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2015年1月14日水曜日

薩摩閥のフェードアウト

 最近調べ物でガチで忙しいので、このところ書いてなかったのもあるので日本史ネタでかわすことにします。我ながら思いますが日本史ネタを間に合わせでパッと書く、それも意図的にほかの人間が触れないようなテーマをすぐ用意できるのは多少つけ上がっているかもしれませんが異能振りもいい所でしょう。何気にこの辺のセンスは5年前当たりと比べると明らかに成長している節もあり、何を目指しているのか自分にもよくわからなくなります。

藩閥(Wikipedia)

 そういうわけで本題に入りますが、明治から大正にかけて日本の軍部、政治界における幹部はほぼ薩長閥こと薩摩藩、長州藩出身者によって占められ、このような状態を「藩閥政治」と呼ばれたことは皆さんも知っていると思います。明治期こそ土佐の板垣退助、肥前の大隈重信なども要職を歴任していますがこの二人以外となると海軍大臣や陸軍大臣、元帥などを含めてほぼ薩摩、長州出身者によって占めらることとなります。
 しかし大正期に入ると次第に薩摩閥の勢力が徐々にフェードアウトしていき、政党幹部を含めて長州閥の勢力の独壇場となっていきます。一応、山本権兵衛のように薩摩閥でありながら大正時代に首相を務めた人物も下りますが、一体何故一世を風靡した薩摩閥が時代と共にフェードアウトしたのでしょうか。
 解説を始める前に先に主だった薩長出身者を列記します。ありそうでないよねこんな表。

<薩摩閥>
・西郷隆盛(元勲、陸軍元帥)
・大久保利通(元勲、内務卿)
・黒田清隆(首相、開拓使長官)
・西郷従道(陸軍卿、海軍大臣、元老)
・松方正義(首相、大蔵相、元老)
・山本権兵衛(首相、海軍大臣)
・大山巌(陸軍大臣、元老)
・樺山資紀(海軍大臣)
・上原勇作(陸軍大臣)
・東郷平八郎(海軍大臣)

<長州閥>
・木戸孝允(元勲)
・伊藤博文(初代首相)
・山縣有朋(首相、陸軍元帥)
・井上馨(首相、外務卿)
・桂太郎(陸軍大臣、首相)
・乃木希典(陸軍大将)
・児玉源太郎(陸軍大臣)
・寺内正毅(首相、陸軍大臣)
・田中義一(首相、陸軍大臣)
※追記:井上馨は「首相」にはなってませんでした。指摘があったので、訂正します。

 恐らく、さりげなく東郷平八郎を薩摩閥出身者として数えるのは日本広しといえども自分を除けばそんなに多くないと思います。彼を藩閥とみなすかはいろいろ意見があるでしょうが、単純に薩摩出身者で要職を務めたという一点でもって敢えて加えました。

 ばっと見てもらえばわかる通りに薩摩出身者は海軍の要職を務めていることが多いのに対し、長州出身者は陸軍関係が多いというか、木戸、伊藤、井上を除いたすべてが陸軍最高幹部を必ず経験しています。唯一の例外として薩摩の西郷従道が何故か陸軍卿と海軍大臣の両方を経験していてかなりレアです。
 実際、明治の時代においては薩摩閥は海軍、長州閥は陸軍という具合に暗黙のうちに棲み分けが進んでいったようです。そうなったきっかけは話せば長くなるので一言で済ますと西南戦争が原因であるのと、東郷みたいに薩摩出身者は英国に留学する一方で長州出身者は乃木の様にドイツへ留学するなど、主な留学先も別れていたからという可能性もあります。

 話は本題に戻しますが、明治でこそ薩摩は海軍、長州は陸軍という具合で棲み分けられていた薩長閥は大正に入る頃辺りから明らかに長州閥と比べて勢力を落としていきます。特に議会においてこの傾向は顕著で、長州閥は伊藤や山縣、桂が何度も長期にわたって首相職を務めたのに対して薩摩閥は黒田清隆の首相時代は短命に終わり、松方や山本はそれぞれ複数首相職になっていますがどちらも長州出身の首相と比べると任期は短いです。特に山本に至っては政権期に重大事件が起こったため、二度も本人とは関係なく責任を取る形で辞職してるし。
 軍部においては薩摩、長州共に大正中期辺りから同じ程度に勢力を落としていきますが、どうして政界では薩摩閥が先に脱落していったのか。私の考える理由は大きく分けて二つあり、一つは薩摩閥は軍人タイプが多くて政治に向いた人材が少なかったこと、二つ目は薩摩閥の首魁に政治的野心が極端に少なかったためです。

