時代の追い風を受けているとも私には思えます。90年代中盤はちょうどバブルが崩壊して日本全体でこれから何を基軸にして生きてけばいいのとやや迷走した時代であり、そんな迷走した時代ゆえなのか何故かオカルトがブームになって「羊たちの沈黙」など心理学に関連したややおどろおどろしい作品がどれも大ヒットしてました。こうした空気の中でエヴァのオカルトベースなストーリーが「深みがある」と捉えられ、人気に繋がった所もあると私は考えています。
 
 ただエヴァはアニメ作品として成功しつつ、市場的に見るならばメディアミックスを完全なまでに果たして大いに稼いだアニメ作品として見ることの方が価値があると思います。それまでのアニメ作品は関連グッズの売上げで大半の制作費を回収するというパターンが主で、そのため必然的に主なグッズを制作・販売するおもちゃメーカーの意向が強く影響しがちでしたが、このエヴァは放映後に発売したVHSビデオテープが物凄い売れ、これ以降のアニメ作品ではビデオの売り上げを見込んで製作予算を組むように市場が変わりました。
 そうした映像作品としてだけでなく、先ほどにも書いたように漫画やゲーム、更にはキャラクターグッズのどれもで高い売上げを記録し、現在に至ってもパチスロに使われて稼いでいると言われるだけに、もはやメディアミックしてない媒体を探す方が困難なほど多方面への展開に成功しています。
 
 以上が主に売り上げに関する話でしたが、社会現象的な面でも話をすると、やっぱり一番印象に残っているのはこの作品の主題歌でした。街中を歩いていると、主にゲーム屋などからでしたがエヴァの主題歌、またはBGMが流れていて、当時の私はアニメを見ていなかったにもかかわらず主題歌の歌詞は何故だか覚えるほど聞く機会が多かったです。またテレビニュースにも度々取り上げられ、アニメを見る層じゃないない人の間でもエヴァに触れる機会は多かったのではと思え、それこそ「知らない方がおかしい」と言えるような雰囲気が当時にはありました。敢えて言うならコンテンツ力のえぐさというか、どんな層にも入り込んでいくというその強いメッセージ性ではこのエヴァが現代だと随一と言ってもよく、従来のストーリーを一部改編してこのところ公開されている新劇場版も多数の動員客を記録している点から言ってもまぁ凄い作品だと言えるでしょう。

2014年6月29日日曜日

ダブルヒロイン考察

 私はまだ見ていないのですが、ディズニー映画の「アナと雪の女王」が大ヒットのロングランを続けているようです。あまりのロングランとなったせいで同時期に公開されたほかの映画が割を食ってどれも興行収入が伸び悩んでいるとも聞区だけにその影響力は絶大で、世界での興行収入も未だ伸び続けているというから驚異的です。
 なお主題歌に関しては多少申し訳ないのですが、このサイトにある替え歌の歌詞がえらく笑えました。
 
 この「アナと雪の女王」ですが、何故これほどまでの大ヒットを記録したのかという分析に、主題歌などと共に「ダブルヒロイン」という要素が受け入れられたからではないかという話を耳にしました。ダブルヒロインとは文字通りそのまま、主役となる女性を二人配置するという手法なのですが、なんでもこの作品では当初はアナ一人にスポットを当てようと考えていたものの、途中で雪の女王ことエルサも主役級に話をからめようって変わり、結果的にはそれが大当たりだったという裏話を聞きました(本当化までは確認してないが)。実際にこれらのワードで検索をかけると、「あなたはアナ派?エルサ派?」とか「アナとエルサのどっちに共感した?」などという言葉がヒットし、作品のファンの間では楽しく議論する一つの題材となっているように見えます。
 
 ところでこのダブルヒロインという手法ですが、改めて考えてみると明確にダブルヒロイン路線と打ち出されていないものの、それに準ずるようなヒット作が多いように思えました。いくつか例を出すと、日本のサブカルチャー市場で恐らく最も早くかつ明確にダブルヒロインが打ち出されたのはアニメの「超時空要塞マクロス」という作品で、この作品だと戦闘機パイロットの主人公は当初、アイドルの女性と恋愛関係であったものの自身の戦闘やヒロインのアイドル生活によって徐々に疎遠となり、逆に戦闘中にあれこれ助言してくれるオペレーターの女性と段々親密になっていって最終的にそっちとくっつく結末なのですが、このアニメの放映中は先ほどの「アナ雪」同様にそれぞれのヒロインで派閥が出来てどちらに優劣があるかという議論が大いに盛り上がったそうです。そうした経緯もあり、このマクロスの続編の俗に言う「マクロスシリーズ」ではダブルヒロインとなる作品が多いです。
 ここまで書いておきながらだけど、私はマクロスはスパロボでしかやったことがなくアニメは「マクロス+」という作品しか見たことないんだけどね。
 
 実際に私が直接触れたことのあるダブルヒロイン作品というと、同じ世代なら共感してくれると思いますがゲームの「ファイナルファンタジー�」です。この作品もヒロインと呼べる女性キャラクターが二人おり、ネタバレしちゃうとそのうち一人はゲーム途中で退場というかお星さまになっちゃうのですが、現代に至るまでどっちが正当なヒロインかで議論が続いています。なお去年に大阪で会った友人とこの話が出た時に自分はティファ派だと言ったら、「やっぱ胸か……」とぼそっと呟かれました。逆にその友人はエアリス派だと言い、二人の間に鋭い空気が一瞬流れました。
 同時期のゲームだとこのFF�のほかに「ドラゴンクエスト�」もダブルヒロインといえ、主人公は途中で二人のヒロインのうちどちらを選ぶかを迫られます。もっともこのゲームだとその後の展開はほとんど一緒だからほかのと比べるとダブルヒロインというにはちょっと物足りない気がしますが。
 
 最後にもう一つ。恐らく誰もこの作品がダブルヒロイン路線であると明確に認識してないまでも作品としてみればダブルヒロインものだと断言できる脅威のヒット作品が存在します。もったいぶらずに言うとそれはアニメの「新世紀エヴァンゲリオン」で、知ってる人には早いですがこの作品では一人の男主人公(シンジ君、香川選手とは関係ない)に対し綾波レイ、惣流アスカの二人の女性ヒロインが同時に存在しており、なおかつこの二人のキャラクターは最初に挙げたマクロス同様に見た目、性格などの点で真逆と言っていい個性を持っています。私もこのエヴァがヒットした90年代中盤にアニメや映画を見ており、周りもそこそこ盛り上がっていたのを肌で感じておりますが、当時もやはりレイ派とアスカ派に分かれてどっちがいいか等という議論はありましたし、またそれぞれを贔屓にする理由というものが明確に分かれておりました。
 
 このダブルヒロインという手法の肝はなんといっても、ファンの間口を二面に渡って広げるという効果に尽きます。どの作品でも二人のヒロインは「控え目VSゴージャス」、「前に引っ張るタイプVS後ろから押してくれるタイプ」などのように真逆の個性を持ち、言ってしまえば片方のヒロインがタイプでなくてももう片方のヒロインはタイプとなりうるため、複数の系統のファンを同時に獲得することが可能となるわけです。いわば銃と剣の二刀流、遠距離でも近距離でも同時に戦えるようなイメージですかね。
 