 一つ目の理由について解説すると、明治政府発足当初こそ大久保利通が内務卿となり実質的なリーダーとして政治を運営していましたが、彼は同じ薩摩閥の人間よりも伊藤や井上といった海外経験のある長州出身者を主に使い、大久保の死後はこの二人と山縣がその路線を引き継いでいきます。この時点で政治分野におけるイニシアチブは長州出身者に移ったと言ってもよく、派閥間のバランスを取る形で黒田が伊藤に続く二代目首相として就任しますが経歴を見る限りだと黒田は勢力の調整などといった政治的な才能はそれほどなく、在任中も評判が悪いまま任期を終えています。しかも黒田の場合、同じ薩摩閥の人間からも嫌われていたようで一番仲良かったのは元幕臣の榎本武明だったそうです。
 黒田の後、松方はまだ政治・経済分野に明るく首相にも就任しましたが、彼を除くとほかに政界を渡り歩けるようなタイプの人物は薩摩閥からなかなか出ず、後に山本が首相にはなりますが彼を含めて薩摩閥の面々は政治よりどちらかというと軍務に情熱を燃やすタイプの方が多かったように見えます。こうした人材の偏りが主導権を失った大きなきっかけでしょう。

 このように薩摩閥は政治分野のファーストステップで主導権を長州閥に握られるわけですが、それに輪をかけたのは薩摩閥の首魁たちの政治的野心の少なさです。これが最も顕著だったのは西郷隆盛の実弟、西郷従道で、彼自身が元勲に数えられる人物で何度か首相就任の打診を受けていたものの西南戦争で逆賊となった兄を気にして、「逆賊の弟が首相になるわけにはいかない」と徹底的に固辞したそうです。年齢、功績から言って薩摩閥の長たる西郷従道がこんな具合で、彼を差し置いて目下の人物が首相になるなんてやはり具合が悪く、また西郷兄弟の従弟である大山巌も同じように、「逆賊の親類が~」と固辞し続ける有様で、みんなして政界での活動に及び腰な態度が見られます。

 こうした薩摩閥の面々についてちょこっとだけ掘り下げると、これは恐らく薩摩出身者における一種独特なメンタリティも影響しているように見えます。薩摩、というか現在の鹿児島県にも言えることですが、ここの出身者の理想の人格は昔も今も西郷隆盛です。それがどんな人物像かというと、「普段はどっしり構えて慌てず、やる時はやる」というようなタイプで、事が起こる前かからせこせこ動いたり、猟官運動をするような輩は逆に嫌われます。むしろ、

「もうお前さんしからおらぬ。頼む、やってくれ」
「拙者のような粗忽者でどれだけお役に立てられるか……」

 などと言って渋々引き受けるような人間なんか薩摩人の琴線に強く触れると思います。このように自分から積極的に動かないタイプが理想であるため、上から命令されてそれを黙々と実行する軍人とは相性が良くても政治家としては向いていなかったのかもしれません。

 逆に長州閥は幕末の長州藩で内部抗争がかなり激しく、否が応でも前に出ないとすぐやられるという修羅場が多かったため渡世術に長けた人間が数多く輩出出来た節があります。人間何ごとも経験かな。

 最後に長州閥について少し掘り下げると、長州閥は実質的には山縣閥と言い換えても問題ないと私は考えています。伊藤は明治期に何度も首相となるなど活躍しましたが割と他人には素っ気ない態度の人物で、使用した部下も出身は気にせず必要かどうかだけで採用し、不必要となると切り捨てるところがあったためとうとう自身の派閥は生まれなかったと聞きます。そんな伊藤の主だった部下を見ると陸奥宗光や金子堅太郎、後継に至っては西園寺公望と長州出身者はそんな見当たりません。
 それに対し山縣は本人からして権勢を広げることが好きだったのもあるでしょうが、それ以上に身内の面倒を割としっかり見るタイプで、頼ってくる人間を相手しているうちに一大派閥を作っていたと見る説もあります。実査、私も山縣の発言などを見ると自分の出身が武士として最下級だったことを気にしつつ、認めてくれる人間がいれば道は切り開ける的なことをよく言っているように感じられ、自分を頼ってきた人間を切り捨てることはできずに派閥を作っていたようにも見えます。

 もっともそれだけ権勢をほしいままにした長州閥も昭和に入る頃にはほとんどいなくなり、そのかわり陸軍内部では皇道派と統制派、海軍内部では艦隊派と条約派に分かれた派閥争いが展開されるわけです。人はいつの時代も派閥争いはやめられないものです。

漫画レビュー「もっけ」

 このブログのヘビーリーダーなら言うまでもないでしょうが私は妖怪漫画の第一人者である水木しげる氏の大ファンです。なんで好きなのかそこらへんは置いときますが、ある日ネットの掲示板で非常に良くできた妖怪漫画あると聞き、一つ試しに買って読んでみるかと手に取ってみました。

もっけ(Wikipedia)

 この漫画の大まかな概要を話すと、勿怪(もっけ)ことあちらの世界の人たちが直接目に見える姉と、そういったものにやたら憑りつかれやすい妹という組み合わせの姉妹のお話です。作中、姉は中学二年生、妹は小学五年生からスタートしますが話の進展に従ってそれぞれ高二、中二にまで成長し、この間の成長の過程で遭遇する様々な現象を基本一話完結の話でまとめられた上で話は進んでいきます。

 この漫画の最大の特徴は上記の、「あちらの存在」と関わる姉妹の役割が明確に分かれている点でしょう。姉妹は都市部に住む両親とは離れ田舎に住む元拝み屋の祖父と共に暮らしているのですが、姉は好むと好まざるを関係なく霊的な存在を見て危険を察知することができるものの、祖父の命令もあってそれを周囲には伝えられず、周囲の人が「障る(さわる)」ことによって怪我などするのを黙ってみているだけということにやきもきします。その甲斐あってこっちのお姉ちゃんはどの話でも困った顔をいつも浮かべてます。
 そんな姉に対し妹は姉ほど霊的な存在を事前に見えることないのに、ほぼ毎回不意打ち的に憑りつかれて一方的に被害を被ることが多いです。もっともこっちの妹は、大人しくて女の子らしい姉とは違い活発な性格、悪く言えばお転婆なキャラのため、毎回痛い目に遭いながらもめげることはないのですが、話によっては溺れ死ぬ直前にまで引っ張り込まれたりするので意外と笑えない事態に巻き込まれることも少なくありません。

 それで肝心のこの漫画に出てくる妖怪、といっても作中ではほぼ全く「妖怪」という言葉は出て来ず「彼岸(あちら)の存在」として表現されます。中にはかわいらしくデフォルメされたデザインで他愛もなく姉妹と関わりを持つのもいる一方、最初は姉妹に対し協力的な態度を見せながら、ふとした拍子に牙をむくというか彼岸の世界、つまり死後の世界へ姉妹を引っ張り込もうとするのももおり、一言では言い切れない強い不気味さを持ったキャラクターが多数出てきます。恐らく作者も意図してのことでしょうが、「何が目的かわからない、掴みどころのない存在」をうまく表現できているように見えます。

 こうした「あちらの存在」には元拝み屋の祖父が解説し、時と場合によっては姉妹に手を貸すことで祓うようなこともしますが、基本この祖父は妖怪たちについて「そこに存在していることが自然」であるとしてゴーストバスターズみたいに祓うという行為は積極的に行わず、むしろ姉妹に自己解決するよう突き放すことのが多いです。このような祖父の態度というのが私個人的には非常にツボで、妖怪など物の怪の類は「眼には見えないがそこにいるのが当たり前」、「祓うという行為自体が自然の摂理に反する」、「祟られないよう触れずにおく」という価値観が非常に納得するとともに、通常の妖怪漫画と一線を画す所だと思います。

 勝手な想像で描いていくと、この漫画における妖怪に対する思想は日本古来の霊的なものに対する価値観がよく出ていると思います。既に書いてある通り、日本は神仏はもちろんのこと動物霊なども含めてあちらの存在は「どんな理由があろうと触れてはならない」というもので、向こうが困っていても協力しない、こちらへ手を貸すと言われても耳を貸さないという具合に、こちらとは異なる世界の住人であるためどんな理由があろうと関わってはならないという鉄則が徹頭徹尾貫かれています。
 人によって意見は違うと思いますが、私は霊的な存在に対する態度というのは斯くあるべきだと内心考えています。頼りにしても駄目、頼られても駄目という具合に、興味こそ覚えても絶対に近づくべきではないし近づかれてもよくないという存在な気がします。しかしそうだとわかっていても何故だか興味を覚え、知りたくなる、近づきたくなるという不思議さこそが妖怪の妖怪たる所以でしょう。

 そのような存在、価値観が非常に丁寧に書かれてあり、また登場する「あちらの存在」も江戸時代の文献や絵巻をふんだんに引用しながら聞いてて本当に存在するかのような解説が加えられているため、一言で言って非常に面白い漫画で、どうして連載中に手に取ることが出来なかったのかと本気で後悔しました。

 あとちょっと専門的なことを話すと、作中の世界こと姉妹が住む田舎の風景が背景の中で非常に良く描かれており、まるで本当に妖怪の一匹や二匹が潜んでいてもおかしくない印象を覚えます。水木氏の漫画にも言えますが、こうした漫画というのは地味に背景が一番重要な気がします。水木氏の漫画もキャラクターは非常にデフォルメ化されていますが、背景は「点描を打ったような背景」と称されるほどこれでもかというくらいに緻密に描かれており、雰囲気を表現するのに大きな役割を果たしています。


  

2015年1月11日日曜日

香港でもGoogle関連のアクセス制限か?

 先日このブログにも書いた通りに昨年末に中国でGメールが規制された煽りを受け、現在このブログはVPN(言うなれば海外サーバー)を経由することによって記事を投稿しております。以前はGメールからメール投稿をしていたのですが、単純に手間が増えただけにこのところ毎日ファッキンファッキンとつぶやいています。

 そういうわけで今日も元気に漫画レビューなどでも投稿しようと香港経由のVPNを接続したらあら不思議、このブログにもGメールにもつながらない有様です。なもんだから現在この記事は東京のサーバー経由でアクセスしているのですが、このブログが何で香港経由でつながらなかったのかというと間違いなくGoogle社のBloggerというブログソフトだからでしょう。言わばGoogle関連のアクセスが制限されている状態です。