 総じて言うと、このダブルヒロインという手法はそれほどメジャーな手法と言えないまでもそこそこヒットを促す優秀な要素なのではないかという気がします。エヴァの様に明確に「この作品はダブルヒロイン物です」とはっきり打ち出されていないものの事実上ダブルヒロインになっているヒット作品は多いように思え、逆にダブルヒロインもので大失敗した作品というのはあまり浮かんできません。もっともヒロインが多すぎて失敗した作品なら山の様にあるが。
 逆に「ダブル主人公」の作品はどうかとなると、ヒット作もありますが明らかに失敗している作品も多いように内心思えます。なんで失敗するのかというと簡単な推測ですが、主人公が二人いると肩入れし辛いというか感情移入が出来なくなり、またストーリー展開も一人の主人公を二人のヒロインが取り合うのと比べて二人の主人公が別々の道を歩みがちで分散化してしまう傾向があって盛り上がりをわざわざ落としてしまうためではないかという気がします。パッと挙げられるのだと、「ジョジョの奇妙な冒険」の第七部こと「スティール・ボール・ラン」は二人の主人公が同じレースに勝つという目的で協力し合うという非常に上手いストーリー構成で、この手のダブル主人公ものとしては傑作と言っていいほど面白く、最後の方なんか文字通り神がかった出来だったけど。
 
 以上までがざっと書きたかったことすべてですが、途中で挙げた「新世紀エヴァンゲリオン」は改めてみるとダブルヒロインだと気が付いたのは我ながらなかなか衝撃的でした。同時にこの作品は最近になってまた劇場版が作られて大ヒットするなどそのコンテンツ力を凄まじいの一言に尽き、またあの大ブームの時代に直接触れた人間として何か解説でも書いてこうと思い立ったので次回では久々に平成史の一イベントとしてこの作品を取り上げてみようと思います。

2014年6月26日木曜日

昭和天皇の人となり

 先日に歴史ネタで何かリクエストはと知人に尋ねたら昭和天皇について書いてほしいと返ってきました。昭和天皇についてその歴史的な立ち回りについて書こうとしたら一介じゃとても書き切れないし、またその辺の解説は何も自分じゃなくてもほかの人もやっているので何か自分なりの味付けを加えようと考えたところ、昭和天皇の人物像というか人となりであればまだ書けるのではと思い、今日のこの見出しとなったわけです。
 
 昭和天皇がどういう人物であったかについて、日本人であれば知らない人はまずいないでしょう。平成に時代が切り替わった直後に報道各社で昭和時代を振り返る特集が何度も組まれましたが、それら特集のほとんどに「激動の昭和」という言葉が枕詞の様につき、現在においても「安定の昭和」とか「治世の昭和」なんて言われない辺りこの表現が強勢を保っているように思えます。この激動という言葉の通りに昭和時代に日本は敗戦もすればバブル景気も謳歌しており、文字通り底辺とてっ辺を両方とも体験したという歴史的にもこんな国はこれまで存在したことはそんなにないでしょう。
 そんな昭和時代に最も翻弄された日本人となるとやはり私の中で上がってくるのはこの昭和天皇で、国家元首としての地位に生まれ文字通り神様として崇められましたが太平洋戦争の敗戦によってその地位はなくなり、新たな憲法体制下で「人間宣言」を行った上で象徴天皇制の下で新たな役割を演じることとなります。
 
 昭和天皇がどんな人物だったか、私個人の印象をここで述べると一言で言えば責任感が恐ろしく強くて周囲に求められる役割を自分なりに必死で果たそうとするタイプ、といったところです。伝えられている歴史だと少年時代から非常に頭が良くて英邁な君主になると期待されていて、父親の大正天皇が病弱だったことから皇太子時代から摂政として政務に与かり大過なく運営していた点を見るとやはり非凡な人物だったと思えます。そして自分が天皇になると、自ら立憲君主制の君主足らんと行動している節があり、侍従などの日記によると議会の混乱に不安を感じつつも直接政治に口出ししてはならないとして超えてはならない一線をしっかり引いた上で自重しています。もっとも、満州事変の際には嘘ばっか報告する陸軍に怒り、当時の田中義一首相を叱って総辞職させてしまったことがあり、昭和天皇本人もトラウマになるほど後年に反省してますが。
 