 もしかしたらこの香港での制限は一時的なもので明日にはまた復旧するかもしれませんが、実はここ数日、中国でネットのアクセスが異常に悪くなっています。先日もYahoo Japanへのアクセスが極端に悪くてニュースもメールもまともに見れず、中国国内のサイトもなんか心もち速度が悪かったです。
 当初はこのブログにまで書くつもりはなかったのですが勝手な予想を述べると、何か大きな事件の前触れなのかもと思うような不気味さがあります。何事もなければいいのですが、国内のコピーソフトを摘発せずにGoogleなど外資ばかり叩いてばかりってのは見ていていい気がしません。日系メディアもフランスばっか報じずにもっとこっちの事も書いてほしいな。

  追記
 翌日にはまた香港経由でGoogle関連サイトにアクセスできるようになりました。鳥越苦労だったのだろうか……。

2015年1月10日土曜日

平成史考察~毎日デイリーニューズWaiWai事件(2008年)

 昨年、朝日新聞が従軍慰安婦を巡る報道で誤報があったこと、またその問題を池上彰氏がコラムに取り上げようとしたところ掲載を見合わせたことについて、編集に問題があったと認めた上、責任を取る形で当時の社長などが退任しました。もっとも報告書は変にぼかして「責任を感じての退任・更迭であって謝罪ではない」と、新聞記者にあるまじき妙な表現でぼかされていましたが。
 実はこの一連の朝日の妙な会見を見ながら私は、かつての毎日新聞の事件と比較する記事はいつごろ出てくるかと、他人には一切話さず虎視眈々と他のメディアの記事を眺めていましたがついぞお目にかかることなく年を空けてしまいました。誰もやらないなら自分がやるというのがモットーであるのと、そろそろ書かないと記憶から薄れるという危惧もあるので今日は久々の平成史考察で2008年に問題が発覚した毎日デイリーニューWaiWaiで起きた異常な記事問題とその後の毎日の無様な対応について取り上げます。

毎日デイリーニューズWaiWai問題(Wikipedia)

 覚えている人はまず皆無でしょうが、実は私は2007年に開設したこのブログでこの事件を当時に取り上げています。当時の記事を読み返すとなんか妙に読者へ語りかけるような文体で書かれてるため自分で読んでてイライラしてきますが冒頭にて、

「こうしてみると問題発覚から実に三ヶ月も過ぎております。光陰矢のごとしとは言いますが、あの頃時事問題として取り上げた記事を再検証にて再び使うことになろうとは三ヶ月前には思いもよりませんでした。」

 ということを書いていますが、まさか七年後にこのネタを掘り返す、しかも平成史という現代史ネタとして自らまた取り上げるなんて当時は夢にも思わなかったでしょう。それにしても、自分のブログも結構年季入ってきたな。

 話は本題に入りますが当時の事件を覚えてない人もいるでしょうから簡単に概要を説明すると、毎日新聞社が運営していた英字ウェブサイトにあったコラム「WaiWai」で長期間に渡り、裏付けの取れない性的で低俗な記事が掲載され続けていました。掲載されていた内容は文字に起こすのも嫌になるくらい汚い内容ばかりで興味のある方はウィキペディアのページに行ってみてもらいたいのですが一つだけ引用すると、「日本の女子高生は刺激のためにノーブラ・ノーパンになる」というのもあったようで、私に限らず日本人からしたら何を以ってこんな嘘を堂々と報じるのかと少なくない怒りを覚えるかと思います。

 このWaiWaiの問題の責任を毎日新聞が認めたのは2008年でしたが、実際にはネット上を中心にそれ以前からこのコラムの異常性、問題性を指摘する声は多数出ており、中には直接毎日新聞社に通知や抗議したもののまともな対応らしい対応はなかったとも聞きます。そうした毎日のまるで他人事のような杜撰な対応に関してはウィキペディアのページに詳しく書かれてありここでは省略しますが、敢えてここで私が槍玉に挙げたいのは問題を認めた後に毎日が行った関係者への処分内容です。

 確信犯で事実とは思えない異常な翻訳記事を書いていたライアン・コネルという記者は懲戒解雇されずに休職三ヶ月となりました。何の確認もなくあくまで私の勘ですが、まだこの人は毎日にいるんじゃないかな。
 そしてデジタルメディアを統括していた朝比奈豊常務(当時)は役員報酬の10%返上という処分を受けましたが、処分が発表された2008年6月27日の二日前の6月25日に毎日新聞社の社長に昇進しており、大きな問題を犯したにもかかわらずまともな処分が行われなかったばかりかまるで意に介さないかのような不可解な人事が取られています。そのほかの処分者に関しても大体似たり寄ったりです。なお朝比奈豊は現在TBSの取締役をしている模様です。

 通常、というかまともな会社なら不祥事を起こした当事者とその監督・責任者は更迭か、場合によっては解雇されるのが普通です。しかし毎日は上記の様に更迭どころか全く逆に昇進させており、誤報が許されないメディア企業としてみると理解のできない人事としか言いようがありません。
 なお日系メディアでこの辺の人事に関して最も厳しいのは共同通信だと断言します。誤報や間違った写真を載せた記者は即刻解雇され、それを見抜けなかった編集長も確実に更迭されます。実はそういう経緯で更迭されたばかりの編集長が自分の上司になったことがあったのですが、「なんでこんな立派な人が本人ではなく部下のミスで飛ばさなければいけないんだろう?」と思うくらいしっかりした人だったもので、共同通信は恐ろしいけど確かに凄い所だと畏敬の念を覚えました。それにしても自分も妙な体験多いな。

 話しは戻しますが、変な言い方となるものの上記の毎日の対応と比べるならまだ朝日の対応というか処分はまともだったなという気がします。もっとも朝日に対しても「あくまで謝罪ではない」など妙な言い訳したり、会見では池上氏のコラム不掲載について、「現場の編集長の判断」と説明したところ実際には社長の関与があったなどの点で強い不誠実さを覚えますが、何が問題なのかと言わんばかりの毎日のイカれた対応と比べれば非常にかわいいものです。

 ここだけの話、以前から私は毎日の記事を見ていてガバナンスの欠如というか、メディアとしてまともな会社じゃないという評価をしていました。というのも常軌を逸しているとしか思えない記事が普通に紙面に載っかって来ることが多く、いくつか例を出すとこのページにも紹介されていますが、2012年には満開の桜の写真と共に花見客が多いという記事が載せられましたが、実はこの桜の木は前年に台風で折れており、折れる以前に撮った写真をそのまま流用して存在もしない桜の木を取り上げていました。
 また2005年に起きた「JR羽越本線脱線事故」では、現場関係者や航空・鉄道事故調査委員会が脱線は予想のできない突風によるもので予見は不可能だという意見を出す中、この事件を取り上げた毎日の社説では、「この路線を何度も運転している運転士ならば、風の音を聞き、風の息遣いを感じられたはずだ」と書かれてあり、まるで運転士のミスであるかのように主張しています。風の息遣いを感じられるだなんて、書いた奴はゲームかなんかのやり過ぎじゃないのか。

 どちらの記事も掲載前の編集段階でどうしてストップをかけられなかったのか、載せたらまずいとどうして思えなかったのかが自分には不思議でしょうがありません。そう思えるほどに毎日の編集部はガバナンスがまるで聞いておらず、少なくとも朝日新聞を批判するような立場ではないでしょう。

毎日新聞秋田版がおわび掲載 「テカテカ光った自民県連幹部」問題(産経新聞)

 などという記事を用意していたら、またも毎日がガバナンスが効いていないことを証明するかのようなとんでもない誤報記事を掲載していたというニュースが入ってきました。この記事の文章も下品極まりないし編集は何を見てこんな汚い文章を紙面に載せるのか、もはやレベルが低いとかいう問題ではないでしょう。毎日はバイトにでも記事を書かせているのか、はたまた記者がバイトレベルなのかのどっちかであるというのが私の意見です。

フォントサイズの変更

 いつもこのブログを見に来られている方々にはすぐわかったかもしれませんが、文字フォントを一回り大きくしてみました。大きくした理由はやはりスマホなどの普及によってパソコン用モニターで見ない人からすると以前の文字サイズだときついのではないかと前々から思っていたからです。

 逆を言えば何故今まで多分普通のブログにしては割合小さいフォントサイズでこのブログを運営してきたのかというと、私の記事はどれも比較的文量が長く、なるべく一目で多くの文字数を見られるような構成にした方が私個人にとっては読みやすいように思えたからです。しかし技術の発達によって心霊写真がめっきり減ったように、このような小さいフォントサイズをいつまでも拘泥して維持し続けるべきかというのは難しい所で、思い切って今回大きくしてみました。

 といっても今後しばらく様子を見て、やっぱり具合が悪かったらまた小さいサイズに戻そうかなとも考えています。とりあえずは久々のレイアウト更新なので、何も言わないよりかは一言書こうと思った次第です。

2015年1月9日金曜日

抱えている案件

 前回前々回と林原という会社の破綻劇をテーマにした記事を上辞しましたが、どちらもそこそこ長い文量になって書き終えた後はけだるいような脱力感を覚えました。なもんだからどれくらいの文字数で書いたのかカウントしてみたところ二本合わせてちょうど一万字ちょっとで、四百字詰め原稿用紙換算で25枚という文量でした。15歳の頃は改行の多い小説とはいえほぼ毎日20枚以上書いていたことを考えるとこの程度で音を上げるようになったのは我ながら情けない限りです。

 話は変わりますがこの林原の記事は実は三ヶ月前の去年十月の時点から書くことを決めていました。逆を言えば書くまでにどうして三ヶ月もかかったのかですが、大まかなネタと話の内容自体は理解していながらも最低でも当事者の本を一冊読んでから書くべきだと思い、電子書籍でも読める兄貴の方の本を読もうと考えました。
 しかしこのところ読書時間が極端に少なくなっている上に山田風太郎の戦中日記が異常に長い分量であったためなかなか読み終わらず、つい先週に戦中日記を読み終えたことによって林原の本も読むことができ、ようやく執筆へと至れたわけです。

 この林原に限らず、書こう書こうと思いつつもなかなか執筆までにいたれないネタを常に多数抱えているのが現状です。なんでそうなるのかというと日々ほかのネタを書いたり、書くに当たって資料とかを多少なりともチェックしていたり、テンションが上がらずついつい先延ばしになってたりと理由は様々です。なので今日は自分の備忘録を兼ねて今抱えている案件というか書こうとしているネタを下記にまとめてみました。