 話は戻りますが終戦後に象徴天皇制の中で新たな役割が求められる中、昭和天皇は比較的スムーズに適応してそのまま終生天皇としての役割を果たし続けます。私の勝手な推測ですが戦前まで元首としての振る舞いが求められていたのに終戦後は一転して象徴としての存在に切り替えるのはなかなかできるものではないのではなどと思うのですが、この辺で昭和天皇はきちっと切り替え現在にも続く象徴天皇制の中の天皇の役割というものを確立させた気がします。
 なおここで一つのエピソードですが、終戦後に国民を慰めるために昭和天皇は皇后と共に全国各地を行幸してますが、これは宮内庁側からGHQに発案したとされ、恐らく昭和天皇自身も乗り気で実行したのではないかと見られています。その行幸の際、市民から話を聞くと昭和天皇は当初、「あっそう」と度々言い返してたそうなのですが、行幸が何度も行われて行くうちにどうも「あっそう」というのはこれまで意識しなかったものの世間では失礼な言い返し方だということを自覚したようで、途中からは「大変でしたね」などと言葉を変えたと伝えられています。こういうあたりを見るにつけ本当に立ち直り方が早いな。
 
 このように周りから求められている振る舞いや、こうしてもらいたい行動を言わずもがなで察知して着実に実行に移す、昭和天皇はそういう人物だったのではないかと私は思っています。逆を言えば「私」こと自我がほとんどない、というか徹底的に抑え込むストイックな人物だったとも言えます。
 実際にこれは晩年の闘病中のエピソードですが、医者から「お体で痛むところはありますか?」と問われた際に「痛いとはなんだ?」と聞き返したことがあったそうです。この話を昔教えてくれた佐野眞一氏は、恐らく昭和天皇はそれまでの人生で「痛い」と言ったことがなかったのでは、痛いと思ってもそれを絶対に口にすることはなかったのではと話していましたが、この説に私も同感です。自分に対しここまで厳しい人は市井にも少ないというかまずいないだけに、皮肉な言い方になるかもしれませんが立憲君主制下では本当に理想的な人物像だったかもしれません。
 
 このように自分が言いたいこと、やりたいことがあってもそれをしっかり我慢するのが昭和天皇ですが、自我が全くなかったというわけではなく「譲れない一点」というかこだわるようなポイントはもちろんありました。それはどこかというと昭和天皇の専門領域である生物学に関する分野で、戦後に農林省が植林事業を行うに当たって資材になりやすい杉やヒノキをガンガン植えようと提案したら、「針葉樹ばかりでは広葉樹が減り生態系が崩れるのでは」とチクリと釘を刺したそうです。実際にそうなってクマが大量に下りてくるわ、花粉症という風土病が出来上がるわでこの時ばかりは昭和天皇にもうちょっと前に出てもらいたかったものです。
 同じく生物学に関するエピソードだと、これは以前にも紹介しましたが和歌山の奇人こと南方熊楠に戦前、昭和天皇は個人講義を依頼しています。警察官や裁判官に向かって平気でゲロをぶっかける南方熊楠もさすがに昭和天皇の前ではかしこまり講義中は終始緊張しっぱなしだったそうですが、この講義を昭和天皇も非常に気に入ってたようで侍従から予定時間が終わると通知されるや、「続けなさい」といって前代未聞の延長コールを出しています。後年に至っても相当印象に残っていたようで、戦後に昭和天皇が歌った和歌では天皇御製としては非常に珍しく、「熊楠」という個人名を入れた歌を作るほど懐かしがるほどでした。
 
 現代の今上天皇、そして皇太子も決して人格的に問題があるわけでなく、むしろよく頑張られているとは思うものの、これらのエピソードから垣間見える昭和天皇のストイック振りと比べるならさすがに敵うべくもないでしょう。ちょっと大げさな話をすると、仮に将来天皇制が廃止されるとしても昭和天皇の事績とその生き方に関しては歴史に大きく刻まれ続けるのではないかと思います。
 