・企業居点の精密機械企業のアップロード
 これはこっちのブログじゃないですが姉妹サイトの「企業居点」の方でこちらもまたつい先日、ようやく昨年中に調べ上げた日系企業の海外拠点データを全てアップロードすることに成功しました。その拠点数、実に一万八千件強。
 今後はまた拠点を調べつつアップロードする予定ですがまずは手薄な精密機械系企業をアップする予定で、明日から早速取り掛かる予定です。早ければ二週間程度で終わるかもしれませんが、遅れればまた一ヶ月とかかかりそう。

・???の再調査
 こちらはほぼ確実に一ヶ月以内に取り掛かり、このブログにアップするネタです。去年はなんだかんだ言って気持ちと暮らしと生活に余裕が出た甲斐あって実際に統計やらを調査する記事を数多くアップしてそこそこいい反応も得られました。近々去年やった一つの調査物のアップグレードに挑戦するつもりですが、調査サンプル数は多分200件を超すからストレスたまってきたらまた物への八つ当たり始めるだろうな。

・日米のヒーローの比較
 ネタはもう固まっておりあとはもう書くだけ。いつ書いても鮮度が落ちないから先延ばしされやすいネタです。

・平成史考察で2008年に起きたある事件
 これは火鍋でお腹を壊さない(一昨日の出来事)限りは明日にでも書きます。これは鮮度が命だからもう待ってらんない。そんなん言うなら思いついた一ヶ月前に書けよと自分でも思います。

・同族企業の類型比較
 友人に薦められて自分でも面白そうだと思うテーマです。しっかり書けば社会学の論文としても十分な内容に仕上げられるでしょうが、資料が手に入り辛い中国で書くとなるといつになることやら。

・戦前の女性経営者ネタ
 友人の、「マッサンに続け!」の一言で始動したタイトル。そもそもネタになる女性自体が少ないので多少の軌道修正もやむを得ないか、ってか本気でどこまで書けるかかなり不安。

・創業家列伝
 かなり放置しているけどまだまだ書きたい人はたくさん。鮎川義介当たりパッと書こうかな、ほかには樫尾四兄弟も悪くないけど。

・ディアドコイ継承戦争
 どっかの漫画の連載が遅いからもう先を調べちゃった的な歴史ネタ。書いてもいいけど西洋史ネタってあんまり反応良くないし、ほかにも詳しい人いるだろうから多分没にするでしょう。

・中華民国北伐史
 全く手垢のついていない超面白い中国史ネタ。手垢がついて無さすぎて逆に理解・整理するのに苦しんでるので詳しい人がいたらむしろ自分に講義してほしいくらいですが、持ち前のフロンティアスピリッツを発揮して自分が手掛けようかなと考えてるネタです。やるからには相当なガッツとテンションいるから実現は三ヶ月くらい先かも。

・戦争体験者らが主張した科学的教育とは
 山田風太郎の日記ネタですが、案外重要なテーマかもしれません。中身がまだまとまってないからうまく説明できないけど。

・中国の汚職摘発状況
 時事ネタですが日本で見る限りだとほとんど注目もされていないしきちんとした解説も出ていないのでやる価値は高いです。書こうと思えばすぐ書けるけど、それが故に先延ばしになってしまうネタです。あと書くに当たって、「くっ、ガッツが足りない」(キャプテン翼)となるようなやや気力のいる記事ネタってのもあります。

・キリスト教の宗教改革とマルティン・ルター
 ちょっと興味を覚えて書いてみたいテーマ。

・グローカリゼーションの研究
 このまえぶち上げたオリジナルな経済概念のため、より具体化させるために実際例などをいくつか整理した上で研究を深めたいです。いくつか材料もあってすぐ書くこともできますが、なるべく誰か使って弁証法よろしく議論して内容を洗練させた上で書きたいテーマです。

 改めてまとめてみて思うこととしては、日本史ネタが今一本もないってことです。日本史に関しては書きたいネタはほぼ書き尽くした感もあり、どちらかというと書くネタが思い浮かばない時に間に合わせで書くことも多くなっています。だから砂金やたらと西洋史ネタに力入れるんだろうな。
 なおここだけの話、二次大戦下のフィンランドはなかなか反応が良かったですがロシアのラストエンペラーの記事は誰も話題に挙げてくれないほど不評でした。これだからロシアは駄目なんだよと一人で愚痴ってます。

2015年1月8日木曜日

林原家の兄弟

 先日の記事で私は、独自技術や特許を多数保有し実力派中小企業として評判の高かった化学原料メーカー、林原が経営破綻に至った経緯についてまとめました。本当に破綻する直前まで下手な大企業を凌ぐほど超優良企業と目されていた林原の突然の結末は非常にドラマチックであり話を追うだけでも面白く、そこそこ長い経緯を一つの記事にまとめるのは非常に難作業で書き終えた後はそれこそ魂を抜かれるくらいの脱力感に襲われましたが、我ながら前の記事はいい出来だと自負しております。
 ただこの林原の話、そもそもなんで私が興味を持ったのかと言うと友人から、「あそこの元社長はガチで霊が見えるらしい」と聞いたことがきっかけでした。実際、曲者ぞろいの同族企業家の中でもここの林原家は元社長の林原健氏を含めかなり面白い人ばかりだったので、前回が破綻の経緯だったのに対し今日は林原家という一族について記事を書きます。それにしても、最近の自分はほんとによく働くなぁ。

 早速社長の林原健氏について書きますが件の霊が見える件についてはその著書の「林原家 同族経営への警鐘」において、

「浮世離れついでに言えば、私には霊が見える。どのように見えるかというと、ブルース・ウィルス主演のハリウッド映画『シックス・センス』をイメージしてもらえばいい。街中のいたるところで、死んだ方たちが私の前に現れる」

 という具合で、前振りもなく突然スピリチュアルな内容について話し出してきます。その健氏によると子供の頃は周りにも霊が見えることを言ったりしてたそうですが気味悪がられるため途中からは全く言わなくなり、お坊さんに相談して霊が見えなくなるお経を教わって唱えたら一時的に見えなくなるものしばらくしたらまたぶり返すのでこっちも途中でやめちゃったそうです。っていうか、会社が破綻するまでの経緯も面白いけどこっちの方もかなり気になるからもう一冊本書いてくれないかな。
 そんな耳なし芳一も真っ青な健氏ですが、霊が見える特異体質もさることながらその人生は一般人と一線を画す、というよりもいろんな次元を超えていると言っていいほどかなり激しいものです。

 健氏は先代の社長であり戦後の復興期に会社を日本一の水飴メーカーに成長させた父、一郎の後継者として育てられましたが、林原家では「元武士の商家」という特別な矜持があり、江戸時代の長男よろしく一番上の男の子はかなり大事に育てられてきたそうです。ただ父の一郎はワンマン社長さながらの短気な性格だったこともあり教育において暴力を振るうことも多く、そんな父親に対抗するため健氏は自ら空手を始めたと述べています。
 なお余談ですが林原家は元々岡山を治めていた池田家の武士だったものの、池田家が鳥取に転封する際に希望退職者を募集した所、「お家のために」と自ら武士の身分を捨て、以後は池田家の御用商人としてやっていった家だそうです。

 健氏は父親から会社の跡取りとして育てられたものの本人は学問分野への興味が強く、会社経営者よりも研究者になりたいとずっと考えていたそうです。しかし健氏が慶応大学の学生だった頃、父の一郎が突然病気で亡くなったため自分の意に反しわずか19歳で林原の社長に就任することとなります。
 社長とはなったものの大学を卒業するまでは重役たちが切り盛りし、卒業後から正式に社長として勤務を始めた健氏ですが、当時の日本では米国からの粗糖輸入が自由化されたため水飴メーカーだった林原を含め業界は不景気そのもので、経営状態は決して良くなかったそうです。そこで健氏は二年かけて会社の新たな道を模索し、最終的に全社員の前で、「今後は化学原料メーカーとして転身を図る」と宣言しました。

 常識的な思考で物を言うならば、もしその場にいたらこの時の健氏に対して、「何馬鹿なこと言ってるんだこのボウズは」と、私も思ったことでしょう。実際、この宣言を受けて林原では全従業員の約半数にあたる300人近くが退職したそうですが、そのような逆風にも負けず林原は世界で初めて「マルトース」という原料の量産化に成功し、傾きかけていた会社を一気に立て直した上で独自技術を持つ「オンリーワン企業」としての第一歩を歩みます。
 その後も健氏は本人が研究部門をリードする形で独自開発、独自技術にこだわり、次々と成果を出して会社を盛り立てていきます。研究対象には敢えて長期の研究が必要なテーマを選び、そのような林原の経営姿勢について健氏は、大企業は短期で利益を追うから成果が出るまで十年以上かかるよう長期的な研究はできず、オーナーシップの強い同族企業だからこそこのような経営が出来たと同族企業ならではの強みを説明しています。この意見に関しては自分も同感で、同族企業のメリットとしてみても全く問題ないと思います。

 そんな健氏に対し経営破綻時に専務を務めていた五歳下の弟、林原靖氏は兄曰く、「真逆の性格」で、営業向きな社交的な性格で兄に続いて林原に入社して以降は一貫して経理・営業畑を歩み、ひたすら研究に没頭したい兄の足りない部分を互いに補うようにして二人三脚で会社を引っ張っていきました。弟について健氏は銀行との折衝を含めた営業・経理面は信頼できるほど実力が高かった上、実弟という条件から安心して会社の金庫番というか背中を任せることができたと語っています。テレビの「カンブリア宮殿」に出た際などは兄弟揃っての出演し、傍目には理想の兄弟みたいに映っていたかもしれません。

 しかし前回記事でも書いたように、バブル崩壊を受けて債務超過状態となった林原では弟の靖氏を中心に不正経理へと手を染めていきます。しかも「トレハロース」、「インターフェロン」を始めとした世界シェアナンバーワンの商品を多数抱えながらも本業の儲けは周囲が思うほど、さらには社長である健氏が思っていたほど大きくはなく、結局最後まで嘘を貫き通せぬままに不正が発覚した後の林原はあっけないほど短い間に破綻する羽目となります。