  余談
 当時の年齢も覚えていないほど幼児だった頃、ある年の冬の情景だけ何故かくっきり覚えています。その冬はぐずついた天気が多かったのですが外に出ても何故か人通りは少なく、ひっそりしていて、自分も外で遊ぶことは控えて友達と一緒に近所のコンビニ(セブンイレブン)で買ったトランプを使って部屋の中で遊ぶ時間がやけに長かった気がします。今思えば、あの冬が大葬の冬だったのかもしれません。

2014年6月25日水曜日

電子書籍価格の戦略なき変動

 いきなり本題に入りますが、このところAmazonで販売される電子書籍の価格が恐ろしいほど激しい変動を繰り返しております。電子書籍といっても私が買ってるのは恥ずかしながら漫画が主なのですが、誇張ではなくここ数ヶ月は毎月と言っていいほど値段が変わっています。
 具体的な金額を挙げると、たとえば「ヤングジャンプ」などといった集英社の青年コミックだと今年三月までは一冊368円だったのが、四月に入ると何故か300円に下がり、そして五月のGW明けにはこれがまた368円に戻ると、六月になったら想定外の500円に値上がりました。この流れを矢印で書くと以下の通りです。
 
 三月 → 四月 → 五月 → 六月 
368円→300円→368円→500円
 
 同様に角川書店の角川コミックスも、五月までは一冊378円だったのが六月に入った現在だと432円に値上がりしています。ちなみに買っているのは「新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画」という漫画ですが、ちょっと記憶があいまいではっきりしないものの、六月前半には一時500円になってたのを見たような……。もしかして六月中にまた値段下げたのかもしれません。
 
 これら電子書籍の値段の決定権は販売しているAmazonではなく出版社側であるため、この激しい変動振りは出版社の作為によるものと見て間違いないでしょう。ただAmazonに対しても不信感が全くないというわけではなく、というのもこれらの価格改定を事前に全く通知してくれないからです。念のためこの記事を書く前に何度もサイト内を調べましたが価格改定を事前に通知するようなページはついぞ見当たりませんでした。
 読んでてわかるでしょうが、正直に言ってこの一連の値段変更は私にとって不快です。恐らく4月中は販促キャンペーンかなんかで一冊300円にして売り出してたのでしょうが、もしこの価格が四月限定であるとあらかじめ通知されていればこの時期にまとめて買っていただろうし、同様に六月から価格を実に35.9%も引き上げるということがわかっていたら、ひとまず今欲しいものに関してはあらかじめ購入していたでしょう。それ以前というか予告なしに30%超もいきなり値段引き上げるなんて消費者をちょっと軽んじすぎやしないか。
 
 一体何故出版社はこのように値段を、それこそ猫の目のようにころころ変更するのか。結論を言えば特に戦略など持っておらず適当に設定して適当に変えているようにしか見えません。しかしほぼ毎月値段を変更するというのは株や生鮮品でもないというのに如何なもののように思え、またキャンペーンで一時的に値段を下げるという戦術はまだ理解できるものの、それを周知しようとしないというのは一体何のためにキャンペーンをやっているのか中途半端もいい所でしょう。
 私の予想だとそう遠くないうちに出版社はまた値段を変えてくると思います。これで七月に入ってまた変えたら傑作ですが、多分出版社は確固たる販売戦略を持ってないと思えるだけに、また適当な気分で変えてくるのは目に見えています。それだけに大きく値段を引き上げられた状態である今、消費者はどう行動するかというとそれもまた明白。少なくとも私に限ればまた値段を下げるまで買わないの一点に尽きます。
 
 自分ほど細かく価格をチェックしてなおかつ文句垂れるのは珍しいにしろ、なんだかんだ言いながら消費者はこういう売り手のあいまいな態度をちゃんと見透かして消費行動にきちんと反映させてくると私は思います。なので今後も出版社がころころ値段を変えようものなら虻鉢取らずな結果に陥ると思うだけに、価格を引き上げるにしろ引き下げるしろもうチョイはっきりとした戦略を持てよというのが今日の私の意見です。