 破綻に至った経緯で健氏は、自分でほとんど財務状況を確認しないまま青天井で研究費をつぎ込み続けたことは経営者として失格であったとした上で、多少の借入金があったとしても保有する広大な土地を始めとする資産を売却すれば何とかなるという甘い考えがあったと述べています。また債務超過であることを知りながら兄の要求するままに研究費を捻出し続けた弟については一言、「弟にとって自分は逆らことのできない存在だったのだろう」とまとめています。
 初めにも書いた通りに林原家では兄を立てるという強い家風があり、健氏は弟をいじめることがあっても両親からは特に注意されなかったそうです。また成人後も社長就任直後で混乱する本社の様子を見せたくないがために弟には最初、関東など遠隔地で営業をやらせたり、骨肉の争いを避けるために将来は二人で会社を分割する方針も話していて、こうした行為が弟に疎外感を与え兄弟でありながらコミュニケーションの少ない関係を作っていたのかもしれないと反省の弁を述べています。そのため弟が不正経理に走ったのも、健氏は自分に多少なりとも責任があるとも認めています。

 この二人の兄弟のちょっと変わった関係ですが、健氏の言う通り家風などももちろん影響したでしょうが私が思うにそれ以上に、健氏が次男で靖氏が四男だったということの方が大きく影響していると思います。
 実は林原家には健氏の上に長男がいたのですがこちらは赤子の頃に夭折し、実質的に健氏は次男でありながら長男として育てられていました。そして健氏と靖氏の間にもう一人三男がおり、健氏によると非常に社交的で女性からもよくもて、兄の目から見ても気の置けないいい弟だったそうです。

 健氏は父親から会社を継ぐよう求められていたものの本人は全くその気はなかったことを述べましたが、健氏が高校生だった頃にこの三男に、「自分の代わりに会社を継いでくれ」と話したことがあり、三男も二言返事で承諾していたそうです。そのため父の急死によってやむなく社長職を継いだ健氏でしたが、弟が大学を卒業したらすぐに自分は社長職を譲り天文学者になるという夢を持っていたそうです。
 しかし不幸なことにこの三男は米国の大学に留学中、バイク事故で急逝してしまいます。事故直後に健氏は母親と共に三男が入院している病院を訪れ弟の死に目を看取りましたが、その際には弟が会社を継いでくれるという希望が打ち砕かれ本当に強い絶望感を覚えたと述べています。

 たまたまですが自分と同い年で仲のいい友人に三人兄弟なのが二人おり、片方は長男でもう片方は次男です。長男の方はそいつの弟の次男とも面識があるのですが、やはり話していて長男は次男についてあれこれ言及することはあっても三男への言及が極端に少なかった印象を覚えます。一方、次男の方は兄、弟それぞれについて事ある毎に話し、「兄ちゃんにはええ加減な所もあるけどよう面倒みてくれた」、「弟はかわいいんやけどなんかあいつには身長、成績を含め追い越されたくはないわ」、なんて聞き、同じ三兄弟でもどの位置にいるかでやっぱり交流する相手は変わってくるなという風に思いました。

 思うに林原家の三兄弟においては、なまじっか周囲からも強く期待されていた真ん中の三男坊がいたせいで、次男の健氏と四男の靖氏は兄弟といえども、間にぽっかり穴が空いてるような余所余所しさの感じる関係になったのかもしれません。その為に兄と弟で強力な従属関係ができてしまい、破綻の憂き目を見ることとなったのではと邪推します。

 最後に破綻後の調査委員会の報告によると、破綻の時点で健氏と彼の資産管理会社は林原本体から約16億円の負債があり、その額を聞いた本人もその時まで会社の金をそこまで引き出していたことを知らず、空いた口が塞がらなかったそうです。また靖氏も自分が保有する会社などに林原本体から合計数十億円単位の貸付金を出させて自分の事業に使ってた上、どうも母親名義でも会社から金を出させて(約13億円)使っていたようです。
 二人の母親は会社の破綻前から寝たきりで、破綻から一ヶ月後にその事実を知らないまま逝去されたそうです。健氏によると靖氏と最後に会ったのは母の逝去直前の病院だったらしく、その際に健氏は、

「おまえが会社にしたことは許してもいいと思っている。社長として私が至らなかった面も大きいからだ。けれどおまえが母さんを借金まみれにしたことだけは許すわけにはいかない。母さんの葬式も、一部の親戚に限定した家族葬にしようと思っている。親戚の前に顔を出したらやり玉に挙げられるから、おまえは来ないほうがいいだろう。いいか、今後一切、おまえと仕事をすることはない。会うこともない」

 と述べ、弟と決別したことが書かかれてあります。

 この記事の見出しは当初、「林原家の面々」で岡山一の甘党だったおじさんとかについても書くつもりでしたが主旨に合わないと判断し、林原兄弟に焦点を絞り「林原家の兄弟」という見出しに変えました。